魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

言語停止

2011年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

鉢呂経済産業相が原発周辺自治体を視察後、取材記者に服をこすりつけて「ほら、放射能」と発言したと問題になっている。

「またか」と、うんざりする。
冗談がまったく通じない。
近年、この種の「失言」事件が、問題としてまかり通っている。
一体、日本語はどうなってしまったのだろう。

先ず、今回の失言なるものを読み解くと、
当人は現地に行っている。(放射能の存在や危険を気にしていない)
「ほら、放射能」と記者にこすりつけたのは明らかに冗談だ。記者がそれを恐れ、現地に存在していると信じていなければ、脅し冗談が成り立たない。
そのような記者の言動に対して、冗談を言ったと考えられる。

つまり、放射能の恐怖を煽り立てる記者の先入観を、皮肉ってからかった冗談であることは簡単に想像が付く。
これを問題として取り上げた記者の潜在意識こそが、現地に対して失礼なのであって、
戦後、広島の被爆者に、(影響を考えず)「よく子供を産めましたね」と、心ない言葉を投げかけた、当時の取材記者と同じ種類の人間であることを、自分で暴露している。

このような低俗な暴き立て記事に反応し、野党がすぐ食いつく。
与党も、少しでも失点を減らそうと、記事に抵抗しない。
一つには、「額面、表面づらの言葉」でしか言葉を使えない、昨今の風潮が、記者も政治家にも浸透しているからだろうし、世間もまた、そういう次元で反応するようになっている。

言葉や思考に「あそび」がない。
日本が、中国や韓国に押されているのは、あらゆる意味で、「雑さ」の柔軟性を失っているからだ。
言葉以前の現実を重視し、言葉尻に振り回されない「達観」「大局観」を失っているからだ。

近年、日常的に続いている、「失言事件」のほとんどが、言葉尻に感情論を絡ませた「犬も食わない」ような、消耗トラブルだ。
いまそこにある大事件を前にして、このようなことしか書けない記者に、すぐ飛びつく政治家と国民。

冗談も解らない集団は、血肉のない石となって崩れ落ちる。
日本語の衰退は日本の衰退そのものだ。