あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

夏の礼文島・桃岩展望台周辺の高山植物(北海道)

2018-08-31 17:00:58 | 国内旅行
 2018年8月31日(金)

 8月も終わりですが今日も35℃を超える猛暑日となり、所沢市内での8月の猛暑日は
9日となりました。

 少し涼しくなったと思うとまた暑さがぶり返し、相変わらず外出は最小限に留めている
ので、今回は昨年(2017年)8月1日(火)に訪れた道北・礼文島の南部、桃岩展望
台周辺に咲く高山植物の紹介です。

 礼文島は高緯度のため、本州では高山しか見られないような高山植物が海岸から観察で
き、桃岩展望台も標高200mほどのところですが、周辺は高山植物のお花畑になってい
ます。

 標高100mくらいのところまでバスで上がり、標高差約100mの遊歩道を往復しま
した。その道筋にはたくさんの高山植物が咲いていましたが、グループ行動なのでゆっく
りカメラを構えるゆとりが無く、あまり良くは撮れませんでしたがその幾つかです。



 エゾノシシウド


      エゾゴマナ
     

 シオガマギク


          チシマアザミ
         

 アカツメクサ


         オトギリソウ
        

 ?
    

 ヤマハハコ




 最初の写真に見えた小屋がはるか下に


       

        エゾレンリソウ
       

 エゾカワラナデシコ


     

 アサギリソウ






 イブキトラノオ


 エゾノシシウドなど


 レブンソウ


      エゾノコギリソウ
     



      マツヨイセンノウ
     

 これはほんのわずか。まだまだたくさんの花が咲き競っていました。





国内旅行ランキング



にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村
    

       

 



   
 


 

コメント

春の北陸路の旅③ 日本一の木彫の町 井波を訪ねる(富山・南砺)〈後半〉

2018-05-30 22:17:31 | 国内旅行
 2018年5月11日(金) 〈続き〉

 八日町通りにある蕎麦懐石の松屋で食事を終えて再び交通広場に入り、観光案内所で井
波関連のパンフレットを幾つかもらう。

 帰りに予定したバスは13時16分だが、お勧めという彫刻総合会館まで往復する時間
が無い。次の16時14分発のバスで帰ることにして、彫刻総合会館に向かう。






 八日町通りを次の交差点まで進んで左折し、住宅地を抜ける路地を進む。家並みの間か
ら北西に、残雪の山並みが望まれた。


 さらに進むと交差点際に「安政義人慰霊之碑」が立ち、「義人長崎茂右エ門磔之地」碑
もあるが、どのような人かの説明はない。その横には2基の古い石仏も並んでいた。
      


  

 穂の出始めた麦畑の横を進んで緩斜面を上がり、井波の町並みを囲む環状1号線の南東
部、北川交差点の北東側一帯に、「井波彫刻総合会館」と「道の駅 木彫りの里創遊館」
がある。
     
 

 駐車場の隅にある木彫の大きな七福神像を見ながら奥に進み、まずは井波彫刻総合会館
へ(入館料500円)。



 館前にも、木彫の大きなおひな様や龍、風神、世界最大という幅11m、高さ1mでク
ス製の井波彫刻欄間「十二支の図」などが目に入る。
     



 入館して、瑞泉寺の伽藍(がらん)配置をモデルにしたという館内の展示室を巡る。木
彫品は欄間や衝立(ついたて)、パネル、獅子頭、天神様、現代の彫刻や工芸品など多彩
で、クス、ケヤキ、桐などを原料として250年を超える伝統ある井波彫刻の粋を集めた、
200点を超える作品の数々を鑑賞した。作品は直売しており、数万円から1千万円を超
えるものまである。

 館内には、荒削りから仕上げまでに用いる200本以上のノミと彫刻刀も並んでいた
(館内撮影禁止)。

 観覧を終え、南西側斜面にある「芸術の森イヴェント広場」と呼ぶ広い芝生地で休憩す
る。ここにも木彫りの彫刻作品が何点か展示されている。




 東側には4棟の「匠工房」があり、各々に木彫の工房が設けられていたが、観覧は省く。



 最後に「道の駅 いなみ木彫りの里創遊館」に入り、売店に並ぶ数々の木彫品や地元産
品などを見た。







 北川交差点から細道を南西に下り、大門川河川公園に行く。


     
 カーブする大門川沿いの公園では、4年に一度、「いなみ国際木彫刻キャンプ」が開か
れるようで、園内には作品のいくつかが残されている。
          

     


 下流の池から上流の滝まで、園路を往復してきれいなせせらぎなどの間を巡る。流れの
南側斜面では、白フジがたくさん花を見せる。
     

          
 この斜面上一帯は井波城址で、明徳元(1390)年に瑞泉寺が創設された場所とか。

 文明13(1481)年には一向一揆の拠点になったが、天正9(1581)年に佐々
成政(ささなりまさ)に攻められて井波城となり、やがて前田利家の手で落城しという。
現在は古城公園になり、井波八幡宮や招魂社などがあるようだ。

 城址下を南西に少しで、その古城公園に上がる。うっそうと茂る樹林に「松島大杉」と
呼ぶ杉の古木が立っていた。幹が一本立ちのスギでは県内十指に入る大杉のようで、幹回
り7.6m、樹高40.4mあり、推定樹齢は450~530年という。
     

          
 大杉の横を上がった広い緑地に神武天皇かと思われる銅像が立ち、奥に招魂社が祭られ
ている。



 道路を挟んで南側の金城寺には「なでぼとけ」の相性で信仰を集めているという「おび
んずるさま」が祭られていた。
         


 城跡らしい石垣があり、その間の小さい門を入ると「臼浪水(きゅうろうすい)」と呼
ぶ井戸があった。

 瑞泉寺を開創した棹如上人が京都へ向かう途中、乗っていた馬の足かきにより湧き出た
といわれ、「井波」の地名や瑞泉寺発祥の地とされるところとか。

 天保年間には小庵と庭園も築かれ、歴史ある風情に多くの文人墨客が足跡を残したとい
う。奥には平成5(2003)年に再建した仏堂がある。


 その先の石段を上がり、井波城本丸跡に建てられた井波八幡宮に参拝する。


 本殿西側の高みには、文久元(1861)年に地元蚕業者がカイコの霊をともらうため
に建立した蚕堂(かいこどう)がある。

 総ケヤキ造りの一間社切妻造(いっけんしゃきりづまづくり)で、特色ある神社の小堂
構造のようだが、覆屋の中なのでよく見られないのが残念だ。

 鳥居の横には、南砺市の「巨木・名木100選」のひとつ、八幡宮の大杉が目につく。
     


 神社を出て西に少しで井波城の石垣が残り、瑞泉寺の山門前に出た。


 再び八日町通りの家並みを眺めながら北西に下る。途中「池波正太郎ふれあい館」があ
るが、残り時間が足りず入館は省く。15時50分に交通広場に戻った。


 16時14分発高岡駅前行きバスに乗り、17時16分に新高岡駅に着いた。急ぎ17
時24分発北陸新幹線富山行きつるぎ720号に乗る。
    



 富山駅で18時15分発かがやき514号に乗り継ぎ、東京駅には20時3分に着く。
自宅には22時ちょうどに帰宅した。

(天気 快晴、距離 3.5㎞、地図 井波散策MAP(2万5千分の1 城端)、
 歩行地 富山県南砺市)


 ちなみに、4日後の5月15日の朝日新聞夕刊〈アートトリップ〉コーナーに、「雲水
一疋龍」と題する井波の木彫りの技などの記事が掲載された。
   

 さらに5月24日(木)には文化庁が、地域の文化の魅力をストーリー仕立てで発信す
る「日本遺産」に、「宮大工の鑿(のみ)一丁から生まれた彫刻美術館・井波」が認定さ
れた。




旅行・観光ランキング


にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村
コメント (2)

春の北陸路の旅③ 日本一の木彫の町 井波を訪ねる(富山・南砺)〈前半〉

2018-05-29 22:49:43 | 国内旅行
 2018年5月11日(金)

 最終日は、散居村(さんきょそん)で知られた砺波(となみ)平野(富山県)の南端に
あり、古い町並みの残る日本一の木彫りのまち、井波(いなみ)を訪ねることにした。

 今朝は快晴になり、宿泊したJR北陸新幹線新高岡駅前のビジネスホテルの部屋からは、
西方に白山(はくさん)らしい残雪の山並みが望まれる。



 新高岡駅南口から8時54分発小牧堰堤行きバスに乗る。少し西進して国道156号線
に入り南南西へ、途中JR城端線の中間の主要駅、砺波駅前を通過する。

 左右に広がる散居村の風景を眺めながらさらに南南東に進み、予定より10分余り遅れ
て10時7分に井波中央バス停で下りた。

       
 そばの変速五差路交差点の南西側は交通広場で、「花鳥の塔」と呼ぶ木彫の塔が目につ
く。広場には観光協会があり貸し自転車も用意されている。


 南側の八日町広場と呼ぶ小公園には湧水があり、白壁には透かし彫りの木彫が並ぶ。


 その横から、町の中心部を南に真っ直ぐに伸びる石畳の八日町通りに入った。



 通りの両側には幾つもの彫刻工房が並び、作業の様子を見られる工房もあり、木彫品の
直売もしている。





 通りにある酒店など古くからの建物や柱などには様々な彫刻が見られ、バスの標識や木
彫りの表札、七福神など、いたるところで木彫りの製品が目に入る。



 古い洋館の富山銀行井波支店の横の路地を入ると、突き当たりが黒髪庵(くろかみあん)
と翁塚(おきなづか)のある浄蓮寺である。

 黒髪庵は、越中の俳人数百人の寄進により文化7(1810)年に建てられたとか。境
内のかやぶき屋根は芭蕉堂で、町の俳人により明治15(1882)年建立のよう。


 傍らに、これから行く瑞泉寺の11代で芭蕉の門弟だった浪化(ろうか)上人が、近江
の義仲寺(ぎちゅうじ)にある芭蕉の墓から小石3個を持ち帰り建てた翁塚があり、その
後遺髪も納められたという。
       

 六日町通りの中ほどに、井波美術館があったので入館する。建物は、大正13(1924)
年に県下初の鉄筋コンクリート造りで建てられた旧中越銀行井波支店。
     

 井波は木彫りの町であるとともに、多くの芸術家が集う美術の町でもあるようで、館内
には彫塑、現代工芸、造形など地元作家の現代美術品が展示されていた(無料)。


     
 美術館前の公衆電話ボックスにも木彫が施され、入口横には「倒立」と題する木彫の彫
刻もある。
         


 少し先で、公開されていた国登録有形文化財の斎賀家住宅に入る。軒の出の大きい屋根
を支える登梁出桁(のぼりばりだしげた)造りで、間口4間・奥行8間の木造2階建て主
屋は江戸時代末期の建築と考えられるとか。
     
 道路側のミセには衣類物などが並び、右手の石敷の土間を進むと吹き抜けの一角もあり、
廊下の奥には昭和13(1938)年建築の土蔵がある。



 さらに緩やかな上り坂の通りを木彫の看板や七福神など見ながら進む。
    

         

                 

 上がりきった正面が、真宗大谷派井波別院の瑞泉寺(ずいせんじ)である。


 瑞泉寺は、明徳元(1390)年に本願寺5代棹如(しゃくにょ)上人により開創され
た寺院で、北陸地方の真宗木造建築の寺院では最も大きな建物のよう。

 寺は一時、越中一向一揆(えっちゅういっこういっき)の拠点になるなどして興亡の時
を迎えたが法灯を守り続け、秀吉の保護を得て勢力を復旧したという。


 豪壮な山門は、江戸後期の文化6(1809)年に地元井波の大工により完成したもの。
山門の各所には数々の優れた彫刻や文様が施され、総ケヤキ重層入母屋造りの建物は県指
定重要文化財である。
    

 正面の本堂は明治16(1883)年の再建で、単層入母屋造りの建物は北陸随一の大
伽藍(だいがらん)とか。



 境内右手には昭和9(1936)年建立の瑞泉会館があり、近くのフジ棚に古木の白フ
ジが咲き残り、別のフジ棚のムラサキのフジもわずかに花を残していた。






 本堂前から振り返る山門


 本堂に上がって内部を拝観し、渡り廊下で結ばれた太子堂にも参拝する(各々撮影禁止)。
本堂上部の木彫。


 太子堂



 太子堂側面上方の蟇股(かえるまた)などには、井波彫刻の粋を示す精巧な木彫が随所
に施されていた。







 境内は緑が多く、ツツジなども咲き新緑がみずみずしい。







 太子堂の前の鐘楼堂や、山門の右手にある勅使門とも呼ばれる瑞泉寺式台門などにも、
井波彫刻の素晴らしい木彫が目につく。


 なお、鐘楼堂の大梵鐘は口径1.24m、重さ3.372トンあり、北陸随一という。

 11時30分過ぎに瑞泉寺を後にする。八日町通りの様々な木彫を探しながら八日町広
場近くまで戻り、蕎麦懐石の松屋に入り昼食にした。





 注文した田舎そば(1100円)。

                                    〈続く〉





旅行・観光ランキング


にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村
コメント (2)

春の北陸路の旅② 源平倶利伽羅合戦の歴史国道を歩く(石川・津幡、富山・小矢部)〈後半〉

2018-05-24 18:49:49 | 国内旅行
 2018年5月10日(木)〈続き〉

 12時半に倶利伽羅峠の休憩舎を出て、東方に下る旧北陸道に向かう。


 近くにこのような説明板があり、津幡町側の倶利伽羅公園↓にあった高木翁のことが記
されていた。
       

 「源平合戦慰霊の地」碑もあり、その先には、源義仲が角(つの)に松明(たいまつ)
をつけた牛の群れを先頭にこの山を駆け抜けて、京都から下った平家10万の大群を破っ
たことを模した、火牛の計〈かぎゅうのけい〉像が並んでいた。





 
 さらに「芭蕉塚(ばせをつか)」もあり、松尾芭蕉が奥の細道を訪ねてこの地を通った
元禄2(1689)年7月15日に詠んだ、「義仲の 寝覚めの山か 月かなし」の句碑
が立っていた。
    

         


 近くには大伴家持(おおとものやかもち)が天平勝宝2(750)年に詠んだ「砺波山
ほととぎすの歌」の短歌と長歌の歌碑もある。
       



 そばの樹林が開けたところは「新幹線ビュースポット」で、好天ならばその向こうに白
馬岳や剣山、立山連峰も望めるようだ。




 歴史国道は、その先で車道をV字状に回り矢立山方面に向かうのだが、災害箇所があり
通行止めになっていて、北側の大池経由の迂回路を回るようになっていた。


 緩やかな木の段を上がって砺波山山頂近くを進んで砂坂を下る。
    





 坂の途中には「六号名号」「砂坂地蔵」「弘法の水」などの説明板があった。
     

          


 熊除けに鳴らすための金属製一斗缶が2箇所に吊され、鳴らすための木の棒もあったの
でたたいて熊に注意を促した。


 砂坂を下りきって車道のY字路に出た。進む予定だった東に延びる歴史古道は通行止め
で、北側の埴生(はにゅう)大池への道が歩行者の迂回路になっていた。この道は、小矢
部市の「ふるさと歩道」でもある。


 標高160m前後の等高線沿いにカーブを繰り返しながら北に進む。こちらにもタニウ
ツギがあちこちに咲き、ヤマアジサイやフジの花もそちこちで目に入る。
    

 「黒坂口」の標示があり、寿永2(1183)年5月11日に木曽義仲隊2万の軍は、
この辺りに陣をしいたよう。すぐ先に周囲を新緑に囲まれた埴生大池が現れた。


 池は、倶利伽羅不動寺創建時以来の由緒があるようで、加賀藩時代から広範囲の水田に
供給しており、近年では平成5年に5年かけた改修を終えているという。


 堤防の南側には、堤防の決壊を防ぐ人柱となった「おまん」のための地蔵堂が祭られて
いた。



 大池北側の三差路を右折して下り道となる。「木曽義仲軍勢進軍の道」の標柱が立ち、
この道も歴史的な街道であると知れる。
       



    

 道は流れ沿いになり、細い流れの「横引の夫婦滝」が流れ落ちていた。
     

 すぐ先の送電線下付近に「鳩清水」の説明板があり、義仲軍が白鳩の導きでこの水を飲
んで英気を養い戦に挑んだと伝えられているとか。ここで小休止した。
       


 近くのY字路の先も流れ沿いに進み、流れから離れた辺りで田園地帯へ。
       




 再び流れが近づき埴生集落に入り、小矢部市指定史跡「竹岳亭焼窯跡」↑のすぐ先で埴
生八幡宮の鳥居をくぐる。


 左手に「倶利伽羅源平の郷埴生口」の建物があるが、あとで寄ることにした。そばに大
きな木曽義仲の銅像がある。

 昭和58(1983)年に、源平倶利伽羅合戦800年を記念して建立したもの。日本
一の源義仲像で、騎馬像としても全国有数な大きさのよう。

 参道の反対側にある手洗鉢に注ぐ「鳩清水」は、倶利伽羅山中の「鳩清水」滝からのも
ので、3㎞の山道を経てここに流れ出るとか。

 木曽義仲が祈願の折、白鳩が飛来し、その案内で源氏勢が清水を得たと伝える霊水だと
いう。全国名水百選で、「とやまの名水五十五選」にも選ばれている。

 社殿正面に向かって103段の急石段を上がる。埴生八幡宮(護国八幡宮)は、奈良時
代の養老年間(717~24)に宇佐八幡宮の分霊を勧請(かんじょう)したのが始まり
とか。

 天平時代には越中の国守大伴家持が祈願したと伝えられ、寿永2(1183)年5月、
木曽義仲が埴生に陣をとり、倶利伽羅山に2倍の軍勢をしく平維盛(たいらのこれもり)
の大軍と決戦するにあたり、当社に祈願して著しい霊験があり、このことは平家物語、源
平盛衰記、謡曲木曽など、多くの古典文学で語られているようだ。


 正面の拝殿から奥に幣殿、釣殿、本殿と続く社殿は、慶長年間(1596~1615)
や正保3(1646)年、前田利長が寄進して完成したもので、全部が国指定重要文化財
である。無事、倶利伽羅峠越えを終えることができたことに感謝して拝礼する。

 拝殿には、木曽義仲と巴御前のNHK大河ドラマ化実現に向けての署名帳があったので、
私も署名した。
    


 急石段を下り、改めて「倶利伽羅源平の郷埴生口」の建物に入り、義仲ゆかりの展示や、
4つの「みち」に関するパネル、ここの工事の際に発掘された小判や金貨などを観覧する。








    


 埴生集落を貫く車道を東北へ、県道42号に入りさらに進む。
    

 北陸新幹線の手前に「砂川一里塚跡」の石柱があり、小公園になっていた。


 北陸新幹線の高架下と、あいの風とやま鉄道(旧北陸本線)下の地下道を抜けて、石動
町(いするぎちょう)で国道471号に入る。


 市街地を400mほどで、あいの風とやま鉄道の石動駅に15時30分に着いた。




 次の列車まで30分ほどあるので近くの寺院3つほど回り、16時4分発泊(とまり)
行き電車に乗る。


 高岡駅に16時19分に着き、16時45分発JR城端(じょうはな)線城端行下り電
車に乗り換える。車輌は昨日の氷見線同様の「忍者ハットリくん」のラッピング車である。


 次の新高岡駅に16時48分に着く。駅構内を一巡してから南口すぐそばにあるビジネ
スホテルに17時過ぎに入った。


 歴史国道の核心部の、道の駅竹橋口から埴生八幡宮間の3分の2前後は車道だったが、
車に出会ったのは倶利伽羅峠での観光客の車1、2台と、迂回路の埴生大池の先で2台く
らい。歩行者も倶利伽羅峠の休憩舎で昼食を終えた頃に来た20人ほどのグループのみ。

 コースは良く整備されていて、迷うような所や滑りそうな急斜面などは無く、標識や歴
史的な案内板も多く、歴史に残る多くの人たちの歩みや行動も知ることができ、来て良か
ったと思える歴史国道だ。(下図は金沢市・小矢部市・津幡町共同編集「行ってみたい金
沢と木曽義仲ゆかりの地を訪ねる旅」パンフレットから)

 1日のウオーキングコースとしても余裕ある歩きができ、熊に出会うこともなく予想以
上に満足した一日だった。

【コースタイム】中津幡駅8・05ー杉瀬八幡神社8・22ー道の駅8・55~9・15ー山道へ
 9・35ー城ヶ峰休憩舎10・24~30ー山森集落入口10・45ー手向神社下11・12ー倶利伽羅
 不動11・20~28ー倶利伽羅公園戻り11・47ー展望台と休憩舎(昼食)12・00~12・30ー
 砂坂下(通行止地点)13・05ー埴生大池13・22ー鳩清水13・50~14・02ー埴生八幡宮
 14・29~49ー倶利伽羅源平の郷埴生口14・50~15・00ー石動駅15・30

(天気 雨曇後晴、距離 15㎞、地図(1/2.5万) 石動、倶利伽羅、歩行地 
 石川県津幡町、富山県小矢部市、歩数 31,300、累積標高差 上り 約490m、
 下り 約460m)




アウトドアランキング



にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへ
にほんブログ村
コメント

春の北陸路の旅② 源平倶利伽羅合戦の歴史国道を歩く(石川・津幡、富山・小矢部)〈前半〉

2018-05-23 16:28:16 | 国内旅行
 2018年5月10日(水)

 今日は、今回の旅で一番の目的である源平倶利伽羅(げんぺいくりから)合戦の行われ
た倶利伽羅峠越えの歴史国道を歩くことにした。

 昨年暮れ、カントリーウオークの仲間Kさんが歩かれた能登の文学者ゆかりの地を巡る
エッセイを読むため、周辺の観光パンフレットを入手した。

 そのひとつに「源平倶利伽羅合戦地(歴史国道)」の紹介があり、興味を引かれて歩く
ことにしたのである。

 木曽義仲は、私が育った埼玉県中部の隣町、嵐山町(らんざんまち)に生まれたとされ、
鎌形八幡神社に義仲産湯の清水があり、毎年11月の日本スリーデーマーチで何度も立ち
寄り、さらに中山道ウオークで木曽町や南木曽町で義仲ゆかりの寺社などを訪ねたことも
あり、昨年の旅では倶利伽羅駅も通過したことなどから、木曽義仲に一層興味を引かれた
のである。



 宿泊した金沢市のビジネスホテルを7時20分頃出た。金沢駅7時40分発IRいしか
わ鉄道経由JR七尾線直通の七尾行きに乗る。

 通勤通学時間帯なので、電車は予想外に長い6両編成だった。


 7時59分に無人の中津幡(なかつばた)駅で降りる。近くに高校があるようで、下車
した高校生も多い。雨が降っていたので傘をさして8時5分にスタートした。



 南西側の交差点を左折して県道218号に入り東へ、北陸道と思われる津幡集落の古く
からの家並みの間を進む。家並みが少なくなり南側に津幡川が近づく。



 Y字路を右折して杉瀬集落を南東へ進むと、街道筋らしさを残す大きな民家が見られた。
次のY字路際にあった八幡神社境内に上がり、今日の行程の無事を祈る。社殿は小さな民
家風の素朴な造り。


 社殿横から東北東へ緩やかに上がる道へ、その先は民家が途絶える。日本フィルター工
業の大きな建物があり、「熊出没‼注意」の立て札も現れた。近くにタニウツギが咲き、
この先でも数知れぬほどこの花が見られた。


 送電線下を通過すると両側は津幡運動公園となり、右手に陸上競技場と野球場、左手に
は体育館やテニスコートなどが続く。


 駐車場横から下り坂となり、行く手線路の向こうに道の駅らしい建物が見下ろせる。


 運動公園の終端付近で近づいた線路下を抜けて「道の駅 倶利伽羅源平の里 竹橋口」に
入る。

 最初の建物に観光コーナーがあり、開館直前だが開けてくれたので入館した。館内には
木曽義仲ゆかりの展示やパンフレットなどがあり、担当の方にこの先の歴史国道の様子を
聞き、分かりにくいところは無いようなので安心した。


 ちなみに「歴史国道事業」では、昔の姿を残す道を建設省(現国土交通省)で保存・復
元し、町並み、遺跡、構造物、祭りなどとネットワークすることで、歴史と文化の香り高
い地域造りを目指しているとのこと。

 館内のパネルには全国で24の歴史国道が紹介されていて、私が過去に歩いたところで
は、中山道「追分宿」、東海道「蒲原宿~由比宿」、中山道「落合宿・馬籠宿・妻籠宿」、
熊野古道(なかへちみち)が入っていた。

 今日歩く歴史国道・北陸道「倶利伽羅峠」は、津幡町竹橋のこの道の駅から石川・富山
県境の倶利伽羅峠を越えて小矢部市(おやべし)桜町の国道8号バイパス沿いの道の駅
「めるへんおやべ」までの12.8㎞となっている。


 道の駅にはほかに宿泊施設や入浴施設、売店、食堂などがあり、構内には和風建築の倶
利伽羅郵便局もあった。雨の心配は無くなったので傘をたたみ9時15分に道の駅を出た。





 この先からが歴史国道となり、東南東に真っ直ぐに延びる北陸道竹橋宿の家並みの間を
通過する。道の駅で教えてもらった歴史国道の目印が電柱上部にあった。


 道が右カーブし始めて竹橋宿が終わる辺りに、倶利伽羅峠三十三観音が祭られていた。
     


 その先は民家が途絶え、300mほどで車道とも分かれてY字路を左への山道となる。



 周辺にはたくさんのフジの花が雨に濡れて咲く。分岐点には、旧北陸道を紹介する掲示
があった。
 

     
 しっとりした新緑にあふれる道は簡易舗装されていて歩きやすい。4体のお地蔵さんの
並ぶ先から緩斜面の上りとなり、丸太の階段になっている。
          


 半円形の石柱が並ぶ先で車道に出て右へ少しで、再び山道に向かって上がる。ここにも
「熊出没‼注意」の看板がありチョット心配。



 道は軽トラが通れるくらいの幅があり、未舗装だがよく踏み固められていて歩きやすい。





 次第に高度が上がり、樹林の切れ目から谷を隔てた山並みや高圧送電線などが望まれる。
路傍にはキンポウゲ科と思われる黄色い花が咲き競い、ウグイスが間近で鳴いている。


 送電線下から間もなく、右から上がってきた舗装路に合し、「道番人(みちばんにん)
屋敷跡」の説明板や歴史国道の案内図が立っていた。
       



 北側の高台は城ヶ峰城址で、その南側に2戸の屋敷があり、加賀藩が寛文5(1665)
年から道番人を置き、給銀と屋敷を与えて街道の掃き掃除や砂入れ、水落し、並木の手入
れなどさせていたといわれていたようだ。

 近くに「龍ヶ峰城跡」説明板と「龍ヶ峰城跡公園案内図」が立ち、公園に上る道もある
が、まだ道半ばにも達していないので上がるのは省き、そばの休憩舎で休憩した。なお、
ピークの城ヶ峰の標高は194.5mである。


 その先は全て車道となり、分かりにくいところもなさそうなのででひと安心した。
     


 タニウツギの咲く道を進むと「馬洗い場跡」の案内板がある。湧き水を利用して岩場を
掘って作った馬洗い場が、数10年前まで使われていたが、現在は湧水も確認できないよ
うだ。

 倶利伽羅駅方面から上がってきた車道とのY字路際に、竹橋宿を出てから無かった民家
が現れた。

 数戸が散在する山森集落で、路傍の湿地にクリンソウが咲き、何色かのツツジも咲き残
る。近くの斜面ではシャガが咲き競っていた。
       

 500m余り進んで右カーブすると県境の倶利伽羅峠が近づき、津幡町最後の倶利伽羅
集落である。ムラサキモクレンの花が残り、車道はくねくねと曲がり急斜面の上りとなる。
この集落にもクリンソウが咲き、傍らにプリムラも咲く。


 急坂を上がった倶利伽羅不動寺入口に六地蔵が並び、反対側のお堂には秀雅上人像が祭
られている。
    
 秀雅上人は、天正年間(1573~92)の兵火で焼けて荒れた倶利伽羅山長楽寺(ち
ょうらくじ)の再興を発願し、慶長3(1598)年に住職に就任して前田公の信任を得
て、七堂伽藍(しちどうがらん)を造営して中興開山したという。


 お堂の反対側石段を上がり、手向(たむけ)神社に参拝する。手向神社の石堂神殿は、
慶長19(1614)年に加賀藩3代藩主前田利常が、兄利長の病気平癒を祈願して寄進
した長楽寺不動堂で、のち護摩堂になった建物とか。お堂の横には「長楽寺跡」の説明板
があった。


 神社の右手が、倶利伽羅不動寺の山頂堂である。倶利伽羅不動寺は、養老2(718)
年に元正天皇の勅願によりインドの高僧、善無畏蔵法師が、剣に巻き付いた黒龍姿の倶利
伽羅不動明王を彫刻して安置したのが始まりとのこと。

 倶利伽羅とは、インドのサンスクリット語で福徳円満の黒い龍を意味するもので、その
名をとってこの山を倶利伽羅山と呼ぶようになったという。

 現在は高野山別格本山で、千葉県の成田不動尊、神奈川県の大山不動尊とともに日本三
大不動とされている。


     
 山頂堂の周辺には、大きな開運不動剣、新しい小ぶりの五重塔などが並び、五重塔そば
からは東方の展望が開けていた。
          





 ここがコースの最高点で、標高276.7mの三角点があるようだが、確認は漏らした。
       

 奈良県の長谷寺のような登廊(のぼりろう)を下る。向きの変わる中間に、水かけ不動
尊が祭られていた。




 下ったところは倶利伽羅不動の駐車場だろうか。一隅に恵比寿様と大黒様が並ぶ。どう
やら倶利伽羅峠の先に下りたように思われ、右方向に進んでT字路をさらに右へ、西方に
向かって回り込む。


 手向神社の石段下まで戻り、その南側周辺が津幡町の倶利伽羅公園だったことを再確認
する。そばの車道のピーク↓が倶利伽羅峠のようだが、峠の標示も県境の標識も無い。


 ピークから、さらに高みの林間を上がる遊歩道があるのでその道を進むと、「北陸道不
動の茶屋」説明板があった。
       
 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が文政11(1828)年刊行の「越中道ひざくり
毛」に、石動(いするぎ)から倶利伽羅峠を越えて加賀に向かう際、倶利伽羅不動前の茶
屋が賑わっていたと記され、そのことを詠(よ)んだ歌碑が傍らに立っていた。

 近くには、室町時代最大の連歌の巨匠という飯尾宗祇(いいおそうぎ)の歌碑もある。
        

      
 さらに、木曽義仲が寿永2(1183)年に平清盛軍と倶利伽羅山で戦って大勝利を挙
げた際、先陣を切った郷土の蟹谷次郞が酒宴を張り戦勝を祝い鳴らしたという「源氏太鼓
由来記」と、「蟹谷次郞由緒之地」碑や、平家軍の平為盛の供養のために建てられたと伝
わる「為盛塚五輪塔」もある。
       

 その先には倶利伽羅合戦の両軍の戦没者を供養する、新しい源平供養塔が設けられてい
た。



 供養塔から車道に下ると休憩舎と木造の展望台があり、そばに「倶利伽羅古道 散策案
内マップ」「倶利伽羅県定公園 展望図」「倶利伽羅合戦~平家滅亡の歴史的大転換の舞
台」説明板などが並んでいた。


 展望台に上がり、倶利伽羅合戦の舞台だったという南側の谷間と、その向こうに広がる
山並みなどを眺めたが、雲が多く展望図に記された遠方の山は確認できなかった。



 ちょうど正午なので、休憩舎に入り昼食とする。眼下の斜面に咲くトチや、たくさんの
フジの花が新緑に彩りを添えている。〈続く〉




アウトドアランキング




にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへ
にほんブログ村
コメント (2)

春の北陸路の旅① 万葉のふるさと伏木へ(富山・高岡)

2018-05-17 22:47:09 | 国内旅行
 昨年5月に続き今年も、大人の休日倶楽部会員限定「北陸フリーきっぷ」を利用して、
北陸路を3日間訪ねた。

 第1日 5月9日(水)
 == 北前船の寄港地で万葉のふるさと伏木へ ==

 自宅を6時前に出て、上野駅7時58分発北陸新幹線はくたか553号に乗る。


 富山駅に10時38分に着き、8分後のJR氷見(ひみ)線下り氷見行に乗り換える。

 氷見線の車輌は、氷見市出身の漫画家・藤子不二雄A氏の漫画「忍者ハットリくん」の
ラッピング車になっている。


 11時24分に伏木(ふしき)駅に着いた。

 駅構内の観光案内所で昼食場所を聞くが、適当なところがなさそう。教えてもらった近
くのコンビニで弁当を買い、最初の目的地、勝興寺(しょうこうじ)に向かうことにした。

 駅にはコインロッカーが無いので、終業の16時前までに戻る約束で観光案内所に預か
ってもらう。

 駅前の郵便ポストには、この地に5年間国守(現在の富山県知事相当)として赴任した
大伴家持(おおとものやかもち)のミニチュア像が乗っていた。
       

 駅前広場には、「如意の渡(にょいのわたし)」という義経・弁慶主従の銅像がある。
謡曲「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」の如意の渡は、この辺りにあったといわれているよう。


 駅前の通りを西に少し、上り坂になった左手に「高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)」
があった。

 伏木測候所は、明治16(1883)年に伏木港近代化の恩人・藤井能三らにより、わ
が国発の私立測候所として設立されたとのこと。

 その後、県営、国営への移管を経て平成10(1998)年に無人化されたが、現在も
気象観測を続けているという。

 庁舎は明治42(1909)年に建築された洋風建築で、測候所建物としても希少価値
が高いとして、国の登録有形文化財になっている。

 館内も観覧できる(210円)が、時間の関係で入館は省いた。敷地内には、「越中国
守館址」碑と、測候所や伏木港、日本海側最初の洋式灯台、鉄道誘致運動などに多大な尽
力をされた明治の実業家「藤井能三翁像」があった。
          

     


 その先、両側は勝興寺の寺内町(じないちょう)で、敷地は狭いが幾つかの寺院が建ち
並ぶ。




 その中心部の小スペースに大友家持立像と家持の歌碑が立っていた。
       

            
     
 すぐ先の突き当たりが、広い境内の勝興寺である。

 勝興寺は、地方都市としては破格の規模と格式を備えた浄土真宗本願寺派の寺で、この
地に築かれたのは約420年前の戦国時代末期とのこと。

 戦国の頃は一向一揆(いっこういっき)の拠点として、近世は加賀藩主前田家や本願寺、
公家とも密接なつながりを持つ北陸を代表する有力寺院になったという。

 約3万㎡ある広大な敷地や門構えから城のようだといわれるようだが、それは神保氏の
古国府城を譲り受けて建てられたためで、境内には堀や土塁などが残っている。

 勝興寺の境内は、奈良時代に越中を統治していた国庁のあったところとされており、大
伴家持が国主として赴任した天平18(746)年から5年間に、多くの歌を残したとこ
ろでもある。

    
 堀の手前に記された「勝興寺の七不思議」が確認できるだろうかと思いながら豪華な唐
門(からもん)を入った(拝観料300円)。

 唐門は、明和6(1769)年に京都の興正寺に建築され、明治年代に勝興寺に移され
たと推定されているよう。門の造りは「前後唐破風造」という全国的にもあまり類例のな
い形式とか。唐門を含む境内12棟全ての建造物が国の重要文化財に指定されている。
    
 門には精巧な木彫が見られ、明後日訪ねる予定の南砺市井波(なんとしいなみ)の彫師
によるものかと思われた。

 正面に、近年7年がかりで改修された大きな本堂が構える。本堂は、勝興寺住職から還
俗して加賀藩主第11代を継いだ前田治修(はるなが)の支援を受け、西本願寺の阿弥陀
堂を模して寛政7(1795)年に建立されたという。

 大きさは約44m四方で、全国の重要文化財建造物中で8番目の大きさだとか。

     
 本堂前に七不思議の一つ「実ならずの銀杏」が柔らかな新緑を見せ、近くに「天から降
った石」が、本堂左手には「水の涸れない池」と「越中国庁址」碑がある。
    



       


 精巧な木組みの交差する上部を見上げながら本堂内に入る。


 正面祭壇周辺の柱や彫刻は金箔に彩られ、側面には加賀藩主前田氏系図や洛中洛外図屏
風などが展示されている。




     
 本堂を出て、北側濡れ縁の木組みや木彫なども観察した。
    

 修理工事中で入れないエリアの北側本堂寄りに、七不思議の一つ「三葉の松」も望まれ
た。
     

 本堂屋根下の四つ角上部には「屋根を支える猿」の木彫があるようだが、確認はできな
かった。

 平成10(1998)年度から約23か年計画で境内の建造物は保存修理中。修理を終
えた本堂以外の建物は覆屋(おおいや)の中なので拝観はできない。


 13時近くに勝興寺山門を出た。手前の大伴家持立像のある小スペースにベンチがあっ
たので、買ってきた弁当を広げて昼食とする。

 昼食後、細道を北側の台地下に下り、伏木小そばの車道を西北へと緩斜面を上がり、国
道415号を横断する。さらに400mほどで高岡市万葉歴史館に着いた。

 高岡市は奈良、飛鳥と並ぶ万葉の故地とのこと。それは、万葉集の代表的歌人である大
伴家持が国守として伏木の地に5年間在住し、多くの歌を残したことに由来する。


 大伴家持により越中で詠まれた歌は220余首、さらにゆかりのある歌を加えると337
首にのぼるという。そのうちの3首を紹介しよう。

  東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉(なご)の海人(あま)の
          釣する小舟(をぶね) 漕(こ)ぎ隠る見ゆ(巻十七・4017)

  あしひきの 山の木末(こぬれ)の 寄生(はよ)取りて
          かざしつらくは 千年寿(ちとせほ)くとそ(巻十八・4136)

  立山(たちやま)に 降り置ける雪を 常夏(とこなつ)に             
         見れども飽(あ)かず 神(かむ)からならし(巻十七・4001)

       
 正面入口には大伴家持・坂上大嬢夫婦像が並び立つ。入館して常設展示室から企画展示
室へと順次観覧する(観覧料210円・65歳以上160円)。


 常設展示室は「万葉集とは」「越中万葉とは」というテーマで、万葉集の歌や百人一首
画などが展示され、展示室の周囲は四季の庭に囲まれていて、企画展示室への回廊の両側
には池がある。
    



 企画展示室では第6回企画展「越中国と万葉集」を開催中で、「越中国大友家持」「前
田家と万葉集」「近代歌人の越中万葉」などのパネル、越中国印、越中国大地ジオラマ、
大友家持の朝服、難波津木簡、遣唐使船模型などが展示されていた。






 次の小さな特別展示室では、「大伴家持のすがた」と呼ぶ春の特別企画展を開催中。歌
仙絵から現代洋画まで、館蔵品を中心の展示である。


 その先から外に出て、斜面に造られた自然庭園にも回る。

 新緑がいっぱいでこの辺は晴れているが、東側に広がる黒雲がちょっと心配。14時40
分頃万葉歴史館を出た。


 往路を伏木小の南まで戻りさらに東へ。JR氷見線の踏切手前で右折して南側の高台に
上がると、伏木北前船(きたまえぶね)資料館があったので入館する(入館料210円、
65歳以上160円)。

 この資料館は、江戸時代から回船問屋を営んできた旧秋本家の邸宅。大きな家の部屋数
は16室あり、奥には江戸時代後期に建てられたという土蔵もある。

 伏木は古代から知られた日本海屈指の良港で、18世紀には自ら渡海船を持ち公益業を
営む有力な船問屋が台頭し、大阪から瀬戸内海、下関を経て日本海側を北は蝦夷の松前ま
で、各港で海積みした商品を売りさばいたとのこと。

 秋本家は、文化年間(1804~18)以前からここで海運業を家業とした旧家という。


 館内の各部屋を回り、北前船の航海用具、船主の生活用具や衣装、歴史資料や写真など
の展示を見た。





 奥の土蔵の1階にも北前船に関する展示があり、2階の屋根裏に設けられた望楼は港へ
の船の出入りを見張るためのもの。細い急階段を上がると、伏木港や伏木の家並みなどが
望まれた。






 資料館になっている旧秋本家住宅は、高岡市指定有形文化財(建造物)である。


 近くのゴミ入れには、万葉集で大友家持により唯一詠まれた堅香子(かたかご)の花
(現在のカタクリ)がデザインされている。


 もののふの 八十娘子(やそおとめ)らが 汲み乱(まが)ふ
          寺井(てらい)の上(うへ)の 堅香子の花(巻十九・4143)

 ちなみに「高岡市の花」は、かたかご(カタクリ)である。

 また、その先の大きな民家は、小説家・評論家として知られた堀田善衛(ほったよしえ)
(1918~98)氏の生家ではないかと思われた。

 帰宅後調べてみたら、生家は伏木港の廻船問屋と分かり、間違いなさそう。

 15時40分過ぎにJR伏木駅に戻り、観光案内所で預けた荷物を受け取る。
       


 16時24分発JR氷見線上り高岡行列車に乗る。高岡駅からは17時01分発IRい
しかわ鉄道(旧北陸本線)で金沢駅に17時42分に着いた。

          
 駅構内にあった金澤旬料理「駅の蔵」という店で夕食を済ませ、東口の駅から数分にあ
るビジネスホテルに19時過ぎに入る。

(天気 曇後晴、距離 3㎞、地図(1/2.5万) 伏木、歩行地 富山県高岡市) 




国内ランキング



にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村


コメント

宮古諸島・八重山諸島10島めぐり④ 小浜島から石垣島に戻り帰路へ(沖縄)

2018-03-18 18:46:47 | 国内旅行
 2018年2月22日(木)

 == 小浜島から石垣島に戻って観光後、羽田空港へ ==

 小浜島(こはまじま)のホテル「はいむるぶし」にて6時30分起床予定だったが、目
覚ましの設定を間違えて7時過ぎに起床した。急ぎ支度をして7時30分近くレストラン
に入り朝食をして、8時15分のホテル出発に何とか間に合う。メンバーの皆さんに迷惑
をかけずに済みホッとする。


 小雨模様のホテルをバスで出て、小浜港8時30分発の八重山観光フェリーに乗り、9
時08分に石垣島の南西端にある石垣港に戻る。雨は止んでいた。


 石垣島は、沖縄県で沖縄本島、西表島に次ぐ3番目に大きな島。石垣市は日本最南端の
市で、東京から2,252㎞、福岡から1,447㎞、那覇から420㎞離れているが、台
湾からはわずか277㎞とか。

 ハワイのホノルルとほぼ同緯度で、年平均気温は23.8℃の亜熱帯の島。八重山群島
(石垣島、西表島、与那国島など)の人口の90%が集中し、経済、行政、交通の中心地
で、人口は48,300人余り、面積228.9㎢、周囲162.2㎞という。


 9時24分に観光用のイーグルバスに乗り、最後の観光地である石垣島の中央部北西側
の川平(かびら)湾に向かう。川平湾近くの駐車場に9時50分頃着いた。


 川平公園の林間を少し進むと川平湾が見下ろせる。川平湾は、国蝶真珠の養殖で知られ
る石垣島随一の観光地で、全国でも8つしかない国指定名勝地に沖縄県で唯一選ばれてい
るようだ。


 急坂を少し下って白砂の砂浜に出て、観光用グラスボート「ぐるくん1号」に乗る。

 船の中央部のグラス面から海中が見下ろせるようになっていて、透明で浅い海中の様子
が眺められる。


    
 船長さんは見どころに行くと止めてくれて、のぞいていると熱帯魚が何匹も横切り、サ
ンゴもたくさん見られる。一瞬だが、大きなカメの通過も確認した。


    

        

    


 湾の中を30分前後回遊して10時32分頃船を下りた。





 駐車場近くにある「島の駅カビラガーデン」と呼ぶ土産店に入り、最後の買い物をする。
    





店内には、世界一大きいというシャコ貝が展示されていた。


 10時55分にカビラガーデンを後にして島の東部南よりの石垣空港に向かい、空港に
は11時30分に着いた。

 12時25分までに保安検査場を通過することになり、それまではフリータイム。空港
内の海鮮・島料理「源」という店で昼食を済ませて保安検査を受け、待合室で待機する。


    






 12時45分発羽田空港行きANA90便は、往路と同じB867-300型機
(270人乗り)でかなりの空席があり、12時50分に石垣空港を離陸した。
    





 途中揺れもなく順調に飛行し、到着予定時刻15時20分より20分余り早い14時
58分に羽田空港に着いた。

 20℃前後の亜熱帯の石垣島から戻った羽田の気温は真冬並みの3℃とか。小雨模様で
ある。

 15時35分発所沢駅東口行きの高速バスに乗り帰路につく。だが空港を出てすぐ渋滞
となり、しばらくはのろのろ状態が続く。所沢駅東口には、予定の17時20分より1時
間遅れの18時22分に着いた。 

                 (歩数 石垣空港保安検査前まで3,900) 【完】




国内ランキング



にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村
コメント (2)

宮古諸島・八重山諸島10島めぐり③ 西表島、由布島、竹富島、小浜島(沖縄)

2018-03-17 17:39:24 | 国内旅行
 2018年2月21日(水)

 石垣島の南西部にあるグランヴィリオリゾート石垣島ヴィラガーデンで5時30分に起
床し、6時30分からレストランでバイキング朝食を済ませる。


 乗り合い形式のバスで8時13分にホテルを後にして、南東側すぐ近くの石垣港に8時
21分に着いた。


 今日は、フェリーで西方にある石垣島より大きい西表島(いりおもてじま)に行き、東
側に近接した小島・由布島(ゆぶじま)へ水牛車で往復し、昼食後にジャングルクルーズ
をして、西表島南西の大原港から東側、石垣島に近い竹富島(たけとみじま)を観光、さ
らにフェリーで宿泊地の小浜島(こはまじま)へという行程である。



 石垣港8時40分発の八重山観光フェリー「ちゅらさん」号は、エンジン音を響かせて
小雨模様の海上を西進する。



 途中で南側の黒島などが望まれ、西表島の南端にある大原港に9時30分に着いた。天
気は曇天である


 西表島は、人口2,300人余り、面積は289.27㎞で沖縄本島に次いで大きな島。
島のほとんどを山岳が占め、その90%以上が熱帯、亜熱帯の原生林に覆われているとの
こと。気候は亜熱帯というより熱帯に近く、降雨量は年平均2,600mm以上で熱帯雨林
の様相を見せているという。

 ジャングルにはイリオモテヤマネコ、カンムリワシ、セマルハコガメ、ヤエヤマヤシ、
サキシマスオウノキなど世界的に珍しい動植物が生息している。


 迎えに来ていた西表島交通のバスに乗り、9時40分に大原港を出た。バスは10分で
土産店「ショップ西表島」に着き、9時50分まで買い物タイムに。



 店内には、黒糖や泡盛「いりおもて」、たくさんのイリオモテヤマネコのぬいぐるみな
どが目についた。
    

 バスは島の東岸沿いを北に向かう。もう田植えの済んで田んぼもあり、木々の茂る小島
の転々する湾なども望まれた。



 10時11分に島の東端に近い由布島入口の美原に着き、10数台待機していた水牛車
のうちの2台に分乗する。



 私たちの乗ったのは「海(カイ)くん」という名の17歳の水牛で、乗務員は高嶺 力
さん。向こうに見える由布島に向かって、ゆっくりと移動を開始した。


       

    
 高嶺さんはユーモラスな口調で水牛のことなど説明したり、蛇皮線を弾きながら沖縄民
謡「安里屋ユンタ」を歌ってくれる。「アンコール!」の声に応えてさらに「花」も歌っ
てくれたが、終わらぬ10時33分に由布島に着いた。


 由布島は、人口22名、面積0.15㎢、周囲2.15㎞という小島で、海抜は1.5
mしかないとか。かつて竹富島や黒島からの移住者が対岸の竹富島での稲作で暮らしてお
り、その頃農耕用として活躍したのが水牛で、昭和7(1932)年頃台湾からの開拓移
民ともに石垣島に渡ってきたとのこと。

 昭和44(1969)年のエルシー台風で、大被害を受けた島のほとんどの人たちは対
岸の西表島美原地区に移り住み、西原正治おじい夫妻のみが島に残り、「島をパラダイス
ガーデンへ」のロマンを描きながら1頭の水牛で土や堆肥を運んでヤシや花を植え続け、
手造りの楽園を造り上げたという。

 現在、由布島にいる水牛はアジア水牛が40頭余りで、1頭ずつに名前がついていて、
食事は1日朝夕の2回とか。水牛車を引くには生後2~3年から調教を始め、早い水牛は
半年から1年でお客様を乗せて引けるるようになるという。

 水牛の体重は600㎏前後で、水牛車には16人前後、約2トンの重量を引くとか。寿
命は約30年で、水牛車を引くのは15~20年くらいのようだ。


 幾つもの水牛車で次々に上陸した観光客は、そばの水牛車待合所の建物に入りグループ
ごとに由布島水牛家系図などの説明を受ける。その後ガイドの案内で島の観光となった。


 ヤシの並ぶ周遊路を進むと「水牛之碑」がある。
    


 その先では水牛車の牛と一緒の記念撮影、さらにペアやグループごとの記念撮影と続き、
少し先の小屋ではなんと撮影した写真がもうプリントされていて、希望者はその場で購入
できる(1枚1,300円)。


 昔の水牛車の復元模型の横を過ぎ、温室になっている蝶々園に入る。

    
 数々のブーゲンビリアなど熱帯の華麗な花が咲き、バナナが花と実をつけ、スターフル
ーツも熟した実を見せる。
     

        



      

    
 国内が冬の時期だけ暖かいこちらに飛来するというアサギマダラ↑も見られた。


 池の横を回って水牛車待合所に戻り、店内の土産物や水牛の家系図なども眺める。




 待合所のそばには水牛の池があり、待機中の水牛や仔牛が体を休めていた。



 11時15分に待合所に集合して、再び水牛車に乗って西表島に戻る。帰りの水牛は7
歳の元気君。乗務員は名乗らなかったが、三重県鈴鹿市の出身でホンダの社員時代には水
牛のいる東南アジア2国に勤務したというが、なぜこの仕事に就いたかは聞き漏らした。

 11時30分頃対岸の西表島美原に戻り、バスは雨の中を東岸沿いを北へ、最東端の野
原崎を回り高那地区の「レストランたかな」に11時50分に入る。
 
 昼食は西表膳と呼ぶもの。地元の野菜、畜産物、海産物、西表そばや古代米などの膳を
おいしくいただいた。
    


 雨は止まず12時30分にレストランを出て、バスは東岸の往路を南下して戻り、大原
港に13時05分頃着いた。

     
 ちなみに、港に近い大原郵便局のそばの大原交差点の交通信号は、日本最南端の信号機
だという。


 大原港から13時発の仲間川マングローブクルーズ船に乗り、13時09分に出港した。

 クルーズ船はワンマンで、若い船長が操舵機を握りながらガイドも兼ねている。船は北
に回ってバスで戻った橋の下を通過して仲間川に入る。



 原始の姿をそのまま残す仲間川は、全長約17.5㎞、河口から10㎞までは海水の混
じる汽水域とのこと。マングローブ林の広さは約200㏊あり、日本最大級の規模を誇る
という。

 雨に濡れてしっとりしたマングロープ林が続き、船長は見所に来ると船を止めて説明し
てくれる。
     
     
 出港した頃は雨だったが途中から止み、見にくかった船の横を覆った雨よけのシートを
外したので、マングローブもよく見えるようになった。




 中ほどではかなり川幅が広がり、左にカーブして次第に狭まる。船長は最近、イリオモ
テヤマネコがこの川で泳ぐのを目撃したという。

 クルーズコースの最奥にある船着き場に13時45分頃着き、遊歩道を少し進むと巨大
なサキシマスオウノキが立っていた。平成12(2000)年に「森の巨人たち百選」に
選ばれた、全国でも珍しい巨樹・巨木のひとつ。
     


 幹回り3.6m、樹高20mあり、樹齢は約400年と推定されるという。大きな昆布
のような根元は板根と呼ぶらしい。
     


 クルーズ船に戻り、13時53分に往路を戻ることになる。帰路でも往路は通過したと
ころで停止して、説明をしてくれるところもあった。14時05分に大原港に戻る。



 西表島の観光を終え、大原港発14時30分のフェリー「ちゅらさん」号に乗り、今回
の旅での最西端の西表島を後にした。船中再び雨となり、海もかなり波立っている。

 船は朝出た石垣島方向に向かい、石垣島のすぐ西にある竹富島の北東側にある竹富東港
に15時15分頃着く。幸いに雨は上がっていた。

 竹富島は石垣島の南西6㎞余り、面積5.42㎢、周囲9.2㎞で、人口は約350名
とか。琉球石灰岩からなる島なので水に乏しく、水道と電気は石垣島から供給されており、
赤瓦屋根の家並みや白砂の道など、古き良き沖縄の姿とを残しているという。

 島内にあるATMは郵便局のひとつだけ、小中学校も1校のみで、信号機はないらしい。

 竹富島の観光は、竹富島交通の2台のマイクロバスに分乗して回ることになり、18号
車に乗る。バスは島の反対側、南西部にある遠浅の白い砂浜の海水浴場、コンドイビーチ
を車中から眺めた後、少し南の「星砂の浜」とも呼ばれる皆治浜(かいじはま)に15時
30分に着いた。

 ここでは、砂浜の湿った砂に指をつけると、くっついた砂の中に星の形をした小さな砂
が見つけられる。星砂は、海藻などに付着した有孔虫「ホシズナ」の遺骸が砂浜に打ち上
げられたものとか。10分前後の時間だったが10個前後見つかった。


 マイクロバスは島の北側中央部に15時52分に着き、沖縄県で初めて国の重要伝統的
建造物群保存地区に選定されている、竹富古民家集落を散策することにした。

 東に進むと神社のある広場に「世持御嶽(ユームチウタキ)」の説明板がある。

 琉球王朝時代の村番所跡で、竹富村誕生の大正3(1914)年から昭和13(1938)
年まで村役場があり、その跡地に火の神と農耕の神を祭ったのが世持御嶽だという。


 次の十字路際に「たけとみ民芸館」があるが、フリータイムが短いので入館は省く。


 石垣の塀が続きブーゲンビリアの咲く民家横などを進んだ3本目の交差点際には、島で
唯一という自動販売機が2台並んでいた。




 北側の通りからは観光用水牛車が近づく。


     
 西に折れて少し先の高台に、「なごみの塔」と呼ぶ竹富島最高点の展望台があり、そば
まで上がると国の重要伝統的建物群保存地区に指定された家並みが見下ろせる。




 眼下の民家には、オレンジ色の見たことのない花が咲いていた。
    

 近くのマンホールは、シンプルなデザイン。


 16時20分にマイクロバスに乗って竹富港に戻り、16時45分発小浜港行きのフェ
リー「サザンクロス5号」に乗る。


 フェリーは西北に進み、石垣島と西表島の間、西表島に近い小浜島(こはまじま)の東
岸、小浜港に17時15分に着いた。


 迎えのバスに乗り、島の南東部にある今日の宿「はいむるぶし」に17時25分に入る。

 小浜島は面積7.86㎢、周囲16.6㎞で、人口は約740名、サトウキビ畑と牧草
地が広がり、NHKの朝ドラ「ちゅらさん」で知られ、島の中央にある標高99mの大岳
(うふだき)に上ると、与那国島を除く8つの島が見えるという。

                               (歩数 9,500)




国内ランキング


にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村
コメント

宮古諸島・八重山諸島10島めぐり② 来間島、伊良部島、下地島と宮古島(沖縄)

2018-03-09 21:58:47 | 国内旅行
 2018年2月20日(火) 
 == 宮古島から来間島、伊良部島、下地島をめぐり宮古空港から石垣空港へ ==

 宮古島西南部の宮古島東急ホテル&リゾーツで5時半に起床した。今日も晴天である。
6時半からホテルのレストランで朝食をして、昨日と同じ中央バスに乗り8時にホテルを
出発した。


 今日は、午前中に宮古島の西側に近接する3つの島、来間島(くりまじま)、伊良部島
(いらぶじま)、下地島(しもじじま)を回り、午後は石垣島内の観光である。

 最初の来間島は宮古島の南西部にあり、東急ホテルの南側すく近くから来間大橋で結ば
れている。橋は昨日の池間島より少し長い1,690mの農道橋で、完成は1995年3
月、農道橋としては日本最長という。

 来間島は面積約2.8㎢、周囲約9㎞、人口は200人前後で、大半は移住者とか、産
業はサトウキビ栽培と肉牛飼育などで、ひとつの集落があるほかはほぼサトウキビ畑だと
いう。

 昨日の池間大橋と同様に中央部が高い橋で島に入り、橋の近くにある来間東農村公園の
駐車場に8時17分に着いた。

 園内の遠見台と呼ぶ展望台に上がり、渡ってきた来間大橋や眼下の漁港、対岸の宮古島
のビルなどを一望する。






 公園に飾られていたシーサー



 8時30分にバスに乗り、来間大橋から宮古島に戻ってサトウキビの茂る西岸を北進し
て、島の中西部から西側に近接する伊良部島へ伊良部大橋で渡る。

 伊良部大橋の全長は3,540m、無料で通行できる橋としては日本一の長さとのこと。
構想から40年余り、建設に9年を費やして2015年1月に開通したという。

 伊良部大橋は、緩やかなカーブの2つの上り下りを繰り返して島に入った。橋の最高部
は海面上33mあるという。


 伊良部島は面積約29㎢、周囲約26㎞、人口は約6,200人の隆起サンゴ礁の島で、
全体が平坦な地形で最高点は標高89mとのこと。島の西側に下地島が接していて、両島
の間は幅わずか40m~100mの入江が約3㎞続き、幅狭いので地図や航空写真ではあ
たかも間に川が流れているように見える。


 伊良部大橋で島の南東側に入り、西側に回って中央部よりやや北にある佐和田の浜に9
時5分に着いた。「日本の渚百選」に選ばれた遠浅の浜で、無数の岩が点々と並ぶ独特の
景観を見せている。



 これは、石垣島の近海で明和8(1771)年4月24日の大地震により発生した80m
を越えるという巨大な津波が宮古島や伊良部島を襲い、いくつかの集落が海に飲み込まれ、
犠牲者も多く出たようだが、その際、海底にあった岩が津波とともに浜に打ち上げられて、
このような姿を残しているのだという。

 5分ほど見てバスに乗り、少し戻って川のような細い入江の橋を渡って西に接する下地
島に入ると、間もなく下地島空港沿いを北上する。

 下地島空港は、国内唯一のパイロット訓練場としてつくられたとか。かつてはJALや
ANAのパイロット研修場として利用されていたようだが、現在はLCCの訓練のみが行
われているという。現在民間空港としては使われてないが、近く5路線が就航する予定の
よう。

 ちなみに、訓練用として民間用空港としては珍しい計器着陸装置(ILS)を両端に備
え、滑走路も3,000m×60mあり、規模は東京国際空港(羽田)や成田国際空港にも
引けを取らないという。

 滑走路の先が海に突き出た北端に回ってバスを降り、短い時間に金網に囲まれた空港内
を一望した。

 空港の管制塔↑と滑走路北側の誘導灯の並ぶ橋↓。


 9時25分に空港北端を出発し、西側から滑走路沿いを南下して空港の中間点付近の西
側海岸にある通り池と呼ぶところの駐車場に5分ほどで着いた。

 バスを降りてうっそうと茂る木々の間を少し進むと開けた一帯に木道が延びていて、岩
の間に濃紺の水をたたえた2つの大きな池がある。

 2つの池は互いに下部でつながっていて、さらに外海とは地下水路で結ばれているよう
で、外海からは高さ約45m、幅約20mの巨大なトンネルを通って池に入ることができ
るという。

 人魚伝説の残る神秘的なダイビングスポットとしても知られているようで、国の名勝及
び天然記念物(地質)に指定されているとか。




       
 周辺には、特有の花を見せるアザミや肉厚の葉を持つ花などが咲いていた。
    



 空港のレーダーも間近に望まれた。


 通り池の駐車場をバスは9時55分に出発し、空港の南側から東進して細い入江の南端
の橋を渡って伊良部島に戻り、すぐ南側の瀬口の浜で降りた。

 浜は伊良部島を代表するビーチで、長さ約850m、幅約50mにわたりきめ細かで真
っ白な砂浜が大きく弧を描いて広がっていた。


 浜の西側は低い岩礁で、手前の堤防からは透明な海底が望まれる。


 そばにある伊島観光サービスと呼ぶ土産店に入って土産物を求めたりして、10時40
分に出発した。


 県道204号線と252号線を東進して伊良部大橋際に11時44分で着き、11時ま
で小休止して早すぎる昼食の食堂までの時間調整タイムとなる。



 橋の下をくぐる歩道で反対側に回ると橋の名が記されていて、傍らにこの橋が「全日本
建設技術協会 全建賞」と「土木学会田中賞」を受賞した理由などを記したプレートもあ
った。



 橋の近くには、伊良部中学校の同窓会の案内幕や、その先の三差路に立つ「宮古島まも
る君」と呼ぶ警察官型人形が見えた。


 ちなみに、宮古島まもる君は宮古島警察署管内に19基設置されているようで、車中か
ら通過する宮古島内の交差点で幾つか確認できた。


 伊良部大橋を渡って宮古島に戻り、西海岸の「バイナガマビーチ」と呼ぶ海水浴場に面
した「海鮮悟空」という海鮮料理の店に11時30分に入り、新鮮な海鮮料理の昼食に。






    


 店内にはたくさんの貝殻や、大きなニシキエビなどが展示されていた。
       

 12時20分に海鮮悟空を出て、バスは島の南部を東進して宮古島の東南端に伸びた細
い岬の先端の東平安名崎(ひがしへんなざき)13時に着く。

 岬は長さ約2㎞、幅約160m、高さ約20mの半島で、太平洋と東シナ海に面してお
り、隆起サンゴ礁の石灰岩から成っている。


 東シナ海に面した岬の北西端に下ると保良漁港で、漁港の外側には伊良部島の佐和田の
浜のような明和の大地震によると思われる大岩が点々と海中に見られた。





 岬一帯は、潮風などの厳しい環境によく適応した特殊な植生と分布の限られた植物が生
育する貴重なところ。テンノウウメやミズガンピ、コウライシバ、ハマホッス、アダン、
イソマツなどが中心の風衝地特有の植物群落は県の天然記念物に指定され、岬は国の名勝
や日本の都市公園百選にも指定されている。


 岬の先端には内部を見学できる平安名埼灯台があるが、工事中のため灯台への道路は閉
ざされていた。駐車場近くの展望台からは、岬の両側の断崖や累々と海中に並ぶ岩片、平
安名埼灯台などが望まれた。


 13時30分に東平安名崎を出発して島の南端部を西進し、中ほどのイムギャーマリン
ガーデン(Ingya Marine Garden)に14時05分に着いた。イムとは沖縄語で海、ギャー
は囲われた湧き水とのこと。



 変化に富んだ海岸線や入江を利用した海浜公園で、入江を巡る遊歩道や展望台があり、
市民の憩いの場になっているという。急斜面上の展望台まで上がる人はいなかったが、遊
歩道を巡って透明なサンゴ礁の海や岩礁に生育する植物群などを眺めた。


     
 路傍には、パインアップルに似た実のついたタコノキが何本か見られ、全日本宮古島ト
ライアスロンのプレートもある。


           


 ここで宮古島観光を終え、バスは14時30分に出発して西へ、城造りのような建物の
見える「うえのドイツ文化村」↑のそばを通過して少し先から北進し、14時46分に宮
古空港に着いた。

 空港内の売店を眺めたりして1時間余りを過ごしたが、搭乗予定の15時55分発石垣
空港行きは、那覇からの飛行機の到着が遅れて3回ほど出発時刻の変更があり、17時
10分発となった。


    


 石垣空港ANA1791便のB737-800型機(166人乗り)は17時22分に
離陸した。かなりの空席がある。

 定刻での飛行時間は35分になっていたが、わずか19分後の17時41分には石垣空
港に着いた。でも定刻の16時30分より1時間10分余りの遅れとなり、おわびとして
ANAからピン札千円入りの封筒をもらう。


 

 迎えに来ていたイーグル観光のバスに乗り、18時02分に石垣空港を出発した。石垣
空港は島の南東部にあり、今日の宿は南西部の海に面している。

 島の南側を西進して、宿泊するグランヴィリオリゾート石垣島ヴィラガーデンに18時
32分に到着した。                     (歩数 11,800)




国内ランキング



にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村
コメント

宮古諸島・八重山諸島10島めぐり① 宮古島と池間島(沖縄)

2018-03-02 17:36:29 | 国内旅行
 首都圏は真冬並みの寒さの続く2月19日(月)~22日(木)、『[60歳以上のご
参加限定]宮古諸島・八重山諸島まるごと10島めぐり4日間』という阪急交通社トラピ
ックス企画によるツアーに参加した。

 第1日 2018年2月19日(月)
 == 羽田空港から宮古空港に飛び池間島へ ==

 自宅を6時55分に出て、隣の所沢駅東口から7時40分発の高速バスに乗り、車中で
西所沢駅構内の売店で買ってきたおにぎり弁当を食べる。ラッシュ時の道路渋滞で少し遅
れたが羽田空港第2ターミナルに9時50分頃に着いた。

 第2ターミナル2階の全日空3番カウンターの阪急交通社受付カウンターで受付を済ま
せる。添乗員は現地宮古空港で待っているという。


 11時40分発宮古空港行きANA87便のB867-300型機(270人乗り)は、
12時09分に離陸した。機内はほぼ満席である。




 晴天だが真ん中の席だったので外の様子は見えない。羽田空港~宮古空港間の空路距離
は約1,830㎞あるよう。

 予定より5分早い14時55分に宮古空港に着陸した。宮古地方は快晴で気温は24℃
とのこと。到着したロビーでは、貝殻でつくった2つのシーサーが並んで迎えてくれた。
    


 出迎えてくれた添乗員の岩崎智(さとる)さんとともに、今日明日利用する黄色いボデ
ィの中央バスに参加者26人が乗り、15時38分に宮古空港を出発した。


 ドライバーは宮里さんとのこと。すぐの交差点の向こうに、円形ドームの屋内競技場ら
しい建物が見えた。交差点を左折して県道243号に入り、最初の観光地池間島(いけま
じま)に向かう。



 宮古諸島は北緯24~25度、東経125~126度に位置し、沖縄本島の那覇市から
南西に約300㎞、東京からは約2,000㎞にあり、宮古島を中心に大小8つの有人島
(宮古島、池間島(いけまじま)、来間島(くりまじま)、伊良部島(いらぶじま)、下
地島(しもじじま)、大神島(おおがみじま)、多良間島(たらまじま)、水納島(みん
なじま)から構成され、このうち宮古島と伊良部島、池間島、来間島の3島とは橋で結ば
れている。

 宮古諸島の島々はおおむね平坦で低い台地状を呈し、一番高いところでも標高110m
余り、河川や池沼などはなく生活用水のほとんどは地下水に頼っているとか。琉球列島の
大きな島の中で宮古島は唯一ハブがいないとのこと。

 これは、標高が低いので過去の海進の時に水没し、それ以来ほかの島と陸続きになる機
会がなかったためといわれているようだ。

 宮古島の面積は約204.5㎢で大阪市よりやや小さく、沖縄県で4番目の大きさ。宮古
島市の人口は約5万4千人余りという。

 宮古空港は島の中西部にあり、池間島は島の北部の細い半島の先端から池間大橋で結ば
れている。橋に渡る前に、すぐ手前にある雪塩(ゆきしお)工場を見学することになり、
16時10分頃バスを降りた。


 建物の外で雪塩の製造工程の説明を受ける。それによれば、従来の製塩方法が海水を沸
かしたり天日干しなどで水分を蒸発させた後、にがりと塩の結晶を分離するのに対し、雪
塩では地下海水をくみ上げて琉球石灰岩と呼ぶ隆起サンゴ礁で濾過して濃縮装置で濃縮海
水と淡水とを分離し、濃縮海水を加熱して瞬時に水分を蒸発させるので、にがり成分も含
んだ粉末状の塩になり、まろやかで旨みのある味に仕上がるとのこと。

 雪塩にはパウダータイプと顆粒(かりゅう)タイプの製品があり、料理により使い分け
が必要だが成分は同じだという。


 その製造工程を見学するのかと思ったが、見学は無しで直売店に案内され、数々の製品
を購入するタイムだけだった。何点かの雪塩製品を購入後、外の売店で雪塩アイスクリー
ムを求めたが、滑らかでおいしかった。


 16時45分に雪塩工場を後にして、すぐ先で海にかかる長い池間大橋を渡って北西側
にある池間島に向かう。

 池間大橋は全長1,425mあり、総工費99億円をかけて1992年2月に開通した
とのこと。大型船の通過のために、中央部は少し高くなっている。



 橋の上からは、幾重かに変化するエメラルドグリーンのサンゴ礁が望まれた。


 池間島は、馬蹄形をした面積約2.83㎢、周囲10㎞ほどの小さな島で、人口は682
人、宮古島同様ハブはいないとのこと。島の周辺には干瀬(びじ)と呼ぶサンゴ礁群が散
在しているという。

 橋を渡って左手(西側)から北へ、光量200万カンデラで沖縄県で最大という池間灯
台を見ながら右手へと時計回りに一周して、15分ほどで橋際まで戻ってバスを降りた。



 そばの土産店の上にある展望台に上がり、池間大橋や東南東にある大神島。マリンブル
ーのサンゴ礁の海などを一望する。




 宮古島の西北端の細い岬、西平安名崎にある、風力発電用風車。


 大神島




 橋際には「真栄城徳松氏像」と記された胸像がある。
       
 真栄城氏は地元平良町西里の生まれで、町議、占領下の琉球立法院議員や平良市長など
を歴任し、宮古郡の先頭に立って産業や一周道路の推進、港湾・漁港の整備、上水道組合
の設立などに尽力され、中でも池間大橋構想実現の礎を築くなどして市郡発展に多大な尽
力をされたという。

 胸像の横には、池間大橋の構造体の一部も展示されていた。



 土産店をのぞいたりそれらを見たりして17時17分に島を後にした。再び池間大橋を
渡って宮古島に戻り、島の西側を南下して市街の中心部を抜け、島の南西部にある今日の
宿泊地、宮古島東急ホテル&リゾーツに18時ちょうどに到着した。


 部屋は受付のあるロビーとは別棟の8階で、東シナ海を望む展望が素晴らしく、明日一
番で行く来間大橋や来間島が見える。


 18時30分近くには、雲の切れ目から日没間近の夕日が望まれた。
  
                            
                               (歩数 8,100)




国内ランキング


にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村
コメント