魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

狭い世界

2013年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム

餓死や、虐待など、都会の無関心による悲劇が、色々問題になっている。
工業生産、中央集権で、人を都会に集めたが、文化背景の違う寄り合い所帯の大都会では、結局、お互いが関わらない方がトラブルが少ないことから、互いに無関心であることが礼儀になってしまった。

しかし、集団の中で自分を確認する人間という動物にとっては、はぐれザルや狼のように、「関わらない」は、かなり辛いことだ。その欲求不満が、ネットの誹謗中傷や、関わらなければ強迫観念を持つSNSのような、歪んだ現象を生んでいる。

大都会、あるいは、それに毒された若者文化のような弊害を正常化させるには、地域コミュニティを復活させることが大切であり、近年では、祭りの復活など、様々な試みが広がっている。

地方の過疎化で失われた「ふれあい」を維持しているのは、今や老人社会になってしまった。
若者を地方に呼び戻すためには、地方の産業振興だが、これまでのパターンは企業誘致しかなかった。
幸いネット社会で、SOHOによる仕事の分散は広がっているものの、基本は中央と結ぶ枝葉的な域までしか広がっていない。

各地で若者が起業した戦後のような広がりを期待したいところだが、優秀な?若者が皆中央にいる。
通信、流通は行き渡っているのだから、起業しようという若者が地方で起業したくなるような地方行政や、中央からの強力な特区政策が必要だろう。

地方の憂鬱
ただ、地方に行くと、いずれも極めて狭い社会だから、お互いはほとんど顔見知りや縁故の知己だ。だから、知っている人なら見のがさず挨拶をしなければならない。

都会と違う雰囲気は、地方では、通りすがりの人を、ジロジロとチェックする。知り合いか確かめるためで、決して悪意ではないし、実際、見知らぬよそ者をチェックすることで、防犯にもなる。
このことが、都会人にすれば、敵意を持って監視されているような気がして、息が詰まりそうになる。

地方から大都会に出た若者は、大都会の無関心に慣れず、寂しいと思い、帰りたがる人もいるが、都会の気楽さになれて、二度と監視と束縛の世界に帰りたくないと思う人もいる。
頭では、地域コミュニティーの重要さが解っていても、地元に帰ってジロジロ見られ、知り合いにあれこれ聞かれると、「ああ、こんなところでは暮らせない」と思う人も少なくないだろう。
ここが難しいところだ。