魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

言葉の御旗

2008年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

戦後間もない子供の頃、
小学校の運動会を見に行った。まだ幼稚園だった。
父兄参加の競技で、「女の人が足りません。女の人いませんか。男女同権ですよー」と、呼びかけていた声が、いまも聞こえてくる。

言葉の意味がよく解らなくても、「男女同権」のように、脳裏に焼き付く言葉がある。
そういう言葉は、時代を席捲し、時代を動かす原動力にもなっていく。
「尊皇攘夷」「自由民権」「八紘一宇」「挙国一致」・・・やはり、四文字熟語は強い。
「男女同権」「公明選挙」「所得倍増」「列島改造」・・・
「公明選挙」に便乗して現れた「公明党」は大成功した。

同じように、「自己批判」という言葉が流行ったが、
これも、良く解らない言葉だった。
結局は「腹を切れ」のように、「自己」と言いながら他人を責める言葉として使われたからだ。

近頃、レポーターが、やたら、「説明責任」を連発して、ニュースのターゲットに喋らせようとする。公機関が情報公開の一環として説明する責任は当然だが、
事件の被害者に「説明責任があるでしょ」と攻めるのを見ると怒りがこみ上げる。実は、加害者ですらマスコミに説明する必要はないのだ。

何か「説明責任」が誰にでもあるような、おかしな常識をマスコミが作り上げている。
被害者の家族が、わざわざ「後でお話ししますのでしばらくお許しください」などとメッセージをだすことに、誰も納得してしまっている。
これを聞いたら、皆が、マスコミの横暴に気づいても良いころだ。
法治国家とは何なのだ。