まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

大型連休中~野球観戦前の博多での一時

2023年05月17日 | 旅行記H・九州

5月の大型連休の後半。暦の上では5連休で、当初の計画では4日に福岡でのホークス対バファローズのデーゲーム観戦後、九州八十八ヶ所百八霊場の前回のゴール地点である大分まで移動して宿泊、そして翌5日~6日にかけてレンタカーで大分県の札所を回ることとしていた。大分県も残り5ヶ所で、豊後大野に2ヶ所、臼杵に1ヶ所、津久見に1ヶ所、そして佐伯に1ヶ所である。5日は佐伯に宿泊し、翌日は県境を越えて宮崎県の2~3ヶ所くらい回れるかなと考えていた。

早々に宿やレンタカーを手配していたのだが、どうしても仕事の都合がうまい具合に行かず、5連休については4日の福岡行きは何とか死守したものの、結局5日は広島に居ざるを得なくなり、6日の朝移動で大分に向かい、6日~7日での巡拝となった。結局飛び石連休の形で、普通の土日に出かけるのと何ら変わりないが、大分からのレンタカー2日間利用と、6日の佐伯の宿は何とか確保することができたのでよかった。ただ気になるのは天気で、週間予報では6日~7日は西日本で雨の予報・・。

さてその前に、飛び石での休日となった5月4日である。ペイペイドームに向かう前にどこかに立ち寄ることにしよう。乗るのは広島6時43分発の「さくら401号」である。連休期間の中日、そして朝の時間帯ということで指定席も十分空席が見られた。徳山、新山口と停車した後に新関門トンネルで九州入り。小倉からはそこそこ乗車があった後、博多に到着。「さくら401号」は鹿児島中央行きで、むしろ博多から熊本、鹿児島方面に向かう客のほうが多かった。

博多に着いたのは8時前。ペイペイドームに向かうまでの時間をどう過ごそうかと、新幹線の中でもいろいろ考えていた。新しく博多まで開通した地下鉄に乗るとか、九州西国霊場めぐりの後でパスした九州国立博物館まで足を延ばすとか、海の中道から志賀島もいいかなとか・・・。

乗車券は福岡市内行きなので、とりあえず在来線乗り換え口から在来線ホームに出る。そして、門司港行きの快速に乗り、香椎で下車した。

2022年秋の九州西国霊場めぐりの時、福岡東部の札所を回るのに和白のホテルに泊まった。ホテルで日本シリーズのテレビ中継を観たというのもあったが、西鉄とJRの乗り換え駅として香椎を経由し、香椎宮にも参拝している。また、松本清張の「点と線」の舞台ともなったところである。駅周辺は開発により当時の面影はほとんどないそうだが、松本清張とも触れ合ったとされる桜の木は場所を変えて今でも乗客を出迎えている。

そんな駅前の理髪店で散髪する。香椎に来たのは、ちょっとこのところバタバタしていて散髪の機会がなく、合間の時間で刈っておくか・・ということもあった。

さっぱりしたところで西鉄貝塚線に乗る。天神から南に延びる西鉄各路線からは独立した存在で、軌間もこちらだけ狭軌である。ガタゴト走り、終点の貝塚に到着。そのまま改札を抜け、地下鉄箱崎線に乗り継ぐ。かつては地下鉄箱崎線と西鉄貝塚線を直通運転する構想もあったが(ちょうど西側で福岡地下鉄とJR筑肥線が直通運転しているが・・)、費用対効果が薄いとして凍結されたそうだ。

そのまま地下鉄に乗り、筥崎宮前で下車。午前中の途中下車スポットとして筥崎宮を選んだ。これまで参拝したことがなく、九州西国霊場めぐりの時は香椎宮に立ち寄ったが、私の頭の中で香椎宮と筥崎宮がごっちゃになっていたこともある。

地上に出るとそこは参道の一角で、そのまますぐに正面の鳥居に着く。福岡県には何度も足を踏み入れているが、筥崎宮が初めてとは・・。

筥崎宮は日本三大八幡宮の一つとされる。あと2ヶ所は宇佐神宮、そして石清水八幡宮である。遅くとも平安時代には創建されており信仰を集めていたが、筥崎宮が歴史の表舞台に登場するのは鎌倉時代の元寇の時である。博多の地、朝鮮半島、そして中国大陸との表玄関である。当時の亀山上皇が「敵国降伏」を祈願したとされる。

正面の楼門には「敵国降伏」の扁額が掲げられている。この楼門を建立したのは毛利氏の勢力拡大で豊前、筑前を治めていた小早川隆景だが、その際、亀山上皇の御宸筆を拡大して奉納したものだという。なお、この「降伏」とは、武力で相手に「参りました!」と言わせるのではなく、徳の力で相手を導き、相手自らこちらになびかせるという意味だという。もっとも、そんな理屈が通じる相手だったかどうかはさておき・・。

元寇、特に文永の役の時は筥崎宮の周辺も含めて元軍のなすがままになったが、暴風雨の影響で元軍は撤退、そしてその後築いた土塁、石塁により弘安の役では元軍を退けることができた。この時も暴風雨があったとされ、これらを含めて筥崎宮の「敵国降伏」が叶ったとされた。

小早川隆景の後は黒田長政に受け継がれ、現在まで海上交通、海外防護の神として信仰を集める。やはり必勝祈願のスポットであり、御神木の周りには福岡ソフトバンクホークスやアビスパ福岡などが祈願に訪れた際のサインが掲げられている。おお、これからペイペイドームに行く身としては格好のスポットだ。「めざせ世界一!」・・元軍よりも野望は高い。

ちなみに・・・この後訪ねた試合はホークスがバファローズにサヨナラ勝ち・・。福岡の神様側から見ればまさに「敵国降伏」であり、試合前にここで手を合わせた私に対して、バファローズファンからは「いらんことすんなボケ!!」てなもんだろう・・。

ふたたび地下鉄に乗り、中洲川端で下車。ここでもう1ヶ所と立ち寄ったのが「福岡アジア美術館」。アジアを対象とした美術館というのはそうあるものではなく、ここは日本におけるアジアの玄関口を自負する福岡ならではのスポットである。

企画展として「古代エジプト美術館展」が行われている(5月28日まで)。渋谷の「古代エジプト美術館」のコレクションを紹介するもの。古代エジプトと言われてもピラミッドくらいしかイメージできないのだが、先王朝時代を含めると3000年の歴史を持つ。

ここは展示物のあれこれを見て、ファラオ(国王)を頂点とする国家の営みや、古代エジプトの人たちの衣食住や死生観を今に伝える品々を通して感心するばかりである。エジプトは現在も砂漠が広がるが、そうした乾燥した土地だったから古代からのさまざまな品物がよい状態で出土するとされている。

エジプトといえば、テレビ番組の「世界ふしぎ発見!」とか、エジプト考古学者の吉村作治氏が連想されるなあ・・。

福岡アジア美術館の通常展示のコーナーに向かう。通常展示といってもさまざまな企画展、コレクション展と豊富にあり、アジアの近現代美術を広く取り扱っているのが特徴である。

アジア・・・日本や韓国、中国という東アジアもあれば(そして、中国の領土は広い・・)、ベトナムやタイ、インドネシアなどの諸国がある東南アジア、そしてインド、パキスタンを中心とした地域、さらには現在の中東やトルコといったところまで含まれる。それぞれの地域やお国柄が現れる絵画もある。

もっとも、いわゆる現代美術となると国境は関係ないようだ。一応、作品の紹介文を見てどこの国の作者なのかはチェックするが、それを確認したところでどうということもない。欧米よりもアジアにゆかりある方たちの作品ということで親近感を増すだけのことである。

インドネシアの「ケチャ」にまつわる作品も1コーナーとなっていた。

一通り鑑賞した後で地上に出る。この日(5月4日)は博多どんたくの最中である。博多の街全体がお祭り会場で、各地でさまざまなイベントが行われる。福岡アジア美術館も入るリバレインセンタービル前にはステージや屋台も出ていた。

また、少し先の博多座の前では、当日の上演を楽しみに訪れる客の前で「オッペケペー節」が舞われていた。外国人観光客含め、足を止めて見物する人も多い。「オッペケペー節」は、博多生まれの川上音二郎の出し物で、明治の自由民権運動に絡めた歌詞が当時大いに人気を博したそうだ。もっともこの演者、上流座敷での余興のように大人しい歌声で、こういう場ならもっとはじけてもよかったのではないかと思う・・。

そのまま地下鉄に乗り、唐人町で下車。大勢のファンとともにペイペイドームに向かった・・・。

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野球観戦の前に福岡市博物館へ

2021年10月23日 | 旅行記H・九州

10月10日、ホークス対バファローズの一戦を観るために福岡を訪ねた時のこと。試合開始が14時ということで、午前中にどこかに行けないかとあれこれ考えていた。福岡・博多を目的地とするのも久しぶりである。今回日帰りなので屋台などで一献・・とはいかないが(その分、ドームや帰りの新幹線で飲んだのだが)。

この日は広島7時35分発の「こだま833号」で出発。のんびり各駅に停まっていく。新下関では通過待ちのためしばらく停車する。

9時10分、博多に到着。この列車は引き続き博多南行きとして運転される。1駅乗ってもいいかなと思ったが、そのまま改札を出る。

さてどこに行こうかと思案した中で思いついたのが、福岡市博物館。博物館があるのは百道浜ということでペイペイドームからも近い。まずは博多駅前からバスに乗る。博物館へは地下鉄の西新から徒歩でも行けるが、せっかくなので外の景色も見たい。ちょうど、ペイペイドームも経由する系統である。まだ朝9時台にもかかわらずホークスのグッズを身に着けた人も見かける。

途中、都市高速から博多港の眺めも楽しみつつ、ペイペイドーム前に停車。ここで大半の客が下車。私はこの先の博物館北口で下車する。

博物館に到着。かなり昔の旅行で一度来たと思う。ただその当時からは展示コーナーも大きくリニューアルしているそうだ。

まず展示室の入口に流れるムービーでは、福岡を中心に日本地図がぐるりと回転する。そて南北が逆転する。以前に富山で同じような地図を見たことがあるのだが、こうやって南北を逆転させると、日本海を隔てた朝鮮半島、中国大陸、沿海州というのがより近くに感じられる。また南の台湾、フィリピンも含めると、福岡がアジア交流の窓口としての役割を果たしてきた歴史もうかがえる。

その歴史の初めに登場するのが金印である。志賀島で発見された「漢委奴国王」の実物が常設展示されていて、博物館のシンボルといってもいい。金印、私も昔持っていたなあ・・レプリカだが。というのは、小学生の時、学研の「日本の歴史」の漫画シリーズを集めていて、全巻の応募券を送ると金印のレプリカがもらえるというのがあった。金属でできて金メッキが施されていたが、重さもずしりとして、それも含めて再現したものと思う。捨てずにとっておけばよかったな。

それ以前から大陸とのつながりがあり、稲作もいち早く伝わり、板付遺跡のような環濠集落も築かれた。そして個々に発展していた村々が統合され「国」が形成され、その中の一つが金印をもらった奴国であった。

時代は大和政権となり、大宰府、鴻臚館に移る。海外からの使者をもてなし、また遣唐使が出国、帰国する時の宿泊所だったのが鴻臚館である。遣唐使が廃止された後は交易の拠点となったが、やがてその役割は博多に移る。鴻臚館跡には後に福岡城が建ち、さらには平和台球場も建設された。その球場の改修時に行った発掘調査で大規模な建物跡が見つかったことで当時話題にもなった。

博多が交易都市として栄えていたところに起こったのが元寇である。ちょうど博物館のある辺りでも激戦が繰り広げられた。その様子を描いた「蒙古襲来絵詞」があるが、模写がケースで展示されるほかに、その全巻を大型ディスプレイで見ることができる。

室町時代になると博多は本格的な国際貿易の拠点となったが、戦国の争いの中で大きな被害を受けた。それを再興したのが豊臣秀吉だが、それは朝鮮出兵の兵站とするためだったというニュアンスで紹介されている。

関ヶ原の戦いの後、昔からの交易都市だった博多に加えて、黒田官兵衛、黒田長政が新たに城を築いた福岡という「双子都市」となった。その名残は今にも続いている。

時代は江戸から明治へと続くのだが、ここまで展示を見た中で思ったより時間が経っていて、少しペースを速める。

一気に時代は戦後となる。福岡中心部の商店街、街頭テレビに流れるのは皇太子ご夫妻(現・上皇ご夫妻)の結婚パレード、そして西鉄ライオンズの活躍である。ライオンズのユニフォームのレプリカも並ぶ。24は稲尾、3は大下、6は中西、5は仰木・・・これも福岡の歴史である。

また、祇園山笠をはじめとした伝統行事や町人文化についても触れられている。

展示室の最後には「博多手一本」のコーナーがある。福岡・博多では宴席の締めでよくやられるものだそうで、ディスプレイに登場するのは昨年亡くなった小松政夫さん。お見送りの言葉があり、そして最後に「博多手一本」。博多出身で「山のぼせ」(山笠に夢中になる人)ということでの登場である。

この後別館で「日本号」の展示を見る。「日本号」とは槍の名前だが、黒田家の家臣・母里太兵衛友信が福島正則から「呑み取った」もので、「黒田節」の由来ともなった。刃の中央に俱梨伽羅龍の浮彫があり、また一部に傷がついていて実戦でも使われたのではと推測する解説文も添えられている。

駆け足で展示について紹介した文章になったが、地域の長い歴史を感じられたし、それこそじっくり見学したなら丸一日かかるといっていいくらいのボリュームがある。それでいて常設展示の入館料は200円とお得である。帰りには公式ガイドブックも買い求め、足りないところはその解説を読んで福岡・博多の歴史に親しむこととする。

この後は徒歩でペイペイドームに向かった・・・。

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宇和島運輸フェリー乗船~初めての「九州から四国へ」

2021年01月12日 | 旅行記H・九州

話は1月3日の昼間のこと(正直、長い)。

思い立って広島から本州~九州~四国~本州という循環の旅に出て、ようやく九州から四国へと渡る。私にとっては初めての九州から四国へのルートである。

九州と四国を結ぶ航路はいくつかある。今回はその中でポピュラーといえる別府~八幡浜に乗る。他には臼杵~八幡浜、佐賀関~三崎、そして小倉~松山の夜行フェリーがある。また、この別府~八幡浜も深夜便では翌日5時30分まで船内休憩ができて、一夜を明かす手段として使える。また機会があればこうしたフェリー、航路にも乗ってみたいものだ。

先の記事で、14時00分発の便を13時00分発と勘違いしていたことを書いたが、時間をよく確かめて乗船名簿に記入して乗船券を購入する。2等3150円のほかに、1等5770円、特等8920円というのもある。2時間45分の航海だが、1等、特等とこれだけ料金差があるのなら相当いい設備なのかなと思う。ここは普通に2等の乗船券を購入。

今回乗るのは「フェリーえひめ」。桟敷席がメインで、後は若干のソファー席がある。くつろぎメインの航路のようだ。例年だと乗船客も多いのだろうが、桟敷も混雑する感じではなく、寝転がれるだけのスペースを余裕で確保できた。家族連れ、カップルも何組かいたが、ゆったりとできるようだ。

出航の様子を見よう。売店で、大分のかぼすを使ったハイボールをいただく。飲み鉄、飲み船である。船のほうが開放的なので「飲み」のハードルは低いように思う(私が勝手に下げているだけだろうが)。冬なので風はきついが、天気のよい別府の空と海に乾杯する。

大阪行きのさんふらわあなど見ながら、少しずつ離れる別府の港、遠くには国東半島、大分のコンビナート群を眺める。新鮮な景色。

デッキと桟敷をあれこれ楽しむ。豊後水道という、航路左側には九州、本州、四国の陸地の影、そして航路右側は宇和海、そして遥か南の太平洋に続く。

左側に陸地が見えてきた。四国の先端、佐田岬である。灯台らしきものも見える。この半島も四国の西端にあって細長い。クルマで走っていて、ちょっとハンドルを切り損ねたらどちらかの海に落ちそうである・・・(というのは冗談として)。

その佐田岬半島、伊方原発もあるが、半島の尾根に沿って風力発電の風車が目立つ。目で数えた限り、20基は建っている。温暖な気候ながら発電に十分な風が吹く(かつ、周囲の人口が少ない)というのが適しているのだろう。また、陸地が近づくと斜面にみかん畑が広がるのも見える。

そんな景色を見たり、また桟敷で横になってスマホを眺めるうちにそろそろ八幡浜が近づく。こうした形で四国に降り立つのは初めてで、新鮮な気持ちだ。

16時45分に到着。時間は早いが、この日は八幡浜で宿泊する。そろそろ沈みゆく夕日を見つつ、町中をぶらぶら歩くことに・・・。

 

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国東半島、六郷満山(の一部)を回る

2021年01月10日 | 旅行記H・九州

別府から実質午前中のみで宇佐神宮から国東半島をレンタカーで回り、13時のフェリーに間に合うように別府観光港に着くという、1月3日の行程。宇佐神宮に参詣できたのはよかったとして、残り時間をどうするか。

さすがに国東半島の海岸線を一周しようというのは無理だとわかっていた。となると、半島の中をどう回るかである。当初の年末年始旅で九州に向かうのに豊後高田で泊まるプランを組んでいたのは国東半島を回るためだが、そこに行く目的というのは「六郷満山」である。

以前の広島勤務時代、今からもう20年も前のことになるが、定期観光バスで半島内の寺院をめぐったことがあった。この時は臼杵の石仏、国東半島の磨崖仏、そして耶馬溪と、とにかく「石」に関係するところを回ったのを(その頃はブログなどなかったのだが)覚えている。その時は今のような札所めぐりなどしていなかったので、「六郷満山」という言葉も知らなかったのだが、この一帯には両子山を中心に六つの郷があり、それぞれに数多くの寺院が建てられた。元々山岳信仰の場があちこちにあり、それが宇佐神宮およびその神宮寺である弥勒寺と結びつき、さらには天台の教えも混ざり合った独特の神仏習合の文化が発展した。

本来ならその中心である両子寺に行くところだが、ちょっと時間が厳しいかと思う。結局は半島の付け根、宇佐神宮から見て近いほうにある熊野磨崖仏、富貴寺の2ヶ所だけ回り、後は道なりに別府に戻ることにした。

宇佐神宮から20キロあまり走った熊野磨崖仏。胎蔵寺の横の参道を上がる。磨崖仏までは400メートル、所要時間は健脚で往復30分とある。上り20分、下り10分という配分だ。参道の清掃をしている地元の人に挨拶をして、まずは普通の山道を上る。

そして最後の100メートル。磨崖仏への入口であり、奥の熊野神社の参道でもある。鬼が一夜で積み上げたという伝説がある自然の石段が続く。この石段が結構急で、最後にぜいぜい言うところだ。

石段の横のちょっと開けたところにあるのが二体の磨崖仏である。最後の石段がきつかったので、巨大な仏を見てありがたやという気持ちになる。左手にあるのが不動明王。不動明王といえば怒りの表情が一般的だが、こちらの明王はちょっと愛嬌がある顔をしている。イラストっぽいというかな。

その右手にあるのが大日如来。こちらは普通にイメージする大日如来そのままの穏やかな表情である。二体とも平安末期の作とされるが、どういう思い、目的があってここに磨崖仏を彫ったのかなと考えてしまう。修行の一環、力の誇示・・?

熊野磨崖仏から富貴寺に向かう。途中の真木大堂は残念ながら通過する。

富貴寺。先ほどの六郷満山の寺の一つである。古く奈良時代に開かれ、宇佐神宮の弥勒寺の傘下に入っていた。

ここの見どころは国宝の大堂である。平安後期に建てられた阿弥陀堂で、平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂と並んで「日本三阿弥陀堂」の一つである。また現存する九州最古の木造建造物とされている。現在、堂内の阿弥陀三尊像が特別に御開帳されていて、大堂の裏手から中に入る。

堂内は撮影禁止のため画像はないが、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が安置されている。堂内の照明が落とされているが、ハンディライトが置かれていて、仏像を照らすことができる。ふくよかな表情をしている。

また、大堂には創建当時の壁画も残されている。さすがに年月を経て塗装ははがれているが、人物や仏、建物の形は結構わかる。阿弥陀三尊の背後には極楽浄土が描かれているそうで、それを再現したものが大分県立歴史博物館に収められている。また外陣の各面の長押には、薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒のそれぞれの浄土の世界が描かれている。創建当初は人々には光り輝いたものに見えたことだろう。

本堂は現在改修工事中で、不動明王への護摩供が仮本堂で行われている。それを見つつ、富貴寺を後にする。

これで別府観光港に戻ろうとカーナビを入れるが、一度半島の中央部に上がった後で、杵築方面に下ると出る。所要時間で見ると13時のフェリーが厳しいかなというところだが、途中で時間を巻けるはずなので大丈夫と踏んで出発する。クルマは両子寺の方面に向けて走り、いったん上った後でS字カーブが続く難所を下り、また上りとなる。

並石ダムの湖を過ぎる。この辺りに来ると道路脇に雪が残る。高度がかなり上がっているようだが、このクルマ、タイヤは冬用なのかな、大丈夫かな。

今度は県道31号線に入る。いや、いくらレンタカーでもこういう路面に出会うとは思わなかった。現在どの方角に向いているのかわからないが、別府観光港に向かっているのは間違いないなとハンドルを握るだけだ。

クルマは杵築市の大田地区を走っているようだ。すると沿道に、さまざまな交通標語が出てくる。いずれも大分弁で、撮影したのはクルマが停めやすいところで撮った何枚かだが、交通安全だけでなく、振り込め詐欺への注意も促されている。この看板、杵築市に合併される前の大田村の時代から20年あまり続いている取り組みだそうだ。もっとも、看板に見とれて事故を起こしやしないかも気になるのだが・・。

この後、大分空港道路から国道10号線に入る。この調子だと別府観光港には12時30分頃に着きそうだ。そのまま走り、観光港の向かいにあるレンタカー営業所で無事に返却。八幡浜行きの宇和島運輸フェリーの乗り場に向かう。

ただ、出航30分前にもかかわらずターミナルは閑散としている。乗船券を購入するために乗船名簿兼申込用紙に記入しようとして、ふと時刻を見ると、次の八幡浜行きは14時00発とある。あれ・・・完全に私の勘違いだ。どこを見て、13時00分発と思い込んだのだろうか。これ、私のプライベートの一人旅だからどうということはなかったのだが、仕事でこんなことをしでかしたら大問題である。

1時間あれば、六郷満山のもう1ヶ所くらいは拝観できたな・・と思いつつ、それでもまあ、乗船前にゆっくり昼食を取れるかなとプラスに考える。観光港の建物に向かい、レストランにて「大分名物定食」というのをいただく。とり天、そしてだんご汁がついた一食だ。

その後は大分土産を物色する時間もでき、これで短時間ながら九州、大分を楽しんだことにして、四国へのフェリーの客となる・・・。

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宇佐神宮に参拝

2021年01月09日 | 旅行記H・九州

宇佐神宮の駐車場にレンタカーを停めて、仲見世通りを歩く。屋台もあれば店舗もあり、大分名物もいろいろと取り扱っているようだ。ただ、現在の時刻が9時前で、別府からのフェリーが13時となると昼食を取る時間はない。まあ、売店で何か買って、フェリーの中で食べることになるのだろう。

その参道脇に蒸気機関車があるのを見つける。明治から昭和にかけて活躍したドイツ製の車両で、かつて、豊後高田から宇佐を経て宇佐神宮まで結んでいた大分交通宇佐参宮線という路線を走っていたとある。かつてはあちらこちらに「参宮線」「参宮鉄道」が存在していたが、宇佐神宮にもあったとは。

機関車の奥には、天台宗の法塔、天台座主の記念碑が建っている。神宮で天台宗とはどういうことかと思うが、天台宗を開いた最澄が遣唐使船で唐に渡る時、航海の安全を祈って宇佐神宮に参拝し、無事に帰国した際に再び参詣して法華経の講義を行った。そうした縁で宇佐神宮は天台宗とのつながりがあり、歴代の天台座主も宇佐神宮で「法華八講」(直近では2018年)を行うという。これもある種の神仏習合である。

長い参道を歩く。このくらいの人出であれば密になることもなく、スムーズに進む。例年は初詣でおよそ40万人が訪れるというが、それを思えばやはり少ないといったところだろう。

石段を上がり、宇佐鳥居と西大門をくぐり、本殿がある上宮に入る。

宇佐神宮のシンボルともいえる南中楼門にて手を合わせる。もっとも、神が祀られる本殿はこの奥にあり、しかも手前から一之御殿(八幡大神=応神天皇)、二之御殿(比売大神)、三之御殿(神功皇后)と並ぶ。これらは奈良時代から平安初期にかけて建てられた御殿だが、神功皇后の伝説などと合わせると、宇佐自体が大陸にも近くて早くから開けていたことがうかがえる。

そして、ここでの作法が、2礼「4拍手」1礼である。「4拍手」といえば出雲大社だが、宇佐神宮もそうなのか。ただ、なぜ宇佐神宮が「4拍手」なのかは神宮の方でも詳しいことはわからないそうだ。せっかくなので一之御殿から順に3回繰り返す。

上宮を後にして、摂社である若宮神社に手を合わせる。こちらの祭神は仁徳天皇。仁徳天皇は応神天皇の皇子とされているから「若宮」なのだろう。

初詣期間中で一部ルートが一方通行のため自然と流れたのだが、下宮にもお参りする。こちらではやたら「お帰りには下宮にもお参りを」との案内が目立つ。こちらは嵯峨天皇の勅願で創建されたが、上宮の神たちをそのまま分けている。「下宮参らにゃ片参り」という言葉もあるそうだ。何だか、伊勢神宮で内宮だけでなく外宮も参らにゃというのと同じである。

下宮も一之御殿から三之御殿まであり、祀られる神は同じである。ただ、上宮が国家の安泰、繁栄を願うのに対して、下宮は農業や一般産業の繁栄を願うという位置づけだそうだ。その点では、伊勢神宮の内宮と外宮の関係と似たようなものだ。

下宮の横で福みくじがあり、出た運勢によってさまざまな景品が当たるとある。運試しと1枚引いたが、「後吉」と出た。見慣れない呼び方だが、宇佐神宮においてはもっとも悪いという意味。他の神社なら「凶」とあるところだが、そうした字を使わず「ずっと後に吉がやって来る」という意味でこの言葉があるそうだ。「後吉」にも景品があり、縁起物の箸である。特別な料理の時に使いたいな。

八坂神社がある。元々は、この奥にある宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の守護神だった。八幡宮というところは神仏習合の歴史が長いのだが、明治の神仏分離で弥勒寺は廃寺、その守護神も八坂神社として現在にいたる。その弥勒寺の跡地も残っている。

宇佐神宮といえば、奈良時代後期の歴史の舞台に「ご神託」が登場する。宇佐八幡のご神託として、当時称徳天皇の寵愛を受けて勢力を持っていた弓削道鏡を次の皇位につけるべしというのが奏上された。それを確かめるべく称徳天皇は和気清麻呂を宇佐神宮に遣わすが、「わが国は開かれてから君臣のことは定まっている。皇位は必ず皇族の者から立てよ」とのご神託を持ち帰る。怒った称徳天皇は清麻呂を流刑にするが、道鏡が皇位につくことはなく、称徳天皇が亡くなると藤原氏の手で左遷された。

「ご神託」が政治の世界で都合よく利用されたというもので、当の宇佐神宮はホームページにて「道鏡がうその奏上をさせた」とバッサリ切り捨て、「宇佐神宮の国体擁護のご神徳と、和気公の至誠の精神とが皇室をご守護することとなりました」と讃えている。宇佐神宮の公式見解とすればそうなるだろうが、まあ、当時はさまざまに都合よく利用されていたところがあったのかもしれない。

これで国東半島の歴史文化の原点といえる宇佐神宮を後にして、半島めぐりとする。時刻は9時40分、13時に別府からのフェリーに乗るとなると見どころも絞らなければ・・・。

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ビジネスホテルで大分料理と温泉と・・

2021年01月08日 | 旅行記H・九州

1月2日の別府での宿泊は、「ホテルシーウェーブ別府」。建物は別府駅向かいのビジネスホテルの造りだが、温泉が併設されていること、正月の直前予約で空いていたこと、正月の飲食店事情がわからない中で夕食・朝食つきのプランが目に留まったのとで選択した。例年なら満室で取れなかったのではないかと思うが・・。

別に指定したわけではないが、部屋からはロータリーを挟んで別府駅のホームを見ることができる。特急「ソニック」や2両の普通列車などが行き来する。ちょうど窓側に椅子とテーブルがあり、その様子を眺めることができる。

部屋でしばらく休憩した後、18時からの食事に向かう。夕食は事前予約のコース限定で、席にはあらかじめ配膳されている。一人ということで、窓側のカウンターにて。今回、正月ということもありオプションをつけており、チェックイン時にもらった食事券に手書きでその旨が追記されている。飲み物はシンプルに瓶ビールで乾杯だ。

大分の郷土料理を味わえるのがこのホテルの売りのようで、その顔ぶれはこういったところである。

まずは小鉢の「りゅうきゅう」。魚の切り身を、醤油、酒、みりん、ゴマ、しょうがで作ったタレと和えたもの。元々は漁師飯で、余った切り身をタレに漬け込んだものである。これは単品でも丼でご飯の上に乗せてもよい。醤油じたいが九州らしく甘めなので全体に甘い味がするのだが、それほどしつこさは感じない。タレは土産物でも販売されており、翌日四国に渡る前に1本購入した。そして帰宅後に試してみたが、これは小鉢で上品に食べるよりも、さまざまな刺身のブツ切りを豪快に丼で盛り付けたほうが美味かった(個人の見解です)。

続いてはオプションでついたフグの刺身。フグの本場は下関ではないかと思うが、それは各地で獲れたフグが下関に集まってくるからという意味で、その産地はあちらこちらにある。その中で豊後水道のものは評価が高いとされる。最近では産地に近い臼杵あたりでもフグをPRしている。思ったより身が厚い。

メインは牛肉の陶板焼き。最初に固形燃料で火をつけた係の人が、途中で陶板を持って行ってしまう。「え?」というところ、しばらくして陶板を持って来た。おそらく、あらかじめテーブルに置かれていたのが普通の牛肉で、取り替えた後のこちらがオプションの豊後牛なのだろう。こちらも大分の逸品として評価されている。

こちらは地獄蒸し。ここでは固形燃料で火をつけたが、すでに下ごしらえされたものを温めるためだと思う。別府の温泉の蒸気を使って魚介類や野菜を蒸したもので、江戸時代から伝わる調理法だという。実際に別府の地獄めぐりで地獄蒸し作りが体験できるスポットもあるそうだ。

そしてとり天。鶏の天ぷらではなく、あくまで「とり天」という一つの料理とされている。最後はご飯とだんご汁(画像なし)。結構いろいろといただいたものだ。大分料理の代表的なものを満喫することができた。

さて食後、ホテル併設の浴場に向かう。ホテルの別館に大浴場があり、3階の打たせ湯つきと1階の露天風呂が夜と朝で男女入替となる。この時間は打たせ湯つきである。

この後は特に商店街に繰り出すわけでもなく、部屋で飲みながら持参のパソコンでブログ記事の書き込みを行う。時折、窓の外でベルが鳴ると列車が入ってくるのが見える。年明け旅、なかなかいい感じで初日を終える・・・。

明けて1月3日、朝食前に朝風呂に入る。今度は1階の露天風呂。外の景色が直接見えるわけではないが、風は通る。景色の代わりに、別府の街中や別府湾をパノラマ撮影したパネルで囲われている。

朝食はバイキング形式。正月らしく、かまぼこや黒豆、数の子、田作り(ごまめ)といったメニューも並ぶ。

この日の行程だが、別府駅前のトヨタレンタカーの8時の開店を待ってクルマを借り、前日参詣を見送った宇佐神宮まで行く。その後、国東半島の六郷満山の寺院を訪ねた後、八幡浜行きのフェリーが出る別府観光港前の店舗で乗り捨てとする。そのフェリーだが、13時発と結構タイトなスケジュールである。フェリーを1本遅らせると次の出航が17時前で、それだと海上の景色や、宿泊地の八幡浜も夜になってしまう。またレンタカーの返却、乗船券の購入の時間を考えると12時半すぎには港に着いておきたい。当初の年越し旅の時には、豊後高田から国東半島の海岸線や山の区間をぐるり日中かけて別府観光港まで移動するという目論見だったが、それに比べると時間は短い。まあ、行けるだけありがたい。

利用するのはヴィッツ。1人旅のレンタカーの定番のコンパクトカーだが、普段のマイカーが軽自動車なので出力は高く、頼もしく感じる。まずは宇佐神宮を目指す。カーナビを入れると、高速利用でざっと1時間といったところだ。

東九州道の別府インターまでは地図だと5キロほどの距離だが、別府市役所、ビーコンプラザを過ぎたあたりから上り坂が続く。有名な杉乃井ホテル(もちろん泊まったことはないが)の前も通るが、そういえばあのホテルの売りは別府市街から別府湾の景色を見下ろす露天風呂である。

クルマの通行はそれほどなく、日豊線よりさらに内陸の安心院、院内といったところを通過して、宇佐インターで下りる。1時間を切る感じで宇佐市内に入り、国道387号線~国道10号線で宇佐神宮に着く。3日だからか、あるいは朝の時間だからか、境内に近い駐車場に問題なく入ることができる。やはり国東半島の歴史文化めぐりでは外せないところで、まずは神宮の参詣である・・・。

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豊前から豊後、そして別府入湯

2021年01月07日 | 旅行記H・九州

中津13時13分発の幸崎行きは2両のロングシート。九州南部の電車区間ではこの形式の車両が主力のようである。発車時刻が近づくと地元の人、あるいは小倉方面からの乗り継ぎ客が集まってくる。それでも座席には余裕がある。

しばらくは開けた地形を走る。次の東中津を含めて、一帯は中津、今津、天津(「テンシン」ではなく「あまつ」)と名前に「津」がつく駅が続く。地名の「津」には「港」の意味合いがあり、周防灘に面して多くの舟が行き交っていたのかなと想像させる。

そのうちの一つ、宇佐市に入った天津駅から近いところにあるのが「双葉の里」。昭和の大横綱・双葉山の出身地で、復元された生家や双葉山のさまざまな資料が展示されている。大昔にクルマで訪ねたことがあるのだが、その後リニューアルされたようである。今回は年末年始の休館ということがわかっていたので途中下車からは外したが、「超六十連勝力士碑」として、双葉山、白鵬、谷風の手形が刻まれているという。

白鵬といえば、今年の初場所を前に新型コロナの感染が判明し、休場ということになった。63連勝、44回の優勝を誇る横綱も、まさかコロナにかかるとは思わなかったことだろう。ネットでは「これで力士生命が延びた」という声と「連続休場で相撲勘がどんどん失われて、再起が余計に難しいのでは」という声とが分かれている。もっと言えば「初場所は中止にすべきだ」という声のほうが大きいのだが。

大相撲も、その競技の特性、力士の体格、あるいは相撲部屋という生活スタイルがコロナの感染が拡大しやすい環境だと指摘する声もあり、ちょっと曲がり角に来ているのかもしれない。今、(かつて理事長も務めた)双葉山が生きていればどのようなことを言うだろうか。

USA・・もとい宇佐に到着。来るまでは宇佐で途中下車して宇佐神宮に参詣、後でかなり空く待ち時間については何か考えよう・・としたが、ここに来て、早めに別府に行くことにしてそのまま車内にとどまる。翌日はレンタカーを予約しているし、別府から一度宇佐神宮まで来て、その後で国東半島の六郷満山を可能な限り回ろうか・・ということにした。

この先は国東半島の付け根、立石峠を越える。ここが豊前と豊後の国境で、鉄道は新立石トンネルで抜けていく。宇佐から中山香の間が列車本数が少ない区間である。

日出を過ぎると別府が近くなり、別府湾、その先の高崎山の景色が広がる。乗客も少しずつ増えてきた。14時24分、別府に到着する。

宿泊するホテルにも温泉浴場があるが、せっかく来たので外湯にも入っておきたい。荷物をいったんロッカーに預けて身軽にしたところで、駅前のアーケード街を歩く。目指すのは砂湯がある竹瓦温泉。

別府くらいの観光地となると正月に来る人も多いため、居酒屋その他の店舗も営業しているところが多いようで、まだ開店前のところもあれば、昼飲みにも対応している店がある。これなら夕食は外でよかったかなと思うが、ホテルでは一応大分名物がついているとあるので、今回はそれに委ねることにする。

竹瓦温泉には以前も行ったことがあるが、伝統ある建物に隣接してソープランド街になっているのを覚えている。その時に利用したわけでもなく、別に今回も入るつもりはないが、やはり男一人で歩いていると「どうですか?」と声をかけられる。こうした店の「風呂」もやはり温泉なのかな?と思うが、入ってまで確かめることはないか。

竹瓦温泉は元々は地元の漁師が海岸べりに竹の屋根の小屋を建てて入っていたものだが、その後評判となって湯治客が多く訪ねるようになり、1938年に現在の建物ができた。いかにも古きよき温泉旅館という趣で、現在は近代化産業遺産にも認定されている。今も公衆浴場として地元の人にも親しまれていて、普通入浴が300円、そして観光客に人気の砂湯が1500円(普通入浴込み)である。

砂湯に入る。混み具合によっては待ち時間になるようだが、たまたま巡り合わせがよくすぐに入ることができた。まずは服を全部脱いだ上に浴衣を羽織り、砂場に向かう。男女別でゾーンが分かれていて、係の人の指示で砂の上に仰向けになる。そして砂をかけられるのだが、結構ずしりと来る。この状態でおよそ15分。心臓、腕の辺りがドクドクするのが伝わるが、冬ということもあり身体が温まるのをより実感できる。

時間となって体を起こすよう指示があり、そのままシャワー、浴槽で砂を落とす。この時、体の余計なものも一緒に落ちるような気分になる(実際は体重は変わらないのだが)。そしていったん服を着て、建物の反対側の普通入浴に向かう。こちらも昔ながらのシンプルな浴槽で、ザボンの実を浮かべている。

しばらく休憩所でゆったりして、再び駅前に戻る・・・。

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日豊線で中津へ

2021年01月06日 | 旅行記H・九州

小倉から日豊線に入る。この後、先まで続く鈍行列車は10時54分発の中津行きである。それまで少し時間があるので、改札前のスタンドでかしわうどんをいただく。朝食は出発前に取ったが、ここで早めの昼食である。小倉といえばホーム上にとんこつラーメンのスタンドもあり、そちらで食べようと思ったのだが正月休みかシャッターがおりていた。

うどんをすすりながら、この先の行程を考える。中津行きに乗ると終点には12時01分着。その後は13時13分発の幸崎行きに乗り継ぎとなる。それで別府には行けるのだが、途中に気になるスポットがある。中津から先に行ったところ、国東半島の付け根にある宇佐神宮である。全国の八幡宮の総元締めの存在で、初詣時期ということもあって素通りするのはもったいないように思う。

ただ、宇佐神宮には宇佐駅からバス利用だが、往復のダイヤを見ると鈍行列車との接続はよろしくない。まあ、宇佐から先の鈍行の本数が極端に少ない区間で、宇佐から先は幸崎行きが13時37分に出た後は、18時15分まで空いてしまう。仕方なくどこかで特急を挟まざるを得ないが、どうするか。小倉から別府まで全部特急で行けば簡単なことだが・・。

ともかく中津まで行ってから考えるとして、その前にスマホから翌日3日のレンタカーを予約する。午前中、別府を中心にレンタカーで回り、午後のフェリーで八幡浜に渡るつもりである。

中津行きに乗ろうとホームに下りると、その前に10時46分発の日田彦山線の田川後藤寺行きが発車する。ふと、これで同線との分岐である城野まで行ってみることにした。わずか数駅とはいえ、国鉄型の気動車に乗るチャンスである。

先ほど下関の手前あたりから空がどんよりとしていて、小雨もぱらつくようである。西小倉から日豊線に入り、JR九州の小倉総合車両センターの横を通過して、南小倉、城野といたる。普通の町中の駅である。下車しても気動車はしばらく停車しており、結局後からやって来た中津行きと接続を取った後で、日田彦山線に入っていく。

日豊線に乗るのもずいぶん久しぶりで、車窓も「こんな感じだったかな?」と、まるで初めて乗る感覚である。まあ、少なくとも「何度も乗っていて飽きました」というよりは、新鮮な気持ちで鉄道の旅を楽しめるのだが。こちらの車両は窓にUVカットのフィルムが施されている。日光が当たってもカーテンやブラインドが必要なく車窓を楽しむことができるのだが、こうした曇り、雨の天気だと外が一層暗く見える。

日産の九州工場がある苅田、平成筑豊鉄道を分岐する行橋を過ぎる。その先の築城には航空自衛隊の基地があるが、その周りに横断幕を持った20人ほどの団体が見えた。恥ずかしながら知らなかったのだが、沖縄の普天間飛行場の移設、あるいは米軍の再編にともない、築城基地にも一部米軍機能を移すとして、滑走路の拡張、施設の整備が進められているそうだ。団体に見えたのは、そうした動きへの反対派なのかなと思う。そういえば何年か前は、普天間飛行場の辺野古への移設が決まり、埋め立てをめぐって連日大きな騒動が取り上げられていたが、現在はそうしたニュースはほとんど伝えられない。どうなっているのやら。

その周防灘に近づく区間もあり、中津の一つ手前の吉富までが福岡県の駅である。

遠くに中津城の天守閣を見て、山国川を渡って大分県に入る。現在は県境越えとなるが昔の国でいえば中津、宇佐までは豊前である。日豊線の鈍行が中津や宇佐までというのが多いのは、豊前・豊後の国境越えの手前で人の流れも区切られるからのようだ。

中津のホームに下りるとまず出迎えたのは、日本一長い鱧の椅子。長さ10メートルはあろうかという木のベンチだが、別にそれだけの長さの鱧がいるというわけではなく(いたらそれこそ化け物だ)、中津の名物としての鱧をPRしようということで倒木を活かした板に鱧の絵を描きつけたものである。中津といえば唐揚げが知られているが、ちゃんと海の幸もある。

ただそれよりもPRされているのが、福澤諭吉。中津はゆかりの地としてPRしている。実際に生まれたのは大坂の中津藩の蔵屋敷だったが、父の死去にともない中津に戻り、幼少期を学問中心に育った。その後の活躍の範囲は中津藩にとどまらず、思想・文化面での日本の近代化に大きな役割を果たした。

もっとも、中津が福澤諭吉をPRするのは、1万円札の顔というのも大きかったのではないかと思う。1984年に顔としてデビューしてから40年近くにある。2024年から渋沢栄一にその座を譲ることになるのだが。

さて、次は13時13分発の幸崎行きに乗るとして、1時間をどう過ごすか。正月なので休館の施設も多いし、中津城は駅から離れているため往復して終わりだろう。何か食事でも・・と思い駅前を散策するが、鱧や唐揚げの店も(事前チェックしていなかったので)そう都合よく見つかるわけではなく、多くの店が正月で閉まっている。1軒、大衆食堂を見つけたがこれは食堂というより昼飲みのスポットである。逆に1時間では足りない。

結局は中途半端に駅の待合室、ホームでボーっと過ごすことになる。まあ、たまにはそうした時間もいいか・・・。

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年明け旅、山陽線乗り継ぎで九州へ

2021年01月05日 | 旅行記H・九州

年末から年始にかけて業務上の緊急対応があり、当初の予定とは異なる形になったのはこれまでの記事の通り。ただ、年が明けると状況も落ち着いて、連絡が取れる状態であれば私もフリーということになった。

元日に宮島に渡っていたのは「ご近所」ということだが、フリーに動けることになったのであれば、2日から3日、あるいは年始休みの4日にかけて出かけることにする。

当初計画していたのは、大阪に戻る前にいったん九州に渡るというものだった。大分の国東半島にある豊後高田に泊まり、半島の「六郷満山」を回り、別府から大阪行きのフェリーに乗って年越し。大阪の実家には顔を出すものの、こういう世間の状況を鑑みて実家には泊まらず、大阪市内のホテルを予約していた。帰りの経路をどうするかは決めていなかったが、青春18きっぷを使って広島に戻ることにしていた。

そんな中で、図らずもいったんは「今年は帰省を控える」という、テレビのニュースでインタビューを受ける人と同じ状況になった。ただ、体が空くと残った日を使ってどこかに行きたくなる。ならば大阪に戻ればいいことだが、年末の時に帰省を見送ることを伝えると逆に安心していたようだし、そこは多少状況が落ち着いてからでもいいかなと。

そうなると、もともと一人旅だし、別に誰に会う人がいるわけでもなく、おとなしく列車に乗って静かに酒を飲んで・・ということで(勝手な理屈を並べているかもしれないが)プライベートの乗り鉄旅に行くことにする。

行き先だが、当初計画していた九州には行こうと思う。福岡県東部(北九州より南)や大分県というのも久しく訪ねていない。そして、大阪へのフェリーには乗らないにしても、別府までは行ってみようかなと思う。そう思って地図を見てふと目に留まったのが、四国へとつながる航路。

これまで四国八十八所めぐりをするのに、大阪からさまざまなルート、交通機関を使って四国に渡ったが、九州~四国(その逆も)というのは通ったことがない。大分県と愛媛県を結ぶ航路はいくつかあるが、今回、別府~八幡浜のフェリーに乗ってみよう。そうすると、四国からの帰りは松山から広島に渡ると、九州~四国~本州を海路で結ぶ形になり、結構面白そうだ。帰宅するまでがある意味「往路」と言える循環ルートだ。もっといえば徳山から国東半島の竹田津までのフェリーに乗れば完全なクルーズ三昧だが、時間が合わないのと、小倉から日豊線に乗ろうということで、このフェリーは見送った。また乗る機会はあるだろう。

1月2日、年末年始の寒波は北日本にとどまる中、西日本の天候は比較的落ち着くとの予報である。西広島6時ちょうど発の岩国行きで出発する。外はまだ真っ暗で、5両編成の乗車率は半分以下。その中で、やはり宮島口での下車が目立つ。

6時41分に岩国に到着し、6時44分発の下関行きに乗り継ぐ。10月にこの乗り継ぎをしようとしたところ、岩国行きに先行する貨物列車にトラブルがあり、そのための遅れ時間が10数分に亘ったため、乗り継げなかったことがあった。以前の広島勤務時は確か広島から下関まで直通する鈍行もあったように思う。

今回は順調に進む。時間が早いせいか、またこういう状況だからか乗客は少ない。その筋の客もちらほらいる程度である。115系3000番台の転換クロスシートに腰掛けて、少しずつ明るくなる瀬戸内の海を眺める。今回は3日かけて周防灘、豊後水道、瀬戸内海をぐるりと回ることになる。そうした海の景色も目に焼きつけたいものである。

柳井では6分ほど停車する。おそらく通常ダイヤであれば貨物列車を先行させるのだろうが、正月ということで通過する列車はなかった。多少物量は減ったというものの、コロナ禍の中にあって物流の縁の下の力持ちとして支える貨物列車だが、さすがに大晦日から正月3が日は全面運休である。

新山口でも6分停車。ここも通常ダイヤであれば貨物列車の通過待ちだろう。この時間を利用して、改札口で青春18きっぷの日付印をもらう。朝の西広島はまだ駅員がおらず、途中車掌が車内に来ればその時に頼もうかと思ったが、そうしたこともなかった(少なくとも気づかなかった)。

この先は下関に向かうということで、駅ごとに少しずつ乗客が増えてきた。私が乗っているのは先頭車両だが、下関の乗り換え階段、改札口は進行方向の後ろ側1か所なので、乗客もどちらかといえば後ろの車両に固まるようだ。

10時01分、下関に到着。乗り継ぐのは10時09分発の小倉行きだが、ホームの向かい側ではなく隣のホームからの発車のため、一度階段を上り下りすることになる。

結局ホームをぞろぞろ歩くことになったが、その途中に、「WEST EXPRESS銀河」の歓迎の横断幕が掲げられている。

この「銀河」だが、3月まで大阪~下関間を昼行列車として運行した後は、春に京都~出雲市の夜行列車、そして夏から秋にかけては、京都~新宮まで夜行列車+昼行列車として運転予定である。新宮行きの夜行列車といえば、私も高校生~大学生の時に乗った「釣り列車」を思い出す。当時は天王寺発、後に新大阪発となったが、急行型のボックス席が懐かしい。同じように日本旅行のツアー方式での乗車となるのだろうが、これはぜひ抽選に申し込みたい。

その前に、まずは関門トンネルでの九州上陸である。門司を経由して、10時23分、小倉に到着。今回は行かないが、小倉から快速に乗り継げば12時過ぎに博多に着く。以前にも広島から福岡、北九州に当時のダイエー対近鉄の試合を見に出かけたことがあるが、新幹線だけではなく鈍行乗り継ぎで訪ねたこともあったなと思い出す。北九州のデーゲームなら鈍行乗り継ぎでも日帰り往復できそうだが、今は北九州の試合もほとんどないようだし、その前にチケット確保が難しいことだろう。

2日の夜は別府駅前のホテルを取っており、正月で飲食店の事情がわからないので夕食付きのプランにしている。夕方のそれなりの時間までにチェックインすればいいのでそれまでどこかに立ち寄ろうかと考えつつ、日豊線に乗り継ぐことに・・・。

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復路もフェリー~船上で「令和最初?の日の出」を見る

2019年05月20日 | 旅行記H・九州

新門司港に到着。こちらも団体の乗船券にて乗船となる。船体は往路と同じ「フェリーきたきゅうしゅうⅡ」で、寝台もツーリスト(2等洋室)。往路は下段だったが復路は上段である。ベッドの大きさはもちろん同じなのだが、前が階段なのでバッグを並べるには狭い。ツアーを共にした客同士なのだから外の通路に置いてもいい感じである。

荷物を置くとすぐにレストランに向かう。何せ昼からの「長崎大移動」の後である。乗り換え時間もわずかで、途中で何かを買うということもできなかったし(あ、新幹線の車内販売で何か買っていた人はいたかな)、往路は夕食を済ませてからの乗船だったので、夜のレストランがどのようなものか見てみたかった。幸い行列もできておらず、内側のテーブル席を確保することができた。

メニューはバイキングということで・・・アホかというくらいどうしても選んでしまう。またアルコールは追加で、瓶ビールや「檸檬堂」は最初に食券を買うカウンターで一緒に購入する。生ビールは、レストラン内にビアガーデンのようにジョッキとビールサーバがあり、一杯500円で自動的にジョッキに注がれる。これらを揃えての旅の打ち上げである。そうして食事をしているうちに出航、これで九州の地を離れることにする。

しかるべく飲み食いした後、夜の展望台に出る。後方に九州の島影の稜線がうっすらと見え、遠くで灯りがチラチラするのが見える。空を見上げるとうっすらではあるが星も見える。じっくり見ると北斗七星の形が浮かぶ。北斗七星って、何年ぶりに目にしたか。

入浴を済ませ、寝台に戻る。翌朝は自宅に戻るだけなのでゆったりする。それほど電波がよくない(一応船内にはWiFiがあるのはあるが・・)ので、メールの下書きの形で今回の紀行文を書き進める。

翌朝、普段の起床のリズム通りに5時に目覚める。左手には大きな島影がある。航路図から見れば小豆島である。そらは多少雲はあるものの好天である。

・・・とすると、上手い具合に行けば船上から日の出を見ることができるのではないか。前日の改元初日の5月1日は曇りのため日の出は見られなかったが、全国的には雨のところも多かった。だから1日遅れの初日の出と見ることもできる。

しばらくデッキに陣取っていると右前方の空が赤くなってきた。水平線から上るダルマ太陽とはいかず、少し上からであったが太陽が顔をのぞかせた。

それが少しずつ形をはっきりさせ、やがて光となった。1日遅れで新しい時代の瞬間に立ち会えたような、そんな勝手な思いがある。他にデッキにいた人は数人だけで、せっかくの日の出なのに皆さんもったいないなと思った。

家島諸島沖を通過。朝の播磨灘の景色を見るうちに朝食の時間帯となった。朝も同様にバイキング形式でいただく。

明石海峡大橋の下をくぐる。往路の夕方と同様、大勢の人がデッキに出てくる。この橋をくぐるとようやく戻ってきたなと思わせる。南港まであと1時間だ。

大阪南港に近づく。岸壁からフェリーの作業の人たちが手を振る。少しずつ近づき、無事に着岸する。ようやく戻ってきた。やれやれという気分と、いろんなことがあった5日の旅だった。

フェリーを降りた後は流れ解散だが、ターミナルビルの入口では添乗員Kさんが出てのお見送りである。31名が無事に下船するのを見届けるということだ。改めて、ありがとうございました。

この後はニュートラムと四つ橋線から乗り継いで帰宅。元号またぎの旅は実にてんこ盛りで、深い思い出が残るものになった・・・。

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福江島~新門司港大移動

2019年05月19日 | 旅行記H・九州

1日半に渡る福江島の滞在を終えて、これから大阪に向けて戻る。またそのコースが大変なことになっており、改めて書き出してみると・・・

福江港13時40分~(ジェットフォイル)~15時05分長崎港~(タクシー)~長崎駅15時47分~(かもめ28号)~17時53分博多駅18時15分~(さくら566号)~18時31分小倉駅18時40分~(名門大洋フェリー送迎バス)~19時20分新門司港19時50分~(名門大洋フェリー)~翌朝8時30分大阪南港

ジェットフォイル、タクシー、在来線特急、新幹線、送迎バス、フェリー・・・と6つの交通手段が登場する。さらに、各駅ごとの乗り継ぎ時間がわずかしかない。往路は特急ソニックや夜行フェリーを乗り継いだが、往復それぞれで少しずつ違った乗り物ということで、ある意味たまらない。どこまでてんこ盛りなのだろうか。

また、博多から小倉の1駅だけ新幹線に乗るというのは、フェリーの送迎バスに間に合わせるための策なのだが、新大阪行きの列車なのでそのまま乗っていればその日の20時48分、つまりフェリー出航から1時間後には新大阪に着く。そこを一晩かけて戻るとは半分お笑いかと思うが、そこまで楽しませるのもクラブツーリズム流なのか。まあ、当初は長崎港から新門司港までバスで移動するプランだったし、往復で経路や交通手段が変わると、それは単なる帰り道ではなく、そこまでがある意味「往路」と言える。最後も船旅でとことん楽しもうということで、両方の船中泊を含めての「5日間コース」である。

さてこれから乗るジェットフォイルは長崎からの折り返し便で、「ぺがさす2」という船体である。手続きは済んでおり、桟橋の横にて乗船券を渡される。席の並びも男性一人参加が横並びで、乗船券を一枚ずつ引いて座る席を決めた。

13時40分の出航で、10分前には乗船開始ということでいったん解散するが時間はほとんどなく、フェリーターミナル内を散策するというわけにはいかなかった。すぐに乗船の列に戻る。

旅客定員は264名とあるがほぼ満席のようだ。大きな荷物は1階の出入口付近に置いて2階に上がる。ご一行は中央部の4~5列シートを割り当てられている。窓際ではないので外の景色を眺めるのは少し厳しい。気分は飛行機に乗ったようで、シートベルトの着用を促される。もっとも飛行機よりは開けた空間である。前方にテレビがあり、情報番組はちょうど新天皇陛下の儀式が行われた後で皇室、元号についての話をしているところ。

定刻となり、ゆっくりと船体が動く。ジェットフォイルに乗るのは初めてなので、どんな走りをするのか。前方に速度計があるので、少しずつ上がるのを見る。まず港内はじわじわと進み、沖に出ると速度を上げるようだ。

福江島が少しずつ離れるのが見えるに連れ、速度が上がる。最高で時速80キロ。速度だけ見れば高速バスのほうが速いが、海の上を浮かぶほうがスピード感を感じる。やがて、右手は水平線だけが見えるようになった。天候が穏やかだからか、揺れをほとんど感じないし、エンジン音もそこまでうるさくない。周りの乗客もちょうどお休みタイムとなる。

1時間25分のジェットフォイルも短く感じられる中で、前方に長崎市街地が見えてきた。それとともに、テレビが「水戸黄門」(それも東野英治郎版)の再放送となり、里見浩太朗・横内正版の「ああ人生に涙あり」のシブイ歌声が流れる。令和初日に昭和の水戸黄門に出会うのも面白い。伊王島大橋の下をくぐり、造船所のドックもちらりと見える。豪華客船も停泊しているようだ。今回長崎は完全にスルーなのがもったいないが、何せ大阪まで分刻みの移動なもので・・・。

ジェットフォイルを降り立ち、ターミナルも素通りする。この後はタクシーを8台予約しており、4人ずつ分乗するよう指示が出ていた。当然男一人参加4人が一組だが、「最後でええやん」との一声で8台目に乗車する。ジェットフォイルの中で添乗員Kさんから1000円入った封筒を渡されていて、タクシー代はこれで払ってレシートをもらうよう指示が出ている。

長崎駅までタクシーに乗るといってもワンメーターにも満たない距離で、個人の旅なら市電に乗るか、歩いてでも行ける距離。タクシーに乗っていたのは信号待ちを入れても10分となかったが、これもご一行が安全に乗り継ぐための手段である。

長崎駅に到着。改札口前で集合し、特急かもめと新幹線さくらの席の割り当てが書かれた紙を渡されて、そのまま改札を通る。これは団体乗車券扱いのためで仕方がないが、改札の中には売店がなかった。往路の小倉で同じように団体乗車券で改札を通った後は、改札内に売店もあれば立ち食いのうどんもあったが、長崎はそうはいかなかった。久しぶりの長崎だし、何か長崎市街の土産になるようなものでも・・と思ったが残念。

これから乗るかもめ28号は787系車両。九州新幹線開業前は「つばめ」「有明」などで活躍したJR九州の元エースである。この車両に乗ることができるのも(普段あまり特急に乗らない)乗り鉄としてはポイントアップだ。

発車までの間、せめてもの長崎での足跡として、旧国鉄急行塗装のキハ65気動車などをカメラに収めて乗車。割り当ての車両は荷物棚がないものの、シートピッチが広く取られていてバッグを足元に置いても苦しくない。

定刻に発車。長崎新幹線の開業と市街地の渋滞対策として高架工事が進む中を走る。その中で、浦上駅を出た後に見える長崎ビッグNスタジアムを確認する。いずれこの球場でも観戦したいものだ。

長崎線は二手に分かれる。長与回りの旧線、市布回りの新線ということで、特急は新線を通る。それでも行き違い停車がある。他の客の中には「何で停まるの?」と疑問の方もいた。

諫早に着く。ここも新幹線駅の建設中である。

ここで建設中の長崎新幹線について触れておくと、現時点では長崎から武雄温泉までを2022年に暫定開業させるという。鹿児島の九州新幹線も、先に鹿児島中央から新八代まで開業したが、今回もそのやり方を取る。武雄温泉から新鳥栖のあいだをどうするか、また並行在来線の扱いをどうするかで曲折があるようで、上下分離方式をとるとかJR九州が当面運行を続けるとか、今もなお流動的なようだ。

その新幹線は大村線方面に続くので、この先の長崎線は新幹線が開業すれば完全にローカル区間となる。特急で走り抜けるのもあとわずかだ。割り当ての座席はD席で、有明海とは反対側。まあ、同じご一行だが席を替われて言えるものではなく、有明海は反対側の窓越しに見る。それだけでも旅の幅は広がった気がする。

その代わりD席からは多良岳の姿が見える。地味ながら、長崎半島に続く陸地への押さえのような感じである。

またこの日、朝から時間が経つに連れて空が明るくなっている。福江島を出る時には晴天だった。太陽が西に向かうのを見て、「令和最初の夕日を見ることができるかもしれない」と勝手に期待する。

肥前鹿島に停車する。対向列車が遅れたのを待ったので、6分遅れとのアナウンスがある。

肥前山口は通過して佐賀県の中央部にさしかかる。広々とした平野である。そこに少しずつ西日が差し込んでくる。

次の停車は佐賀。ここで遅れが9分に広がる。博多での新幹線乗り継ぎは定刻で22分だが、それが9分遅れるとは結構慌ただしくなりそうだ。鹿児島線内で車両の異常を察知したので点検をしていたとかで、特急が乗り入れる長崎線にも影響が出ている模様だ。

新幹線との接続駅である新鳥栖、さらに鹿児島線との合流駅である鳥栖では遅れが13分に広がった。さすがにご一行にもざわつきが広がる。何せ次のさくら566号に乗れなければ名門大洋フェリーの乗船が危ういという綱渡りの乗り継ぎである。「何とかするんとちゃいますか?」と隣の男性は落ち着いた様子だが、在来線と新幹線ホームが比較的近いとはいえ、これ以上遅れるようだと厳しいだろう。私は、もしフェリーに間に合わなかったら後のこだま号でも構わない、追加料金を払ってもいいから今日中に大阪へ帰ろうやという気になっていた。それでも、往路でもし「太古」が結構になったら博多から陸路長崎まで移動して一泊して、翌朝のジェットフォイルで福江島に渡る・・という荒業を見せようかという添乗員である。フェリーに乗るための何らかの一手は考えているのだろう。「とりあえず、博多駅に着いたらすぐ降りられるようにしておいてください」とだけ触れて回る。

かもめ28号から新幹線に乗り継ぐ客は他にいるようだし、鳥栖を過ぎてからのアナウンスでは接続を取る方向での調整をしているとあった。鹿児島線に入ってスピードも上がったように感じられた。

少し霞んではいるが、車窓に太陽の姿を見る。フェリーに乗るまでのところで日は暮れるだろうが、「令和最初の夕日」を一応見たことにする。

かもめ28号はそのまま13分遅れで博多駅に到着。乗り継ぎ時間は9分で、後で確認したJRの時刻表に記載されている新幹線と在来線の標準乗り換え時間は7分とあったから、何とか慌てずに乗り換えることができる形だ。別に構内を走ることもなく、新幹線ホームに上がった時は1本前の東京行きのぞみが発車するところだった。

そして、さくら566号新大阪行きが到着。4列のゆったりシートに腰かけると、やはりこのまま終点まで乗って行きたくなる。個人旅行ならフェリーのチケットをフイにして新幹線の追加料金を払ってそうしただろう。ただ今回は団体ツアー。また、往復フェリーに乗るというのがツボである。

乗車時間はわずか15分で、その間にアンケート用紙の記入を求められる。泊まりがけでこうしたツアーに参加するのはほとんど初めてだっただけに団体ならではリズムやノリの違いや戸惑いもあったし、他の参加者と意気投合して・・というところまでは至らなかった(それは私のコミュニケーション力が不足していたのだろうが)。でも、初めて訪ねた福江島は面白く、今度は他の島も含めて行ってみたいし、福岡での10時間自由行動も楽しめたし、さまざまな乗り物を楽しめたのはよかった。紀行文がここまで長くなっていることにも現れている。

小倉に到着。ここも改札をそのまま出て、駅北のバス駐車場に向かう。名門大洋フェリーの送迎バス乗り場だ。そこに新しい観光バスが停まっていて、それに乗るよう案内される。これは完全にご一行のための貸切車両である。バスは北九州ナンバーの車両だが、ひょっとしたら、当初はこのバスで長崎港から新門司港まで移動しようというプランだったのかな。このまま新門司港まで直通する。

小倉駅前の交差点を右折しようとしたその時、道路の先に一瞬、真っ赤な夕日が見えた。ツアーの名前にもある「平成最後の夕日」は見えなかったが、「令和最初の夕日」のギリギリのところを一瞬とはいえ目にすることができた。添乗員含め他の方はどのくらい気づいたかわからないが、これでツアーのほうも面目を保てたと思う。

しばらくそのまま走る。遠くに関門海峡が見えるか見えないかのところだが、添乗員Kさんが関門海峡の案内をする。そこで出たのが耳なし芳一の話。新門司港までの間、その昔話の語りが入る。内容は有名なのでここでは書かないが、ナレーションだけでなく、芳一、和尚さん、亡霊の武将などの声を使い分けてKさんが語るのが堂に入っていた。「まんが日本昔ばなし」で、常田富士男や市原悦子が一つの話でさまざまな人物の声を使い分けるのにも通じる。語り終えると車内から拍手が起こる。語りの様子は、芳一がKさんで、ツアー客が平家の亡霊たち、子どもの参加者は安徳天皇かな・・・というのは、この後フェリー内での夕食で飲んだ時に酔いの中で想像したこと。

新門司港に到着。福江島からの長崎大移動を、途中ハラハラしながらもプラン通りにクリアしてフェリーに乗ることになる。「効率のよい移動」というのはこういうのを指すのだろうな。

いよいよこれから一晩かけて大阪に戻る・・・。

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福江島を出立する

2019年05月19日 | 旅行記H・九州

福江島での最後の見学スポットは石田城内の五島観光歴史資料館である。石田城の二の丸跡に城郭を模して造られたもので、平成元年の開館という。

石田城は幕末の開国の中で築城を認められた城である。やはり日本の最西端ということから、外国船を意識した造りである。今は埋め立てもあったので堀に見えるが、元々石垣の外は海に面していた。外国船の攻撃を防御する砦という意図があったという。石垣の色が途中で変わって見えるのは、潮の干潮により水位が変わることの表れだという。

資料館は平成の幕開けと共に開館した。そしてちょうど平成の終わり、令和の始まりに合わせて、ロビーでは平成の五島市の歴史を写真パネルで振り返る展示が行われていた。2002年(平成14年)に当時の天皇皇后両陛下が福江島を訪問された時の写真が一番の出来事として飾られていた。全国豊かな海づくり大会のため長崎県に来られて、合わせて地方視察として福江島の総合病院を訪問されたそうだ。

資料館は自由見学ということもあり、希望者は資料館には入らず城内にある五島氏の庭園に向かったようだ。時間が40分ほどなので両方の見学は厳しく、私は庭園より資料館のほうを選んだ。

まずは世界遺産であるキリスト教関連の紹介である。五島のキリシタンの歴史や現存する教会の紹介は前日からの復習のようなもの。また撮影禁止の札もなかった(はず)で、マリア観音像や十字架を描いた茶碗、ステンドグラスの一部などをカメラに収める。

また、五島の伝統芸能や産業の紹介もある。江戸時代には捕鯨も盛んで藩の収入源になったともいう。

2階展示室では、五島の先史時代からの歴史を順に追っている。弘法大師や遣唐使のことももちろんあるが、その中にこのような手形が展示されている。

「天長六年七月七日 於江島弁天法秘密護摩一万座修行 以其灰此形像 作者也 空海」とある。弘法大師の手形とされている。天長6年は西暦829年、弘法大師55歳の頃で、高野山で入定したとされる5年前のことである。その頃には東寺も高野山も開かれており、超有名人だったことだろう。この手形は、黄島にある延命院という寺の本尊である弁財天を刻んだ板の裏面にあったそうで、展示されているのはレプリカだが、指の間に、弁財天の護摩修行を一万回行ってできた灰で像を造ったとある。

弘法大師と福江島といえば、遣唐使としての「辞本涯」と、帰国後に虚空蔵菩薩の求聞持法の修行を行った明星院に接したが、他にもさまざまな伝説があったのだろう。それが五島にも八十八所めぐりがあるのにつながるのだが、もし弘法大師が実年齢の年に実際に改めて五島を訪ねていたとしたら、それはそれで面白いと思う。若くして苦難の末に唐に渡った時のことを懐かしみつつ、島の人たちのために弁財天の修行を納めようとか。あるいは自分が空海であることを秘密にして、一人の老僧として島の人たちと接したのかもしれない。

五島氏の治世下のこともあるが、伊能忠敬も福江島の測量に来たと紹介されている。その時、五島氏の家臣・坂部貞兵衛という人物が忠敬の助手として、あるいは分隊長として測量を助けたが、病のためにこの世を去る。忠敬は大いに悲しんで手厚く葬ったという。その測量図が展示されているが、今の地形図とほぼ変わらない。五島の測量に来た時には、藩内でも助手や分隊長ができる人材がいたくらいだから相当技術が浸透していたのだろう。

五島盛光。産まれは越後の新発田だが、五島氏の養子として家を継いだ人である。現在本丸跡に建つ五島高校の設立者でもある。その盛光の後継者の盛輝という人も横で紹介されていたが、年譜を読むと長崎の原爆で命を落としたとある・・。え?五島氏はその後どうなったのかな。まさか原爆で家系を断たれたとか?

福江では1962年に大火があった。福江の市街地の大半が焼かれたというが、死者が一人も出なかったのもすごい。大火から復興した町並みというのが現在の福江中心部の姿だという。

さまざまためになる資料館だった。今回は旅の最後、おそらく昼食へのつなぎに入れたと思う。福江島をざっくり回った後のおさらいという点ではよかった。逆に、資料館が最初だったらどうなっていたか。最初に五島の歴史を学んでいただいて・・というのはわかるし、私がプランナーならそんな行程にしたかもしれない。ただ、2夜続けてフェリーに揺られ、その後に「五島灘」でのウェルカム朝食バイキングやサザエの競り体験の次に資料館を持って来ていたら、参加者の反応はどうだっただろうか。

今回ご一行の31名の人たちは、何を目当てに、後は何がポイントとなってこのツアーに参加することを決めたのか。それはバラバラだと思うが、そうした人たちを最大公約数的に満足させる行程を組んだ添乗員Kさん、現地ガイドのSさんの配球にうなるばかりである。

五島にいるからか、資料館の記事までも長くなってしまったが、昼食時間が近づいたので資料館からほど近いカンパーナホテルに向かう。五島でもっとも格式のあるホテルとのことで、広間を仕切っての昼食である。

さすがに豪華とまでは行かなかったが、アゴを材料としたさつま揚げや、汁物代わりの五島うどんがある。また米は五島産のミルキークイーン。朝食の幾久山米といい、島でこだわりの米が栽培されているのに感心する。

少し時間が空いたので、ホテルのロビーで新聞を見る。そういえば朝コンネホテルでは朝刊を見なかった。やはり島となると時間差があるのかな。福江島でそうだから、ここからさらに船に乗らなければならない「二次離島」となるとさらに遅れるのだろう。船が週1便という黒島の年寄り母娘となると、そもそも新聞を見ることができるのかどうか。

5月1日、手にしたのは長崎新聞だが、当然話題は改元である。ローカル面では県内の様子も書かれていたが、バカ騒ぎをするわけでもなく、淡々と、粛々とその時を迎えた様子である。その中で地元企業が改元祝いの広告を連名で出すのは地方紙ならではかと思う。

時間となり、そのまま福江港に着く。前日からここまでさまざま案内していただいたガイドSさんともここでお別れである。いろいろ福江島や五島のことを語っていただいたおかげで得たものが多かった。今回上陸できなかった他の島も含めて、またいつか五島は訪ねてみたい。ありがとうございました。

さてこれから大阪に戻るが、往路に負けじと怒濤の移動である。添乗員Kさんがご一行を見渡してニヤリとしたところで・・・。

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鐙瀬溶岩海岸と五島の塩

2019年05月18日 | 旅行記H・九州

だいぶ昔に読んだ紀行文で、作家・池澤夏樹の『南鳥島特別航路』というのがある。「大自然の厳かな営みを、鋭利な科学の眼と真摯な感受の視線で綴る」(背表紙の紹介文)紀行文で、文化や歴史というよりは自然、地学をテーマに各地を巡ったものである(現在は『うつくしい列島』に収録されている)。手にしたのは表題でもある南鳥島やサハリンという、なかなか紀行の対象になりにくいところを巡った話や、私が読んだ当時に行く予定にしていた対馬の話が面白そうだったからだが、その他の文についてもさまざま学ぶことがあり、今でも折に触れ読み返すことがある。

その初めに収められているのが「五島列島のミニ火山群」という文である。五島列島を「小さな日本列島」「日本列島の模型」と見立て、火山活動でできた島々を観察して回るという内容のものだ。その最後に、大昔に大陸や南方から渡って来た人が最初に見た島影が五島列島で、まず島の一つ一つに入植して一族の数を増やし、そしてその先にある大きな島の九州に渡ったのではないかとしている。普段の目から見れば五島は列島の最果て(「辞本涯」)のように見えるが、大陸から見れば列島の玄関口とも言える。

五島に来るのだからその本を持って来ればよかったなと残念がる。そこは頭からスッポリ抜けていた。

バスは福江島の東海岸を走る。遠くに浮かぶのは「さざえ島」。島の名前になるくらいだからサザエも獲れるし、釣りの名所でもある。なぜか車内ではガイドSさんと客との間で「サザエのワタ(肝)を食べるか否か」の話題になっている。Sさんが「五島ではワタを食べない」と言うのに対して、「あのワタの部分が美味いんやろ」という返しが来る。どちらが主流なんだろうか。最後はSさんが、「じゃあ一度食べてみます」と折れていたが。

遠くの沖合いに1台の風車が見える。2016年から稼働している洋上風力発電設備で、海底ケーブルで島内に電力を供給している。タワーを海底に固定するのではなく、水中に浮く構造なのだそうだ。将来的には10基の建設を目指すそうで、これも五島の活性化につながると期待されている。

アメリカヤシやフェニックスの木が生える一帯に来て、鐙瀬(あぶんぜ)溶岩海岸に到着。鬼岳の火山から流れ出た溶岩が海岸に広がっている。全長7キロもあるという。海岸を見下ろす展望台から、鬼岳のこんもりした姿と、荒々しい海岸の景色を見る。前日訪ねた高浜海水浴場の紺碧の海とは対照的な景色だ。

遠くにいくつか島影が見える。人が住むのが赤島、黄島、黒島とある。ただ住むといっても赤島が19人、黄島が47人で、黒島にいたってはたった2人という。その2人というのが御年99歳のお婆さんとその70代の娘だとか。2人といっても最初から2人だけだったわけではなく、半世紀前は200人以上が住んでいたそうだ。ただ島を離れる人が相次ぎ、最後に残ったのが1世帯だけという。黒島へのアクセスは富江から船が週1便あるだけで、電気は通っているが水道は雨水を溜めて・・というところ。どのような暮らしぶりなのだろうか。Sさんは一度訪ねてほしいと勧めていたが・・。

鐙瀬海岸のビジターセンターがあるので見学する。五島の自然について紹介するスポットで、『南鳥島特別航路』の中でも触れていた火山としての五島の成り立ちについても解説されている。

火山が噴火して溶岩が流れ出るが、その破片も各地に放出される。それが大きさによって「火山弾」とか「火山涙」と呼ばれる。それがいくつも展示されている。火山弾はラグビーボールとかレモンに似た形をしたものがあり、火山涙はそれよりも小さいものだが、こうしたものが島内のあちこちで採取されるのも不思議に思う。そこらへんが、日本列島の模型と言われる所以なのだろうが。

椿物産館に着く。こちらで土産物タイムとなるが、その前に併設する塩工房「つばき窯」を見学する。大きな釜にちょうど薪が焚かれていて、作業をしているところだ。塩を一つまみ舐めさせてもらいながら製塩の説明を受ける。昔ながらの海水を煮詰めるやり方で、3~3.5%の塩分濃度が17%くらいになるまで煮たてる。

その後は余熱を利用して水分の蒸発を促し、21%くらいになると結晶化した塩分の上澄みができる。最後は30%くらいの結晶となり、その溶液としてにがりも取る。最後は自然の風に当てて乾燥させる。

こちらのご主人は「塩匠」と称されているそうで、「海の結晶は今や芸術の域に達している」と寄せられた賞賛文も掲示されている。 袋詰めの塩そのものを買ってもいいのだが使うのが難しいかと思い、小瓶に入った焼き塩や昆布塩などを買い求める。ちょっとした味付けにいいだろう。

2日目の観光はここで折り返しとなり、福江の市街地に戻る。午前中最後の時間、そして最後の観光スポットは五島観光歴史館の見学である・・・。

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堂崎教会

2019年05月17日 | 旅行記H・九州

5月1日、午後に福江港を出航するジェットフォイルまでの時間が観光である。この日は先ほど訪ねた鬼岳を含め、島の東側から南側にかけてのエリアを回る。またも複雑な海岸線を行くが、波もほとんどなく水面も透明である。ところどころに生簀があるのは「近大マグロ」の養殖だという。近大マグロが五島に?というのも不思議な感じである。確か和歌山沖で育てていなかったか。

これはガイドSさんからではなく後でネットで調べたことなのだが、近畿大学と豊田通商が技術協定を結び、2010年に豊田通商の手でクロマグロの量産を行うべく、新たに福江島に養殖拠点を設けたとある。当初は和歌山などから稚魚を移送していたが途中で半分が死んでしまうということで、福江島に種苗センターを設立し、卵からふ化させて稚魚にするところまでも福江島で行うようにした。それが成功し、近畿大学から「近大マグロ」のお墨付きを得たという。今後は養殖業者や高級店への販路を広げる方向で、資源保護のためにヨコワの漁獲量が制限される中、安定供給に向けての大きな進歩である。今回はマグロを口にすることはなかったが、五島の新たな名物が近大マグロ!となる日が来るかもしれない。

そんな入江の岬にある堂崎教会に着く。1908年、キリスト禁教令の廃止以降五島列島で最初に建てられた本格的な聖堂である。教会はそれまでに水ノ浦を含めて他に建てられていたが、近代建築による聖堂が初めてということだろう。建物の設計はペルー神父、施工は鉄川与助という、前日の教会めぐりでも登場した人たちである。レンガ造りの建物というのも五島で初めてということだが、周囲の穏やかな景色とよくマッチして見える。

境内には3つの像がある。まずは「宣教」として、戦国時代、アルメイダが五島で布教した様子を描いたもの。続いては「受難」として、豊臣秀吉の手で長崎で処刑された26聖人の一人、五島出身のヨハネ五島が磔に遭うもの。そして「復活」ということで、五島に再びキリスト教を広めたマルマン、ペルーの両神父が子どもたちに寄り添うもの。五島におけるキリスト教の本格的な復活がこの堂崎の地から始まったことの象徴という。

内部はミサも行われる祈りの場だが、資料館としての位置づけでもある。そのためここだけ入館料がかかるが、キリスト教弾圧、禁教時代の潜伏キリシタン関連の史料を見せる、見ることができるのは意義あることだ。

五島に潜伏キリシタンが多かったのは元から島にいた人に加えて、江戸時代に九州本土から移り住んだ人が多かったからという。1790年代、領地開墾のために五島藩は大村藩に農民の移住を要請した。大村藩は領内の潜伏キリシタンの追放をもくろんでいたことから利害が一致したし、キリシタンも大村藩からの迫害を逃れたいと、新天地に希望を抱いた。その結果、約3000人が海を渡ったという。

ただ、移住したからといって話は甘くない。実際はあてがわれた土地は開墾に適さない、条件の悪いものばかりで、苦しい生活が続いた。天国だと思って渡った五島たが実はここも地獄だった・・という内容の歌もあるほどだ。

その中にあってキリスト信仰を捨てずに必死で生き延びてきた人たちである。その後、明治になっての「五島崩れ」という弾圧もあったが、ようやく信仰の自由を得て各地に教会を建てるようになった。その集大成とも言えるのが堂崎教会である。

ガイドSさんによれば、日本のカトリック教会は1023ヶ所あり、このうち132ヶ所が長崎にある。その132ヶ所のうち50ヶ所が五島列島にあり、さらに分けると福江島に13ヶ所、上五島に29ヶ所あるという。上五島のほうが教会が多いのは、大村藩から移住した人たちが島伝いに渡ったからだとか、上五島の狭い土地しか与えられなかったからとも言われていて、いずれにしてもそうした集落に教会ができたためだという。ただ現在は過疎化の影響で、福江島にせよ上五島にせよ、一つの教会で信者が数人しかいないところが多いという現実がある。普段は閉めていて行事の時だけ開けるところもあるそうだ。

何の脈絡もないが、キリスト教が「八十八所めぐり」のように「教会巡礼」を開くのもありでは・・などと勝手なことを思う。

五島のキリスト信仰に関する史料も多く保存されている。その中で多数のマリア観音像が目立つ。観音像は慈母観音や子安観音など、子どもを抱く母親の姿で表されることも多いからカムフラージュには適した仏様と言える。よく見ると十字架があるとか、隠し扉の向こうにキリスト像があるとか、さまざまなものである。武将像に似せたものもある。

ヨハネ五島の聖骨が祭壇に祀られている。処刑後の遺骨はマカオに送られ、歳月が経ちその一部が聖骨としてマニラを経て五島に戻って来た。堂崎教会は殉教したヨハネ五島を特に顕彰している。

由緒ある堂崎教会だが、実は、長崎・天草キリスト教関連の世界遺産に含まれていない。五島に行くなら何かしらの世界遺産にも触れるのかなと思っていたが、そういえばツアーの案内にも世界遺産の文字がなかった。ここも違っていたのか。

堂崎教会は、潜伏キリシタンの歴史には欠かせないスポットということで当初は暫定リストの中に含まれていたが、最終的な登録申請にあたって構成遺産の見直しが行われ、その中で除外されたそうだ。現在は「世界遺産の構成遺産と一体的に保存・継承していく遺産」という言い訳めいた位置づけとされている。

別に世界遺産だから優れているとか一級のスポットだとかいうものではないが、多数のスポットを一つのストーリーにまとめて世界遺産とする・・・というのもなかなか難しいものだろう。私の地元・藤井寺市も百舌鳥・古市古墳群の一部を形成することから世界遺産登録に向けて動いているが果たしてどうだろうか・・(と書いた後で、百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録内定となった。これについては別に触れることにする)。

普段接する機会がほとんどないキリスト教関連のことも五島に来て少しは学べたことを意義に感じ、次のスポットに向かう・・・。

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令和初日、鬼岳の朝と福江の城下町

2019年05月16日 | 旅行記H・九州

5月1日、新元号「令和」の時がスタートした。もっともその瞬間は既に眠っていて夢の中だったが、4時前には起床していた。この日は5時にホテルを出発して、鬼岳にて「令和最初の日の出」を見ることになっている。天気予報は前日までの曇り、雨から回復して晴れ時々曇りというものだが、ちょっと日の出は厳しいかなと思う。まあ、全国的に天気はあまり良くなく、地方によっては雨だというから致し方ないかと思う。

大晦日から元日にかけてならテレビも終夜特番のようなものをやるところ、テレビをつけてもNHKが何かやっている程度で、民放局によってはテレビショッピングを流しているのもある。渋谷のスクランブル交差点や大阪の戎橋あたりは日付が変わった瞬間はちょっとした騒ぎになったようだが、特に大きな混乱までには至らなかったそうである。改元の時は静かに迎えた人も思いのほか多かったのではないだろうか。

時間となりホテル前に停まっているバスに乗り込む。添乗員Kさんが出迎えるが、一瞬「明けましておめでとうございます」と言いそうになる。改元はしたが暦は5月である。

この日も添乗員Kさんの達筆による手書きの行程表が渡される。「昨夜『夜なべ』をして作りましたので心して取り扱ってください」と言われる。昨日も手書きの行程表をぐちゃぐちゃに折りたたんで座席に置いたままにした人がいたと、その現物を取り出す。座席で現物を見たのなら誰が置いて行ったのかはわかるはずで、あえて名指しをしなかったのは大人の対応である。いや、時間だけでなく五島のミニ知識のようなことも書いているし、旅の思い出になるはずなんだけどなあ。

「今日も『怒涛の』移動をしていただきますので」とのこと。特に福江島を離れてからの行程がとんでもないことになっているが、それはまた後の話だ。

前日と同じ最前列の席である。前日解散時、ツアーでは1日目と2日目でバスの座席割を前後入れ替えるとの案内があったのだが、オプションで前列プランを申し込んでいた私はそのままである。他にこのオプションを申し込んだ人はいないようである。ツアー全体は31名参加だが、このうち鬼岳に向かったのは27名だった。

鬼岳は「おにだけ」とも「おんだけ」とも呼ぶが、標高315メートルある。バスはホテルから10分ほど走り、中腹にある駐車場に着く。まだ暗い中、遊歩道の階段を上がる。山とはいっても全体が芝で覆われており、見た目は丸い丘で芝の上にシートでも敷いて寝転がると気持ちよさそうだ。実際、テントを張っていた人もいた。見た目は穏やかだが「鬼」とは仰々しいし、地学的に言えばこれでも活火山なのだそうだ。5月の子どもの日の期間はバラモン凧の凧あげ大会も開かれる。

展望スポットに集まって日の出を待つ。福江の市街地やその向こうの海も見渡せる。

予定時刻は5時38分とあり、少しずつ周りが明るくなるのがわかるが、そちらの方角はずっと雲が広がったままである。さすがに風が吹くと冷たく感じるので辺りをウロウロしながら日の出を待ったが、予定時刻になっても空が明るくなっただけで太陽の姿は見えなかった。

まあ、ある程度予想できたからお互い残念でしたねで済む。鬼岳という、福江島、いや五島列島のシンボルとも言える山に触れたことでよしとする。これが夜通し登山をして、しんどい目をして到達した高い山の頂上ならガッカリしたかもしれないが、所詮はホテルからバスで10分のところ。まあ、戻って朝食でもいただこうということになった。

鬼岳にいたのはご一行の人たちがほとんどだったが、その中でテレビカメラが1台来ていた。カメラにはKTN(テレビ長崎=フジ系列)のマークが入っており、カメラマン一人で取材していたが、日の出を収めることができず残念そうな様子だった。鬼岳は県内では初日の出のスポットとしても知られているそうで、県内各地にカメラを出しているのだろう。せっかくなのでどなたかインタビューを・・ということでカメラマンがご一行に声をかけると、前に進んだのはお父さん。そう、前日の朝食ではサザエを落札し、その後添乗員やガイドからの車内での振りに対して切り返していたお父さんである。一通りインタビューが終わるとカメラマンは「どなたか女性の方にも一人・・・」と声をかける。そしてマイクを向けたのは、少し離れていたところにいた方。何と先ほどのお父さんの奥さんである。カメラマンは別にご夫婦と認識してないようだが、結果としてご夫婦が別々にインタビューを受けたことに。他の参加者も笑いをこらえている。

「テレビに映るの?」「いちおうローカル放送なんですけど、ひょっとしたら全国ニュースになるかも・・」「いや~、でもお日さん出んかったらニュースにはならんやろな~」と言いながらもお父さん、ご満悦の様子である。夕日を心の中で見るだけのことはある。

6時すぎにホテルに戻り、8時40分まで自由行動となる。朝食はホテルの向かいのレストランで6時半から。米は「幾久山米」という福江島のブランド米で、国際的なコンクールでも賞を獲ったこともあるそうだ。離島のイメージで米はほとんど採れないのではと思っていた。実は島にしては耕作地の面積が結構あるのだが、後継者難で耕作放棄も進んでいた。それを何とかしようということで開発したのが幾久山米だという。朝からがっつりいただきました。

そのまま外に出て、ホテルからもほど近い武家屋敷通りに向かう。屋敷そのものは改築されたり、マンションが建ったり、荒れ地になっていたりさまざまだが、外側に独特の風情がある。

石垣の上に「こぼれ石」という小石を並べ、両側にカマボコ型の石を置いた造り。最初見た時は台風の被害を抑えるための造りかと思ったが(高知のほうで似たような石垣を見たことがあったので)、これはあくまで外敵の侵入防止のためとある。石垣を越えようとすると石がこぼれる音がして敵の侵入を知らせるとか、いざとなれば石を投げて防戦するとかの目的だそうだ。そこまでして防御線を張る必要があったのかな。まあ、おそらくこぼれ石を巡って戦いになったことはなかっただろうが、五島の歴史の一つを伝えてくれるスポットである。

そのまま進み、石田城に出る。五島藩五島氏の居城である。元々は屋敷程度のものだったが、幕末になり外国船が頻繁に日本の沖合いに姿を見せるようになると、外国船の防衛拠点の意味もあって、幕府から築城の許可を受けて竣工した。1863年のことで、外国船に備えて三方が海に面した城だったが、わずか5年で明治維新を迎えた。

現在本丸跡には五島高校がある。1900年、当時の五島氏の当主・盛光が私費を投じて五島中学を創設したのが起こりで、校内には五島盛光の胸像と顕彰碑が建てられている。

その創設は長崎県内でも古く、五島各地から下宿で進学する生徒も多いそうだ。また公立高校では全国的にも珍しい衛生看護科というのがあり、看護師になる最短コースとして、長崎県の本土からわざわざ福江島に下宿して進学する生徒もいるのだとか。島から翔いてほしいと勉学に力を入れる、まあこれはわかる。その一方で衛生看護科があるというのは、離島の医療を支えてほしいという現実的なことだけでなく、「マリア」のイメージがあるのかなと思う。何となくだけど。人々に尽くしてほしい、合わせて島にも残ってほしいというのがあるのかな。

石垣沿いに歩いて、メインストリート側の門から出てホテルに戻る。大浴場のオープン時間中で、朝風呂をいただく。

部屋でテレビをつけると、ちょうど朝のワイドショーの時間帯。ここで前日から今朝にかけての動きを各局が流すから、情報は嫌でもわかる。東京も大阪も雨だったようだ。先に書いた渋谷や道頓堀の様子もこれで知ったことで、戎橋から道頓堀にダイブした奴がいたとかいないとかいうのも流れていた。また、大宰府政庁跡では「令和」の人文字を作る様子の上空中継もあった。太宰府市、大宰府政庁跡、坂本八幡宮もより一層大変賑わうのだろうな。

そろそろチェックアウトの時間となる。福江島にいるのもあと数時間。前日に続き、添乗員Kさん、ガイドSさんで楽しむことにしよう・・・。

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