あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

1週間ほど休稿します

2013-05-27 16:57:30 | Weblog
 あす5月28日(火)から6月4日(火)まで、パソコンからの投稿が出来ませんので、
その間休稿します。6月5日(水)以降にご覧いただきますよう、お願い致します
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湘南・大磯町のタウンウオーク(神奈川)

2013-05-25 22:22:14 | ウオーキング
 2013年5月18日(土)

 湘南、大磯町のタウンウオークに出かけた。この日は、先月の関東百駅巡礼歩行で大磯
を歩いた際に知った、「おおいそオープンガーデン」の開催日で、公開している個人のお
宅などの庭を鑑賞することができる。

 8時過ぎに自宅を出て、西武線から東京メトロ副都心線・東急東横線直通電車で横浜駅
まで行き、JRに乗り替えて東海道線大磯駅には10時27分に着いた。

 最初に、駅前の観光案内所の横から少し上がって大磯迎賓館へ。旧木下家別邸と呼ばれ、
大正元(1912)年の建築でツーバイフォー工法では国内最古とか。国登録有形文化財
である。

 先月の関東百駅の時には閉館されていたが、5月中旬にオープンし、イタリア料理や結
婚式場、ワークショップや文化芸術発表の場として利用できる。

 ここも今日のオープンガーデンのひとつ。庭や鉢植えの花が多く、クラシックな洋館に
色を添える。


 手前右手の坂を下って細道を左に入ると、次のオープンガーデン大磯珈琲庵がある。

 植え込みや鉢植えの花が落ち着いた彩り。庭の奥にも、ビンに差した花や鉢植えの花が
たくさん並んでいた。




 その先の大雲寺に入り、墓地にあるという日本画家・安田靫彦(やすだゆきひこ)の墓
を探したが見つからなかった。


 迎賓館からの通りに戻り、少し先を西に入って地福寺へ。

 本堂前に梅の古木が多く、左手がけ下に島崎藤村・静子夫妻の簡素な墓地がある。普通
の墓より細い墓碑は、谷口義郎博士の設計という。


 旧岩崎邸敷地らしい長い土塀の下を進んで、国道1号線に出た。「杵新」と呼ぶまんじ
ゅう店があり、大磯に住んだ島崎藤村や吉田茂に愛された店らしい。


 そばの三差路に挟まれた一角は新島襄終焉(しゅうえん)の地。新島襄は京都で同志社
英学校を設立し、同志社大学設立企画中に病にかかり、療養先のこの地にあった百足屋旅
館で47歳の生涯を閉じたという。


 近くには大磯土産で知られる井上蒲鉾(かまぼこ)店があり、店内には美味しそうな蒲
鉾やはんぺん、さつまあげが並ぶ。買い物客も多かった。

 100mほど先に、「湘南発祥の地 大磯」の石碑が立っている。湘南とは中国湖南省
にある洞庭湖の南側のこと。大磯がこの地に似ていることから湘南と呼ばれるようになっ
たと記されていた。


 そばのうっそうとした森に、西行法師の「こころなき身にもあはれは知られけり 鴫立
沢(しぎたつさわ)の秋の夕暮」で知られる鴫立庵がある。


 寛文4(1664)年に小田原の崇雪が草庵を結んだのが始まり。現在は京都の落柿舎、
滋賀の無名庵とともに、日本三大俳諧(はいかい)道場のひとつといわれているという。

 西行に読まれた、いまはわずかな流れの鴫立沢を渡って門を入る。拝観料を払ってかや
ぶき屋根の鴫立庵を拝観後、深い緑の敷地内を上がり下りして一巡した。

 敷地内には、やはりかやぶき屋根で、曽我物語の曽我十郎の恋人虎女の木像を安置する
法虎堂、芭蕉句碑など多くの句碑、五智如来座像などが並んでいる。




 正午近いので、近くのカレー店「CHAIRO」に入り、地場野菜やチーズの入りのお
いしいカレーを味わった。

 この店も古い商家を活用したものだが、近くには大谷石の蔵を活用した離れらしい建物
もあった。


 すぐ先、大屋根の見えた妙昌寺に入る。本堂屋根下には精巧な彫刻が施されている。



 境内に荒行を終えた山崎浩道上人像が立ち、サルスベリの古木や古い本堂の鬼瓦が目に
付く。


 さらに国道を進み、旧東海道の松並木の残るところに出た。向こう側にウオーキンググ
ループが来るのが見える。もしやとよく見ると、やはり「第四次 21世紀の朝鮮通信使 ソ
ウルー東京 日韓友情ウオーク」の一行である。

 歩道橋を渡ってそちらに回り、後方を歩いて来た日本側代表のEさん、カメラのKさん、
オッパーことKさんに声をかける。

 一行は4月1日にソウルをスタートして韓国と国内あわせて約1,200㎞を歩き、2日
後の5月20日(月)に、東京・日比谷公園にゴールした。この日は、小田原~藤沢間約
37㎞を歩いている。


 松並木の南側にある遊歩道をさらに進む。国道1号線のクロマツで一番太いという、樹
齢300年の巨木もあった。

 松並木が終わって間もなく「伊藤公滄浪閣之旧跡」碑が立ち、背後に閉鎖された大きな
建物がある。

 滄浪閣は、明治30(1897)年からの伊藤博文の本邸跡。敷地は約18,150㎡
(約5,500坪)あり、その後幾多の変遷を経て、最近まで大磯プリンスホテル別館とし
て使われたらしい。

 隣接する旧西園寺邸らしい松などの多い敷地との間の細道を抜け、海を見下ろす高台に
出る。


 風が強くて砂が飛んでくるので海沿いを進むのは止めて、国道に戻った。旧西園寺邸ら
しい建物は閉鎖され、海側に隣接の旧池田邸跡も樹木だけで、建物は残っていない。

 大岩大門バス停のところで国道に分かれて北側の路地に入り、JR東海道線の線路際に
行く。少し戻った稲荷松公園横から東海道線の下をくぐって北側に出る。

 こちら側には、オープンガーデンのお宅が多いので、それらを訪ねることにした。

 まずはT字路に突き当たり、左側の細い私道沿いに花の並ぶIさん宅へ。

 庭は広くはないが数多くの草花が咲き乱れる。奥様が出ておられたので花の話を伺った。


 白岩神社に近い北側の通りへ。こちらにはストリートガーデンと呼ぶ、邸内には入れな
いが道路からその家の花を眺められるお宅が4軒ある。




 近くの宮ノ上公園に入り、ベンチで小休止する。公園には、標高23.013mの水準
点があるが、地形図上には記されてない。


 この辺りでは、オープンガーデンの案内図を持つ女性グループとそちこちで行き交う。
きれいだと聞いて回ってきた方に言われ、見残したストリートガーデンのNさん宅に戻っ
てみる。庭の一角は一面花に彩られていた。


 宮ノ上公園の先を少し上がり、南に回り込む。湘南平への登山路に近い御岳神社前を通
過して、出口のない大磯駅の西側に近い、住宅地の細い路地に入る。

 近接して両側に3軒のガーデンがある。東側のIさん宅は道路際も狭い庭も花がいっぱ
い。ご夫婦で自ら腐葉土などを造って育てておられるという。


 西側のHさん宅はストリートガーデン。庭にはイチョウの大木が立ち、秋にはたくさん
ギンナンが実るとか。


 Iさんの南、Tさん宅は、玄関周りも庭も花鉢でいっぱいで、出入りもはばかられるほ
ど。バラもきれいに咲いていた。


 線路際を西進した三差路際のTさん宅は、壁面が白バラで飾られている。


 北側の稲荷神社は、タブノキ、ヤブニッケイ、ムクノキ、ヤブツバキなどがうっそうと
自生し、広くはないがこの地本来の自然植生が残る貴重な鎮守の森である。


 線路際に出て「夢の地下道」をくぐり、東海道線の南に出る。そばの路地を斜めに進む
と、島崎藤村邸がある。

 島崎藤村は、昭和16(1941)年1月に、大磯のドンドン焼きを見に来て珍しい郷
土行事を喜び、その春から2年余り、71歳で永眠するまでここに住んだという。


 そろそろ駅に向かうことにして、カーブの多い細い通りを東に進む。細い路地を入って
外国人名のJさんのオープンガーデンに寄る。設計事務所をされていて、お名前から予想
したのとは違い、庭は静かな日本庭園だった。

 駅に向かう通りに出たところ、オープンガーデン「カフェあおばと」で声をかけられた
ので店内へ。小さい部屋に、押し花でつくった作品が何点か並んでいた。


 外には「雁の井戸」と呼ぶ古い井戸が残っている。


 すぐ先の短い路地には、Oさんのオープンガーデンがある。そう広くはない庭だが、よ
く手入れされていて草花の種類も多い。気さくな奥様が花作りの極意をいろいろと教えて
くれた。


 大磯小の前を緩やかに上がり、大磯駅に16時25分に戻った。

(天気 晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 平塚、歩行地 大磯町、歩数 14,100)




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入曽から新狭山へカントリーウオーク(埼玉)

2013-05-22 18:28:25 | カントリーウオーク
 2013年5月12日(日)

 前日の雨も止み、カントリーウオークグループの第203回例会に参加した。集合は西
武新宿線の入曽(いりそ)駅。私は前日の関東百駅巡礼歩行に続き、2日続けて同じ駅に
下りた。10時10分に駅東口をスタートする。

 == 不老川から上赤坂公園へ ==

 駅前商店街を抜けて県道50号を横断、東に平行する路地を進んで重厚な山門をくぐり
金剛院へ。


 創立は建久年間(1190~7)と伝えられ、慶安2(1649)年には三代将軍家光
から朱印十石を賜っているという。


 境内にはケヤキの古木が高く枝を広げ、シャクナゲが咲き、モミジなどの新緑がみずみ
ずしい。


 県道50号に出て県道8号・茶摘み通りを横断し、入間野神社に入る。ここもケヤキな
どの新緑が社殿の周囲を覆っている。


 すぐ先の不老川(としとらずがわ)を渡ると常泉寺の観音堂がある。宝永5(1708)
年の再建と記されているが近年修復したのか、お堂は新しい。


 そばの七曲井(ななまがりのい)は、竪堀(たてぼり)井戸の技術が確立される近世以
前の漏斗状(ろうとじょう)井戸で、建仁2(1202)年に掘られたとの説があるが確
かではないとか。何度か改修され、地域の人々の貴重な水源だったという。


 県道を横断して、不老川左岸の遊歩道を下流に向かう。



 両岸は、ケヤキやクワ、ソメイヨシノなどの木々が新緑の彩りを見せる。流れにはなコ
イがたくさん泳ぎ、大きなニセアカシアが花をいっぱい付けていた。


 二つ目の橋を渡って右岸に回る。ヤマボウシが花開き、近くのソメイヨシノの古木に
「観桜亭」の木札がかかる。木の椅子があったので小休止して水分補給をする。



 南側に広がる家庭菜園の野菜や花などを眺めながら進み、山王様の小さいほこらのある
山王橋で左岸に戻る。


 山王中そばの休憩舎前では、中学生くらいの男子が流れの中に入って遊んでいた。



 ポピーが咲き競う山王中のそばの橋を渡って川を離れ、南に進んで送電線と鉄塔が集ま
る南狭山変電所のところに行く。この周辺は畑の境界に茶が植えられているが、茶畑は見
えなかった。



 古い土蔵の残る富士見里集落に入り、バス道路を南下してすぐの堀兼(ほりがね)神社
に行く。

 うっそうとした鎮守の森の中に、七曲井と同様のつくりの堀兼の井があり、堀兼の井を
歌った千載集(せんざいしゆう)のことなどを紹介した説明板が立っていた。

 盛り土上にある社殿に参拝し、周辺の富士見台集落を東に抜けと、畑の向こうにオオタ
カも住むという「赤坂の森」と呼ばれる広葉樹の森が広がる。



 その森に向かって進み、森を貫いて3月下旬に開通した県道126号を横断し、狭山市
の堀兼・上赤坂公園に12時6分に着いた。

 サッカーグランドの東側、新緑の広葉樹林下の木道デッキにシートを広げて昼食とする。

 強い太陽が遮られ、さわやかな風が吹き抜け心地よい昼食地である。

 
 == 赤坂の森を抜け鎌倉街道へ ==

 管理事務所の前でミーティング後、13時20分に出発する。県の「緑のトラスト第9
号保全地」になっている広葉樹に覆われた林間を南側の県道近くまで進み、少し先で折り
返して公園の東側の林の中を北に向かう。


 林の北側に抜けて畑との間を300m余り東進し、畑のあぜ道に入った。

 両側の広々とした畑を眺めながら進んで県道126号と鶴の台の集落を抜ける。


 北側にも広大な畑作地帯が広がり、不老川を渡って細い農道を通過し、県道8号をJA
の横で横断して堀兼集落へ。大ケヤキなどに囲まれた光英寺で休憩した。



 校庭の真ん中にクスノキの大木が立つ堀兼小と、続く堀兼中の横を回って旧鎌倉街道堀
兼道に入る。

 気温が上がり暑くなってきたので、「鎌倉街道」の標柱の立つ小さな林の横で小休止し
た。

 鎌倉街道街道に分かれて加佐志(かざし)集落を西進して中ほどの羽黒神社へ。狭い境
内だが、高さ約20m、樹齢約550年以上と推定されるボダイジュの古木がある。


 ここで今日の記念撮影もした。
 
 

 新狭山小の南を通過して沢集落の天岑寺(てんしんじ)に西側の沖縄風の惣門から入っ
た。文禄3(1594)年の開山といわれ、惣門は寛永年間(1624~44)初期の建
立と推定されるという。



 境内には五角形の鐘楼があり、近くには板石塔婆の月待供養碑が祭られ、本堂の右手前
には大イチョウが目に付く。


 門外の高台に、大きな座禅堂が出来ていた。


 県道340号を東北に進んで、新狭山駅に近い三ツ木公園へ。この辺りは三ツ木原古戦
場跡。天文6(1537)年7月には「三ツ木原の合戦」と呼ぶ戦いがくりひろげられた
という。

 クヌギ林に覆われた公園で休憩して、ゴールの西武新宿線新狭山駅には16時34分に
着いた。

(参加 17人、天気 晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 川越南部、歩行地
 狭山市、歩数 23,300)




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小平市ふれあい下水道館を観覧(東京)

2013-05-21 16:48:39 | ウオーキング
 2013年5月19日(日)午後

 続カタツムリ歩行が、ゴールの小平市上水南町にある稲荷神社で12時50分頃解散に
なり、帰路につくことにしました。私は、ゴール直前に歩いて来た玉川上水緑道をさらに
戻って、西武国分寺線の鷹の台駅に向かうことにしました。

 稲荷神社のそばの小平桜橋から、玉川上水の左岸の緑道を西に向かいます。


 午前中に通った一橋大学の南側を過ぎ、さらに進みます。その先の津田塾大学の南東端
付近の緑道の中に小さい建物がありました。緑道になぜこんなものが?と思われます。


 向こう側に回ると、「玉川上水立坑」と書かれていて、横の扉に「列車通過中 扉の開閉
注意
」と朱書されています。そう、この下をJR武蔵野線が通過しているのです。

 電車の通る時にそばにいると、電車の通過音が聞こえてきます。

 この近くでもエゴノキの花が咲いていました。


 気持ちよい緑陰の緑道はさらに続きます。


 南北に走る府中街道が縦断する久右衛門橋際にこんな立て札があり、ちょうどやってき
た2人の方から、「すぐ近くなので見て行きませんか」と勧められました。

 私は何度もこのあたりを通過していましたが、これに気づいたのは初めてでした。

 時間もあるので寄って観覧することにして、府中街道を南に少し進むと、ふれあい下水
道館の建物がありました。


 館の手前にも案内板が。


 入口は南側なので、回ってみると小さい池があり、その横から入館します。


 ここ、小平市の公共下水道事業は、昭和45(197)年に着手して、20年の歳月を
かけて平成2年(1990)年に完成したとのこと。ふれあい下水道館は、この事業の完
成を機に、下水道に関するさまざまな資料を展示し、下水道を正しく理解してもらうため
に開館したようです。

 建物は上は2階まで、下は地下5階まであり、地下の各階は主に展示室になっています。
らせん階段を下った地下の展示室に向かいます。


 地下2階の展示室では、「くらしと下水道」をテーマに、地下に隠された下水道の実態
を模型や映像で説明していました。




 地下3階の展示室のテーマは「小平の水環境」で、下水だけでなく小平市の水環境の歴
史も紹介しており、前週の5月11日(土)と12日(日)に私が歩いた埼玉県狭山市内
に残っていた、いわゆる「まいまいず井戸」と呼ぶ、漏斗状(ろうとじょう)の井戸の模
型もあり、実物を見てきたばかりなので、なるほどと興味深く眺めました。

 漏斗の底の深いところに井戸があり、底まで水をくみに来て、渦巻き状に付けられた道
を上がって自宅へ水を運んだのです。

 こちらは、昔の水くみの道具など。


 地下4階の特別展示室では、「近代下水道の前史と夜明け」と題して、江戸時代から明
治時代の下水道に関する資料などを展示していました。

 そのコーナーだったと思いますが、こちらが現在の下水道幹線のルート図。真ん中の小
川幹線の下部がこの下水道館の場所です。


 展示室の最下部、地下5階は「ふれあい体験室」で、下水道に使われているほんものの
管やマンホールなどを展示していました。


 展示室の一角から、実際に流れている下水を見るための入口があります。

 この体験コーナーを入ると、実際に流れている小川幹線の下水道館の中に入って、その
様子が見られるのです。地下約25mに位置しているようです。

 下の黄土色の帯が、下水の流れです。管の内径は4.5mとのこと。

 今日はこの程度で、管の中の下部しか流れていませんが、大雨の時などは管の中ほどま
で下水が流れて見学は出来なくなり、体験コーナーの扉は厳重に閉ざされるようです。

 近くの上流側で、たかの台幹線がこの小川幹線に流れ込んでいるので、上流側からはゴ
ウゴウと言う音が聞こえていました。まだ処理前の生放流の下水なので多少匂いは感じら
れますが、悪臭と言うほどではありません。

 この先でも幾つかの幹線を合流して多摩川右岸にある処理場に入り、そこで浄化処理を
すると、下水分の98%は浄化されるとのことです。

 館の外には、下水道を掘削するときに使われた「礫泥水加圧(れきでいすいかあつ)セ
ミシールド掘進機(くっしんき)」が展示され、直径700㎜の下水道管を設置するとき
に使用すると記されていました。


 構内に敷かれているレンガは、メトロレンガと呼び、下水汚泥の焼却灰を金型に入れて
圧力でプレス成形して、1050℃ほどで焼成してつくられたものとか。この技術は東京
都下水道局が開発したようです。


 ゆっくり参観して、府中街道の久右衛門橋まで戻りました。橋から府中街道の北側を見
たところ。


 玉川上水緑道のすぐ先(西)には小平中央公園がありますが、その手前の林のそばで、
集会をしているグループがありました。


 実は先ほどの府中街道は、北側1㎞ほどの青梅街道で左折して、100mほど西で右折
するクランク状になっていて、青梅街道の北側は拡幅されているのですが、この辺りは片
側1車線であまり広いとはいえず、南から北に向かう車両の右折は出来ないとのことです。

 そこで、この部分を青梅街道からそのまま真っ直ぐに南下して玉川上水を横断し、南側
の五日市街道まで約1.4㎞を幅員32~36mの広い道路にする、都市計画道路事業を
東京都が進めようとしているのです。

 ところが、小平中央公園のそばの林がその道路にかかり、さらに住宅約220戸の立ち
退きや玉川上水に36m幅の橋をかけるなどのため、計画の見直しをするよう市民から声
が上がり、小平市民の意向を確認することを目的の「住民投票条例」制定の直接請求が出
され、5月26日(日)に住民投票が実施されることになったようです。

 集まっている方は直接請求した当事者のようで、私が着いた頃には集会を終え、そばの
道路予定地の林に入って行きました。


 なお、この投票の結果、投票率が50%に満たない場合は住民投票が成立しないので、
開票を行わないことになっているようです。

 そばの小平中央公園の中↓から玉川上水緑道を抜けて、西武国分寺線の線路を横断しま
した。


 玉川上水緑道には、住民投票に行くよううながすポスターが掲示されていました。


 西武国分寺線の鷹の台駅には、14時21分に着きました。


 ちなみに、
 小平都市計画道路の事業概要については東京都のホームページを。

 小平市の住民投票の概要は小平市のホームページを。

 小平都市計画道路に住民の意思を反映させる会のブログを、

 それぞれご参照下さい。



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続カタツムリ歩行 JR武蔵野線 新小平駅(東京)

2013-05-20 22:39:38 | カタツムリ歩行
 まだ、前週のウオーキングレポートのアップが残っていますが、今日は最新の歩きの
模様を先に報告します。

=======================================

 2013年5月19日(日)

 JR武蔵野線の周辺を歩く「続カタツムリ歩行」の第4回例会に参加しました。集合
は、武蔵野線の新小平駅です。

 この駅の前後は長いトンネルになっていて、駅のホームも半分くらいが地上に出てい
るだけという半地下の駅です。

 ちなみに、新小平駅は平成3(1991)年10月11日に、台風21号によるその
5日前からの影響で大量の地下水が蓄積され、駅のU型擁壁が長さ100mに渡り隆起
し、大量の地下水と土砂が流れ込んでホームまで地下水が溜まり、3か月間も使えない
状態が続くという事態に陥ったことがありますが、この駅を利用されている方以外は、
もう忘れてしまった方が多いのではないでしょうか。

 それはそれとして、私たちは10時5分にスタートしました。まずは駅前にあった観
光案内板に記されていた、駅の北側の青梅街道を挟んで流れているらしい小川用水を確
認することにしました。

 用水はすぐ見つかりました。駅出口の東側に「小川用水」と「つたかべの道」と記さ
れた標柱が立っていたからです。


 流れは止まっていて駅のそばの流れにはなぜか、熊のような形の彫刻が置いてありま
した。


 南北に走る道路の東側、畑の間に流れが続いていたので回ってみると、ちょうど畑で
作業している男性が居られたので、声をかけて聞いてみました。


 その方は、大正15年の最後の日という12月25日生まれで86歳とのこと。予科
練に行かれたとのことで、そんな歳とは思えぬお元気そうな様子です。

 小川用水のことを伺うと、普段は流れているのですが今日は、流入元の玉川上水のと
ころで水を止めて、年に1度の用水のゴミ除去の作業を地元の方々が分担して実施した
とのこと。以前は陸稲などの注水に用いられていたようですが、近年は用水としての役
割はほぼ終えているようです。

 その辺り一帯は、地図では想像できないくらい広いエリアに畑が残っていました。


 畑のあぜ道を北に抜け、東に少しで再び折り返すように南に延びる農道に入りました。
畑の手前の民家に、見たことのない石像が置いてありました。


 民家に咲くスイカズラ。


 畑にはソラマメがよく育ち、大きな実を付けています。


 青梅街道に近い農家の家で、ご主人が庭に水やりをしていました。小川用水のことを
聞こうと声をかけたら、やはり今日清掃したことや、新興住民からは用水に蚊が発生す
るので嫌われていることなどを話してくれました。



 庭には植え込みがきれいに整えられているので拝見したところ、なんと二宮金次郎像
も置かれています。


 東側の小屋には、農具をきちんと並べて保管されていて、農業に取り組む姿勢がうか
がえるようでした。


 道路際にはブラシの花が咲き出しています。


 このお宅の前の小川用水です。流れている時にもう1度来てみたいものです。


 青梅街道を横断してさらに南下すると、このような場所にと思われる畑と住宅の多い、
あまり広くない市道に沿って小平警察署がありました。地図で見ると、東側の西武多摩
湖線際にある市役所も、繁華街とは思われぬ場所のようです。

 学園町三丁目から二丁目へと、東西、南北にきっちりと区画された住宅街を進んだら、
花屋さんがありました。住宅地の中にひとつだけの店です。




 見慣れない、新しい品種のアジサイのよう。


 一橋大学の西側の通りまで進みました。学内の西北端付近は、豊富な緑に覆われ、建
物は隠されてよく見えません。


 一橋大学の南側は、玉川上水緑道です。左岸沿いの緑道に入って東に向かいました。


 小川水衞所と呼ぶダムのようなところに、新しい東家と展望デッキを造っていて、そ
の回りは立ち入り禁止です。




 気持ちよい緑陰を、小平桜橋に向かって進みました。


 緑道には、こんなコブだらけの古木も見られます。


 一面の緑の中に、さわやかなエゴノキの花も。


 小平桜橋を渡って西武多摩湖線の踏切を越えた南側が、ゴールの稲荷神社。11時55
分に到着しました。

 稲荷神社は、元文元(1736)年に、この地を開拓した善左衛門組の組頭、六左衞門
などが、ここ堀端野中の産土神(うぶすなかみ)として勧請したと伝えられているとか。

 なお、ここはもと野中新田と呼ばれたようですが、野中新田は武蔵野に開発された新田
の中でも珍しい、町人請負新田と呼ぶ、新田の開発を請け負うために家族連れで移住し、
開発が終わったらまたもとの居村に戻るという方式で開発されたようです。 

 昼食後、いつものように記念撮影とミーティングを。今日は、ネパールに7年間に11
回通って現地の人達をサポートしようと考えておられる、Iさんが話をされました。


 ちなみにIさんのネパール訪問の様子は、「junjunのネパール探訪」ブログにアップさ
れています。

 ミーティングを終えて12時50分頃、散会となりました。

 (天気 晴、距離 3㎞、地図(1/2.5万) 立川、歩行地 小平市、歩数 5,400)

 私の帰路は、玉川用水緑道をさらに逆行して、西武国分寺線の鷹の台駅に向かいました。
途中の寄り道などは、このあと別項でアップします。
   




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関東百駅巡礼歩行 西武新宿線 入曽駅

2013-05-17 22:06:39 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年5月11日(土)

 関東百駅巡礼歩行の第95番に参加した。集合は西武新宿線の入曽(いりそ)駅。小
雨模様なので雨具を付け、東口駅前で記念撮影をして11時にスタートした。


 東口の商店街を進んで県道50号に入る。すぐ先の入曽交差点を左折し、「茶摘み通
り」と呼ぶ県道8号へ。墓地の先にあった細道を北に入って不老(としとらず)川沿い
に出た。

 流れに2羽のカモが泳ぎ、土手にムラサキツメクサが雨に濡れる。両岸はコンクリー
ト張りだったようだが、金属ネットに包まれた石積みに置き換えられていた。何年か経
つと草が伸びてきそう。


 左岸を県道50号近くまで行くと、県指定文化財の「七曲井(ななまがりのい)」と
呼ぶ漏斗状(ろうとじよう)の古井戸がある。周囲70m余り、直径26m、深さは
11.5mあるという。

 掘られた時期は建仁2(1202)年の説があるが確かではないらしい。ただ、府中
から入間川への奈良・平安時代の古道沿いなので、武蔵国府の手によるものと考えられ
るという。

 県道際には常泉寺の観音堂があり、江戸時代後期に作られた本尊、木造聖観世音菩薩
座像が祭られている。

 常泉寺は、元禄2(1689)年までこの地にあったが、観音堂を残して移転したよ
うだ。

 県道の入間(いるま)橋際を横断して、不老川左岸の草付きの道を下流に向かう。橋
の近くに「花と緑のイタリア料理店 ろくすけ」があり、流れに面して草花の鉢などが
たくさん並んでいた。


 少し先では、金網に詰めた石積みの堤防からクワなどの草木が伸びてきていて、昔の
堤防の様相に戻りつつある。大きなクワには、まだ青いが桑の実がいっぱいだ。



 大きくなったケヤキなどが川を覆う一角を抜け、新入曽橋を過ぎると住宅が減って畑
が増え、堤防にナノハナが咲く。





 再び住宅地が近づき、大きなクワやエノキなどが両岸に繁り、いっぱい花を付けたニ
セアカシアもある。 


 小さいダムのところで次の橋を渡り右岸に回る。南側一帯に貸し農園らしいエリアが
広がり、右岸には実を付けたハナモモが並ぶ。


 その先にはソメイヨシノの古木が数本続き、そのひとつに「観桜亭」の立て札があり、
下にベンチが設けられていた。



 貸し農園にはよく育ったネギやソラマメ、ジャガイモなどが見られ、ショウブやジャ
ーマンアイリスも咲いて彩りを添える。


 流れが右にカーブして県道八号の山王橋に出た。南に山王小があり、橋の左岸際の小
さいほこらに山王様が祭られていた。

 寛文12(1672)年に、入曽村の有志が村の息災を願って勧請(かんじよう)し
たものとか。祭られている山王様は青面金剛と三猿で、庚申信仰との習合が見られると
いう。


 その先にもソメイヨシノの古木が数本堤防に残る。流れが左にカーブした先、山王中
のグランドに接して休憩舎があったので入り、小雨を避けて昼食にする。


 すぐ先の東山王橋際に咲くたくさんのポピーを眺め、さらに左岸に沿って進み、次の
橋で不老川に分かれる。


 南側の山王保育所には、最近の卒園生の似顔絵を描いた大きなパネルが2枚並んでい
た。


 そばの十字路際のお宅には、手作りらしいものを含めて、たくさんのオモチャなどの
飾り物が所狭しと並んでいた。


 県道126号を横断して、周辺から何本も高圧送電線の集まる南狭山変電所の北端に
突き当たり、畑の境に茶の木の続く農道を北東に進む。


 古い土蔵などの残る富士見里集落を少しで、広い境内の堀兼(ほりがね)神社に入っ
た。


 うっそうとした常緑樹などに覆われた境内、ご神木のクスノキが高く枝を広げ、別の
ご神木は太い根元が空洞になっている。


 社殿の左下には「堀兼の井」呼ぶ、七曲り井と同様な構造の古井戸がある。やはり県
指定文化財で、江戸時代から史跡として知られているようで、さらに古くは千載集(せ
んざいしゆう)にて藤原俊成や源俊頼、西行法師などに歌われているという。


 朱塗りの山門を入り、石段を上がった盛り土の上に、周囲を木々に覆われた社殿が祭
られていた。


 背後の富士見台集落を東に抜けて畑のあぜ道を進み、「赤坂の森」と呼ぶ県の「ふる
さとの緑の景観地」になっている森に入る。


 森を横切って3月24日に開通したばかりの広い県道126号を横断し、堀兼・上赤
坂公園に入った。緑の森の中の大部分がサッカーグランドで、南側に管理棟がある。


 管理棟に入り、ふるさとの森に生息する鳥の古い写真を眺めたりして小休止した。


 赤坂の森を南下して県道を横切る。さらにうっそうとした森の中を進み、秋草学園高
の南側のT字路に突き当たる。ここから南西に向かい大河内集落の北側、標高66m水
準点の交差点に出た。

 この先、車道の西側に平行する林間の道との間のマッチ棒のような細長いエリアに、
両側を狭山市に挟まれた所沢市の一部が500mほど伸びている。


 中ほどで林間の道に回ると「八軒家大井戸跡」や「鎌倉街道」の標柱が立ち、所沢市
と思われる民家はその先に1戸だけだった。

 雨は本降りになってきた。車道を少し進んで先ほどの堀兼神社に14時30分に着き、
今日のゴールとなる。駅まで歩くという2人に分かれ、14時44分発入曽駅行きの循
環バスに乗った。

(参加 9人、天気 雨、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 川越南部、所沢、歩行地
 狭山市、所沢市、歩数 11,300)




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バラの見頃な新宿御苑(東京)

2013-05-16 22:13:37 | Weblog
 先週の週末近い5月10日(金)、新宿御苑を訪れました。

 目的は、カントリーウオークグループのメンバーTさんの所属するグループの風景画展
が、新宿御苑インフォメーションセンターのギャラリーで開催中だったからです。

 日本各地の風景を描いた14人の方々の風景画を観覧した後、そばの新宿門から、御苑
にも入園して、一部ですが園内を巡りました。

 東に向かって歩いて行くと、モミジが花を見せていました。


 近くの木の下には、シランがたくさん咲いています。


 園内東北部の広いエリアを占めるイギリス風形式庭園に回ると、高さ35m、樹齢100
年以上というユリノキの巨樹が目につきます。


 近づいてみると、花がたくさん咲いていました。


 近くで花の写真を撮っている女性がいたので回ってみると、伸び伸びと枝を広げたホオ
ノキでした。


 この木には、大きな花が枝に一輪ずつ咲いています。


 東側の大木戸休憩所から、玉藻池に沿って東側の遊歩道を進みました。


 その先のフランス式整形庭園に行き、プラタナス並木を抜けて中心のバラ花壇に行くと、
たくさんの人がバラの花にカメラを向けていました。




 そばのツツジも見ごろです。




 バラ花壇には何種類ものバラが色を競っています。




 撮っていたら、私より少し早く風景画展を見に来ていた、カントリーウオークグループ
のメンバー、Kさんご夫妻が声をかけてくれました。やはりバラを見ていて、私を見つけ
たようです。





 多彩な彩りのバラが咲き競い、どれから撮ってよいのか迷います。






 たくさんの種類があるバラなので、何という名のバラなのか、メモすることもせずにた
だ撮ることに専念です。









 そのうちに「間もなく閉園です」という園内放送が流れてきたので、急いで回ることに
しました。








 もう少し撮りたいのもありますが、そろそろ出口に向かわなくてなりません。







 新宿門に戻ったのは、閉園時刻の16時30分頃でした。



 今日、5月16日(木)、市内ウオーキングに出かけたら、あちこちのお宅でもバラが
花盛りでしたから、新宿御苑のバラも、まだまだたくさん花を競っていることでしょう。




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東京都心の三角点・水準点巡り

2013-05-15 21:08:51 | 地図
 2013年5月7日(火)

 連休明けも好天に恵まれた。先日解散した地図歩きグループのメンバーNさんと、東京
都心にある三角点と水準点巡りに出かけることにした。

 目的地は、「地図と愉しむ東京歴史散歩」(竹内正浩著、中公新書)の最初、「石垣に
刻まれた幻の水準点」に紹介された三角点や水準点を回ろうというものである。

 JR新橋駅に10時に集合して西口のSL広場を出て、最初に愛宕山に向かう。新橋4
丁目の日比谷通りに、「浅野内匠頭終焉之地」碑が立っていた。

 元禄14(1701)年3月14日、旧田村右京太夫屋敷跡で自刃したという。

 すぐ先で、道路工事中らしい広い空き地を横断する。同書にて「マッカーサー道路」と
記された環状2号線のようで、道路は地下に通すのだと帰宅後知る。


 愛宕通りに出て南にすぐで愛宕山の下に着いた。鳥居をくぐり「出世の階段」と呼ばれ
る男坂の階段を上がることにした。

 男坂は山上にある愛宕神社に向かって正面を上がる86段の急勾配の石段で、寛永年間
(1624~44)に間垣平九郎(まがきへいくろう)が馬で上下したと伝えられている。


 石段を上がった正面に愛宕神社の朱塗りの門があるが、参拝は後にして明治9(1876)
年以降に設置した日本最初の水準点といわれる「几号(きごう)水準点」を探す。


 水準点は、社殿手前右手の石碑の台座の隅に刻まれていた。石碑の文字は読みにくいが、
「愛宕神社起倒流拳法碑」らしい。



 地形図上には25.7mの三角点もあるので、その位置周辺を探したが見つからない。ち
ょうど来た近所の方が、「見たことがある」と探して教えてくれた。


 弁天池の横の大石の前に「三角点」の標石が立っていたが、三角点は鉄の蓋に覆われて
いて、開けてみることは出来なかった。


 二つの目的物を確認後、神社に参拝する。拝殿内部には奉納された大きな額が掲げられ、
そのひとつに間垣平九郎の絵もあった。


 境内には、「この石をなでて福を身につけて下さい」と記された招き石もあり、招福に
期待して私もなでる。


 南側にあるNHK放送博物館の観覧も予定していたが、連休開けの火曜日で休館してい
た。神社の背後から、山の北側を回る女坂を下って愛宕山を去る。

 愛宕通りを北に向かうと、すぐ先の交差点際にそば処「砂場」の古い木造建築が残って
いる。周辺はビルばかりなので目についた。


 外堀通りを横断して内幸町へ。経済産業省別館前に、「帝国議事堂跡」の説明板が立っ
ていた。

 明治23(1890)年11月に開催された、第1回帝国議会に合わせて仮議事堂とし
て木造で建設されたが、翌年1月には出火して全焼し、3年後に木造二階建ての議事堂が
再建されたという。

 次の目的地、日比谷公園に南西の西幸門(にしさいわいもん)から入る。園内には、二
つの水準点が残っているという。


 日比谷図書館の横から日比谷公会堂の東に回り、公園の南東端にある烏帽子岩の中央下
部の、草に覆われた几号水準点を確認した。




 烏帽子岩は江戸時代、江戸城外郭の市ヶ谷御門の石垣の中にあったが、道路拡張に伴い
石垣が取り壊され、ここに移したという。


 日比谷通りに沿った園路を北に向かう。第二花壇や大噴水を眺めながら進んで、公園の
東北にある心字池(しんじいけ)に回る。




 池の南端付近に南極の石が無造作に置かれていた。昭和基地から4㎞の、オングル島の
慎太郎山で採取した重さ150の片麻岩で、昭和41(1966)年4月にここに設置し
たとのこと。


 二つ目の几号水準点は、すぐ先の池畔にある「亀石」と呼ぶ平べったい石に刻まれてい
た。



 いずれも表示はなく、東京歴史散歩の本がなければ探せなかっただろう。


 日比谷公園の二つの水準点は見つかったので、少し早いが園内にある松本楼でのカレー
昼食とする。


 2階の宴会場「銀杏」でのカレービュッフエは11時半からのオープン。ちょうどオー
プンしたばかりなので空いていた。

 3種のカレー、スープ、料理、デザートなどがバイキング方式で飲食できる。窓の外の
新緑や窓辺の花などを眺めながら味わった。

 公園西側の霞門を出て、農林水産省や外務省の北側を進み、六本木通りから伸びる都道
412号に回る。


 国会議事堂を左上に見て国会前交差点を渡り、憲政記念館南側の公園に入った。

 公園の東南端に、地形図には記されてない1等水準点があった。そばに日本水準原点が
あるので、記されないのだろうか…。


 日本中の標高の基準となる水準原点は、少し上がったピークに近い、重厚な石造りの建
物にある。

 明治24(1891)年の設置当時は東京湾の平均海面から24.5mされたが、大正
12(1923)年の関東地震と一昨年3月の東北地方太平洋沖地震の地殻変動で、現在
の標高は24.39mに改正したという。

 標庫と呼ぶローマ神殿のような石造平屋の建物は、東京都有形文化財に指定されている。



 そばの広場には、憲政記念館建設時の昭和35(1980)年に完成した、高さ31.5
mの時計塔が立っている。



 東に見える丸の内のオフィスビルや皇居・桜田堀を眺めながら、国会前交差点に下る。
これから行く桜田門が工事中で、建物が覆われているのも望まれる。


 桜田門の皇居外苑側石垣にも、几号水準点が刻まれているようだが、そばに行ったらや
はり工事中の板塀に囲まれていて、探すことは出来なかった。

 門を入って皇居外苑に回り、二重橋前広場を通過する。付近には、西欧系らしい外国人
観光客が何組も見られた。



 巴櫓(ともえやぐら)↑を見ながら桔梗堀(ききょうぼり)の角を曲がり、大手門前に
行く。大手門から皇居東御苑に入って几号水準点を確かめる予定だったが、ここも連休後
の火曜日で閉園していた。

 今日の三角点、水準点めぐりは終えることにして東京駅に向かう。

 国道1号・日比谷通りから、東京駅丸の内口正面に通じる行幸通りに入り、復元された
東京駅を見る。


 南口方面に回り、旧東京中央郵便局を改築した「KITTE(きって)」と呼ぶ新しい
ビルに入った。6階まで吹き抜けの広場からエレベーターに乗って屋上に出る。



 眼下に東京駅丸の内南口が見下ろせ、東京駅の有楽町寄り線路や新幹線などのホームが
一望である。

 休日だが年配の人を中心に観光客が多く、昨日までの連休にはさらに賑わったものと思
われた。


 KITTEを出て東京駅丸の内南口に入り、大ドームを見上げる。


 松の植えられた中央口にも回ってカメラを構える。ここで解散することにして、14時
頃にNさんと分かれた。


 私は八重洲口に回って八重洲ブックセンターに行き、新しい地形図などを購入してから
帰路についた。

(天気 快晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 東京首部、歩行地 港区、千代田区)




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宮崎歩き旅日記④ 都城島津邸を訪ねる

2013-05-14 16:56:40 | ウオーキング
 2013年4月25日(木)

 JR京町温泉駅発14時9分の吉都(きっと)線上り列車は、15時29分に終点の都
城(みやこのじよう)駅に着いた。宮崎に向かう日豊本線上り電車まで2時間余りの待ち
時間がある。

 駅構内の観光案内所で、2時間ほどの市内観光の場所を聞いたら、都城島津邸を勧めて
くれた。無料の貸し自転車もあるという。ただ、観光協会が17時までなので、時間には
戻って欲しいとのこと。

 借用申込書に記入して市内地図ももらい、自転車を借りる。島津邸へは、駅前の通りを
南下して警察の次の交差点を右折するという。自転車で15分くらいとのこと、後で測っ
たら距離は約2.7㎞。15時45分頃駅を出て、島津邸には16時頃に着いた。

 明治2(1869)年の版籍奉還により、都城島津家26代久寛(ひさひろ)は都城を
離れたが、旧家臣たちの強い求めに応じて明治13年に都城に帰郷した。以前の屋敷地は
小学校(現在の明道小)の敷地として提供したので、新しく居を構えたのがこの都城島津
邸だという。

 敷地面積は約1.5㏊、剣道場やプール、テニスコート、石蔵など、名家の生活を思わ
せる施設も多数残っているという。


 国登録文化財になっている北側の御門を入る。まず「都城島津伝承館」に入館し、都城
島津家から寄贈された数々の資料や、衣装、武具などの展示を一巡した。館内は撮影禁止
である。


 次に、伝承館と相対する国登録有形文化財の本宅に入る。本宅は、明治12年建設の旧
邸を昭和10(1935)年11月の陸軍大演習に合わせて改築し、さらに昭和47
(1972)年には、翌年の植樹祭に来られる昭和天皇の宿泊に供え、大改装したという。



 順路に従い各部屋を巡ったが、幾つかの部屋に島津家伝来の五月人形が飾られていた。






 部屋から眺める日本庭園の眺めも趣がある。





 昭和天皇が昭和48年の全国植樹祭の際に宿泊された際の、夕食のレプリカも展示され
ていた。



 さらに、天皇陛下の休息の間、御座所↑や更衣室である御召替室、御寝室なども公開さ
れている。



 本宅内部を一巡した後、日本庭園を巡る。小さいながらもプールも残っていた。防火用
水の役割も果たしていたという。


 本宅の北側にも、島津広場と呼ばれる芝生の広場があり、大きなクスノキが目につく。





 広場の北の道路際には、休憩所になっている石蔵↑や剣道場↓があり、いずれも国登録
文化財。





 ほかに農具や田の神を飾った島津農芸館などもあった。





 島津広場の隅には、石をくり抜いて作った石風呂が置かれ、広場には鯉のぼりが風をは
らんで泳ぐ。


 休憩所横の、飲み物の自動販売機は特注品らしい。



 邸内を巡るうちに時間が迫ったので、駅に向かうことにしたが、自転車の鍵がうまく開
かず手こずる。


 残り10分となり急ぎ島津邸を出て往路をひた走り、17時ちょうどに駅に戻った。

 しばらく待合室で休み、17時42分発日豊本線宮崎行きに乗る。南宮崎で空港線に乗
り換え、宮崎空港に18時54分に着く。

 空港内のラーメン店で宮崎名物冷や汁ラーメンを食べて夕食とし、19時50分発ANA
618便に乗る。

 羽田空港に21時30分に着き、約2時間近くかけて帰宅した。

 予定はして無かったが、乗り継ぎ時間を利用して都城島津邸を巡ることも出来、収穫だ
った。





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宮崎歩き旅日記③ 真幸駅から京町温泉へ

2013-05-13 12:33:49 | カントリーウオーク

 帰ってから2週間以上も経過し、季節感がずれてしまいそうですが、宮崎の旅最終日の
模様を2回に分けて報告します。

========================================

 2013年4月25日(木)

 JR吉都(きっと)線の、京町温泉駅8時56分発下り隼人行きで吉松まで行き、肥薩
線上り人吉(ひとよし)行きに乗り換え、9時19分に無人の真幸(まさき)駅に下りた。

 真幸駅は標高およそ385m。吉松駅から少しずつ高度を上げ、次の矢岳(やたけ)駅
へも急な上り勾配が続き、肥薩線でも「山線」と呼ばれる険しい区間で、逆Z字型のスイ
ッチバック構造になっている。


 駅の1日平均乗降人員は、2010年度には1人とか。今日は私が下りたので、もうほ
かに乗降客は無いかもしれない。


 吉松から突き当たりのホームに入った列車は、バックして引き込み線に入り、再度向き
を変えて駅の西側から斜度を上げて矢岳駅に向かって上がって行く。駅に入らずには通過
できない構造である。


 ホームの先端に、昭和47(1972)年7月に発生した山津波で駅を襲った重さ約8
トンという大石が、記念石として現地にそのまま保存されていた。


 構内には、2年前に迎えた開業100周年の看板が残る。明治44(1911)年5月
11日の開業で、宮崎県内で最初の駅だという。宮崎県最西端の駅でもある。

 看板の前には、この地方独特の「田の神さぁ」と呼ぶ石像が並んでいた。


 ホームに、駅名ゆかりの、幸せを感じる度合いに応じて鳴らすのがよいとされる「幸せ
の鐘」が吊され、駅舎の横には幸せを祈る絵馬がたくさん下がる。



 待合室にも、幸せにちなむ掲示が幾つも貼られていた。北側の、新緑に彩られた山並み
が気持ちよい。



 スイッチバックの末端を見ようと駅下の国道447号に下り、線路を越えて吉松側に1
㎞近く戻ってみたが、木が茂っていて確認できなかった。


 駅の方に戻る途中では南側の展望が開け、眼下の西内堅集落や、春霞ながらも霧島連山
が望まれる。


 今日のウオーキングは、白川に沿って走る国道447号を主に、京町温泉に向かって下
ろうという計画である。

 最初は国道を離れ、駅の南側、白川を挟んで数戸の西内堅集落を抜ける細道に入る。

 谷間に棚田があるが、まだ水が入らず田植えはしばらく先になりそう。


 周辺の新緑の山並みや、行く手の霧島連山を長めながら少しずつ下る。そちこちの斜面
にフジの花が咲いているのが望まれる。


 家並みが途切れて白川を渡り、東側の国道に上がった。川の近くに、今も使われている
らしい水車が回るのが見える。



 さわやかな風を感じ、周囲の山並みの展望を楽しみながら少しずつ高度を下げる。


 谷が広がり、田んぼも増えてきた。きれいな空気と清涼な水に恵まれたこの環境が、あ
のおいしい真幸米となって食前に上がるのだろうか…。



 向こう見える霧島連山が、駅周辺よりはっきりと望まれるようになってきた。純白のオ
オデマリが花盛りである。


 1時間余り国道を下ったが、通過した自動車は10台も無く、周辺の景観を楽しみなが
ら安心して歩ける。


 左に大きくカーブして梅木集落にかかったところで、国道を離れて集落を貫く旧道に入
った。

 東側の山並みの稜線上に、10本前後のアンテナ群が見える。地形図で調べたら、陸上
自衛隊えびの送信所のアンテナと分かった。


 集落を東北に抜け、右から回ってきた国道に合する十字路に出た。この先は、周辺にあ
る四つの「田の神さぁ」と呼ぶ、石像を探すのが今日の主な目的である。昨夜旅館で、こ
の周辺にある5か所の田の神の場所を、地元の農家の方に教えてもらってある。

 田の神は、冬は山の神となり、春は里におりて田を守り、豊作をもたらす神として信じ
られ、民俗行事として古来から農村に浸透していたようだが、田の神を刻んだ田の神神像
を造り、豊作を祈願する風習は、18世紀初頭に始まった薩摩藩独特の文化とのこと。私
も見るのは初めてのことだ。

 この十字路近くにあるはずの最初の田の神を探したが見つからない。そばの家のご主人
が帰宅されたので聞くと、国道を200mほど戻ったところと教えてくれた。


 行ってみたら、そばに隣の田の作業に来た方の軽トラックが止めてあり、正面からは撮
りにくい。

 傍らに、えびの市指定文化財の説明板もあり、像の背面には「享保十(1725)年六
月吉日」の刻銘があり、えびの市内で2番目に古い田の神像だという。背後の田はレンゲ
が花盛りになっていた。

 交差点に戻り、90度右カーブする国道に分かれ、北に伸びる道を東内堅集落へ。ツツ
ジが咲き競うお宅の入口に、「国指定天然記念物薩摩鶏」の標柱が立っていた。

 この家で薩摩鶏が飼育されているのだろうか。時間が無いので聞かずに通過する。

 この集落からも、霧島連山や周辺の田園地帯などの展望が広がり、鯉のぼりの泳ぐ家も
ある。


 この後回る予定の、田んぼの中の神社の森も間近に見下ろせる。

 東内堅集落を抜けて、右からの車道に合する。次の湯園集落の末端辺り、車道が左カー
ブするところに、大イチョウの立つ日枝神社があった。


 境内はわずかで社殿も小さい。ふと見たら鳥居の左下に、田の神が祭られていた。


 この神社は、昨夜旅館で聞いたが場所が分からず、地図にも無く、この先の寺のそばに
あるのではと言われていたので、早めに分かって幸いだった。

 田の神の台座には、「大正七(1918)年二月二十五日に福岡さんが満七十歳記念に
造って奉納」したことが刻まれていた。


 緑あふれる周囲の景色を眺めながら、田んぼの中に見える神社に向かう。



 田のあぜ道を東へ、湯ノ川左岸まで行き、左岸に沿って進んで少し先、「水流(つる)
天満宮」とも呼ばれる菅原神社に入る。

 太鼓橋を渡ると、精悍な風貌の仁王像が両側に立つている。八代将軍吉宗の時代の享保
10(1725)年4月の建立だという。12時半近いので、拝殿に参拝後、横の濡れ縁
を借りて昼食をする。

 昼食後探したら、穏やかな顔立ちの「田の神さぁ」は、鳥居の左手の小さい社に祭られ
ていた。

 建立の時期などは分からないが、えびの市の観光パンフレット「えびナビ」によれば、
市内で5番目に古いとのこと。ちなみに「えびなび」には、市内にある19の田の神の場
所が記されている。

 田んぼの中を南に貫く参道を真っ直ぐに進む。赤鳥居から振り返る鎮守の森も、新緑に
彩られていてみずみずしい。



 明治2(1869)年の猿田彦大神碑のある十字路を過ぎ、水流集落に入った。集落の
家々は、りっぱな生け垣や石垣に囲まれていて、数10年前にタイムスリップしたような
感じ。


 古い門構えの屋敷もあった。


 集落を南に抜け、川内川(せんだいがわ)右岸に出て国道に合し、悠々と流れる川を渡
る。流れは、3㎞足らず下流で県境を越えて鹿児島県に入る。


 橋を渡って右岸堤防上を少し進み、昨夜泊まった京町観光ホテルの横を抜け、京町温泉
の町並みを貫く国道268号を横断する。

 えびの共立病院前を通過し、この辺りにあるという4つ目の田の神を探したが見つから
ない。病院前に戻り、玄関にいた人に聞くと、線路の踏切際にあると教えてくれた。行っ
てみたら、川内川に流れ込む支流の堤防上にあった。

 素朴な顔立ちの、この田の神にも花束が供えられていて、地元の人々の信仰の深さがし
のばれる。

 昨夜旅館では、もう1か所、田の神のある場所を教えてもらっていたが、列車の時間も
あり、回るのは省いて駅に向かう。13時36分に京町温泉駅に着いた。

 駅前に京町温泉駅前公園があり、昭和10(1935)年と12年の2度、この地を地
れた野口雨情の直筆の歌碑があり、「真幸京町別れが辛い 霧が姿をまた隠す」と記され
ていた。


 公園の中心には、昭和43(1968)年2月に発生したえびの地震による被災のこと
を記した「えびの地震記念碑」もある。


 駅前には、地元7つの自治公民館で制作した、田の神さぁが並んで迎えてくれている。


 宮崎空港に向かって帰路につくことにして、14時9分発吉都線上りワンマン列車に乗
った。


(天気 快晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 吉松、加久藤、歩行地 えびの市、
 歩数 20,200、累積標高差 上り約150m、下り約310m)




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