魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

歌ごころ

2008年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

演歌が好きなわけでもないし、カラオケが好きでもない。
しかし、歌は言葉が命だと思う。
アジアの日本人としては、メロディーは言葉を美しく伝えるためにあるのだと思う。

近頃は、楽器としての歌手しかいないような気がして、こんな歌なら歌なしの音楽だけを聴いている方がよほど良いと思っていた。
ラップも言葉のための音楽ではなく、音楽のための言葉で、これも思わず「うるせぇ」と言いたくなる。
しかも、いずれも、無国籍風にするために、わざとなまった言葉にして歌う。つまりグチャグチャにすることがミュージックのようになっていた。

ところが、ジェロが現れて、若い人が演歌に興味を持ち始めた。
演歌と考えるからおかしいので、歌本来のメッセージを伝える手段と考えれば、演歌と言われるものの中に、「歌垣」の心がかろうじて生き残っていただけのことだ。

言葉を伝えるために節を付けるのは、歌垣だけではなく、コーランや声明なども、民族的な歌の源にもなっている。
中東の流行歌を聴いていると、コーランを詠んでいるのと区別がつかない。

人が声で歌う歌は、楽器としての声楽はそれで良いとして、やっぱり言葉だ。
バブル期というものは、「何でも良いジャン」、「イケイケどんどん」のような気分になっているから、メッセージを聞く気がなかった。

しかし、不景気で、熱気が冷めて正気になると、人には「言葉」が必要になる。
一頃のフォークの再来や、カバー曲ブーム、そして、こんどの演歌の兆しは、世の中がメッセージを求めている。言葉を聞きたがっている。
人間本来の心を取り返そうとしている。
そう思える。