あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

新井薬師から哲学堂公園へ 旧野方村の史跡めぐり(東京・中野)(後半)

2016-07-31 16:18:05 | 江戸・東京を歩く
 2016年7月27日(水)(続き)

 歴史民俗資料館の西側の通りを北へ、突き当たりを右折してすぐ先、変則交差点際の小
さい空き地に「お経塚(おきょうづか)」の説明板があり、そばに2体の石仏が並んでいた。

 ここには大正時代まで人の背丈ほどの塚があり、塚の盛土を整理したところ人骨と経筒
(きょうづつ)らしいものが出土したとか。言い伝えでは(この後訪ねる)東福寺が火災
で焼失したときの経文や過去帳などの灰を埋めて塚を造ったといわれているという。
     
 左の馬頭観音は安永5年(1778)、右の地蔵菩薩には元文3年(1733)と刻ま
れていた。

 その通りを北進すると、うっそうとした樹木に覆われた江古田氷川神社境内に入る。

 旧江古田村の鎮守で創建は寛正元年(1460)といわれ、10月の例大祭には、中野
区無形文化財の獅子舞が奉納されるという。


 右手にある寄棟(よせむね)造りの神楽殿は、弘化4年(1847)の建立で昭和7年
(1932)まで本殿だったとか。区内では数少ない江戸時代の建造物で、天井には花鳥
画が描かれているという。



 手水舎も豪華な造り。境内にはご神木のスダジイ↓やケヤキなど豊富な木々が伸び伸び
と茂り、ミンミンゼミの競演が賑やか。
     

 西側の鳥居を出て、大規模な再開発工事中のエリアを抜けと、区立江古田(えごた)の
森公園である。

 旧国立療養所中野病院跡の植林を生かした広い公園で、江戸時代には将軍の鷹狩り場で、
明治には茶や桑の生産地だったが大正時代に結核療養所に選ばれたという。

 よく茂った広葉樹の間に幾つかの遊歩道を巡らしている。その中心部の遊歩道をU字状
に回って東側に抜けた。

     
 途中にはたくさんヤブミョウガの咲く一角や、ガマの茂る小さな池もある。
       

 公園の外周を囲むように流れる、江古田川の江古田憩い橋から流れを見下ろしたが、水
は中心部の細い溝にしか見えなかった。
     

 川沿いを南下し、江古田三丁目の東福寺に東側から入る。

 弘安3年(1280)に江古田村の旧家深野氏が堂舎を建てたのが最初とか。本尊は弘
法大師作と伝えられる不動明王という。
     

 享保13年(1728)春に徳川8代将軍吉宗が鷹狩りの際、御膳所(休憩所)となり、
境内には「徳川将軍御膳所跡」碑がある。
     

 本堂や鐘楼はコンクリート造り。山門横には大イチョウが目をひく。
     

 南側の通りを東進して江古田川の橋まで行く。この辺りは氷河期末期の江古田植物化石
層発見の場所らしいが、それらしい標識や説明板は見つからなかった。


 流れの西側の通りを南下して新青梅街道↑まで進み、左折して東に少しで江古田大橋の
たもとへ。橋の南側で江古田川が妙正寺川に流入している。

        江古田川

 橋の手前、木々に囲まれて分かりにくい一角に「整地碑」が立っていた。
     
 関東大震災後の膨張する大東京市への対策として、区画整理組合が河川改修、道路整備、
土地、耕地の交換による区画整理の事業を行った記念に建てたものらしいが、いつ建てた
のかは分からなかった。
     

 橋を渡った右手は江古田公園で、整地碑と江古田川を隔てて相対するところには「史跡
江古田原 沼袋 古戦場碑」が立っている。
     
 この辺り、新青梅街道沿いの一帯は文明9年(1477)に太田道灌と豊島泰経らが激
戦をしたところとか。ここでの合戦は、武蔵野の開発を行ってきた豊島氏に代わり、太田
氏が武蔵野支配を確立するうえで大きな意味をもっていたという。

 新青梅街道を東へ300mほどで、北側の台地の蓮華寺に上がる。寺は天正年間(1573
~92)に徳川の重臣榊原家の奥方を火葬した跡で、名主の深野孫左衛門が土地を寄進し
て元文4年(1739)に創建し、幕末まで深野家と榊原家は親交があったとか。




 ソメイヨシノや松など豊富な樹木に囲まれていて、ここでもミンミンゼミが賑やか。境
内には、この後訪ねる哲学堂を創設し、東洋大学の創設者でもある井上円了の墓がある。
       

 本堂前を東に抜けて、北に少しで「みずのとう公園」に入ると、野方配水塔と呼ぶ大き
な塔が立っていた。高さ33m、内径約18mのコンクリート塔で、約2,000トンの
貯水が出来たとのこと。
     
 昭和4年(1929)に竣工し、中野、野方、板橋、杉並、滝野川など近隣13か町村
に給水していたが、昭和41年(1966)に使用を停止し、現在は中野区の災害用給水
槽になっていて、国の登録有形文化財でもあるという。

 東側に回り、みずのとう幼稚園を挟んでもう一度眺める。
     

 南下して新青梅街道を越えると、南側一帯は哲学堂公園である。
   
 東洋大学の創立者であり哲学博士でもあった井上円了が、国民道徳の普及を目的として
明治39年(1906)から私財を投じて設けた精神修養的公園である。

 園地は、井上が唱えた実践哲学の理想を現す多くの施設と特異な造園手法を加えており、
都下の名所として人々に親しまれたとのこと。昭和19年(1944)に東京都に寄付さ
れ、昭和50年(1975)からは中野区に移管され、文化財公園、区民のみどりのオア
シスとして公開されているという。

 哲学堂は、現代にも通じる円了の思想を物語る歴史的文化遺産として、都の指定名勝に
なっている。

 北側にある野球場の横から哲学門を入り、緑豊富な園内に散在する七十七場と呼ばれる
建物や門、石碑や石造物など、ほかでは見られない独特の名称の施設などを見ながら南東
に下り、哲学堂通りの四村橋際で公園を出た。

 哲理門、本堂(四聖堂)の正門にあたる。

 
 六賢台(ろっけんだい)、哲学堂のランドマークともいえる建物で、聖徳太子、菅原道
真、壮士、朱子、龍樹、釈毘羅の東洋の6賢人を祭る。
     

 四聖堂(しせいどう)、本堂に東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカント
の世界的四哲人を祭っている。


 宇宙館、哲学上の講話や講話会を開催するための講義室。




 園内を南西に下った菖蒲池近くから、横を流れる妙正寺川が見下ろせる。
 

 菖蒲池


 池のそばに咲く花



 妙正寺川の左岸に続く豊島区側の西落合公園↑沿いに次の無名橋まで進み、橋を渡って
上高田五丁目の住宅地へ。


 急坂を上がって下り、光徳院の横に出た。閉じたままの山門の横から境内に入ると、た
くさんのお地蔵さんが集められている。



 本堂は堂々たる造り。左手には、そう高くはないが精巧に組まれた五重塔がある。
     

 広い墓地に隣接して東光寺が並ぶが、本堂前もすぐに墓地が接し境内はほとんど無い。


 西進して台地に上がり、上高田小と東亜学園高の北側を抜けて、新井薬師前駅に16時
47分に戻った。

 上高田小際にあった都知事選の候補者の掲示板。21人立候補しているのに、ここにポ
スターを貼った候補者は半数以下の9人だけ。23区内でもこんなものなのかもしれない。


 新井薬師前駅のホームは大きくカーブしている。

                   下り線路とホーム

 今日巡ったのは、新井薬師前駅と沼袋駅周辺の東西1.5㎞、南北2㎞ほどの地域だが、
どの寺社にも豊富な木々が残り、平和の森公園と江古田の森公園という広い公園もあり、
中野区内でもJR中野駅周辺の繁華街のイメージとは違う、歴史と緑にあふれるエリアだ
った。

(天気 曇、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、歩行地 中野区、豊島区
 (少し)、歩数 22,500)
 



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新井薬師から哲学堂公園へ 旧野方村の史跡めぐり(東京・中野)(前半)

2016-07-30 18:54:11 | 江戸・東京を歩く
 2016年7月27日(水)

 梅雨明け前にと、中野区東北部の旧野方村に残る史跡めぐりに行く。西武新宿線の新井
薬師前駅で下り、10時14分に南口をスタートする。


 南東に400mほどの上高田三丁目に、昭和初期の面影を残す一角がある。『童謡「た
きび」のうた発祥之地』で、作詞者 巽聖歌(たつみせいか)が昭和5~6年(1930
~1)頃近くに住み、この辺りを散歩しながら「たきび」のうたの詩情をわかせたところ
だとか。

 今でも、「垣根の垣根の曲がり角♪」という歌が聞こえてきそう…。

 西進して新井五丁目に入り新井薬師で知られる梅照院境内へ。天正14年(1586)
に僧行春が開基し、徳川2代将軍秀忠の子・和子の方が眼病を患い、ここの薬師如来に祈
願して治癒したことから「治願薬師」とも呼ばれているとか。「子育て薬師」とも呼ばれ、
多くの人から篤く信仰されているという。

 山門を入った右手のお堂前に「お願い地蔵尊」が立ち、願いごとをする人が水をかけて
祈願していた。



本堂前の大きなハスが数輪、花を見せている。
  

 寺の背後の新井薬師公園は、寺の境内だった土地を大正3年(1914)に新井薬師庭
園として開放し、後に東京市に寄進、戦後中野区に移管したという。


 都道420号・中野通を跨道橋で越えた西側も新井薬師公園で、公園内の池では何人か
の釣り人が糸を垂れていた。


 東側に隣接して新井天神とも呼ぶ北野神社がある。旧新井村の鎮守で、創建は天正年間
(1573~92)といわれているとか。中野区で唯一「酉の市」が行われる神社らしい。


    
 手水舎のそばに「撫で牛(なでうし)」があり、撫でるとその部位の病や怪我が治ると
か。近くに、若者たちが力比べに使った力石が幾つも集められていた。


 境内には区の保護樹木のケヤキやスダジイ、イチョウなどがあり、ミンミンゼミが賑や
か。

 新井四丁目を西北に抜けて、区立平和の森公園に入る。昭和58年(1983)に廃止
された、中野刑務所の跡地を活用したみどりの防災公園。

 野球場であるスポーツ広場や、周囲をジョギングコースで囲む芝生広場↑、幾つかの池
を巡らす水の広場↓などがある。



 東北側入口近くには弥生時代の復元住居があるが、よく見たらコンクリート製。芝生広
場を一見し、水の広場から北に抜けて公園を出た。

 深い流れの妙正寺川を越えて、沼袋駅の西側踏切を渡る。北側の線路沿いを東進して、
沼袋氷川神社に行く。

 旧沼袋村の鎮守で、創建は正平年間(1346~70)とも寛正年間(1460~6)
ともいわれているとか。



 拝殿左手に雅(みやび)な神楽殿↑があり、境内にはご神木の松が何本か高く伸びてい
る。太田道灌が豊島氏と戦った時に戦勝祈願に植えたといわれるスギの木片が、わずかに
残る。少し下がった西側には、新しい中野七福神が並んでいた。


 西側に出て北西に少しで禅定院がある。貞治元年(1362)の開基、下沼袋村の旧家
伊藤氏の菩提寺なので「伊藤寺」とも呼ばれているという。

 山門を入った右手に、樹齢600年というイチョウの大木が立つ。
     

 コンクリート造りの本堂は近年の改築のようで明るい彩り。


 左手の庭園にはボタンが多く、ハス園には何輪かの花が開花していた。本堂前のモミジ
は秋のような彩りを見せる。
    

 西進して沼袋駅北口から延びる通りを横断し、すぐ先の実相院へ。新田氏一族の矢島内
匠(たくみ)らが、足利氏との戦いに敗れてこの地に定住して開基したとのことで、「矢
島寺」とも呼ばれるよう。

 境内はソメイヨシノの古木に覆われ、本堂はコンクリート造り。墓地入口には六地蔵と
五つの庚申塔が並び、左手の庚申塔には、天和元年(1681)、元禄14年(1701)、
正徳5年(1715)と刻まれていた。


    
 白い花の咲く通りを禅定院の近くまで戻り、北側の台地に上がって百観音 明治寺に北
西隅から入る。明治45年(1912)に明治天皇の病気平癒を祈願して創建した寺とか。

 

 その後、創建した草野栄照尼がここを一大観音霊場にしようと呼びかけたところ、政財
界から庶民まで多くの寄進がよせられ、現在は境内に180体近い観音石像が祭られてい
るという。


 境内の南東側は小さい公園になっていた。



 北側の道路を東にすぐ、北側には樹木に囲まれた静かなたたずまいの密蔵院があり、境
内のカノコユリがきれいな花を見せる。
       

 明治寺の東側には、地図にはないが豊富な樹木に覆われた日蓮宗の久成寺もあった。


 すぐ先の交差点を左折して北北西へ。沼袋二丁目で都道440号・新青梅街道に出る。
すぐ近くのわら屋根風の建物は、山崎記念 中野区立歴史民俗資料館である。


 館の前に、円形の大きな二つの石が並んでいる。製粉用の石臼(いしうす)で、江戸末
期から平成2年(1990)まで本町の石森製粉所で蕎麦粉(そばこ)製造に使われたも
の。

 青梅街道中野宿は、江戸時代から江戸への物資の集荷地で、集められた大豆、蕎麦、麦
などを素材にした味噌、醤油、小麦粉、蕎麦粉など醸造や製粉業が地場産業として成長し
てきたという。

 資料館の場所は、江古田村の名主(なぬし)で醤油製造や質屋などを営んでいた山崎家
があり、明治になっては村役場の前身の戸長(こちょう)役場が建てられ、村政の中心だ
ったところとか。

 名誉都民だった山崎氏から昭和59年(1984)に土地を寄付され、5年後に歴史民
俗資料館が開設されたという。

 12時45分に入館し(無料)、「武蔵野における中野の風土と人々の暮らし」をテー
マにした旧石器時代から現代に至る歴史について、写真やイメージ画、ジオラマ、資料な
どの展示を見る。


 企画展「記念展」も開催中で、東京オリンピックゆかりの品や、絵はがき、記念コイン、
ポスター、風景入り日付印など、興味深いコレクションが展示されていた。



 ほかに、この後訪ねる哲学堂公園や、公園ゆかりの井上円了コーナー↑、中野区と関わ
りの深い写真産業にちなむ、レトロカメラのコーナーもあった。


 東側の庭園は閉鎖されていたが、緑豊富な植栽の中に樹齢500年というシイノキの大
木が目に付く。40分近く観覧して民俗資料館を出た。
    

 新青梅街道沿いの、近くのファミレス・ガストで遅めの昼食をして、歴史民俗資料館前
まで戻る。 ガストで食べたチキントマト煮ランチ(648円)       (続く)
    





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中欧5か国5都市のトラム・トロリーバス・バス

2016-07-24 22:15:26 | 中欧5か国旅行
 2016年7月24日(日)

 今日からときどき、5月28日(土)~6月3日(金)の7日間に巡った中欧5か国の
旅の中で撮った写真を、幾つかのジャンル分けして紹介します。

 最初の今回は、中欧4か国の首都とドイツ・ドレスデン市内で市民の足となっている、
トラム(路面電車)やトロリーバス、そしてバスです。

 各都市とも、足で歩いて観光した時間はわずかなので、これら交通機関をたくさん見か
けながらも、撮れたのはほんの少しだけでした。特にバスはたくさん見ていますが、カメ
ラを向けたのは限られたところだけでした。

 最初はオーストリアの首都ウィーン市内を走るトラム。ウィーン市内は5月28日(土)
から30日(月)朝と、帰国前日の6月3日(金)に巡っているので、トラムはあちこち
で見ました。

 
 これは連接車ですが何両編成なのか分からず、その中央部の側面はミカンのような果物
の広告に隠されています。

 ウィーンの中心部は、リングと呼ぶ街路樹の多い環状道路に囲まれていますが、そのリ
ングを走るトラムを幾つか。






 ウィーンのトラムは6路線あるようですが、市街地の中心部を走る1番、2番、71番
系統をたくさん見かけました。




 こちらは2番の路線のよう。





 車体の塗装色は3種類あるようです。



 次はチェコの首都プラハのトラム(5月30日(月))。




 大きなパンタグラフが目に付きます。

 プラハのトラムは市内を縦横に走り、路地裏までも網羅しているようですが、観光時間
が短かったのでこれだけでした。

 プラハ市内を走るバス


 3番目の都市、ドイツ中東部のドレスデンのシュロス広場付近を走るトラム。ドレスデ
ンを訪ねたのは、5月31日(火)の午後でした。

 車体側面には、小型自動車の広告が並んでいました。

 2階建てバス、観光バスかもしれませんが…。


 エルベ川のアウクストゥス橋を渡るトラム。

 ドレスデンでは、切符はSバーン、トラム、バスに共通して使用できるとか。どの交通
機関でも乗り継ぎ自由のようです。

 4都市目は、スロバキアの首都ブラスチラバを走るトロリーバス。6月1日(水)です。

 ブラスチラバのトロリーバスは14の路線があるようですが、旧市街の中心部には乗り
入れていないとのこと。上と下の2つの写真は、移動途中のバスの中から撮ったもの。


 ブラスチラバにはトラムも8路線あるようですが、巡ったのは中心部のわずかな距離だ
ったので、見かけませんでした。

 最後、5都市目は6月2日(木)、ハンガリーの首都ブダペストのトラム。いずれも移
動中のバスから撮ったもの。


 ブダペストのトラムは、いずれもシンボルカラーの黄色い車両のよう。

 2系統は、ドナウ川沿いの国会議事堂前からくさり橋、エルジェーベト橋、自由橋など
ドナウ川にかかる橋や、対岸の王宮やゲッレールトの丘を眺められる路線とのこと。

 上の2105号車は最新の車両のよう。

 ブダペストのバスの色は皆ライトブルーとか。以下の2つのバスも乗っていたバスから
撮ったもの。




 このトラムは側面の窓が多くて、展望はは良さそう。

 
 こちらも2系統のトラムですが、赤レンガ壁の向こうの専用軌道を走っているので、下
回りの黄色い彩りが見えません。


 さて、帰国前日の6月3日(金)に再び戻ってきたオーストリアの首都ウィーンの、リ
ンク周辺を走るトラムをもう少し。



      ↑71番路線↓
     





 オペラハウス近くに停車中の2階建てバス。


 オペラハウス前の停留所


 こちらも、オペラハウスから近い交差点だったと思います。
 

 このあとウィーン国際空港に向かい、翌6月4日(土)に帰国しました。




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続カタツムリ歩行で八潮駅周辺を歩く(埼玉・東京)

2016-07-19 21:35:00 | カタツムリ歩行
 2016年7月18日(日)

 銀座に出かけた前日同様に蒸し暑いが、「続カタツムリ歩行」の第36回例会に参加し
た。

 集合は、つくばエクスプレスの八潮(やしお)駅。駅前の街区案内図に、八潮市のマス
コットキャラクター「ハッピーこまちゃん」が描かれている。
        


 雨が落ちてきたのでザックカバーを掛け、傘を差して10時ちょうどに北口をスタート
した。駅前の建物に市役所の駅前出張所が設けられていて、市の推奨品などがウィンドウ
に紹介されていた。


 広い通りを北西に少しで首都高6号線の高架下を抜けて、八潮五丁目へ。大原(だいば
ら)中の北東端の角から北に延びる大原緑道に入る。
     
 ソメイヨシノの並木が続き、両側に歩道と自転車道が区分されている。歩道側に相撲場
があり、すぐ先突き当たりで大原公園に入る。



 草地の回りを広葉樹が囲み、東側斜面は樹林が覆う。公園内のタイルに、市の花くちな
しと市の木いちょうがデザインされていた。


 道路のマンホールデザインも、市の花くちなしと市の木いちょうである。
  

 公園の東を流れる八条用水沿いに北進する。中央交番前交差点で左折して県道54号・
松戸草加線に入り、中央三丁目の妙光寺へ。

 妙光寺は、日蓮宗の名僧、日正が文明3年(1471)に開山したとのこと。

     
 新しい山門を入ると、左手に市保存樹木のクスノキが高く枝を広げ、堂々たる本堂前に
はハスが1輪花を見せていた。


             


 近くには、拝殿がほかより横長の造りの諏訪神社がある。拝殿手間にご神木のイチョウ↓
が葉をいっぱい茂らせ、拝殿右手には市の保存樹木のケヤキが目に付く。
    


 境内の背後は、緑陰豊富な諏訪児童公園↑。神社や公園の西側は南部葛西(かさい)用
水だが、水量は少ない。


 北側の橋を渡り中央四丁目へ。近くには天満宮があり、本堂はどっしりとしたコンクリ
ート造り。


 道路を挟んだ西側は観音寺。天文3年(1534)開基の不動坊跡を、元和7年(1621)
に長清律師が開山したという。


 本堂前の大イチョウは長清律師お手植えと伝えられ、樹齢400年、樹高14m、胸高
周囲3.8mあり八潮市最古のイチョウ。市の木をイチョウとしたのも、この木あっての
ことのよう。
     

 境内には「川上先生顕彰之碑」がある。川上先生とは川上行則氏で、八潮中初代校長と
して八潮中の基礎を築き、定年後は八潮市教育長に就任するなど、純農村から都市化した
八潮市の教育環境の整備に献身され、市民の信望厚い人だったという。
        

 ここから南下して、ゴールに向かうことにする。南部葛西用水沿いを進むと、水の少な
い流れに1羽のサギがえさを探していた。
    


 八潮七丁目を東進すると、住宅地の中に1枚の水田が残っていた。稲荷神社に背後から
入る。


 南側の墓地際にも1枚の水田があり、墓地は円照寺のもの。法事にでも出かけるのか、
ご住職が本堂の雨戸を閉めていた。



 南側の県道102号・平方東京線に出たところに、「畑まるごと直売所」の建物がある
が、入口は閉じている。そばの畑の道路際に、ノイチゴだろうかたくさんの実が熟し始め、
畑にはきれいな花が咲いていた。
        

    

 県道を南西へ、すぐ先に杵屋という和菓子店があるが、ゴールまでの距離を見ると寄る
時間が無いので、そのまま通過する。


 近くの建物際に、見たことの無い黒っぽい花が咲いていた。
  

 境橋で南部葛西用水を越え、西側近くの大曽根八幡神社に回る。文亀2年(1502)
に勧請(かんじょう)されたが、後三年の役に源義光が兄義家援軍のため、寛治元年
(1087)に当国に趣いた頃、八幡神を奉斉したとも伝わるとか。

 寛文10年(1670)に大曽根村領主森川公から3石の朱印を受け、のち2石加増さ
れ、森川家の氏神になったという。境内の2本のイチョウは市の保存樹木である。


 南側近くには福寿院↑があるが、由緒などの紹介は無い。正午にゴールできそうににな
く、寄るところも無いのであとは大原の区画整理された道路を南に急ぐ。

 こちらは市の鳥をデザインしたマンホールだろうか…。

 
 首都高6号線に突き当たり、少し東北に回ってその下を抜ける。大曽根小の東からつく
ばエクスプレスの高架下を南へ。


 緩やかにカーブして流れる垳川(がけかわ)の北岸に突き当たり、東側の南部葛西用水
と交差するふれあい桜橋の側道を渡る。

 垳川沿いの豊富な植え込みの続く神明・六木(しんめい・むつき)遊歩道を折り返し、
ゴールの神明水の森公園に、12時18分に着いた。垳川が埼玉県と東京都の都県境で、
南側の神明の森公園は足立区神明三丁目にある。

 公園の中心部は広い空き地になっているが、ここに以前は神明水の池があったとか。北
側には風車もあったようだが老朽化で撤去し、台座だけが残っていた。


 昼食後のミーティングでは、途中で出会った人から八潮の昔の様子などを聞いたことな
どの報告がある。13時頃散会となった。

 帰路は、垳川沿いを少し回ってから八潮駅に戻ることにする。公園の背後から垳川沿い
の神明・六木遊歩道を西に向かう。

 かなり年代を経た木が多くて種類も豊富だ。木には名札が付いていたので幾つかメモし
たら、エノキ、ムクノキ、ケヤキ、シラカシ、タブノキ、カヤ、サクラ、サンゴジュ、ク
ロマツ、スダジイなど、多彩な植栽の緑陰が続き、暑い時期でも良い遊歩道である。


 流れにたくさん泳ぐアメンボウや、木々などを眺めながら次の平成泉橋まで進み、遊歩
道を離れた。


 南側は「泉の広場」で、小さい池がある。



 神明三丁目の住宅地を北東へ。近くの天祖神社にはケヤキが多く、そのうち5本は足立
区の保存樹木。境内の消防団の格納庫際には、素朴な火の見やぐらが残る。

 隣接して、やはり樹木豊富な南蔵院がある。この地の名主の先祖で福島正則の家臣、星
野又太郎が慶長15年(1610)に菩提寺として開創したとか。



 山門を入ると8地蔵が並び立ち、その先に「平成の鐘」と呼ぶりっぱな鐘楼がある。


 慈母観音と本堂との間を入ると、創建時に植樹されたと伝わる幹回り3.2m、樹高
24mで区の保存樹木のクスノキの大木が枝を広げて立つ。
     


 東進して、南部葛西用水に平行する通りに出た。緑に覆われた用水沿いの緑道を北に少
しで都県境のふれあい桜橋を渡る。




 八潮市に戻り東側の垳(がけ)地区に入る。ちなみに「垳」とは崖(がけ)と同じ意味
の国字。垳という地名は国内でも八潮市にしか無いが、この地名があるため「垳」の文字
はJIS第二水準漢字に入っているという。

 八潮駅に近いので、一帯は区画整理が進められている。民家の庭先にクルマユリがたく
さん咲く。
    


 近くに、小さめの社殿の垳稲荷神社が祭られていた。
  

 境内もそう広くないが、その南東側には標高2.0mの一等水準点がある。
  

 
 さらに南東に少し、潮止中の前にあるのは常然寺。境内に植栽は少なく、観世音菩薩や
水子地蔵、そして何やら分からぬ笠付きの石塔が立っていて、この塔に一番興味をひかれ
た。
       
 石塔の礎石には延宝2年(1674)と記され、塔には数え切れぬほどの文字が刻まれ
ている。
         
 帰宅後調べた八潮市の資料によれば「延宝2年垳万人の塔(がけまんにんのとう)」で、
「垳の万人塔」とも呼ばれる別時念仏(べつじねんぶつ)供養塔。高さ4.6mあり市内
最大の石造物のよう。塔は、常然寺4世で中興2代と称えられる称誉上人が千日回向(せ
んにちえこう)の別時念仏を発願し、万人講を組織して延宝2年に造塔したものとのこと。

 塔身の四面に金剛界四仏の種子(しゅじ)を配し一面に文字が刻まれていて、基礎部に
は導師名とともに58か所もの地名と、参加人数が刻まれ、判読可能な人数だけでも
8,700人余りにも及んでいるという。ほかでは見たことの無い、珍しい石塔だった。

 潮止中の西側から北へ、少し迂回して北進し、八潮駅南口に14時25分に着いた。


(天気 曇一時雨、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 草加、歩行地 八潮市、足立
 区、歩数 19,400)




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東京・銀座へ2つの展覧会を見に行く

2016-07-17 22:45:37 | 写真展・スケッチ展(個人・グループ)観覧
 2016年7月16日(土)

 晴天にはならなかったものの蒸し暑い1日でしたが、昼過ぎに東京メトロ丸ノ内線の銀
座駅で下り、数寄屋橋公園↓前を通って数寄屋橋交差点に向かいます。


     

 数寄屋橋交差点を渡った東南側にあるソニービルの屋外には、大きな水槽が設けられてい
て、たくさんの熱帯魚が泳ぐ様子が見られます。
    







       

 裏側に回ると、交差点を通る自動車や人々の様子なども眺められます。






 最初の目的地は、このソニービル6階のソニーイメージングギャラリーで開催中の、
『第33回「日本の自然」写真コンテスト受賞作品展』(入場無料)です。


 最優秀賞と優秀賞作品だけなので作品は10数点でしたが、いずれもさすがと思わせる
シャッターチャンスで捉えた見事な作品ばかりでした。

 なお、この作品展は7月21日(木)まで開催中です。

 短時間で観賞してソニービルを出て、銀座4丁目交差点の方に向かうと、隣のビルのウ
ィンドウにはなぜかサボテンが…
    

         

 銀座4丁目交差点まで行かずに右折して並木通りへ。


 銀座7丁目にあるノエビアビル1階が次の会場です。


 ここでは、「今森光彦ペーパーカット展 どうぶつ島たんけん」(入場無料)を開催して
います。
     
 今森光彦さんは、里山をテーマとした作品で知られる写真家で、先ほどのソニービルで
の写真展の審査員の一人でもあり、優秀賞の中には「今森光彦賞」もありました。

 一方、ペーパーカット作家という別の顔もお持ちで、この会場での作品は、熱帯雨林か
らサバンナまで世界中を取材し、昆虫や哺乳動物、は虫類など数え切れに生きものたちと
の出会いを精巧なペーパーカットの作品に仕上げて、その一部を展示しているのです。
                   
 たくさんの作品の中から、ブッシュの中のライオン、アポロジニーの家族と追いかけた
カンガルーなどの作品を「どうぶつ島たんけん」と題して展示していました。

 会場の都合か作品数は20点前後で少な目ですが、こちらは9月2日(金)まで開催し
ています。

 短時間で2つの展覧会の観覧を終えたので、並木通りを戻ります。途中のビルのウィン
ドウの飾りと外の反射がちょっとおもしろく見えたので…。


    
 銀座6丁目で建て替え工事中だった銀座朝日ビルの工事現場の塀には、夏目漱石の作品
「三四郎」の挿絵が数点並んでいます。


      

           

               



 銀座6丁目と5丁目の間のみゆき通りから銀座通りに出たら、今日は土曜日で車道は歩
行者天国になっていました。






 銀座4丁目交差点、おなじみの服部時計店の周辺。


 さらに銀座通りを北へ。


 歩道には花があちこちに植えられていて、どれもきれいでした。
  

     

         

 銀座3丁目辺りには、銀座通りが「日本の道100選」に選定されたことを記したプレートが。
       

 こんな特大のケーキを誰に贈るのかと思ったら、建て替えて新しくなったビルの数階分
を飾りつけたよう。


    その先、右手(東側)歩道には、「銀座発祥の地」碑が立っています。
     

 北端の銀座1丁目まで進むと、向こうに見える東京高速道路の高架の手前の交差点で、
歩行者天国は終わっていました。


 高速道路下を抜けてすぐ、京橋交番際際には古い「京橋」の親柱が保存されています。
       
 
 次の京橋交差点の手前左手(西側)は「東京スクエアガーデン」と呼ぶビルで、ビル
の1階はモンベル 東京京橋店が入っていて、玄関前にはモンベルのキャラクターが出
迎えていました。
       

 このビルは大変緑化に熱心なようで、各階に豊富な樹木や草などが植え込まれていま
した。




 京橋交差点際の大きなアジサイも、まだ咲き残る花がたくさん。


 この先、東京駅八重洲口地下街に入って遅い昼食をして、八重洲口さくら通りの日本橋
プラザビル1階の「ふるさと情報プラザ」で幾つかの都県の観光パンフレットを入手しま
した。

 東京駅丸の内口の地下に回り、東京メトロ丸ノ内線の東京駅から池袋に向かいました。




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中欧5か国8日間の旅⑦ ブダペストからウィーンに戻り帰国へ

2016-07-14 15:02:55 | 中欧5か国旅行
  第7・8日 2016年6月3日(金)~4日(土)

 == ハンガリーのブダペストからオーストリアのウィーンに戻り帰国へ ==

 最後の宿泊地、ハンガリーの首都ブダペストのホテル アクインカム ブダペストにて、
6時30分に起床して、7時25分頃からホテルのレストランで朝食をした。今朝は快晴
である。

    
 バスに乗り、8時27分にホテルを後にして、帰国のためにオーストリアの首都ウィー
ンに向かう。ブダペストからウィーンへは、西北西に240㎞くらいかと思われる。


 朝のラッシュ時なので、ウィーンの市街地を抜けるのに少し渋滞したが、郊外に出ると
高速道路は円滑に流れるようになった。

 ウィーンに向かう高速道路E60号線は大型トラックが結構多く、周辺は緑豊富な畑作
地帯や緩やかな森林などの展望が広がる。




 1時間半ほど走ると、たくさんの発電用風車の設けられた一角を通過した。


 10時03分、店舗も併設しているガソリンスタンドに入りトイレ休憩に。ウィーンま
ではあと140㎞前後かと思われる。10時20分に出発した。



 その先は平坦地が続き、ウィーンへの距離の中間辺りにある町ジュール(Györ)を通過
し、前後には麦やトウモロコシ、ラベンダー、ナノハナ畑などの広々とした展望が続く。


 国境近くには再び発電用風車が増え、11時09分に国境のゲートに着いた。

 チェックがあるのかゲートの前後は少し待たされたが、結局チェックらしいのは無く、
10時20分にゲートを出て4日ぶりのオーストリア国内に入る。

 オーストリア側にも発電用風車が続き、一昨日ブラスチラバ城から見えたのは、この近
くかとも思われた。



 正午を過ぎて間もなくウィーン郊外に入り、次第に建物が増えて市街地に戻った。バス
を下りて、12時24分に近くのレストランに入って昼食をする。


 13時03分にレストランを出てバスに乗り、中央市場や金色の球体のゼツェスィオー
ン前↑など通過して、13時30分にオペラ座前↓でバスを下りた。空港に行くまで時間
があるので、15時までフリータイムとなった。


 地図を見て、西側近くに2日目の5月29日(日)に訪ねなかった王宮庭園があると分
かり、その周辺を巡ることにした。


 街路樹が続きトラムの走る通りを数分で王宮庭園に着いた。庭園の南側、道路側にドイ
ツの文豪ゲーテ(Goethe)の座像がある。
   

 庭園に入って右手には、フランツ ヨーゼフⅠ世(Franz Joseph Ⅰ)の立像があった。
      
 フランツ ヨーゼフⅠ世は、1848~1916年の間のオーストリア帝国の皇帝で、
オーストリア=ハンガリー帝国成立後はハンガリー国王も兼ねたとか。

 68年に及ぶ在位と国民からの絶大な敬愛から、晩年は「国父」とも賞され、オースト
リアの象徴的存在だったという。皇后は、美貌で知られるエリザベートである。


 木々の向こうに新王宮の建物らしいのが望まれ、芝生地で憩う人も。


     
 左手、西方に回ると、古典派音楽の代表として知られ、ウィーン古典派三大巨匠の一人、
モーツアルトの銅像があり、手前の芝生には花でト音記号が描かれていた。



 王宮庭園の北西側を占める新王宮に向かって園内を進む。王宮庭園側は新王宮の裏側に
あたるようだが、その入口前には騎馬像がある。
     


 台座には「DIVI FRANCISCI I ROM IMP 」と記されているのでローマ皇帝かと思われ、
調べてみたが誰か分からなかった。

    
 王宮庭園の新王宮側をもう少し回り込む。大きなボダイジュにたくさんの花が咲き、付
近に小さな池があり、池の噴水は変わったポーズの裸像だった。
     

 庭園の北東側にはガラス張りの建物があり、たくさんの人が見える。

 「蝶々の温室」のようで、中に入ると蝶々が優雅に舞い、子供だけでなく大人も楽しめ
るというが、時間が無いので入らなかった。


 新王宮の入口付近に回って、建物やたくさんの飾り物などを眺める。


    

 新王宮と旧王宮の間から、北側に抜けられないかと回ってみたが通れないので戻る。



 王宮庭園の芝生地で憩う人々や、南側の建物↓などを眺めながら新王宮の西側から、街
路樹の続くリングの通りに出た。




     

 北西に少しで、ヘルデン(Helden)(英雄)広場の入口に立つヘルデン門(ブルク門と
もいう)の前に出た。

 5つのアーチの並ぶ門をくぐって英雄広場に入ると、右手(南東側)に半円形の新王宮
が広がる。

 新王宮は、1881年から1916年にかけて建てられたネオ・バロック様式の建物で、
ハプスブルク家最後の王宮。1938年には、ドイツのアドルフ・ヒトラーがこの新王宮
のテラスからオーストリア併合を宣言したという。

 新王宮内には、国立図書館の閲覧室や民俗学博物館などがあるらしい。

 正面入口近くには、オイゲン公騎馬像がある。オイゲン公はフランスの出身、神聖ロー
マ皇帝レオポルト1世に将軍として迎えられ、1863年にはウィーンが20万を越える
オスマン・トルコ軍に包囲されたが、オイゲン公の活躍で防衛に成功したという。
     

 英雄広場の反対側、北西側の中央部にはカール大公騎馬像もあった。カール大公は皇帝
フランツ1世の弟で、オーストリア軍を指揮してナポレオンと戦った将軍とのこと。
     
 2本の足だけでバランスよく立っていて、ドミニク・フェルンコルンという彫刻家の傑
作のようだが、彼自身はこの騎馬像がバランスを崩して倒れる夢にうなされ、精神に異常
をきたしてしまったという話があるらしい。

 広場の向こう北西側の樹間から、ゴシック様式が美しい市庁舎が望まれる。

 ゴシック建築の名手フリードリヒ・フォン・シュミットの傑作で、完成は1883年と
いう。

 実は王宮広場には、今回の観光初日の5月29日(日)午前に訪れていたのだがすっか
り忘れていて、帰宅後に記録や写真を見て思い出したのだった。


 ヘルデン門に戻って王宮広場を出て、西側突き当たりのマリア・テレジア(Maria
Theresien)広場に行く。


 広場の北西側には自然史博物館↑が、反対の南西側には同じスタイルの建物、↓美術史博
物館が対照的に建てられていて、広場は2つの建物の間にある。


 広場の中央あるのが、広場の名のもとになるマリア・テレジア像。
     
 マリア・テレジアは神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク・ロートリンゲン
朝の皇帝フランツ1世シュテファンの皇后であり共同統治者。オーストリア大公、ハンガ
リー女王、ボヘミア女王で、ハプスブルク君主国の領袖(りょうしゆう)であり、実質的
な「女帝」として知られる。
       

 そろそろ集合地のオペラ座前に向かうことにして、トラムがひっきりなしに通過する往
路のリング通りを戻る。


 往路では気付かなかったが、オペラ座の前には大きな噴水があった。14時50分にオ
ペラ座の前に着いた。



 オペラ座前からバスに乗り、15時00分に出発して中心街から南東10㎞余りにある
ウィーン国際空港に向かい、15時40分頃空港に着いた。



 搭乗手続きをして出国審査を受け、免税店などの並ぶ長い構内を進んで搭乗口のG11
番ゲート付近に行き、駐機場に出入りする各国の飛行機などを眺めながらしばらく時間を
待つ。




    
 搭乗予定時刻は17時05分だったがなかなか搭乗を開始せず、出発予定時刻に近い
17時45分から搭乗が始まる。


 往路では中間の4列並びの席だったが、帰路は右側窓側の席になった。

 ウィーン国際空港17時50分発オーストリア航空OS-051便のB777-200
型機は、30分遅れの18時20分に離陸した。
     

 飛行機はワルシャワ東方からロシア、サンクトペテルブルク付近を経て長大なシベリア
大陸北部を東に向かう。
    

 機内食は19時50分頃配られ、その後は機内灯が消えたので、前座席背面のディスプ
レイで、半世紀前に見た映画「サウンド・オブ・ミュージック」を久しぶりに見たりして
過ごす。
      

 長い長いシベリア大陸北部を通過してハバロフスク上空を過ぎ、北海道の西方辺りで日
本海に入り、日本時間4日(土)10時25分頃に朝食が出た。

 やがて飛行機は日本海から東北上空に入り、窓からは稜線周辺に雪の残る東北の山並み
が望まれる。


     
 成田国際空港には、到着予定時刻の11時55分より早い11時40分に着陸した。

 預けた荷物を受け取り、宅配業者に依頼したりして、京成電車の成田空港駅12時47
分発の上り特急電車に乗り帰路につく。

                    (歩数 帰路の京成電車車中まで 10,700)

========================================

 1か月余りかかり、ようやく8日間の旅のレポートを終えましたが、撮ってきた写真が
まだたくさんあるので、行程のレポートとは別の切り口で何回かに分けて紹介したいと考
えています。いつまでかかるかも分かりませんが、興味のある方はまた、時々のぞいてみ
てください。





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中欧5か国8日間の旅⑥ 世界遺産ブダペストとドナウベント観光(後半)

2016-07-11 15:18:01 | 中欧5か国旅行
 2016年6月2日(木)

 == 世界遺産ブダペストの観光と郊外のドナウベント観光(後半) ==

 午前中のブダペスト市内の観光を終え、午後は全員、選べるプランのうちの<Aプラン>
ドナウベント観光に参加する。13時26分にバスは出発した。

 「ドナウベント」とは、オーストリアのウィーンからスロバキアとの国境を東に流れて
きたドナウ川が、国境を離れると急に向きを南に変えてブダペストに向かう。このドナウ
川が弧を描く辺りを「ドナウベント」と呼び、幾つかの名所旧跡がある。

 それらのうち、エステルゴムとセンテンドレを訪ねるのが、午後の<Aプラン>の行程
である。

 地下鉄1号線の起点駅のあるヴェレシュマルティ広場の近くからバスに乗り、ドナウ川
左岸に沿う道を上流(北)に向かう。


 平行してトラム2号線の線路↑が走り、間もなく国会議事堂↓の横を通過する。


 反対側のドナウ川も眺めながら進む。


 郊外に出てドナウ川を渡り、西北西に向かう。民家の少ないところまで進むと、ナノハ
ナ畑が見えてきた。


 中ほどを過ぎた辺りのPiliscsabaの町には大学があり、建物は第二次世界大戦後駐留して
いたソ連軍の兵舎を転用しているという。下は大学の校門と思われる。


 町を出ると、西側の丘陵にはモトクロスのコースらしいものが見えた。


 やがて、右手に平行して単線非電化の鉄道線路が近づき、しばらく併走する。

 踏切を越えた辺りの線路際には新しいコンクリート柱が立ち、近く電化されるのではな
いかと思われた。

 最初の観光地、エステルゴム(Esztergom)の駐車場に14時55分に着いた。ブダペス
トの北西約60㎞、スロヴァキアとの国境に近い町である。


 エステルゴムはハンガリー建国の地で、マジャル族が9世紀にこの地に定住し初め、イ
シュトヴァーン一世が997年に初代ハンガリー王となり、ハンガリーの都として栄えた
という。

 13世紀半ば、モンゴルの襲来で壊滅的な打撃を受けてブダペストに遷都されたが、
1715年からカトリックの総本山が置かれ、宗教上重要な町となり今日に至っていると
いう。


 城壁のような建造物の横にある階段を上がると、大聖堂の正面が望まれる。建物は
1822年から50年かけて再建したとのことで、ドームの高さは100m、直径は
53.5mあるという。


 大聖堂前の高い台座上に「Magyarok Nagyasszonya!」と刻まれた立像がある。どうやら
ハンガリーの聖母像らしいが詳細は分からない。
     

     
 大聖堂の内部に入り、荘厳な内部を一巡して拝観する。祭壇画「聖母マリアの昇天」は、
1枚のキャンバスに描かれた祭壇がとしては世界最大とか↓。
     

 

    
 ほかの祭壇画も皆大きく、きめ細かな銀細工の装飾を施した祭壇↑、16世紀初頭のル
ネサンス時代に造られたという赤い大理石のバコーツ礼拝堂↓、背後の大きなパイプオル
ガンなど、堂内のすべてに目をひかれた。
     
     
        





     
 大聖堂を出て裏手の展望台に回り、ドナウ川や対岸のスロバキア方面、眼下の建物など
を眺める。




 バス乗り場に戻る途中には、汽車スタイルの観光用の乗物が停車していた。


 バスは15時35分に出発して次の観光地、センテンドレに向かう。

 少し北上してから東に向かうと、間もなくドナウ川の流れが目に入る。一昨日夕方、ブ
ラスチラバからブダペストに向かった列車が後半、ドナウ川の見えるところを通過したが、
ちょうどこの辺りの対岸(左岸)になるようだ。


 ドナウ川が見えなくなり緩やかな山並みの麓などを過ぎ、山上に古城↓の見えるところ
や、どの家も広い敷地の住宅地の続く町などを通過する。


 16時35分にブダペストの北方約20㎞の町、センテンドレ(Szentendre)に着いた。

 センテンドレは、14世紀にオスマン・トルコの襲撃から逃れてセルビヤ人やギリシャ
人達が来たのが始まりで、のちトルコの支配下におかれるが、17世紀末にはセルビア人
などが定住したようだ。

 彼らの多くは手職人や商人で、町に独自の文化や習慣、建築様式などを植えつけ、20
世紀になると多くの芸術家が移り住むようになり、町には小さい美術館や画廊、博物館が
多いという。
     
 小さな土産物店などの並ぶ石畳の狭い通りを数100m進んで、フェー(中央)広場ま
で行く。



 広場は幾つかの細い通りが合していて、中央にあるのは18世紀後半に建てられた「商
人の十字架」で、この下にセルビア人の男が逆さまに埋められていると言われているよう
だ。
       

 広場に面してブラコヴェシュテンシュカ(Blagoveshtenska)教会がある。
     
 「感謝教会」という18世紀に建てられたギリシア正教の教会とか。広場には、ちょっ
と変わった手洗い場のようなものももあった。
     

 ここでフリータイムとなり、17時30分にバス乗り場に集合となったので、広場周辺
を見てからバス乗り場に戻ることにした。雲が厚くなりポチポチと雨が落ちてきたので傘
を差す。


 来た方向の反対側、斜め右手の緩やかな坂を少し進むと、別の教会があった。入口のポ
ーチ上には「Värqshàza」と記されている。



 時間を見て、この辺りから戻ることにした。美術館らしい建物や郵便ポスト、街並みな
どを眺めながらフェー広場に戻り、往路をバス乗り場に向かう。
       

     
 少し戻ったら、右手の建物の間からドナウ川の流れが見えた。小さな土産物などをたく
さん並べた店や、しゃれたカフェ、博物館らしい建物、この地方特産の琥珀(こはく)の
店の前などを過ぎる。


    


 もう一度ドナウ川が見えたので川沿いの道路に回り、豊富な水量でゆったりした流れを
一望する。対岸に渡る小さい渡船場もあった。



 元の通りに戻り、さらに続く店舗などに沿って進む。大きな街路樹には、クルミらしい
実が付いていた。


 Y字路際の小さい電柱が倒れて道をふさぎ、パトカーが来て左手の迂回路に回るよう指
示していたので、それに従って平行する通りへ。往路で目に付いていたオールドカーのあ
る店の前で往路の道に合した。


     
 左手台地上に教会らしい建物が見え、その一帯は豊富な木々に囲まれている。間もなく
バス乗り場に戻り、17時40分にバスは出発してブダペストに向かう。


 バスは南下してドナウ川の橋を渡って少し川沿いを進み、ブダペスト市内まで5㎞ほど
のところにあるレストラン↓に18時10分過ぎに入る。

 最後の夜の夕食は「フォークロアディナーショー」と呼ぶ、情熱的なハンガリー伝統の
音楽と舞踊を楽しみながら味わい、最後はツアーメンバーも呼ばれて一緒に踊ったりして
盛り上がる。

 19時35分にレストランを出てバスに乗り、さらにこの後のお楽しみ、ドナウ川での
ナイトクルーズに向かい、20分ほどで乗船場に着いた。

 何隻かが平行して並ぶ船の一番先の船に乗り、まだ明るさの残る20時にクルーズ船は
乗船場を出て下流(南)に向かう。船は我々だけの貸し切りである。


 船は右岸側を走行するので、主に右岸のブダ地区の町並みを間近に眺め、少し冷たい風
を受けつつ移りゆく風景を楽しむ。


 中の島であるマルギット島の南端にかかるマルギット橋をくぐると、左岸ペスト側河岸
そばにある世界遺産の国会議事堂が近づく。


 正面にくさり橋やブダ側のゲッレールトの丘が望まれ、右に左にと皆さんカメラを間断
なく向けて、シャッターを切る手が休まらない。



 ブダ側に、午前中訪ねたマーチャーシュ教会や王宮↑が近づき、薄暮が進んで幾分かラ
イトが目立ってきた。


 エリザベート橋の上、ゲッレールトの丘に立つ自由の像も近づいてきた。周辺にはクル
ーズ船が幾つも並んでいる。エリザベート橋の下、がけを背にするのはルダシュ温泉のよ
う。



 次の自由橋下を通過し、さらに次々に見えてくる建物を眺め、その次の橋の近くで左旋
回して上流に向かっての折り返しとなる。



 帰路になると皆さんのシャッター回数もさすがに減って、ゆっくりと眺めている時間が
増える。

 何度かの食事の席で、一番気兼ねなく同席させていただいたMさんから、一緒に写真を
と誘われたので私も撮らせてもらったが、ストロボが発光せずアンダーの写真になり残念
だった。


 王宮のライトが往路よりいっそう目立ってきた。くさり橋にもライトが点灯し、両岸の
街灯も明るくなった。



 国会議事堂際まで戻ると、ライトに輝く議事堂の影が水面に揺れ、世界一美しいと呼ば
れる国会議事堂が輝きを増す。




 乗船場より少し上流まで進んで戻り、20時50分過ぎにクルーズ船を下りた。

 バスに乗り対岸のブダ側に回ってホテルに向かう途中、ドライバーさんが国会議事堂の
対岸辺りで止めて、5分ほどの撮影タイムを取ってくれた。21時15分を過ぎて、すっ
かり暗くなった対岸に、国会議事堂が黄金色に輝いていた。


 連泊のホテル アクインカム ブダペストには予定時刻の21時30分に戻った。

                              (歩数 12,600)





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中欧5か国8日間の旅⑥ 世界遺産ブダペストとドナウベント観光(前半)

2016-07-08 13:04:58 | 中欧5か国旅行
 第6日 2016年6月2日(木)
 
 == 世界遺産ブダペストの観光と郊外のドナウベント観光(前半) == 

 ハンガリーの首都ブダペストの、ホテル アクインカムにて6時25分に起床し、7時
20分頃からホテルの食堂で朝食をする。ホテルは、ブダペストの中心部よりやや北、ド
ナウ川の中州であるマルギット島の北端に架かるアールバード橋の右岸そばにある。

 いつものバスに、今日午前中案内してくれる女性ガイド・ウェイグル(Veigl)さんも
乗り、8時30分にホテルを出発した。朝食を終えた頃は降っていなかったが、バスに乗
る頃には雨になった。

    
 今日の予定は、午前中は世界遺産ブダペストの観光、午後は2つのプランが選べるよう
になっていて、<Aプラン>は郊外のドナウベント観光、<Bプラン>はブダペスト市内
の街歩きをしたい人向けの自由行動だが、全員が一昨日午後のドレスデンと同様に<Aプ
ラン>を希望したようだ。

 ちなみにハンガリー共和国は、西のオーストリアから北のスロヴァキア、東のウクライ
ナ、ルーマニア、南にセルビア、クロアチア、スロヴェニアの7か国と接していて、面積
は日本の約4分の1の9万3千平行㎞余り、人口は約990万人で、そのうち首都ブダペ
ストは約173万人という。

 2004年にEUに加盟したが、通貨は独自のフォリント(Ft)で、1,000フォリン
トが約400円である。

 ブダペスト(BUDAPEST)は、町の中央を流れるドナウ川で東西に二分され、西側(右
岸)がブダ(Buda)、東側(左岸)がペスト(Pest)と呼ばれ、二つの地域が統合されて
ブダペストになったという。

 ガイドのウェイグルさんによれば、「ブダ」はスラブ語でスラブ人の名、「ペスト」は
紀元前4~5世紀から住んでいたケルト人の言葉で、「かまど」のことだという。


 雨に濡れるドナウ川右岸沿いを南下して、中心部にあるくさり橋の横から右岸(西側)
ブダの丘陵上にある「王宮の丘」に上がり、9時10分過ぎにバスを下りた。


 雨なので傘を差して進み、マーチャーシュ(Màtyàs)教会のそばの三位一体(さんみ
いったい)広場に行く。

 三位一体広場は、王宮の丘で最も賑やかなところ。広場の中央にバロック様式の三位一
体像が立っている。
     
18世紀に造られたもので、昨日訪れたブラスチラバと同様のペスト記念碑で、この町で
再び悪病がはやらぬよう魔除けとして建てられたという。

     
 高い尖塔が目に付くマーチャーシュ教会は、15世紀のマーチャーシュ王の時代に、も
との聖母教会を大規模に改築したものとか。1867年にはオーストリア皇帝フランツ・
ヨーゼフとエリザベート皇妃の、ハンガリー王妃と王妃としての戴冠式が行われたという。



 正面入口横のマーチャーシュ塔は高さ80m、もうひとつのベーラ塔は36mの高さ。
屋根にはカラフルなモザイク模様が施されている。
     



 教会の北東側、ドナウ川を見下ろすところには「漁夫の砦(とりで)」と呼ぶ白亜の砦
がある。1896年に建国1,000年の記念建造物として計画され、完成したのは1902
年で、かつて砦を守ったのが漁師だったことから漁夫の砦と名付けられたらしい。


 ハンガリー的な尖り屋根の塔が7つあり、ロマネスクとゴシック様式の混ざり合ったユ
ニークな回廊。砦の前の広場には、ハンガリーの初代国王、聖イシュトバーンの騎馬像が
ある。
     

         騎馬像のそばで説明するガイドのウェイグルさん。
        


 砦からは、東側眼下にドナウ川と対岸のペストの街並みが望まれるが、雨に煙って遠望
は利かない。


 国会議事堂(世界遺産)


     
 9時30分まで少しのフリータイムの間、砦の周辺を見て回ったが、マーチャーシュ教
会に入る時間はなかった。漁夫の砦の広場に面した建物。国旗が掲揚されているので国の
施設だろうか。



 近くの刺繍の店↑に入り、説明を受けた後10時15分までフリータイムとなり、刺繍
の飾り物や衣装などの買い物を楽しむ人も。




    


 店を出て、ドナウ川やペストの町並みを高みから見下ろせる遊歩道を進む。


 遊歩道にあった水飲み場。何かの記念に造ったものらしい。
   

 
 坂の途中からバスに乗り、10時30分に出発して同じブダ側下流の次の橋、エリザベ
ート(Erzsébet)橋の西側段丘上のゲレルト(ゲッレールト)(Gellért)の丘に上がる。


 ここには2つの展望台があり、市内きってのビューポイントとか。

 最初に高い方の展望台からドナウ川や両岸の街並みを眺めたが、三位一体広場と同様に
雨で霞み、期待したほどの展望は得られなかった。

 それでも、ブダ側の王宮やその下に架かるくさり橋、くさり橋近くを移動するクルーズ
船、ペスト側の国会議事堂らしい建物などが望まれた。


 数分間の展望で下の展望台に向かう。左手の城塞のような石積みの建物の壁面に、
1890年から1945年にかけての古いブダペスト風景の写真が大きく引き延ばされて
並んでいた。







 5分足らずで下の展望台があるが、やはり雨のため同じような展望しか得られない。


 展望台には、ブダペストがユネスコ国際遺産に認定されたことを記したパネルがあった。
    

 さらに少し下のバス乗り場に向かう途中に、ホップに似た花が咲いていた。
  


 バスは11時5分に出発してエルザベート橋を渡り、東側のペスト地区に入ってドナウ
川左岸沿いの通りを北進する。道路際の気温表示は20℃を示し、今日は涼しい。


 対岸の、王宮↑や最初に訪ねたマーチャーシュ教会↓などを眺めながらくさり橋際まで
進む。少し先で折り返して戻り、インターコンチネンタルホテルの横からアンドラーシ通
りを東へ向かう。


 くさり橋


    
 インターコンチネンタルホテルの前には、Eötvös Jözsefと記された立像が見え、通りの
両側には、古い建物がたくさん並んでいる。
       

 11時45分に英雄広場の近くでバスを下りたら、雨も上がっていて傘は要らなくなっ
た。英雄広場は、かつてハンガリーの主要民族だったマジャル族による建国1,000年
を記念して造られた広場。

 中央に立つ建国記念碑は高さ35mあり、その回りに並ぶのは、マジャル族の隊長アル
バートを初め、ほかの部族長の騎馬像14体だという。



 また、半円形の大列柱の間の像は、イシュトヴァーンやマーチャーシュ王など歴史に残
る国王や、ハンガリー独立や自由のために戦った近代指導者たち14人らしい。


 英雄広場の周辺には、教会や美術館のような建物が幾つか望まれる。広場の西北側にあ
るのは国立西洋美術館。

 アテネのパルテノン神殿を思わせる建物は、建国1,000年を記念して造られたとの
こと。館の前では催し物の準備が進められていた。

 広場の南西側は現代美術館。国立西洋美術館と同じ設計者が1895年に建てたもので、
現代アーティストたちの作品を展示しているという。


 東側少し離れて見えるのは、ヴァイダフニャト(Vajdahunyad)城。王が暮らす城ではな
くてヨーロッパ最大の農業博物館があり、外観の美しさから「城」と呼ばれているようだ。
やはり1896 年のハンガリー建国1,000 年祭のために建てられたという。




 


 10分余りで英雄広場を後にした。西側の通りを横断して、南西に延びるアンドラーシ
通りの下を走る地下鉄1号線の英雄広場(ホーショク・テレ)(Hösök tere)駅に下る。


    
 地下鉄1号線(M1)も、建国1,000年の1896年を記念して開通したもの。ヨー
ロッパ大陸部最初の地下鉄であり、ロンドンの地下鉄に次ぎ世界でも2番目に古く、世界
遺産に登録されている。



 12時05分頃乗車し、ドナウ川に近い起点駅のヴェレシュマルティ広場(Vörösmarty
tér)までの8駅、10分足らずを乗車した。8駅でも駅間距離が短く、終点までは3㎞
前後のようだ。

 近くのカフェ兼レストラン ジェルボー(Gerbeaud)に12時15分頃に入り、昼食を
する。ジェルボーは200年の伝統を誇る老舗で、ハンガリー貴族にも愛された店だった
とか。デザートは、その伝統的なケーキだった。


 13時20分頃店を出て近くの通りからバスに乗り、13時26分にバスは出発した。
午後の選べるプラン<Aプラン>のドナウベント観光に向かう。(続く)




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取手市西郊からビール工場へカントリーウオーク(茨城)

2016-07-05 17:12:53 | カントリーウオーク
 2016年7月2日(土)

 梅雨の晴れ間で30℃前後の暑さになるとの予想だが、カントリーウオークグループの
第235回例会に参加した。集合地は、関東鉄道常総線で一番新しいゆめみ野駅で、駅員
は無配置である。

 駅の開業は、あの東日本大震災の翌日の2011年3月12日。震災のため開業イベン
トはすべて中止になり、一番列車の運行も取手ー水海道間が運行再開した夕方になったと
いう。

 駅舎のある北側は、「常総ニュータウンゆめみ野」で、土地整備事業が進んで新しい戸
建て住宅が増えつつあり、平成17年(2005)更新の地形図「藤代」の山之坊集落周
辺とは道路の様相がすっかり変わっていた。

 私は、入手していた「取手市観光アートガイドブック とりで」を見ていたので、担当
が用意してくれた地図より少し外れているが、下高井の高源寺に回ることを勧めたところ、
全員一緒に行くことになり、いつものような組み分けせはず10時10分に駅を出た。
 
 == 高源寺の地蔵ケヤキ見てゆめみ野公園へ ==
 
 新しい道路を北へ、すぐのT字路を西進する。休耕した畑にキバナコスモスが花盛り。
間もなくゆめみ野の住宅街の西端となり、北に延びる旧道に入る。



 永山公民館横を過ぎ、緩やかに下って細い用水を越えて下高井集落に入り、うっそうと
した参道を進んで香取八坂神社へ。蒸し暑いのでさっそく水分補給をする。


 拝殿前に、取手市保存樹木のクスノキの古木が高く幹を伸ばして立つ。
     

 東に隣接する高源寺へは、背後の墓地から入る。どっしり構える本堂はコンクリート造
りで、本尊などは2階に祭られている。


 本堂前には、茨城県天然記念物に指定されている「地蔵ケヤキ」と呼ぶケヤキの大木が
目に付く。
     
 樹齢1600年と推定される古木で、太い根元部の洞穴には子育て地蔵が祭られ、安産
の霊験あらたかと近隣の人々の信仰を集めているという。
     

 

 傍らにあるスダジイの古木も市の存樹木。ほかにカヤなども保存樹木になっていた
     

 南側の道路に出て東へ、緑豊富な広葉樹林の下草にアジサイが幾つも植えられていて、
まだかなり花が咲き残る。


 家並みが尽きて十字路に出ると、草地の向こうにこんもりとした森が現れた。一帯は髙
井城址公園で、草地の自由広場や湿地、東側台地の樹林には城郭跡がある。


 髙井城は、小貝川を北に望む半島状の台地に築かれたもので、取手市内に残る最も大き
な戦国時代最後の城跡らしい。

 築城年代は不明だが、髙井の地名は建武3年(1336)の相馬親胤(そうまちかたね)
宛文書にあることから、当時相馬氏の領地だったようだ。天正18年(1590)の豊臣
秀吉の小田原城攻めの際、後北条氏とともに下総系相馬氏が滅亡したため、髙井城はその
役割を終えて廃城になったという。

    
 草地にはノカンゾウ、ワルナスビ↓、キキョウなどが咲き、南側の湿地沿いにはアジサ
イが多い。
        



 台地に向かって林間の遊歩道を上がる。台地上には開けた広い草地があり、ここが城郭
跡らしい。


 西側の湿地際に下り、台地の南側林間を進むと、公園の南東端に髙井城跡の説明板があ
り、城の歴史や年表、主郭部の想定復元図、髙井城跡の測量図などが掲示されていた。

 下髙井集落を南東に抜けて、伊藤ハムの工場横でゆめみ野地区の新しい道路に出た。周
辺の空き地にもキバナコスモスやムラサキツメクサなどが咲き乱れている。


 工場前を東進し、髙井小の南にある「ゆめみ野公園」に入る。調整池の見える中央駐車
場そばの東屋(あずまや)に11時半前に着き、昼食をする。

 
 == 水田の用水沿いを進んでキリンビール取手工場へ ==

 食事を終えてミーティング後、一部の人は北側のサクラ広場↓に上がって南東に回り込
み、公園に接した山の坊市民緑地を回る。




   
 市民緑地周辺にも、キバナコスモスやムラサキツメクサがたくさん咲いている。
       

     

 調整池際を回ってきた残りのメンバーと合して記念撮影をして、12時18分にゆめみ
野公園を出た。



 公園の東側台地に上がると、土地整備事業で南側から移設した月読尊(つきよみのみこ
と)や庚申塔、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)合わせて5体が屋根掛けの下に並
んでいた。


 ゆめみ野五丁目の新興住宅地を東に抜け、新取手五丁目の北側に開けた田園地帯に出た。


 東西に広がる田園地帯を潤す、用水路沿いを東に少しで、当初昼食地に予定していた水
の公園に入り、水分補給を兼ねて小休止する。

 予想以上に木々が多くて緑陰もあり、せせらぎにはオタマジャクシが見られ、南側には
アジサイなどに囲まれた池もあった。
    





 再び用水路沿いを東へ。県道130号を横断した先に、たくさんのハンゲショウが花を
見せる。

 ちなみに、今年の半夏生(はんげしょう)は、きのう7月1日だった。


 周辺には緑あふれる水田の展望が広がり、幾分かの風もあり、蒸し暑さを和らげてくれ
る。


 用水路は三面コンクリート張りで無粋だが、流れは豊富。その用水路は本郷四丁目から
三丁目にかけては集落の北面の斜面林沿いになり、暑い日差しが遮られる。


 寺田第二揚水機場の横を過ぎ、次の車道を横断した近くで再び小休止して水分補給する。
前方遙かに国道6号・水戸街道沿いにある日清食品の工場が望まれる。

 本郷三丁目の東端まで進み、斜面林が切れて右カーブすると、前方にこれから行くキリ
ンビール取手工場の建物や、たくさんのタンク群が見えてきた。


 国道6号を横断し、北側からキリンビール取手工場へ。
       

 工場見学の受付場所、ゲストホールに向かうと、構内の緑地に麒麟(きりん)稲荷大明
神の小さな社が祭られていた。


 13時42分にゲストホールに入る。工場見学の予約時間は14時半なので、しばらく
はホールで待ち、直売店や製品の展示、広大な工場の模型などを眺める。




 取手工場の開設は、取手市の市制施行と同じ昭和45年(1970)。敷地面積は東京
ドームの5.5倍の26万㎡。年間最大製造量は50万㎘、一番搾りやラガーなどビール
のほか、発泡酒・端麗シリーズや、リキュール、氷結シリーズなども製造しているという。

     
 正面入口の外に出ると、大きな糖化釜(とうかがま)が置かれ、入口の横には麒麟像が
ある。
    
 像の下の建立誌によれば、創立70余年の昭和56年(1991)に、物故された先輩
の冥福を祈念して高野山に供養塔として麒麟像を定置し、同型のものをここに設置したの
だという。

 14時30分になり、ゲストホールで短い映像を見てから、近くの醸造工場棟に入る。
大きな糖化槽↓の並ぶところで仕込行程の説明を受け、一番搾りと一般的なビールの飲み
比べをする。





 この後バスに乗り、100以上も林立するコニカルタンクの横を通ってパッケージング
工場に入り、ビール瓶の洗浄からラベル貼りまでの行程を見て回る。






 ゲストホールに戻り、いよいよお楽しみのビールの試飲会場へ。できたての一番搾りプ
レミアムや一番搾り、一番搾り千葉、一番搾り取手、アルコールに弱い人やドライバー向
けの数種の飲料など、20分間に3杯まで試飲できる。



 多くの人がまず、お勧めの一番搾りプレミアムを飲んでから、ほかの一番搾りも頂き、
のどごしの違いを確かめる。

 ほかの人の分を分けてもらって4杯、5杯飲んだ人もいて、すっかり良い気分になり、
15時50分に工場を後にした。

 工場の西側から井野台二丁目の台地に上がり、畑や住宅の間を進んで井野台一丁目を南
に抜け、JR常磐線の踏み切りを渡る。線路沿いを進み、ゴールの常磐線取手駅には16
時25分に着いた。

(参加 14人、天気 曇後晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 取手、藤代、
 歩行地 取手市、歩数 19,600)




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中欧5か国8日間の旅⑤ ブラスチラバ観光後列車でブダペストへ(後半)

2016-07-01 18:28:39 | 中欧5か国旅行
 2016年6月1日(水) 

 == スロバキアのブラチスラバ観光後ハンガリーのブダペストへ ==〈続き〉


 ブラスチラバの旧市街フヴィエズドラヴォヴォ広場の西南端からSNP橋のそばまで移
動してバスに乗り、橋の西北、ドナウ川のほとりの高台にある、ブラスチラバ城に向かう。


 マリアテレジアの側近の宮殿だったという、ロココ調建築の大統領官邸↑の横を通過し
てバスは上り坂を回り込み、14時50分頃、城のそばのバス駐車場で下りた。


 さらに緩やかな坂を上がって門をくぐり、城内に入る。


 ブラスチラバ城は、12世紀にはロマネスク様式の石造りの城があったらしいが、
1431~34年にかけてゴシック様式の城に改築され、その後オスマン帝国の侵攻に備
えて防備を強化して、1635~46年にかけての改築で、現在の外観がほぼ整ったとか。

 16世紀にはハンガリー王国の首都になり、18世紀にはマリア・テレジアの居城にも
なるが、のち文化の中心がウィーンやブダペストに移り、1811年に大火災で荒廃し、
復旧したのは第2次世界大戦後らしい。

 四隅に塔を持つことから、「ひっくり返したテーブル」とも呼ばれ親しまれているとい
う。門を入った広場に、モラビア王国のスヴァトプルク王(Svatopluk)の騎馬像がある。
       

 15時10分まで少しの時間フリータイムとなった。内部の一部は国立歴史博物館にな
っているようだが、時間が無いので入口周辺を眺めるに留め、南側の展望台に行く。


 眼下に満々と水をたたえたドナウ川やSNP橋が見下ろせ、その向こうに新市街の建物
群も望まれる。


 西方遙かには、オーストリア国内の数え切れないほどの発電用風車が目に入る。


 まだ時間が残っていたのでもう一度城の入口付近まで行くと、揃いの衣装をつけた男性
の列が出てきて、門に向かって下って行く。



 博物館入口から中庭だけを眺めてから、門に近い一番高い展望台にも上がり、もう一度
ドナウ川やオーストリア方面を眺める。




 展望台の一角では、見学に来た小学生らしいグループが記念写真を撮っていた。



 時間が来たので門に向かって下り、門の近くの駐車場からバスに乗る。北方2㎞足らず
にあるブラスチラバ中央駅前で15時25分頃バスを下りた。


 今日はこの後、15時53分発の国際列車ユーロシティの2等車で、最後の連泊地であ
るハンガリー首都ブダペストに向かう予定である。着駅ブダペスト東駅までの距離は約
203㎞のよう。

 ちなみに、ユーロシティ(EuroCity、略称EC)とは、ヨーロッパにおける国際列車の
列車種別で、主要駅のみを停車する優等列車だが、一般に最高時速は200㎞以下で、
ICEなどの高速列車を運行している国では、これらに次ぐ種別と位置づけられているよ
うだ。なお、今日乗る列車は、プラハ-ブラティスラヴア-ブダペストを結ぶ系統らしい。


 駅舎に入ると、コンコースのホーム側に大きな壁画が描かれている。1964年にフラ
ンチェスク・ガイドシュという画家が描いた、「社会主義叙情詩」と呼ぶフレスコ画だと
いう。

 その下の電光掲示板には、ブダペスト東駅行きユーロシティの列車は10分遅れと表示
されている。


 20分ほどフリータイムになったが、コンコースはかなりの人出で待合室らしいのも無
さそうないので、1番線ホームに入ってみた。

 これまで訪ねたヨーロッパの鉄道駅と同様にこの駅でも検札は無く、誰でも自由にプラ
ットホームに出入りできる。

 ホームに入ると、外はいつの間にか雷雨になっていて、かなりの降雨である。観光中は
暑かったが、この雨に会わなかったのは幸いだった。


 5面あるプラットホームには、次々に列車や回送の電気機関車などが入線したり通過し
ていて、鉄道好きは見飽きない。


 さらに雷雨が激しくなり雷鳴も増え、ヒョウらしい大ツブの塊も降ってきた。雷雨はな
かなか止まず、一方、列車の遅れ表示はドンドンと大きくなる。
    


 たくさんの列車を見られたのは良いが、結局35分余り遅れて16時31分にブダペス
ト東行きのユーロシティ、EC-279列車は発車した。
    

 ようやく入線してきたブダペスト東駅行き列車。



 座席に置かれていた時刻表によれば、ブダペスト東駅までの間は途中5駅に停車する予
定になっていたが、次のNové Zàmky駅↓では28分ほど停車し、その次のStuùovo駅でも
15分停車するなどして、途中でさらに遅延が増える。
    

 国境を越えてハンガリーに入ったと思われる辺りで、線路に平行して右側にドナウ川の
流れが見え、降り続いていた雨は次第に止み、ブダペストに近づくにつれて天気は回復し
てきた。


    
 ブダペスト最大のターミナルであるブダペスト東(Budapest Keleti)駅に着いたのは、
予定時刻18時35分より約1時間半遅れの20時01分だった。


 列車の先頭部を見ると、乗車時には1両だった電気機関車が2両になっている。どうや
ら電気機関車の故障で、遅れが積み重なったように思われた。


 駅舎は、1884年に完成したイクレクティシズム様式と呼ぶ造りとか。完成当時は、
ヨーロッパでは最もモダンな駅舎とされていたという。



 駅前広場に出て駅舎をふり返り、迎えのバスに乗る。






 15分ほどで夕食をするレストランに行き、ハンガリアングヤーシュと呼ぶ夕食をする。

       
 21時20分頃レストランを出て再びバスに乗り、今回の旅の最後、今日明日連泊のホ
テル、アクインカム ブダペストには21時40分頃到着した。
    

                               (歩数 8,600)




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