魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

情報の嵐

2013年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

最近は、欧米で同性結婚などが話題になると、日本のマスコミも何かとそういう話題が増えている。
欧米で何か新しい話題が出ると、すぐ飛びつくのが日本のマスコミだが、元々、マスコミ志望者は、「何を行うべきか」より、「何が起こっているか」に関心があるからだろう。

ジャーナリズムというものが、いまだによく解らないのだが、ジャーナリズムとは事実を伝える意思のことで、マスコミとは媒体メディアのことだろう。

媒体メディアは、道具だから、何を伝えるかさえ考えない。
どっかの誰かが大声で話していれば、それをそのまま伝える。しかも、その言葉が客観的事実としてどれぐらいの意味を持つかではなく、「大声だから事実ですよ」と、さらに大声で伝える。

ジャーナリズムは、少なくとも、何が事実か考えようとするが、マスコミは、いかに大きい声で注目してもらえるかだけを考える。
したがって、真偽より注目度が命だから、視聴率から逃れられない。

情報嵐で視界ゼロ
そんなマスコミの大声に、世の人は「またか」下らないと思いながらも、思わず耳目を奪われてしまい、虚しい空騒ぎに巻き込まれる。
よくまあと思うほど、次々と「親分、てえへんだあ」と話を持ち込んでくる。そうして年がら年中、から騒ぎに明け暮れていると、政治も、世の中も、生きていることも、大したことではないように感じ始め、何が起こっても無関心になる。

そのマスコミにウンザリして、ネット世界に引っ越しても、烏合の衆の叫び声しか聞こえず、さらに不確かな情報に埋没していく。

この情報社会で、生きていくのは、大量の本をどう読むか、と同じ事だろう。占いの本で占いを理解するコツも同じ事なのだが、本当のことを知るには、「見て見ない」ことだ。
知識にモザイクを掛けてみる。その物のディテールを正確に見るより、全体の様相を知る。これが目に見えない本質を知る方法だ。

学校でキッチリ知識や技術を身につけた者は、たたき上げの野人に、土壇場ではかなわない。細かいことは解らなくても、ことの本質を知っているから、自分の智恵で対処できる。もちろん学校の後に、実戦で経験を積めばさらに強くなるが。嗅覚までは身につかない。