あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

木曽福島・奈良井宿を経て松本へ(長野)〈後半〉

2016-04-30 23:09:47 | 国内旅行
 2016年4月20日(水)〈後半〉  == 松本市街中心部の湧水を巡る ==

 奈良井駅からのJR中央線下り普通ワンマンカーは塩尻で篠ノ井線に入り、終点の松本
駅に14時15分に着いた。

 帰路の上り特急電車まで約2時間半余りある。その間に松本市の中心街周辺にある湧水
巡りをすることにして、駅の改札口近くにあった観光案内所で「信州松本城下町湧水群」
というパンフレットをもらう。

 松本は、女鳥羽川(めとばがわ)と薄川(すすきがわ)の複合扇状地により、豊富な地
下水が湧出する湧水地帯。市街地中心部には、いまも多くの自噴井戸や湧水が点在し、市
民の手により手厚く保護されていて、「平成の名水百選」にも選定されている。

 私は、2008年8月2日にも市内の湧水巡りをしているが、もらったパンフレットを
見ると、さらに湧水の数が増えていた。今回も、ほぼ同じエリアを回ることにして、14
時25分に松本駅お城口(東口)広場に下りた。


 駅前広場は以前より拡張されて広いスペースとなり、広場の北側に「深志の湧水」と呼
ぶ新しい湧水があった。


 傍らに、北アルプス槍ヶ岳開山の祖、播龍上人(ばんりゅうしょうにん)の立像がある。
播龍上人は幾多の困難を乗り越え、文政11年(1828)7月20日に槍ヶ岳山頂を極
めた。
     
 「日本アルプス」の命名者イギリス人ウィリアム・ガウランドの登頂に先立つこと50
年で、岳都松本市の駅頭にその業績を称えて建立したのだという。

 この先あちこちで見た松本市のマンホールデザインは、松本手まりを描いたもの。
    

 駅前から北北東に延びる通りを進み、東西に走る伊勢町通りへ。交差点際のMウイング
というビルの前に、やはり松本手まりを形どったからくり時計があった。

 午前10時~午後8時の毎正時に、2曲を演奏するという。

 伊勢町通りの街路樹のアメリカハナミズキが、開花しはじめていた。


 少し北進して女鳥羽川左岸の開智橋際に出る。東側の中央大手橋に回ると、次の千歳橋
近くでたくさんのこいのぼりが、風をはらんで気持ちよさそうに泳いでいた。




 松本中央通を北へ、二つ目の交差点際には「西堀公園井戸」があり、掛樋(かけひ)か
ら湧水が流れ出ている。


 東進して松本城への通り、大名町通りとのT字路際、大手門駐車場の南東隅は「大名町
大手門井戸」。

 御影石造りの上部から細い流れが落ち、井戸の傍らに新しい双体道祖神が設置されてい
た。
        

     
 大名町通りの街路樹は、「かおり風景百選」に選定されたシナノキで、若葉が爽やかな
彩り。花は夏に咲き、芳香があるという。
    

 北進して次の通りを西に少しで、地図に「お城の見える井戸」と記されているが、その
辺りを探したが無い。でも確かに、細い通りの間から北に、松本城が望まれた。
     

 大名町通りに戻り、次の松本城南交差点に向かう。途中の古書店は、松本城天守を形ど
った造り。松本城はすぐ先である。
     

 松本城南交差点の松本信金前には「大名小路井戸」があり、3つの吐水口から湧水が流
れ落ちていた。


 そばに、松本藩歴代藩主の姓と年代が記されていて、6家23代の藩主が135年にわ
たり松本を支配していたことが知れる。
    

        
 東に向かい東門の井戸を目指す。民家にムラサキモクレンが咲き、信州特有の本棟(ほ
んむね)造りの食事処や、蔵造りの和菓子店前を過ぎる。




 上土通りとのT字路際、上土・下町会館前が「東門の井戸」。豊富な湧水が出ていたの
で、のどを潤す。ここは松本城東門跡で最大の馬出しの場所とか。町民や農民はここから
城内に入ったという。


 南に延びる上土通りは「大正ロマンの街」と呼ばれ、大正時代の建物が幾つか残る。こ
れはそのひとつ、松本市下町会館。
     

 近くには、私も使ったことのある古いカメラや8㎜映写機を並べた店があった。


 つぎのT字路を左折し、突き当たりで国道143号・善光寺街道へ。春の限定品「わさ
びの花の醤油漬」の標示にひかれて漬物店水城に入り、その漬物を求める。



 さらに南東へと右左折して、女鳥羽川の北に平行する通りへ。市街地唯一の造り酒屋、
善哉(よいかな)酒造の店舗前に「女鳥羽の泉」が湧出していた。敷地内の地下30mか
ら自噴しているのだという。



 念来寺橋で女鳥羽川を渡り、旧念来寺の鐘楼が目につく妙昌寺境内に入る。

    
 旧念来寺鐘楼は、宝永2年(1705)の建立で長野県宝。江戸時代中期のこの地方の
寺院建築の様子を今に伝える、大変貴重なもののよう。そばのハナモモが花盛りだった。
     

 境内に「妙昌寺の井戸」があるが、渇水期には枯れるようで、湧水は見られなかった。


 女鳥羽川左岸沿いを次の鍛冶橋際まで進む。左折した南に延びる通りの路傍に「伊織
(いおり)霊水」があり、そばに鈴木伊織の墓が立つ。


 鈴木伊織は貞享3年(1686)、重税に反対した農民一揆に関わった農民たちの助命
救済に奔走した武士という。
     

 石造りの湧水は以前来た時のままだったが、水を飲むために用意された善意のひしゃく
が、何者かに持ち去られていたのが残念だ。
        

 南側の中町通りに入り西へ、駅方向に向かう。大橋通りとの交差点際に「西伊澤屋辻井
戸」と呼ぶポンプ井戸があり、手押しポンプを押すと豊富な湧水が流れ出た。
     

    
 民家にアメリカハナミズキの咲く大橋通りを南下し、小さい流れの蛇川の先で右折する。
瑞松寺の斜向かいの中村眼科の前には、新しい「中村眼科の湧水」が流れ出ている。


 すぐ先が、松本の湧水群で最も知られ、松本市特別史跡の「源智(げんち)の井戸」。
松本市水道局の水源のひとつで、松本に城下町が形成される以前から飲料に用いられた古
い歴史をもっているという。

 古い所有者は小笠原氏の家臣、河辺縫殿助源智(かわべぬいのすけげんち)で、その名
をとって「源智の井戸」と呼ばれるようになったようだ。

 天保14年(1843)刊行の「善光寺道名所図会」↓にも「当国第一の名水」と記さ
れ、松本の町の酒造業者はことごとくこの水を使い、歴代の領主も保護したとか。明治
13年(1880)の明治天皇巡幸時には、この水が御膳水として使用されたという。
    
     (現地(源智)にあった「源智の井戸」リーフレットから)

 いつもポリタンクを幾つも持ってきて水汲みする人がいるが、今日も1人来ていた。

 次の十字路を北進して仲町通りに向かう。途中の民家の玄関横からも、湧水が流れ落ち
ている。
       


 仲町通りの角にある谷口はきもの店は、正保4年(1647)の創業とか。その一隅に、
地下9mの井戸から汲み上げた「檜物屋(ひものや)の井戸」が、流れ落ちていた。
     


 次の交差点際の草庵別館前には、「草庵の井戸」がある。
     


 これらの店を始め、中町通には白壁土蔵造りの店が連なっている。


    
 大きな蔵造りは、「中町・蔵シック館」とも呼ぶ「松本市中町蔵の会館」。その前のポ
ンプ井戸は「中町蔵の井戸」で、地下25mから汲み上げているという。


 次の交差点を左折して南へ、この通りの藤森病院は明治22年(1889)の開院との
こと。現在の新病院建設時に掘った専用水道用の深井戸からの水が、「亀の泉」として流
れ出ていた。
     

 蛇川の流れを横断して、次の高砂通りを左折して西進する。この通りは人形町通りとも
呼ばれ、五月人形を並べた人形店が連なる。


 先ほど通った本町通りの南側を横断して公園通りに入り、JR松本駅に16時40分に
戻った。


 松本駅構内で弁当と缶ビールを求め、16時58分発上り特急スーパーあずさ28号に
乗る。

 松本へは、やまさんの安曇野のカントリウオーク地図づくりや、国際ウオーキングトレ
イル実踏、単独での塩の道歩きなどで何度も来ているが、いつも普通電車の乗り継ぎで帰
っていた。今回のように特急に乗るのは何年ぶりだろうか思い出せない。

 それにしても3日間好天に恵まれ、サクラなど春の花や豊富な新緑を目にして、各地を
巡ることが出来た。ウオーキングといえるほどの距離は歩かなかったが、充実した春旅を
楽しんだ。





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木曽福島・奈良井宿を経て松本へ(長野)(前半)

2016-04-29 23:16:55 | 国内旅行
 2016年4月20日(水)(前半)  == 中山道 木曽福島と奈良井宿 ==

 最終日も好天に恵まれた。8時半前に駅近くのビジネスホテルを出て、名古屋駅から9
時00分発JR中央本線下り特急しなの5号に乗る。


 普通電車への乗換駅、木曽福島に10時24分に着いた。次の普通電車まで40分ある
ので、途中下車して駅周辺を少しだけ回ることにする。木曽福島は、中山道ウオークで
2006年10月12日に泊まって以来の9年半ぶり。



 駅前の観光案内所で観光地図をもらい、北東に緩やかに下る。

    
 左下からの道と合流したY字路付近の家には巣が多いようで、ツバメが幾つも低空を飛
び交い、徐行を依頼する立て札もある。
       

    
 そばの民家の路傍に中山道の標石と、新しい双体道祖神が祭られていた。周辺の店舗に
は、新入幕を遂げた大相撲の地元力士を激励する張り紙がある。
       

 中山道ウオークの際に泊まった宿「むらちや」付近まで行き、折り返して駅前に戻る。
       

       
 駅前交番付近からは、周辺に咲き出したサクラなどの花が望まれる。


      

 駅に戻りホームに上がったら、線路際にD51775号機が保存されているのが見えた。



 木曽福島駅11時04分発下り普通電車に乗る。車中から、残雪の中央アルプスの山並
みが望まれた。


 今日の観光予定地のひとつ、中山道(なかせんどう)木曽路 奈良井宿(きそじ ならい
しゅく)の玄関口、奈良井駅に11時25分に着く。

 奈良井宿は、標高1,197mの鳥居峠上り口にある鎮(しずめ)神社を京都側の境に、
奈良井川左岸沿いを緩やかに下る約1㎞にわたる町並みを形成する日本最長の宿場である。

 身近な歴史的資産の再確認と継承・維持を目的の街並み保存運動が、他に先駆けて昭和
43年(1968)から始まった。その後、昭和53年に国の重要伝統的建物保存地区に選
定、さらに平成19年(2007)には、「美しい日本の歴史的風土百選」に選定される
など、景観を生かした地域づくりを継承している。

 私は中山道ウオークで、2002年9月と2006年10月に訪れており、3度目にな
る。次の下り電車までの2時間で、その後の奈良井宿の観光をすることにした。


 まずは、駅のそばのそば処「楽々亭」に入り、おろしとろろそば(1,000円)で腹
ごしらえ。
    

 店のそばのサクラの若木が、ちょうど見ごろである。



 すぐ先から、奈良井宿に連なる町家(まちや)の家並みが始まる。町家の一つに掲げら
れた温度計は17℃、ちょうど良い気温である。


 奈良井宿には6つの水場があり、飲料水などに利用されているが、これは最初の水場。
ひしゃくで飲むとまろやかな味わいで美味しい。
    


 町家の各々には様々な飾り物があり、それを見るのも楽しみなもの。



 家並みには木曽漆器を扱う店が多く、そのひとつ「さわや漆器店}に入り、木曽漆器の
箸(はし)を求めた。
    

        




 3つ目の「横水」と呼ぶ水場を過ぎる。そばの町家にはツバメが巣を作り、姿を見せて
いた。
    

 近くの大宝寺は、天正10年(1582)、奈良井義高が自らの菩提寺として開山した
と伝わる。


 境内には、昭和の初め近隣の薮(やぶ)から発見され、隠れキリシタンが信仰のために
密かにつくったといわれるマリア地蔵があるというが、拝観(有料)は省く。



 さらに同じような造りの町家が続き、中ほどに「奈良井会館」と呼ぶ観光案内所がある。
       


 そばのT字路を入ると「本陣跡」の標柱が立ち、そばのソメイヨシノや奥の郵便局周辺
のサクラも見頃になっていた。



 旅館や漢方薬の薬局、食事処などが連なり、次の水場も現れた。


    



 文政(1818~)から明治まで下問屋(しもとんや)を務めたという御宿「伊勢屋」
は、脇本陣も兼ねていたようで、建物も当時のものらしい。


    

 近くの上問屋(かみとんや)史料館は天保年間(1830~)の建築で、もと手塚家住
宅。国の重要文化財で、明治13年(1880)6月28日に明治天皇の行在所(あんざ
いしよ)となり、当時の部屋がそのまま残るというが、入館(入館料300円)は省いた。



 道路が鍵型(かぎがた)に曲がる鍵の手のところのソメイヨシノも満開、その下には鍵
の手の水場がある。
      

 奈良井宿のマンホールデザインには、コイらしい魚が描かれていた。
    

 すぐ先の中村家は櫛問屋(くしどんや)として栄え、出梁(だしばり)造り、鎧庇
(よろいひさし)、猿頭(さるがしら)など奈良井宿の町家の特徴をよく残していて、国
の重要伝統的建物群中の代表的な民家で、奈良井宿保存のきっかけともなっ貴重な建物と
か。

 塩尻市有形文化財で、史料館として公開(入館料300円)されている。

 道路を挟んで唯一、医院のような洋風建物があり、奈良井宿では場違いな感じだが、他
の町では有形文化財になりそう。



 T字路際に観光客で賑わう土産店が並び、T字路の南西側には奈良井宿民芸会館がある。



 その先少しで奈良井宿の西端となり、緩やかな鍵の手のところに復元された高札場
(こうさつば)が立っていた。



 高札場の場所は宿場間の距離を測る起点で、京(京都)方の入口でもあったとか。
そばに宮の沢の水場もある。

 奈良井宿の水場は生活用水の確保や、火災発生時、連なる家々への延焼防止のために、
山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けられ、中山道を歩く多くの旅人ののども潤し
たとのこと。

 6カ所の水場はそれぞれに水場組合を作り、維持管理を行っているという。水場の背後
には、庚申塔や道祖神などが並んでいた。



 水場の先から鳥居峠への山道が始まり、その入口に鎮神社が祭られている。拝殿に参拝
後、駅に向かって折り返すこととする。


 神社から奈良井宿を見ると、気付かなかったが次第に高度を上げていたことが分かる。



 13時10分頃奈良井駅に戻る。上りホーム際にも2本のソメイヨシノが花開き、奈良
井宿の春の到来を告げていた。



 13時25分発下りワンマンカーに乗り、松本駅に向かう。(続く)





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八百津町の杉原千畝記念館と犬山の町並みへ(岐阜、愛知)〈後半〉

2016-04-27 22:42:21 | 国内旅行
 2016年4月19日(火)〈後半〉  == 犬山の本町通り周辺を巡る ==

 今日は名古屋泊なので、2時間半ほど犬山の街並みを見て回ることにする。犬山は
2003年10月21日以来だから、12年半ぶりになる。

 犬山駅の改札横にあった観光案内所で「犬山市観光マップ」をもらい、西口に下って犬
山駅西交差点から西に延びる通りへ。

 犬山城から南に延びる本町通りと交差する本町交差点まで行き、少し南進して細道を入
り、国登録有形文化財の堀部邸に行く。

 明治16年(1883)、堀部家12代当主の堀部勝四郎が築造したもの。堀部勝四郎
は犬山藩士の長男として生まれ、明治維新後に事業に成功し、犬山城が濃尾地震で被災し
た際には天守閣の修繕に尽力したとか。


 堀部邸は、武家屋敷風の格調高い雰囲気の中、生業の農家の素朴さを取り込んだ独特の
風情の建物というが、この日は休館日で内部を見ることはできなかった。


 犬山市のマンホールは、犬山城と木曽川うかい(6月1日~10月15日)のデザイン。
    

 本町通り南端付近から、反対の西側に寺院が見えたので行ってみた。

 金剛山祥雲禅寺で、新西国三番霊場。境内には四国八十八か所霊場の本尊を刻んだ石塔
が並ぶ。


 本堂前に、古い本堂に上がっていたらしい大きな鬼瓦が置かれ、国登録有形文化財の標
識がある。
    
 鬼瓦のみで登録有形文化財というのは初めて見た。鐘楼もなかなか趣ある造り。


 本町交差点の南側には、連接3階建ての建物が並ぶ。高度成長期には賑わったと思われ
るが、いまは少し寂しい風情。

 でも、この前で毎週火曜日、犬山どんでん朝市が8時~10時に開催されるという。今
朝も開催されたようで、通りがかりの市民が話していた。

 本町交差点から、電線の地中化された本町通りを北に向かう。そう広くない通りの両側
には、古い家並みが続いている。


 交差点の近くに、犬山祭で曳(ひ)かれる「車山」と呼ぶ山車(だし)を展示する「ど
んでん館」があるが、時間が無いので入館は省いた。


    
 近くの建物には五月人形が飾られ、鉢花の並んだ町家(まちや)もある。


 どんでん館のすぐ先に、国登録有形文化財の「旧磯辺家住宅」が公開されていたので入
館した。

 建物の瓦屋根は、丸みを帯びた反りが見られる。その解説があったが撮り忘れたので由
来は不明。

 磯辺家は、江戸時代から「柏屋」の屋号で手広く呉服商を営んでいたとか。太平洋戦争
後は製茶、販売業に転じ、のちにこの建物は商品倉庫となっていたという。

 建物は幕末から明治初年(1878)にかけて建築され、平成16年(2004)に市
に寄贈され、国の街なみ環境整備事業で翌平成17年に保存修理を終えたらしい。


 入口を入った板の間とその先の間には、たくさんの五月人形が展示されている。




 敷地は間口6.5mと狭いが、奥行きは約58mもあり、最奥の突き当たりに奥土蔵と
展示蔵があり、作品展などに活用されていた。





 次の中本町交差点際に、犬山城下町観光案内所があった。案内所の中には、犬山市の公
式キャラクター「わん丸君」もいる。


       

    
 交差点の先に伊勢型紙を扱う「京彩」という店があり、その先にも古い家並みが続いて
いる。






 喫茶店「茶亭 椿」の前には、家康の孫で尾張藩2代藩主徳川光友が名古屋に建てたの
を拝領したという灯ろうが立っていた。
        

     
 隣は犬山特産品館で、犬山の土産品を数多く販売している。


 次の魚新通りへのT字路際は、五平餅(ごへいもち)を販売する「山田五平餅店」で
ある。


       
 T字路付近からは、北にそびえる国宝犬山城が望まれ、観光客を乗せた人力車も通過し
た。
    


 T字路の先の間口の広い店は土産物を扱う「豆吉本舗」。T字路で今来た本町通をふり
返り、右折して東に延びる魚新通りに入る。


 この通りも電線の地中化を終えているが、古い町家は本町通に比べると少ない。交差点
を2つ通過して数少ない古い町家の一つ「珈琲ふう」に寄る。

 「珈琲ふう」のオーナーOさんは、カントリーウオーカー山浦正昭さんが20年近く前
に結成して10年間活動した「のみちネットワーク」のメンバー。私もそのメンバーのひ
とりだった。

 Oさんご夫妻は居られたが、今日は19時半から店でライブを開催するとのことで、店
内はそのレイアウトになっていた。まだライブには支障ないとのこと、12年半ぶりなの
で少しだけおじゃますることにした。

 コーヒーとケーキをいただきながら、近況やのみちネットワークのメンバーのその後の
動静などについて情報交換をする。1時間ほど経過し17時近いので失礼し、少し涼しく
なった街並みを抜けて犬山駅に向かう。話が弾み、ご夫妻を撮らしたもらうのは忘れた。

 道路が鍵の手になっている辺りの建物に、犬山祭の車山のミニチュアが飾ってある。
    
 
 近くの「ぎゃらりい木屋」には、魚を形どった木の作品が…。
 

 犬山駅に戻り、17時24分発上り名鉄電車に乗り、名古屋駅には17時55分に着い
た。JR名古屋駅太閤通口に近いビジネスホテルに入って荷を置きひと休みした後、夕食
に出る。


 すぐ近くに、家庭料理風メニューの並ぶ店があったので入り、しまほっけ定食(860円)
を注文した。
    

     
 店の名は、「宮本むさし」ならぬ「宮本むなし」…。でも、食べてみてむなしいことは
無く、美味しかった。




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八百津町の杉原千畝記念館と犬山の町並みへ(岐阜・愛知)(前半)

2016-04-26 23:32:30 | 国内旅行
 2016年4月19日(火)(前半) == 杉原千畝記念館へ == 
  
 今日午前は、今回の旅の主要目的地である、「杉原千畝(すぎはらちうね)記念館」を
訪ねることにした。

 杉原千畝は、第二次世界大戦中の1940年、リトアニアの日本領事館でナチス・ドイ
ツの迫害から逃れてきたユダヤ系難民に、人道主義・博愛精神に基づき日本通過ビザを発
給して約6,000人の命を救った、岐阜県八百津町(やおつちよう)出身の外交官である。

 なぜ訪ねることにしたか…。きっかけは、昨年7月にリトアニアのカウナスにある杉原
記念館を訪ねた際、杉原千畝が八百津町出身と分かり、帰国後に八百津町のサイトを見て
ここにも記念館があることを知ったから。

      
 帰国後の昨年10月に発売された「杉原千畝」(白石仁章著・新潮文庫)を読み、12
月9日には、封切り直後の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」も観賞した(下は映画のプ
ログラム)。
           

 宿泊した犬山市のビジネスホテルを出て、犬山駅8時51分発名鉄(名古屋鉄道)広見
線下り電車に乗る。


 新可児(しんかに)駅で御嵩(みたけ)行きに乗り継ぎ、次の無人駅、明智(あけち)
駅に9時43分に下りた。



 明智駅からはYAO(やお)バスで、八百津町の中心部にある終点の「八百津ファミリ
ーセンター」バス停に10時29分に着く。

 バス停の背後↑が八百津町の公共施設、八百津ファミリーセンターの建物。

 バス停付近にある八百津町の地図のうち、中心街と杉原千畝記念館の周辺部分。



 周辺の公共施設や商店などには、杉原千畝が日本通過ビザを大量発給した記録の、ユネ
スコ世界記憶遺産登録を目指すのぼりやポスターが幾つも目についた(下は役場)。


 次のバス待ちの間に、近くの八百津小の前にある杉原千畝生家跡を確認する。現在は別
のご家族が暮らしており、当時の生家は2000年頃取り壊されたという。


 八百津町のマンホールデザイン。



 バス停に戻り、町内を結ぶコミュニティバスに乗り、「人道の丘北」バス停で11時
09分に下りた。


 杉原千畝記念館はバス停前にあり、地元岐阜県の総檜(そうひのき)造りと新伝統工法
の木組みフレームによる展示室になっている。
    

 さっそく入館(入館料大人300円)するが、館内は撮影禁止なので写真での紹介はで
きない。

 展示物のあらましは、杉原千畝により発給された「命のビザ」の複写を初め、八百津で
生まれた杉原千畝の生い立ち、ハルピンやヨーロッパ各地での外交官としての千畝の仕事、
ユダヤ人への命のビザ発給の状況、ビザ発給決断の部屋、発給されたユダヤ難民の足跡、
20数年後に訪ねてきたユダヤ人のこと、杉原千畝の年表などがあり、外務省の訓令に反
し、自身や家族の身の危険もかえりみず人道的立場から自分の意志を貫いて多くのユダヤ
人の命を救った、杉原千畝氏のその尊い行為を再認識した。
 
         杉原千畝記念館の入館証(パスポート)
        

 パスポートの内部



 パスポート内部の別面

           

           杉原千畝記念館のパンフレット表紙
          

 パンフレット内部


 記念館は町の中心部より140m前後高い丘陵上にあり、2階の展望棟からは、八百津
の中心街や町を貫く木曽川などが一望できる。





 記念館周辺の小さい花のサクラや、シダレザクラが見ごろになっていた。
     

 20分ほど観覧して記念館を出た。記念館から南側一帯の丘陵上は、杉原千畝の偉大な
功績を称え、後世に伝えるための「人道の丘公園」。


       
 近くの芝生広場には杉原千畝の胸像や、千畝が学んだ早稲田大学の顕彰碑↓がある。


 公園の北側、杣沢集落の家並み。


 芝生広場の北端には、公園のシンボルとなっているモニュメントがあり、世界平和をテ
ーマにしたパイプオルガンをイメージした構造物のある噴水の周辺から音楽が流れている。

 正午を過ぎたので、噴水を眺め音楽を聞きながらベンチに座って昼食にした(写真撮影
時は噴水は停止)。


 そばの食事処若杉では、八百津の土産品も販売していたので入り、町の名物のひとつ八
百津せんべいを求める。

     店の電話は、懐かしいダイヤル式の黒電話だった。
    


 ログハウス風待合室のある「人道の丘北」バス停から12時41分発バスに乗り、12
時50分に「八百津ファミリーセンター」バス停に戻る。

 次のYAOバスまでは40分余りある。バス停前の、創業昭和元年(1926)という
「肉の御嵩屋」に入り、炭火焼豚などを求めた。


 さらに少しだけ西進して八百津小や八百津町役場前を通過し、南北に走る本町通とのT
字路付近まで行く。

 T字路の手前には、地酒玉柏の醸造元の大きな建物が並んでいる。


 T字路の西側には熊野神社が祭られ、背後にケヤキの古木が立っていた。


 南に延びる本町通りには古い建物が幾つか残るが、回る時間が無い。そばの和菓子店だ
け撮り、八百津ファミリーセンターバス停に戻った。



 13時38分発のYAOバスで明智駅へ。


 明智駅↑と新可児駅での名鉄電車の連絡も良く、犬山駅に14時34分に着いた。〈続く〉


 杉原千畝記念館のWebサイトはこちら

 岐阜県八百津町のことは、こちらの八百津町観光協会のWebサイトで。




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博物館 明治村へ(愛知・犬山)〈後半〉

2016-04-25 23:05:51 | 国内旅行

 2016年4月18日(月) == 愛知県犬山市「博物館 明治村」へ〈続き〉 ==

 博物館 明治村2丁目を貫くレンガ通りの中ほど、木造の大きな商家は、国重要文化財
の東松家(とうまつけ)住宅。名古屋市中村区船入町に明治34年(1901)頃に建設
された。

 東松家は明治20年代後半までは油屋、その後昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでい
たとか。中に入ると、古い調度品と直線的な木造建造物の構造が目につく。


 道路を挟んだ斜め前は、明治30年(1897)頃に大阪府南河内郡千早赤阪村(ちは
やあかさかむら)に建設された、千早赤阪小学校講堂(国登録有形文化財)。

 建物の周囲に吹放ち(ふきはなち)の廻廊(かいろう)を巡らせ、1階が雨天体操場で、
2階が講堂だったという。

 ちなみに、千早赤阪村は大阪府にいまも唯一残る村である。

 東松家住宅に並ぶのは京都中井酒造。明治3年(1870)、京都市中京区御幸町に建
設されたもので、国登録有形文化財。中には酒造設備が残されている。


 その隣、黒壁の建物は安田(やすだ)銀行会津支店。明治40年(1907)、福島県
会津若松市大町に建設され、国登録有形文化財である。

 伝統的な土蔵造りをもとに、要所に洋風デザインを施し、火災に強い厚い土壁に洋風デ
ザインがうまくかみ合った、優れた明治建築の好例という。

 「明治村体験処 ハイから衣装館」になっていて、建物内には貸衣装が並ぶ。


 少し下がり隣接するのは、国重要文化財の札幌電話交換局。明治31年(1898)、
札幌市大通り西に建設されたもの。高価な電話交換機を火災から守るため、石材を用いて
建てられている。


 2階には、古い手動式交換台や電話機が展示されていた。


 右手背後の建物内には、京都に次いで国内2番目に運行を開始した名古屋電気鉄道の
「名電1号形」電車が展示されている。

 明治34年(1901)に名古屋で製造され、明治40年代まで名古屋市内で運行して
いた車両。昭和2年(1927)~昭和11年(1936)頃までは、改造のうえ札幌市
電として親しまれたという。


    

 近くには、国登録有形文化財の京都七条巡査派出所がある。

 明治45年(1912)の建設で、京都駅に近い西本願寺や龍谷(りゅうこく)大学の
入口角にあり、西本願寺への参拝客の道案内に応じていた身近な交番だったようだ。

 交番の横を、開村当時から運行している京都市電が通過した。

 京都市電は明治28年(1895)、わが国最初の市内電車として開業しており、明治
村の車両は、明治43~44年に製造された大型の車両で、3駅2区間約800m路線を
約30分間隔で往復運行している。



 村内を運行しているバスも通過したので見送り、東側の3丁目に向かって緩斜面を上
がる。線路際のヤエザクラが見ごろ。


 間もなく、折り返してきた京都市電が、市電 京都七条駅に停車した。

 
 3丁目への上り口からは、いま見てきた2丁目の建物が望まれる。


 3丁目の最初は、北里研究所本館(国登録有形文化財)。

 北里研究所は、ドイツでロベルト・コッホに師事して細菌学を研究した北里柴三郎博士
が、伝染病の研究所として創立したもので、東京都港区白金に大正4年(1915)に建
設されたとか。

 正面車寄上部に取り付けられた紋章は、北里博士が発見した「破傷風菌」に「月桂樹」
があしらわれている。
    

 玄関を入ると、研究所の第11代所長で昨年のノーベル生理学賞・医学賞を受賞された
大村 智博士を祝うパネルがある。
       

 館内には、北里博士の業績を記すパネル、歴代所長・理事長・学長の紹介、研究に使わ
れた顕微鏡などが展示されていた。


    

 玄関横に咲き競うパンジー


 隣接するのは、兵庫県西宮市上甲東園から移設された芝川又右衛門邸(しばかわまたえ
もんてい)。

 明治44年(1911)の建設で国登録有形文化財。移設されたのは平成19年(2007)
で、村内で最も最近移設された建物のようだ。

 芝川又右衛門は大阪で唐物商を営む豪商で、茶道にも造詣深かったとか。邸宅は甲東農
園内に建てた別荘だという。

 南東側の広い邸宅は、西園寺公望(さいおんじきんもち)別邸「坐漁荘(ざぎよそう)」。

 大正9年(1920)に静岡県清水市(現静岡市)興津清見寺町に建設され、国登録有
形文化財である。


 西園寺公望は明治、大正、昭和と平和主義を貫いた政治家で、政治の一線を退いたのち
に別荘を建てたが、事あるごとに政治家の訪問が絶えなかったという。

 部屋数が多く複雑な建物構造が目につき、趣ある日本庭園にも目をひかれた。

 東側高みには、幸田露伴(こうだろはん)住宅「蝸牛庵(かぎゆうあん)」(国登録有
形文化財)がある。

 東京・墨田区向島に明治初年(1868)頃に建設されたもの。文豪幸田露伴が多くの
作品を著した住宅で、次女で女流作家の幸田文(こうだあや)はこの家で生まれたという。

 入鹿池を見下ろす高台にあり、池の周辺などが望見できる。そばのヤエザクラ。
    

 西園寺公別荘付近から北東に下り、入鹿池際に位置する国重要文化財の品川燈台に回る。
     
 品川燈台は、神奈川県の観音埼(かんのんざき)、野島埼(のじまざき)に次ぎ明治3
年(1870)に東京都港区品川第二台場に点灯された洋式燈台。
       
 フランス人技師ヴェルニーの設計で、レンズや金属部をフランスから輸入したとのこと。
観音埼、野島崎燈台が関東大震災で倒壊したため、現存するわが国最古の洋式燈台だとい
う。

 そばには、三重県鳥羽市菅島町に明治6年(1873)に建設された菅島(すがしま)
燈台附属官舎(国重要文化財)がある。

 燈台の灯りを管理する係員の住居で、創建からしばらくは、イギリス人技師が住んでい
たといわれているらしい。

 品川燈台の近くが、京都市電の終点、品川燈台駅である。


 菅島燈台附属官舎の北に回り、神戸西洋館の典型とされる、神戸山手(こうべやまて)
西洋人住居(登録有形文化財)へ。

 神戸市生田区山本通に明治20年代(1887~)に建設されたもの。当初は外国人の
住居で一時日本人の所有となり、その後フランス人が住んだという。

 この近くでも、色濃いヤエザクラが目に入る。


 東側眼下には、明治41年(1908)に東京都豊島区巣鴨に建設された宗教大学車寄
(国登録有形文化財)が見下ろせる。


 神戸山手西洋人住居の西側にある長崎居留地二十五番館は保存工事中で観覧できない。
    

 3丁目の建造物を一巡したが、もう15時30分になる。この先の4丁目、5丁目は省
略することにして正門に戻った。

 正門を出て16時発のバスに乗り、犬山駅東口に16時20分に着く。駅前広場には、
寛永12年(1635)以来継承されてきたという伝統の祭り、犬山祭の車山(やま)を
形どったからくり時計らしいものが立っていた。
     

 そばのスーパー、イオン地下フロアの食品売り場を一巡して西口に回り、17時頃、駅
近くのビジネスホテルに入った。 


 なお、博物館 明治村の詳細については、こちらのWebサイトをご参照下さい。






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博物館 明治村へ(愛知・犬山)〈前半〉

2016-04-24 22:34:37 | 国内旅行
 4月18(月)~20日(水)、愛知、岐阜、長野県への小旅行に出かけた。日程に従
い、順次その行程を紹介する。
 ---------------------------------------
 2016年4月18日(月) == 愛知県犬山市「博物館 明治村」へ ==
 
 5時43分に自宅を出て、JR東京駅7時33分発の東海道新幹線ひかり503号に乗
る。好天の静岡県東部では、富士山がよく見えた。

 9時17分に名古屋駅で下車する。

 名鉄名古屋駅から犬山線で犬山駅まで行き、東口から明治村行きバスに乗る。終点の明
治村バス停には10時28分に着いた。

 「博物館 明治村」は、明治建築を保存展示する野外博物館として、昭和40年(1965)
3月18日に開村したとのこと。

 私は開村して間もない頃訪ねた記憶があり、帰宅後に調べてみたら、三重県鈴鹿市の社
内研修期間へ半月余り出張していたときの最初の休日、4月18日(日)と分かった。ち
ょうど開村して1か月目、そして今回の訪問はちょうど51年ぶりということになる。

 開村当時の建築物は10数棟だったと思われるが、現在は国の重要文化財10棟、愛知
県指定文化財1棟を含む67の建造物が移築保存されているとか。

 敷地面積は約100万㎡あり、エリアは南北約1.1㎞、東西約620m㍍に及び、南
西端に近い正門から北西端の北口まで歩くだけでも約20分になるという(入村料 シニ
ア 1,300円)。

         
 村内地図によれば、村内は1丁目から5丁目までの五つのエリアに分かれているので、
正門に近い1丁目から順次巡ることにする。

 正門は、名古屋市瑞穂区に明治42年(1909)建設の第八高等学校正門で、国登録
有形文化財である。


 1丁目に入り、最初の建物が大井牛肉店。神戸市生田区元町に明治20年(1887)
頃建設され、牛肉販売と牛鍋の店を兼ねた商店で、国登録有形文化財。


 村内の味どころのひとつ牛鍋大井牛肉店として、文明開化の象徴ともいえる牛鍋を味わ
うこともできる(これは展示されていた見本)。
    

 その横は、国登録有形文化財の三重県尋常師範学校蔵持(くらもち)小学校。明治21
年(1888)に三重県名張市に建設されたもの。


 建物内には古い教本や教室などが残されている。


 隣接して、国登録有形文化財の近衛局(このえきよく)本部附属舎がある。東京都千代
田区に同じ明治21年に建築され、のち皇宮警察本部坂下護衛所として使用されたという。


 そばに立つ赤坂離宮正門哨舎(しゅしや)も国登録有形文化財。東京・港区元赤坂の現
在の迎賓館にあったもので、当時皇太子だった大正天皇の東宮御所に明治42年(1909)
に竣工したようだ。
      


 村内一帯は豊富な広葉樹林が残り、その間に建物が点在している。左に緩やかに上がる
と、聖ヨハネ教会の大きな建物の前に出る。

 国の重要文化財で、明治40年(1907)に京都市下京区に建設された。細部はゴシ
ック調にデザインされた本格的洋風建築で、現存する明治期のキリスト教会堂の代表的な
ものだという。


 周辺のモチツツジやヤエザクラ、ガマズミが見ごろになっていた。
      

 左に上がって学習院長官舎(国登録有形文化財)へ。明治42年、東京都豊島区目白町
に建設された学習院長の公邸で、建設当時の第10代院長、陸軍大将乃木希典(のぎまれ
すけ)は赤坂の私邸から通ったとか。


 公邸前のキクモモが鮮やかな彩りを見せる。


 近くの、西郷従道(さいごうつぐみち)邸は国の重要文化財。東京都目黒区上目黒の通
称西郷山から移築された明治10年代(1877~)の建築物で、従道は陸海軍の大臣を
歴任していたため在日外交官の来客も多く、明治22年(1889)には明治天皇も行幸
されたとのこと。


 館内に入れるので入館して各部屋を回り、調度品などを見た。



 正午が近いのでそばにあった和食処碧水邸に入り、眼下の日本庭園やその向こうに広が
る入鹿池(いるかいけ)などを眺めながら昼食をした。


     注文したメニューは花御膳(1,350円)である。
    

 12時30分に碧水邸を出て、眼下の日本庭園へ。庭園の外れには、東京盲学校車寄
(くるまよせ)が移築されていた。

 東京・文京区雑司ヶ谷町に明治43年(1910)に建設された、東京盲学校本館の正
面中央に設けられたもの。国登録有形文化財である。


 ふり返ると、食事をした碧水邸が望まれ、入鹿池周辺の新緑などの展望が気持ちよい。


 近くのウワミズザクラが、たくさんの花を見せていた。こんなに花いっぱいのウワミズ
ザクラは初めてだ。
      

 日本庭園から南に緩く上がり、森鴎外・夏目漱石住宅に行く。東京都文京区駒込千駄木
町に明治20年(1887)頃建設されたもの。

 明治の文豪 森鴎外は明治23年から1年半ほど、夏目漱石は約13年後の明治36年
(1903)から約3年住み、「吾輩は猫である」を書いて文壇でその名を高めたゆかり
の家とか。国登録有形文化財である。
     



 林間を南に下って正門からの主要道に出て、正門に近い鉄道局新橋工場に入る。

 東京都品川区大井町に明治22年(1889)に建設されたもので、やはり国登録有形
文化財。


 建物内には、明治43年(1910)に新橋工場で製造された明治天皇御料車(6号御
料車)と、明治35年(1902)同工場製の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)御
料車(5号御料車)(いずれも鉄道記念物)が展示されていた。下は5号御料車の内部。


 鉄道局新橋工場前には、二重橋飾電燈(かざりでんとう)(国登録有形文化財)が立つ。
東京千代田区の皇居内に明治21年(1888)に建設されたもので、昭和39年
(1964)まで使用されたという。


 1丁目の最後は、国重要文化財のひとつで建物も大きな三重県庁舎。明治12年
(1879)に三重県津市栄町に建設された。

 間口54mに及ぶ建物で、明治9年に東京大手町に建てられた内務省庁舎にならったも
のとか。



 建物内には、明治の宮廷家具が展示されていた。そばのサクラが花開く。
    

 食事を含めて約2時間経過して、ようやく1丁目を回り終えた。すっかり曇って気温も
幾分下がり、雨も少しだけ落ちてきた。隣接する2丁目に入り、最初は第四高等学校物理
化学教室の建物へ。

 金沢市仙石町に明治23年(1890)に建設され、国登録有形文化財である。

 最初の部屋には、ともに第四高等学校出身でこの明治村の生みの親、名古屋鉄道の社長
や会長を歴任した土川元夫と建築家谷口吉郎の経歴や、昭和40年の草創期の明治村の様
子などが展示され、次の教室は実験もできる階段教室になっていた。

 スペースとしては一番狭い2丁目の中央を直線のレンガ通りが走り、その最奥部高みに
は東山梨郡役所(ひがしやまなしぐんやくしよ)がある。

 山梨県山梨市日下部(くさかべ)町に明治18年(1885)に建設され、国重要文化
財。三重県庁舎同様、内務省に代表される当時の官庁建築の特徴的建物。当時の県令(現
在の県知事)藤村紫朗は、地元山梨に「藤村式」と呼ぶ多くの洋風建築を建てさせたとい
う。

 1階右手の部屋は明治村の村長室で、歴代村長の写真などが展示されている(現・4代
村長は阿川佐和子氏)。



 2丁目を貫くレンガ通りの左手建物を順次回る。最初は木曽路の長野県大桑村にあった
清水医院(国登録有形文化財)で、明治30年代(1897~)の建築とか。



 島崎藤村の、姉、園子をモデルにした小説「ある女の生涯」に描かれていて、実際に園
子が入院していたという。〈続く〉
 



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庭のニホンサクラソウ 今年も見ごろに(埼玉・所沢)

2016-04-21 17:32:23 | 所沢だより
 2016年4月21日(木)

 熊本県を中心に発生が続いている地震、最初の地震から1週間になりましたが、余震は
なかなか治まらないようで、私が現地に住んでいたら元気でいられるだろうかと不安の毎
日です。早く余震が収まり、本格的な復興活動が素早く進められるよう祈るばかりです。

========================================

 今年も、わが家の庭で連れ合いが育てていた、ニホンサクラソウが見ごろになりました。

 和室前にあるメインの23鉢ほどのこちらは、16日(土)に撮ったもの。この頃が一
番見ごろでした。
    

       



     

         

              
 
 そして庭の東南の隅にある10鉢は少し開花が遅れていましたが、今日21日(木)に
はどうやが見ごろになりました。


    

 今年は例年のように球根の植え替えができなかったので、どの程度花が見られるかと案
じていたのですが、まずまずの咲き具合でした。

 ほかに、現在わが家の庭で咲いている花も幾つか。花の数が多いのがシャガで、年々増
えているように思われます。
    

          

 チューリップもわずかながら。


        

     白花のツツジも見頃になりました。
    

 ニホンサクラソウの中だけでなく、この鉢にも咲き出したスミレ、皆こぼれ種です。
    

 1昨年秋の、市内のウオーキング行事の参加記念にもらった、ブルーベリーの若木から
も花が咲き出しました。
        

 シランは、あまり手入れしなくても毎年たくさんの花を見せてくれます。
 

    

 ささやかな庭にも、春の到来です。




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強風と雨の中 新三郷駅周辺を歩く(埼玉)

2016-04-17 18:32:08 | カタツムリ歩行
 2016年4月17日(日)

 先月は風邪で休んだ続カタツムリ歩行の第33回例会に参加した。集合はJR武蔵野線
の新三郷(しんみさと)駅。10時05分に東口をスタートする。


 寒冷前線が通過中で南東からの強風が吹き荒れているが、雨はたいしたことはない。田
んぼの間の用水沿いの道を東へ。民家の前に見慣れぬ花が咲いていた。
    
 どうやら「カロライナジャスミン」という花のようだ(junjunさんから教えていただく)。

 早稲田中と半田運動公園の間を抜ける。運動公園では、ホコリ舞う強風の中、少年野球
の大会が開催されていた。




 運動公園の西側の通りを北へ、少し先で東側の田んぼのあぜ道に回り込むと、地形図上
の標高2.6mの三等三角点が残っていた。


     
 この辺りは、東京湾の江戸川河口からは直線で約22㎞あるが、標高はわずか2.5m
とは…、地図を見て再認識した。

 すぐ東側には萬音寺があり、道路側に三郷七福神の寿老神が祭られていた。


      

        
 門前には背丈より高い庚申塔があり、墓地の隅でボタンが強風に激しく揺れ動く。
    

 田んぼの間を西進し、最近見たようなマンション前を通過した先は、2月例会のゴール
の半田稲荷神社だった。


 境内に、このような江戸時代の石仏が並んでいたとは記憶にない。 


     少し南下した畑では、ソラマメが花を付けていた。
    

 JR武蔵野線の線路下をトンネルで西に抜けて、大規模量販店コストコの前に出た。


     付近のあぜ道には、タンポポがあちこちで咲く。
    

 采女(うねめ)一丁目を南下して、狭い境内と小さな社殿の女体神社に寄る。


 社殿横には、近くから移設したのだろうか、古い石仏が並んでいる。

 左端の水神宮は天明7年(1787)と刻まれていた。

 隣接した采女集会所の一角には、7地蔵を祭る地蔵堂がある。



 南側の彦成四丁目一帯はたくさんの集合住宅群が立ち並び、その西北端に小公園があり、
アメリカハナミズキが見ごろになっていた。
 
  
 第二大場川沿いの車道を南に向かうと、風速20mは越えていると思われる強烈な向か
い風でなかなか前進できない。前方右手に大規模な砂塵が舞い上がった。


     彦成四丁目にある立花小に咲くヤエザクラ。
    
    
 近くにある活魚料理店には、もう少し色濃いヤエザクラが。


    

 雨も降り出して向かい風も強まる中、駒形の延寿院前へ。開放的で狭い境内だが、傾い
た大イチョウが目につく。 
      

 社殿も素朴な作り。カメラのレンズが濡れて滲んでしまった。


 参道にはたくさんシバザクラが咲いていたが、やはり濡れて撮りにくい。


 ゴールの駒形神社はすぐ近く。12時06分に着いた。


 ここにもさらに大きなイチョウが立っていた。拝殿側は風が強いので、背後に回り風を
避けて弁当を広げる。
        

 食事を終える頃には雨が本降りになってきた。急ぎ記念撮影とミーティングを済ませ、
いつもより早めに散会となった。

 この強風と雨では、いつものようにほかの寺社などを回る気にならず、皆さんの後を追
って新三郷駅に向かうことにした。

 東北に向かって進み、さつき平二丁目の集合住宅群を抜ける。


     北西端の郵便局のそばに咲くツツジ。
    

 さらに北側の彦成四丁目の団地の北東端へ。駅近くのPark HOMES LaLa
新三郷というマンション前に、数本の大きなシャクナゲが咲き競う。
      

    

        

 JR武蔵野線新三郷駅東口には、13時10分に着いた。


 千葉県方面はより強風が吹き荒れているようで、JR武蔵野線の電車も遅延していた。

 (天気 曇後雨・強風、距離(駅まで) 8㎞、地図(1/2.5万) 流山、越谷、
  歩行地 三郷市、歩数 14,200)




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ソメイヨシノに代わりヤエザクラやハナモモが(埼玉・所沢)

2016-04-12 18:53:29 | 所沢だより
 2016年4月11日(月)

 ソメイヨシノはすっかり葉桜になりましたが、代わってヤエザクラなどが咲き出しまし
た。今日の市内ウオーキングで見た花や新緑です。

 わが家に近い東川(あずまがわ)沿いで、もうすっかり見ごろになっていたヤエザクラ。


    

 そばに並ぶ少し色濃いヤエザクラは、まだわずかの開花です。


    

 少し上流、東川に面した広い敷地のS邸には、芝生を囲んでたくさんの白色のハナモモ
がありますが、まさに見ごろでした。


    







 建物の近くのヤエザクラも満開に。




    


 もう一度ハナモモを見直して南側の道路に回ると、畑の隅のアメリカハナミズキが花を
見せ始めていました。

 次の週末の16~17日には、小手指駅北口の通りでハナミズキまつりが開催されます。

 ハナミズキの近くでは、ネコヤナギも花を。


        

 国道463号の大六天交差点付近の畑にも、2本のハナモモが咲いていました。




    

 国道をさらに西へ、小手指ヶ原(こてさしがはら)交差点の先まで行くと、茶畑の向こ
うのクヌギやケヤキなどの広葉樹林の、芽吹きがかなり進んできています。


 その先、西高入口交差点と誓詞橋(せいしばし)交差点の間には、結構広いナノハナ畑
が広がっていました。




 若狭二丁目のいなげやまで往復して戻ったわが家近くでは、古くからお住まいの民家の
屋敷林に立つ大きなケヤキの芽吹きが望まれます。
     

         

 春の彩りの変化は早く、これらの木々も数日するとかなり変わって行くことでしょう。




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思川桜が咲き出した小山を歩く(栃木)

2016-04-11 18:09:35 | JR東日本駅からハイキング
 2016年4月9日(土)

 晴天で気温も上がるとの予報なので、JR東日本の「駅からハイキング」に参加するこ
とにして、10時02分にJR宇都宮線の小山(おやま)駅に下りた。


 西口を出て、県道265号を少し南下した「まちの駅思季彩館(しきさいかん)」で受
付を済ませ、10時15分にスタートする。


 三つ目の信号を右折して西へ直進し、ソメイヨシノが見頃な須賀神社に入る。

 須賀神社は、天慶3年(940)、藤原秀郷により京都の八坂神社から分霊して創建さ
れたとのこと。徳川家との縁も厚く、家康が関ヶ原の勝利を祈願したと伝わり、奉納され
た朱神輿(しゅみこし)は社宝としているとか。



 駐車場際のシダレザクラが見頃に。その東に接して妙建寺がある。



 眼病と学業に御利益があるという日蓮宗の古寺で、本堂格子天井の百人一首と樹齢
100年を超すシダレザクラは「おやま百景」に選ばれているという。

     
 そのシダレザクラはほとんど散っていたが、本堂前の大きなサンシュユは花いっぱい。



 門前のハナモモやモミジの若葉がよい彩り。
    

 静かな住宅街を南西に回り、思川(おもいがわ)左岸に近い長福城跡へ。クヌギなどの
広葉樹に覆われた一角だが、説明板などは無く、そばの小さな「やはた公園」に、「史跡
 長福城跡」碑だけが立っていた。



 すぐ先の林の間からは、思川の対岸にいっぱいに咲くナノハナや、広葉樹の淡い新緑が
望まれる。


 さらに住宅地を南南西に進み、国道50号に近い西林寺(さいりんじ)に入る。

 本堂は、雑然と茂る木々に囲まれ、ヤエザクラが花を見せ始めていた。

 手押信号で国道50号を横断して間もなく、鷲城(わしじよう)跡にある鷲神社の鳥居
が立っていた。

 鳥居際には「史跡 鷲城跡」の説明板がある。それによれば、康暦2年(1380)か
ら永徳元年(1382)、小山氏10代義政が3次にわたり関東公方(くぼう)足利氏満
の軍勢と戦ったが、義政は康暦3年の2度目の蜂起の際、鷲城に立て籠もるも破れたとの
こと。

 城は東西約400m、南北約600m、中城(なかじろ)と外城との二つの郭(くるわ)
からなる。当時としては広大な城郭で、中城の空堀や土塁は残存し、南北朝時代の城郭が
これほどよく残存し、関連資料も多いのは極めてまれなようで、国指定史跡である。


 鳥居を入った右手の畑に紅白のハナモモが何本も咲き競い、杉並木の立ち並ぶ長い参道
の左手には、大きな広葉樹林の芽吹きが望まれる。



 拝殿の周囲も、りっぱな杉やヒノキに囲まれていた。鷲城跡に残る樹林の中の土の道を
下る途中には土塁が見られ、「虎口」などの表示がある。
     


 城跡を西に抜けた南側の広い一帯は、小山総合公園。公園の北端から思川左岸の遊歩道
に上がると、思川桜の並木が続くが、花はまだ3~4分咲くらい。


    
 ちなみに思川桜とは、昭和29年(1954)に市内東島田の思川のほとりにある修道
院で、十月桜の種子を東大付属植物園の久保田先生が採取し、種を蒔いて育てた花の様子
が違う突然変異の新種の桜に「思川桜」と命名し、学会に発表されたものという。
    



 200mほどで堤防を離れて公園に戻ると、堤防寄りに鯉のぼりの大群が並び、心地よ
い風をいっぱいにはらんで泳いでいる。
     


 公園の中心は広々とした芝生地。明日は「第8回おやま思川ざくらマラソン」のスター
ト・ゴール地となるようで、その準備が進められていた。



 公園の東側ではソメイヨシノが見ごろ。好天に誘われ、園内は家族連れなどで賑わう。
正午が近いので、公園の南側、跨道橋そばの芝生地で昼食をした。


 12時10分に公園を出た。車道を少し東進して左折し、折り返すように北に向かう。
鷲神社参道の鳥居際に戻ると、総合公園の工事現場から移設されたという十六夜塔と十九
塔が並び、二つの碑の年代を記した「野仏の碑誌」もある。


 国道50号の手押し信号に戻り、近くのT字路で往路と分かれて左へ、階段を下って思
川左岸の遊歩道に出た。対岸に見える範囲は、ナノハナが咲き競って続く。



 上流に向かうと流れは左に緩やかにカーブし、遊歩道側、左岸斜面林は芽吹きの淡い新
緑が始まる。



 遊歩道沿いの空き地や河川敷もナノハナに覆われていた。



 対岸に白鴎大(はくおうだい)の校舎が近づき、その周辺にまだ咲き出したばかりの思
川桜の並木も望まれる。


 小山一小横辺りから、左岸沿いも思川桜の並木となったが、やはり3~4分咲か。幹に
付けられた桜の里親札を見ると、2001年12月に植えたものらしい。
    


 桜を背にして、バンドグループの花見を兼ねた演奏が始まる。


 市役所が望まれる辺りには、新しい小山政光(おやままさみつ)・寒川尼(さんがわに)
像が立つが、説明板などは無い。
        


 県道31号の観晃橋を渡って右岸に回ると、広い河川敷はナノハナが咲き、少し先から
思川桜並木が白鴎大の前まで続いている。

 こちらは左岸より開花が遅れ、まだ2~3分咲くらい。でも木の下では、市民のグルー
プが何組も花見を楽しんでいた。





 白鴎大の南端付近で折り返して観晃橋の左岸際まで戻り、北側の左岸台地上の城山公園
に上がる。


 公園一帯は国史跡の祇園城(ぎおんじよう)跡。祇園城は、平安時代に藤原秀郷が築い
たという伝承もあるが、築城年代は不明で、記録に残るのは14世紀後半かららしい。

 築城の際、城の守り神として京都祇園の牛頭(ごず)天王社(八坂神社)を祭ったこと
から祇園城と呼ばれるようになったようだ。

 小山氏の本拠となったのは15世紀になってから。小山氏は越後の上杉氏や小田原の北
条氏などに攻略され、天正3年(1575)北条氏照により祇園城は陥落した。

 のち氏照が拡張整備するが、北条氏が滅亡して江戸幕府成立後は、本多正純が3万石の
城主となり、東西約400m、南北約700mに及ぶ城郭となったという。


 園内のあちこちにあるソメイヨシノの花盛りは過ぎたが、まだ咲き残る花の下で、たく
さんの市民が花見の宴を楽しんでいた。


 慰霊塔の先で朱塗りの祇園橋を渡ると、その先には空堀が幾つか残り、その一角に「と
ちぎ名木百選」に選定された「城山公園のいちょう}と呼ぶ、樹高約15m、目通り約
12mのイチョウの巨樹が立っていた。
     


 公園の北端から東へ、国道4号に出て南へ向かって戻る。市役所前の御殿広場では、明
日開催される「おやま思川桜まつり」の準備が進められていた。

 市役所の場所は、小山評定(おやまひようじよう)跡であり小山御殿跡でもある。

 徳川家康が会津の上杉景勝討伐の際、小山に本陣を置いたのが1600年7月のこと。
ここで対立する石田三成挙兵の報に接して急きょ諸将を集めて群議を開き、反転して三成
征伐を決定し、翌年9月、関ヶ原の合戦に勝利した。この軍議が、世にいう「小山評定」
である。

 徳川家は小山評定の吉例から、将軍の日光社参の際の休憩・宿泊所小山御殿」を、同じ
この地に置いたという。


 南側の小山一小入口の交差点際には、「明治天皇行在所(あんざいしよ)跡」碑が立ち、
背後には小山宿脇本陣の表門が残されていた。

 その交差点を渡って東側の県道265号に回る。スタートした「まちの駅思季彩館」に
は14時37分にゴールした。



 館内では、地元の新鮮な野菜や果物、土産物、酒類などを販売している。イナゴの佃煮
を求め、建物の東に抜けて水琴窟(すいきんくつ)や石灯ろうのある日本庭園を眺める。


 14時52分に小山駅に戻り、15時04発上り宇都宮線快速電車で帰途についた。

(天気 晴、距離 10㎞、地図 駅からハイキング地図、歩行地 小山市、
 歩数 21,700)




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コメント (2)
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