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夢の再生

2024年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は海外初の金20個、3位の快挙を遂げた。オリンピック大好きな努力の国日本ならではのご褒美だ。しかし、ロシアは参加していない。
マスコミの盛り上げる賑わいから離れ、冷静に見渡せば、
今回のオリンピック、パリ大会は笑うほどのグダグダ大会、百年の総決算だった。
料理や施設の不備、ドブ川セーヌ、ワケの解らない判定や教会の抗議。ミュンヘン大会のような悲劇は無いものの、ドタバタ、チグハグの様は、東京大会に続く「やらずもがな」大会となった。
選手は人生をかけ、神聖な気持ちで臨んでいるが、興行主は儲かれば何でも良い。取引相手の地元施主やスポンサーこそが商売相手だ。選手は替えの効く商品に過ぎない。

日本人は小学校の頃からオリンピック精神を聞かされ、オリンピックに惚れ込んでいる。しかし、クーベルタンの理想が存在したのは成立までだ。1924年の第2回パリ大会以後はマラソンの距離も定まり、「使える」ようになったオリンピックは、金と政治の道具と化していった。戦争を止める理想とは逆に、戦争で中止やボイコットをした時点で理想は失われた。その後は、国威発揚、経済利用のための種目やルールの変更、選手を使い捨てる利権の興行に化していき、百年目のパリに、俗悪の雪だるまとなって帰ってきた。

俗悪興行に堕落した最大の理由は、国家対抗戦だ。
平和を求める理想は、国を超越し、人類の発展と個人の尊厳を見いだすことにあったはずだ。さらに言えば、科学などの道具によらない純粋素朴な肉体の発露で、ドーピングなど論外だ。科学と国は、近代戦争と環境破壊の根本要因であり、科学技術の発展が国家競争をもたらした。
当然のことながら、国家対抗戦には代理戦争として、科学と金がつぎ込まれ、オリンピックは産業革命パラダイムのゴミ溜めと化した。メダル数を喜ぶ日本からも「オリンピックは参加することに意味がある」の掛け声は聞こえなくなった。

夢の再生
ギリシャ時代のオリンピックは、ポリス国家共通の神、ゼウスに捧げる神事だったから、戦争さえ中断することができた。しかし、今の国際社会に共通の神などない。クーベルタンも時代の子、始めから前提を間違えていたのは責められない。しかし、2世紀も経て、間違いのままゾンビ興行に化したオリンピックに、もはや、拘るべきではないだろう。
クーベルタンの夢をかなえるには、国家と無縁の、素朴な個人競技からやり直すしかない。
現在の国際組織はそのままで良いとして、
もう一度、ゼロから、国家を超えたスポーツ人有志の交流会のような、素朴な運動会を、ギリシャか小さな島国など「固定の場所」(願わくば日本)で、質素に始めれば、小さな種も大きく育つだろう。

ネットによるスポーツ版のLiveAidとして、スポーツバラエティ番組のように、記録より面白さ楽しさ中心の競技でネット配信すれば、いきなり大きな大会を、意味のあるAidやチャリティーとして開催することも可能かもしれない。
個人参加を基本とし、団体競技も同好クラブで、人間の判断レベルの判定にとどめ、見た目が同時なら同着とするような、情熱や努力を尊重する人間の祭典だ。
0.0・・・で着順を決めたり、VAR判定やデジタルスロットなど、人間が科学に操られるのでは、本来の「人間性回帰」の真逆だ。

一応、エリア別の予選をしても、国対抗ではなく、他エリアからの予選参加も可とすれば、実力別の上位者が残りやすいだろう。
こうした、グローバル時代の脱国際の祭典なら、初めは冗談に見えても。必ず、意義のある大きな大会に成長していき、新しい時代の価値観にもマッチするのではなかろうか。

未来社会の人類共通の神が何かは解らないが、科学による宇宙認識が新しい神だろう。科学も神の真理を求めるところから生まれた。
宇宙観に基づく神は、森羅万象へ敬意をこめた「固とネットワーク」の醸す力であり、科学を超える生命崇拝、人間崇拝の極致となるかもしれない。


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