あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

志村正順アナウンサーの思い出

2008-04-27 10:17:46 | Weblog
 4月25日〈金〉の朝日新聞朝刊(ほか各紙)に、
もとNHKアナウンサー志村正順〈まさより〉さんが、
昨年12月1日に94歳で逝去されたと、報じられて
いました。



 第2次世界大戦が昭和20年〈1945〉8月に終わっ
て戦後の復興期、私は埼玉県中部の農村で小中学
生時代を過ごしました。

 当時の農村の家庭での電気製品といえば裸電球
とラジオくらいで、テレビはもとより電気洗濯機も冷蔵
庫ももっと後の時代でした。

 いまのようないろいろな楽しみ方もなく、楽しみと
いえばラジオを聞くくらいで、4㎞離れた隣町の映画
館へ映画を見に行くのも、年1回あるかなしかでした。

 そんな頃、少年野球ファンの楽しみはNHKラジオの
野球中継、そのなかでも志村アナウンサーの実況
放送は一番の人気でした。

 新聞のラジオ欄で、翌日の実況担当が志村アナと
知ると、期待して待っていたものでした。

 志村アナの実況中継は、球場の雰囲気や試合の
経過を的確に伝え、てきぱきとして明瞭なアナウン
スは誰にもよく分かり、野球ファン増大にもつながっ
たのではないでしょうか。

 志村アナウンサーの名放送として知られているの
は、昭和18年〈1943〉10月21日、雨の神宮外苑
競技場での、学徒出陣壮行会の実況です。

 私は当時、直接放送を聞いてはいませんが、その
後何回も戦争回顧のテレビ番組などで、ニュース映
画の映像とともに聞き、耳に残っています。

 私が志村アナの番組を直接聞いて、いまも記憶して
いるのは、戦後間もなくの日曜夜7時15分~30分
ころの番組、「アメリカ便り」です。

 「アメリカ便りの時間がやって参りました。 NHK
ワシントン特別通信員 坂井米夫(?)発…」といった
ような出だしで、アメリカの市民生活の様子などを
伝えたもので、食うにやっとの日本の現状とかけ離
れた米国市民の様子をうらやましく聞いたものでした。

 当時愛読していた雑誌「少年クラブ」には、同じ坂井
特派員の「少年アメリカ便り」という記事があり、その
内容を、集落全体での何かの集まりがあったときに
私は、寺の本堂で朗読したことも思い出します。

 その頃の「少年クラブ」には、志村アナウンサーの
実況中継の録音をもとにしたのか、「紙上野球実況
放送」といった記事もあり、人気カードの巨人-阪神
戦などの様子が、実況さながらに掲載されていて、
胸躍らせながら読みました。

 もうひとつ、志村さんの放送で耳に残っているのは、
昭和26年〈1951〉4月、連合国軍総司令官マッカー
サー元帥が米国大統領から突然解任され、帰国する
羽田飛行場からの実況中継の模様です。

 その日は中学校の廊下に座って、課外授業として
放送の実況を全校生徒が聞いたのですが、最後の
「…マッカーサー元帥よサヨウナラ」という志村アナ
の声を、いまもよく記憶しています。

 ちなみに、雑誌「サライ」の2007年1月18日号で、
「優しくて懐かしいラジオを再び」という特集をしてい
たので、購入してありました。。

 特別付録のCD『「昭和史」実録』には、学徒出陣と
マッカーサー元帥帰国の実況中継の一部も入ってい
るので、どこかにしまいこんだCDを探し出して、志村
さんの声をしのぶとともに、ご冥福をお祈りしたいと
思います。

 なお、志村正順さんのの経歴などは、下記Webを
ご参照下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E6%AD%A3%E9%A0%86


〈追記〉4月30日の朝日新聞朝刊「声」欄に「名調子
の放送 志村氏を悼む」という投稿があり、その中で、
月刊誌「野球少年」に誌上放送というページがあった
ことが記されていました。

 私が、「少年クラブ」で紙上野球実況放送といった
のは、どうやらこの「野球少年」だったようです。

 当時、わが家は伯父の家に居候していたのですが、
野球好きの従兄弟は、「野球少年」や、「ホームラン」
「野球界」「ベースボールマガジン」といった野球雑誌
をよく買っていたのです。

 私も、これら雑誌をいつも見せてもらったので、やは
り「野球少年」で読んだのを勘違いしていたようです。
 




 

 

 

コメント (2)
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