10月4日の仲秋の名月はきれいでした。自宅の庭から。
少し前に誕生日を迎えて49歳になってしまった。
40歳を過ぎてから齢を取るスピードがどんどん早く感じられたような気がします。
今よく思うことは、自分では若い頃の気持ちと変わっていないけれど、人から見た時に49歳のいい齢した大人で、それなりの態度、生き様を求められるということです。
若い頃はその辺りのギャップはないけれど、齢を取るごとに気を付けないと世間が見る目と自己とのギャップが大きくなっていきます。そんなことを常に気を付けておかないといけないことは、情けないことだと思っています。
誕生日の日に、息子が49歳になった父から、母の齢を超えることができそうで安堵したかのようなメールがきた。
安心するのは、母と同い年である49歳が終わってからではないのかと思いましたが、いくら体質を受け継いでいるからといって、同じ齢で亡くなるとは限らない。
でもそういうことを心配してもおかしくない齢になっているのは確かで、当然齢をとるごとに死は近付いている。
もし自分が死んでしまったらどうなるのだろう。
世の中は何ごともなかったように流れていって、私は万年筆の歴史の中に埋もれていって、一部の人の記憶の片隅にだけ残るのだろう。
子供は神奈川で教師をすることが決まっているので、何も心配していないけれど、妻は私がいなくても生きていけるだろうか。
スタッフの二人は協力してやってくれると思っているけれど、店は続いていけるだろうか。
本当は何も変わらないかもしれないし、私がいなくても何事もなかったように全ては動いていったらそんなに素晴らしいことはない。
しかし、そうするにはまだまだ準備不足で、ずっと先かもしれないし、明日かもしれないので、考えておかなければならないとことだと思っている。