あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

新ハイキング社から『首都圏で緑求めて さあ、ハイキング!』発刊

2015-04-29 21:46:42 | Weblog
 2015年4月29日(水)

 春の大型連休、皆さんはハイキングのご計画など、されておられますでしょうか…。

 月刊のハイキング誌「新ハイキング」を発行している新ハイキング社から、4月18日
に新しい書籍『首都圏で緑求めて さあ、ハイキング!』が発刊されました。

      

 この書籍は、都心から電車で1時間以内に行けて、最長4時間の軽いハイキングコース
が60コース紹介されています。

 発刊の主旨は、長い間山歩きを楽しんできたハイカーも高齢になり「若い人たちのペー
スでなく、ゆっくりと自分のペースで楽しみながら歩きたい」という声や、ハイキングの
初心者から「キツいコースに行く前の、足慣らしになるようなコースの紹介を」、あるい
は介護などで忙しい人からの「昼間の5~6時間だけ開放されたときに、思い切り緑の中
で手足を伸ばして歩けるコースを紹介して欲しい」といった要望に応えたものです。

 本書では、月刊誌「新ハイキング」でここ5年以内に紹介された約1500コースの中
から、上の要望にかなう60コースを選んで、沿線別にまとめてあります。



 コース選定の条件としては、
 
 ① JR山手線の駅から1時間圏内の駅を起点とする

 ② 歩行時間は4時間以内

 ③ 街歩きや七福神めぐりは対象とせず、主に緑の中を歩くコースであること

 となっていて、いずれもこの条件を満たしたコースになっています。

 巻末には、季節別の掲載コースや、お好み別の掲載コースとして、花を楽しむ、古寺社・
城跡・歴史の道、水辺・川の流れ、尾根歩き・展望を楽しむ、里山歩き、街道・旧道歩き、
ちょっとチャレンジ、といった分類もされているので、時期やお好みに合わせ、あるいは
自宅から近い駅からのコースを選んだりして、出かけることも出来ます。

 各コースには、起点駅、歩行時間、コースの具体的で詳細なガイド、コース地図、コー
スタイムと距離、交通費や入園料など費用、問い合わせ先、地図(2万5千分の1と20
万分の1)など、歩くのに必要な情報は十分に盛り込まれています。

 日ごとに緑濃くなる絶好の季節となりました。本書を参考に、どうぞ緑を求めて首都圏
でのハイキングをお楽しみ下さい。

 お近くの書店にない場合は、注文すれば取り寄せてもらえます。

 ちなみに、この60コースの中には、私の投稿した次の2コースも掲載されました。

  吾妻山-二宮北部(JR東海道線 二宮駅起点)

  市川真間から矢切へ(京成本線 市川真間駅起点)


 書籍名 『首都圏で緑求めて さあ、ハイキング!』

  編集・発行 新ハイキング社、A5版 259頁、本体定価 1,600円


 なお、手渡しできる方でしたら、私に連絡いただければ、著者割引価格で斡旋します。




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所沢航空記念公園 日本庭園の春の彩り(埼玉)

2015-04-28 16:00:50 | 所沢だより
 2015年4月27日(月)

 今日も快晴、市内ウオーキングでいつも行っている所沢航空記念公園に入り、茶室「彩
翔亭(さいしょうてい)」のある日本庭園に回りました。

 庭園入口付近のケヤキも、やわらかな彩りに。


 門を入った近くのツツジは満開です。


     彩翔亭のそばのつくばい回り。
    

 庭園の南西側は、ケヤキを主とした広葉樹の下に散策路が設けられています。
    

 その手前のツツジの群落。


 中心部の池の周辺。




 彩翔亭の前に咲くボタン


          池の北側に咲き出したショウブ
          

 池の東北側、竹林の下にはシャガがたくさん咲いていました。


       池の東側のツツジ。
      

 その先、築山に上がるとヤマブキが。


         築山には、幾つかのシャクナゲも。
        

    

 白い小さな花は何だろう。


         このツツジはまだ咲き始め。
        

 モミジの若葉も気持ちよい彩り。


         

 築山には白つつじも。


       日陰に咲くシャクナゲ。
      

 築山を西に下り、もう一度池の北側に戻ります。




 まだこの先も、ツツジやシャクナゲなどの彩りが楽しめそうです。
 



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アートウオークセラピーで三浦市金田を歩く(神奈川)

2015-04-27 20:26:39 | カントリーウオーク
 2015年4月26日(日)
 
 快晴の今日は、先月に続いて山浦敬子さんのアートウオークセラピーに参加した。集合
は京浜急行の三浦海岸駅に10時。10時15分発剣崎(つるぎさき)行きバスに乗る。


 バスは金田(かねだ)湾沿いに出て、県道215号を2㎞余り南下した金田バス停で下
車し、10時35分にスタートした。

 県道の西側、宮ノ脇集落の中を抜ける旧道に入ると、家並みの向こうにキャベツ畑が広
がる。



 Y字路を北西に入る。民家の庭先に、実をいっぱい付けた海藻が干してあった。
    

 すぐ先にりっぱな山門の圓福寺がある。


      
 山門を入った参道には、真ん中が空洞になったマキの古木が立つ。その先は樹齢500
年という大イチョウが両側に並び立ち、何羽かのウグイスが美声を競う。ソテツの古木も
あった。


 圓福寺は三浦七福神の恵比寿神の寺で、参道には新しい七福神の石像も並ぶ。


 恵比寿像は海から拾い上げたものとか。そのことを記した説明板が石段下に立っていた。



 石段を上ると、左に平成8年(1997)落慶の鐘楼堂が、正面に昭和7年(1932)
再建というの銅葺きの大きな本堂がそびえ立つ。


 本堂前の常緑広葉樹の枝は、龍のような形をしていた。


 石段下まで戻ると、境内の一角の小さい建物にかわいい土人形がたくさん並んでいた。
    

 この寺に生まれた村上タカさんが、自宅などで陶芸教室を開く傍ら、益子から取り寄せ
た土を電気釜で焼いた作品のよう。すでに200以上の石膏があるという。
    

    
 北に向かう道、ツツジが鮮やかな彩りを見せ、民家の垣根のカナメモチの一部の枝だけ
に、細かな花が咲いている。
    

 北側の蛭田集落に入り、緩い斜面を台地上近くまで上がる。大きな日本家屋風の建物の
白壁に、十字架のあるのが目に付いた。

 門には三浦修道院の表示が出ていて、その先は行き止まり。

 戻って集落の中心部のT字路に出る。すぐ手前の家の玄関周りに、たくさんの人形が並
んでいた。
    


 T字路の北側に、かやぶき屋根にトタンを被せた旧家を見下ろし、南西への未舗装の道
へ。クスノキなどの木に囲まれた一角に、小さな祠(ほこら)が祭られていた。

 その先の民家の庭には、オオデマリがあふれる光を受けて咲き競う。
    

 車道に合した辺りは高台で、東側に金田漁港や霞む房総の山並み、その間を通過するタ
ンカーらしい大型船舶などが望まれる好展望地。

 ここでスケッチタイムとなり、5分ほどでそれら景色を思い思いにスケッチブックに描
いた。

    
 傍らの畑のキンセンカが鮮やかな彩り。ムラサキの花を見せるこの花の名は、誰も分か
らない。
    

 少し下ると、白フジも満開である。


 宮脇集落の神社に向かう途中、台地上の畑に植えるスイカの苗を、外国の方も含めて数
人の若人が軽トラックから運んでいた。特産の三浦スイカは、これから育つのだ。
    

    
 宮脇の三差路に、江戸時代の青面金剛など3基の石塔が並ぶ。近くにも、かやぶき屋根
にトタンを被せた旧家が残っていた。

 そばの家の道路際で、ギョリョウバイの小さな花が咲き出している。この花を見たのは
初めてだ。
    

 T字路を左折して12時5分に走湯神社に着き、社殿左手の木陰で昼食とする。


 走湯神社という名の神社も初めてだが、歴史などを記したものはない。ここでも間近に
ウグイスの競演を聞く。
      
 境内には、かなり枝を払ったイチョウの古木や御輿蔵(みこしぐら)らしい建物がある。

    
 食事を終えて先ほどのスケッチ作品を見比べ、12時40分頃、神社を後にした。
        

 少し東進して十字路を南下し、水神集落の清伝寺に入る。開山は建武年間(1334~
5)、本尊は聖観世音菩薩で、三浦観音霊場の八番霊場である。


 境内に「かっぱの証文」の説明板があった。「昔そばの鈴川にかっぱが住み、里人にい
たずらするので困り、かっぱを捕らえてこらしめていると、聞きつけてきた和尚が見かね
て止めに入り、かっぱを助けてさとし、かっぱは前非を悔いて詫び状門を書いた。」とい
う話が、この寺に残っているという。

        
 境内には、猫地蔵の墓や愛犬の墓もあった。本堂の横で今日の記念撮影をする。
    


 寺を出て畑の中を南西に進み、丸山の台地上部にある小さな神社に上がる。周辺に民家
はなく、神社の名も分からない。


 台地上部もキャベツなどの畑が広がり、金田湾を回った東北部にある、横須賀火力発電
所らしいタワーと建物が望まれる。



 収穫中のキャベツ畑の横の農道を南西に進む。


 古い庚申塔の並ぶ先から林間の抜け道を標高50m付近まで上がる。


 農道に出た辺りには、野生のフジが咲いていた。



 南側の対斜面に段々状のキャベツ畑を見ながら、ヘヤピン状に折り返して東に下る。大
きな倉庫の建物横を上がり、ネギ畑などの間の直線状の道を進む。



 三浦スイカを植え付け中の畑の先で、三浦霊園の墓石展示場横に出た。

 展示場のトイレを借りて、そばのベンチで小休止する。

 東進して仙神集落を東に下り、金田湾沿いの県道215号にある岩浦バス停に14時26
分に着く。待つ時間も無くバスが来てすぐに乗車し、三浦海岸駅に戻った。


 皆さんと別れ、14時50分発上り電車で帰途についた。

(参加 6人、天気 快晴、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 三浦三崎、歩行地 
 三浦市、歩数 10,200)




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関東山の辺の道⑭ 足利から太田・三枚橋駅まで(栃木・群馬)【続き】

2015-04-25 13:16:55 | 関東山の辺の道
 2015年4月22日(水) 〈続き〉

 足利市の中心部を東西に抜ける県道67号・中央通りの通六丁目にも、古い商家がわず
かに残っていた。


 市街地が終わる通七丁目の、山すそに見えた三宝院に寄る。


 豪壮な本堂の前に、花をいっぱい付けたモミジが新緑の彩り。


 墓地には、佐野唐沢城主藤原秀郷の子孫、足利五郎藤原行国の墓があるようだが、探す
のは止めて先に向かう。

 近くの常念寺は、コンクリート造りの本堂が台地の斜面にたち、傍らに幼稚園がある。

 足利七福神の毘沙門天が祭られていて、何年か前の正月に、七福神めぐりで参拝したこ
とを思い出す。

 創建は平安末期の康治2年(1143)と伝えられ、時宗の宗祖一遍上人(いっぺんし
ょうにん)が遊行中に荒廃した寺の再建に尽力したとか。境内には一遍上人像が立ってい
た。
        

 その先は、県道の南に平行する車の少ない旧道を進む。JR両毛線と交差するところは
いったん県道で越え、再び旧道に戻り、近くの大手神社に寄る。

 祭神は、天岩戸(あまのいわと)開きの神話で知られる天手力男命(あまのたじからお
のみこと)。こぢんまりした開放的な境内で、社殿両側のケヤキのほかに木は少ない。

 人間の手の神様として尊敬され、手を病む人や手の上達を願う者の祈願神のようで、手
の型を描いた絵馬がたくさん奉納されていた。
    

 南側に、渡良瀬川左岸河川敷にあったらしい足利競馬場の広い敷地が残り、その一角に
できた足利赤十字病院の大きな建物が見える。

 さらに旧道を進んで、町田集落の八雲神社の横を過ぎる。


 集落の西で県道に出て、北関東自動車道の下を抜けて南側の鹿島町に入り、12時17
分に鹿島神社に着いた。


 境内南側の木立の下は児童遊園地になっている。そばの、円筒状のコンクリート塊がた
くさん集められたところで昼食とした。


 12時45分に神社を後にして、集落の中を南東に進んで渡良瀬川に架かる鹿島橋際に
出る。


 橋の近くの通りのハナミズキも満開の彩り。左岸堤防には、自転車も通れる歩道が設け
られていた。

 川の中ほどが栃木県と群馬県との県境。2006年4月24日、茨城県桜川市から栃木
県二宮町(現在は真岡市)に入ったが、毎年1日ずつしか、途中2年抜けた年もあり、
10年がかりでようやく栃木県を通過することができた。


 右岸、太田市側の斜面林は淡い新緑が広がり、上流に霞むのは赤城山だろうか…。




 堤防にはナノハナが咲き競う。



 橋際にあるそば処を横に見て、只上(ただかり)町で北関東自動車道の下を抜けて県道
65号を出て、静かな旧道に回る。



 広い麦畑の横を通過して、浄水場の先で国道50号を歩道橋で越える。


 その先、富若町には熊野神社があったので参拝した。


 社殿左手の盛土の上に、文久元年(1861)銘の小さな祠(ほこら)が祭られていた。

 集落の南端付近に、養蚕農家だったのだろうか、門構えの大きな民家が目に付く。


 小さい流れのところで、変則十字路を南西に真っ直ぐ伸びる道路に入る。物流センター
の前を過ぎると、行く手右手に金山城があったという金山(239m)が望まれる。


 国道122号を横断して東部消防署の横を過ぎ、山すその旧道を南西に進む。追分交差
点で国道407号に接し、さらに旧道を進んで熊野町に入り、無量庵に寄る。


 ちょうど東武伊勢崎線太田駅の北1㎞ほどのところだが、周辺は閑静なたたずまい。墓
地のそばのフジが、たくさん花を見せていた。


 台地下の旧道を群馬大の北側まで進む。南に突き出た台地の階段を上がると嵩山神社だ
が、石段の途中に「社殿焼失の為参拝出来ません」の立て札。さらに少し上がったが、階
段最上部にロープが張ってあったので上がるのは止めた。

    
 神社敷地の西側下部へ回ると、ツツジが色鮮やかに咲く。すぐ先でV字状に折り返して
北に伸びる道は、静かな住宅街を抜けている。


 300mほどで左折して、金山町を西進する。次の十路際に、山田屋という和菓子店が
あった。

 名物という焼きまんじゅうをひとつ注文し、温かいお茶とともにいただく。焼麩(やき
ふ)に醤油だれをつけたような感じで、フワフワした独特の味わいだった。
    

 太田といえば「吞龍(どんりゆう)さん」という名は、子どもの頃から知っていた。店
の人に聞いたら、この先寄る予定だった地図上の大光院だという。道理で、地図で市街地
や周辺を見ても、吞龍の字が見当たらなかったのだ。

 八瀬川沿いに出て住宅街を北に真っ直ぐ進むと、広い境内の大光院に突き当たる。

 「吞龍様」の名で親しまれる大光院は、慶長18年(1613)徳川家康がその祖とし
た新田義重を追善するために創建したとのこと。大光院は義重の法号だという。寺領は
300石で、徳川幕府が定めた浄土宗の学問所「関東十八壇林」の一寺。

 初代住職に迎えられたのが江戸・芝増上寺の吞龍上人。吞龍は庶民教育に心をくだき、
生活困窮者の子供を弟子の名目で養育し、その高徳により「子育て龍」として信仰を今に
集めているという。


 吉祥門と呼ぶ山門を入ると正面に大本堂があり、その間に吞龍上人お手植えと伝わる、
樹齢約700年の「臥龍松(がりゆうまつ)」と呼ぶクロマツの老松が、昇天する前の巨
龍のように枝を低く広げている。


 左手には朱塗り鉄筋コンクリート造りの開山堂が、本堂に近い大きな堂于を見せる。堂
内には、吞龍上人自作の尊像が安置されているという。


    

 5月5日の花祭りを控え、境内には長いテントが幾つもつくられていた。当日の境内は
大賑わいになるのだろうが、今日は参拝者もまばらで閑散としている。

 寺を出て八瀬川左岸沿いに500m近く進み、田園地帯を真っ直ぐに貫く車道を北進す
る。

 途中にはもう穂の出た小麦畑もあり、東側山すそには三枚橋病院の大きな病棟が望まれ
る。


 長手町まで進んで左折し、東武桐生線の無人駅、三枚橋駅に16時8分に着いた。


 16時36分発東小泉行き上り電車で帰路につき、3時間15分ほどかけて20時近く
に帰宅した。

(天気 晴、距離 17㎞、地図(1/2.5万) 足利南部、足利北部、上野境、
 歩行地 栃木県足利市、群馬県太田市、歩数 31,400)





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関東山の辺の道⑭ 足利から太田・三枚橋駅まで(栃木・群馬)

2015-04-24 18:27:05 | 関東山の辺の道
 2015年4月22日(水)

 関東平野の周辺部を反時計回りに歩き続ける私のオリジナルウオーク、「関東山の辺の
道」の14回目を、昨年10月以来半年ぶりに実施した。

 スタートは、前回にゴールした東武伊勢崎線の足利市駅。9時38分に出発する。



 駅北口から北側を流れる渡良瀬川の中橋を渡る。


 県道67号・中央通りには見頃になったアメリカハナミズキの並木が続く。



 通一丁目の角に、「足利まちなか遊学館」があったので入館した。足利は古くから「織
物のまち」として栄えてきた。

    
 展示コーナーには、結城紬(ゆうきつむぎ)を織る足踏織機、組紐をつくる組物機械↑
や、百年前の物というタペストリー↓など、織物ゆかりの品が展示されていた。
        

 その横を北に少しで、日本最古の学校で国指定史跡の「足利学校跡」へ(参観料420
円)。


 足利学校の創建は諸説があるようだが、歴史が明らかになるのは室町時代に上杉憲実
(うえすぎのりざね)が、現在国宝になっている書籍を寄進し、学長制度を設けるなどし
て学校を再興したころからとか。

 天文18年(1549)にはフランシスコ・ザビエルにより、「日本国中最も大にして、
最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、学徒3000といわれるほどになったという。

      
 入徳門を入って受付を済ませ、よく手入れされた松の間を進んで学校門↑を入ると、広
い構内に幾つもの建物が目に入る。


 イチョウやケヤキなどの新緑がみずみずしく、モミジもよい彩り。
    

    


 正面の孔子廟(こうびびよう)↑から南庭園↓、方丈(ほうじよう)、庫裡(くり)、
木小屋、東側裏手の土蔵や北庭園、さらに西北端の歴代学長の墓、収蔵庫などを一巡して
観覧した。


 こちらは方丈



 学校門を出て、そばの麦とろの店↑の横を西へ、足利織物や吊し飾りの下がる店の前を
通過して次の角を北に進む。


    


 右手には満開のヤエザクラ、フゲンゾウ(普賢象)や、茂右衛門蔵と呼ぶ安政5年
(1858)創建の土蔵↓があり、その先にも2階建ての土蔵と大きな古民家が残る。
      

 左手小さな空き地には、「征夷大将軍足利尊氏公像」が立っていた。
      

 その通りの突き当たりが、室町幕府を興した足利氏の居館跡で国史跡、市民からは「大
日さま」と呼ばれ親しまれている鑁阿寺(ばんなじ)である。


 平安後期、源氏の祖、八幡太郎義家の子の義国、その子足利義康(足利氏の祖)の2代
にわたり堀と土塁を築いて邸宅とし、尊氏から7代前の足利吉兼(よしかね)が鎌倉時代
初期の1190年代に、邸宅を撤去して大日如来を本尊とする鑁阿寺を設立したとのこと。


 約4万㎡あるという敷地の四方には堀と土塁を巡らし、東西南北にある橋を渡らないと
入れない。

 太鼓橋を渡り、永禄7年(1564)足利幕府13代将軍足利義輝の再建という仁王門
を入る。堀には大きなコイが泳いでいた。


 広い境内はケヤキやクスノキ、モミジなどの新緑にあふれ、本堂前のシダレザクラが咲
き残る。


       

 国宝の本堂は、正安元年(1299)の再建。境内に山門、鐘楼、不動堂、一切経堂、
多宝塔、御霊殿などの七堂伽藍(しいどうがらん)を備え、東国の密教の代表的な寺とい
う。広い境内を一周して、それら堂塔を巡る。


      

 本堂前には、樹高31.8m、目通り8.3m、樹齢550年前後と推定され、縁結び
のご神木ともいわれる栃木県天然記念物のイチョウの巨木がそびえ立つ。
      


 校倉(あぜくら)の周辺でツツジが花開き、ヤエザクラも満開間近。
    


 西北にある2本のクスノキが大きく枝を広げ、モミジは、赤い小さな花をたくさん見せ
ていた。
    


 鑁阿寺を出て、北仲通を西進する。通の両側には、古い民家や商店、公衆浴場など、昭
和を感じさせる建物が残っていた。



 台地の中腹にある織姫(おりひめ)神社の下に来たが、足利学校と鑁阿寺の観覧に時間
をかけたので、神社に上がるのは止め、南側の中央通りに回る。通りのそばの織姫交番は
神社のようなつくり。


      
 そばの八雲神社の鳥居際には、高さ25m、目通り3.45mというイチョウの高木が
あり、境内の2本のケヤキも大きく背を伸ばして立つ。
      

 ---------------------------------------

 まだスタートして間もない距離ですが、写真枚数の関係でこの先は次項に続きとします。




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続カタツムリ歩行で浦和駅の東部を歩く(埼玉)

2015-04-20 10:23:42 | カタツムリ歩行
 2015年4月19日(日)

 続カタツムリ歩行の第23回例会に参加した。集合はJR京浜東北線の浦和駅。改札を
出た広い駅構内の一角に、サクラソウの鉢が並ぶ。
    

 さいたま市桜区にある「田島ヶ原サクラソウ自生地」は国の特別天然記念物で、今日は
自生地の桜草公園と、さいたま市役所とで「さくら草まつり'15」を開催中とか。ちな
みにサクラソウは、埼玉県とさいたま市の花である。
    

 10時ちょうどに東口を出た。駅前広場には「浦和のうなぎ」のパネルがあり、この駅
周辺にある、うなぎ料理店の地図が描かれていた。

 浦和のうなぎは江戸時代か続く伝統の味で、「岩槻の人形」「大宮の盆栽」と並び、市
の伝統産業に指定されているという。

 その先には、市内の古い写真とその説明パネルが並び、明治23年(1890)の旧浦
和駅停車場の写真もあった。

 浦和駅は、明治16年(1883)の日本鉄道上野~熊谷間の仮営業開始とともに、王
子・上尾間の駅として設置され、開業から間もない頃は2面3線の地上駅だったようだ。

 平成25年(2013)には湘南新宿ライン用のホームも設けられ、現在は高架上に3
面6線のホームが設置されている。


 線路に沿って南下して東高砂町に入り、まずは円蔵寺へ。大きな本堂の前に立つ、イチ
ョウの高木が淡い彩りを見せる。
      

 境内は緑豊富で落ち着いたたたずまい。寺の歴史などを記す説明板などはなかった。


 少しだけ線路沿いを進み、たくさんの鉢花の並ぶ民家の横を左折する。
    

 その先の民家ではヤマツツジが色鮮やか。


 東通りを横切り前地(まえじ)一丁目に入り、墓地の奥に祭られた改築新しい前地薬師
堂へ。

 この墓所は、天台宗別格本山吉祥寺の末寺のもので、昔、昌順阿闍梨(あじやり)の隠
居所としても使われ、疫病流行の際には隔離所にもなったという。

 墓地内右手には、薬師堂より小さな阿闍梨堂も祭られていた。
    

 墓地の横を北に少しで、柊稲荷社(ひいらぎいなりしゃ)の小さな社殿がある。
    
 かつて金庫が珍しかった時代に大きな金庫があったので、「金庫稲荷」と呼ばれていた
とか。この場所は私有地のようで、家人の許可無く入ることはできない。

 前地三丁目と太田窪(だいたくぼ)二丁目との境の道路に「籐右衛門川通り」の表示と
「旧跡 谷田千本桜 一本橋跡」の石碑が立ち、ツツジの植え込みの続くこの通りが、川
の流路だったことが知れる。


 太田窪二丁目から一丁目に回り、八雲神社に行く。開放的な境内で、拝殿前のアカマツ
のほかは植栽も少ない。境内東側には、不動明王、稲荷大明神、天満宮の3つの摂社も祭
られていた。


 鳥居のそばの狛犬が押さえているのは、さいたま市で盛んなサッカーボールだろうか…。
        

 神社の横を北進して原山中の横を進む。原山交差点に出て県道35号を右にすぐ先に、
小ぶりな社殿の原山稲荷神社が祭られていた。

 ここも県道を前にした開放的な狭い境内で、植栽は少ない。

 県道を北西に少し、次の国道463号バイパスの交差点を渡り、北側の駒場運動公園に
入る。国道側の補助競技場では、少年サッカーチームの試合中。


 その先には、メインの陸上競技場兼サッカー場の大きなスタンドがあり、ここでもサッ
カーの試合中のよう。

 この競技場は、埼玉スタジアムができる前は、サッカーJリーグ1部で現在首位を走る
浦和レッズの、ホームグランドだったという。

        
 補助競技場とメイン競技場に挟まれた辺りに「環」とよぶ彫刻があり、南側には試合関
係者の家族らしい人がたくさん休んでいた。


 公園の西側道路を挟み、大きなドームの建物が見えた。その方に出てみたら、「さいた
ま市青少年宇宙科学館」だった。


 公園内の若いヤエザクラが、ふくよかな花を見せる。


 県道を少し進み、運動公園の西側の蓮昌寺へ。広い境内は大きく伸びた広葉樹が多い。



 本堂前には日蓮聖人立像があり、鐘楼のそばのシャクナゲが花を見せる。
     

 石灯ろうの周辺ではツツジが咲き始めていた。


 県道35号を少し戻り、南側の一心寺に行くが、コンクリート造りの社殿の周囲に植栽
は少なく、寺院らしさはあまり感じられない。


 西側の変則四差路を東進、駒場一丁目を通過してゴールを目指す。


 市立浦和高と、市営浦和球場↑などのある浦和総合運動場の間を通過して、12時4分
に元町一丁目にあるゴールの八雲神社に着いた。

      
 社殿の前に2本の大イチョウが立ち、鳥居の横には、江戸時代の造立らしい石仏が数基
並ぶ。




 昼食後、記念撮影とミーティングを終え、12時45分頃散会となった。


(天気 曇、距離 5㎞、地図 浦和、歩行地 さいたま市浦和区、南区、緑区、歩数
 11,700)
 
 ---------------------------------------

 散会後私は、南側の社寺を回って浦和駅に戻ることにした。

 神社の東側を南進して国道463号を越え、本太(もとぶと)小の東側にある本太氷川
神社へ。境内は豊富な新緑に囲まれ、古社らしいたたずまい。




 神社勧請(かんじよう)の年代は明らかでないようだが、慶安3年(1650)の建立
で県指定文化財の旧本殿と、お堂に乗せられた文安5年(1448)銘の、やはり県指定
文化財の宮殿が、境内に安置されている。

 旧本殿は、拝殿の左手奥にあるが、柵に囲まれ入口が施錠されていて入れなかった。

        
 境内には、「上を向いている神様は当神社だけです」と記された、ゑびすさまと大さ
まを祭る小さな「上向福徳神(うわむきふくとくじん)」もある。
    

 社務所のそばに立つクヌギの高木の芽吹きが始まり、その前のモミジは秋色のような彩
り。
      

 1本だけのヤエザクラは、間もなく満開になりそう。


 南側の本太二丁目には、この後回った延命寺の、観音堂だけのちょっと変わった社殿が
あった。植栽は全くなく建物だけのシンプルな境内だ。


 東進して国道463号バイパスを斜めに横断し、本太一丁目の山神神社へ。境内は狭い
が、社殿はりっぱな広葉樹に覆われている。
      

 鳥居の横には、まだ葉の出はじめのケヤキの高木がどっしりと構え立つ。
    

 緩やかに右カーブする道を進み、東側から南を回って西向きの延命寺に行く。

 大きな社殿だが背後に植え込みは無く、由緒などを記したものも見当たらない。

 西に向かい、駅近くを平行する新しい道路に惑わされて少し迂回し、最後の大善院へ。
足立百不動第33番霊場という社殿はコンクリート造り。


    
 本堂右手のボタンとツツジがよい彩りを見せ、左手前の小さな社殿のところには、ハナ
モモが咲き残る。

 駅に近いので、京浜東北線ホームのアナウンスが聞こえる。

 14時18分に浦和駅に戻った。食事後は、雨が時々パラパラしたが本降りにはならず、
傘の必要は無かった。

 帰路につく前、西口にも回ってみたら、先月、西側の別所沼公園で見たのより大きな、
さいたま観光大使の「浦和うなこちゃん」像が、「さくら草まつり」のうちわを持って立
っていた。
        

 (総行程 9㎞、歩数16,900)




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石神井公園周辺の社寺を巡る(東京)

2015-04-17 22:45:25 | ウオーキング
 2015年4月16日(木)午後

 練馬区立美術館で「小林清親展」を観た後、西武池袋線の中村橋駅から下り電車で2駅
乗り、練馬高野台(ねりまたかのだい)駅で下車した。


 13時54分に駅を出て、西側を南北に走る都道443号・笹目通りを北へ、順天堂練
馬病院に沿って進む。
    

 病院の北側には、「この土地が区立石神井(しゃくじい)東小、東中、総合教育センタ
ー跡地」との記念碑があり、傍らのムラサキモクレンが咲き残る。
    

 その北側を少し入ると長命寺がある。長命寺は、慶長18年(1613)後北条氏の一
族増島重明の開山。寺域は紀州高野山に倣ったもので東高野(ひがしこうや)、新高野と
呼ばれ、幕府から9石5斗の御朱印を受け、府内八十八か所17番霊場になるなど、関東
有数の庶民信仰の霊場になったという。


 りっぱな山門には、大きな増長天と広目天が仁王立ちしている。広い境内には伸び伸び
と育った高木が多く、正面に大本堂が構え立つ。


 山門を入った右手に新しい十三仏の石像が並び、背後の鐘楼に下がる慶安3年(1650)
銘の梵鐘は、練馬区内最古という。


 境内には、木造地蔵堂↑や観音堂↓、弘法大師を祭る御影堂などが散在している。


 本堂の近くには「姿見の井戸」と呼ばれる深井戸があり、昔から「この井戸の水に顔が
写れば長生きする」と伝えられているとか。
    
 私ものぞき込んで深い底の小さい水面をよく見たら、どうやら顔が確認できた。

 本堂前の八重のシダレザクラは、5分咲きくらいか。
   

      
 境内には、ともに「ねりまの名木」となっている、樹高34m、幹の太さ4.4mのイ
チョウ↑や、樹高22m、幹の太さ2.5mのシラカシの古木もあり、大師堂前のモミジ
は、やわらかな新緑が始まっていた。

 境内南面を少し西進して西武池袋線の高架下を南に抜け、石神井一丁目の住宅地に入る。
石神井川沿いに並ぶ都住宅供給公社の中層団地にあった小公園の、ヤエザクラが見頃に。


 南田中(みなみたなか)橋で石神井川を渡る。両側に続くソメイヨシノの並木は、すで
に葉桜になっている。


 南側は南田中五丁目、小さな斜面林の「南田中稲荷憩いの森」から「練馬区立塚越の森
緑地」に回ると、シャガが咲き出していた。


 その横を上がって西に回り込み、南田中稲荷天祖神社境内へ。稲荷神社は右手の小さな
社殿。

 大きい方の天祖神社際の白いサクラが見頃、そばの民家のシャクナゲも咲き出していた。

 南東に延びる旧道沿いに、榎本家長屋門がある。江戸時代末期の建築と推定される旧田
中村の名主役宅の門だというが、説明板などは無い。



 笹目通り近くまで進んで南田中四丁目に入り、観蔵院に行く。広い境内は数知れぬ樹木
に覆われ、東向きの本堂も木々に遮られて全貌は撮りにくい。



 境内あちこちにシャクナゲが多く、何れも花は見頃になっていた。
    

        

    
 樹の下にはクリスマスローズが咲き、シダレザクラやミツバツツジ、シロバナズオウ↓
も花を見せ、モミジの若葉もよい彩り。
        

    

 住宅地に囲まれた一角に、このような緑あふれる空間があるとは知らなかった。

 境内には2基の「筆子供養塔」がある。宝暦12年(1762)と文化5年(1809)
のもので、区内では古い部類の筆子碑とか。
        
 かつて観蔵院で寺子屋が開かれ、近隣の子どもたちの教育に寄与した恩師が亡くなった
ときに、師匠の菩提を祈って教え子たちが建立したものだという。

 寺の前を少し西進したところに、「おくらやま憩いの森」と呼ぶ、土地所有者が区民に
開放している竹やぶが残っている。

 江戸時代この辺りには、年貢米を保管したり凶作に備えて穀類を貯えるための穀倉があ
り、「おくら」と呼ばれていたことから名付けられたようだ。

 南田中小の西に広い境内の十善戒寺があり、幼稚園が併設されているようだが、境内は
一周する塀に囲まれていて入れない。幼児園児の犯罪防止のためのようだが、このように
全く閉じられた寺は珍しい。

 さらに下石神井三丁目を西進して石神井川の豊島橋を渡り、突き当たったY字路の北側
にある禅定院(ぜんじょういん)へ。

 禅定院は、豊島八十八ヶ所第70番霊場。「新編武藏風土記稿」によると、寺は約600
年前、願行上人により開かれたとか。

 文永年間(1818~30)の火災で建物や記録などはことごとく焼失したが、境内に
ある応安(1368~)、至徳(1384)年号の板碑により、創建の古さがうかがえる
という。

 現在の本堂はコンクリート造り。本堂前や山門横のシダレザクラが咲き残る。


      
 境内には、「ねりまの名木」で樹高7m、幹の太さ2.1mのヒヨクヒバが立ち、現在の
石神井小の前身で、明治7年(1874)にここの堂于を用いて開校した豊島小学校のこ
とを記した記念碑もある。
        


 本堂に向かって右手の鐘楼はかやぶきの屋根、本堂前には「キリシタン灯籠」と呼ぶ、寛
文13年(1673)銘の石灯ろうが残されていた。
        

 門前のバス道路を寺の北側に回り込み、都立石神井公園に入る。公園の東南端の辺りに、
「石神井公園記念庭園」の説明板があり、大正初期に開設された第二豊田園ゆかりの地と
の説明と写真があった。

 石神井村の元収入役だった地元の資産家・豊田銀右衛門により大正5年(1916)頃
に造成された「第二豊田園」という庭園の後のよう。

 庭園は静かなたたずまいの池を中心に、豊富な広葉樹に覆われている。私は、石神井公
園駅の近くが最初の職場だった半世紀以上前から、何度も石神井公園を訪れていたが、こ
のような場所があったとは全く知らず、今日の一大発見の地である。

 近くのヤマツツジが花盛り。


 通称「ボート池」と呼ぶ、石神井池の東南端付近に回ると、チューリップが色鮮やかに
咲く。



 対岸に、緑濃くなってきた何本ものヤナギなどを眺めながら、池に沿って西に向かう。


 中の島の横を過ぎると、池の中にコンクリート造りの彫刻が立っている。
      

 池の南西端近くまで進んでいったん池を離れ、南側台地にあるコンクリート造りの稲荷
諏訪合神社に参拝したが、特に目に付くものはなかった。


 神社の南側には、近年入館したことがある「石神井公園ふるさと文化館」があるが、そ
の東側にかやぶき屋根の家が見えたので回ってみた。

 一帯は、区の登録史跡「池渕遺跡」を埋め戻し保存整備したという「練馬区立池渕史跡
公園」。


 かやぶきの家は、区内中村三丁目から移築された区指定文化財の「旧内田家住宅」で、
明治20年代の建築と推定され、一部に江戸時代の古在も使われているという。


 中に入ってみたらかなり大きな建物で、幾つもの部屋が配置されていた。


 池渕遺跡からは、旧石器時代の石器ブロックや、縄文・弥生時代の竪穴住居跡、中世の
溝などが発見されたとか。

        
 周遊する園路沿いには、区内各所にあった庚申塔や馬頭観音、道しるべ、力石などの石
造物が配置されている。
        

 公園の中央部には、縄文時代の竪穴住居跡が円形に整備され、柱の位置を示す棒が立っ
ている。


 公園西側のボケが、鮮やかな彩りの花を見せ始めていた。



 16時半を過ぎたので、石神井公園ふるさと文化館の観覧は省き、石神井池の北に回っ
て東に向かって折り返すと、カンザン(関山)と呼ぶヤエザクラが見頃である。
    


 回ってきた池畔を対岸に眺め、中の島の先まで進んで石神井六丁目の落ち着いた住宅地
に上がる。


 石神井三丁目の駅前商店街を経て、16時55分に石神井公園駅に着いた。


(天気 晴後曇、距離6㎞、地図(1/2.5万) 吉祥寺、歩行地 練馬区、歩数
 12,400)




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練馬区立美術館で開催中の「小林清親展」へ(東京)

2015-04-16 22:46:30 | 美術館・博物館等の観覧
 2015年4月16日(木)

 今日は、東京・練馬区の練馬区立美術館で開催中の「小林清親(こばやしきよちか)展」
を観覧に出かけました。

 西武池袋線の中村橋駅に下りて、北側線路沿いに下り方向に3分ほどで会場です。




 美術館の手前、駅寄りの広場は「練馬区立美術の森 緑地」と呼び、天然芝を敷きつめた
緑地に、20種類、32体のファンタジーな動物の彫刻が並んでいました。
    
 この馬の足は大根のよう。ちなみに練馬区は、練馬大根の産地として知られています。

 ゴリラの横を北側に回ります。


 緑地の南側には、カラフルなワンちゃんが。



 ゾウさん横を左に折れ、階段を上がると美術館の入口です。



 入口近くには、こんな彫刻が…。


 観覧料は一般 500円、高・大学生と65~74歳 300円、中学生以下と75歳
以上は無料です。下はこの展覧会のリーフレット


 小林清親は弘化4年(1847)江戸、本所に生まれ、幕臣として伏見の戦いにも参戦
し、江戸開城を目の当たりにするなど、江戸の終焉を肌身に感じる青年時代を終わったよ
うです。
 
 明治9年(1867)、清親は江戸から変貌した東京の風景を、銅版画や水彩画を意識
し、光と影の表現を駆使した新しい感覚の木版画とした「光線画」を世に送り出しました。

 この新東京風景を次々に発表してセンセーショナルなデビューを果たすとともに、花鳥
画や静物画も発表したのですが、明治11年からは戯画、社会風刺画を描き、ジャーナリ
ズムとの関係も深めたようです。

 明治27年(1894)に日清戦争が始まると戦争画も手がけるなど、社会、風俗に応
じた浮世絵師としての仕事を全うしましたが、木版画の斜陽とともに50歳過ぎた頃から
は肉筆画にその活動の場を求めたとのこと。

 この展覧会は、大正4年(1915)の清親没後100年の記念展として、版画、肉筆
画、スケッチなど約280点により、総合的に回顧するのが目的のようです。

 館内は撮影禁止なので、リーフレット裏面に紹介されていた7枚の絵を切り出して紹介
します。小さい画面だったので画質はいまひとつですが、イメージをご理解いただければ
幸いです。


 「猫と提灯」 明治10年

    
     「駿河町雪」 明治12年

        
         「高輪牛町朧月景」 明治12年


 「明治十四年二月十一日夜大火 久松町二而見る出火」 明治14年頃
  
    
     「目を廻す器械 団団珍聞 508号」 明治18年

        
         「獅子図」 明治17年


 「写生帖」 明治41~42年 

 新東京風景では、江戸から東京に変わったばかりの新しい町並や風景、最新の乗り物、風
俗など、いまは想像できない当時の東京の様子がよくわかり、ほかの画家はあまり描かない
火事を描いてみたり、文字入りの戯画や風刺画で世相を批判し、さらに日清戦争の迫力ある
戦争画と、多彩な清親の画才に感心し、魅了されました。

 観覧を終えた後、美術の森緑地を一巡して、色々な方向からの彫刻も楽しみました。
        









        

            

 13時を過ぎたので駅北口の商店街で昼食をして、次の目的地に向かいました。そのレポ
ートは次回に…。 

 なお、練馬区立美術館での「小林清親展」は5月17日(日)まで開催中です。 




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西武鉄道池袋線が開業100周年に

2015-04-14 18:58:24 | Weblog
 2015年4月14日(火)

 西武鉄道池袋線は、あす4月15日(水)で開業100周年になります。

 西武鉄道の前身である武蔵野鉄道は明治45年(1912)に設立され、100年前の
大正4年(1915)4月15日に池袋~飯能(はんのう)駅間で営業を開始しました。

 10年後の大正14年(1925)12月には、池袋~飯能駅間の全線電化が完了し、
昭和38年(1963)11月には池袋~所沢駅間で、私鉄としては初めての10両運転
を開始しました。

 昭和50年(1975)3月には、池袋から終点飯能駅に近い笠縫信号所間の複線化が
完了し、平成10年(1998)3月からは西武池袋線と当時の営団(現在の東京メトロ)
有楽町線との相互運転を開始しています。

 さらに平成13年(2001)12月には飯能駅までの複線電化が完了し、現在は、東
京メトロ副都心線経由で、東急東横線、横浜みなとみらい線との相互直通運転も行ってい
ます。

 開業100周年を記念して、4月12日からは記念乗車券が発売されました。

 これは、池袋、所沢、飯能の3駅のみで限定発売しているもので、4枚の硬券がセット
で1,000円のものの表紙です。
      

 2つ折りを開くと、左側がこちら。開業当時設けられた12駅の説明になっています。
   

 右側には、開業時の路線図と武蔵野鉄道の年表、そして池袋、東長崎、西所沢、仏子
(ぶし)の4駅からの硬券が挟まれています。
           

 右側の、開業当時の路線図を切り出したものと、現在の路線を以下に比べてみました。

 開業当時の駅は、右から左へ池袋、東長崎、練馬、石神井公園(開業時は石神井・し
ゃくじい)、保谷(ほうや)、東久留米、所沢、西所沢(開業時は小手指・こてさし)、
狭山ヶ丘(開業時は元狭山・もとさやま)、入間市(開業時は豊岡町)、仏子(ぶし)、
飯能の12駅です。

 下が現在の池袋線のうちの、池袋~飯能駅間の路線図部分。

 開業当時に比べ、池袋側からいうと椎名町、江古田(えこだ)、桜台、中村橋、富士見
台、練馬高野台、大泉学園、ひばりヶ丘、清瀬、秋津、小手指、武蔵藤沢、稲荷山公園、
元加治(もとかじ)の14駅が増えています。

 記念乗車券(硬券)はほかに、開業当時の12駅でその駅の分(150円)を個々に発
売しています。

 ちなみに私は、昭和27年(1952)から昭和42年(1967)までは練馬区に、
昭和44年(1969)から現在(2015)までは所沢市に住んでいますので、100
年の歴史の中で63年近く西武池袋線を利用しており、一番利用しているとともに、なく
てはならぬ鉄道路線です。

 思い出すと、昭和28年(1953)当時、石神井公園駅発の平日日中の上り電車は、
毎時00、15、30、45分発の1時間4本だったように記憶しています。

 編成も4両が主だったように思われ、現在の石神井公園駅発の平日日中ダイヤを見ると、
1時間に18本あり、車両も10両か8両編成ですので、隔世の感がします。

 あと何年利用できるか分かりませんが、これからも西武鉄道池袋線が私の足として、正
確で安全な運転に努めてもらいたいものです。





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高崎の上野三碑と二つの城跡を巡る(群馬)

2015-04-11 21:59:10 | ウオーキング
 2015年4月9日(木)
 
 「青春18きっぷ」の使用期限があと2日になったので、最後の5回目を使って、高崎市
内にある国の特別史跡「上野三碑(こうずけさんぴ)」巡りに出かけた。

 「上野三碑」とは、古代上野国(群馬県)にある平安時代以前に造立された三つの石碑
のこと。国内に現存する平安以前の古碑はわずかに20ほど。それが高崎市内に三つも集
中しているのは、歴史的に極めて特筆されるという。

 7時4分に自宅を出て、新秋津、武蔵浦和、大宮経由で高崎駅まで行き、上信電鉄に乗
る。


 赤色塗装のこの編成は「絵手紙列車」と呼ばれ、全国の愛好家から送られた絵手紙が広
告に変わって掲示されている。
    

 10時18分に吉井駅で下車した。


 最初の古碑、多胡碑(たごひ)に向かう前に、駅前を少しだけ南進して吉井郷土資料館
に行く。


 高崎市に合併前の、旧吉井町関連の資料館。2階の歴史スペースには、土器や埴輪、中
世の板碑や文書(もんじょ)、近世の甲冑(かっちゅう)や吉井宿関連のものなどが展示
され、1階には古武道・馬庭念流(まにわねんりゅう)や、吉井藩主家の資料、吉井の火
打金(ひうちがね)関連↓のものなどが展示されていた。
    

 建物の手前の道路際には、吉井藩陣屋が宝暦2年(1752)に吉井に移った後に建て
られた、陣屋の表門が移築復元されていた。


 ちなみに吉井藩は、京都鷹司(たかつかさ)家の出の信平を祖とし、石高(こくだか)
1万石だったが徳川親藩として松平姓を名乗り、江戸城中では重きをなしていたという。

 門の前から東に向かい、旧吉井町役場跡に建てられた高崎市吉井支所前に出る。構内東
側の県道71号際に、「多胡石灯籠」と呼ぶ大きな石灯ろうが立っていた。
        

 県道を斜めに横断して東北への旧道へ。田園地帯に出て上信電鉄の踏切を渡ると、耕作
前の田んぼの上空でヒバリがさえずる。


 池集落を北東に抜けた辺りが、「吉井いしぶみの里公園」。散り始めたソメイヨシノが
数本あり、多胡碑は、その先のりっぱな覆屋の中に保護されていた。


 施錠されているので中には入れず、周囲のガラス窓からのぞき見る。
            
 国特別史跡多胡碑は、上野三碑の一つであるとともに、那須国造碑(なすのくにのみや
つこのひ)(栃木県)、多賀城碑(たがじょうひ)(宮城県)と並ぶ日本三古碑の一つ。

 奈良時代初期の和銅4年(711)に多胡郡が誕生したときの建郡の碑で、その内容は
多くの学者の注目を集め、優れた書体は書家たちに愛好されているという。


 土地の人は多胡碑を「羊(ひつじ)さま」と呼んでいるとか。多胡碑の前に「羊さまの
榎(えのき)」と呼ぶエノキの古木↑があり、公園内には多胡碑を詠んだ歌碑が幾つか立
っていた。
        
 これはそのひとつ、吉田松陰の義弟で多胡碑の保管管理に尽力した群馬県令(知事の前
身)楫取 素彦(かとり もとひこ)の歌碑で、「深草のうちに埋もれし石文の 世にめづ
らるゝ時は来にけり」と刻まれている。  

 公園の北側に回り、「多胡碑記念館」に入る(200円・65歳以上無料・館内は撮影
禁止)。

 館内には、多胡碑の歴史、書道史、世界の古代文字の研究資料、日本三古碑、上野三碑
のレプリカとその読み下し解説、中国の代表的拓本などが展示されていて、大変興味深く
観覧した。


 記念館の東側には、墳径17mで二段築成の円墳である「南高原(みなみたかはら)1
号古墳」↑と、墳径32.6mで周囲に堀割のある「片山1号古墳」↓の二つの古墳が移
築復元されている。


 円墳の周囲を一巡したら正午近い。公園内のベンチで昼食とし、高崎駅で買った「鶏め
し弁当」を食べる。朝から曇天のままで気温が上がらず、10℃前後だろうか。休んでい
るとうす寒い。12時20分に公園を後にした。

      
 池集落を南に抜けて畑の中を進む。小さいお社のそばのソメイヨシノとハナモモが花盛
り。牛舎の横を通過して上信電鉄の踏み切りを渡ると小さい流れがあり、その左岸にもソ
メイヨシノが咲き残る。

 そばの「関東ふれあいの道」の道標に従い、小川沿いを東進する。流れは鏑川(かぶら
がわ)に合流し、右岸を少しでV字状に折り返して、大野橋を渡る。

 橋の左岸にも、10数本のソメイヨシノや真っ赤なハナモモが花を見せていた。

 馬庭駅の西側踏み切りを渡るとそばに神社と寺が並び、右の随雲寺は鉄柵に囲まれて入
れない。


 左手の飯玉神社は鎌倉時代の創立と推定されるとか。本殿や弊殿、拝殿は昭和35年
(1960)の造営のようで、西側の社務所は再建中。境内のソメイヨシノは、かなり散
り落ちていた。

 次の十字路を左折する。その道路が左カーブする右手正面に、大きな長屋門のような建
物がある。慶応3年(1867)に建てられた「馬庭念流道場」で、ここにお住まいの樋
口家に代々伝わる古武道の道場。群馬県指定史跡である。

 馬庭念流はわが国最古の剣術で、数多い武芸諸流の源派とか。奥州相馬の相馬四郎義元
が1368年に創始し、高弟の樋口太郎の子孫高重が馬庭に移住して、代々樋口家に継承
されているようだ。

 馬庭念流は護身の術で、郷土の武士や農民に多くの弟子を持ち、剣の道を指導して今日
にいたっているという。


 この先しばらくは立ち寄るところも無さそうなので、馬庭駅↑13時11分の上り電車
に乗り、二つ先の山名(やまな)駅で下りた。


 駅の西側斜面には、山名八幡宮が祭られている。創建は830年という古社で、応仁の
乱の西軍の指揮を執った山名宗全の祖、山名義範が造営したもの。

 義範は新田義重の子で、ここ山名郷に入り山名氏の祖となり、史書「吾妻鏡」には、随
所に名が記されているという。安産・子育ての神として知られ、春と秋の例祭では、獅子
頭、虫きり鎌などを買う参拝客で賑わうとか。


 鳥居周辺のソメイヨシノも花の盛りは過ぎ、ご神木のケヤキの新緑が始まっていた。



 石段の上に、一体になった拝殿と弊殿、本殿が続き、奥の本殿には象や鳳凰、唐獅子な
ど6種の動物の精巧な木彫が施され、平成3年に極彩色に塗りあげたようで、鮮やかな彩
りを見せている。


 本殿の背後は「裏神様」と呼ばれ、こちらからも参拝すると、陰陽合わせてのご利益が
あると伝えられているというので、手を合わせる。

 本殿横のシャクナゲが咲き出し、その向こうにショカッサイがたくさん花を競う。
    

 社殿の右手から、大きな忠霊塔の立つ背後の公園に回る。


 この先は「高崎自然歩道」を進むので、道標に従い折り返して上がる車道を右に回り込
む。少し先に「山名御野立所跡」碑があり、その背後からは林間の遊歩道となる。

 ところどころに万葉歌碑があり、その傍らに歌碑の文字と読み下し文の掲示板も並んで
いる。高台なので木々の切れ間からは南側の展望が広がる。


 下り道となり、民家の少ない辺りで車道に出ると、正面斜面にソメイヨシノ数本が満開
の彩り。車道に下りたところには、お地蔵さんが祭られていた。


    
 トサミズキやムラサキモクレンなどの咲く小集落の路傍に、高崎市史跡「来迎阿弥陀画
像板碑」と古い石像が並ぶが、板碑の保管庫は施錠されていて見えない。近くのシダレザ
クラが見頃だった。
      

 家並みが終わる辺りで右手の小道に入り、石段を上がると、りっぱな覆屋の中に山上碑
(やまのうえひ)が立ち、横に山上古墳が並ぶ。いずれも国の特別史跡である。


 山上碑は天武天皇時代の681年の造立で、完存のものでは日本最古の石碑。碑文は、
隣の山上古墳に埋葬された佐野三家(さののみやけ)を管理する豪族の子女である黒売
(くろめ)と、その子、長利(ちようり)の系譜を述べたもので、黒売の追善供養碑の性
格もあわせ持っているという。
      

 山上古墳は直径15mの円墳。南面の横穴式石室は、群馬県の同種の石室の中では最も
古い7世紀前半から中頃のもので、新しい技術を獲得した当地の有力豪族(佐野三家の族
長)が埋葬されたと考えられているようだ。


 次の金井沢碑に向かうため、古墳の右手を北上して、さらに西に延びる稜線上の高崎自
然歩道を進むことにする。
      

         
 こちらにも万葉歌碑が続き、「関東ふれあいの道」や「石碑の路(いしぶみのみち)」
の石標もあり、自然歩道が左カーブする辺りで、北東に延びる支尾根を200mほど入る
と山名城址(じょうし)である。
         
 中世の豪族山名氏が、8代にわたり居城としたとされる山城で、東西450m、幅の広
い二の丸部分で南北130mあり、築城法からみて、弓矢だけでなく鉄砲が使われた時代
の普請と分かるとか。


 切り開かれた二の丸跡の平地に休憩用の椅子などがあるが、ほかは樹木に覆われていた。


 分岐に戻り、左カーブして西に向かう稜線上の自然歩道を進む。万葉歌碑は100m前
後の間隔で続き、歌碑とやわらかな新緑の彩りの中を、緩やかなアップダウンが続く。
    

 高崎経済大前駅に下る分岐を右に分け、次の分岐を北東に500mほど入る。標高97.
7m三角点のあるピークの周辺が、根小屋(ねごや)城址である。


 永禄11年(1568)に武田信玄が築いた山城で、狼煙(のろし)台として近隣の諸
将を監視するため、守兵は信州の信頼できる将兵を入れたようだ。ちなみに根小屋とは、
平素城兵の居住するところで、この地名の所には、必ず山城の跡があるという。

 ピークの周辺を一周する回遊路があるので、右回りに回ってみた。城の表の「追手(お
うて)(大手)」と呼ぶ北側からは、高崎市中心街からその南部にかけての展望が広がる。


 二の丸跡、井戸跡、土橋などを回って一周し終えた。近くには休憩舎も設けられている。


 自然歩道の本道に戻り、さらに先に進む。ところどころの斜面に、ヤマザクラかと思わ
れる花が幾つも咲いている。


 やがて自然歩道は半円形状に右カーブして、北に向かって少しずつ下る。
  

 最後は丸木の段が続き、「鎌倉街道七曲り」と呼ばれる急坂を下って車道に出た。

 三差路で標識に従い、左の細い旧道へ。せせらぎを渡って石段を上がると、上野三碑の
最後、金井沢碑(かないざわひ)が、やはり頑丈な覆屋の中に保護されていた。
      

 金井沢碑は、神亀3年(726)、三家(みやけ)氏が祖先の供養と一族の繁栄を祈っ
て造立した石碑。碑文の冒頭に記された「上野国群馬郡(こうずけのくにくるまのこおり)
が最古の「群馬」の名の使用例で、県名のルーツになっているという。
        

 車道の南側斜面に咲くヤマザクラを眺め、旧道沿いのソメイヨシノの花の下を通過する。
旧道にはミツバツツジも色鮮やかに咲く。
    

 民家風の根小屋駅に16時45分に着き、上野三碑と二つの城址巡りを無事歩き終えた。


 女性駅員さんに高崎行きの切符を求めたら、いまは珍しい硬券。17時1分発の上り電
車で高崎駅に向かう。

(天気 曇、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 富岡、高崎、歩行地 高崎市、歩数
 21,900)


 日本三古碑のうち、多賀城碑は10年以上前だろうか、訪ねたことがある。残る那須国
造碑も、いずれ機会を作って訪ねたいと思う。

【参考資料】
「吉井郷土資料館」(リーフレット)(吉井郷土資料館)
「群馬県高崎市 吉井ガイドマップ」(吉井観光協会)
「吉井いしぶみの里公園 多胡碑記念館」(多胡碑記念館)
「上野三碑」(歴史と文化を考える会発行)
「上野三碑を歩こうマップ」(リーフレット)(高崎市観光課)
「高崎自然歩道ガイドマップ」(高崎市商工観光部観光課)
「山名八幡宮」(リーフレット)(山名八幡宮)
「群馬県の歴史散歩」(吉川弘文館) ほか




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