そのころのいわゆる青年将校は
『 革新 』 ということに関心を持つ者と、無関心の者とに大別することができた。
関心を持つ者がまた、
非合法もあえて辞せずとする者と、あくまで合法的にと主張する者とに分かれていた。
当局が一部将校だとか急進派将校といって、目のかたきにし、
弾圧の対象としていたのがこの非合法組であったことはいうまでもない。
非合法組の中にも単独直接行動は是認するけれども、
部隊を使用することは絶対反対する態度を持するものもいた。
状況やむを得ぬ場合は部隊使用もあえて辞さないグループが、
『 二 ・二六事件 』 を決行した連中であった。
その場合、統帥権を干犯することは百も承知の上であった。
だが、この行為はいわゆる西欧流のレボリューションではない。・・・政治革命
権力強奪的私心が微塵もあってはいけないことを、お互いの心に誓い合っていたのだ。
国家の悪に対して身を挺することによって、
その悪を排除し、日本本来の真姿顕現に向かって直往すれば、
その真心は必ず天地神明にはもちろん、
天皇さまにもご嘉納していただけることを念願しての一挙であったはずだ。
ご一新への念願成就の暁は、闕下にひれ伏して罪を乞い、
国法を破った責任において、死はもとより覚悟のまえであった。
破壊のあとの建設案など考えないのは当然である。
部隊の大小にかかわらず、斬奸の兵を率いて独断専行するとき、
それが明らかに統帥権を踏みにじった行為であることは、間違いのない事実ではないか。
・・・
松本清張は 「 統帥権とは天皇の 『 意志 』 である 」 と定義しているが、
これには私も全く同感である。
だが、ここで考えなければならぬことは、天皇の 『 意志 』 の内容についてである。
敗戦前の日本においては、
高御座たかみくらにつかせられた天皇の 『 意志 』 は
単なる喜怒哀楽に左右される自然人としての 『 意志 』 ではなく、
皇祖皇宗の遺訓、すなわち天地を貫く大本たいほんに則った 『 意志 』 でなければならぬということだ。
だが、天皇は万能の神ではない。
人間本能にもとづいて喜怒もあれば哀楽もある、自然人としての誤りをおかすことも、
当然あってしかるべきものであろう。
その過誤を最小限にとどめようと日夜聖賢の道を学び、
帝王の学を見につけるため努力を積み重ねられる天皇のために、
欠くことのできないのは輔弼の責めに任ずる側近の人達である。
明治の時代は若き天子を擁して西郷隆盛の実直があり、山岡鉄太郎の剛毅があって、
あるときは面をおかして直諫の苦言を奉り、過ちの改められない限り一歩も退かなかった、
という見事な諍臣ぶりに、われわれ明治に生を受けたものは、深い感銘を覚えたのであった。
昭和の時代は、果してどうだったであろうか。
大正から昭和にかけて、天皇の側近にはいつの間にか古今を大観する達人、
天地を貫く剛直の士が、影をひそめてしまった。
下しも、万民の苦しみをよそに、
側近はひたすら天皇を大内山の奥深くあがめ奉ることにのみ専念これつとめていた。
『 諫臣なき国は亡ぶ 』 と昔よりいわれたように、
忠諫の士が遠ざけられて、佞臣ねいしんの跋扈するところ、
大内山には暗雲がただよい、ために天日はおのずから仰ぎ難くなる。
『 二 ・二六事件 』 は、私によれば、
この暗雲を払い天日を仰がんとする、忠諫の一挙であったのだ。
大蔵栄一 著
二・二六事件への挽歌 から