昭和40年(1965年)
小学校で戦争映画が観れる・・と、誰彼となく情報が流れた。
「 戦争映画、見に行こう ! 」
5年生の私は
4年生の山田を連れて、ワクワクしながら小学校へ行ったのである。
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行ってみると
本館 ( 鉄筋コンクリート3階建 ) 2階の教室で、20、30人の大人がいて、8ミリの記録映像を観ていた。
私等は、教室の戸口 ( 一番後ろ ) 傍で立ったまま、それを見ることにしたのである。
然し
それは
つまらなかった。
私は勇ましい戦闘シーンのある戦争映画だとばかり思っていたのに
期待は大外れであった。
映画鑑賞というものではなかったのである。
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はなっから、おかしい・・・とは、想った。
学校の教室で映画鑑賞する
然も、夜に行われる
案の定
上映時間は、ほんのわずかで
私には わけの判らないことを話し出したのである。
其は
ベトナム戦争の反戦がテーマの講演会だったのである。
当時は、軍歌がブーム
戦争物のテレビ番組も数多くあった
テレビアニメ、週間漫画と
少年達は心を躍らせて、片っ端から、それを見ていた
私も、その中の一人であったのである
リンク→軍歌を歌った時代があった
リンク→強い は 男のロマン
「陸海軍流血史」 五・一五から二・二六へ
昭和40年(1965年)11歳の頃、テレビで視た戦争映画である
それが何と 40年以上 経って
偶然に、インターネットオークションで 発見し 手にしたのである
暗い、重い、哀しい、・・・断片的な記憶なれど、脳裡をずっと離れなかった
思へば 脳裡を離れなかった記憶こそ 私の 潜在意識 そのものであったのだ
・・リンク→男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (一)
私の五・一五事件
担任の おんなせんせい
「 日本の出来事、世界の出来事を、毎日提出しなさい 」
と、宿題を出したのである。
クラスの皆は新聞の見出しを使った。
それが、おんなせんせい の思うツボであったのだらう。
皆が毎日、必死で新聞を見るのであるから
私は困った。
そして、そんな宿題を出した、おんなせんせい に不満であった。
新聞も ろくにとれない家庭の子の私
如何すりゃいいの・・・・
私はNHKニュースを、かじり付く様に視た。
アナウンサーの言葉を必死に書き留めたのである。
こんなことで、チャンとしたものが出来るはずもなからうに・・・
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そしてもう一つ
「 偉人の名言・格言、を提出しなさい 」・・・宿題です と
困った挙句、私は
「 話せばわかる 」 「 問答無用 」
そう書いて、提出した