二つの動機
根本的な考え方が、「自分頼り」か「他者頼り」かは、どんな世界にあっても、様々な思想や言動の、出発からの違いになっている。
しかも、そこで争う人々は、互いに、動機が違うことに気づかない。
例えば、生命の原点について、地球で発生したと考える人と、彗星や隕石からもたらされたと考える人がいる。
どちらも、生命は環境さえ整えばどこでも発生すると解っていても、現在の我々が、独自に発生したと考えたい人と、他動的にもたらされたと考えたい人の出発の違いがある。
この違いは一見、他動的にもたらされたと考える方が「他者頼り」のように見えるが、必ずしもそうではない。
「自分頼り」の人は自分を含め「それぞれに独立した存在」であると考えるから、地球以外の星に生命があってもおかしくないわけで、それが飛んで来ることもあり得ると考えるからだ。
このように、主張のプロセスはよく吟味しなければならないが、どんな意見にも、根本に、二通りの発想の違いがあることは見逃せない。
そして、その発想の違いが、生い立ちの環境に強く影響されているとすれば、主要因として、幼児期の兄弟関係は無視できない。
しかし、何事も単純に類型化はできない。
一般に、長子は「自分頼り」で、弟妹は「他者頼り」になりやすいが、長子であっても横暴な親や、不遇の環境で育てば、「他者頼り」になり、弟妹であっても親の見識が高い場合や、乳母に育てられたような場合は「自分頼り」になる。
そのうえ、何よりも重要なことは、性格や行動様式は、何か一つだけの要因で決まるものではないということだ。
多様な要因による、多様な人格の一要因が、個人の総てではない。
「赤い物」は世の中に無数に存在する。
見極め
様々な意見、様々な言動や態度の根底に「他者頼り」と「自分頼り」があることを意識すれば、理解できない相手の言い分の性質が見えてくるし、論破するのか対処するのかなどの、対応策が考えやすい。
「自分頼り」には、認め合いや真摯な説得、あるいは論破が有効だが、「他者頼り」には、逆効果になる。むしろ、なだめやおだて、あるいは無視、逆ギレなど、感情対応が有効になる。
そしてまた、この対応策は、各々の主張や論理展開のもつパターンでもあるので、いずれのタイプか、判断目安にもなる。
「自分頼り」の根本は認め合いであり、「他者頼り」の根本は主導権争いだ。「他者頼り」なのに、なぜ主導権?と思われるかも知れないが、プロセスを他者にまかせたら、その結果が「どこに収まるか」誰のものになるかという「成果」の方が目的になる。(利権争いや、それに関わる元祖争いなど)
「自分頼り」の長子型は、プロセスにこだわり、結果重視の手柄争いに疎く、昔から、「総領の甚六」と言われる。
一人っ子は独りよがりでお人好しであり、その一人っ子に弟妹ができると、変わり身の早い弟妹に対して太刀打ちできず、体格体力まかせの強引な押しつけで対応しようとする。