魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ナウい死語

2008年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、「とっちゃん坊や」と書きながら、『これは死語かも知れないな』と思った。でも、たとえ、初めて聞いた人でも、イメージできる言葉だと思ったので、そのまま使った。

「ナウい」という言葉が流行った時、決して使ったことがなかった。
初めて聞いた時、「奇をてらう」言葉だと思った。流行語の多くは若者の向上心や冒険心が、既成概念を打ち破るために出てくる。
だから、どんな流行語も言い回しも、聞いていて楽しい。

しかし、イヤミなのは、若者の冒険心に便乗して、冒険心を失った、あるいは始めから無かった石頭が、さも理解ある柔らか頭のように若者の真似をすることだ。
「ナウい」はそう言う意味で、始めから、若者言葉ではなく、若者風のTV用語だった。そんな言葉を使うことはTVに洗脳されることだと思ったので、近寄らなかった。

今、「ださい」「うざい」なども死語とされているが、これは死語である必要がないと思う。この種類の言葉は、概念破壊のために生まれたと言うより、心の底からわいてきた「うめき」のような言葉だからだ。

言葉は、元来「うめき」や「叫び」から生まれると思うから、言葉として正統だ。「ナウい」のように、既成語をひねった無理カラ語ではない。(これも無理カラ語か)

新語ではなくて、新用法の流行語もある。
「ムリ、ムリ」とか「有りえな~い」は、旧来の意味合いと違った使い方がされている。

また、意味は同じでも、不必要に多用される言葉がある。
時代は前後するが、「絶対!」「非っ常ーに」「はなはだ」・・・

隠語や専門語が拡散した例として
「ヤバい」は1970年頃に一般化し、今では感動やショックを表す時代語に成長した。現代の「あなおかし」だ。

目立つための言葉、突出し過ぎた言葉は、時間の切磋琢磨でそぎ落とされる。そぎ落とされた言葉、時代が必要としなくなった泡沫の言葉が「死語」だ。

しかし、言葉全体を支える幹となって残る言葉が文化を支えていく。
文化レベルの高さと語彙の量とは比例すると言われる。
単に古い言葉だからと言って、何でも死語にするわけにはいかない。

「ナウい」は死語の宿命を背負っていたが、「とっちゃん坊や」は古語だろう。生きているかも知れないし、蘇るかも知れない。
おっと、忘れてはいけない。「死語」も新古語だ。