魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

追悼

2010年01月20日 | 占いばなし

急激な寒波の最中。阪神大震災追悼のこの17日に、往年の有名人が相次いで無くなった。
小林繁、浅川マキ、有名人ではないが火事で亡くなった桑田元投手の父は誕生日だった。

小林繁、浅川マキはどちらも急性の心臓疾患で、年寄りというにはまだ若い。
小林繁はサソリ座で、浅川マキは水瓶座。いずれも、木星が水瓶座に来ていたこの一年、がんばり過ぎていたのだろう。
水瓶座の木星が去る瞬間。月が水瓶座の日だった。

その上、急激の寒さも応えたのかも知れない。同じ日、60代の福井県の人が同級生の葬儀に帰ったら、別の同級生がさらに2人亡くなった。寒暖が応えるのは、絶対温度より落差だ。「虫人間

小林繁は鳥取県の出身だった。
鳥取県出身の戦後の野球選手と言えば、小林、角、川口、古くは野球留学の宮本などの他、目の出なかった選手も何人かいるが、戦前は別として、投手のみだ。

鳥取県は雪国で私学も少なく、甲子園参加校が最も少ない。滅多に甲子園からスカウトされることもないし、スカウトされた選手はほとんど芽が出ていない。
環境的に最低の県でありながら、結構、甲子園で勝ち進むことがあるから面白い。

鳥取県の高校が勝ち進む時は、相手がもの凄い強豪で、まったくナメてかかって自滅するケースか、たった一人の投手の力だ。

なお、鳥取県の名誉のために言っておくと、戦前の甲子園で初めての連続ホームランをたたき込んだのは、鳥取一中の横山保正であり、この時、ベスト4まで進んでいる。

甲子園での鳥取の野球を見ていると、申し訳ないが、頑張れベアーズのような微笑ましさがある。監督采配も素人だ。
だが、時々、とんでも無い投手が現れる。
マイナーチームに投手の換えはない。いつも一枚看板だ。

マウンドで孤高に投げ続け、三振の山を築いていく。
打たせて獲ることなど考えていない。チームメートなど信じていない。
自分一人で試合をしている。
事実また、見ていてもバックがまるでアテにならない。

想像できるだろうか、マウンドでバッターと向かい合った時、後ろに誰もいない。投げ込むキャッチャーも信用できない。サイン通りに投げ込まなければ暴投になる・・・

事実はそんなことはないのだが、どうも、そう考えて投げているとしか思えないような悲壮感が漂ってくるのだ。

昭和35年の選抜大会で、兵庫から来た宮本洋二郎投手を擁した米子東は優勝戦まで勝ち進んだが、サヨナラの一発に破れた。
米子駅に帰ってきた宮本は「申し訳ありません!」と、号泣した。
戦後、間もない、日本人がまだ日本人だった頃の話だ。

その後も鳥取のピッチャーは、いきなりプロには通用していない。
大学か社会人に行ってから、プロ入りして成功するのは、チームを信頼するということを知るからではないだろうか。

野茂も名門高校なら投手として成功していなかったかも知れないし、逆に、イチローも清原も無名校なら凡庸な投手で終わっていたかも知れない。

小林繁も社会人から巨人入りしているが、センセーショナルな事件で巨人、阪神の両エースを務めるなど、
いかにも派手な三碧の面目躍如で、少年野球チームの指導なども三碧の好むところだ。また、自動車人間ではエンジンであり、これも少年野球チームにピッタリだった。
同い年の三碧、河島英五も早世している。

ご冥福を祈りたい

P.S.(同日、TVタックルのナレーター郷里大輔も無くなっていた。やはり、1952年小林と同い年の三碧で、浅川マキと同じく水瓶座)