京都平安ホテル(御所の西側)で
「日朝友好交流の集い・金日成生誕105周年記念」
主催:集い実行委員会・日朝友好京都ネット
第一部 講演:有馬頼底 臨済宗相国寺派管長
日朝芸術講演「友好の舞台」
第2部 友好交流の宴
京都日朝協会から、大橋満、馬原郁、大橋美津子が参加しました。
①、有馬頼底講演(会場で頂いたパンフに本日の講演によく似た「新春講演」が載っておりましたのでそれを掲載させていただきます)
②、友好の舞台プログラム
③、日朝協会を代表して挨拶:大橋満 私と日朝
私は日朝協会 (東京本部) 代表理事の大橋満です。
本日の日朝友好促進・交流の集いと金日成主席生誕105周年記念にあたり、心からお祝い申し上げます。本日は、妻の大橋美津子と馬原郁さんと一緒に参加させていただいております。
「私と日朝友好」に関連して、一言ご挨拶申しあげます。
私は1961年から56年間、微力ながら日朝韓友好促進のために努力してきました。始めたきっかけは、中学時代に、机を並べて勉強した朝鮮の友人がいたからです。
私は1968年9月18日、28歳のときに朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会から、日朝両国親善の発展に尽くしたと「共和国勲章とメダル」をいただきました。 当時金日成主席は56歳でした。
その当時、京都朝鮮青年同盟の委員長は呉鳴夢さんでした。呉鳴夢さんは、今でも一番大切な友人です。
私は「民族教育を守る」運動に微力ながら協力してきました。
それには2つの理由があります。一つは、安倍政権が国連憲章や 日本国憲法を守らない不法な政治を行い、大切な「民族教育」を破壊していることが 許せないからです。
2つ目は、1946年、金日成将軍が、平壌の日本人「民族学校」に多大な援助をしていただいたことを知っているからです。
共和国の龍山墓地、墓参団の団長だった佐藤知也さんが 「平壌で暮らした12年の日々」という本を出版されましたが、その中の、1946年12月26日の日記に、戦後すぐに帰国せず平壌に残った日本人が「平壌日本人人民学校」を開校しました。そのとき朝鮮当局は、机・椅子・黒板・オルガン・文房具類を十分そろえてくれました。当時金日成将軍は34歳、月給が4000円でした。さらに産業局から230万円。財政局から200万円いただきました。半年後の6月2日には、中学校も開校しました。と書かれています。
1946年といえば朝鮮民主主義人民共和国が建国前の大変困難な時期だったのに、日本人の民族教育に暖かい援助をしていただいたのです。
私たち京都の日朝協会は、日朝友好を深く理解するために有馬先生のお話にもありましたが「京都と朝鮮の歴史」を勉強しています。
現天皇は、日韓ワールドカップが開かれた年の記者会見で「日本と韓国の人々の間には、古くから深い交流がありました。韓国から様々な文化や技術が伝えられました。桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べています。
私は、朝鮮を侵略した、豊臣秀吉や明治や昭和天皇は大嫌いですが、京都に都を造った桓武天皇と朝鮮から来られた秦氏一族は大変立派な方だったと思っています。
だから京都に住んでいる私達が、秦氏一族の功績をたたえ、日朝友好を進めることは歴史にかなった生き方だと思うのです。
5月9日、韓国で革新的な大統領が選出され、新しい歴史が始まりました。朝鮮半島を平和な地域にするために、関係諸国がもっと積極的に、話し合いの場をつくり、停戦協定を「平和協定」に変え、日朝国交正常化を実現させなければなりません。
日朝協会は、草の根から平和な朝鮮半島と平和な日本をつくるために頑張っていく決意です。
5月17日、総聯が「総聯、民団5・17共同声明」発表11周年に際して すべての在日同胞に送るアピールを発表されましたが、私たちも大歓迎です。
これからも日朝友好のためにがんばっていく決意を申し上げご挨拶といたします。 カムサハムニダ
2017年5月20日
日朝協会(東京本部)代表理事 大橋満