原題は「Do not stand at my grave and weep」
この詩に多くの人が共感するのは、現代の共通認識があるからだ。
死んだらどこに行くのか
現代の科学文明が示す死生観は、みな解っているのだが、旧概念がじゃまをして直視できない。積極的な人たちは散骨や、宇宙葬をするが、しかし、それでもまだ核心には触れないようにしている。
本当は、
現代人はみなわかっている。「死ねば終わり、何も無い」ということ。あの世も来世も神様も無いということ。生命は化学的機械だという事実だ。しかし、科学以前の死生観にとらわれ、だれも事実に目を背けている。「自分の魂」の行くところがなければ困るからだ。現代の心の空洞はここにある。
新しい地図
科学的な理解は信仰心の放棄ではない。
ところが、宗教であれ科学であれ、勝手な結論を急ぐ人たちは、知識だけで、原理主義宗教や生命軽視に陥ってしまう。それは世界的な傾向だ。
近頃、ネット上でよく見かける「いちゃもん」に、「事実が不正確だ」「もっと勉強しなさい」というのがある。
しかし、情報の示す大局的な意味が理解できなければ単なるデータバンクだ。知識偏重教育の弊害が、情報空間のネットで、突出して来たように思われる。言葉尻だけとらえる読解力のなさにはあきれるばかりだ。
近年の、教条だけにとらわれた宗教ブームや、若者犯罪の「人を殺してみたい症候群」は、知の飽和状態を整理する「新原理」が無いために生まれた、道なき彷徨だ。
宗教は新知識の飽和状態に現れる。古い原理が、新しい事実を整理できなくなる時、それを説明する考え方、統合する原理が生まれてくる。
宗教は初めから宗教ではない。時代の混乱を捌くダイナミズムで生まれてきた思想が、形骸化して宗教になる。
思想ラッシュから2500年。そろそろ新思想が現れても良い頃だ。