あるきメデス

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京都御所とその周辺を巡る(中)

2008-04-08 22:22:50 | 京都を歩く
 2008年3月31日(月)続き

 京都御所を囲む築地塀の外に出て、御所の周囲を囲む
京都御苑を回ることにする。


 北に進んで御苑の西北端付近に行くと、しだれ桜を中心に、
桃や桜などが咲き競っていた。
 
 このあたりは、江戸時代末までの五摂家のひとつで、多くの
人が摂政や関白になった近衛邸跡。

 今も残る池の西側に大きな屋敷があったという。池のほと
りにある何本ものイトザクラ(シダレザクラ)が見ごろだった。

 さらに東に進むと、塀に囲まれた一角は中山邸跡。幕末期
の公家、中山忠能(だだやす)の敷地で、その娘慶子は明治
天皇の生母。敷地内にうぶ屋が残っているという。

 御苑の東に出て、御苑に沿って南に少し進むと、浄土宗
大本山の清浄華院(せいじようけいん)。

 貞観2年(860)、清和天皇の勅願により、慈覚大師が御所
内に造営したのが始まり。この地には天正18年(1590)に
移転したとのこと。

 本堂には、法然上人像や、清和・村上天皇尊像と歴代天皇
の尊牌を安置し、墓地には皇室ゆかりの墓など歴史上著名な
人物の墓があるという。

 すぐ南にあるのが廬山寺(ろざんじ)。現在の本堂は1788年
の天明の大火による炎上以後のものとか。

 境内は紫式部の邸宅跡で、源氏物語執筆地と伝えられ、本堂前
の「源氏の庭」には、「紫式部邸宅址(あと)」の石碑や、歌碑が立っ
ていた。
 
 堂内に上がり、仏像や源氏物語などの古文書、絵画などを拝観
する。松と白砂を中心の落ち着いた庭園も見て、堂内を一巡した。


 塀に沿って北に回ると、慶光天皇廬山寺陵があり、慶光天皇
のほか、内親王や、東山天皇と光格天皇の皇子、皇女など15
人の皇族の墓もあった。


 廬山寺の南側には、幕末の右大臣・三条実萬(さねつむ)と
内大臣三条実美(さねとみ)を祭神とする梨木(なしのき)神社
がある。


 境内には、京都三名水のうち現存する唯一の「染井の井」
があり、数人が、たくさんのポリタンクにくんでいた。

 飲んでみたら、まろやかな味わいだった。

 仙洞御所の南側から、再び京都御苑に入る。御苑の南側
中央部は、近衛家から分かれた五摂家のひとつ、鷹司邸跡
で、広葉樹の大木が豊富な枝を広げていた。


 少し先、御苑の南端は、やはり五摂家のひとつだった九条
邸跡。広大だったという屋敷跡に残る池のほとりに、九条邸
の鎮守だった厳島神社と、茶室・拾翠亭(しゅうすいてい)
のみが残っている。

 厳島神社の石鳥居は破風形鳥居と呼ばれ、当初は平清盛
が兵庫・築島の厳島神社に建てたもので、国重文である。


 池の中央、中の島に渡る橋のそばに、アオサギが羽を
休めていた。


 九条亭の北側にあるのが宗像(むなかた)神社。福岡の宗像
に建てられたことが古事記や日本書紀に記されており、平安京
創立の翌年である延暦14年(795)、桓武天皇の命により、
皇居鎮護の神としてここにも祭られたという。


 京都御苑の南西の角には、閑院宮邸跡が残っている。江戸
時代には200もの宮家や公家の邸宅が並んでいた京都御苑
でただひとつ、当時の建物や庭園の面影を今に伝える場所で
ある。

 歴史的価値が高いことから改修と整備をして、2005年か
ら公開されたが、この日は休館日で門内には入れなかった。

 京都御苑の南西端、烏丸丸太町交差点際で昼食をして、
ひとつ南の竹屋町通りを東進する。

 御苑の東側を南北に走る寺町通りに出て、下御霊(しも
ごりょう)神社に行く。

 不運のうちに亡くなった桓武天皇の皇子、伊予親王とその
母藤原吉子の霊をなだめるために、承和6年(839)に創建
された。

 当初は、上京区にあったが、天正18年(1590)に豊臣
秀吉の都市整備でこの地に移転したという。

 ここにも、200年前に掘られたが枯れた名水を掘り下げて
1992年に復活したという名水の井戸があり、やはりくみに
来ている人たちがいた。

 上御霊神社の南側は、西国三十三ヶ所観音霊場第19番
札所、革堂(こうどう)と呼ばれる行願寺(ぎょうがんじ)。


 寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人により創建、宝永
5年(1708)の大火後、この地に移されたという。

 現在の建物は、文化12年(1818)に建てられたもの。境内
には、都七福神のひとつになっている寿老人神堂や、愛染堂、
百体地蔵尊堂、加茂大明神塔などがある。       (続く)
コメント
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