魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

修学旅行

2008年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

タイの空港で足止めを食らった観光客が
「誰が責任をとってくれるんだ」「もうタイはゴメンだ」・・・
など、口々にぼやいていたが、ぼやく前に学ぶべきだ。
海外旅行は、何とかランドに行くのとはわけが違う。
(あ、タイランドか!)

旅は、人々の生活の場に侵入する、肩身の狭い異邦人になることだ。
観光ビジネスが、旅を「旅行ショー」に変えてから、異境に入る覚悟が要らないような錯覚が生まれた。

動物園のライオンと、野生保護区でライオンを見ることはまったく違うが、車から出て噛まれる観光客が後を絶たない。

パック旅行といえども、異境に入ることは、この野生保護区に入ることと同じだ。勝手な思い込みが通用する場ではない。

同時にまた、「旅の恥はかき捨て」と言われたような無責任な関係でもない。
北海道の高校生が、ロスで集団万引きをしたようなことは、一頃のオヤジ族の買春ツアーや、口説けば簡単に落ちると言われる日本女の評判など、直接間接に日本のイメージに影響する。
しかも、国のイメージというものは一人歩きして、国益に直接響いてくる、これも皮肉なグローバル社会だ。

オヤジやネエチャンは手遅れでも、修学旅行なら行く前にこういうことを教育するのが学校だ。
「海外に行くことは一人一人が国のイメージを背負った大使なのだ」と、高校生には教えれば学ぶ。それも上意下達ではなく、一人一人が考えるための議論をさせることだ。

うちも修学旅行は海外だ、と、いい気になって浮かれているだけでは
学校ではない。生徒を停学にする前に、教師が懲戒されるべきだ。

どんな海外旅行も、よそ様のお宅に上がらせてもらう気持ちが大切だ。
くだらない礼儀作法より、よほど大切な心がけだと思う。
動物園には見に行くのではない、実は、見てもらいに行くのだ。

観光の「観」は、歓楽の「歓」ではない。
何かを学ぼうという意識こそが大切だ。
タイだけではない。海外では何が起こるかわからないと言うことを、学んだだろうか。