あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

春の彼岸に京都と彦根へ③ 彦根城と玄宮楽々園、彦根城博物館〈後半〉(滋賀・彦根)

2024-05-13 13:31:19 | 国内旅行

  2024年3月23日(土) 〈後半:玄宮楽々園と彦根城博物館へ〉

 

 彦根城の観光を終えて東北側に下り、中ほどにある黒門券発売所横から内堀を渡る。

 

 橋の先の一帯が「玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)」。入口は少し右手なので、

そちらに向かう。

    

 

 少し先に「井伊直弼生誕地」標石がたち、そばに「槻(けやき)御殿」の説明パネルが。

 

 さらにすぐ先に「名勝・玄宮楽々園」の通路案内があり、それに従い11時30分頃、

まずは手前の楽々園へ。

 

 彦根城と彦根城跡のリーフレットから、楽々園について

 

 こちらが槻御殿の玄関↑のようだが、右手の竹垣のところから庭園に入り、開放された

屋なども外から眺めて庭園を一巡した。

 

 

 楽々園の観覧後、隣接する玄宮園へ入り、広い池の周りの周遊路を時計回りで一周する

ことに。

 楽々園と同じ、彦根城と彦根城跡のリーフレットからの玄宮園の説明

 

 中の島の見事な松

 

 かやぶき屋根の御殿も望まれる。

  

   

 

   南西側から望まれる彦根城の天守は、雨で少し霞んでいる。

   

 

   

 

 「鵬翔台(ほうしょうだい)」と呼ぶ建物。高台にあり、鳳凰が大空に向かって舞い上

がる場所、という意味で名付けられたと伝えられているという。

 

 

 ほぼ一巡して観覧を終え、正午過ぎに東南側の↓玄宮園東券売所の横から玄宮園を出た。

 

 内堀に沿って南へ、周辺のソメイヨシノはまだつぼみ。

 

 さらに進むと、二季咲桜と呼ぶ桜が雨に濡れて咲いている。

 

 内堀沿いには、間もなくの「桜まつり」のぼんぼりが設置されていた。

 

 内堀の南端付近から最初に城内に入った表御門橋を渡り、すぐ先の彦根城博物館へ。

   館の建物は、藩の政庁だった表御殿を復元したものだという。

   

           

               

 

 入口横にあった車、ナンバーは無いので移動範囲は城内だけのよう。

 

 館内では、代々彦根藩主だった井伊家に伝わった、“ほんもの”の美術工芸品や古文書な

どを収蔵・展示している。

       

 また、能舞台や江戸時代さながらに再建した藩主の居間、茶室や庭園も観覧できるよう

              

 

 撮影は自由なので、たくさん撮ったが、そのうちの目についた幾つかを。

 

 最初は「井伊直亮(なおあき)と茶の湯」のコーナー

 

  

 次は「武家の備え」コーナーへ。まずは「井伊の赤備え(あかそなえ)」

   

     

 

 「鬼神(きじん)の面」コーナーへ

     

 

 次は「幽玄の美」コーナー

     

 

 「数寄の世界」では茶道具などを

     

 

 その先に能舞台があった。

 寛政12(1800)年にこの場所に建てられた由緒ある舞台で、“彦根城能”や“彦根城

表御殿 夕涼み狂言の集い”などが開催されるという。

 

 「湖東焼」のコーナー

     

 

 一番奥は、江戸時代の表御殿奥向(おくむき)で、彦根藩の政務や公式行事を行う「表

(おもてむき)」と、藩主などが日常生活を営む「奥向(おくむき)」の空間からなり、

戸時代後期さながらに復元したという。

 最奥、藩主の居間である「御座之御間(ござのおんま)」から観賞できる庭園を眺める。 

 

   表御殿奥向から戻り、能舞台の先の展示へ。「雅楽の伝統」コーナーから。 

      

 

 さらに「風画のたのしみ」コーナーへ。

     

 

 「古文書が語る世界」のコーナー

 

 一巡したので入口に戻り、13時30分過ぎに彦根城博物館を退館した。

 

 表御門を出て往路を戻り、開国記念館横を通過して中堀の佐和口を渡る。中堀では、

船が通過した。

 

 いろは松を抜けたすぐ先、曲がり角にあった「十木泉」という店に入り、特製うどん

(800円)を注文して遅い昼食とする。うどんのほかに団子のサービスも。

 

 食事を終えたら14時を過ぎていた。

 

   あとは駅に向かうことにして石材店の前を通過する。雨は降り止まず寒い。

     

 

 14時30分過ぎ、JR彦根駅西口前に着いた。駅前には「ひこにゃん」デザインなど

のタクシーが。

 

      駅前広場の井伊直政公像も、冷たい雨に濡れている。

     

 

 JR東海道本線 彦根駅から、14時47分発の上り電車に乗り、次の米原駅には14時

53分に着いた。予定した東京行の東海道新幹線上り電車までは1時間余りあるので、途

中下車していったん改札を出た。

 

 コンコースには、米原市商工会が寄贈した市内の上丹生木彫組合制作の精巧な木彫が

られていた。

     

 

 改札で聞くと、東口の駅前に喫茶があるというので、そこで時間待ちすることに。

 

  

 東口↑は近年の開設のようで、新しい市役所庁舎↓はあるが周辺は閑散としている。

 

 市役所とは道路の反対側、カフェ「La Rouge」に入り、ゆっくりと時間待ちを。

 

 

 駅前に戻ったら、「米原湊跡」碑と帆船の模型があり、「慶長8(1603)年に琵琶

と入江内湖をむすんだ堀を開削して湊を開いた」ことなどが記されていた。

 

 駅に戻り新幹線乗り場からホームに上がると、もう乗車予定の15時57分発上りひか

り656号は発車しようとしていた。

 

 急ぎ最寄りのグリーン車のドアから乗り、なんとか間に合う。駅前の米原湊跡のパネル

などを見ていて、時間が迫っていたのを一瞬忘れていたのだった。

 

 降り止まぬ雨も箱根を越えて神奈川県に入る頃から回復し、小田原を過ぎたら大山(お

おやま)が姿を現した。

 

 18時12分に東京駅に着き、JR山手線の池袋経由西武池袋線へ。自宅には20時近

くに帰宅した。

 

 この日のアメダス彦根の記録では、12時台でも気温5.9℃という真冬並みだった。

                                    〈完〉

 

 

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春の彼岸に京都と彦根へ③ 彦根城と玄宮楽々園、彦根城博物館〈前半〉(滋賀・彦根)

2024-05-10 18:33:18 | 国内旅行

 2024年3月23日(土) 〈前半:彦根城へ〉

 

 JR東海道線 彦根駅東口近くの東横インで6時半頃起床した。

 外を見ると予報通りの冷たそうな雨で、近くの山も霞んでいる。日中の彦根の予想気温

5℃前後で、真冬並みのよう。

 

 9時前にチェックアウトして彦根駅へ。連絡通路のコインロッカーに荷物を預ける。

 

 一日中雨の予報だが、今日は彦根城、そばの玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)、

それに彦根城博物館を観光の予定。 (下図は彦根観光協会発行「おいしい ひこね旅 

DELICIOUS TRIP!!」から)

 

 連絡通路の西口側から見下ろす、駅前広場にある彦根藩初代藩主・井伊直政公像↑と

根城方面へ伸びる通り↓。突き当たりが彦根城だが、雨で霞んでいる。

 

  

       

 西口から彦根城に向かう通りへ。短いアーケードがあり、その終わった交差点の北西

側に、一昨日夜に食事をした「だいみょう かもん」が。

 

 さらに進むと右手は彦根市役所で、駐車場には彦根市のマスコットキャラクターの

「ひこにゃん」を描いた乗用車があった。

 

 構内にはこんな石像も。

 

 その先、通りの両側には石材店が幾つか目につき、大きな石像などが並ぶ。

 

 通りの突き当たりは滋賀県護国神社だが、参拝は省いた。

 

 ここ神社前を左折してすぐ、彦根城の中堀の角へ。

 

右折して中堀沿いに並ぶ「いろは松」の下を、彦根城に向かう。

  

 昔は47本あったので「いろは松」と呼ばれたよう。この松は土佐松で、地上に根を

り出さず人馬の往来の邪魔にならないので、わざわざ高知から移植されたのだという。

     

 

 松並木の終わる辺り、反対側に「井伊大老(直弼(なおすけ))歌碑」が立っていた。

     

 「あふみ(近江)の海 磯うつ浪の いく度(たび)か 御世(みよ)にこころを

 くだきぬかな」と刻まれ、安政7(1860)年正月に読んだもの。

 

 この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてき

と、幕府大老として国政に尽くしてきた心境をあらわしているという。

 

 井伊直弼は、この2か月後の3月3日に江戸城桜田門外で凶刃に倒れている。

 

 降り止まぬ冷たい雨の中、彦根城の佐和口が近づき、右手には城の北東側を囲む堀が。

 

 佐和口を右左折した右手には開国記念館があるが、寄らずに過ぎる。

 

  突き当たった内堀沿いを左へ進むと、天守閣らしいのが見えてきた。

  

 

 左手に、L字状に続くのは国重要文化財の馬屋(うまや)。開放されているので中に

り一巡した。

 

 すぐ先が城の表門橋で、橋際には今日「ひこにゃん」が来る時刻と場所のパネルが。

 

 橋を渡った先で入城券(彦根城・玄宮園・彦根城博物館のセット券(1,300円)を求

めて城内へ。

        

 上図は「国宝 彦根城天守 特別史跡 彦根城跡」リーフレットから

 

  まずは緩やかな斜面を上がって石垣の間などを進む。

  

 

  正面に国重要文化財の天秤櫓(てんびんやぐら)が。 

  

 

 琵琶湖が見えてきたが、雨で霞んでいる(家並みの向こう)。

 

 さらに緩やかな傾斜を上がって天秤櫓の近くへ。

 

 入るのは省き、雨に煙る周囲の山並みなどを望見する。

 

 すぐ先には時報鐘(じほうしょう)が。

 

 12代藩主の時代、弘化元(1844)年の鋳造で、現在は6時、9時、正午、15時、

18時の5回突いているようだ。

 

 太鼓門(国重要文化財)をくぐれば本丸の広場で、正面に彦根城天主が。

 

 

  

 国宝の天主は、関ヶ原合戦で耐え抜いた大津城から移築されたといわれ、慶長12年

(1607)頃の完成のよう。政治的象徴としての外観の美しさだけでなく、城本来の

能である軍事面でも優れているという。

 

 ちなみに、国宝の天主はほかに姫路城、松本城、犬山城それに松江城のあわせて5つ

み。私は松江城以外は訪れていて、彦根城も2度目になる。

 

     城内は急階段だが、最上階まで上がってみることに。

      

 

 途中階の一部では修理工事中のよう。

 

 幕末の彦根藩主、井伊直弼公像

     

 

 

 開放されていた窓から、西北側の野球場付近

 

 こちらは西側の琵琶湖畔周辺

 

 天秤櫓だろうか・・

 

 

     

 

 

 これから行く予定の玄宮楽々園

   

 

     最上階まで上がったので、順路に従い別の階段を下る。

          

     途中の階段は、この様な急傾斜、ほかもほぼ同様である。

 しっかりと、両手両足を使って慎重に下った。

 

 これから天主に上がる観光客

 

 天主を出て、本丸の中心に立つっている、まだ枯れ枝の桜など眺める。

 

 雨に濡れる芽吹き前の枝や紅梅

 

 次ぎに予定していた玄宮楽々園には、天主の左手から背後の東北側に回ってりる道が

ることが分かりり、そちらに向かう。

  

 

 天主の北側は南北に長い西の丸で、芝生地の上に桜などが植え込まれている。

 

 西の丸、北側からの天主は堂々とした構えを見せていた。

 

 そばにある城内地図では、玄宮楽々園へは井戸曲輪(くるわ)の北側から、黒門山道

呼ぶ緩やかな石段を北北東へと下るようになっている。

   

 

 急石垣の続く城壁を出て少し下ると井戸曲輪だが、その場所らしい窪みがあるだけで井

は残っていない。

 

  

 苔むす石垣を見上げながら、緩やかな石段の道を滑らぬよう注意してジグザクにって

黒門へ。

 

 こちらからの城への入場者のための「黒門券売所」を抜けて内堀を渡り、玄宮楽々園に向かう。 

                                    

                                              〈続く〉

 

 

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早春の東伊豆へ〈後半〉 稲取の雛のつるし飾りまつり(静岡・東伊豆町)

2024-03-04 17:37:41 | 国内旅行
 2024年2月22日(木)

 宿泊した伊豆稲取の伊東園ホテル稲取にて6時頃起床した。

 前夜半からのかなりの雨風はまだ治まらず、廊下の窓から見える木々はかなり揺れ動い
ている。気温の予報も10℃にはならず、温暖な東伊豆でも真冬並みである。

 温泉にさっと浸かった後、7時30分過ぎからバイキング朝食を済ます。


 朝食後、ホテルの玄関前からの稲取港や周辺の眺め。
i



 風雨はしばらくは止みそうにない。今日の観光は、宿から比較的近い「文化公園雛の館」
で開催中の「雛のつるし飾りまつり」のみにすることにした。
 
 ちなみに、稲取の「雛のつるし飾り」の風習は江戸時代後期の頃を発祥とする「稲取独
自の伝統の飾り物」で、起源は定かではないが、明治生まれのばあさんがこどもの頃から
つるし飾りがあったと言い、ゆうに百年を超える歴史があると思われるという。

 子や孫の成長を願うやさしい暖かい心を込めた稲取独自の風習で、女の子のすこやかな
成長を願って手作りされ、意味や決まりごとを守りながらこの町独自の和細工として現在
まで受け継がれており、伊豆稲取は「雛のつるし飾り発祥の地」といわれているようだ。

   
 なお、今年の「第27回 雛のつるし飾りまつり」は、1月20日(土)~3月31日
(日)まで開催され、展示会場は4カ所あるが、行こうとしている「文化公園雛の館」は
そのメイン会場のよう。
  

 この風雨では、歩いて行くと濡れてしまいそう。チェックアウト時にホテルで教えても
らったタクシー会社に電話したらすぐに来て、9時50分頃ホテルを後にした。

 文化公園はホテルからは西方にあるのだが、車道は東側の海岸線から北側の稲取港のそ
ばを回って反時計方向に迂回し、10分足らずで文化公園に着いた。


 公園の芝生広場にある河津桜は見ごろだが、冷たい雨に濡れている。

 
 10時頃、つるし飾り展示場「文化公園 雛の館」に入館した。

 入館料は500円だが、ホテルで求めた割引券(400円)で館内へ。

 まずは、正面に飾られた17段のジャンボひな壇とその周りに吊された6,409個と
いうつるし飾りを眺める。
  



     



     
 

 右手に回ると「端午のつるし飾り」が。5月の端午の節句に飾るもののよう。
     





     





     
     さらに正面の飾りの背後、壁面に沿って左へと順次眺める。








          

     








 つるし飾りといっても、さまざまな形があって見飽きない。


     



 次の間では、町内5つの旧家で大正4(1915)年から昭和中期にかけて制作された
つるし飾りが、江戸末期の古今雛の上に吊されていた。




     

 さらに進むと、「人形の月志」と呼ぶひな壇の周囲につるし飾りが。 


     

          



     

  その先の売店の入口周辺には、稲取とともに「日本三大つるし飾り」と言われている、
山形県酒田市の「傘福」と福岡県柳川市の「さげもん」と呼よぶつるし飾りがあった。


 傘福の下は、「鵜渡川原(うどがわら)人形」と呼ぶ土人形のお雛様。


     こちらが梁川の「さげもん」のよう。
     


 世界でたったひとつという「雛のデコつるし飾り」
     

          

          


     それら周辺にも、釣り師飾りや雛人形などが幾つも展示されていた。
     



     
 「金目鯛の鯛の鯛 つるし飾り」、稲取産金目鯛の胸鰭(むなびれ)の付け根の骨の一部
からとったもの。金目鯛1匹から1枚だけしか取れないという。
     
 地元では古くから「幸運に恵まれる」「お金が入ってくる」などの縁起物として財布に
入れる人が多いという。 
 
 観覧を終えたので最後に売店に入り、小物を2品だけ求めた(売店内は撮影禁止)。

 
 公園の河津桜をもう一度眺める。


 雨は止まないので今日の観光はここのみで終わりとし、下車した公園のタクシー乗り場
からもう一度電話してタクシーで伊豆稲取駅へ向かい、10時50分前に着いた。



 雨とはいえ、わが家の国内旅行でタクシー利用だけでその日の行程を終えたのは初めて。

 予定していた帰りの上り特急踊り子号は15時27分発だが、3時間早い12時26分
発踊り子8号に指定席券を変更してもらい、1時間余り駅で待つことに。


 駅前広場の一角は「江戸城築城石ふるさと広場」になっていて、江戸城の築城石をここ
稲取からも採取されて舟で運ばれたことを記したパネルや、切石の加工や運搬行程の分か
る切石が幾つか展示されていた。








 

 駅の改札前には、6日前の2月16日(金)にリニューアルしてプレオープンしたばか
りの「町のレセプション ようよう」と呼ぶ、観光案内や土産物などの販売、カフェ、ワー
クスペースのあるエリアがあった。

 入ってカフェで飲み物とケーキを求め、ワークスペースで時間待ちの休憩をする。






 乗車時間が近づいたので改札を入り上りホームへ。



 12時36分発踊り子8号に乗り、荒れる海を眺めたりしながら駅前の土産物店で求め
た握り飯やサンドイッチなどで昼食を済ます。

 
 14時225分に横浜駅で下車し、13時33分発宇都宮行き湘南新宿ラインに乗り換
えて池袋駅へ。西武池袋線の池袋駅から15時30分発特急電車に乗り、16時20分頃
帰宅した。


 ちなみに、気象庁のアメダスの記録によれば、観光をしていた頃の稲取の気温は7℃前
後、風速は9m前後という真冬並みの寒さだった。

 



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早春の東伊豆へ〈前半〉 冷雨に濡れる河津桜(静岡・河津町)

2024-03-01 17:21:27 | 国内旅行
 2024年2月21日(水)

 昨年もタイミングを逃して行き損ねた、伊豆半島 東伊豆の河津桜の花見に行くことに
した。

 1月後半の開花予想では今頃は見ごろのはずだったが、2月前半の暖冬続きで開花が早
まり、もうピークは過ぎたようだが近くの宿がとれず、雨の予報の2日間の旅となった。

 8時台の西武池袋線上り電車で池袋に出て、池袋駅から9時24分発JR湘南新宿ライ
ン国府津行きで横浜駅に10時05分に着き、10時24分発特急踊り子7号伊豆急下田
行きに乗る。

 雨ながらほぼ全車両満席のようで、乗車した3号車も満席だった。

 12時27分に雨の河津駅で下車した。駅構内は河津桜を見に来た観光客で賑わう。



 雨は小降りながら傘は要るくらいの降り。まずは駅前広場の河津桜を。

 この桜はちょうど見頃。


 高架になっている伊豆急線線路の東側沿いの河津桜をザッと眺め、ガード下を西に抜け
て町の幹線道路を観光交流館へ向かう。

 
 この沿道にも何本も河津桜があり、中には見ごろの木も。





 
 河津郵便局前の木も見ごろ。


 さらに進むと、「河津桜まつり本部」のある「河津桜観光交流館」が見えてきた。




 館の西側一帯は大型バスの駐車場で、各地から訪れた観光バスがいっぱい。


 我が市内ではおなじみの、埼玉西武ライオンズカラーの西武バスも。


     
 13時を過ぎたので、まずは2階の「オドリコキッチン」と呼ぶ飲食コーナーで昼食を
することにした。


 ルーローハンセット(1,250円)を注文して美味しくいただく。


 食堂前の河津桜は見ごろで、いっぱいの花が冷たい雨に濡れている。


 昼食を終えて1階に下り、物販コーナーをのぞいて見た。


 伊豆のおいしそうな特産品がたくさん並んでいたが、あまり重くないものを少しだけ求
めた。


 雨は小降りになり、傘を差さなくもよいくらいの感じ。桜並木の続く川沿いに行く前に、
さらに少し先にある川津来宮神社(かわづきのみやじんじゃ)の大クスを見に行くことに。

 駐車場の先は民家も少なくなり、訪ねる人も少ない細道を進む。


 温室で育てている「かわづカーネーション見本園」があるが、時間の余裕がないので入
園せずに先へ。


 その道路の突き当たりに、来宮神社の森が近づく。


     東向きの一の鳥居の横には、このような顕彰碑が。
     
   
 鳥居を入った左手にクスノキの古木があるが、これが目的の大楠ではない。奥の社殿の
左手背後に立っていることを知っているから。
     
 来宮神社に来たのは3度目。最初は東日本大震災のあった2011年11月11日、い
まは亡き「やまさん」こと山浦正昭さん企画の「国際ウオーキングトレイル実踏」という
ロングウオークに参加した際で、翌2012年の今日、2月21日(火)にも訪れた。

 でも、この大クスもかなりの年代の木のようで、根元には大きな空洞が出来ている。
     


 参道を挟んで大クスの北側には、見ごろで色も濃い河津桜が雨に濡れていた。




 境内の中ほどで二の鳥居をくぐれば、豊富な鎮守の森を背に拝殿が祭られている。



 まずは参拝してから、手前右手、北側にあるこの神社の由緒を。

 川津来宮神社は、正式には杉桙別命神社(すぎほこわけのみとじんじゃ)と呼び、和銅
年間(708~15)に再建され、延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)という
書物にも記された歴史ある古社であることなどが記されている。

 ちなみに延喜式神名帳とは、延長5(927年)にまとめられた『延喜式』という書物
のこと。当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧が記さていた。

 説明パネル横には「静岡来宮講」と刻まれた座像があるが、どのような人物かは不明。
     
 
     
 拝殿の背後、本殿の左手に立つのが国指定天然記念物の「杉鉾別命神社の大クス」で、
その根元から上まで、大きく枝を広げてどっしりと立つ巨樹に圧倒される。
     

           

     


 
 その左手に、摂社の山神社と秋葉山神社が合祀されていた。



 二の鳥居まで戻り、北側の山並みや再度度河津桜などを眺めて境内を後にした。


 このあと観光交流館のそばの駐車場際まで戻り、南下して河津川沿いの河津桜並木沿い
から駅方向に向かうことに。

 駐車場横を進むと、雨に濡れるユズらしい実がたくさん。



 河津川左岸近くには、幾つかの土産店が並んでいた。






 この辺り、左岸沿いの河津桜はまだかなり咲き残っていてナノハナも見頃。


     


 左岸沿いを駅方向に向かうと、ところどころにさまざまな土産物店や食堂などが並ぶ。










     

 








 河津川の流れは、雨で増水していた。



 観光交流館の南側まで進むと、笹原公園の一角に足湯があったので入り、冷えた足を温
める。





 笹原公園の河津桜

 
     
          木の下にある石はなんだろうか・・
          

     
  さらに川沿いを東へ、土産物店などは続くが次第に木は少なくなり、葉桜の木もある。
          











     



       


 伊豆急線の鉄橋近くまで戻った。河津桜の苗木専門店が。


 河津駅に向かう高架下西側の道路沿い。この道は進まずにガード下を東側へ。


 
 東側、高架下の河津桜の下にはナノハナが。河津桜はピークを過ぎた花が多い。




 15時50分頃、河津駅に戻った。


 今日回ったエリア、駅から反時計方向に一巡した。



 駅構内で少し時間を過ごし、16時26分発伊豆高原行き上り快速電車河津桜号に乗る。




 2駅目の伊豆稲取駅にて16時34分に下車した。稲取は、雛のつるし飾り発祥の地の
ようで、駅構内にもつるし飾りが。


 
 河津駅から連絡して予約していたホテルの送迎バスに乗り、ホテル伊東園稲取に16時
45頃着いた。


 ちょうど12年前の2012年2月21日、「やまさん」などと来たときには開花が遅
れていて、駅のそばの高架下で3本だけが咲いていたのだが、今回は直前の暖かさで開花
が進んでもう花は遅め、気候が相手なのでよいタイミングで訪れるのは難しい。                         
 



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新緑の越後路・下越へ③ 長岡と帰路(新潟・長岡・後半)

2023-07-12 20:59:26 | 国内旅行
 2023年5月25日(木) (長岡市内を観光後帰途へ・後半)

 山本五十六記念館を観覧し終えた後、ひとつ南側の通りには山本記念公園があるような
ので、回ってみた。山本五十六生誕の地で、生家・高野家が土地を市に寄贈したことで整
備されたよう。







     北側には胸像がある。
     


 胸像の原型はもとは全身像だったが、戦後、進駐軍に汚されるのを恐れて二分され、霞
ヶ浦(茨城県)に沈められたようだ。現在あるこの像は、その後湖底から引き上げられた
原形をもとに制作されたのだという。


 南側にあった生家は戦災で焼失したが後に復元され、無人だったが公開されていたので
入って各部屋を一巡する。




     


室内には、写真や書、自筆の手紙のコピーなど記念館で見たものも含めてかなりの展示が
あり、こちらでも貴重な記録を見るることが出来た。

            














     



     

          大きな胸像は、公園北側の胸像の原型のよう。
          


 園内にあった何本かのヤマボウシが花盛り。


     
 西側の通りを南下して長岡郵便局の角を左折して東へ、2つ目の交差点際にある今日最
後の目的地、「長岡戦災資料館」に入る(入館料無料)。






 長岡市は、昭和20年8月1日の午後10時26分から1時間40分にわたり、B29
大型爆撃機による焼夷弾投下で旧市街地の8割が焼け野原となり、1,486名の尊い命
が奪われたとか。

 当館は、数々の資料により当時の惨状と復興への軌跡を後世に伝えるために造られたよ
うだ。
     
     ここも撮影禁止なので、もらったリーフレットから展示物の一端を。


   長岡戦災資料館案内図
          

 1階の展示


    長岡市震災状況図
     


 空襲で時間が止まった懐中時計


 B29からの爆弾投下、右下は焼夷弾子弾


 炭化したそうめん


 太平洋戦争下の茶の間


     M26伝単(でんたん)投下用ケース
     

 模擬原子爆弾(パンプキン爆弾)模型


 焼け野原になった公会堂と安栄館(大手通り十字路付近)


 10分余りで観覧を終えた。時間は13時25分を過ぎたので、食事処を探しながら東
に向かう。
     
 すぐ近くに「グリルモン」という南イタリアのシチリア家庭料理の店を見つけた。
     




 空いていたので入り、スパゲッティ+コーヒーセット(2,080円)を注文する。

 美味しくて盛り付けも適量だったので満足した。


 戦災資料館前の交差点まで戻り、南下して次の大手通りとの交差点際へ。


 交差点の北東側は空き地になっていて、たくさんの草花が咲き競う。




 駅前から長岡市街の中心部を西に走る大手通りを東へ、駅に向かう。

 
 駅の近くまで戻って跨道橋からふり返る大手通り。

 今日回ったエリア



 15時前に長岡駅に入り、駅構内のお土産品街で土産物を幾つか求めた。


 コインロッカーの荷物を取り出して15時31分に新幹線改札を入る。



 15時39分発上越新幹線上りとき328号に乗る。下車する大宮駅までノンストップ
の列車だった。


 上越国境が近づき、東方には日本百名山で越後三山のひとつ越後駒ヶ岳(2002.7m)
と思われる残雪の山が。


 こちらは巻機山(まきはたやま・1967m )周辺のよう、やはり日本百名山である。


 越後駒ヶ岳には初秋に、巻機山には縦走や沢登り、尾根をたどるなど数回上ったことを
思い出す。いずれも1960年代のことである。

 1時間足らずの16時35分に大宮駅で下車した。

 大宮駅16時47分発の湘南新宿ライン逗子行き電車に乗る。乗車直前、隣線に停車中
の貨物用EH500型電気機関車。



 池袋駅に17時11分に着き、西武池袋駅発17時30分の特急ラビューちちぶ29号
に乗る。自宅には18時20分過ぎに帰宅した。                   〈完〉 




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新緑の越後路・下越へ③ 長岡(新潟・長岡・前半)

2023-07-10 22:17:51 | 国内旅行
 2023年5月25日(木) (長岡市内を観光後帰路へ・前半)

 宿泊した新潟駅前のビジネスホテルで6時前に起床した。7時30分頃から1階でのサ
ービス朝食をいただき、9時前にチェックアウトした。

 
 新潟駅の新幹線東改札を入り、9時30分発の上越新幹線上りとき314号の自由席に
乗る。



 市街地を過ぎると田園地帯に入り、西方には弥彦山をピークとする弥彦山塊の山並みが。
ちなみに、弥彦山の標高634mは東京スカイツリーの高さと同じ。


 燕三条駅を経て、9時51分に長岡駅で下車した。



 駅構内には、真夏の8月2日と3日に信濃川河畔で開催される、長岡市の大花火で打ち
上げられる大花火の大きな模型が。




 その先の観光案内所で、市内の見どころのリーフレットなどを入手した。



 構内のコインロッカーに今日も不要荷物を預け、西側の大手口へ。


     大手口の北側にも、2本の打揚花火の大筒が展示されている。
     

             
          新緑の街路樹の葉先から花が伸びていた。
          

 近くには、長岡出身の著名人のパネルも。



     駅前一帯は長岡城の本丸跡のようで、その石碑も立っている。
     

 駅の北側壁面には、「長岡今昔」と題する陶板レリーフが目につく。


     歩道に並ぶ鉢花の木桶(おけ)
     

 今日の長岡観光の目的地は、時間の関係で以下の3つとする。それは、「河井継之助記
念館」と「山本五十六記念館」、それに「長岡戦災資料館」で、いずれも駅からほど近い
ところにある。

 まずは線路沿いを北へ進み、大手口駐車場の北西側交差点を左折して、次の交差点際に
ある「河井継之助(かわいつぎのすけ)記念館」(入館料200円)に行く。


     

    



 河井継之助は、司馬遼太郎著「峠」で主人公として描かれた長岡藩家老で、幕末に西日
本各地を遊歴後、画期的な藩政改革や近代武装を断行し、諸藩が朝廷側か幕府側かで揺れ
る中で、独自の路線「武装中立」を目指したとか。

 しかし、小千谷会談で夢破れてやむなく新政府軍への徹底抗戦を決意し、長岡は北越戊
辰戦争の激戦地へと化していったという。 

     この記念館の場所は、河井継之助の屋敷跡に整備されたもののようだ。
     

 入口際だけ写真撮影が可能だったたので、それらを。まずはガトリング砲





 映画「峠-最後のサムライ」関連のパネル


     「風雲 蒼龍窟」と題する河井継之助像 
     

 さらに館内を一巡して、さまざまな改革を行って一人ひとりが個性と能力を発揮する豊
かな社会をつくろうとした、継之助の偉大な生涯の足取りを初めて認識した。

     以下はリーフレットから
     

          

             

              



 安政6(1859)年に西国遊歴した地域


 
 北側の庭の様子


     
 40分前後観覧して、受付にあった「戊辰・河井継之助ゆかりの地 ガイドブック」を
もらい、河井継之助記念館を出た。

 ガイドブックには、河井継之助が幕末を駆け抜けた地元長岡市や小千谷市、福島県の只
見町や会津若松市などゆかりの地の情報などが掲載されていて、それらをたどる旅もして
みたいが、現在の私の体力では もうかないそうにない。

 
 館前の通りを西へ、次の関東町交差点で広い通りを越えて、すぐ先にある「山本五十六
(やまもといそろく)記念館」へ(入館料500円)。


  

 館の前に、山本五十六が鎌倉在住の頃に買い求め、以後に育てたという「唐楓(トウカ
エデ)」がある。
     
 平成22(2010)年秋に、東京・南青山の旧山本邸から移植したという。

    

 山本五十六は、旧長岡藩士高野貞吉の6男として生まれ、市内の坂之上小、長岡中学校
を卒業後に海海軍兵学校に入り、その後旧長岡藩家老職の名家だった山本家を継いでいる。

 日独伊軍事同盟に断固反対したが、陸軍次官から連合艦隊司令長官となり、太平洋戦争
中の昭和18(1943)年4月18日、前線を視察中の搭乗機が南太平洋のブーゲンビ
ル島上空でアメリカ軍戦闘機に撃墜されて戦死し、元帥の称号を受けた。

 山本五十六元帥は同年6月5日に日比谷公園で国葬が行われたが、皇族・華族以外で国
葬に付された最初で戦前唯一の例だという。

 その国葬当日、私は埼玉県中央部の寒村に住む国民学校低学年児童のひとりで、校庭に
全校児童が整列して哀悼したことを覚えている。

     館内は撮影禁止なので、もらったリーフレットからその一端を。
        

 ワシントン議事堂前の山本  米国駐在大使館付武官


    パスポート
  
      
     

  

 ゆっくりと1時間余り観覧して山本五十六の生涯の足跡や生き様などを理解し、最後に
受付で半藤一利著「山本五十六」(平凡社ライブラリー・本体940円)を購入した。
         
       半藤さんも長岡中学校卒で、山本の後輩になるという。


     山本五十六記念館前の歩道や、近くに咲く花
     

                                    〈続く〉



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新緑の越後路・下越へ② 新発田その2(新潟・新発田・後半)

2023-07-08 11:09:53 | 国内旅行
 2023年5月24日(水) (新発田市内を観光後 新潟駅前へ・後半)

 新発田市役所を出て、さらに多くのシャッターが下りたアーケード街を緩やかに右カー
ブして西進する。


 カーブの先でふり返ったところ。


 通りには、りっぱな和風建築の建物も残っていた。


 市役所前から2つ目の信号の手前に、食事の出来そうなカフェを地図上に見つけていた
が、今日は定休日だった。


 その信号で右折して北へ、すぐ先のT字路際に、雰囲気のよさそうなカフェが目に付き
入ることに。
     


 店の名は「喫茶 2楽章」、その名のとおり店内にはクラシック音楽が流れ、テーブル
の横にはクラシック音楽の本が並んでいる。


     

 ランチセット(780円)も美味しくて量も高齢者にはほどよく、入って正解だった。


 ゆっくりとひとときを過ごし、13時30分過ぎに店を出た。バスの便は無さそうなの
で、連れ合いには少しきつい距離だがこの先も歩いて新発田城へ向かうことにして北東へ。

 通り沿いには、昭和の建物らしい平屋建ての住居が残っていた。


 信号のある三差路で左折して北へ、すぐ先の交差点近くには新発田市民文化会館が。



 その先北側一帯は「アイネスしばた」と呼ぶ駐車場と広い芝生広場で、防災あずまやや
防災倉庫、防災シェルターなども設けられていて、新発田市の防災拠点になっているよう。


 芝生広場の真ん中を抜けたた突き当たり一帯が新発田城で、南側の一部に堀が残り、ま
ず目に入ったのは旧二の丸隅櫓(にのまるすみやぐら)。


 新発田城の説明パネル



 堀に沿って東へ進んで表門前へ。この表門と旧二の丸隅櫓は国指定重要文化財である。




     表門から城内に入ると、正面に初代藩主の溝口秀勝公の立像がある。
     

 その近くで、ボランティアガイドの方から「新発田城の見学ポイント」という小さいリ
ーフレットをいただいた。


     

 城内で観覧できるのは、表門の2階と旧二の丸隅櫓、それに復元した辰巳櫓のみのよう。


 まずは、右手入口から表門の2階に上がってみた。












 表門の観覧を終え、東側の辰巳櫓へ。この櫓は、平成10(1998)年の初代藩主溝
口秀勝公入封400年記念事業を契機に、平成16(2004)年7月に完成したとか。


 古文書や古地図、古写真などの豊富な史料や発掘調査により忠実に復元されたようで、
内部を1階から2階へと順次観覧した。


     





     

 礎石のひとつが見えるようになっていた。



 辰巳櫓付近からは、北側の陸上自衛隊新発田駐屯地が望まれる。

 新発田駐屯地も新発田城内だったエリア。廃藩置県後に歩兵第十六連隊の兵営になり、
第2次大戦戦後、陸上自衛隊が引き継いでいるようだ。

 城内には、真っ白なヒメウツギがたくさん咲いている。


   最後に、表門の西側に残るもうひとつの国指定重要文化財の旧二の丸隅櫓へ。
      

 旧二の丸櫓は、寛文の大火から44年後の正徳2(1712)年の絵図に描かれており、
この頃までに波再建されていたと思われるよう。二の丸の北側にあったが、昭和の解体修
理で本丸の鉄砲櫓跡に移築されたので、旧二の丸櫓という名称になったという。


    


 2階に上がると、眼下には残っている掘の中央部周辺が望まれた。






     
    旧二の丸櫓を出て、表門方面に向かう.北側の一角に白いショウブ系の花が咲く。
          



 辰巳櫓付近やソメイヨシノの樹間からは北西端に、2004年に辰巳櫓とともに再建さ
れた三階櫓が望まれる。

 三階櫓は、事実上の天守に相当する櫓だが、幕府や親藩に遠慮して天守という名称は使
わず、「三階櫓」とか「御三階櫓」と呼んだとのこと。


 最上階の屋根の棟が丁字型で、各々の隅に1匹ずつ合計3匹の鯱が載るという、全国で
も唯一の櫓のよう。ただ、公開されてないので周辺から眺めるのみ。


 表門近くに、たくさん実の付いた木が目に入る。


     公開された城内のエリアは、予想より狭いわずかな範囲だった。
     


 表門から新発田城を出て、堀の南東側にあるおみやげ・お休み処の「安兵衛茶屋」へ。


   
 新発田市の観光情報発信拠点のひとつで、新発田の民芸品「金魚台輪」や銘菓などを販
売している。
     
  
 気温が上がって暑さを感じたので、カップアイスを購入したが凍っていて固いので、駅
に向かって戻る途中で食べることに。
     

     茶屋の西側には、堀部安兵衛の立像がある。
     

 今日の観光予定地はほぼ回り、15時近くなったので駅に向かうことにした。

 南側の芝生広場に戻ると、東方の雲が切れて、点々と残雪の見られる飯豊(いいで)連
峰北部かと思われる山並みが望まれる。

 帰宅後に記録を見たら、飯豊連峰縦走をしたのは1965年8月下旬の5日間。山形側
から入り、最初に宿泊した無人の山小屋では台風が通過した夜間、強風で小屋がガタガタ
揺れるのに不安を抱えながら過ごした。

 縦走を終えて新潟県側に下り、流れを見下ろし建物もない湯ノ平温泉の露天風呂で汗を
流し、東赤谷から旧国鉄赤谷線(あかたにせん)沿いを新発田へ出たことを思い出す。

 芝生広場にあったベンチで、安兵衛茶屋で買ったカップアイスを食べようとしたのだが、
まだ溶けておらず、しばらく休憩を兼ねて時間をかけて食べる。



 その間に、飯豊連峰の奥の稜線も雲間から望まれるようになり、大きな雪渓も見えた。

 
 新発田市民文化会館の南側の三差路まで戻り、往路とは反対の左手、東南方向への市道
を駅に向かう。信号のある交差点を2つ通過して、突き当たりの三差路を南へ。交差点際
にあった苔香荘という広い屋敷沿いを進む。





 アーケード街に戻って東へ、本町交差点の先でて右カーブして駅への商店街へ。







 16時30分頃、新発田駅に戻った。
 
 今日は忘れずにコインロッカーの荷物を取り出し、16時44分発の白新線上り電車に
乗る。宿泊予定の新潟駅には17時22分に着いた。

 昨日同様東口に出て、そばのガレッソと呼ぶビル4階から上のビジネスホテルに入る。

 19時近くになり、夕食の場を探して周辺を少し回る。適当なところが見つからないの
でセレッソ1階の店に入ろうかと戻ったら、出たのとは反対側に「越後秘蔵麵 無尽蔵」
というこだわりラーメン店が目に入る。
     

           
 おすすめランキングのトップにあった「涼味とろろまぜ麵」(900円)が私のお好み
に合うと思われたので入り、野菜ぎょうざ(450円)とともに注文する。


 野菜ぎょうざ



 期待通りのおいしさで、満足した。




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新緑の越後路・下越へ② 新発田その2(新潟・新発田・前半)

2023-07-06 21:17:50 | 国内旅行
 2023年5月24日(水) (新発田市内を観光後 新潟駅前へ・前半)

 宿泊した新発田市の南西郊・月岡温泉の「湯あそび宿 曙」で、5時半過ぎに起床した。

 まずは昨夜は入らなかった温泉に入って部屋に戻り、窓を開けてみると眼前の広場は濡
れていて、夜間に雨が降ったと思われた。まだ周辺の雲は低く、雨雲のようにも思われる。


 7時30分から、昨夜と同じ「茶処飲処ちゃらくてい」で和食の朝食すする。


 食事処への途中、中庭の池にはたくさんのニシキゴイが。


 9時前にチェックアウトして宿を出た。今日も新発田市内の観光予定なので、昨日と逆
行の豊栄駅に向かう9時30分発のシャトルバスに乗ることした。

 まだ少し時間があるので、月岡新湯バス停とは逆方向にある近くの足湯周辺を見てくる
ことに。


 足湯の手前に、「ふらっと」と呼ぶインフォメーションセンターの建物があり、そこに
バス停があった。
     
 よく見たら、9時27分発の新発田駅方面行きの「本田・天王号」というバスがあるこ
とが分かり、料金も豊栄駅行のシャトルバス同様の300円。

 このバスを利用すれば、豊栄駅~新発田駅間の運賃が不要になり、時間も早いと思われ
たので、シャトルバスは止めて乗ることににした。


 隣接の足湯をのぞいて見る。かなり広い足湯だが、時間は無いので浸かるのは省く。




 足湯近くのマンホールデザイン


 足湯周辺は広場になっていて、その南側に咲く花


 9時27分の定刻に発車のバスはここ月岡足湯前が始発で、途中までほ乗客はなかった。


 昨日のシャトルバスも立ち寄った羽越本線月岡駅前。



 バスは越後平野の田園地帯を抜けて、豊浦地域の集落を幾つも回りながら新発田駅方面
に向かい、9時53分に新発田駅前に着いた。
     
 シャトルバスとJR白新線経由だと、10時19分着の予定なので24分早かった。

 昨日同様に駅構内のコインロッカーに不要荷物を預けて、2日目の新発田市内観光へ。
まずは、昨日同様に駅前から西に延びる道路を少し進んで東公園に入る。


 園内東側には、「大倉喜八郎寿像 移設跡地碑」と刻まれた大きな石碑がある。

 大倉喜八郎は、新発田が生んだ大実業家。1837(天保8)に生まれ、17歳で江戸
に上がり、大倉財閥を一代で築きあげてさまざまな近代産業の育成や企業の設立に関わる
など、近代日本の発展に大きく寄与している。

 大倉喜八郎が興した主な企業や学校は、大成建設、サッポロビール、帝国ホテル、リー
ガルコーポレーション、日進オイルグループ、東京経済大学など。

 ふるさと新発田への思いも大変深く、大倉製糸新発田工場を新設したり、多くの分野に
多大の寄付をするなど、新発田の発展のために大きな功績を残したという。

 この公園は、大倉喜八郎が大正初期に寄付したもので、ここにあった大倉喜八郎像は、
平成15(2003)年からの区画整理に伴い、新発田駅前公園に移設したとのこと。

 その由緒を記した碑が大きいことからも、大倉喜八郎の新発田市への貢献度が多大だっ
たことがしのばれる。


 園内南東側には、SL D51 512号が保存展示されていた。




 公園の西側道路際には、4月29日(土・祝)から公開を始めたばかりの「蔵春閣(ぞ
うしゅんかく)」がある。

 蔵春閣は、大倉喜八郎が東京・向島の別邸の一部として1912(明治45)年に建設
したもので、渋沢栄一ら政財界の大物や海外からの賓客をもてなす「迎賓館」の役割を担
っていたよう。

 (公財)大倉文化財団から新発田市に寄贈され、大倉喜八郎ゆかりのここ東公園に移築
したという。

 6月末までは無料公開されていて、それ以降の入館料は大人500円になる。
 
 週半ばの今日もかなりの来訪者が見られたが、並ぶほどではないので入館して館内を一
巡することに。


 蔵春閣の平面図



 まずは玄関を入り1階正面の食堂1と食堂2、さらに階段を上がり三十三畳敷きの2階
の大広間などを観覧する。


     




 各部屋とも、豪華な飾りものや格天井、シャンデリア、ふすま絵、掛け軸、床面の装飾
タイルなどにあふれており、目を見張らされた。








     



     











 30分近く観覧して、11時過ぎに東公園を出た。

 昨日同様に西ヘ向かい、昨日観覧した清水園への交差点から逆方向の北へ延びる通りへ。

 通りの両側には寺院が並び「寺町エリア」と呼ばれ、流れにはコイが泳いでいる。





   左手(西側)最初の寺院は福勝禅寺で、門前には新発田重家公座像があった。
     



 境内に咲くフジのような花




      門を入って左手にあった新発田重家公廟
     


 福勝寺の斜向かい、東北側の建物は「寺町たまり駅」と呼ぶお土産カフェ。



 無料休憩も出来るので入り、展示されていたこども御輿(みこし)や休憩用和室など眺
め、2点の土産物を求めた。
     

 

 さらに北へ、最初に訪ねた福徳寺から左手2つめの寺、真宗大谷派の託明寺へ。
     
 正面に堂々たる本堂があるが、説明パネルなど無いのですぐに出た。



 少し先、反対の東側に曹洞宗宝光寺の豪壮な門が見えたので入る。

 山門は県内随一のようで、新発田市指定有形文化財である。





 宝光寺は、新発田藩祖の溝口秀勝公が開基した禅寺とのこと。歴代藩主と奥方の墓塔を
祭る霊屋があるようだが、どの建物かは分からなかった。


 境内右手には、三大将軍家光公寄進と伝えられる推定樹齢350年以上のしだれ桜があ
り、春先には多くの人が訪れるという。新発田市の保存樹木でもある。
     



 寺町通りを北に抜け、市の中心部を東西に走る通りへ。両側はアーケードに覆われてい
るが、ほとんどがシャッターを下ろして閑散としている。市の中心部でもこうなのか・・


 正午近いので、食事処を探しながら西進する。2つめの信号のすぐ先が市役所↑で、そ
ばに「新発田藩 札の辻跡」の標石が。
     
 江戸時代にはここに高札場があり、札の辻は街道の出発点で、会津街道に残る一里塚は、
この札の辻からの距離を基準にしていたという。


 近代的建築の新発田市役所に入ってみた。1階には市民の窓口のほかに、新発田の特産
品のショーケース、「エフエムしばた」(76.9MHZ)のサテライトスタジオなどがあ
った。


 エフエムしばたのサテライトスタジオ


                                   〈続く〉



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^。 


 


 
 



 
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新緑の越後路・下越へ① 新発田その1(新潟・新発田・後半)

2023-06-30 10:06:45 | 国内旅行
 2023年5月23日(火) 〈新発田市内を観光後 月岡温泉へ・後半〉

 新発田市の国指定名勝・清水園にて、昼食後に3つの資料館の観覧をして、その後はメ
インの大名庭園を回遊することにした。

 新発田藩大名庭園は、近江八景を取り入れた京風の庭の中央に草書体の「水」の字を描
く大名池を配した回遊式庭園で、十万石大名の下屋敷にふさわしく越後路から東北にかけ
て他に比を見ない名園といわれているという。


 東側の木戸を入り、大きな池に沿って北から西へ、さらに南から東へと一周することに。
受付でもらった案内リーフレットの回遊順路としては逆回りになる。




     



     

 池の北東側に咲いていた花。


     豊富な木々が新緑の彩りを池に映す。
     

 池の北東側にある車室・松月亭



 
 池の南西側に見えるのは腰掛待合と呼ぶ建物のよう。






 松月亭と棟続きの茶室・同人斉(どうじんさい)


 池の西北側まで進み、対岸にある一番大きな書院を望む。


    


 南岸から東へと、少しずつ変わる風景を眺めながら進む。


     

          

     

          
 西側へ回り込んで石橋の横をさらに進む。


     庭園の南西端近くには鐘楼があるが、鐘は吊されてない。
     

          

     

          

 池の南側を東へ向かうと、当園を10年にわたり修復したという庭師、田中泰阿弥の自
筆歌碑が。
     
「くくとなき ころころとなき かかとなく これさ 蛙のよろこぶうたか 泰阿弥」と刻まれ
ているという。



     


 池の南東側近くまで進むと書院が近づき、茶室・夕佳亭の横へ。 

 


 池の北側の建物は、茶室・松月亭のよう。



 最大の建物、書院前へ。解放されていて室内にも入れるが、かなり時間が経過している
ので外から眺めるのみにする。






     書院の南側に咲くキショウブ
     



 書院付近からふり返る茶室・夕佳亭



 庭園を一巡したので退園することにした。最初に通過したたくさん咲くエゴノキの横を
進んで、かやぶきの門を出て清水園を出た。
    






 このあとは、新発田川沿いの通りを挟んで東側に長く延びる「旧新発田藩足軽長屋」へ。

 藩政時代に足軽が居住したかやぶき平屋建の八軒長屋で、天保13(1842)年の建
築のよう。当時は「北長屋」と称し、全国的にも例を見ない遺構として国指定重要文化財
となっている。







 長屋の週一周することにして東側から南へ向かう。


     庭の東側にはアヤメ系の花が咲いている。
     


 
     窓からのぞき見た内部の一部
     
 
 一巡したので、駅の方向に向かうことに。

 信号のある交差点まで戻って駅とは反対側を見ると、アーケードが続いてはいるが、シ
ャッターを下ろした建物がほとんどのように見えてさびしい感じ。



 王紋酒造のそばの交差点まで戻り、突き当たりの諏訪神社に参拝することにして、交差
点に面した西向きの正門を入る。



 諏訪神社は、四代藩主 溝口重雄公により現在地に移され、七代藩主 溝口直温公が社殿
を建立し、現在の社殿は平成16(2004)年に再建されたとか。


 拝殿の右手前にあるのは御輿殿

 毎年8月27日~29日には、諏訪神社とその周辺で「城下町新発田祭り」が開催され
るという。

     社殿の右手前には御柱(おんばしら)が立っている。
     
 この御柱は、信濃国(長野県)一之宮の諏訪神社春宮に平成28(2016)年に建て
られた一之柱を下賜されものだという。

     東南側から境内を出た。駅に向かう沿道の店舗に咲く花。
     

 15時30分頃新発田駅に戻った。改札を入って白新線上りホームに行ってから、コイ
ンロッカーに荷物を置いたままだったと気付く。上り電車まであと10分ほど、急ぎ改札
に戻り、駅員に話して改札を出てコインロッカーの荷物をとり出してホームに戻る。
 

 15時48分発 長岡行き電車は2分足らずで来たが、なんとか間に合いホッとする。


 今日の宿は新発田市の南西郊にある月岡温泉で、ここに行くには白新線の豊栄(とよさ
か)駅からのシャトルバスしかない。


 豊栄駅には16時02分に着いた。バスは16時40分発なのでバス乗り場のある南口
でしばらく待つ。
 
 バス乗り場の近くには古いSLの動輪が展示されていたが、説明パネルはない。


 
 15時50分発月岡温泉行きシャトルバスに乗り、中ほど過ぎにはJR羽越線の月岡駅
前を通過し、17時10分頃に月岡新湯バス停で下車した(300円均一)。


 今日の宿は、横の通りを入って間もなくの「湯あそび宿 曙」、17時15分頃に着いた。

 
 部屋からの南側から東側方面の月岡温泉の眺め。




 ちなみに、月岡温泉は発田市の南西郊にある温泉。大正4(1915)年の開湯、石油
を採掘している時に偶然温泉が出てきたことから湯治場として始まったようで、新潟県を
代表する温泉地とか。「にっぽんの温泉100選」に例年ランクインしているという。

 美人を作る温泉として知られ、温泉街には現在13軒のホテルや旅館があるようだ。

     


 夕食は18時30分から「喰処飲処ちゃらくてい」で会席料理をいただく。


 地元新潟の食材を使った美味しい料理だったので、全部いただいたら普段の食事に比べ
て食べ過ぎで、せっかくの温泉にも浸かることなく寝る羽目となった。

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新緑の越後路・下越へ① 新発田その1(新潟・新発田・前半)

2023-06-28 22:01:48 | 国内旅行

 ずるずると日にちが経過してしまいましたが、もう1か月以上も前の新潟県下越地方へ
の3日間の旅の記録です。 この後も、何日かかるか分かりませんが・・・

========================================

 2023年5月23日(火) 〈新発田市内を観光後 月岡温泉へ・前半〉

 自宅を8時55分頃出て、所沢で8時24分発特急むさし16号に乗り換え、池袋駅に
8時50分に着いた。

 池袋から遅れてきた9時過ぎの湘南新宿ラインに乗り、9時25分頃大宮駅へ。予定し
たより1本早い9時34分発上越新幹線下り とき311号に乗り、ノンストップで新潟
駅には10時41分に到着した。

 予定の白新線下りまで時間があるので、駅前の観光案内所に寄ることにして改札を出た。

 JR新潟駅は昨年6月に高架化されたばかりのようだが、万代口広場は大規模な工事中。


 その間の通路をくねくね抜けて観光案内センターに入り、これから行く新発田市や長岡
市の観光パンフレットなどを入手した。


 駅に戻り、11時42分発白新線 村上行き下り普通列車に乗る。


 
 とうとうたる阿賀野川や早苗田の続く越後平野は曇り空で、どんよりとしている。


 南に見えてきた山並みにも雨雲がかかっていた。


 12時18分に新発田駅に下車した。新発田は白新線の終点、この先村上方面へは羽越
本線となる。



 駅前に市内循環バスの時刻表があるが、近くの観光案内所に聞きに行ったら平日は運行
してないという。

 とりあえず、昼食が出来るという近くの清水園(しみずえん)に向かうことにして、駅
のコインロッカーに不要荷物を預けて西方へと向かう。


 歩道は幅広く設けられていて、沿道にはクレマチス、シランやホタルブクロなどが咲く。


     

 SL D51の展示されている東公園の先、緩やかなカーブを過ぎると新発田の銘酒・
王紋酒造が。寛政2(1790)年創業という老舗の酒蔵で、直売所などあるようだが寄
らずに通過した。



 次の信号が2つ続く2つめの横、これが一級河川かと思われる新発田川のせせらぎに沿
って南にすぐに清水園の入口があり、左手(東側)には「足軽長屋」と呼ぶかやぶきの古
民家が見える。
 


 木の橋を渡って清水園の受付へ。入園券(700円)を求め、工事中のかやぶき屋根の
門を入る。


 清水園は、新発田藩藩主の下屋敷として造られた庭園とのこと。純京都風の回遊式庭園
はなんともいえぬ風情があり、建物は寄棟造り(よせむねづくり)杮葺平屋敷建(こけら
ぶきひらやしきだて)。

 極めて簡素な数寄屋風の建物は、当時の下屋敷の面影を偲ぶことが出来るとか。国指定
名勝となっている。

 園内を回る前に腹ごしらえのため、食事処の「米蔵ココロ」に向かう。向こうに見える
門は園内を一巡後の出口のよう。
     

 豊富な樹林に追われた園内、米蔵ココロへの道筋、大きなエゴノキに花がいっぱい。



 モミジの新緑がみずみずしく気持ち良く、花も咲いていた。





 こちらが米蔵ココロの入口、12時50分頃に入る
 
 

 中に入ると確かに蔵造りで天井も高い。ここに、かつてはたくさんの米俵が収納された
ようだ。


     
 期間限定という「アスパラベーコンピザランチ」(サラダ、スープ、ドリンク、プチデ
ザート付1,300円)を注文して、美味しくいただいた。


     

          
          ゆっくりと昼食を終えて、14時40分頃米蔵ココロを出た。

 この米蔵だった横長の建物の左手には「蔵の資料館」と呼ぶ3つの資料館が続いている
ので、まずはここに入館して観覧することに。

 最初は米蔵ココロに接した「清水谷蔵所資料館」へ。明治期に、豪農伊藤家(現・北方
文化博物館)所有になり、ここが米を収納する清水谷蔵所となった時代の資料を中心に展
示しているよう。






     



       
 その隣(中間)は「堀部安兵衛伝承館」。堀部安兵衛は初代藩主のひ孫で新発田生まれ、
忠臣蔵や高田馬場の助太刀で知られており、その堀部安兵衛に関する資料やパネルなどが
並んでいた。
     





     



     





     


 堀部安兵衛資料館からも回れる一番奥(左端)は「新発田藩史料館」で、日章旗の発案
者という10代藩主直諒(なおあき)の書画や、大倉喜八郎など藩主親族の資料が展示さ
れている。




     





     

          

     


     
 堀部安兵衛伝承館と新発田藩資料館の境の格子木には、新潟県指定無形民俗文化財の白
根大凧合戦の凧(たこ)の原形と思われる凧が並んでいた。
     

 観覧を終えて再奥の屋根下に回ると、新発田市が昭和初期に購入したという消防用の第
1号機械ポンプが保存されている。

 昭和10年(1935)年には、二百十日の台風の余波ともいえる強風の中で、市の中
心街から出火して、町のほとんどともいえる面積69万㎡、消失家屋1,064戸に及ぶ
大火に見舞われたという。 〈続く〉




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