魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

文化対決

2013年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム

イタリア戦は、日本がちゃんと機能していた。
ブラジル戦の反省と、移動からの時差ボケ解消に加え、イタリアを知るザッケローニや長友などもいる。かなり良い試合をするんじゃないかと期待していた。

しかし、始まった途端、ここまで良い試合をしていることに、驚いた。
挙げ句の果てに、2点先制した時には、何かイタリアに申し訳ないような気までした。
が、やはり、イタリアはそんなヤワなチームではない。前半終了までにキッチリ1点返してきた。

結果は、客観的に考えれば順当であり、負けても、納得以上の試合だった。運、不運、レフリーの判定、色々言われているが、一戦ごとに積み重ねていく日本チームには、大収穫だったのではなかろうか。

ブラジルがサッカーの水を泳ぐ魚なら、イタリアはペンギンだ。
時に魚より上手く泳ぎ、魚の捕まえ方を知っている。エラ呼吸でもない鳥が魚を捕まえるには、智恵と狡さが必要だ。

最初にCKで返された1点には、イタリアサッカーの老獪ぶりが凝縮されていたような気がする。同時に、1点取ったら安心する、昔の日本サッカーのクセが顔を覗かせた瞬間だった。
セットプレーの、わずかな瞬間の「心のすき」を突かれた。

セットまでの、時間に対する考え方が違う。遠藤が水をとったように、日本人は「ご破算で願いましては」と考えるが、イタリア人は試合の一状態、流れの一環と考えているようだ。
いかにもこの辺りが、経験と文化の違いだ。

アラブ系
イタリアはラテン系だが、やや、アラブに近いような気がする。
中東のいわゆるベッドサッカーのような、狡猾さの上に、ヨーロッパ文明と現代サッカーの精密さがコーティングされている。
それが、セットプレーの間合いで虚を突く、目ざとさとなる。

そもそも、人の目つきを観ればその文化が解る。
ゲルマン系などが、じっと見据えるのに対し、アラブ系には、キョロキョロ、キョトキョトする動きが多い。

人相では、話ながら、眼が踊る人間は信用ならないと言うが、これには色々パターンが有るものの、本人が自覚していなくても、多様な現象が眼に入っているはずだ。
だから、そこに知性が加わると、当然、抜け目無さになる。その目ざとい文化にあって、例えば、ビン・ラディンの眼は座っていた。

イタリアサッカーの抜け目無さに対し、蓬莱の島に住む日本人の目は、良く言えば仏の目、早く言えば半分寝ている。極楽トンボのお人好しだ。1点取ったら安心するし、セットプレーで水を取る。
かなり進歩したとは言え、ドーハの悲劇から続く、負の伝統だ。

しかし、こんな事を考えるまでもなく、努力家の日本サッカーは、こうした経験を積み重ねながら進化して来たし、この、たゆまぬ進化こそが、日本を応援する楽しみだ。 本当にすごい進化だと思う。