魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

千の風になって 2

2007年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム

原題は「Do not stand at my grave and weep」
この詩に多くの人が共感するのは、現代の共通認識があるからだ。

死んだらどこに行くのか
現代の科学文明が示す死生観は、みな解っているのだが、旧概念がじゃまをして直視できない。積極的な人たちは散骨や、宇宙葬をするが、しかし、それでもまだ核心には触れないようにしている。
本当は、
現代人はみなわかっている。「死ねば終わり、何も無い」ということ。あの世も来世も神様も無いということ。生命は化学的機械だという事実だ。しかし、科学以前の死生観にとらわれ、だれも事実に目を背けている。「自分の魂」の行くところがなければ困るからだ。現代の心の空洞はここにある。

新しい地図
科学的な理解は信仰心の放棄ではない。
ところが、宗教であれ科学であれ、勝手な結論を急ぐ人たちは、知識だけで、原理主義宗教や生命軽視に陥ってしまう。それは世界的な傾向だ。
近頃、ネット上でよく見かける「いちゃもん」に、「事実が不正確だ」「もっと勉強しなさい」というのがある。
しかし、情報の示す大局的な意味が理解できなければ単なるデータバンクだ。知識偏重教育の弊害が、情報空間のネットで、突出して来たように思われる。言葉尻だけとらえる読解力のなさにはあきれるばかりだ。

近年の、教条だけにとらわれた宗教ブームや、若者犯罪の「人を殺してみたい症候群」は、知の飽和状態を整理する「新原理」が無いために生まれた、道なき彷徨だ。

宗教は新知識の飽和状態に現れる。古い原理が、新しい事実を整理できなくなる時、それを説明する考え方、統合する原理が生まれてくる。
宗教は初めから宗教ではない。時代の混乱を捌くダイナミズムで生まれてきた思想が、形骸化して宗教になる。
思想ラッシュから2500年。そろそろ新思想が現れても良い頃だ。


千の風になって

2007年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム

10年ぐらい前だったと思う。ニューヨークの友だちが「死んだら近くの墓にしよう」と調子の良いことを言うから、
「死んだら土に帰り元素に帰る。元素になれば地球の至る所を風に吹かれて行き来できるのだから、墓なんてどうでもいいよ」とメールした。
その時は、「千の風になって」の存在はまったく知らなかったが、最近のブームでビックリした。自分の考えと同じと思えたからだ。
それと同時に、世間やマスコミのとらえ方は、原作の意図と少しずれているような気がする。
風を、個人の霊魂のようにとらえているからだ。
訳詞・作曲した人も、どうも良く解らなかったようなことを言っていた。
たしかに、墓や葬式を前提に考えると、理解できないだろう。だから、この詩があるのだが、訳詞に曲が付けばフィーリングだけになる。
結局、わかりやすい昔ながらの概念で、みな何となく理解しているようだ。

魂の消滅
これまでの死生観は、霊魂、あの世この世、前世、来世、神様仏様・・・のように、個人的な命を前提としていた。しかし、この詩はそれを否定し、むしろ逆の、個は全体の一部であると語っている。
人間も自然の一部という概念だ。
現代科学が到達しつつある結論と、東洋的自然観の融合から「ガイア」のイメージは生まれたと思うが、この詩の示す死生観は、その延長にある宇宙観、生と死の融合だ。
昔の人は「土に帰す」と言ったが、現代人なら「光に帰す」とでも言うのだろう。
昔は「肉体は土に帰すとも霊魂は不滅」だったのに対し、霊魂という独立した存在ではなく、宇宙という「不滅生命に帰って行く」という認識が広がっている。

(2)へつづく