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占いという もう一つの眼

呆痴条例

2023年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム

埼玉県議会で子供の虐待を防ぐため虐待禁止条例(放置禁止)が提起されたが、反対が多く、取り下げた。
当たり前だ。
放置が虐待になる社会そのものを改善するのではなく、社会の問題に目を向けず、それに輪を掛ける束縛を考える。善意は認めるが、思いついた議員の「時代の子」としての蒙昧に、慨嘆どころか哀れになる。

子供が一人で遊べない。家や車に放置される。これを防ぐために親の保護者義務を重くする。この情況に、この発想しか考えられないのは、核家族化の中で育った議員達の人間的視野の欠落なのだが、何が欠落しているかさえ知らないことが悲劇なのだ。

人間は社会的動物などと言われ、集団で生き、共同体の中で生きる。
ところが、大家族が失われ、学校に加えゲームやネットによって、地域集団の関わりを知らないで育つ。昔は学校も地域の中の存在としてあったが、地域の関わりが失われることで、学校は家畜小屋や軍隊や刑務所、オウムのサティアンのような異空間になり、さらに加えてゲームが子供社会を消してしまった。
もちろん、今の学校も塾もゲームも、それなりの社会を作ってはいるが、地域と人との相互の関わりが非常に希薄になっている。

その中で育つと、大人になっても他人との関わりの敷居が高く、間単に人に頼れなくなる。近年のお母さんが子育てに悩み、一人で悩み込むケースが多いのも、誰にも相談できないからだ。相談できる人がいても、経験や勘を否定する教育を受けて育った人は、マニュアル以外の大人の言葉を聴けない。
子育てを個々の家だけの責任とすれば、他人に頼るなら公共保育などしか道がなく、それが窮すれば、父親の協力に焦点を当てる。
放置禁止を厳しくしようと考えるのも、地域協力の無い社会で、少子化による完璧な子育てを個々の親に求めるからだ。

今回の発想が、地方自治とは言え自民党から出たことに、さらに悲哀がある。自民党は江戸の名残りの明治社会を理想とし、「家」にこだわり続けている。少子化は結婚できないからだと思っているが、結婚を基本とする社会が否定されていることに気づいていない。自民党の進める女性進出は、中国の特色ある共産主義のように矛盾している。
男系家族を前提としながら、女性の「活用」だけはしたい。給与&税制の完全対等も無く、育児施設の大々的な保証も無く、穴埋めに都合の良い男性育児だけを煽り立てる。

繰り返し言うことだが、産業革命パラダイムで、大家族や家は消滅した。これからの社会は社会と個人が家族だ。子育ての責任が国や自治体にあることを前提に考えなければ、様々な問題は解決しない。放置した者を罰するのではなく、地域共同体の再構築を含め、放置しなくても良い環境を作ることを、先ず考えるべきではなかろうか。


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