あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

9月28日夜のスーパームーン

2015-09-28 22:40:17 | Weblog
 2015年9月28日(月)

 旧暦8月15日の昨日は「中秋の名月」でしたが、今夜は今年最大の満月「スーパーム
ーン」が見られるとの新聞記事やTV報道がありました。

 満月のときにはいつも、月は同じ大きさに見えるのかと思っていましたが、月は地球の
周りを楕円軌道を描いて回っているので、月が地球に最も近づく時と遠ざかる時があると
のことです。

 今日は月が地球に最も近づき、最も遠ざかった3月6日と比較すると、見かけの上では
直径が約1.4倍になるようです。

 夕食後、何度か東の空を見上げました。19時過ぎには雲が多かったのですが、21時
過を過ぎると青空の中に浮かんでいたので、撮ってみました。
    

 もう少しアップしてみると、こんな具合に。
    

 肉眼で見たのでは、とてもこのようには見えません。20倍のズームレンズのお陰です。
それ以上の、デジタルズームも利いたのかもしれません。





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三浦半島の南端東部、剱崎灯台の周辺を歩く(神奈川)

2015-09-28 21:54:23 | カントリーウオーク
 2015年9月27日(日)

 山浦敬子さんが年4回開催している、「三浦半島アートウオークセラピー」の第43回
に参加した。

 10時に京浜急行久里浜線の三浦海岸駅に集合し、10時15分発の三崎東岡行きバス
に乗る。金田湾沿いの県道215号を進み、剱崎(つるぎざき)バス停で10時30分に
下車した。


 予報では午前中は雨も予想される曇天だが、雨は大丈夫そう。気温も23℃前後で、歩
くにはよい気象条件である。

 バス停南側の変則6差路を、南への細道に入る。すぐ先、斜面のヒガンバナがまだ見ご
ろ。
        

 緩やかに下り、県道がUカーブしたところで県道を横断して江差湾東岸に出る。県道手
前の斜面には、青面金剛や庚申塔などの石仏が並んでいた。
    


 対岸に剱崎小などが望まれ、こちらの漁港は休漁日なのか、漁船は皆、陸揚げされてい
た。


 片谷集落のわずかの民家が尽きる辺りから、湾の岩礁沿いの「関東ふれあいの道」を進
むことにする。だが、道は判然とせず、歩きやすいところを探しながら進む。

 砂地には、ノカンゾウに似た花があちこちで見られる。
  


 岩礁の道は江差湾から左に回り込み、半島の南部を東へと進む。長い間の浸食が感じら
れる岩礁の変化が場所毎に変わり、興味深い。



 だが、満潮時に濡れたらしい岩礁も残っていて滑るので、足もとに注意しながら進む。
でも、初参加の柴又のUさんは2度滑って、ズボンなどを濡らしてしまった。



         
 「関東ふれあいの道」の道標と石標の立つ辺りまで進むと、行く手の台地上に剱崎無線
方位信号所のアンテナが見えてきた。


 砂浜にはたくさんのミゾソバが咲き競う。


 無線方位信号所は、航路標識のうち電波を利用して位置を知らせる電波標識局の一種。
海上保安庁交通部が運用し、電波灯台とも呼ばれ、多くは灯台に併設されており、特定の
無線電波を発して付近の船舶に方位や位置を伝え、その航行を補助する施設だという。

 片谷集落の南側、狭い湾状のところまで進み、小さな漁船のそばでスケッチタイムとし、
敬子さんは短時間で描きあげる。



 その先は、アンテナ塔の下の高い断崖下部を進む。足もとには、ヒトデの化石のように
も見える固い星型のものが岩にへばり付いていた。
    


 何人も雨宿りできそうな洞窟の前を通過して、かなり幅広くなった岩礁地帯を抜ける。


         



 無線方位信号所のアンテナ塔の下を過ぎた辺り、剱崎の先端部まで進むと正午が近い。
少し波立つ海面に浮かぶ、数隻の釣り船などを見ながら昼食とした。


    
 記念撮影を終えて、12時8分に出発する。すぐ先、剱崎の先端部下部の斜面に、小さ
なほこらが祭られている。海難防止を祈るものなのだろうか…。
        

 近くに「剱崎の由来」が記されていた。それによれば、剱崎の名のおこりは、徳川時代
の万治年間(1658~60)といわれ、幕府の官財を積んだ五百石船がこの沖で暴風雨
のため難破して沈んだ。

 そこで、海南神社の神主が海に剱を投じて龍神の怒りを鎮めてもらおうと祈ると、すぐ
に風波が静まり沈んだ木材も浮かび出て、それをくり船で磯に運んだと伝えら、以来この
地を剱崎というようになったと伝えられているという。

  
 傍らに「かながわの景勝50選 剱崎」の標石も立っていた。


 近くには釣り舟が見え、砂浜には朱色の海藻が打ち上げられている。
    


 剱崎の北東側岩礁に立つ小さい灯台の近くで岩礁を離れ、背後の高台に回り込み、剱崎
灯台へ。
      
 剱崎灯台は慶応2年(1866)の江戸条約に基づき、明治政府が明治4年(1871)
に設置したもの。
         

      
 対岸の房総半島にある須崎灯台と対で、東京湾の入口をあらわしているとか。灯台の高
さは17m、水面からは約41m、光の強さ48万カンデラ、光りの到達距離は約32㎞
という。

 傍らには、昭和16年(1941)6月7日に行啓された、皇太后陛下の行啓記念碑も
立っていた。
         

 晴れた日には、房総半島の館山から伊豆大島、新島、さらに伊豆半島まで展望できると
いうが、今日は曇っていて対岸の房総半島も霞んで判然としない。


 北側眼下には間口湾が望まれる。


     
 灯台下の広場の一角でノブドウの実が色づき始め、黄色い花が開花していた。
         


 台地上の畑作地帯を北東へ。大畑集落の北西部で県道215号を横断して、県道西側の
旧道を谷戸集落から田鳥川集落へと抜ける。

 次の田鳥原集落のT字路際の民家に、大きなエンゼルトランペットが咲いていた。


 
 左折して少し進むと、福泉寺の山門が見えた。

  
 山門を入った右手にスギの古木が立ち、正面が本堂である。


 山門の左側には、「第56震洋特別攻撃隊岩舘部隊の碑」と「是法平等」と刻まれた大き
な戦没者慰霊碑が立っていた。
      


 寺の西側を少し進んだ斜面に、大きなハギが赤紫と白い花をいっぱいに咲き競い、黄色
いヒガンバナも咲く。
       

 近くに、物置に使っているようだが朽ちかけた、かやぶき屋根の建物が残っていた。


 車道を横断して入集落に入ったたところに古い庚申塔などが並び、その先にも2基の庚
申塔があり、この道筋が古くからの街道らしいと知れる。
    

        
 路傍にアシタバが咲き、近くの畑のヒャクニチソウが花盛り。


 右手に、屋根の上に土を盛ったのか、草の生えた別荘風の家があり、暖炉に使うらしい
まきが、たくさん庭の隅に積まれていた。


 この周辺では「三浦金田緑地」と呼ぶ「かながわのナショナルトラスト運動」が進めら
れていて、緑地が保存されているとの看板が立っていた。

 その近くにも、庚申塔など古い石塔が並んでいる。


         
 金田湾沿いの県道215号に出て、そばの小浜バス停に13時50分に着いた。2分後
に来たバスで三浦海岸駅に向かう。

(天気 曇、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 三浦三崎、歩行地 三浦市、
 歩数 10,500)




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印西牧の原駅から千葉ニュータウン中央駅へカントリーウオーク(千葉)

2015-09-26 22:18:23 | カントリーウオーク
 2015年9月23日(水・祝)

 北総鉄道の季刊誌「ほくそう」では毎号、「北総線の小さな旅」と呼ぶウオーキングコ
ースを紹介しているが、昨年12月発行の冬号のコースを逆行することにして、秋分の日
に出かけた。

 逆行することにしたのは、「やまさん」こと山浦正昭さんが言われた、「小さい駅から
大きい駅へ」というカントリーウオークの原則ともいえることに従ったから。

 北総鉄道の印西牧の原(いんざいまきのはら)駅に10時12分に着き、駅構内のコン
ビニで弁当を求めて、10時20分に北口をスタートする。


 すぐ先、南北に延びる道路を挟んで牧ノ原公園があり、駅寄りには間もなく出し咲きそ
うなコスモス畑が広がる。

 東北端の十字路を東へ、この先歩く亀成川(かめなりがわ)の源流という遊水池の「め
がね橋」からは、公園の北エリアの中心に盛り上がる「ひょうたん山」が見える。


 橋を渡り、標高41mというそのひょうたん山に上がる。

 眼下にはビッシリ並ぶ住宅や公園の南部など、西方にはゴールの千葉ニュータウン中央
駅周辺のビル↓などが望まれる。


 公園を東北端に抜けて西へ、交差点を渡った北側の木立の中に、小さな社殿の皇大神宮
が祭られていた。
      
 延宝4年(1676)、この地に宗舗村(そうほむら)が成立した際に建立されたと伝
わるとか。境内には、文化12年(1815)造立の青面金剛や庚申塔、道祖神など、
10基ほどの石塔が並んでいた。

 次の三差路を北に折れて宗甫集落へ。柿の実が色づき、集落の西側にはK家の大きな長
屋門が目に付く。


 集落を北に抜け、緩やかに左カーブして雑草地になっているUR都市再生機構の保留地
の間を進む。
      
 雑草地にツリガネソウが、その先の畑にはオクラに似た花などが咲いたいた。
           

 亀成川沿いの田園地帯に出て、さかさ川橋を渡る。逆川(さかさがわ)とは、この川が
利根川水系に属しているのに、利根川とは逆に東から西に流れることから呼ばれているら
しい。


 川沿いの田んぼの多くは刈り入れ後だが、コンバインで収穫中の田も残っていた。


 北側の台地に上がり、県道64号との交差点の手前で左折して根口集落に入る。突き当
たりのT字路の西側に、熊野神社(右)と地蔵堂(左)が並んでいる。


 道路際には古い庚申塔が3基立ち、付近のヒガンバナが花盛り。


 熊野神社は延暦年間(782~806)に創建されたと伝わり、元文年間(1736~
41)に紀州熊野の本宮を再勧請(かんじよう)したという。


 左に並ぶ地蔵堂には、鎌倉時代初期の制作と推定され、60年に1度開帳される秘仏の
木造地蔵菩薩立像が安置され、県の文化財になっている。


    
 お堂の天井板には、龍などが描かれていた。地蔵堂境内では毎年8月24日、印西市無
形民俗文化財の別所の獅子舞が奉納されるという。


 どっしりとした仁王門を出て、南西へ200mほどで地蔵寺がある。天長から承和年間
(824~48)にかけて慈覚大師により建立されたと伝わる古寺。

 仁明天皇の勅願寺である地蔵堂を所持していたことから、中世には七堂伽藍を備え、東
国一の霊場だったといわれているとか。現在は本堂のみの静かなたたずまい。

 堂内をのぞいてみたら、大きな駕籠(かご)が吊されていた。
   

         境内には、印西七福神の一つ、福禄寿が祭られている。
         

 まだ行程の1/3足らずだが、正午が近いので本堂左手の木陰で昼食に。そばの樹上で
は、ツクツクボウシが鳴き続けていた。

 12時13分に地蔵寺を去り、集落の南に出て西に流れる亀成川の右岸沿いを進む。



 やはり刈り入れ後の田んぼが多くて黄金色の田は少ないが、その幾つかでコンバインが
動いていた。


 川沿いを1㎞余り進んで古新田橋で川を離れ、北西側台地上の大森集落へ。集落内を西
進して県道4号を横断、ケイトウやホウセンカ、ヒャクニチソウなど懐かしい花々の咲き
競う畑の前を通過する。


 集落内の道路が左カーブする突き当たりが、大森鳥見神社である。
      

 創建年代は不明だが、本殿は寛永13年(1636)に再建され、延宝4年(1676)
に修繕などの記録があるとか。

 現在の本殿は文久3年(1863)の再建で、周囲には八幡太郎義家や新羅三郎義光、
常盤御前などの見事な木彫が施されている。


 本殿を囲む玉垣の代わりは珍しい赤レンガで、大正初期に近くの木下(きおろし)にあ
ったレンガ工場で製造されたものという。


 杉木立に囲まれた境内は797坪(約2,630㎡)あり、拝殿の左右には樹齢500年
以上というカヤとイチョウのご神木が並び立っていた。

 神社から南への畑の間をすぐに、西側の墓地から長楽寺に入る。
      
 まず目に付くのが、本堂横に大きく枝を広げたイチョウの大木。本堂前にはバショウが
数本並んでいた。

 長楽寺は、承和年間(834~48)に慈覚大師の建立と伝わる天台宗の寺院。寺が隆
盛を極めた室町時代には寺中に12坊が甍(いらか)を連ねていたとか。天正12年
(1584)の戦火で焼失して荒廃し、延宝7年(1679)に観音堂、鐘楼堂、仁王門
を再建したという。

 本堂内には、足利時代の応安2年(1369)ここ大森の檀那、森内家吉が寄進したと
いう寺宝で県の文化財に指定されている梵鐘が保存されている。
        

      
 国宝だった観音堂は昭和25年(1950)に焼失し、平成元年(1989)に再建と
のこと。観音堂はその奥に祭られていた。


 南側の亀成川沿いに下り、再び右岸を次の橋まで西進する。


 橋を渡って南側の鹿黒(かぐろ)集落に上がり、Y字路を右に入って間もなく、林間の
石段上に平屋民家風の八幡宮が祭られていた。


 集落を南西に抜け、次の和泉集落に入ると、Y字路の左手から来たウオーキンググルー
プと合して、和泉鳥見神社に入る。

 秋分の日に「いなざき獅子舞」が奉納されると「ほくそう」に記載されていたが、間も
なく始まるとのこと。すでに午前中に終えたのではと思って来たが、思いがけずの良いタ
イミングだった。
      
 ちなみに「いなざき」とは稲の収穫前のことで、豊作への感謝を表しているという。


 間もなく、2人の笛の演奏に合わせて4匹の獅子が入ってきた。最初は「道化の舞」で、
子孫繁栄を祈願するというユーモラスな舞が観客の笑いを誘う。
    




 次は女獅子の「四方固めの舞」↑、そして中獅子の↓「四方固めの舞」と続く。
    


 この後も続いていたが40分ほど観覧したので、この辺でと神社を後にする。境内西側
には金刀比羅宮が祭られ、道路側には庚申塔が並んでいた。


 和泉集落内を南西に進む。集落西端のY字路際に、「米作日本一記念碑」が立っていた。
         
 昭和28年(1953)、当時の農林省など主催の「米作日本一表彰全国競作大会」で、
当地の河内房吉氏が千葉県一になったことを顕彰したものという。

 収穫量は田1反(約300坪)あたり12俵半だったとか。西側の亀成川支流沿いの田
んぼの中には、刈り取り前の水田も残っていた。


 南進すると小倉集落、集落北部の泉倉寺(せんそうじ)に背後から入った。泉倉寺は、
大同2年(807)に平城天皇が空海に命じ、弟子の慈観が本埜(もとの)に建立した延
命院が前身とか。

 永正4年(1507)に時の主僧、覚道が小田原北条氏の焼き討ちにあい、ここに先蔵
寺を再興、慶長16年(1611)には、寺地のある当地、和泉、小倉にちなみ「泉倉寺」
と改名したという。

 江戸幕府の本末制度により、天台宗の下総48か寺の本寺になったが、その後2度の火
災にあっているようだ。

      
 本堂前にイチョウの古木が大きく枝を広げ、その南側には印西七福神のひとつ、毘沙門
天が祭られていた。
         

 南側から車道に出て、入口を探して少し戻り、標識に従い西側のカシなどの常緑広葉樹
の茂る細道を回って、宝珠院観音堂に行く。

 かやぶき屋根の観音堂は「光堂」とも呼ばれ、永禄6年(1563)の建立と推測され、
禅宗様式という中国唐代の様式を伝承するお堂として、国指定重要文化財である。

 お堂は泉倉寺が管理しており、内陣には本尊の観音像を祭る厨子(ずし)が安置されて
いて、毎月17日の正午から15時まで開扉され、厨子を参拝できるという。境内にはご
神木の老杉が立ち、一帯はうっそうたる樹木に覆われていた。

 小倉集落を南に向かう。集落内には、かやぶき屋根にトタンを被せた民家が幾つか見ら
れた。


 集落が尽きたところでY字路に合し、すぐ先右手のカシなどの林間にもほこらのような
小さな社殿の鳥見神社があり、同様の大きさの摂社が4社ほど並ぶ。


 境内の道路際には10基を越える庚申塔と、月山、羽黒山、湯殿山参拝記念の供養塔が
幾つか並んでいた。
    

 畑作地帯となり、道路の左カーブ店にある手焼きせんべい店の先まで進むと、ネギ畑の
向こうに駅周辺の中高層建物が近づく。



 新しい住宅の増えた小倉台の通りを進み、16時10分にゴールの千葉ニュータウン中
央駅に入る。10分後の上り電車で帰途についた。

(天気 晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 小林、白井、歩行地 印西市、歩数
 25,000)




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東北自動車道の西側と見沼代用水東縁の間を歩く(埼玉)

2015-09-24 21:56:00 | カントリーウオーク
 2015年9月20日(日)午後

 続カタツムリ歩行の例会が、ゴールのさいたま市緑区寺山の天神社(天満宮)で散会と
なり、午前中回れなかった東北自動車道の西側、見沼代用水西縁との間を南下することに
した。

 13時8分に天神社を後にして西へ、300mほどで浦和学院高の正門前を通過する。

 浦和学院高は埼玉県内では野球の強豪校として知られ、甲子園出場は夏12回、春10
回を数え、2013年春の第85回記念選抜高校野球大会で優勝している。

 ほかに、テニスやハンドボールなどスポーツが盛んで、大学進学や語学教育にも重点を
置き、生徒数は約2,400人で県内有数のマンモス校だという。今日は何か催しがあった
ようで、一般の人の姿も見られた。

 浦和学院正門前のT字路を北に入り、少し先の三差路を左折して西へ、県道105号を
横断して照光寺に入る。


 本堂前右手前の庭園は、植栽がよく整えられていた。


 南側の道を少し西進し、樹木畑の間を南下して背後から上野田の氷川神社の森に入る。

 この辺り上野田は、江戸中期から将軍家の保護のもと「野田の鷺山(さぎやま)」とし
て知られるサギの一大繁殖地だった。

 氷川神社はこの上野田の鎮守として祭られ、「風土記稿」にも照光寺持と記され、照光
寺と同じ承応年間(1652~5)に勧請(かんじょう)されたと思われるようだ。

 県道に出て南に少し、交番に接して正八幡宮があるが、由緒などの記載はない。


 次の信号のある十字路の先には成田不動尊があるが、ここも来歴などは分からない。


 信号のある十字路を東に進むと、浦和学院高の「L'Arc(ラルク)」と呼ぶ小公園が
あった。

 夢と希望の泉(通称 浦学の泉)と呼ぶ大きな石↑を中心に、生徒や教職員、父兄など、
「浦学ふぁみりー」の憩いの場だという。高校にこのような公園のあるところはほかに知
らない。


 さらに進み、浦和学院高の校舎と複数のグランドの間を抜けて、城山集落を南に進む。
この辺りには樹木畑が多く、緑が豊富で気持ちよい。



 しらさぎ幼稚園の東側に、りっぱな長屋門の民家があった。Aさん宅で、もとは庄屋だ
ったのだろうか…。



 しらさぎ幼稚園の南側に回ると、園舎は木をふんだんに使っていることがわかり、幼児
の情操教育には好ましいものと思われた。



 再び県道105号の西に回り、少し戻り気味に樹木畑の間を進むと、かやぶきの民家が
残っていた。


 その先にあるのが総持院である。山門は2階が鐘楼の鐘楼門になっている。


 明るい境内には、彼岸の墓参に来た家族連れが多い。彼岸の入りの今日は、午前中を含
め立ち寄った寺院はどこも、墓参の人の姿が見られた。
 
 蛇足ながら、私は明日、県内小川町の父母の菩提寺へ墓参に行く予定。

 墓地の隅には、ヒガンバナが咲き競っていた。



 寺の南西側、見沼代用水東縁(みぬまだいようすいひがしべり)に接した竹林と背後に
続く斜面林は「見沼龍の森」と呼び、「さいたま緑のトラスト基金」により取得した「緑
のトラスト保全1号地」である。
      
 この辺りは、見沼代用水沿いにある斜面林の中でも、周辺の景観と一体となって、最も
見沼らしさを残している埼玉の原風景のひとつだという。


    
 そばの総持院橋を渡り、南に流れる代用水の右岸沿いの遊歩道に回る。遊歩道には、ち
ょうど見頃なヒガンバナがあちこちに見られる。
    



    

 代用水が右に大きくカーブする流れの西側、ツタなどの雑草地には、昆虫採集をしてい
るらしいグループの姿が見える。



 その先で左カーブした左岸段丘上にある国昌寺に、次の国昌寺橋を渡って上がる。

 「開かずの山門」と呼ぶ山門には、菊のご紋章がある。江戸時代中期の宝暦(1751
~64)頃の建築で、さいたま市有形文化財である。

 欄間の龍は、左甚五郎の作と伝えられていて、棺を担いでこの門をくぐると、龍に中身
を食われて軽くなるという伝説があるらしい。
    

 国昌寺は、天正年間(1573~92)に、見沼区染谷にある常泉寺の第8世住職だっ
た心厳宗智大和尚の開山。二世(中興開山)の大雲文竜は能書家として知られ、後陽成、
後水尾両天皇から3度も召され、宮中で書を指南しているとか。


 境内中央には、さいたま市指定天然記念物センダンバノボダイジュがあるが、かなり以
前に来たときより葉の茂り方が少ないように思われた。


 東側の車道に回って南下し、国道463号の北側にある福寿寺へ。本堂はコンクリート
造りで境内に樹木は乏しく、歴史的な雰囲気は少ない。


 今日はここまでとして、国道463号のバイパス大崎バス停に14時57分に着いた。
15時05分発のバスでJR浦和駅に向かう。

(天気 晴、距離 4.6㎞(午前から通しで9㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行
 地 さいたま市緑区、歩数(午前から通しで) 19,600)




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浦和美園駅の北西部をカントリーウオーク(埼玉)

2015-09-22 10:43:36 | カタツムリ歩行
 2015年9月20日(日)

 爽やかな好天に恵まれた連休初めの日曜日、「続カタツムリ歩行」の第27回例会に参
加した。9時58分に埼玉高速鉄道の終点、浦和美園駅西口をスタートする。


 駅の北西1㎞余りのところには、日本サッカーリーグ1部で昨年惜しくも優勝を逃がし
て2位だった、浦和レッズのホームスタジアムである「埼玉スタジアム2002」があり、
マンホールの蓋(ふた)のデザインはサッカーボール。
    

 駅の周辺一帯は大規模な開発が行われていて、新しい道路が出来つつあり、12年前の
平成15年(2003)更新の地形図では現地確認がしにくい。

 駅の西側、下野田の集落を国道463号際まで進み、新しい道路と古くからの道とを結
んでまずは最寄りの円徳寺へ。


 本堂前の道路際に、宝暦11年(1761)銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が金
網で保護されて立っていた。
        

 すぐ近くの、北西側にある稲荷大明神に回る。参道入口に天保5年(1834)銘で道
しるべにもなっている庚申塔があり、側面には北いわつき二里、こしがや二里、南はとが
や二里、西 原市三里と刻まれていた。
        

 その横を上がって小ぶりの拝殿に参拝する。


 拝殿の近くには、境内の樹木から落ちたタネから芽を伸ばしたらしい、カシだろうか若
芽が育っている。
        

 神社の北東近くにあった新築の民家。区画整理で建て替えたのかもしれない。


 近くの植栽業らしい小久保園の前に、にこやかな布袋様が立っていた。
     
 
 西側を走る東北自動車道の浦和ICの北側そばの重殿社に向かうが、古くからの道路は
区画整理で分からなくなっていて、東側からぐるっと回るも、土盛りされていて柵があり
西側に行く道が無い。

 北側に、埼玉スタジアムが望まれる。


 下に道が見えたので、胸の辺りまで茂った雑草地を突っ切って下の道に出た。


 西に回ると重殿社(じゅうどのしゃ)の鳥居があり、その傍らに3基の庚申塔が並んで
いた。両側の2つには弘化3年(1846)と刻まれている。
    

 鳥居をくぐり、正面の拝殿に参拝した。重殿社は「風土記稿」中野田村の項に、『明照
寺境内に「重殿権現社」あり、村の鎮守である』ことが記されているとか。明照寺は、当
地を領していた春日八郎景定が中興したと伝わることから、景定が没した元和元年(1615)
以前には、祭られていたことが分かるという。

 背後の本殿は、さいたま市指定有形文化財だが、覆い屋の中で見ることはできない。

 本殿の右手手前には摂社があるが、何の神社なのかは分からなかった。
      

 すぐ北側がその明照寺。重殿社側に墓地があり、ヒガンバナが見頃。


 明照寺には山門はないが、新しい仁王像が迎えてくれた。


 境内には新しい石像が多く、本堂前の一角には七福神が並ぶ。


 北側に見えるのが中野田不動堂。明照寺から造成地を突っ切って真っ直ぐに行く。

 天明6年(1786)の建立で、やはりさいたま市指定有形文化財。言い伝えでは、浅
間山の噴火で逃れてきた大工が建てた、と伝えられているという。

 中野田集落の一帯も開発が進められていて、新しい道路も出来つつあるが、りっぱな屋
敷林の農家も残っていた。


 中野田集落の北部から、東側の玄蕃新田(げんばしんでん)集落を抜けて綾瀬川の向こ
う、尾ヶ崎新田の正福寺を目指す。


 浦和美園駅の北西に延びた埼玉高速鉄道の車両基地の北側を通過した先に、新しい広い
道路↑が東北に向かって延び、交差点際にこの辺り一帯の開発事業が「みそのウィングシ
ティ」という名の新しい街づくりであることを示す地図があった。

 開発が終了後は、浦和美園駅を中心に大規模な住宅地になることが想定されるが、古く
からの寺社や農家はどうなるのだろうかと少し気になる。

 新しい道路を綾瀬川↓の少し先まで行ったが、次の交差点周辺まで開発中で、正福寺ら
しいのは見えない。時間と残りの距離を考慮して行くのは止めて、埼玉スタジアム周辺を
回ってゴールを目指すことにした。


 手前の十字路を右折して北西へ、造成地の向こうに埼玉スタジアムが近づく。

 埼玉スタジアム2002は、2002年のFIFAワールドカップ開催のために造られ
たサッカースタジアムで、国内の球技専用競技場としては最大の63,700人を収容で
き、浦和レッズ主催の試合では、2002年から2014年まで、年間の1試合平均観客
数は33,000~50,000人余りになっているという。

 埼玉スタジアムの東側には、大きな調整池が設けられていた。


 調整池の横を進んでスタジアムの北門から構内に入ると、こんなモニュメントが立って
いる。
     

 スタジアムの北東側にはサブグランドがあり、練習試合を応援する人達が観戦していた。


 サブグランド横から北西に回り、カインズホームの建物の先で東北自動車道を跨道橋で
越えて東北道の西側の寺山集落へ。すぐ先、北斜面の急石段上に足立神社が祭られていた。


 さらに200mほどで、今日のゴール天神社(天満宮)に12時6分に着いた。

 天神社は江戸時代初期に創建されたと推測され、明治6年(1873)に寺山村の村社
となり、現在の本殿の改築と拝殿の新築は明治32年(1899)に行われたとようで、
祭神は菅原道真公である。

 気温が28℃前後まで上がって暑いので、強い日射しを避けて拝殿西側の濡れ縁で昼食
をする。そばに、30貫500匁(約114㎏)の力石が無造作に放置されていた。
        

 食事を終えてミーティングを。今日は初参加の方が4人もおられ、感想などを話してい
ただく。

 ほかに、79歳のKさんが11月初めにF市でコンサートを開催されること、M市のK
さんは市の文化会館で絵画展を開催予定であることなどが紹介され、皆さんの活動に元気
をもらい、13時8分に散会した。

(天気 晴、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市緑区)


 私はこの後、もらった地図上で午前中回らなかった東北自動車道西側のエリアを回るこ
とにした。そのレポートは次回とする。



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JR東小金井駅から野川沿いをカントリーウオーク(東京)

2015-09-15 23:16:29 | カントリーウオーク
 2015年9月13日(日)

 埼玉県内を中心に歩くカントリーウオークグループの、第226回例会に参加した。残
暑を考慮してJR中央線東小金井駅に9時集合としたが、幸い曇り空で少し風もあり、歩
くには良い陽気となる。集まった11人は、9時6分に南口をスタートした。


 == ICUから野川左岸沿いに進んで深大寺へ ==

 駅前の通りを南へ、東町四丁目を進むと、鉢植えのヒガンバナがかなり開花している。
西武多摩川線、新小金井駅そばの踏切を渡り、笠森稲荷神社を抜ける。秋祭りが近いのか、
氏子の方々数人が境内を清掃していた。


 東町一丁目の住宅街を東進して、東北側の門から国際基督教大学(ICU)の構内に入
る。


 広い構内はのびのびと育った木々が多く、学ぶには絶好の環境と感じられる。


 附属高校前からレンガ造りの湯浅記念館に行くが、日曜日は休館。中心部の幾つかの建
物の間を進み、食堂の建物前でトイレ休憩とする。


 本館に延びるロータリを通過し、東に接する富士重工そばの構内路を南進して、南門か
ら大学を出た。

 広い通りの東八道路、都道14号を渡り、人見街道、都道11号を少しで、野川(のが
わ)左岸の遊歩道へ。「ホタルの里三鷹村案内図」があり、そばの木道を進むとホタル池
やワサビ池などがあるらしい。


 ちなみに、野川は西隣の国分寺市の日立中央研究所構内から流れ出し、武蔵野台地の南
端を流れ、世田谷区で多摩川に注ぐ全長22㎞の川。流域面積は70㎢、野川の北縁に沿
った「国分寺崖線(がいせん)」と呼ぶ急な崖は、多摩川により造られた河岸段丘のひと
つで、この崖下から野川の源となる水が湧いているという。

 左岸のこの辺りは「大沢の里」と呼ばれ、近くの水田では「ちびっ子農業体験」の一環
として、たくさんの子どもたちが賑やかに稲刈りをしていた。


        
 遊歩道沿いのヒガンバナが咲き出し、近くの馬場には3頭の馬が見える。


 緑に覆われた自然堤防の野川沿いを1㎞ほど進んで、川を離れた。


 北東側、大沢二丁目に狭い境内だが緑豊富な古八幡社があり、参拝後境内で小休止する。

 都道123号を天文台下交差点で横断し、東側の大沢一丁目に入る。都道の東を平行す
る住宅地内を500mほど北進して東へ、深大寺北町七丁目に回って都道12号、武蔵境
通りを横断し、都立神代(じんだい)植物公園の入口前に着く。

 ここで、遅れて駅に到着しバスで回ってきたTさんと、Tさんの紹介で初参加の上尾の
Mさんが待っていて合流する。

 植物公園には入らず、公園の塀沿いの道を西から南へと回る。南側の民家に、ワイン用
になるというブドウがたわわに実り、ポット苗の直売をしている。
    

 家の軒先や庭先には、可愛いデザインの人形などが幾つか並んでいた。
    

 豊富な広葉樹林の間を進み、深大寺(じんだいじ)に北側の台地上から入った。

 最上部の開山堂↑から元三大師堂、本堂↓へと参拝しながら下って、本堂前で小休止する。


 本堂前には元三大師像など、古い石仏が4体並んでいた。


 深大寺は、733年に満功上人(まんくうしょうにん)が開基し、850年前後に比叡
山の高僧、恵亮和尚(えりようかしよう)により天台宗に改宗したとか。

 広い境内は豊富な樹木に覆われ、台地からの湧水を集めた池もある。


 苔(こけ)むしたかやぶきの山門を出て、名物深大寺蕎麦(そば)の店の並ぶ門前を東
に進む。


 不動堂のそばで車道を横切り、南側の神代植物公園附属の水生植物園に入った。

 花菖蒲園から中央部を貫く木道を進み、中ほどの中池とはす池の間の木のベンチ周辺に
11時55分に着き、昼食にする。


    

 はす池の向こうの斜面にも、ヒガンバナが咲き出していた。


 == 野川右岸を逆行して東小金井駅へ ==


 記念撮影とミーティングを済ませ、12時43分に出発した。すぐ先の色づいた水田の
横から西側の広葉樹林下を進む。


 入口近くで折り返して斜面を上がって深大寺城址へ。

 上の広場の一角に土橋と空堀の一部が復元されているが、城の説明板などは無い。傍ら
のソバ畑には、まだ発芽して間もないソバが淡い彩りを見せていた。


 水生植物園の門を出て車道を西に向かう、この通りにも何軒かの蕎麦店があるが、店の
前に待つ人が列をなす店と、そうでない店とがあり、味の違いが推察される。

 車道沿いの流れ際に、かやぶき屋根の水車小屋があった。「調布市深大寺水車館」で、
ここに昭和30年(1955)頃まで使われていた水車小屋があり、それをしのんで造ら
れたという。
      

 都道12号、武蔵境通りを横断して、少し下って野川の橋を渡る。


 明大附属高校と中学校の正門前を通過し、都道123号の西側に広がる都立武蔵野の森
公園に入った。

 西側が、7月26日に小型機が近くで墜落事故を起こした調布飛行場。公園中ほどのサ
ッカーグランドから撮った映像を、テレビで何度も見ているが、そのグランドのそばで小
休止した。


 公園を北に抜けて都道123号を横断し、大沢五丁目へ。大沢調整池の東に回り、再び
野川右岸の遊歩道に入る。対岸に、午前に前を通過した長谷川病院が見え、少し進むと小
さい水車小屋がある。


 500mほど先には「三鷹市大沢の里水車経営農家」があり、希望者は入って、ボラン
ティアの方の説明を聞く(入場料100円)。

 ここには、かやぶき屋根の母屋(おもや)↑と水車小屋、製粉小屋、土蔵などが残され
ていて、江戸時代の文化5年(1808)から昭和40年代(1965~)まで水車を使
った精米・製粉作業を行っていたとのこと。

 母屋には、古い機織り機が残されていた。


 水車小屋には直径約4.6m、幅約1mの胸掛け式という大きな水車があり、その動力
を利用した木製歯車が複雑に組み合わされ、杵(きね)14本、挽き臼(ひきうす)2台、
やっこ飾2台、せり上げ2台という多くの装置を動かす精巧な造り。
    

            
 このような大形で複雑な水車を見たのは初めてで、都の有形文化財や国の日本機械遺産
に認定されている。

 かつて三鷹市内には11基の水車があり、ここ大沢地区には野川を利用した水車が6基
あったという。


        
 対岸の河川敷に立つアオサギを見て、すぐ先の御狩野橋でいったん川を離れる。人見街
道を西に少しで龍現寺へ。

        
 近くに生家のある新選組組長、近藤勇の菩提寺で、道路際に近藤勇の胸像があった。


 参道奥の大きなサルスベリが咲き残り、本堂前の広場両側には雌雄の大イチョウが立つ
ている。

 本堂左手から墓地に回ると、本堂際に近藤勇の墓があり、都指定文化財となっていた。
        

 そばに、野川対岸の大沢の里の横穴古墳ゆかりの、横穴古墳供養塔と記された珍しい石
碑もあった。
        

 野川右岸に戻り、東八道路下で橋を渡って左岸の遊歩道に回る。わき水広場で遊ぶ子ど
もたちの横や、湿地になっている自然観察園沿いを進む。


 対岸には緑豊富な野川公園が続いている。


 西武多摩川線の高架下をくぐり、二枚橋際から北斜面を上がる。東町五丁目から四丁目
へと住宅街を北進し、JR東小金井駅近くに15時41分に着く。全員、そばの「餃子の
満州」に入り、ビールで乾杯してしばらく歓談、17時10分に東小金井駅に戻り帰途に
ついた。

(参加 13人、天気 曇、距離 15㎞、地図(1/2.5万) 吉祥寺、歩行地
 小金井市、三鷹市、調布市、歩数 28,700)




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所沢で昼食が500円で食べられる「LUNCH POKET-ランチポケット-所沢③」

2015-09-14 20:33:08 | 所沢だより
 2015年9月14日(月)

 9月に入って首都圏は秋雨前線の影響で曇や雨模様の日が続き、10日(木)~11日
(金)には「線状降水帯」と呼ぶ長い時間同じエリアでの集中豪雨のために、茨城県や宮
城県などで河川の決壊による民家の流出や住民の孤立など、大変な被害が出ました。

 そして12日(土)には、東京湾を震源とする地震で首都圏は最大震度5弱の地震で目
を覚まされるなど、日本国内どこでもいつでも、大きな災害の危険にされされているよう
で、今日午前中には阿蘇山の噴火も報道されました。

 今回の豪雨災害は関東や東北などで、ほかにも多くの災害をもたらしました。被災され
た皆さまに心からお見舞い申し上げ、あわせて1日も早い復興の日が来ることをお祈りし
ております

========================================

 この2か月は、猛暑と秋雨前線の活動などでウオーキングはすっかりご無沙汰となり、
もっぱら7月中旬に訪れた「ポーランドとバルト3国の旅」の投稿に限られましたが、こ
の辺で国内レポートに転換したいと思います。

 昨日13日(日)は、久しぶりにカンオリーウオークグループの例会に出かけましたが、
そのレポートの前に、所沢情報をひとつ。

========================================

 8月20日から、所沢市内の書店を中心に「LUNCH POKET-ランチポケット-所沢③」
が発売されました。
        
 この冊子には、所沢市内で昼食が割安に食べられる店が49店掲載されています。

 それぞれの店について、通常価格より割安の500円か1000円で昼食が食べられる
メニューとその写真、通常価格、利用可能な時間帯、住所や電話番号、場所の地図、休日、
席数などが1頁に1店舗ずつ記載され、今回の③版からは、禁煙か喫煙可かについての情
報も分かるようになりました。

 掲載店舗49店のうち、500円で食べられる店が38店、1000円で利用できる店
は11店舗です。

 利用したい人は、この冊子を持参して店に行き、注文の際に見せることにより、指定の
メニューが、例えば通常980円とか800円のメニューが500円で食べられるのです。
店では、利用した際に冊子のチェック欄にチェック印を押してくれて、3回まで同じ店を
利用できるようになっています。

 掲載の料理店は、居酒屋、中華料理、ラーメン店、韓国料理、インド・ネパール料理、
カレー・うどん、カフェ、寿司、音楽喫茶、炭火焼肉、イタリアンなど、多種にわたって
いるので、お好みに合わせて選び、昼食に利用できます。

 掲載されている3~4店で利用すれば、ほぼ冊子代980円以上割安に食べられますの
で、それ以上利用すればさらにお得になるということになります。

 「ランチポケット所沢」は、昨年10月と今年2月に発行されていて、それぞれ利用可
能期間は3~4か月でしたが、今回は8月20日(木)から12月20日(木)までの4
か月間です。

 参考までに、今年前半に今までの冊子を利用したときに撮った写真を幾つか掲載します。
これらの店は今回も掲載されていますが、メニューは変わっています。


      「むらやま」航空公園店 マグロの山かけ丼 通常価格680円→500円
         
 
 「さかなや道場」所沢駅前店 まぐろネギトロ丼 通常価格980円→500円
  

   「三代目幸すし」(新所沢駅西口) サーモンねぎとろ丼 800円→500円
      

         「やるき茶屋」小手指南口店 海鮮丼 850円→500円
         

 いずれも和食ですが、私の好みなのかもしれません。掲載の店舗は、西武線所沢駅と、
航空公園駅、新所沢駅、小手指駅周辺が主で、ほかに西所沢駅、狭山ヶ丘駅、入曽駅、
JR武蔵野線東所沢駅周辺も1~2店あります。
   
 所沢市内にお住まいの方やお勤めの方、あるいは所沢にお出かけになることが多い方で、
昼食を市内の飲食店でとることの多い方には、お勧めの冊子かと思いますので、市内の書
店でのぞいてみて下さい。

 ちなみに、同じスタイルの「ランチポケット」は池袋や川越版も発行されていて、川越
はすでに川越④版になっています。




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ポーランドとバルト3国の旅 首都の街並み③ タリン(エストニア)

2015-09-07 22:29:47 | バルト3国とポーランド旅行
 2015年9月7日(月)

 首都圏は先週も雨の日が多く、気温は下がったもののウオーキングに出かけたくなる日
がなかなか到来しません。今回も、7月のポーランドとバルト3国の旅の中から、首都の
街並みの最後です。

========================================

 首都の最後は、7月15日(水)夕方から17日(金)の午前中にかけて巡った、バル
ト3国最北の国エストニアの首都タリンです。

 3日間で、同じところを何度か通ったところもあり、撮った順序なので場所があちこち
に飛んだりしますが、町の雰囲気を感じ取っていただければ幸いです。

 タリンは、北側をバルト海のフィンランド湾に面していて、対岸のフィンランドの首都
ヘルシンキとは高速艇やフェリーが行き交い、北欧に向かって開かれた「バルトの窓」と
もいえる都市で、人口は約40万人、タリン歴史地区は1997年に世界文化遺産に登録
されています。

 タリン歴史地区に含まれる旧市街の西側、トームペアの丘に立つトームペア城の南面。
現在は政府と国の議会が入っているので、内部の見学は出来ません。


 トームペア城やその北にある大聖堂の周辺は、多くの観光客で賑わっていました。




 トームペアの丘の北端付近と東北側には2つの展望台があり、北側や東側の展望が楽し
めます。以下の3つは北端の展望台からの眺め。






 このあと3つは東北側展望台から。






     トームペア城に相対するアレクサンドル・ネフスキー聖堂を東北東から。
      

 旧市街の中心にあるラエコヤ広場。この周辺もいつも賑わっていました。






 旧市街の東側、ヴィル門周辺には、旧市街巡りに利用できる自転車のタクシーが、たく
さん客待ちしています。
    



 ヴィル門のそばの建物。


 これは郵便局でしょうか。


     ちょっと変わった露店。何を売っていたかは忘れました。
    

           ラエコヤ広場周辺のカフェテラス。
          


 
 ヴィル門の東に並ぶ生花店街。どの店もきれいな花でいっぱい。


 旧市街の南側にあったホテルらしい建物。


 連泊したラディソン ブル スカイ ホテル近くの建物。


 ヴィル門の西側から、城壁沿いに北に延びる通りに並ぶのは、冬向けの衣料品店。


 変わった造りの建物ですが、何かは分かりません。


 このような建物でも、何10年かの歴史があるものと思われます。


 旧市街の北西、「塔の広場」と呼ぶ緑の多い公園からの城壁と塔。


    ヴィル門の南側の公園にあった噴水。
    

 タリンの観光を終え、ヘルシンキ経由で帰国しました。





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ポーランドとバルト3国の旅 首都の街並み② リガ(ラトビア)

2015-09-04 22:52:59 | バルト3国とポーランド旅行
 7月11日~18日の「ポーランドとバルト3国の旅」での「首都の街並み」の順序と
しては、2番目に訪ねたバルト3国では南にあるリトアニアの首都ビリニュスですが、ビ
リニュスはすでにアップした行程のレポート以外に街並みの写真がほとんど無いので省き、
7月14日夕方から15日午前に訪れた次の首都、ラトビアのリガの模様を紹介します。

 ラトビアの首都リガには、7月13日(月)の夕方、といっても時刻は20時過ぎに到
着し、旧市街中心部のリーヴ広場を抜けて夕食をするレストランに向かいます。20時過
ぎの夕日に照らされたリーヴ広場の東側。


 リーヴ広場の一角にあったカフェテラスの賑わい。


 夕食を終えた21時45分過ぎの同じ場所。まだ多くの人が残っていました。


 7月14日(火)朝、宿泊したリガベルビュー パーク ホテル リガの部屋からの周辺の
眺め。旧市街の西を流れるダウガヴァ川の西側にあり、この辺りは緑の多い住宅地のよう。




 ホテルからバスでダウガヴァ川の斜張橋ヴァンシュ橋を渡り、リガ旧市街の北西側にあ
るラトビア国立劇場前を通過しました。


 旧市街に入り、火薬塔のそばから北西に延びるトゥルクシ通りの細長い建物沿いに進み
ます。


 近くの通りのY字路周辺。


 リーブ広場の近くにあるネコの家。


           ネコの家から西に向かうカーブした道路。ネットに覆われた塔は
           リガ大聖堂。
          

 大聖堂の手前のドゥアマ広場だったと思われる。


 これもドウアマ広場か。


 ダウガヴァ川クルーズで、上流からのヴァンシュ橋。


 30分ほど上流に進んで折り返し、戻って北旧市街に近い右岸の眺め。




 中央部より左手に尖塔が3つ。右が聖ゲオルギ教会、真ん中は塔の中ほどに「哀れな罪
人の鐘」と呼ぶ鐘の下がる聖ヤコブ教会、左端がリガ大聖堂。


 倉庫群


     リガ大聖堂              聖ヤコブ教会


       昼食をしたレストランの近くに見えた教会。
      

 昼食を終えてバスに乗り、東北東52㎞のスィグルダに向かう車中からの市街地の建物。


       やはりバス車中から見えた教会。
      

 この日午後は、スィグルダからさらに約300㎞北へ、バルト3国最北の国エストニア
の首都タリンに向かいました。





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ポーランドとバルト3国の旅 首都の街並み① ワルシャワ(ポーランド)

2015-09-01 22:53:30 | バルト3国とポーランド旅行
 2015年9月1日(火)

 8月下旬から、首都圏は例年より早い秋雨前線の到来で太陽の出ない日が多く、猛暑か
らも開放されました。でも、9月に入って少しは残暑の日が来ないと、農作物の生育に影
響が出るのではないかと案じられます。

 7月のポーランドとバルト3国の旅の中から、今日からは首都の街並みの様子を紹介す
ることにします。なお、すでに紹介済みの建造物などは省きます。

========================================

 巡った順序に従い、最初はポーランドの首都、ワルシャワです。ワルシャワは、もとも
とはヴィスワ川沿いの小さな漁村だったのが、14世紀以降に商業と工業の発展により重
要度を増し、1596年にポーランドの首都になったようです。

 1980年にユネスコの世界遺産に登録された「ワルシャワ歴史地区」は、旧市街と新
市街に分かれており、旧市街は首都になる前の、新市街は首都になってからのワルシャワ
の姿を今に伝えているとのこと。

 でもワルシャワの町は、第2次世界大戦の末期の1944年にドイツ軍により徹底的に
破壊されたのです。それをワルシャワ市民が荒廃した旧市街を「煉瓦のヒビに至るまで」
復元したことにより、かつての美しさを取り戻したのでした。

 現在のワルシャワは、人口は172万人という大都市です。以下は、7月12日に回っ
たワルシャワ市内の旧市街を中心の、ほんの限られたエリアです。

 宿泊したノボテル ワルシャワ セントラム ホテルは、ワルシャワ中央駅に近い中心街に
ありました。まずは、そのホテル前の街並みから。

 交差点の斜向かいに立つ、37階建ての文化科学宮殿とその周辺。文化科学宮殿の塔高
は237m、総面積は12万3,000㎡あるようです。


 ホテルの北側に立つ建物。


 北東に見えるビルの屋上には、コニカミノルタの名。


     ホテルのそばの交差点際には、浮世絵の展覧会の看板らしいのが。
        

 ショパン像やリストの胸像があるワジェンキ公園を観覧後、新世界通りから旧市街に向
かいました。新世界通りの建物。




 クラシックな街灯が、街並みを引き立てているよう。




 屋上の隅にあるのは展望塔だろうか…






 旧市街に入って王宮広場へ。

 まだ午前中なので、カフェテラスには人が少な目。


 旧市街の北端、バルバカンと呼ぶこの城塞門を抜けると新市街です。


 新市街にあるキューリー夫人博物館の近く。


 午後、西方56㎞にジェロゾバ ポーラあるショパン生家のある公園を訪ね、夕方ワルシ
ャワ市内に戻りました。屋上にポーランド国旗の揚がるこの建物は何だろう?


 旧市街の南西側、サスキ公園の北に接する国立オペラ劇場。ポーランド国立バレエ団や
国立オペラの公演が行われるところのよう。 


 旧市街広場、広場右手に見えるのは人魚像です。 




 広場の一角にあった店の前。


 落ち着いた彩りのこの建物は何だろう。


 ワルシャワの1/4を公園が占めるとか聞きいたような気がしますが、緑がとても多く
てきれいな街並みでした。




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