2008年3月31日(月)続き
京都御所を囲む築地塀の外に出て、御所の周囲を囲む
京都御苑を回ることにする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/13/8c2e37f8e95c92e1dbc9ed2f2625e17c.jpg)
北に進んで御苑の西北端付近に行くと、しだれ桜を中心に、
桃や桜などが咲き競っていた。
このあたりは、江戸時代末までの五摂家のひとつで、多くの
人が摂政や関白になった近衛邸跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/8e/2336b85eed2ea3092079fe4e1fd66ab6.jpg)
今も残る池の西側に大きな屋敷があったという。池のほと
りにある何本ものイトザクラ(シダレザクラ)が見ごろだった。
さらに東に進むと、塀に囲まれた一角は中山邸跡。幕末期
の公家、中山忠能(だだやす)の敷地で、その娘慶子は明治
天皇の生母。敷地内にうぶ屋が残っているという。
御苑の東に出て、御苑に沿って南に少し進むと、浄土宗
大本山の清浄華院(せいじようけいん)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/65/d786704c40beb3bef9021a30ec9cd437.jpg)
貞観2年(860)、清和天皇の勅願により、慈覚大師が御所
内に造営したのが始まり。この地には天正18年(1590)に
移転したとのこと。
本堂には、法然上人像や、清和・村上天皇尊像と歴代天皇
の尊牌を安置し、墓地には皇室ゆかりの墓など歴史上著名な
人物の墓があるという。
すぐ南にあるのが廬山寺(ろざんじ)。現在の本堂は1788年
の天明の大火による炎上以後のものとか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/76/eeee7fda979983da113e6fb5fb6f358f.jpg)
境内は紫式部の邸宅跡で、源氏物語執筆地と伝えられ、本堂前
の「源氏の庭」には、「紫式部邸宅址(あと)」の石碑や、歌碑が立っ
ていた。
堂内に上がり、仏像や源氏物語などの古文書、絵画などを拝観
する。松と白砂を中心の落ち着いた庭園も見て、堂内を一巡した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/05/b1e8324a131b4acc8ff434a951067c90.jpg)
塀に沿って北に回ると、慶光天皇廬山寺陵があり、慶光天皇
のほか、内親王や、東山天皇と光格天皇の皇子、皇女など15
人の皇族の墓もあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/e9/fe3075b5e144ed287f067087e62b48ee.jpg)
廬山寺の南側には、幕末の右大臣・三条実萬(さねつむ)と
内大臣三条実美(さねとみ)を祭神とする梨木(なしのき)神社
がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/e9/7a376bb78c23cf8a850036e661ebdb2d.jpg)
境内には、京都三名水のうち現存する唯一の「染井の井」
があり、数人が、たくさんのポリタンクにくんでいた。
飲んでみたら、まろやかな味わいだった。
仙洞御所の南側から、再び京都御苑に入る。御苑の南側
中央部は、近衛家から分かれた五摂家のひとつ、鷹司邸跡
で、広葉樹の大木が豊富な枝を広げていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/53/e7b8fca069286fe18a87d3ff0a3d01a2.jpg)
少し先、御苑の南端は、やはり五摂家のひとつだった九条
邸跡。広大だったという屋敷跡に残る池のほとりに、九条邸
の鎮守だった厳島神社と、茶室・拾翠亭(しゅうすいてい)
のみが残っている。
厳島神社の石鳥居は破風形鳥居と呼ばれ、当初は平清盛
が兵庫・築島の厳島神社に建てたもので、国重文である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/e0/80870b6abe69ee7489ab91615fb4de88.jpg)
池の中央、中の島に渡る橋のそばに、アオサギが羽を
休めていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/a6/a1832ab34ba581e39fb7fbd8263a1c83.jpg)
九条亭の北側にあるのが宗像(むなかた)神社。福岡の宗像
に建てられたことが古事記や日本書紀に記されており、平安京
創立の翌年である延暦14年(795)、桓武天皇の命により、
皇居鎮護の神としてここにも祭られたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/ec/e39a5266dc0bac0958f6f7bdf3f8905d.jpg)
京都御苑の南西の角には、閑院宮邸跡が残っている。江戸
時代には200もの宮家や公家の邸宅が並んでいた京都御苑
でただひとつ、当時の建物や庭園の面影を今に伝える場所で
ある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/10/e455a6f8440bc615868159feb39ddd7f.jpg)
歴史的価値が高いことから改修と整備をして、2005年か
ら公開されたが、この日は休館日で門内には入れなかった。
京都御苑の南西端、烏丸丸太町交差点際で昼食をして、
ひとつ南の竹屋町通りを東進する。
御苑の東側を南北に走る寺町通りに出て、下御霊(しも
ごりょう)神社に行く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/70/7058bdbc78078af72005ee76b2cb9e45.jpg)
不運のうちに亡くなった桓武天皇の皇子、伊予親王とその
母藤原吉子の霊をなだめるために、承和6年(839)に創建
された。
当初は、上京区にあったが、天正18年(1590)に豊臣
秀吉の都市整備でこの地に移転したという。
ここにも、200年前に掘られたが枯れた名水を掘り下げて
1992年に復活したという名水の井戸があり、やはりくみに
来ている人たちがいた。
上御霊神社の南側は、西国三十三ヶ所観音霊場第19番
札所、革堂(こうどう)と呼ばれる行願寺(ぎょうがんじ)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/57/f0a299477ae031f6dee6fe5fffe20bc4.jpg)
寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人により創建、宝永
5年(1708)の大火後、この地に移されたという。
現在の建物は、文化12年(1818)に建てられたもの。境内
には、都七福神のひとつになっている寿老人神堂や、愛染堂、
百体地蔵尊堂、加茂大明神塔などがある。 (続く)
京都御所を囲む築地塀の外に出て、御所の周囲を囲む
京都御苑を回ることにする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/13/8c2e37f8e95c92e1dbc9ed2f2625e17c.jpg)
北に進んで御苑の西北端付近に行くと、しだれ桜を中心に、
桃や桜などが咲き競っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/a5/4c089ed07207a2d2928f3fecbf72d518.jpg)
このあたりは、江戸時代末までの五摂家のひとつで、多くの
人が摂政や関白になった近衛邸跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/8e/2336b85eed2ea3092079fe4e1fd66ab6.jpg)
今も残る池の西側に大きな屋敷があったという。池のほと
りにある何本ものイトザクラ(シダレザクラ)が見ごろだった。
さらに東に進むと、塀に囲まれた一角は中山邸跡。幕末期
の公家、中山忠能(だだやす)の敷地で、その娘慶子は明治
天皇の生母。敷地内にうぶ屋が残っているという。
御苑の東に出て、御苑に沿って南に少し進むと、浄土宗
大本山の清浄華院(せいじようけいん)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/65/d786704c40beb3bef9021a30ec9cd437.jpg)
貞観2年(860)、清和天皇の勅願により、慈覚大師が御所
内に造営したのが始まり。この地には天正18年(1590)に
移転したとのこと。
本堂には、法然上人像や、清和・村上天皇尊像と歴代天皇
の尊牌を安置し、墓地には皇室ゆかりの墓など歴史上著名な
人物の墓があるという。
すぐ南にあるのが廬山寺(ろざんじ)。現在の本堂は1788年
の天明の大火による炎上以後のものとか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/76/eeee7fda979983da113e6fb5fb6f358f.jpg)
境内は紫式部の邸宅跡で、源氏物語執筆地と伝えられ、本堂前
の「源氏の庭」には、「紫式部邸宅址(あと)」の石碑や、歌碑が立っ
ていた。
堂内に上がり、仏像や源氏物語などの古文書、絵画などを拝観
する。松と白砂を中心の落ち着いた庭園も見て、堂内を一巡した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/05/b1e8324a131b4acc8ff434a951067c90.jpg)
塀に沿って北に回ると、慶光天皇廬山寺陵があり、慶光天皇
のほか、内親王や、東山天皇と光格天皇の皇子、皇女など15
人の皇族の墓もあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/e9/fe3075b5e144ed287f067087e62b48ee.jpg)
廬山寺の南側には、幕末の右大臣・三条実萬(さねつむ)と
内大臣三条実美(さねとみ)を祭神とする梨木(なしのき)神社
がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/e9/7a376bb78c23cf8a850036e661ebdb2d.jpg)
境内には、京都三名水のうち現存する唯一の「染井の井」
があり、数人が、たくさんのポリタンクにくんでいた。
飲んでみたら、まろやかな味わいだった。
仙洞御所の南側から、再び京都御苑に入る。御苑の南側
中央部は、近衛家から分かれた五摂家のひとつ、鷹司邸跡
で、広葉樹の大木が豊富な枝を広げていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/53/e7b8fca069286fe18a87d3ff0a3d01a2.jpg)
少し先、御苑の南端は、やはり五摂家のひとつだった九条
邸跡。広大だったという屋敷跡に残る池のほとりに、九条邸
の鎮守だった厳島神社と、茶室・拾翠亭(しゅうすいてい)
のみが残っている。
厳島神社の石鳥居は破風形鳥居と呼ばれ、当初は平清盛
が兵庫・築島の厳島神社に建てたもので、国重文である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/e0/80870b6abe69ee7489ab91615fb4de88.jpg)
池の中央、中の島に渡る橋のそばに、アオサギが羽を
休めていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/a6/a1832ab34ba581e39fb7fbd8263a1c83.jpg)
九条亭の北側にあるのが宗像(むなかた)神社。福岡の宗像
に建てられたことが古事記や日本書紀に記されており、平安京
創立の翌年である延暦14年(795)、桓武天皇の命により、
皇居鎮護の神としてここにも祭られたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/ec/e39a5266dc0bac0958f6f7bdf3f8905d.jpg)
京都御苑の南西の角には、閑院宮邸跡が残っている。江戸
時代には200もの宮家や公家の邸宅が並んでいた京都御苑
でただひとつ、当時の建物や庭園の面影を今に伝える場所で
ある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/10/e455a6f8440bc615868159feb39ddd7f.jpg)
歴史的価値が高いことから改修と整備をして、2005年か
ら公開されたが、この日は休館日で門内には入れなかった。
京都御苑の南西端、烏丸丸太町交差点際で昼食をして、
ひとつ南の竹屋町通りを東進する。
御苑の東側を南北に走る寺町通りに出て、下御霊(しも
ごりょう)神社に行く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/70/7058bdbc78078af72005ee76b2cb9e45.jpg)
不運のうちに亡くなった桓武天皇の皇子、伊予親王とその
母藤原吉子の霊をなだめるために、承和6年(839)に創建
された。
当初は、上京区にあったが、天正18年(1590)に豊臣
秀吉の都市整備でこの地に移転したという。
ここにも、200年前に掘られたが枯れた名水を掘り下げて
1992年に復活したという名水の井戸があり、やはりくみに
来ている人たちがいた。
上御霊神社の南側は、西国三十三ヶ所観音霊場第19番
札所、革堂(こうどう)と呼ばれる行願寺(ぎょうがんじ)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/57/f0a299477ae031f6dee6fe5fffe20bc4.jpg)
寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人により創建、宝永
5年(1708)の大火後、この地に移されたという。
現在の建物は、文化12年(1818)に建てられたもの。境内
には、都七福神のひとつになっている寿老人神堂や、愛染堂、
百体地蔵尊堂、加茂大明神塔などがある。 (続く)