ガソリンも灯油も高騰している。
おかげで、せっつくような運転をする車がいなくなった。
街が、静かで穏やかになった。
一方、灯油の高騰で、北海道の老夫婦が氷点下の中、ストーブをつけずに布団を何枚も重ねて寝ていた。
幸いこのところ暖冬が続いているが、近年の様子からすれば、遅ればせでも、やはり冬は来る。
暑い時、寒い時、光熱費を抑えるために、デパートなどの公共施設に行って過ごす人がいる。
こういうことを、国として考える時が来ているのだと思う。
日本が豊になったのは、化石燃料の大消費が前提で、燃料が切れたらどうなるか、オイルショックで解ったはずなのだが、喉元過ぎれば、たちまち野放図な経済、生活に戻った。
冷房、暖房を湯水のように使いまくってきたが、いまやその「湯水」さえ枯渇が迫っている。
化石燃料より原子力でと、あたかも太陽を手に入れるようなきれい事を言っていたが、そのウランも入手困難がハッキリ見えてきた。
太陽の下で生まれた人類は、まずは太陽に頼るべきだろう。
何の資源も持たない日本なのに、太陽光発電や風力発電に対して何の積極性も示さなかった。日本企業の技術力が日の目を見ることがなかった。
ようやく、近年の「外圧」によって、新エネルギーとか称して国が色気を示し始めたが、経済競争上も国内インフラ面でも相当に後れを取っている。
こんな国では望むべくもないが、
国民生活の根本的転換を考えてはどうだろう。
各個に車と冷暖房、内風呂をもつ「豊かな生活」を、止めろとは言わないが、エネルギー枯渇という「災害」に備えた設備・施設・システムを用意してはどうだろう。
ヨーロッパなどでは、外敵侵入に備えた城や教会が造られた。日本では、災害が起こると学校や公民館に集まって過ごす。
北海道のような極寒でなくても、地域住民が集まって過ごせば、光熱費を大幅に削減できる。温泉のあるような土地ではもっと快適に過ごせるだろう。
大都会だって、区域、区域にそういう施設があれば大幅削減が可能だ。
当然、こうした施設は強制であってはいけない。自宅があっても行きたくなるような様々な設備が整って、家にいるより安く付く。そういう施設だ。これは民間ではむずかしい。
楽しく参加できる地域コミュニティーで、地域ぐるみの省エネに寄与できる。
昔、限られた資源で過ごしていた頃の、公衆浴場や縁台将棋はいろいろな意味で合理的だった。