魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

約束の(3)動物愛護

2009年08月22日 | 動物

日本の動物愛護法は、1973年の木星→水瓶座の丑年に定められ、翌年施行された。

生き物をかわいがると言うより、生き物の管理方法のような法律で、動物取扱業者の規定が大きく扱われている。
畜産の伝統がある欧米の基準が軸になっているようで、それはそれで良いことなのだが、何かが根本的に間違っているような気がする。

畜産をベースにする文化は、宗教にも色濃く反映され、動物を苦しめて殺してはいけない。など、命を自由にできる者のモラルが定められている。

それは全くその通りで、東洋のように、中国の、生きたサルから脳みそをストローでチューチュー吸ったり、日本の、躍り食いや活け作り、韓国の、犬を苦しめて殺せば美味くなる・・・など、とんでもない感覚からは、はるかに高度な哲学に進化している。

東洋のこうした「野蛮」は、人間が、動物と対等に命のやりとりをする狩猟の段階から直接、農耕に移ったために、畜産文化が生まれなかったからだろう。
動物を殺して食べることは、管理の一貫ではなく、命の征服ごっことして捉えられているのではなかろうか。

狩猟だけに生きる人達は、自然を敬い、クマ祭りのように、獲物の動物に対して畏敬の念を持っているが、農耕や畜産の文明は、いずれにしても命への畏れを失った。

畜産文化の「動物を苦しめて殺してはいけない」とは、狩猟民の動物への感謝からの変形で、動物の命を奪って生きるうえで、やむにやまれぬ真面目なものだが、同時に、自己弁護でもあるのだろう。

産業革命パラダイムの大量生産時代の中で、農業も畜産も大量生産化され、人間もペットも規格品化された。
人間は学校や工場で、動物は品種改良で、工業製品と同じように生産された。

その過程で生まれた動物愛護法には、自然がない。
大量生産システムの合理性ばかりが考えられている。

ペットの生産売買もビジネスになり、飼う人も規格品を買うようにペットを買う。だから、ペットにもブランドや流行があり、飽きれば捨てる。
ペットの命を軽んずることは、実は、同じシステムで生かされている人間自身の命の軽視が背景にある。
産業革命パラダイムは、人口を増やし、同時に大戦争や公害で多くの命を奪っている。

悪魔に魂を売った250年が終わろうとしている。人類が魂を取り返せるかは、個々の自覚にかかっている。

ペットは売買されるべきではない。人から人へ、心から心へ渡されるべきだ。
動物愛護法に動物売買業者のルールが有ること自体が既におかしいのだ。
ペットが金になるから、様々な悲劇が生まれている。