みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

悩める漱石

2020-01-18 13:36:44 | 
長谷川櫂(1954~ 俳人)が岩波書店1月号に「悩める漱石」と題した一文を寄せている。俳人らしいというか、簡潔で印象的な文章だ。以下、抜粋する。

漱石は正岡子規と同じ慶応三年(1867年)生まれだから、明治の年数が満年齢と一致する。漱石は東京、子規は四国松山の生まれだが、一高(第一高等中学校)で出会うと生涯の友となった。しかし、子規が明治の国家主義の優等生として生きたのに対して、漱石は国家主義からの自覚的な脱落者となった。

漱石を明治の脱落者にした決定的な要因はロンドン留学だった


明治三十六年(1903年)一月、帰国した漱石は鬱々と過ごす。親友の子規は前年秋、世を去っていた。輝かしい明治の青春は子規とともに過ぎ去り、時代は日露戦争(1904~1905)へと動いていた。

日露戦争の最中、高浜虚子は漱石の気を晴らそうと朗読会(山会)の文章を書くように勧めた。そうして生まれたのが最初の小説『吾輩は猫である』である。『猫』は世の中を皮肉に眺める苦沙弥先生と仲間たちの物語である。

明治四十年(1907年)、漱石は東京帝国大学の講師を辞めて朝日新聞社に入る。官職を投げ出して一新聞社の社員となるなど、これも当時としては非常識な反国家的な選択だった。しかし明治の脱落者の烙印が何より鮮やかに見てとれるのは『三四郎』(1908年)の一節だろう。


(主人公の小川三四郎が列車で乗り合わせた髭の男が、日本はいくら日露戦争に勝っても駄目だ、という話をするので、)三四郎は、「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。

日露戦争の勝利に浮かれる日本人の頭に冷や水を浴びせる髭の男は漱石その人だろう。「亡びるね」。この一言は日本がこれからたどる過酷な歴史、第二次世界大戦、広島と長崎への原爆投下、焼け跡で迎える敗戦、そして現代の末期的大衆社会の滑稽な惨状まで見透かすような不気味な予言である。

   菫程な小さき人に生れたし

明治三十九年(1906年)、日露戦争の翌年の作。漱石の心の奥に鬱々と眠る夢を取り出したような句である。小さな菫の花とは明治の国家主義から外れた漱石のささやかな理想だった。


ただし私は、現代日本の惨状を「滑稽な」と形容する長谷川櫂の心情には共感できない。



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