転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



Leonie レオニー
――天才彫刻家イサム・ノグチの原点 母レオニー・ギルモアの波乱に満ちた生涯

母校の大学の先輩からの案内で、偶然知った映画なのだが、
きょうから一般公開なのだそうで、広島での上映も勿論ある。
劇場もそう遠くないし、見に行きたいと思うのだが、
映画というのは「いつでもやっている」安心感から、
最終的に見逃してしまうことが、私はとても多いので、心許ない。
手帳にちゃんと書いておかないといけないな(^_^;)。

イサム・ノグチの作品について私は全然詳しくないのだが、
私はかつて、友人宅で見た「あかり(Akari)」に強烈に心惹かれ、
イサム・ノグチのデザインだとは全く知らないまま、東急ハンズに行って、
結局パッチモンを買ってきた、という出来事があった(殴)。
私のような鑑賞眼のない一般人を、一目で惹きつけたという一点だけでも、
やはりノグチは天才であったのだと思わずにいられない。
あの提灯型のペンダント・ライトは、私のそれまでの和風照明の常識を
一瞬で覆した傑作だった、と今でも感服している。

もうひとつ、広島市民としての私は、平和公園の西平和大橋などのデザインで
イサム・ノグチの名を見覚えて、以前から知ってはいたのだが、
慰霊碑のデザインでも彼の作品が本来選ばれていながら、
『原爆を落としたアメリカの人間である』ことを理由に選考から除外された、
ということを知ったのは割と最近になってからだった。
ノグチは日本の血を引く人でもあるのだし、『平和』公園であるなら尚更、
出自を理由に彼の作品を落とさないで欲しかった、と私などはつい思ってしまうが、
そのようなことを考えるのは、私が『平和ヴォケ』の戦後世代だからか。
被爆者である父などは、やはり受け入れ難いと言うだろうか。

ノグチはのちに、アメリカ大統領の慰霊碑を設計したときにも、
日系であるという理由で却下されてしまったのだそうだ。
彼は合衆国市民であったにも関わらず。
芸術が、民族主義の犠牲になっているのを見るのは残念でならないが、
政治色のある行動に関わるときには、避けられないことだったのだろう。
個人の善意をそのまま拡大していけば万人を説得できる、
というほど簡単な話ではない、という点は今でも同じことだ。


関連記事:
芸術家イサム・ノグチの母レオニーを映画化(ORICON)
中村獅童『女の敵』役に「視線がキツイ」(ORICON)

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・なぜか今夜は主人も娘も、とても眠いらしい。
夜8時半の段階で、ふたりとも既に就寝体勢に入っている。
私は夕方うたた寝したので(殴)まだ大丈夫だ。

・KISSが来年半ばまでにはニューアルバムを出すらしい。
KISS - New Album Due "Mid-2011"(BW&BK)
録音するのスタジオに入るのとポゴレリチが言っても、
私は文字通りには受けとらないよう、自分に歯止めをかけている部分があるが、
KISS関連の話なら言葉通りに信用していいだろう、と思っている。
前回の『Sonic Boom』が予想を遙かに超える傑作だったので
次回作にも私なりに期待している。
そしてできれば私があまり老いないうちに(汗)来日してくれないだろうか。
KISSの面々はなぜか30年前と全然変わっていないのだが(除:胸毛の白髪化)、
私のほうは変わり果てているので、夏フェスなんかで来られると倒れる。

・宝塚系の某掲示板を久しぶりに覗いたら、
チラシとフライヤーの違いについて話題になっていた。
『フライヤーという語が使えずに未だにチラシと言う人が多いことに驚く』
という意味のことを書いていた人がいたが、
実は私も、自分で使う語は『チラシ』のほうだ(笑)。
『フライヤー』は、私にとって理解語彙ではあるが使用語彙ではない。
言語の変化とは、話し手の使用習慣の変化のことを言うのだから、
日本語話者の大半が『チラシ』全般を『フライヤー』と呼ぶようになれば
私も自然にそう言うようになると思うが、今の私の生活実感としては、
まだそこまで来ていないという気がする。
ピンクフライヤー、折り込みフライヤー、などの言い方はあるのかしらん。

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私がテレビ嫌いであることは、ここでも再三、書いているとおりで、
日常、私が自分からテレビをつけることなどまず無い、と言って良い。
しかし家族は私と違いテレビが大好きだ。
主人も娘も、暇さえあればテレビをつけている。
主人など、観る暇が全然ないときでも、テレビを鳴らしている。
『ながら』のほうが、切迫した仕事さえはかどるのだそうだ。

だから、テレビでやっていることを私が目にするのは、
主人か娘のどちらかがテレビを観ているところに、私が同席する、
あるいはそういう場に偶然通りかかる、といった場合であることがほとんどだ。
そのようにして、つい数日前、ふと私の目に入った画面には、
経済評論家の勝間和代氏を迎えての「仕分け」の風景が映っていて、
勝間氏が何か、お役人の英語にツッコミを入れていらした。
この場面は、日本語放送なのに、ご丁寧にも以下のような字幕入りだった。

男性「……ディスネーション…」
勝間「もう一度言っていただけますか?」
男性「ディスネーションです」
勝間「ディスティネーションですね、わかりました」

くだらん、あまりにも、くだらん。
どうでもエエことで時間取るなや、とそのとき私は正直呆れた。
des-ti-na-tionのtiなんて「テ」でも「ティ」でも別の単語になるわけじゃなし、
日本語中のカタカナ発音として、わかるんだから何の問題もないじゃないか、
と思ったのだ。

ところが、だ。
ここからが、本題だ。


どうやらこれはテレビ局による、意図的な編集の結果であったらしい。
勝間氏ご本人は、お役人の英語発音の揚げ足を取ったのではなく、
このときたまたま、相手の発言内容がよく聞き取れず、聞き返したら、
その部分だけを切り取って編集されたものが放送されてしまい、
あたかも、わざと英語発音の誤りを指摘して相手をいじめた、
みたいになっていたということだ。

地上波マスメディアにおける「切り取り」の問題点(勝間和代公式ブログ)

このテレビ番組が、ニュースだったかワイドショーだったか忘れたが、
あそこだけを見た人は、ほぼ全員、誤解していることだろう。
編集されたものというのは、編集人の解釈、場合によっては「予断と偏見」を、
本当によく反映しているものなのだなと改めて思った。
もしも、それ以上のものだとすれば、
制作側の明かな悪意だったということになるだろうし。
やはりテレビなど、あまり真面目に見るものではないんじゃないか(--#)。

それにしても、destinationって、一体何の話だったのだろう?
辞書的な意味は「目的地」や「送り先」などだと思うのだが、
これを日本語でなく、カタカナで言わないといけないような設定が、
私の知識の範囲では、今、どうも思いつかない。
こんなものが日本語での普通の話の途中にいきなり出てきたら、
私だったら三回くらいは聞き返したかもしれない。
日本語でも問題なく言えることをカタカナ語で言われると、混乱させられる。
それとも、ここでは必須の、特殊な業界用語なんだろうか???

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第2回[生理的に許せない行為]告発集(SPA!)
一般的に、「生理的に許せない」「イラっと来る」ことの種類が多い人生は
主観的につらいことが多く、幸福感から遠くなりがちではないかと私は思う。
だいたい、何人かで集まっていたら、思いがけないことをする人が必ずいるし、
自分だったら絶対にしないことなのに他人には当然、というのは普通によくある。
私自身、周囲の人にビックリされていることが結構あるのではなかろうか。
何しろ、集まった人全員が「自分」のクローンでないのだから、仕方がない(^_^;)。

佐藤愛子先生の、霊界に関する随筆を読んでいると、
人間は、エネルギーの波動が落ちたとき、負の感情にとらわれて、
人を怨んだり、傷つけたりして、最悪は犯罪を犯すのだそうだ。
凶悪犯罪者と言われるような人たちの罪状を見て、
どうしてそんなに残虐な殺人を繰り返したのかと慄然とすることがあるが、
そのような人たちは、悪い波動につかまってしまったということらしい。
『誰でも良かった』という言い方で無差別殺人をする人などが、この典型だ。
だから今、警察が来るようなことをとりあえずしでかしていない私だって、
何かの拍子にエネルギーの波動が落ちたら、負のサイクルにはまりこんで、
突然に窃盗や殺人を犯す、ということも大いに有り得るわけだ。

そう考えると、些細なことでもいちいち他人を不快に思い、心の中で責める、
というのは、「悪い波動」に取り込まれ始めている段階かもしれない。
イヤなことや許せないことが全くない人間、というのもかなり異常だろうが、
あれもイヤ、これも腹立つ、みんなロクでもない人ばっかり!
と日常の様々なことが、たびたびカンに障るときというのは、
原因はむしろ、自分のほうにある、かもしれないのだ。

……と私は思って、まあとりあえず、あまり許せん許せんなどと
ヒトのことを悪し様に言わないようにしよう、とは心がけている(汗)。
なかなか難しいが(大汗)。

勿論、エネルギーの波動が下がってくるには、それだけの理由があり、
すべて自分の心がけや性根が悪かったせいだ、ということではないが、
同じような苦労をしたり不幸な目にあったとしても、
全員が必ず荒むわけではないし、その後の人生が同じものになるわけでもない、
ということを考えると、やはり各自が潜在的に持つエネルギーの質や量は、
そのときそのときで、それぞれ違っており、
大切に考えなくてはならないものなのではないか、という気がする。

ちなみに、佐藤愛子先生の本では、負の状態から浮上する、
あるいは悪い波動につかまらないために誰にでもすぐ出来ることとして、
朝日を拝み、深呼吸する、などの方法が紹介されていた。
どうもいけない、悪いサイクルに取り込まれそうな感じだ、
と自覚したら、自分でそれを浄化することは可能であるわけだ。
考え方の角度が違うだけで、例えば多くの宗教だって、
これと似たことを言っている、と私は思う。
祈ることで誘惑に打ち勝とうとしたり、お題目を唱えて気持ちを安定させたり、
礼拝などの場で自分を見つめ直して出直そうとしたり、というのは、どれも、
清らかなものに触れることで、自分を洗いなおし、
より良い波動の中に身を置こうとする試みではないだろうか。

なので、私は、そうですね、とりあえずは、
毎朝の気持ちよいラジオ体操を、続けることにします(って、そこ?)。

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午前中から舅姑の墓参りに行き、舅宅の様子を見に行き、
市街地まで戻ってきたら、思ったより時間が早かったので、
前々から考えていた頼山陽史跡資料館に行ってみることにした
(写真は、頼山陽21歳時の脱藩事件のあと、
およそ3年間幽閉されていた、自宅「離れ」の復元。
資料館の前庭にあり、現在では史跡として「頼山陽居室」と呼ばれている)。

今回のテーマは「頼山陽の書」で、山陽自筆の書簡や、
旅先での揮毫(きごう)の際に仕上げた書など、
年代順に多くの手紙や原稿、作品が解説つきで展示されていた。
私は書を見て何か言えるような素養は全くないのだが、
全体の印象からすると、若いときより中年以降の山陽の書のほうが、
緩急のバランスが見事で、生き生きした感じがすると思った。

最近は、私なりに本も読み知っている逸話が増えたので、
出ている解説を読めば、その前後の出来事に関して思い出せることもあり、
山陽が実際に生きて、こうした執筆の生活を送っていたのだということが
いっそう強く実感を持って理解できる気がした。

また、頼山陽の弟子で女流詩人だった江馬細香の漢詩もあったが、
読んでみたら、それは以前、漢詩の会で習ったことのあるものだった。
漢詩の先生は、そのとき江馬細香について説明して下さった筈なのだが、
当時の私はまだ頼山陽をよく知らなくて、
詩の断片は記憶に残っても、彼女の名までは覚えていられなかったようだ。
女性である細香の、山陽への視線には、弟子という以上の独特の愛情があり、
今になって読むと、漢詩の情感もまた改めて味わえ、とても良かった。
随分前から、実は私は頼山陽の周辺に人にも出会っていたのだな、
ときょうは感慨深く思った。

それにしても、平日の昼だからか、こじんまりした史跡だからか、
きょうは私のほかにもうひとり男性が見に来ていただけで、
帰るときになっても、それ以上誰も来なかった。
来月には母の梅颸(「ばいし」。「し」は<風思>)に関する展示があり、
見たいと思っているのだが、これから足繁く通うようになったら、
事務局の方々に顔を覚えられそうな感じだった(笑)。

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昼に、いつもの内科でインフルエンザの予防接種をして貰った。
今年からは新型インフルのワクチンも一緒に入っているのだそうで、
そのせいか、これまでとは予診表の形式が、少し違った。
住所や氏名、年齢区分などは予め、看護師さんが記入して下さっていて、
私は、年齢区分に応じた質問箇所にのみ、
「はい・いいえ」に○印をつけて回答するようになっていた。
去年までは、このように細分化されては、いなかったのだが。

きょうは、その予診表を受付で渡され、やおら記入しようとして、
私はちょっと困ってしまった。看護師さんが私の年齢区分として、
65歳以上の者、または60歳以上65歳未満で心臓・腎臓・呼吸器の機能
またはヒト免疫不全ウイルスによる免疫の機能に障害を有し……」
の欄にチェックを入れて下さっていたからだ。

私は、よく自分の年齢がわからなくなるのは確かなのだが、
二十年ほどもあやふやになっていたとは、……ウカツだった(爆)。
っていうかこの医院のカルテでは私は何年生まれになっているのだろう(汗)。
その場で、自覚では46歳だと自己申告したら、幸い認められた。
良かった(爆)。

普段の患者さんとは別に、予防注射の人たちは、
診察室ではなく処置室に案内され、私もそこに並んだ。
体温測定をし、問題がないとわかると、予診表に署名し、
あとは注射の順番を待つだけだ。

……と、先生は、ほかの人に注射をしながら、ふと私の顔を見て、
きょうは、なんですか?
と不思議そうに訊ねられた。
なんですかって、インフルエンザの予防注射を受けに来たんですが(--#)。
この先生は以前、私が、下肢静脈瘤が不安だと言ったあと、
何ヶ月か経って今度は期外収縮が気になると訴えに来たら、
「いろんなことを言って来られますなあ」
と感心なさった方なのだ(--#)。

転妻「いやあの、インフルエンザの予防注射で、来たんです」
先生「ああ、そうですか、そうですよね、なるほど、はははは」
転妻「んだから、私も並んでるんです、ここで」
先生「ははは、はははは」

ほかの方々はスムーズに注射をして貰っているのに、
私にだけ『きょうは、なんですか』と来たもんだ、ご挨拶だな、
とブ然としていたら、ついでに血圧を測られてしまった。
有り難いことに、132/82だった。助かった。
注射そのものは全く痛くなかった。先生は上手だった(爆)。
風邪を引き込まないうちに、済ませることができて、良かった。

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・昨日から一泊二日で、娘の学校のお友達が二人、
我が家に来て「お泊まり」をしていた。
娘と彼女たち、そしてきょうの昼にはもう一人お友達が合流して、
女子高校生4人が、夕方まで居間と和室を占拠して遊んでいた。
お楽しみの内容は、お喋り&絵&ゲーム、それに漫画、オヤツ。
全員がインドア派で、座り込んだまま延々と盛り上がり続けていた。
楽しくて結構なことだった(^_^;)。

・彼女らがいたので、私は掃除も買い物もせず、
ピアノの稽古も英語の勉強もしなかった。
と言って、昼寝をするわけにも行かなかった。
「おばさん、お邪魔しました~」
と彼女らが帰るときに、すっかり高イビキで気づかなかった、
というのでは、娘に恥をかかせてしまうと思ったからだ。
自分の恥だけなら、もうだいたいのことは解脱できてるんだが(殴)。

・通訳案内士の口述試験を、なんとかせねばという気持ちはあるのだが、
この道はいつか来た道、ああそうだよ去年の英検二次試験と同じだよ。

・首相「尖閣は日本領と明言」、というニュースの見出しがあり、
大変わかりやすく誤解の余地のない日本語だったので、
私は久しぶりに溜飲が下がった。
これまでよくあった、「領土問題は存在しない」だけでは、
全くどちらの領土だとも言っておらず意味不明だ。
『言わなくても(文脈や常識や前提があるから)わかる』
という感覚は、異文化相手のときには単なる独善であり、
敢えて曖昧にして煙に巻くという意図でないかぎり、失敗だと思う。
日本語にしてみればズケズケ言うくらいでも、
外国語になおせば、ちょうどだと私自身は思っている。
言質を与えないという意味でも、誤解の余地を残さないという意味でも、
明示的な言葉遣いが、日本にとっても相手国にとっても大切だ。

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吉本新喜劇の広島公演があったので、
娘と、お泊まりに来ているお友達二人、それに私、
の女四人で、17時からの夜の部を観に広島文化交流会館へ行った。

私は、密かに、辻本茂雄のファンである(笑)。
特に、茂造じいさんを愛している。
なので、今夜は、
『アドリブ弱い奴やな~!!』
『つまらないものにはメ~ン!』
『許してやったらどうや』
『わたしがたっぷりチビった紙オムツや。名前は・・・アテント♪』
等々、絶妙のタイミングで定番ギャグが満喫できて、嬉しかった(笑)。
やっぱり、生の魅力は、こたえられない。
ちなみに、茂造じいさんが私と同い年であることを、きょう知った。

後半は漫才が三本で、Wヤング、ザ・ぼんち、オール阪神・巨人
と、こちらも素晴らしい豪華メンバーだった。
お芝居も漫才も、さんざん笑わせて貰い、晴れ晴れした気分になって、
こーゆーのこそ「オモロい!」って言うんだよな!と実感した。
やっぱり、お笑いは、こうでなくては。

ちなみに、四日前から広島百メートル道路のイルミネーションが始まり、
きょうも、帰りには平和公園の前から中央通りに向かっての道が、
どうにもならないほど渋滞していた。
タクシーの運転手さんが、迂回して南寄りの道を取って下さったので、
私達は上手い具合に、渋滞に巻き込まれずに帰ることが出来たが、
この期間中、特に週末は、見物だけでなく撮影の人も多いので、
付近の有料駐車場など軒並みいっぱいなのだそうだ。
今月後半は、このあと、演奏会関連で出かける機会が多くなりそうなので、
帰りが車やバスになるときは、用心しなくてはと思った。

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8月29日に受験した通訳案内士試験(英語)一次試験
合格発表が、今朝あった。合格していた。感涙(T.T)。

有楽町の日本政府観光局(JNTO)に掲示が出ているそうだが、
私は、広島からそのために出かけることは無理だから、
日本政府観光局(JNTO)のサイトで確認するしかなかった。
ハロー通訳アカデミーその他からの情報では、9時15分頃に発表予定で、
開始直後はアクセスしづらい状況もあり得ると言われていたが、
今朝は幸い、それより少し早く、9時10分くらいにはもう、
『平成22年度通訳案内士試験 筆記試験合格発表→こちら』
の表示がトップページに出ていた。

サイトにはPDFファイルで、合格者の受験番号のみが掲載されていたのだが、
私の番号はかなり大きかったので、アクセスしたとき、
一桁台から三桁台の頁などすっ飛ばして、早く四桁台後半を見ようと焦った。
そうしたら、あるところでいきなり、自分の受験番号付近がごっそり抜けて、
急に大きな番号に変わっていた。
あれ?と戻って少し前を見てみたが、やはり自分の番号は無かった。

「そうか~、駄目だったか~。仕方ないな~」
と、一瞬落胆したのだが、しかし見当たらないのは自分の番号だけでなく、
前後の受験番号が、あまりにもたくさん、百番ずつくらいまとまって抜けていたので、
『いくら受験者数が多いと言っても、ここまで大勢、いっぺんに落ちるか??』
とさすがに不思議に思い、ページの上部の記載を見直してみた。
ら。なんと。
間違って「筆記試験(中国語)合格者」の頁を見ていたのだった(爆)。
そりゃ、そもそも出とらんって(爆爆)。
受験番号そのものは受験生全員が通し番号になっていて、
一方、合格発表は受験外国語ごとに掲載されていたのだ。

それで、改めて「筆記試験(英語)合格者」の頁を探したら、
あった。今度こそ、あった。
よよよよよよかった~~~(T.T)(T.T)。

私は一次試験は英語を受けていないので(英検1級取得者は免除)、
事実上、ここまでは地理・歴史・一般常識という「社会科の試験」だけだった。
このあと、二次が初めて英語の試験になる(汗)。
二次は来月初旬で、東京・京都・福岡の三箇所で行われる口述試験だ。
私は出願のときに福岡会場を希望しており、多分その通りになるだろう。
夏に一次が終わって以来、一次合格には自信がなかったために、
二次対策には気合いが入りきらず、実のところ、
何一つやっていない訳ではないが、きちんとやって来た訳でもない。
一次通過は大変に嬉しいが、ああ、このあとが、修羅場、かも(大汗)。


追記:11月15日に到着した合格通知書を記念に貼っておく。

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最近の私は、朝NHKラジオ『まいにち中国語』を聴いたあと、
さらに『ワンポイント・ニュースで英会話』を聴き、
そのあとも『みんなのうた』『ラジオ体操』まで
ずっとラジオをつけっぱなしにしている。
三つ子の魂百まで、というのか、私は未だに
中学校で徹底的に教えられたラジオ体操が忘れ難く、
朝の体操が、なんだかとても好ましいものに思えるのだ。
マンションの一室で、朝から妙に力の入ったラジオ体操をする、
孤独で肥満体な転妻を、どうぞ想像なさって下さいまし(^_^;)。

ところで、その体操をするのは気持ちよいのだが、
昨今、不愉快に思っているのは、それの前にある『みんなのうた』だ。
かつて『みんなのうた』というと、私にとって楽しい想い出が多く、
ここで知った歌手や覚えた歌も少なからずあったものだが、
もはや隔世の感あり、現在は全然理解や共感のできない歌が続いていて、
私は自分の老化を痛感している。

多分、あのような歌が、今時は「良い」ということになっているのだろうが、
どの歌も、ヘロヘロした発声で、アレンジも歌詞内容も大変に軟弱だし、
安易にカタカナが混じって、日本語としても規格外だ。
登場人物や語りかけの相手は、うなだれていたりデリケートだったりして、それを
「そのままでいい、大丈夫」「わかってくれる人はきっといるから」
などと、歌い手は、寝言みたいに性根の入らない声音でなぐさめている。
明日をも知れない限界状況の中で絶望しかかっているという設定ではない。
よくある暇な毎日の中で、なんか知らんが元気をなくしている歌ばかりなのだ。

そりゃ、心弱ることは誰だってあるだろうし、
よほど単細胞でない限り、滅入ったり落ち込んだりすることは当然ある。
そんなときに叱咤されても耐えられない、というのは、わかる。
静かに寄り添って「キミは悪くない。きっと良くなる。心配しないで」
と共感して貰うことが慰めになることはある、と私だって知っている。
ふと一曲、そういう歌が出てきたのなら、私だって聴き入ったかもしれない。
しかし出て来る歌がどれもこれも、ヘナヘナしているのは、どういうわけだ。
なんだってこんなに腰砕けな歌ばかりが肯定されるのだろうか。
気持ちが高揚し活力が沸いて来るような、生命力に満ちた歌が全くないとは。

フニャフニャした歌を毎朝毎朝聴いていると、私はだんだん苛立って来る。
あなた方!健康な若いもんが、そんな甘い世界を浮遊していて、どうするのだ!
どこかで立ち上がらなかったら、何も打開できないのではないか。
いつもいつも、誰かが手を替え品を変え、労り続けてくれるわけがない。
子供じゃないなら、自分で何と何が問題なのかちゃんと見極めて、
できることはする、現段階で無理と判断したら諦める、
そして気を取り直して今やれることから片付けて行くしかないだろう。
うつむいていれば、優しい解決が向こうからやって来るなんて
そんなヌルい話があってたまるか。
なんでアタシばっかり?ってのがデフォルトだくらいに思わないと。
皆、困った問題は常にあって、いろんなことに不満なまま、
あれこれ我慢して生きてるというのが、普通だし、まっとうなんだよ!
ちったぁ、モヤモヤを自分で蹴散らしたろうと思わんのか。
ああ、イマドキの若い者は!

……と明治の「じさま」みたいなことを思いながら
♪あーたーらしーいー あーさが来たっ
と『ラジオ体操の歌』でようやく溜飲を下げ、
憮然として、ひとりラジオ体操を開始する、転妻なのであった。

うぅむ、認知症になった自分の言動が容易に想像できるな(--#)。

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