猿の惑星を初めて観た時、驚いた。映画として、よくもここまで人間社会への皮肉な目を持てたものだと痛快だった。
猿の神は猿の姿をしていた。
至る所に皮肉があふれる中で、人間の低脳を証明するために、猿の権力者が、「(猿の)法律を言ってみろ、言えないだろう!」という場面がある。手足を縛られた者に、跳んでみろと言うに等しい。
不可能なことをやれないから無能だ、と決めつけられる悔しさ。
この原作者の経歴を知って、納得した。
東南アジアの異邦の地で、第二次大戦に巻き込まれたフランス人で、レジスタンスに加わり捕らえられ、強制労働の刑を受け、その後脱走する。
あらゆる不条理を体験した怒りと冷徹な目が、皮肉に満ちた作品を生んだのだろう。「戦場にかける橋」も、このピエール・ブールの作品だ。
猿の常識を刺激すれば、猿は型通り反応する。喜び、怒り、興奮する。集団文化の内側の道理は、客観的には道理ではない。
しかし、その一方的な道理で測れば、人も猿に見える。
日本の政治やマスコミの世界には、人が猿に見えるらしい。
自分達が砂上の楼閣のような原発を作っておきながら、波がそれを押し流したからと、管理責任を追及する。
一体誰がそこに作ったのか。波が来た時、自分達は何をしていたのか。その後どんな協力をしてきたのか。内閣を倒し、自分達がそれに替わればその日のうちに解決するのか。自分達は一体、なぜ政権を追われたのか。
三重苦の大災害の最中で、有能とは言えなくとも、精一杯ガンバッテいる者に協力するどころか、後ろから石を投げる。手足を縛って飛べないじゃないかと罵る。
どんな言い分があろうとも、本当に国民のためを思っているとは到底言えないだろう。
国会は猿の惑星だ。
こんな地球にしてしまったのは、人間自身だったという映画のオチのように、この国会を生んだのは日本人自身であるという皮肉は、泣くにも泣けない。