魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

西行法師

2011年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

ロボット技術者が、福島原発事故にロボットを送り込めなかったことが、悔しいと嘆いていた。
作れなかったのではない。要請が無かったから作らなかったのだ。

汚染水処理にしても、米仏に頼るしかない。

「原発の安全神話が崩れた」とか言っているが、安全を全く信用していなかった人間にとっては、
『世間には、そんな神話があったのか!!!』
と、むしろ、その方が驚いた。

だから、原発は安全ですと言っていても、まさか、当事者自身がそんなことを信じているとは思わなかったから、「安全」とは、事故対策も含めてのことだと思っていた。(それでも安全とは言えないが)

しかし、今回、トコトンの事実がわかって、仰天した。
何と! 全てを知り尽くしているはずの当事者が、神話の世界で暮らしていたのだ!!!
「神の国、ニッポン」

臨界事故もあったにもかかわらず、ロボットも無ければ、汚染処理装置も無い。事故は全て「想定外」と言うが、
事故そのものを想定していなかったのだ。

日本は作る技術はあっても、(今回はアメリカ製原発だが)運用する思想がない。

ゼロ戦は優秀でも、防弾壁で人間を守る思想がない。
一つうまくいくと、そこに甘んじて状況の変化を考慮しなくなる。
福知山線や信楽鉄道の例でもそうだったが、
さらに、そのうち、本来、想定していなかった悪乗り運用を始める。

日本陸軍は、三八式歩兵銃だけで戦ったと言われるぐらい、精神論偏重だったが、その文化は、今も脈々と生きている。

原発運用は官僚依存と同じ、丸投げ政治だ。
そのくせ、丸投げで推進した当事者が、「我々なら上手くさばけた」と言う。

『続・猿の惑星』では、核戦争で生き残った人間が、核弾頭を神として崇めている。

「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
日本の文化には、危険物の運用は適していないようだ。