魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

電網孤独

2011年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

秋葉原殺人事件も、ノルウェーテロも根は同じ、妄想の肥大化だ。
ネット時代、人と人とのコミュニケーションが、ほとんど断絶に近いぐらい希薄になった。
だれも、「そんなことはない、むしろ昔より、コミュニケーションが広がった」と言うだろう。

確かに、意志や知識にふれあう機会は、桁違いに拡大した。
しかし、ネット上の対話は、極端に言えば自動販売機の「アリガトウゴザイマシタ」や、おみくじの吉凶程度で、本当の意味での対話ではない。

人間同士のコミュニケーションでは、言葉はほんの一部に過ぎない。
対話の祭には、互いの肉体的要因や、表情、ジェスチャーなどの膨大な情報に加え、目に見えない文化的な作用も働く。

聞いているのが嫌になっても、途中で止めて、他の事を始めるわけには行かない。大なり小なりの気遣いも必要だし、発音やイントネーションなどから推測(あるいは誤解)する人間性など、生身の人間をあいてにしてこその鍛錬ができる。

そうした鍛錬をしながらの対話では、相手の意見の背景を考えたり、自分の理解や判断を修正する事ができる。
ところが、「アリガトウゴザイマシタ」と言う自動販売機には、
気分次第で「うるせえ!」と言い返す事ができる。
ここで、『うるせえ!』と思っても、口に出さないでいると、『まあまあ、でもね』と思い直す。
人間を目の前にしての対話とは、そういう状態の積み重ねだ。

生身の人との対話は、多元的で豊かな思考の育成になるが、一方的に「見て」判断するネット上の理解は、常に独断であり、情報知識に接すれば接するほど、思い込みを確信していく事になる。
何しろ、自分の判断の裏付けになる事しか認める必要が無いからだ。

加えて、ネットに接する時間と、人間との接触時間は反比例するから、ますます思考が偏狭になる。
チャットなど、ネット上の対話は、暴言やバカ丁寧で、生身の手加減がない。だから一度、気に入らない事が起こると、相手の人格や気持ちに関係なく無神経に攻撃を始める。

こうした、人間味の欠けた世界にいると、人間が存在しなくなり、他人の存在はただの事柄になってしまう。
だから思い通りにならない社会は、リセットしたくなる。

実は、人間味を失った自分をリセットすべきなのだが、ロボットの思考では、自分の論理やアルゴリズムで動かない「人間」は、壊れているから、解体しなければならないと考える。
それが、秋葉原やノルウェーの森事件になった。

集団自己中
事件ほど、極端ではないとしても、世界に広がるネットナショナリズムは、こうした「思い込み」の集団化であり、それぞれの言語世界にとって、納得しやすい、自己正当化の知識や論理だけが受け入れられ、(異見は炎上)、少しでも受け入れられない他国の情報には、集団ヒステリー状態になる。

ネットは便利なツールではあるが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」。思考はネット情報ではなく、「人」と自分の足で養うべきものだろう。
「人」とは本や映画にまとめられたものも含むし、自分の足とは、無心で現地の人に会ったり、時代の資料にあたって見る事だ。

現物には解説がない。それを判断するのは自分であり、そこに当たる過程で、現物でなければ得られない発見もある。
まずは、外に出てみよう。できれば地の果てまでも・・・


ディスプレー上に小さなクモが降りてきた、いくら追っても逃げないと思ったら、カーソルで追っていた。
いけない、いけない そろそろ外に出かけよう