魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

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2008年11月07日 | 日記・エッセイ・コラム

これで、曲がりなりにも400本目
最初、無防備にコメントをオープンにしたら、ひやかしに遭い、その後、メール条件を設定した。

もともと、占いのような信条に基づく言葉は、誰にでも通用するものではない。まして、ネット上の会話には誤解やトラブルが絶えない。

これで気づいたことは、ネットによるコミュニケーション能力は、ネット外の訓練の度合いによる、ということだ。
行間を読むような読解力は、ネットでは育たないらしい。

対話力
生身の人間との対話によって得られる推理力や、思考の柔軟性は、ネットの文字を何万行読んでも身に付かない。
正誤のチェックや、知識の蓄積には役立つが、
「思想を高める能力は、対話なくして成り立たない」
どうも、そんな気がしてきた。

ネット上で思想を高められる人は、もともと、対話で基礎思考力を身につけている人であって、柔軟な思考回路があってこそ、ネットの知識や、言葉が生きてくる。
本とネットは近いが、本をいくら読んでも、実際に語り合う人がいなければ、知識は増えても思想は発展しない。本を読んだうえで「語り合う」から成長する。たとえ相手は読んでいなくても。

チャットやメールでいかに語り合おうとも、それは、ただの文字だ。
人間は元来、文字のない世界で成長した。
文字や本が出現してからも、思想はあくまで語らいの中で身に付いた。

語調、語感、表情、間。さらに、臭いや温度など、実にさまざまな要素を加味しながら、会話の中に、知識や論理だけではない、柔軟性と想像力で、言葉の意味するところを理解し、新しい意味を創造する。
そういう理解力があってこそ、ネットも生きてくる。

メールや、チャットでなければ会話ができないという人は、
本当は「会話ができない人」だ。
会話ができないとは、話せない聞こえないという五感のことではない。本質的なコミュニケーションを持てないと言うことだ。

文字より、スキンシップが勝る。という、人間の「動物としての現実」のうえに、文字コミュニケーションは、成り立っている。

ここを忘れているから、ネットの炎上や個人攻撃、中傷合戦が起こり、ネットナショナリズムが起こる。

ネットのやりとりを見ていると、どうも、そう思える。
丁寧な言い方や可愛らしい言い方から、ちょっとした言い回しのズレによって、たちまち罵倒合戦が始まる。

ネット上の会話は、
独善、確認、迎合、拒否、罵倒・・・の機能しか果たさず、
相手を「理解」することができない。

手紙や印刷物の時代なら、頭を冷やし考え直す時間があったので、論争が罵倒になることは少なかった。

ネットの論調が結局、感情論に流れるのは、リアルタイムで、しかも感情のない文字記号でのやりとりが原因だ。
相手からは感情のない記号が出てくるのに、自分の内の感情は持っていく先がない。すると、感情的な言葉で反応する。
人間同士の向かい合った対話なら、感情表現の交流によって大方は解消できるが、それでもケンカは常に起きる。

※おことわり
そういうわけで、このブログでは基本的に、コメントに直接お答えしないことにしています。
コメントを頂くととても嬉しいのですが、初めてもらったコメントに気楽にお答えして失敗した経験に学び、そうしました。

なお、コメントには公開の可否を付けていただくと助かります。