あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

京都御所とその周辺を巡る(下)

2008-04-10 23:16:24 | 京都を歩く
 20008年3月31日(月)続き

 イョウ並木のある寺町通を南に進む。二条通との交差点に、
井原西鶴の「通い路(かよいじ)は 二條寺町 夕詠(ゆうながめ)」
の句碑があった。

 この句は、延宝5年(1677)の「西鶴俳諧大句数」に納められて
おり、当時、このあたりの風情ある町並みの夕景色にみとれつつ、
四条河原の涼み床へ駆け抜けていった粋人たちをうたったものだと
いう。

 鴨川の二條大橋を渡る。2つ下流の三条大橋は、毎年の中山道
ウオークのスタートかゴール地点なので何度か渡ったが、この橋は
初めて。左岸のソメイヨシノはまだ少し早めだった。


 橋より2本東の通りに回って、頂妙寺へ。何か所か点々とし、延宝
元年(1673)にこの地に移ったという。 

 楼門には持国天と多聞天像を安置し、その前に仁王門の拝殿
と呼ばれる祓(はらい)堂があり、門前の通りを「仁王通り」と呼ぶ
のは、この仁王門が起源のようだ。

 再び二條大橋を渡って鴨川の西に戻る。加茂川左岸下流では、
しだれ柳が芽吹き始めていた。


 橋の近くに、2階建て洋館の島津創業記念資料館があった。明治
8年(1875)、島津製作所がこの地で理化学機械製造業を興し、
2代目島津源蔵は蓄電池製造法を発明するなど、わが国科学技術
の発展に尽くした場所。

 資料館として公開されている建物は、国の登録有形文化財に
指定されている。

 すぐ南側は「高瀬川一之船入」と呼ばれ、いったん暗渠(あん
きよ)になった流れが再び姿を現したところ。

 高瀬川は、大量輸送を目的に伏見・二条間をつなぐ水運として
慶長16年(1611)につくられ、京都と大阪を直接水路で結ばれ
ることになり、近世京都の経済発展を支えるもとになった。

 全長約11.1㎞、川幅平均約8mあり、高瀬舟の荷物のあげお
ろしをする船溜まりを船入といい、水路に沿って九か所の船入り
が設置されたという。


 高瀬川一之船入の周辺には、京の昔をしのばせる趣ある家並み
が並んでいた。


 南側の広い通り、御池通に出て、京都市役所横まで進む。市役
所と通を隔てた南側は本能寺である。

 天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に襲撃され、自刃し
たことで知られるが、そのおり30余りの大伽藍は焼失した。

 その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年{1589}に現在
地に移転、現在の本堂は昭和3年(1928)の再建とのこと。

 境内には信長公廟(びよう)があり、武将の魂とされる信長所持
の太刀が納められているという。


 境内にはほかに、本能寺変の戦没者合祀墓、9代将軍家重夫人
の供養塔、後伏見天皇7世皇孫・日承聖人墓などがあった。

 南側の三条通から、いつも修学旅行生や観光客などでなどで賑
わう新京極のアーケードに入る。 

 幾つもの京土産店などをのぞきながら南に進む。

 通りの一角に、平安の女流歌人の代表とされ、才色兼備で知
られる和泉式部の墓所という宝篋印塔(ほうきよういんとう)があ
った。

 謡曲「誓願寺」の舞台にもなっている石塔で、高さ約4m、幅約
2.4mあり、正和2年(1313)に改修建立されたもの。


 そばの誠心院の初代住職が和泉式部だったとか。関白藤原道
長が、娘の上東門院に仕えていた和泉式部のために一庵を与え
たのが、この寺の起こりだという。

 境内は狭いが、和泉式部歌碑や、珍しい二十五菩薩の石像(下)
などがある。

 二十五菩薩は、豊臣秀吉の頃、宇治田原の城主、山口甚助に
より誠心院に寄進、建立されたとか。10体が焼失しているが、
石仏の二十五菩薩は珍しいという。

 京都の繁華街、四条通の1本北になる錦小路通に入る。

 京野菜や漬け物、煮物など、京の台所に欠かせぬ品物の並ぶ
狭い通りを抜け、17時半近く、四条烏丸の宿に戻った。

(天気 晴時々曇にわか雨、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 集成図
 京都、歩行地 京都市上京区、中京区、左京区、歩数 23600) 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする