転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



結局、この年、私は『ソビエト演劇』の授業については
ほぼ皆勤だったと思う。
年度末試験はなく、レポートだったので、
私は『ワーニャ伯父さん』について書いて書いて書きまくった。
特に、「冬が来る」の一言について感じたことを執拗に書いた。
そして、一年次が終わった春期休暇中に、NHKで、
レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の録画が放映され、
そこで私は、『ある馬の物語』に出会ったのだった。

この演目については、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の、
88年の再来日における公演と、
90年(多分)に見た日本の若手劇団による上演との、
二度の生舞台の出会いを、このあと経験することになるので、
詳細はそちらに譲りたいと思うが、
とにかく、このときにテレビで観た『ある馬の物語』は、
夏に生観劇した『ワーニャ伯父さん』をも凌駕する物凄い衝撃だった。
このビデオは私の生涯の宝物だと今でも思っている。

さて、この出会いの感動と、もうひとつ、音楽面でのミーハー心とで、
次年度、私は第二外国語を正式にロシア語として登録しなおした。
フランス語はせっかく四単位取ったが、この時点で断念することにした。
ロシア語も、有り難いことにまた佐藤恭子先生の授業だった。

余談だが佐藤先生のロシア語の授業はとても怖かった。
私はもともと、甘くされると際限なくさぼる人間なので、
習い事は、ビシビシと厳しいタイプの指導者と相性がいいのだが、
佐藤先生はその最たるものだった(爆)。
ロシア語選択者の人数は少なくて、たった一クラスしかなく、
そのクラスも十数人しかいなかったのではないかと思うのだが、
毎回毎回、何巡でも当てられて、出来なかったら容赦なく叱られた。
泣きそうな一年生もよくいた。

しかしお陰でこれが、全員とても仲良くなったのだから不思議だった。
過年度生は私だけでなく、第三外国語として履修していた三年生や、
中国史研究との関連で聴講しに来た大学院博士課程の上級生などもいて、
専攻も、語学に国際関係学に数学にと、入り乱れていて面白かった。
一年目の後期に入る頃にはロシア語のクラスでコンパまでやった。
勿論、佐藤先生もお招きしてのことだ。

私はその後、ロシア語の1年生に「経済学」の代返をして貰ったり、
後期試験前には「キリスト教史」のノートを貸して貰ったりしたし、
また、時事英語のクラスでマルコス政権の記事が課題になったときには、
ロシア語仲間の3年生の先輩でフィリピン政治が専門の人がいたので、
頼って全部和訳して貰い、ついでに背景の解説までして貰った。
それで私から何か返せるものがあったのかというと、全然なかった。
N子ちゃんのときもそうだったが、私のやっていることは結局、
「助け合い」よりも「助けられ」のみだった(^_^;)。

私の、ロシア語に関する唯一にして最大の後悔は、佐藤先生に、
自分のロシア語受講の動機を、お話する機会が、ついぞ得られなかったことだ。
私は、前年の佐藤先生の『ソビエト演劇』の授業を取り、そのお陰で、
レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の公演を観ることができ、
ロシア文化の片鱗に触れ、それだけで虜になり、
とうとうロシア語をちゃんと勉強したいと思うようにまでなったのだ。
私は、この世界に誘(いざな)って下さった先生に、
どれほどお礼を申し上げても足りない筈だった。
だのに、結局最後まで、そのことをお話せずに終わってしまった。
1年次「ソビエト演劇」、2年次「ロシア語1」、3年次「ロシア語2」、
と在学中に専攻科目でもないのに3年間連続でお世話になり、
大学内ではいつでもお目にかかれると思っていて、
そんな状況に甘えているうちに、卒業の日が来てしまったのだ。

(続)

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