まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第7番「岡寺」~西国三十三所めぐり3巡目・8(岡寺の紅葉)

2019年12月12日 | 西国三十三所

万葉文化館を見学した後、岡寺の入口にある鳥居にやって来る。ここから坂を上っての寺参りである。

山門に着く。この前の2巡はいずれも夏の暑い時季だった。秋に来るとまた違った景色を楽しめる。

境内の鐘を撞いた後、本堂でのお勤めとする。中での撮影は禁止なので外からの画像しかないが、外陣に上がり、本尊の如意輪観音とご対面。高さ4.85メートル、塑像としては日本最大とされている。弘法大師が日本、唐、インドの土を混ぜて制作したとされ、岡寺を開いた義淵僧正の徳を讃えたものと言われている。この像と対面のうえお勤めである。

これまでにも内陣に上がって阿弥陀如来や三十三所の観音像は拝んだことがある。今回の秋の特別拝観では、内々陣の扉を開放している。人1人が体をかがめて覗き込む形だが、如意輪観音が手の届くところにおわす。ちょうど左斜め下からお顔を見上げる位置だ。これはありがたみが増す。もちろん直に触れることはできないが、水晶玉が間にあり、これを通して本尊と縁を結ぶことができる。

ちょうど私の後に団体が2組やって来た。1組は某旅行会社主催の巡拝ツアー。もう1組は女性の講のような感じのグループである。旅行会社のツアーは聞きなれた順番によるお勤めだが、講のグループは観音経偈にご詠歌も一通り行っていた。私も2巡目以降観音経偈を取り入れているが、ご詠歌まではできていない。たんに歌の文字を読めばよいというものではなく、節回しも求められる。となると独学は難しく、誰かに教えをいただくことになる。

先達用の納経帳への1300年記念印がまだだったのでいただく。先ほどの巡拝ツアーからも、先達用納経帳への朱印を自身でいただきに来る人が何人かいる。

さてこの後は境内を一回り。まずは奥の院の洞窟にて弥勒菩薩に手を合わせる。

一周ルートは義淵僧正の御廟を通って三重塔に続くが、この間にもみじのトンネルがある。訪ねたのは11月末だが、まあまあ見頃というところ。先ほどの本堂を見下ろすのだが、紅葉の間にお堂の瓦が浮かぶ姿も風情がある。画像ではなかなか上手く写せないのだが・・。

最後に弘法大師堂に手を合わせて一周したが、先ほどいた団体の姿はとっくになくなっていた。奥の院やもみじを見た様子もなさそうだ。巡拝ツアーはあくまで観光ではなくお勤めがメインであり、時間の制約があるのはわかるが、もう少し寺で時間を作って自由に散策してもよいのではと思う(もちろん、そうした余裕があるツアーやコースもあるのだろうが)。

岡寺を後にして岡寺前バス停に出たが、次のバスは橿原神宮前駅行き、飛鳥駅行きの両方にも中途半端な待ち時間である。かと言って他の観光スポットに行くのも中途半端だし、周りにも時間をつぶせそうなところが見当たらない。

ならば、飛鳥駅まで歩くか。真夏で汗だくになる季節でもないし、地図を見れば案外近いものである。そこで、川原寺や橘寺、亀石に天武・持統天皇陵などを眺めながら過ぎる。岡寺前のバス停からは徒歩30分ほどで飛鳥駅に着いたが、ちょうど飛鳥駅行きのバスが岡寺前を出たタイミングであった。

さて帰りはいったん藤井寺を素通りして阿部野橋に出るとして、普段乗る機会がない特急に乗る。まあ、15分おきに列車が出るが、特急と急行が交互に出ていて、次に来るのが特急だったこともあるが。

この形式の歴史も長い。近鉄はこのところ新型特急車両を積極的に投入している。なお南大阪・吉野線には「青の交響曲」があるが、あれはあくまで通勤型車両の改造。

その近鉄の新型特急といえば2020年3月から「ひのとり」が名阪アーバンライナーとして順次投入される。このお出かけの後12月に入って、先行の試乗会(有料・無料)、お披露目会が2月に行われることが発表された。抽選による参加とのことで、無料の試乗会、五位堂車庫でのお披露目会のそれぞれにエントリーしたのだが、果たしてどうなるか。なお応募は一人1口限りで結果は1月下旬にわかるそうだが、倍率もさぞ高いのだろうな・・。

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第7番「岡寺」~西国三十三所めぐり3巡目・8(万葉文化館と全国一の宮)

2019年12月11日 | 西国三十三所

11月27日、この日は所用のため有給休暇を取得。用事そのものは午前中で終わったが、さて午後の時間をどうするかである。

天気は青空とはいかず雲が広がっているのだが、ここは西国三十三所の「ちょこっとお出かけ」ということにする。札所めぐりでは西国四十九薬師めぐりもあるのだが、次の行き先は和歌山の海南ということで、これは休日に改めて午前中から行きたいところだ。

地図を見て、そういえば先日壺阪寺に行ったこともあり、今回はその隣にある岡寺はどうだろうかとなる。こちらもちょうど秋の特別拝観中ということで、本尊の塑像の如意輪観音像を内陣にて拝観することができるという。紅葉も見頃を迎えているようだ。

昼間の列車にて藤井寺から橿原神宮前まで移動する。岡寺へは橿原神宮前駅から飛鳥を周遊する路線バスで行くのが便利。もっともこれまでの2巡の訪問では、最初が飛鳥駅のレンタサイクル、次が橿原神宮前駅から飛鳥駅まで全て徒歩移動だったから、バスに乗るのは初めてである。

橿原神宮前に近づくと、駅前に結構な人だかりができているのが見える。また列車を降りて改札や京都線ホームに向かう通路にも人があふれていて、警備の数も物々しい。ニュースを見ていなかったのでこの時初めて知ったのだが、ちょうど前日から天皇皇后両陛下が関西に来られているそうだ。一連の即位の礼や大嘗祭が終わったことを皇室の御先祖に報告するということで、前日に奈良に入り、この日は橿原の神武天皇陵に参拝。この後京都に移動して孝明天皇陵、明治天皇陵に参拝するために近鉄特急で移動されるという。それを見送ろうと待つ人々である。

西国めぐりと橿原神宮前で思い出すのは、以前に長谷寺に参詣しての帰り、「全国豊かな海づくり大会」に臨席のため奈良に来られた現在の上皇ご夫妻に遭遇したことがある。今回も急ぐわけでなし、新たな天皇皇后両陛下の姿を直に見ようかとも思ったが、時間ももう少し後のようだし、まあいいかなということでそのまま改札の外に出る。駅の周囲も制服・私服姿の警察官であふれている。見送りの人については混乱を避けるためかエリアが決められているようだ。

乗るのは橿原神宮前から飛鳥のスポットを回って飛鳥駅に行く周遊路線バスの「赤かめ」。平日ながらそこそこの乗車があるが、運転手に「万葉文化館に行きますか」と確認する姿が目立つ。万葉文化館は過去に訪ねたことがあるが、何人も「行きますか」と確認するということは、この日何か特別な行事でもあるのだろうか。まさか天皇皇后両陛下が万葉文化館に来るというわけでもないだろうが、万葉文化館といえば「令和」改元で注目された万葉集に関するスポットである。岡寺に行く前に私も立ち寄ることにする。

バスで30分近く揺られて万葉文化館に到着する。同じバスから20人くらい、車内のほとんどの客が下車したのだが、皆さんがやって来たのは「万葉集を読む」という月例の講座のようである。平成の時から講座じたいは行われているそうだが、やはり令和になってから受講する人も増えているとか。ミュージアムショップにもさまざまな書籍が置かれているのだが、やはり令和を意識したものも目につく。またこの元号を考案した中西進氏の著作も過去のものも含めて結構並んでいて、私も思わず1冊買い求める。先に「積ん読」状態の本が何冊かあるので、開くのは少し先のことになるが。

乗客のお目当ては万葉集ということだったが、当初は何か特別な展示を目当てに来る人が多いのかと思っていた。現在開かれている企画展は「全国一の宮展」というもので、西田眞人という日本画家による全国の一の宮を描いた作品展である。これはこれで私は興味を引いたので入ってみる。

西田さんは神戸市出身の日本画家で、「端正で清潔、透明感あふれる日本画」、「詩情あふれる独自の世界を表現する気鋭の画家」などと評される。その作品はこういったもので(撮影可)、日本の他にイギリスの田舎の風景なども作品にしている。そんな中、2010年から新たなテーマとして全国の一の宮をめぐり、独自の世界観を描いている。

全国一の宮。日本の六十余州のそれぞれに一の宮がある。これは朝廷や国司が制度として定めたものではなく、由緒ある神社、多くの信仰を集めている神社の最上位をいつしか一の宮と崇めるようになった。また時代の移り変わりもあり、一つの国に複数の一の宮がある。そのため、現在は北海道や沖縄も含めて全国で101社ある。ミュージアムショップに全国一の宮のガイドブックがあったので購入したのだが、これを全て回るとなると実に大がかりなことかと思う。「日本百名城」よりハードかもしれないと感じた。

一の宮に当たる神社はこれまでに訪ねたことがあるところもそれなりに含まれているが、今のところは意識していないとしても、もし改めて「全国一の宮シリーズ」としてサイコロで行き先を決めるとなると、相当壮大なテーマとなるだろう(さすがにそこはサイコロで決めなくてもいいのでは?神社だからおみくじ方式にするとか・・・って)。

大和の国ということで三輪の大神神社を描いた作品がメインに展示されている。またこれに関連して大神神社ゆかりの遺物や史料もあり、信仰の歴史も紹介している。

そして北から順に、作品となったもの、その下絵としてスケッチされたものが並ぶ。単に風景を描くのではなく、そこに詩情を挟むことができるのも絵画ならではである。まだ101社全てを作品化しているわけではないそうだが、いずれはその国の風土を感じられるとして一の宮を回るのも面白いかなと思う。

この後は人形や歌劇で万葉や歌の世界を紹介する「万葉劇場」や「歌の広場」を見て、万葉文化館を後にする。ここまで来れば岡寺もほど近く、歩いて向かうことに・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~帰りは「びんごライナー」

2019年12月09日 | 中国観音霊場

尾道からの帰阪は鈍行乗り継ぎでもよかったのだが、いろいろな交通機関に乗ろうということで、高速バスの「びんごライナー」を選ぶ。初めて利用するバスである。

大阪と福山、府中、尾道を結ぶ路線で、このうち尾道便は1日2往復ある。中国バスと近鉄バスの運行で、やって来たのは近鉄の車両。尾道駅前からは5~6人が乗り込んだが、乗務員の手元の予約表を見ると、この日の乗客は定員の半分にも満たないようだ。

先ほどまで歩いた町並みを両側に見て、向島大橋の下をくぐる。この辺りも乗車扱いの停留所が続くが乗客もなく通過する。

バスはこの先福山駅前に向かうため、尾道バイパスに乗る。昔広島勤務時代にこのバイパスもドライブで何度も通っている。短いトンネルが結構あったなと思い出す。

バイパスの終点からそのままこの2号線に入る。福山の市街地に入り、芦田川にかかる神島橋を渡る。ちょうどこの芦田川沿いに、今回飛ばした第8番の明王院があり、反対側の車窓(河口側)にそれらしき建物がちらりと見える。福山を飛ばす形になったのは申し訳ないが、次回はこの神島橋からスタートとなる。

福山駅に到着。予定より早く着いたようだが、バス乗り場は他の便も発着するために停めることができず、いったんロータリー内のバス待機レーンに駐車する。10分近く停まっていたが、もちろん外に出ることはできない。

時間となって乗り場に入る。ここから乗客があるが、中には予約なしや、後の便からの変更で乗って来る人もいる。先に予約客を乗せ、その後でこうした客を案内しても席には十分余裕があった。福山市内でもいくつか停留所はあるが、もう多くは乗らないだろう。

福山駅を出て、国道2号線を走るうちに日が落ちてきた。時間帯のせいか渋滞している。洋服の青山の本社、本店の横を過ぎる。

福山東インター近くの広尾で最後の乗車があり、山陽自動車道に入る。バスはこの後山陽自動車道~中国自動車道を走り、伊丹空港、東梅田、そして終点の難波(湊町バスターミナル)に着く。定刻だと東梅田には20時45分、難波には21時10分に到着だから、尾道からだと5時間の長丁場だ。

外は暗く、時折遠くの街の灯りが見えるくらいだ。写真もブレまくりなので走行中の画像はない。先頭の席で隣も空いているので、運転気分で走行景色を楽しむ。路線バスだが結構車線を変更して他車を追い越して行く。

最初の吉備サービスエリアで1回目の休憩となる。福山市内の渋滞の影響で15分ほど遅れているとの案内がある。

休憩時間もわずかなので買い物もそこそこだが、一角にイルミネーションが出ている。ドライブ中のグループや子ども連れが記念撮影している。SNSにも映えるかな。

この後はしばしウトウトした時間もあり、気づけば兵庫県に入っていた。鉄道の感覚なら海に近いエリアを走るのだが、これから抜けるのは山の手のエリアである。

2回目の休憩は三木サービスエリア。ここでは先ほどのような遅れの案内はなかったが、順調に来たのかな。同じくイルミネーションが出ていた。こうしたものが映える季節になってきた。

兵庫県に入った辺りでは中国自動車道の宝塚近辺の渋滞情報も出ていたが、進むうちに解消されたのだろう。神戸ジャンクションを過ぎても渋滞の場面はなく、順調に走る。

池田から伊丹空港に向かうが、降車客がいなかったために通過となった。降車の場合は北ターミナル側に着けるそうだが、ロータリーに入ることなくそのまま阪神高速に乗る。これでも時間短縮になる。

阪神高速も順調に進み、梅田を過ぎて守口線の扇町から出る。東梅田の降車場所は曽根崎通、お初天神商店街のところである(乗車場所は異なる)。結局定刻より10分ほど早く着いた。乗車券は難波まで買っていたが、このまま谷町線に乗ったほうが天王寺に早く着きそうなので下車した・・。

さて、1泊2日の行程が長々とした文になってしまったが、中国観音霊場めぐりはこの1回で5ヶ所を回り、一気に稼いだ形になる。この後、広島県はこの冬で福山1回、広島・宮島1回で回り、5月の大型連休から山口県に入ろうと考えている。その中にいろんな要素を加えようと思うが、さまざまな見聞を深めたいところである・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~持光寺(尾道七佛めぐり・満願)

2019年12月08日 | 中国観音霊場

尾道駅からほど近い持光寺。途中では猫もお出迎えするが、やはり駅から先にこちらを訪ねるほうが「順打ち」だと思う。そこを東の海龍寺から始めた理由は、納経所の時間がゆったりしているので、朝の時間を少しでも有効に使えないかと、とりあえず海沿いに歩いてみようということだったのだが、それでもせっかちな行動なのかな。

出迎える山門は延命門という。これまでになかった独特の造りである。持光寺の背後にある日輪山から切り出された花崗岩からできた門で、岩から出るパワーが延命長寿につながるという。岩といえば千光寺にもいろいろあったが、尾道というのは石の文化もいろいろある土地なのだなと感じさせる。寺が開かれたのは平安時代、慈覚大師とされていて、後に浄土宗の寺として今に至る。本尊は阿弥陀如来である。

持光寺と言うとピンと来ない方もいるだろうが、「にぎり仏」の寺といえばわかる方が多いのではないかと思う。手のひらサイズに収まる土の塊をギュッと握り、後で顔形を整えて自分だけの仏様をこしらえるものだ。後は窯で焼いてもらい、完成品を郵送してくれる。私もかつて一度体験したことがある。その像はとっくの昔にどこかに行ってしまったが・・・。

なお「にぎり仏」、昔からの伝統かと思っていたが、始めたのは2000年からという。これは知らなかったし、意外だった。住職は陶芸家の一面もあるそうで、制作の中で余った土を捨てるのがもったいないのと、土にも仏性があるからというので、仏様でも作ってみればということから始めたという。それが寺の町である尾道での貴重な体験として有名になった。だとすると、私が体験したのは「にぎり仏」が広まったばかりの時期にあたる。

本坊ではまさに「にぎり仏」の体験の最中で、畳の部屋だけでなく縁台にも観光客が出ている。私もどうしようかと思ったが見送り、ちょうど「にぎり仏」の対応をしていた寺の人に声をかけて、七佛めぐりのスタンプをいただく。ご利益は「延命祈願」。

途中経過を撮影していなかったので、スタンプの専用色紙の画像を載せるのはこれが初めてである。真ん中に七福神のように宝船に乗った佛たちがいて、7ヶ所回ったことで「満願成就」の印が押される。

さらに紙の掛軸もいただく。三つ折にして色紙のカバーになるし、広げれば壁にかけることもできる。帰宅後にそのようにして、尾道めぐりのよい記念となった。

尾道はさまざまな町歩きを楽しめる。今回は中国観音霊場めぐりと七佛めぐりを軸にしたが、訪ねていない寺院の中には隠れた名刹があるようだし、他にも文学にこだわる、映画の舞台にこだわる、あるいは猫を追い求めるという楽しみ方もある。また機会があればぶらつきたいものである。

時刻は15時前。5時間くらい要すると言われていたが、寄り道もあったので今回は6時間かかった。帰りの16時発の高速バスまで時間があるので、最後に尾道ラーメンをいただくことにする。バスには5時間近く揺られるし、夕食の時間にかかるので先に腹に入れておこう。

尾道ラーメンがだいたいどんな風味なのかはイメージがつくし、別にどこの店で食べようというお目当てはない。後で書く形になったが、そういえば尾道ラーメンの老舗とされる「朱華園」という店が、店の主人の健康上の理由で、今年の6月に「一時閉店」となったのを何かのニュースで聞いていた。昼食後に店の前を通ったのだが、貼り紙も寂しげ。ただ、尾道ラーメンがすっかり有名になり、他の店もいろいろ賑わっているのは朱華園のおかげも大きいのではないか。

今回入ったのは駅に近い「ベッチャー」という店。「ベッチャー」とは毎年11月初めに尾道で行われる祭りで、鬼や獅子の面をつけた氏子が神輿とともに町を練り歩き、手にした棒やささらで頭を叩いたり体を突いたりする。ただ叩かれたり突かれたりするとご利益があるという。店内には祭りの写真もあるし、BGMでお囃子が流れている。

注文の一品はオーソドックスな中華そばの味。もっともこの店は激辛にアレンジしたラーメンもあるし、普通のラーメンにも卓上の「尾道やくみ」をふりかけることで独特の味を出すことができる。七味唐辛子なのだが、そこに瀬戸内らしく小魚の粉末も入っている。そのために辛味プラス旨味を引き出すとあり、さまざまな料理に合うという。どこかでお取り寄せできないかな。

また長くなった紀行文だが、ようやく帰途に着く。もう一度尾道水道の景色を見てから、大阪行きの高速バスに乗り込む・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~天寧寺(尾道七佛めぐり)

2019年12月07日 | 中国観音霊場

千光寺から石段や坂道を下ると、重厚な感じの三重塔を上から見るポイントに出る。これが天寧寺の三重塔で、尾道の町並みをバックにしたこの塔も有名なスポットの一つである。ちょうど秋らしい風情だ。

天寧寺は室町時代、足利義詮の寄進で、普明国師により開かれた。この三重塔も建てた当時は五重塔だったのが、江戸の元禄年間に老朽化のため上の2層を取り払い、現在の形になったという。

この三重塔は今の寺の境内とは独立したように建っていて、境内にはもう少し歩いて行く。猫好きには「猫の細道」という一角もあるのだが、戻る方向になるのでとりあえず先に進む。こちら側から来たらそうなるのか、また境内の裏手から入る形となる。

本堂の扉を開ける。開創当時は武家の保護だったこともあり臨済宗だったが、江戸時代になると曹洞宗に変わったそうである。同じ禅でも臨済宗と曹洞宗の違いを私は理解していない。これまでの札所めぐりで出てきたのは多くが真言宗か天台宗の流れだったが、中国観音霊場めぐりとなると中世の禅の流れの札所も結構ある。またこうした教えは何ぞやということも勉強する必要がありそうだ。

境内の一角に五百羅漢が祀られている。この扉を開けるのは初めてだが、その向こうには思わずうなる景色が広がっていた。

総勢526体の羅漢たちのお出迎えである。五百羅漢が祀られているところはこれまでにいくつか出会っているが、天寧寺の羅漢はその中でも密度が濃く感じる。小さなお堂の中に密集しているからだが、先ほどの本堂で手を合わせると合わせるよりご利益がありそうだ。五百羅漢に見守られながらのお勤めとする。

納経所に向かう。本日は法事で住職が不在のため、朱印は書き置きでの対応とある。尾道七佛めぐりのスタンプは通常対応ということで寺の方に押していただいたが、もし中国観音霊場めぐりだったら、いつぞやの法界院みたいにまた出直さなければならないところだった。なお、七佛めぐりのご利益は「病気平癒祈願」。もっとも、病気平癒のご利益の由来は五百羅漢ではなく、本堂内に祀られていたびんずる(賓頭盧)さんだという。「さすり仏」として地元の人たちに慕われているそうだが、ごめんなさい、この時全く見ていなかった。五百羅漢の中にびんずるさんみたいな方(というか、見た目はほぼ同じ方ばかり)がいたということにしておく。

順序が逆だが山門から外に出る。石段の途中で山陽線の低いガードをくぐり、国道2号線に出る。残すは最後の持光寺だが、いったん商店街のアーケードに入る。こちらにもラーメン店や観光客向けの店が並ぶ。

このままいったん駅の出前まで進み、林芙美子の像の前から再び踏切を渡る。尾道七佛めぐりもあとわずかだ・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~第10番「千光寺」

2019年12月06日 | 中国観音霊場

尾道七佛めぐりの5ヶ所目、また中国観音霊場の「尾道3ヶ所」の最後となる千光寺に向かう。尾道でもっとも有名な観光スポットに挙げられるところだ。千光寺はこれまでにも何度か訪ねたことがあるが、今回は久しぶりのことだし、こうした「札所」としてお参りするのは初めてである。それだけに新鮮な感じがする。

地上から本堂もはっきり見えるし、あれくらいなら歩いて上れと言われるところだが、上りの片道はロープウェイで行く。まず千光寺公園のてっぺんまで上り、文学のこみちを歩いて下りながら寺に向かうことにする。ロープウェイは通常15分ごとの運行だが、この日は観光シーズンということで臨時ダイヤでの運行である。乗客がある程度いて、発車準備ができ次第出発するとあり、待ち時間もほとんどなく乗り込む。ちょうどどこかの社員旅行の団体がいたので満員である。

少しずつ高度を上げ、尾道の街、向島の姿が少しずつ広がる。この広がりはロープウェイならではだろう。3分ほどで頂上駅に着く。

まずはここからの展望ということで、展望台に上がる。もう少し空が晴れていればよかったのだが、それでも尾道水道のパノラマを楽しめる。あちこちで記念撮影しているし、そりゃ、恋人の聖地にも選ばれる。

さてここから文学のこみちを下る。その中でも有名なのが林芙美子の『放浪記』の一節、「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい」である。ちょうどロープウェイと尾道の町並みを見る場所に歌碑がある。ここから後ろ(上方)に振り返ると志賀直哉の『暗夜行路』の歌碑があるので、ベストポジションなのかな。この辺りに岩がゴロゴロ露出しているのは何か理由があるのだろうが、文学のこみちの中でも見所である。

境内の裏手から入る形で到着した。まずあるのは大師堂。千光寺は平安初期に弘法大師が開いたとも言われている。後に記録で残るところでは、平安中期に多田満仲が再興したとある。もっとも、こうした巨大な岩がゴロゴロしているところというのは、山岳修行者が好みそうなところだし、古代からの磐座だったのではないかとも言われている。そうしたスポットとしての歴史は寺の歴史よりもっと長いのだろう。道順でまずは大師堂で手を合わせる。係の人が「南無大師遍照金剛」と唱えて鐘を鳴らす。誰かが手を合わせる都度そうやっている。

続いて本堂に向かう。こちらは江戸時代の建造だが、舞台が崖の外にせり出している。大勢の人が次々にやって来るが、舞台のへりに立ってお勤めとする。すぐ後ろが舞台の端のため、何かの拍子に後ろによろめくとそのまま落ちそうで、結構ひやひやしながらのお勤めとなる。横ではロウソク、線香やお守りを扱う係の人たちが「おん ばさら だらま きりく」という真言と客の呼び込みを同時に行っている。やはりこれまで訪ねた七佛めぐりの寺にてもっとも賑わっている。

中国観音霊場の朱印と七佛めぐりのスタンプをいただく。七佛めぐりのご利益は「開運厄除祈願」、何でも来いのようだ。寺全体を見るとさまざまな祈願スポットがあるし、巨岩からは何かパワーというか「気」のようなものが感じられるので、開運厄除にもうなずける。

本堂の西に出る。するとこちらには「くさり山」というのがある。熊野権現と石鎚蔵王権現を祀るとして、石鎚山にある鎖と同じものが取り付けられている。元々、大正時代につけられたものだが太平洋戦争の時に鎖と鐘が金属供出されてしまった。平成になって改めて取り付けられ、一般の人も上れるようになった。

石鎚山といえば、私も四国八十八所めぐりの中で上った(普段登山の趣味はないのだが)。ただ、鎖だけは最初からパスした。鎖場を上らなければ修行にならないと言われればそれまでだが、やはり危ない。で、目の前の「くさり山」、高さは石鎚山ほどではないにしても挑むにはスリルがありすぎる。他の参詣者も上り口で見るだけである。

そんな中、ふいと手ぶらでやって来た若い女性が、躊躇することなく鎖に手をかけて、すいすいと上っていく。これには周りからも「すごいなあ」と感心する声が挙がる。

この後は西国三十三所の観音像が祀られるお堂に手を合わせ、少しずつ下っていく。観光、信仰、さまざまなものを含んだ千光寺の素晴らしさを改めて感じたところで、次は天寧寺に向かう・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~大山寺(尾道七佛めぐり)

2019年12月04日 | 中国観音霊場

西國寺を後にして、古寺めぐりの標識に従って尾道七佛めぐりの4ヶ所目である大山寺を目指す。寺としては初めて耳にするところで、尾道七佛めぐりとしてのご利益は「合格祈願」とある。

細い上り坂に出る。尾道らしい坂と言えば坂で、「れんが坂」という案内板がある。地面にれんがが敷かれているからだと思われるが、尾道の旅行記などによると「蓮華坂」と記したものもある。いずれにしても尾道らしい風情がある。

・・とそこに、猫が一匹前方から歩いてくる。首輪があるからどこかで飼われているのだろうか。やはり人に慣れているのか、逃げ出すとか警戒するとかいうことなく、こちらの足元にやって来て体をこすりつける。しばらくそうした後、悠然と坂道を下って行った。

坂を上りきったところに石段があり、大山寺の門に出る。入ったところに日限地蔵のお堂がある。日を限って日参し、一心に祈願すれば願いが叶うという地蔵菩薩だが、ここが本堂というわけでもなさそうだ。また横には庚申堂もあるが、本堂はその先にあるようだ。

その本堂といっても寺らしくない普通の建物で、扉も閉まっている。一応ここには本尊大日如来と観音像が祀られているというのでお勤めとする。ただ何か物足りないなと思い、改めて寺の案内板を見る。すると、大山寺というのは古くから「天神坊」と呼ばれていて、元々隣接する御袖(みそで)天満宮と「深い関係」があったという。この「深い関係」というのは、天満宮の別当寺だったということだろう。確かに奥に天満宮の社殿があるが、別に塀で仕切られているわけでもなく、紅葉につられてそのまま進むと入ることができる。

御袖八幡宮の由来について、日本語の他に手書きの英語での案内がある。菅原道真が大宰府に左遷される途中尾道に立ち寄った際、土地の人たちから酒や飯をご馳走になった。道真はそのお礼として着物の袖を破り、自身の姿を描いて与えた。道真の死後、祠を建ててその袖を祀ったのだが、それが後に天神様の信仰と合わさって天満宮となったという。だから大山寺と言ってもピンと来ない人でも、御袖天満宮と聞けば「あそこか」とわかる人も多いのではないだろうか。

ということで大山寺の尾道七佛めぐりの「合格祈願」のご利益というのもうなずける。納経所にて4つ目のスタンプをいただく。

帰りは急な石段を下りる。今回は東から坂道づたいに来たので石段を下りる形になったが、ここは西から参道に来て石段を上がったほうが風情がありそうだ。

その参道には、古い雑貨や看板、お宝写真などが表に並べられた怪しげな雑貨店がある。こうした店、観光地でたまに見かけるなあ。

続いては千光寺で、片道はロープウェイで上ろうと思う。ただ歩いてきて商店街の中心部に下りてきたことだし、時間も昼近くということでここで昼食とする。昼はラーメンかなと思いつつ、目についたのはお好み焼。商店街から一本入った路地にある「手毬」という店に入る。ここで注文したのは尾道焼きのスペシャル。定番の砂ずりのほかに、エビやイカが入る。しかもそばをダブルにしたものだから結構なボリューム感がある。

待つ間に、ご近所の常連とおぼしき方が相次いで入って来て、女将さんと話をしながらそれぞれ焼くのを待つ間に生ビールをぐいっとやる。美味そうだが、寺めぐりのまだ途中なので自重する。また、次に入って来た子ども連れは、「ジャンボ」を注文。2000円するが、見たところ3人前はありそうだ。グループならテーブル席の鉄板でこれをシェアするのもお勧めだという。「お兄さんなら一人で行けそうやね」と言われるが、いやいや。

肝心の味のほうは、焼き加減もよくすいすいと入る。砂ずりの独特の歯ごたえも2回目となると十分「あり」である。鉄板からヘラですくってきれいにいただいた。

さてお腹ができたところで、千光寺に向かう。朝と比べていっそう雲がどんよりとしてきたのが気になるが、七佛めぐりも残り3ヶ所である・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~特別霊場「西國寺」

2019年12月03日 | 中国観音霊場

浄土寺から西國寺まで、古寺めぐりの案内石を伝って歩く。先ほどは駅から海沿いを歩いてきたが、ここからは坂の町、いろんな細道をたどっていくのだろう。

浄土寺を出て間もなく、一つの銅像の前に出る。「西郷四郎逝去之地」の碑の横に立つのは柔道着姿の凛とした男。西郷四郎とは明治時代の柔道家で、小説『姿三四郎』のモデルとなった人物である。出身は会津だが、病気療養していた尾道で亡くなったことから像が建てられたとある。

ぶらぶら歩いて、やって来たのは大きな草鞋がぶら下がる西國寺の山門。江戸初期に建立されたもので、大草鞋の下には健脚を願う人たちの草鞋がたくさん掛けられている。そのはるか向こう、少しずつ見上げたところに三重塔が見える。先ほどの浄土寺と比べても伽藍の規模は大きい。

この時季は枯れ枝だが、咲いた時には見事であろう桜の枝が伸びる石段を上る。石段の脇には石灯籠が奉納されており、「問屋中」とか「干鰯仲買中」などと刻まれている。尾道の商人たちの信仰を集めているようである。「干鰯」という言葉に、鰯で生計を立てるどころか大儲けした人がいた時代を改めて感じる。

石段を上りきって、本堂にあたる金堂に着く。振り返ると先ほど歩いてきた町並みを見ることができて、西國寺が結構高い場所にあることがわかる。金堂とあるから、本尊は薬師如来である。中国観音霊場とは少し違和感があるが、お勤めとする。

西國寺は奈良時代に行基が開いたとされている。行基が諸国行脚の中で尾道に立ち寄った際、夢の中に加茂明神が現れ、そのお告げによりこの地にお堂を建てたそうだ。聖徳太子といい、行基といい、足利尊氏といい、尾道にはさまざまな人物が往来したものだと思う。ならば、弘法大師もどこかで出てくるだろう。

行基以降、平安時代になって火災で焼失したが、白河天皇の勅願により再建され、巨大な伽藍が築かれた。その規模が西国一という意味を込めて西國寺という名前になった。建物はその後に再建されたり新たに建てられたものばかりだとしても、改めて境内を見渡すと立派な石垣もあり、寺ではなく城だと言われてもうなずけるところがある。それだけ規模があるということに変わりはない。

金堂からさらに石段を上がる。その奥に弘法大師堂がある。中国観音霊場としてはここが「特別霊場」のお堂である。大師堂だから観音菩薩が祀られているわけではないようだが、やはり尾道にあって歴史的、規模的にも西國寺は何らかの形で取り込みたかったのだろう。ここでお勤めとする。

同じ敷地には毘沙門堂、不動堂と並び、その前には力石がある。尾道の港で働く男たち、時には力比べもやったようだ。

持仏堂に納経所がある。こちらで中国観音霊場の朱印と、尾道七佛めぐりのスタンプをいただく。有料でこの中の拝観もあるようだが、ここは別にいいかな。

ここまで来たのだから頂上にある三重塔まで行く。途中には四国八十八所のお砂踏みもあり、そこを抜けると工事中のようで、カラーコーンが通路の途中に置かれている。本当はその先は立ち入ってはいけなかったのだろうが、足元もぬかるんでいる中でその先まで進む。三重塔は、室町時代6代将軍の足利義教により建立されたものだが、その後修復されたのか古さを感じさせない。それにしても周りは土嚢もあるし、道もぬかるんでいるし、こういうところだったのかな。

金堂まで下りて来て、その理由はわかった。修復のための寄付を呼びかける案内板があった。それによると、2016年6月の豪雨で三重塔への参道が土砂災害に遭ったという。この豪雨は確か九州で大きな被害を及ぼしたと認識しているが、実は広島県でも記録的な雨量となり、こうした被害があちらこちらで発生したという。寄付をした人たちの名札が掲げられているが、今後もこうした災害に遭うリスクはあるだろう。

尾道といえば年間を通して穏やかな気候というイメージがあるが、地形だけを見ると狭い土地に、山の斜面にびっしり家屋や寺が密集する一帯である。古くからの寺が数多く残っているのは安全の歴史の証なのかもしれないが、今はどこで何が起こっても不思議ではない時代。地元の人たちも気が気でないだろう。

さて、西國寺の尾道七佛めぐりのご利益について書いていなかったが、「健脚祈願」である。単に石段が長いからというわけではなく、坂の町にあって、仁王さんのようなたくましい脚にあやかりたいという願いから来ているそうだ。それで草鞋を奉納するならわしがあるのだが、いやいや健脚を願うなら、まずはあの三重塔まで石段をダッシュして、合わせて山の中にある四国八十八所のお砂踏みをコンプリートせよ・・というのが、西國寺の本音ではないかと思う。まあでも、健脚祈願はどこに行くのにも大切なお願いである。

西國寺を終えて、尾道七佛めぐりも中間点に近づく・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~第9番「浄土寺」

2019年12月02日 | 中国観音霊場

海龍寺から山陽線の線路を左に見て、浄土寺の山門に着く。「十一面観世音菩薩」と一文字ずつ書かれた提灯がお出迎えする。

尾道でもっとも古い歴史を持つという浄土寺である。国宝の本堂もそうだが、その東に建つ阿弥陀堂とこれも国宝である多宝塔の並びも、尾道を代表する景色の一つと言っていいだろう。中国観音霊場の札所の一つに入るのも当然と思う。

本堂には自由に入ってお参りできるというので、外陣にてお勤めとする。また、本堂内陣や阿弥陀堂内部の拝観が有料(600円)で個人でも可という案内があるので外陣の受付に申し出ると、係の人は「あっ」という表情を一瞬見せたようだが、快く引き受けてくれた。中を案内していただけるそうだが、ちょうど七五三などの祈祷の準備の最中だったようで、忙しいタイミングで声をかけた形になったようだ。建物内は撮影禁止なので画像はないが、格子を開けて内陣に入れていただく。

浄土寺は聖徳太子が開いたとされ、寺には太子像も保存されている。聖徳太子は道後温泉も訪ねたようだし、その時は瀬戸内を通って天然の良港である尾道にも滞在したことがあっても不思議ではない。ただ浄土寺が確かな記録として出てくるのは鎌倉時代のことで、定證上人の手で中興したとされる。しかしせっかくの伽藍も鎌倉末期に落雷によるとされる火災で焼失してしまい、その後再建されたのが現在の本堂、阿弥陀堂、多宝塔である。だから今の建物は700年近く続く建物である。

本尊の十一面観音は秘仏のため厨子の中だが、改めて近い位置で手を合わせる。

歴史では足利尊氏との関係も深い。後醍醐天皇との争いの中で敗れた尊氏はいったん九州に逃れるが、その時に浄土寺に立ち寄り、勢力挽回を祈願した。そして九州で勢力を盛り返し、院宣を得て再び都に上る途中で再び浄土寺に参拝し、勝利を祈願した。この後の湊川の戦いで楠木正成に勝利し、これで天皇側と尊氏側の形勢が完全に逆転した。ここから南北朝の混迷が始まり、その後も争いは絶えないのだが、足利氏中心の世の中になったのは確かだ。本堂内の一角には、「ここの間で尊氏が必勝を祈願したそうです」と指差したところに足利尊氏の肖像画(複製)も祀られている。

本尊の後ろには不動明王が祀られ、両界曼陀羅が掲げられている。曼陀羅には多数の仏のそれぞれの名前が添えられていて、こうしたスタイルは珍しいのだとか。

渡り廊下を通って阿弥陀堂に向かう。こちらの内部の格子には「崩し卍」というのが施されている。目線から少し高いところに卍の文字をあしらった格子があるが、光の加減や見る角度によって卍の文字が崩れ、さまざまな模様に見える。科学的には光の屈折とか目の錯覚とか、緑と赤の対照とかによるものだが、そうした技法を700年以上前に駆使していたのにはうなる。

また阿弥陀堂は外の格子が全て取り外しができて、開放的な見せ方ができるそうだ。実際、今では毎年5月の後半に、阿弥陀堂を舞台とした薪能が行われ、この時は阿弥陀如来像も舞台背景の一つになるそうだ。もう何年も続いていて、地元以外からも鑑賞に来る人も増えているそうだ。

続いて本堂の裏から方丈、客殿に通される。こちらは江戸時代に尾道の豪商により建てられ、方丈の襖絵もきらびやかなものである。前庭の向こうには勅使門が残る。

一段高いのが金箔も用いられた上段の間。身分の高い人向けということで、昔からの寺の方丈にはよくあるものだ。エピソードとして、今の天皇陛下が昭和の時に浄土寺を訪ねたことがあるという。天皇陛下が中世の水上交通史を大学の卒論のテーマに選び、今でもライフワークの一つにしていることは知られているが、その一環なのか、浄土寺を訪ねて往年の史料を見たり、住職の説明を受けたことがあった。その時に上段の間に通そうとしたが辞退され、方丈の普通の間に座って説明を受けたという写真パネルがある。また後に秋篠宮ご夫妻が浄土寺を訪ねた際も、上段の間は辞退され普通の間だったそうだ。皇室の立ち位置やふるまいも時代によってさまざまだが、これまでに上段の間に座ったことがあるのは尾道を治めていた広島浅野藩の殿様だけだったという。

ここで係の人は離れ、客殿と庫裏は自由に見学ということで一通り回って本堂に戻る。

再び本堂の前に出る。七五三のご祈祷で僧侶が唱える観音経~般若心経の声がスピーカーを通して境内に響いている。結構早口だ。この時には参詣客の姿も増えていたし、浄土寺名物?のハトたちも参詣客のエサ目当てか結構な数がたむろしていた。
 
境内を見渡すと他にも諸堂あるし、足利尊氏・直義の墓とされる石塔もある。
 
さらに今の広島県やなと思うのが、包丁塚。この文字を書いたのが、当時大蔵大臣だった宮澤喜一・元首相。宮澤喜一自身の選挙区は福山ではなかったかと思うが、やはりここは池田勇人からの宏池会の流れを受ける広島県である。

さて朱印。中国観音霊場の朱印は、もう一度客殿に出向いて、朱印帳にいただく。一方で尾道七佛めぐりのスタンプは、境内のお守り授与所で押してもらう。尾道七佛めぐりとしてのご利益は足利尊氏にちなんでの「必勝祈願」。ご利益もそれぞれの寺の歴史を踏まえているようで、そうした出会いも面白い。

次に向かうのは西國寺。ここからは坂の上の小高いところの細道を縫いながら歩いて行く・・・。
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第8回中国観音霊場めぐり~海龍寺(尾道七佛めぐり)

2019年12月01日 | 中国観音霊場

尾道七佛めぐりの最も東にある海龍寺から始める。尾道駅からの古寺めぐりでは終点に位置するので、巡礼で言えば「逆打ち」ということになるのかな。

海龍寺は鎌倉時代に、隣接する浄土寺を開いた定證上人が曼荼羅堂として建てたのが始まりとされている。後に江戸時代になって浄土寺の塔頭寺院として現在の名前となった。こじんまりとした本堂で、まずは本尊の千手観音像に手を合わせてお勤めである。

ふと賽銭箱の横を見ると弘法大師や地蔵菩薩のパネルが飾られていて、「放火されたため復興へのご協力を」というお願いの紙が貼られている。何かあったのかと検索してみると、今年の2月に火災が発生し、本堂の裏にある地蔵堂と倉庫が全焼したという。幸いけが人はなかったが、中にあった仏像が焼失してしまったという。尾道ではその数日前にも飲食店街で火災があり、他にも不審火で燃えた形跡があったそうで、海龍寺の火災と合わせて放火によるものではないかとも言われている。

それらしき建物跡が本堂の裏手にあり、倉庫はプレハブの仮の建物があるが、地蔵堂は土台だけが残された形である。

また記事を読んでいくと、同じ2月に海龍寺に侵入し、仏像3点を盗んだとして尾道市内の男が3月に逮捕されたとある。インターネットのオークションに出品していたことから発覚したそうで、寺への放火の容疑でも逮捕されている。仏像を盗んだ証拠隠滅を図ったとされている。海龍寺も災難である。現在起訴されて公判中とのことだが、死傷者は出なかったとしても許せない行為である。

これだけだと悲運災難の寺としか見えないが、海龍寺には「文楽の寺」という呼び方がある。江戸時代後期の文化・文政時期に建てられたもので、人形浄瑠璃文楽座の創始者である文楽と、初代竹本弥太夫の墓がある。また、願いを込めてなでるとご利益がある「お経塚」というのもある。このことから、芸術や創作活動の上達祈願にご利益があるとして手を合わせる人も多いようだ。尾道七佛めぐりのご利益も「技芸上達」である。

納経所に向かう。尾道七佛めぐりは寺の町のPRにしようということでポスターも貼られている。朱印集めの方なら、色つき紙に本尊の朱印と墨書を記した「ご宝印」がおすすめであるが、もっと気軽にということで、専用の色紙にスタンプをいただくというのもある。それぞれの寺の文字、イラスト、ご利益が予め印刷されていて、そこにスタンプを押すもの。7ヶ所コンプリートすると紙の掛け軸をもらえ、部屋の壁に掛けることもできる。「ゆっくり行って5時間くらい」とのことで、「まあ、飴でもなめながらどうぞ」と、飴ちゃん一粒お接待をいただく。5時間後は14時か。バスが16時発だから時間には余裕がある。

次の浄土寺へは、石段を下りるとすぐに駐車場を通って境内に入るが、ここはやはり山門から入りたい。向島大橋や山陽線の線路を見下ろして少し歩き、中国観音霊場めぐりの札所である浄土寺である・・・。

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