ウィキリークスによる、米国外交文書の機密漏洩は、大事件だ。
現状世界には「とんでもないこと」かも知れないが、来るべき世界への、エポックとなるだろう。
バラされた情報は、確かに、これまでの秩序を破るものではあるが、中身を知ると、ドラマ「ホワイトハウス」と、さして変わらぬレベルで、「まあ、そんなもんだろう」ぐらいにしか思わない。
ビデオ流出の件で「どさくさ」でも言ったばかりだが、これからは秘密が可能な時代ではない。ガラス張り前提のルールが必要になったということだ。
グローバル化を唱えているアメリカなら、もうジタバタしてもしかたがない。世界はどんどん小さくなり、地球の日本列島化が進む。
小さい地球で暮らすには、島国日本の培った「監視社会」の秩序、「ノン・プライバシーの幸せ」は参考になる。
日本の「村社会」は、プライバシー概念からは、想像もできない閉塞だが、日本人は千年以上、そこで暮らしてきた。
開国当時、来訪した外国人は、見たこともない幸せな顔を見たそうだ。
おそらく、現在のブータンの人々の顔だろう。
プライバシーは、遊牧社会のように、個々が独立する時間を持てる社会の概念で、農耕民族のように、常に同じ環境で行動を共にする環境では不可能だ。
工業化が進めば、農業と同じように同じ空間で働くことにはなるが、賃金労働によって、個々が分断される。
遊牧と農耕が出会ったのが、サラリーマン社会で、自由な労働でもなく、一体感のある共同社会でもない。
その非人間性の砂漠の中に、忽然と現れたのがネット社会で、ネットの中に、何か、失われた人間性が存在するかのような感覚を、みな味わっている。
そして、始めはただのサイバー空間だったものが、徐々にリアル世界と一体化を始め、ついには、リアル社会がサイバー原理に支配され始めた。
これは良いことでも悪いことでもない。
ただ、時代が変わり始めたと言うことだ。
日本の村社会は将棋の世界だと言った人がいた。それに対して、世界は麻雀原理で動いていると。
しかし、この先は、世界も将棋の世界になっていく。手の内を全て、互いが知っていることを前提に、付き合わなければならない。
互いに知っていると、相手の思いを互いに配慮する苦労はあるが、裏の裏を読む、心労は無くなるというものだ。