魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

君子外交(2)

2011年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム

江戸時代まで、日本人は中国や朝鮮に尊敬の念を持っていた。
しかし、西欧文明を取り入れて、実力が勝り始めると、バカにするようになった。
一つには、価値観や生き方を変えた日本に対し、清や朝鮮が拒否反応を示したことも、日本人の感情的反発を招いたし、その上、西欧方式により、実力的にも勝ったので、日本人の優越感が決定的になった。

日本が東アジアに対し、優越意識で接すれば、当然、それまで日本を目下(文化的下流)と見ていた国々は受け入れられないから、よけい反発が生まれる。
戦時中、日本が目下あつかいした、他のアジアの国々が、今日の中韓ほど日本に反感を持たないのは、これらの国々は過去に、日本との関わりも薄く、特に目下とも思ったことがないからだ。

今、日中韓の感情的反発は、世界から見れば、滑稽なぐらい激しい。
これは、この200年の間に、東アジアの置かれた状況がめまぐるしく変化した名残であるし、いまも、そのもつれに囚われているからだ。
罵り合いが罵り合いを生んでいる。

江戸時代以前、日本と大陸との関係が比較的良好だったのは、相手が、見下していても、日本が敬意を払っていたことにあるだろう。
ことに、中国は日本を属国とは見なしていなかったから、よく解らない相手として、大人の付き合いができた。

人づきあい
人間同士でも、こちらをバカにしたり、嫌ったりする相手を好きになることは、まず無いだろう。
イヤな奴と思っても、相手がこちらを好きなら、好きになることはなくても、嫌いにはなれない。
ただし、「好きだ好きだ」と言いながら、嫌なことをする相手は嫌いになる。

問題はこの「嫌なこと」が何かだが、自分が気に入って部屋に飾っている絵に、ケチをつけたり汚したりすれば腹が立つ。
たとえそれが、他人の絵を勝手に飾っていても、あからさまに指摘すれば腹を立てる。自慢している最中に、「これは私の絵ですが」と言えば、立場がないから「デタラメダだ!」と、逆上する。
かと言って主張しなければ、認めたことになる。

こういう場合は、腕力が無くても、少し賢い人なら、一切、見なかったことにして、着々と証拠作りをし、常に所有権の記録を公機関に申請して、周囲の人には静かに事情を説明して解ってもらっておき、何時でも裁判ができるようにしておく。事が起きるまで、日頃は、表だって声を上げないのが大人の対応だ。
声を上げた方が負けだが、相手があまり図々しいと思わず、声を上げたくなる。しかし、正念場でもないのに、挑発に乗ってチョコチョコ意思表示をしていたら、他人から見れば同じバカになる。

逆に「嫌なこと」をされても、大人なら、笑っていられる。
内心どう思ったとしても、感情を表さず、相手の良いところを探して、誉めていれば、増長するかも知れないが、既得権にさえ気を配っていれば、何の不利益もなく、相手の方もこちらに好感を持ち始める。
非常に良い関係になってからなら、話し合いの余地も出るかも知れない。そうならなくても、最後の手段が残る。
ガンマンは相手が抜くまで抜かない。

個人の付き合いも、国同士の付き合いも、馬鹿な人は、常に感情的な喧嘩を繰り返すが、賢い人はむやみに喧嘩をしない。喧嘩はしないが、冷静に相手を観察し、相手の短所には警戒し、長所を探しては上手に誉める。それも敬意を持って本気で誉める。

それでも、喧嘩しか仕掛けてこないような相手には「君子危うきに近寄らず」で関わらない。
どうも、今の日本は、この逆ばかりをやっている。猫なで声に鼻の下を伸ばし、暴力団にすぐ上納する。

一方、現実を直視できる大人なら、こちらさえ大人になれば、認め合うことができる。
どこの国でもバカはいるが、中国の「学習」は、相手を認めようとする文化でもある。願望や期待、感情的な対応などの「甘え」を廃した上で、認め合えば、中国とは大人の良い付き合いが可能だと思う。

中国とつき合えないのは、こちらに大人の度量・風格が無いからではなかろうか。政治家やマスコミが、大局の利害を忘れ、小さなことを一々問題にして口に出し、つじつまを合わせようとする。
これは、決して間違ってはいないが、真面目な小学生だ。ナメられても仕方がない。

君子外交(1)