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軍隊手帳 8/15

2024-08-15 23:33:00 | Weblog

終戦記念日は亡父の誕生日です。大正九年生まれ、生きていれば104歳ですが、私が二十歳の時に亡くなっているので30年以上経ってます。なので、大人になってから父と話したことがありません。

父の遺品の軍隊手張です。第2次大戦まで日本には徴兵制がありましたが、一般人でも必要に応じて召集されれば、戦地に赴かなければなりません。出征した後は、常にこの手帳を紛失せず携行せよと記載されております。

父は昭和十九年に24歳で招集され、博多から釜山に渡り、満州に赴きました。昭和十九年と言えば、中国の南方地域に戦力を移動せざるを得ない状況であり、昭和二十年の終戦の前年、戦況悪化の一途を辿る中、何を思い戦地にいたのか?戦争とはどういうものなのか?全く聞いたことがありません。喋りたくなかったのでしょうか。

軍隊手帳によれば、生きて国に帰れないことを前提とし、遺言を準備しておけ、遺骸が帰ることはないと思え、というような内容。帝国軍人としての心構えは、かくも非情なものだったのですね。

昭和二十年日ソ不可侵条約を破棄し、ソビエトが対日宣戦布告、樺太、千島列島、朝鮮、満州国に侵攻。父がどのタイミングで大陸から引き上げてきたかは分かりません。昭和二十年の3月まで任務にあたっていた記録はありますが、それ以上のことは分かりません。

鈴木家で言えば、たった一代前のことです。そんなに昔のことでは無いはずなのに、自分の記憶から薄れていくのも悲しいことです。お国のためと言って多くの若者が戦地で亡くなり帰ってこなかった。多くの一般人も戦火に巻き込まれた。世の中に良い戦争なんて無い。

自分にとっての一番至近距離で感じた戦争は、パキスタンのペシャワールで訪れたアフガン難民キャンプですが、劣悪な環境下のあの臭いが、今でも思い出されます。

「岸壁の母」二葉百合子、92歳歌声健在なり

父は、夏になるとこのレコードをかけて聞いてましたね。大陸から帰って来れなかった人たちが、どれほどいたことか。

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