まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

2020年は半分終了。せめて残りは前向きに・・

2020年06月30日 | ブログ
2020年も6月が終わり、半分が経過した。

年の始めには、まさかこうした世の中の状況になるとは思ってもみなかった。何事もなければ、東京五輪に向けての話題が多かったことだろう。これでインバウンドの客をたくさん呼んで景気を浮揚させようとの目論見もあったはず。その一方の影響としては、五輪期間中は企業もできるだけ休んで鉄道や道路の混雑緩和に協力するようにとか、プロ野球もその期間は中断するとか、まあ特別な年だから仕方ないかという程度のものだった。

それが、コロナ禍である。それでもまだ最初の頃は中国武漢が大変なことになっているということで、外国の話ととらえられていた。しかし、クルーズ船で集団感染があった頃から国内でも少しずつ騒ぎになり、そして店頭からマスク、さらにはデマが原因でトイレットペーパーがなくなる事態に。

さらには学校の閉鎖要請があり、アベノマスク、緊急事態宣言、休業要請、自粛警察、他県ナンバー狩り・・と世の中が混乱した。経済活動、企業活動も大幅に制限された。

やはり普段の生活の制限を受けたというのは、過去の震災や災害で一部の地域がダメージがあったのとはまた違った、広いダメージを与えている。緊急事態宣言は解除されたが、東京を中心に新たな感染者が絶えないし、世界的に見ればとても終息の見通しがたたない。

私はといえば、周辺に感染した人がいないのはまず幸いである。また仕事のほうは、いわゆるエッセンシャルワーカーに近い業界なので休業することはなかったが、行事や業務の一部が延期、中止、あるいはウェブ形式の移行など、いろいろあった。在宅勤務やリモート会議も経験したり、大学生の採用活動でもウェブ面接に初めて臨んだこともあった。

こうした取り組みがはからずも「働き方改革」を後押しする形になった面もあり、こうした技術と、人同士のアナログな接触が今後融合していけないかを考える機会になったと思う。

その一方で政治といえば・・・まあ、これもさまざまなことが露呈したので、あるべき姿を一人一人が考えるきっかけになったのではないかな。

さて7月。今年の夏はいつもとは違った装いになりそうだ。一つの時代の変わり目、令和という時代はコロナ禍を受けた後の新たな価値観の時代になる、それを作っていくと、気持ちだけでも前向きに取り組もうと思う・・・。
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6戦6敗って・・・ちょっと、あんたら、ねぇ・・・。

2020年06月28日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

今年のパ・リーグは新型コロナウイルスの感染リスクを回避するため、8月までは同じ相手と同じ球場で6連戦という変則日程である。従来なら3連戦3連勝・3連敗で「3タテ」であるが、6連戦6連勝・6連敗なら「6タテ」である。

同じプロ同士なのだから「6タテ」というのはさすがにないと考える。日本シリーズでさえ「4タテ」で終わってしまうのだから。だからそうなると目も当てられないことになるなと思っていたのだが・・・。

まさかそれが最初の6連戦で出てしまうとは・・・マリーンズ対バファローズ。「史上初」の不名誉な記録を作ったのはバファローズである。今季開幕から通算して1勝8敗。大相撲なら早くも負け越し決定である。

これまでのシーズンでも、同じ対戦相手に6連敗というのはあっただろう。ただそれは日程が空いているし、球場も入れ替わっていたり、ローテーションの関係で苦手投手を続けて当てられてしまったとか、まだ救いようはある。それが6連戦6連敗となると、ねぇ・・。

また、同じ敗けるにしても最初から力敗けだったのはルーキー村西が初先発した試合くらいのもので、後は攻守におけるミス、チャンスにあと1本が出ない、ベンチワークやベースコーチの判断ミス、最後は追い詰められて自滅・・・。さらにエース山岡が故障離脱と踏んだり蹴ったり。

後は選手に執念、粘りというのが薄いように見える。

まあ、まだ9試合終わっただけという見方もできるが、何かこう、チームの雰囲気が変わる明るい材料がないものか、刺激となるものはないのかな・・・。

さてその中、無観客試合期間中の「応援し幕れ!バファローズ自宅応援隊」への参加記念品が送られてきた。選手カードの他に、開幕記念Tシャツ、タオルが入っていた。タオルのメッセージは数種類からランダムに選ばれるのだが、入っていたのは「おりほー」。ホンマ、たのんまっせ・・・!

また、7月10日からは観客を入れての試合となる。とりあえずは5000人限定ということでどういう売り方をするのかなとホームページを見ると、とりあえず7月の6試合についての販売概要が出ていた。外野の上段席以外の席が販売対象となっているが、人との間隔を開けての全席指定席となっている。価格も従来よりは多少高くなっているかな。

7月1日からファンクラブの会員ステータスに合わせて順次販売開始、7月8日から一般販売開始となるが、果たして埋まり具合はどうなるだろうか。私も野球開幕を楽しみにしていたし、今年の特殊な球場の雰囲気を見てみたい思いがある一方で、さまざまな制約(応援スタイルはともかく、球場でビールが飲めないというのはつらい)もあるし、今季はテレビ桟敷でもいいかなという気持ちもある。まあ、その前にチケットが手に入るかだが・・・。

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第12回中国観音霊場めぐり~新山口から帰阪

2020年06月27日 | 中国観音霊場

6月20日、夜行バスで広島に降り立ち、岩国~徳山~鹿野~防府を経て新山口に着いたのは17時前。帰りの18時30分発の新幹線までは1時間半ほどある。ならばどうするか。新山口駅周辺でスーパー銭湯でもないかと検索すると、駅前のホテルの大浴場が宿泊外の利用も可能とあった。ただそれよりも・・・山口らしいもので一杯やるということでどうだろうか。今回は県をまたぐ移動制限が緩和されたばかりということで宿泊ではなく日帰りであるが、ならばせめて一杯やるか。

この駅に降り立つのも久しぶりのことだが、様子が変わっている。確か以前は新幹線側、在来線側に駅舎があったが、橋上駅舎に生まれ変わっている。2015年に建て替えられたそうだ。山口市への玄関駅として表情も一変している。

在来線側の北口には新たなテラスが設けられ、駅周辺の景色を楽しむことができる。

一方、新幹線側の南口とつなぐ自由通路には左右に緑が植えられている。「垂直の庭」という芸術作品である。壁面に数々の植物が植えられているから「垂直」なのかな。この作品は、フランスのアーティストで植物学者のパトリック・ブラン氏が、およそ140種類の山口の植生植物を使って制作した作品である。約2年かけて、地元の園芸関係者が育てたものをひと株ずつ植栽したものだという。植物だけに維持も大変そうだが。

反対側の新幹線口に回る。こちらは機能的な造りで、新幹線ホーム下に飲食店、土産物店が並ぶ。繁華街(というのが新山口にあるかどうかだが)に出るほどでもなく、この一角で十分だ。その中で、瓦そばをはじめとした山口の郷土料理が売りの「長州屋」という店を見つけたが、あいにく短縮営業で17時で閉店という。その一方、17時から開店するのが「魚鮮水産」。いわゆるチェーン店なのだが、メニューには山口の郷土料理も含まれているのでよしとする。ちなみに3月に徳山駅前で入った「豊丸水産」と同じチェーンということで、グランドメニューは同じもの、価格だった。

その中で決め手になったのが、「感謝」の張り紙。緊急事態宣言が解除されたことを受けた6月末までの期間限定で、60分飲み放題が1000円とある。列車の待ち時間を考えるとぴったりのプランである。まずはこちらこそ「感謝」ということで生ビール一杯。久しぶりの、旅先での味わいである。

料理にはおすすめとして「おいでませセット」というのがあった。瓦そばをメインとして、ふぐの一夜干し、宇部かまぼこ、長州鶏のポン酢がセットになっている。名物を少しずついただくには適したメニューで、ビールも進む。

また、本日のおすすめもいくつかあり、その中でさざえの造り、いわしの造りといただく。ここまでいただいたところでちょうど1時間。いやなかなか、よい時間だった。

この後、改札外の売店でいろいろ買って改札を通る。改札内のコンビニはまだ臨時休業中との張り紙がある。

これから乗るのは18時30分発の「こだま866号」新大阪行き。やって来たのは500系である。この車両の乗車機会もこの先どのくらいあるかわからないので、今回選んでみた。新大阪までは3時間40分・・・。

そして乗るのは6号車。かつてのグリーン車用の車両である。他の指定席用車両のシートが700系「レールスター」のものに対して6号車だけグリーン車のシートが使われているのは、同じ車両に車掌室があるからである。普通車用のシートに張り替える手間を考えれば、グリーン車としての設備を取るだけで済み、一方ではお得感を出すこともできる。

車内のお供には地酒の「山頭火」である。「獺祭」は土産用で買っていたので、山口県ゆかりの種田山頭火にちなんだ名前の1本である。アテは、ふぐの一夜干しの切り身と、ソーセージ(山口らしくクジラ、ふぐを材料に練り込んだもの・・・)。

先ほど訪ねた防府の外れを過ぎ、徳山に到着。日の長い時季とあって、工場「夜景」には少し早かったようだ。それでも徳山の前後で、プラントの鉄骨を車窓に眺めるというのもこの辺りの名物である。

今朝がた通った岩徳線を過ぎ、新岩国を通って広島に着く。

19時12分着で、19時30分まで長く停まるので買い物をしようと外に出るが、ホームのコンビニは全て臨時休業中だった。階段を下りてコンコースに向かうが、新幹線改札内の売店も当面の間臨時休業との張り紙。まあ、新幹線を利用する人がまだまだ少ない状況では致し方ない。在来線側ではコンビニも営業しているが、新幹線のために途中下車するわけにもいかない。そのまま車内に戻る。

広島を出るとすぐ右手にマツダスタジアム。プロ野球が開幕したのがこの前日の6月19日。もっとも今季は変則日程のため、カープは開幕から4カードを関東、名古屋で消化して、マツダスタジアムでの開幕戦は7月3日である。

次の東広島でも8分停車で、たぶんダメとは思いつつもいったん外に出て改札口に向かう。やはり売店は休業だった。西条の酒の銘柄の瓶だけ見て車内に戻る。

そしてこの後だが・・・気づいたら姫路だった。途中、三原、新尾道、岡山、相生で数分ずつの停車があったが、どうやら新山口の生ビールと車内の「山頭火」が回ったようである。1時間半ほど爆睡していたことになる。まあ、夜行バスでそれほど眠れなかった翌朝からずっと動いていたから仕方ないか。

ただその後もうつらうつらしていて、気づいたら新大阪接近を知らせるチャイムが鳴っていた。新大阪止まりで、おまけにそのまま折り返しで岡山まで行くために清掃作業が行われるため寝過ごす心配はなかったようだが・・・。

ちなみに、種田山頭火は酒を愛した人物として知られるが、「酒は味わうべきもので、うまい酒を飲むべし」という「七戒」を課していたそうだ。

1.焼酎(火酒類)を飲まないこと
2.冷酒を呷らないこと
3.適量として三合以上飲まないこと
4.落ち着いて静かに、温めた醇良酒を小さな酒盃で飲むこと
5.微酔で止めて泥酔を避けること
6.気持の良い酒であること、おのずから酔う酒であること
7.後に残るような酒は飲まないこと

少々異論もあるところだが、最後の2つはきちんとしてなければと思う・・。

さて、久しぶりの中国観音霊場めぐりとなったが、この夏については宿泊を絡めての巡拝を行う計画を立てている。山口県の札所は残り6ヶ所で、一応これらを制覇するつもり・・・。

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第12回中国観音霊場めぐり~周防の中心にて

2020年06月26日 | 中国観音霊場

防府天満宮の「まちの駅うめてらす」で急遽レンタサイクルを利用して、防府の残りのスポットを回ることにした。結果的には効率よく回ることができ、暑さで体力を消耗するのを抑えられた。

ゴールを毛利博物館として、まず途中にあるのが周防国分寺。国分寺は奈良時代に聖武天皇の勅願により全国に建てられた。多くは時代の中で廃れていったが、中には宗旨を変えながらも現在に受け継がれている国分寺も残されている。四国の4つの国分寺はいずれも場所を移しながらも八十八所の札所として遍路コースとなっている。

周防の国分寺は創建当時の場所にそのまま残されていることで貴重なのだという。樹齢何百年あろうかという楠と並んで建つ山門をくぐり、開けた境内に入る。昔はさまざまなお堂もあっただろうが、戦乱で焼け落ちたこともあり、現在の姿は江戸時代中期の長州藩主・毛利重就の手による。

本堂が実に堂々としている。本尊は薬師如来。今回の札所めぐりは済んでいるが、これだけの寺を目にした以上、お勤めしようという気になる。なお、この本尊薬師如来は室町時代の作で、大内盛見の手によるという。今回の目的地だった漢陽寺を開いた人物だが、ここにも出てきたか。この先、大内氏、毛利氏が関係するスポットが次々に出てきそうだ。

境内には四国八十八所のお砂踏み霊場、また弘法大師と衛門三郎の像もある。これだけの寺だが、弘法大師霊場や薬師霊場めぐりの札所には含まれていない。

続いて、少し南に下って周防国衙跡に向かう。文字通りの「防府」だ。まずは国衙跡の西北部に建つ石碑を見て、中心部に向かう。現在は史跡公園として整備されている。こうした国衙跡も律令政治が廃れるといつしか消えるところが多かったが、周防の国衙は東大寺の管轄するようになったため、比較的後の時代まで残っていたという。

防府といえば天満宮のイメージがあったが、律令政治の時代の跡も残る古くからの都市である。新たな気づき。

そして、毛利博物館である。博物館といっても近代的なハコモノではなく、かつての毛利邸を開放したものである。駐車場がかなり手前にあり、クルマの人も表門まで結構歩かされる。自転車なら行けるかと門まで近づいたが、門の中が車両禁止とあり、仕方なく門の手前の路肩に停める。さすがは「大名屋敷」だ。

もっとも、「大名屋敷」というのは正確ではないようだ。毛利氏の庭園といっても、明治に入って公爵に任ぜられた毛利元徳が建てたもので、場所を選定したのは鹿鳴館で知られる井上馨。さらに完成したのは大正になってからのこと・・・。

ともかく玄関から上がり、それぞれの間を見て回る。明治から大正の建物として見るのなら面白さはある。和洋折衷の、どちらかといえば和のほうが勝ってるなと見える部屋が続く。明治以降の皇室のお泊まりもあったと紹介される部屋があり、昭和天皇が泊まった時に詠んだ歌も残されている。

ただ展望としては2階からのほうがよい。ちょうど風通しもよく、しばらくここに座っていたい気分だ。ここも防府の市街を見下ろすところ。ちょうど高架を貨物列車が走るのも見える。

まず屋敷を一通り回り、博物館の展示エリアに向かう。まず目に留まるのは、毛利元就の手による「三子教訓状(の複製)」。一般には、「三本の矢」の教えとして知られているアレ。元就が、隆元、(吉川)元春、(小早川)隆景の3人の息子の団結を説いた手紙である。矢に例えた話は1行も出ていないが、くどくどと兄弟、姻戚含めての団結を説いている。また、雪舟の「四季山水図」の一部も展示されている。雪舟が活躍した時代の周防は大内氏の時代だが、毛利氏も価値あるものとして大切に受け継いだといえる。

通路を伝って別館の展示室に向かう。こちらでは企画展「萩藩のなりたち」が行われていた。関ヶ原の戦いに敗れたために、中国地方の広範囲に有していた土地を防長2ヶ国に減らされた毛利氏。展示品の中には、徳川家康が毛利輝元にあてた書状があり、この中で防長2ヶ国に「進置(まいらせおく)」という文言がある。一見すると毛利氏を立てているようで、実は領地の扱いは家康が決めるのだという意思表示である。そして、これに背けば神仏からの罰が下るという起請文も残されている。毛利氏は本拠地として防府、山口、萩の築城を徳川に願い出たが、認められたのは萩のみ。以降、毛利輝元の子である秀就が初代長州藩主として萩に赴任する。当初は、領地が減らされたが家臣団がそのままだったこともあり経営に苦心したようだが、田畑を広げ、また商才を活かし、いつしか西国の雄藩として討幕の中心までになった。それはまた次の話。

そして庭園に向かう。多々良山麓の自然林も活かしつつ、ひょうたん池、芝生と桜の広場などが広がる。今はちょうどどの花の見ごろというわけでもないが、それでも青空と緑がよく映えている。池越しに見る毛利邸の姿もゆったりとしたものだ。

防府の歴史を少しでも見ることができたことに満足して、再びペダルを踏んで防府天満宮に戻る。これなら最初から駅でレンタサイクルを利用すればよかったなと思いつつ歩いて駅に戻り、さらに西の新山口に向かう・・・。

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第12回中国観音霊場めぐり~幸せます、防府天満宮

2020年06月25日 | 中国観音霊場

漢陽寺の参詣を終えて徳山に戻り、13時13分発の下関行きに乗車する。ここからは次の札所を見越して新山口までコマを進めることにする。

115系3000番台、私にとって久しぶりに乗る車両である。現在の227系レッドウイングに統一される前は、広島近郊の山陽本線、呉線、可部線という電化路線は、115系や105系、さらには103系という旧国鉄型が目白押しだった。私も広島在住時代には通勤で利用していたところである。このうち115系については、通常の3扉セミクロスシート車の他に、2扉で転換クロスシートを備えた3000番台というのが走っていた。当時は広島から岡山、下関まで直通する列車もあり、特に3000番台に当たると旅の気分も高まり、快適に移動できたものである。広島近郊の車両がレッドウイングに全面的に置き換わったのを機に、3000番台もその活躍の場を山口県内の山陽本線に移したようである。

次の新南陽まで工場地帯を走り、側線に貨物ターミナルを見る。

戸田から富海にかけて周防灘が車窓に広がる。梅雨時とは思えない晴天で、海の色も青い。砂浜で遊ぶ子どもが列車に向かって手を振っている。

山陽本線で海が近くに見えるのもここが最後の区間である。遠くに見えるのが大津島。太平洋戦争時、人間魚雷「回天」の基地が置かれ、若者たちの訓練が行われていたのがこの島である。現在は記念館が建てられ、「回天」作戦で命を落とした多くの若者たちの慰霊碑があるという。実は、中国観音霊場めぐりのオプションとして、この島に渡ることも考えたことがあった。5月の大型連休の旅行が予定通り行われていれば、徳山に宿泊して工場夜景めぐりとのセットで大津島にフェリーで渡ろうという行程も組んでいた。結局は先に進むことを選択したわけだが、また機会をつくってみようとも思う。

線路が高架になり、防府に到着。新山口に行く前にここで途中下車とする。防府といえば防府天満宮があり、昔に一度参詣したことがあるが、あまり覚えていない。今回久しぶりに出かけてみることにする。

駅から防府天満宮へは1キロ強、そしてその先、もう1ヶ所行こうと思うのが毛利博物館・毛利氏庭園。ここは駅から2.5キロ以上あるが、新山口には夕方までに着けばいいので時間はある。駅構内の案内所にはレンタサイクルの取り扱いもあるが、まあ、歩いて往復してもいいだろう。

しばらく進むとアーケードのある商店街に出る。ここを直進すれば天満宮の正面に当たるが、「幸せます通り」という名前がある。「幸せます」とは「幸せ増す」という意味なのかなと思ったが、これは「幸いです、うれしく思います、助かります、ありがたいです」という意味の防府言葉なのだという。「お越しいただくと幸せます」とでもいうのかな。

入口のところ、元は何かの店舗だった建物が開放され、グッズ売り場や、防府の昔の暮らしを紹介するレトロ資料館となっている。かつての防府駅周辺の様子も写真で紹介されている。昔の「三田尻」という駅名標もある。

その「幸せます通り」だが、現実はシャッター通りの商店街である。まあ、駅の近郊にもイオンやゆめタウンといった大型店舗が並ぶところである。

駅から15分ほどで、防府天満宮の鳥居に着く。一の鳥居、二の鳥居を抜け、石段を上がると楼門~拝殿である。

防府天満宮は、祭神である菅原道真が亡くなった翌年に創建されたとあり、「日本で最初に創建された天神様」という。北野天満宮、太宰府天満宮と並んで「日本三大天神」の一つとされている。周防の国府があり(だから防府なのだが)、当時は菅原道真と同じ一族の土師氏が国司を務めていた。また三田尻から九州に渡ったようで、その意味では天満宮が早くに建てられても不思議ではない。

札所めぐりでは般若心経など一通りのお勤めをするが、神社ではいかに由緒あるところでも二礼二拍手一拝でおしまい。別に祈祷を受けるわけでもなく、あっさりしたものだ。また札所めぐりの対象でなければ朱印をいただくこともしていないので、まあ、手だけ合わせに来たようなもの。

同じ境内には宝物館があるが、こちらは新型コロナウイルス対策として当面の間休館が続いている。

その奥には舞台のような春風楼という建物がある。江戸時代後期、当時の長州藩主毛利斎熙が天満宮の境内に五重塔を建てることを計画し、建造を進めようとした。しかし「不慮の支障」があって工事が中断された。その後明治時代になり、五重塔ではなく楼閣の造りにしたが、この土台部分に、五重塔に使われる予定だった部材が用いられている。それはそうと、「不慮の支障」って何だろうな。

この春風楼から防府の市街を眺めることができる。縁台に腰かけてまったりした時間を過ごすカップルもいる。ちょうど風も吹き抜けて気持ちがよい。

さてここから毛利博物館までは2キロあまり。歩いて行っていいところだが、この日は30度近い暑さ。行きはいいが帰りがしんどく感じるかもしれない。パスして駅に引き返そうかとも思った。その前に、買い物でもしようかと門前にある「まちの駅うめてらす」に立ち寄ると、ここでもレンタサイクルがあるのを見つける。4時間までの利用でママチャリが200円。

別に歩きにこだわるわけではないので、ここはレンタサイクルに乗ることにしよう。次は防府市の後編・・・。

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第12回中国観音霊場めぐり~第15番「漢陽寺」

2020年06月24日 | 中国観音霊場

中国観音霊場の第15番の漢陽寺。臨済宗の寺で、開かれたのは南北朝時代。中国地方に勢力を張っていた大内氏の祈願寺として、用堂明機禅師により開かれた。後に大内盛見により伽藍が造られたが、この盛見は山口の瑠璃光寺の五重塔を建立した人物でもある。西の京としての文化を高めたと言っていいだろう。

中国観音霊場としての本尊は聖観音像で、用堂明機禅師の護持仏とされている。大陸での修行を終えて日本に戻る時に嵐に遭ったが、お守りとして持っていた鏡と柏の実を空高く投げ、「これらがたどり着いた地に観音菩薩を祀る」と願った。すると観音菩薩の力で無事に日本に戻ることができた。後に大内氏に招かれて当地を訪ねた時、鏡が出土して、柏の芽が出ているのを見つけた。これを縁として観音菩薩を祀ったのが由来とされている。

まずは山門の前の石庭と池を見る。池に近づくと20匹以上はいるコイが大口を開けながらバチャバチャと集まってくる。そのまま生け捕れるのではないかというくらい。これも、清流の町の景色の一つだろう。

山門をくぐると、中国観音霊場はこちらとの立て札があり、その先に法堂と呼ばれる観音堂がある。山門、法堂は江戸時代の建立とされている。まずはこちらでお勤めとする。やはりマスクを着けたままだと般若心経の息継ぎがしんどい。・・ただ、こうして記事にするにあたり落ち着いて考えると、別に周りに誰かいたわけでもなし、しかもお堂の外だし、マスクを外しても別に問題になる場面ではなかった。

本坊に向かう。この先が本堂で、庭園も含めた拝観料は400円。玄関で、朱印代と合わせて納めて本堂に上がる。この建物は平成の初めに、大内見が建てた当時の姿の復元として再建されたもの。寺としての中心であり、中央の部屋は漢陽寺の檀信徒以外は立入禁止とある。

その本堂の前にはこの石庭。これも大内氏からのものかと思ったが、昭和の作品である。重森三玲という庭師の作品だ。

本堂正面、漢陽寺の景色といえばまずこれというのが、「曲水の庭」。平安時代の貴族の遊びである曲水の宴をイメージしたものである。水を真ん中に置き、周囲の石の周りには紋様があしらわれている。枯山水の様式もミックスさせたようなものである。禅宗様といえばそうだし、現代美術のようにも見える。

本堂を巡っては、「地蔵遊化の庭」や「九山八海の庭」といった、禅宗の考えから来る「作品」が並ぶ。大内氏や江戸時代の毛利氏の時代にはなかった庭だが、現代の寺の取り組みとして、こうした庭を見るだけの価値がある札所である。この日は私の他に、法事で来ていたとおぼしき家族連れだけだったので、静かな佇まいを味わうことができた。

この漢陽寺で歴史的なスポットは本堂の裏にある。水が湧き出て左右に流れる。「潮音洞」という。先ほど見た庭園の水はここから出たものである。

潮音洞は、単に漢陽寺の庭の水ではない。ここで登場するのが、鹿野総合支所(かつての鹿野町役場)前に銅像が建てられた岩崎想左衛門重友である。

江戸前期、鹿野は周辺の錦川などから高い位置にあるため、民衆は水を汲むために遠くまで通っていた。そんな中、岩崎は漢陽寺に参詣して裏山を散策した時に錦川の豊かな水を見て、何とか鹿野にこの水を引けないものかと考えた。そこで、この裏山にトンネルを掘ることを思いつき、藩の許可を得ることができた。当時のことなので槌とノミでの手作業だったが、私財を投げうち、また村人の協力もあって4年がかりで完成した。水が通ると鹿野は潤い、人々の生活用水を得られただけでなく、新たに田畑を広げることができた。岩崎はこの功績により藩士に取り立てられた。

「潮音洞」という名前は観音経の中から取られたが、観音菩薩の慈悲は雨が人々を潤すようなものだという意味だそうだ。この水が漢陽寺の境内を流れ、そして清流通りを伝っている。

寺というより屋敷、庭園を訪ねたという趣で、漢陽寺を後にする。

途中、緑豊かな二所山田神社に立ち寄る。出雲、伊勢の神々を歓請したものだという。先ほどから水に関するスポットを見ているためか、こうした緑が映えるのも印象的である。鹿野は「一見さんとして訪ねるなら」清々しい気持ちになれるエリアと言ってもいいだろう。

バス停に戻り、12時発の便で徳山駅に戻る。画像は、鹿野の待合室にあった乗客へのお願い事項が時代がかっているなと思わず撮ったものである。

バスの乗客も途中でちらほらあった程度でガラガラで進む。途中、この後に山陽本線で通過する新南陽駅を通るが、そのまま乗り通した。

徳山駅前は昼過ぎということで人の姿も増えている。駅前が噴水になっていて、子どもたちが水遊びを楽しんでいる。この日も暑い。

さて、今回の札所めぐりはここまで。後は次のエリアである山口市、宇部市を見据えて、新山口までコマを進めておく。とは言え時刻はまだ13時を回ったところ。新山口から帰りの新幹線は18時半ということで、途中の立ち寄りを入れながら進むことに・・・。

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揃いも揃ってヘボ!! 下らん試合するなやボケ!!

2020年06月23日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

勝っても報道されることのない球団。

だからこそ勝たなければならない。

それを何をミス連発で落とすかねえ・・・。敗退行為も同然。

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第12回中国観音霊場めぐり~錦川の源流へ

2020年06月23日 | 中国観音霊場

岩徳線に揺られて徳山駅に到着。鹿野行きのバスまで少し時間があるので、土産物を物色したり、駅に隣接する周南市立駅前図書館をのぞいたりする。

こちらの図書館は蔦屋書店とスターバックスを併設しており、前回来た時には図書館らしからぬ内装に驚いた。その時はコロナ対策で市の施設全体が休館していたが、今は通常開館に戻っている。訪ねた時は図書館がまだ開館時間前だったが、スターバックスには行列ができているし、ベンチで憩う人たちもいる。何か良さげな本がないか書棚をしばしぶらつく。地元関連の書籍がわかりやすいところにあればよかったなとも思う。

9時40分発の鹿野行きバスに乗る。乗ったのは私ともう一人だけである。私が乗ったのは防長バスのオリジナル色の車両だったが、ロータリー周辺を見渡すと、ところどころには青と黄色のどこかで見た色の車体のバスがある。近鉄バスの塗色に似ているなと思ったが、防長交通が近鉄グループに属していることが関係するのだろうか。

空調を効かせていないため、他に客もおらず換気をしようと窓を全開にする。まずは徳山の駅前からロードサイドの大型店が並ぶ一角を抜け、隣の新南陽駅前に着く。鹿野へはここから進路を北に向ける。県道3号線で、新南陽から津和野まで抜けるルートである。しばらくは郊外の雰囲気だが、山陽自動車道、山陽新幹線の高架をくぐると、少しずつ上り坂となり、田畑も増えてくる。そんな中に「周防国三十三所霊場」という看板も見える。国ごとに開かれた三十三観音霊場や八十八所めぐりの一つである。地元の人の中にはこうした地方霊場を回る人もいるだろうが、そうした人はクルマ利用が前提だろう。まあ、そんな中大阪からわざわざ来て、在来線からさらにローカルバスに1時間揺られて一つの寺を目指すヤツもいるわけだが・・。

車内放送が「次は川上ダム」と告げる。県道はカーブとトンネルで高度を稼ぎ、高い橋からは立派なダムの姿を目にする。川上ダムは富田川(とんだがわ)の中流に建てられたダムで、当初は洪水調整のために1962年に完成した。その後、周南市の中でも新南陽地区(かつての新南陽市)の工業用水を安定的に確保するためとして1979年にダムのかさ上げが行われ、現在にいたっている。川上ダムの奥、車窓の左手には菊川湖というダム湖が広がっていいる。鹿野まで漠然と田園地帯を行くのかなと思っていたが、標高も上がり、山深い景色になった。こういう車窓が見られるとは思わなかった。

バスはその後も山がちな区間を走る。クルマの交通量はそれなりにあるので、乗降客はいないがしばしば途中の停留所で路肩に車体を寄せて、後続車を先に行かせる。それでもダイヤには余裕があるようで、途中で数分停車時間があった。その時に年配の運転手が文庫本を取り出して2~3ページ読んでいたりする。広げていたのがスマホなら即通報ものかもしれないが、文庫本ならローカル線の景色に見えてしまう。多分に主観がはいっているが、のどかといえばのどか。

山深い一帯を抜けた先の集落を見ると、赤い石州瓦の屋根が目立つ。同じ周南市の中でも徳山や新南陽とは異なり、気候としては内陸性に近く、冬は結構冷えるのかなと思う。そこで、近くから調達できて寒さに強い石州瓦が広まったのだろう。

今度は車窓右手に幅の広い川が見える。川にしては流れがおとなしいなと思って地図を見ると、向道湖というこれもダム湖である。この南側(進行方向とは反対側)の下流に向道ダムというのがあるが、この川はあの錦帯橋のかかる錦川の上流である。錦帯橋から、錦川鉄道に沿って上流にさかのぼるところまではイメージしていたが、その源流はさらにさかのぼって鹿野まで至るということは初めて知った。「錦川源流の町 鹿野」という看板も見える。

中国観音霊場めぐりとは関係ないが、ふと思い出してスマホで検索することがあった。

周南市で2013年に発生した連続殺人事件がある。その現場となった集落というのは、ここから山一つ向こうにあるという。「平成の八つ墓村事件」と呼ばれたり、被害者宅の一軒に貼られた「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と詠まれた川柳の紙が犯人の恨みを表した句として話題にもなった。地域の限界集落に住む昔からの住民と、上京したが親の介護のためにUターンしてきた男性(犯人 のちに最高裁でも死刑判決)とのトラブルが事件の根底の一つとも言われている。「地方暮らし」「田舎への移住」の理想と現実の間ということでクローズアップされ、まあ、それぞれに言い分はあったようだ。「なぜ話し合わなかったのか?」と疑問を投げかける向きもあるが、人間関係にあってはそもそも話し合いなど成立しないことがほとんどではないのかなと思う。きれいごとではなく現実のこととして。

・・徳山駅から1時間、鹿野の中心地に入ったようで集落の家並みが増えたところで、10時43分に防長バスの営業所がある鹿野に到着。目指す漢陽寺はバス停から歩いて10分ほどのところにある。帰りのバスは12時ちょうど発があり、まあ、このくらいの時間なら十分参詣できるだろう。

歩いていくと鹿野総合支所(かつての町役場)があり、そこから「清流通り」というのが続いているとの案内図がある。その入り口に銅像が立つが、「岩崎想左衛門重友」と記されている。この人物はこの先の漢陽寺、そして鹿野の町にも関係があるようで、次の記事で改めて触れたいと思う。

清流通りを歩くと龍雲寺という禅寺があり、その先には水車小屋や憩いの場が広がる。「平成の名水百選」の一つにも選ばれているそうで、そこは錦川源流の町とあるから、水のいいところなのかなと連想する(さすがに水路の水を飲もうとは思わなかったが)。水に映える青もみじの景色もこの時季ならではである。

歩くうちに漢陽寺の山門に着く。これからお参りである・・・。

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第12回中国観音霊場めぐり~岩徳線に乗車

2020年06月22日 | 中国観音霊場

6月20日の早朝、広島駅に降り立つ。ここから山陽本線~岩徳線を経由して徳山に向かう。

夜行バスの定刻が6時15分着で、乗るとすれば広島発6時39分、58分あたりの列車で、岩国から8時08分発の岩徳線に乗り継ぎかなと計画していた。それが定刻より早い6時ちょうどに着いたため、それより前の6時24分発にも乗れそうだ。もしそうだと、その後の行程が前倒しで進むことになる。まずは新山口までの乗車券を購入して、早くから開いている立ち食いそばのスタンドで朝食として、6時24分発の岩国行きに乗る。

前回この区間に乗ったのは3月20日。新型コロナウイルスの感染が拡大する中で、日本中でマスク不足が叫ばれていた頃、そしてデマによりトイレットペーパーが店頭から消えていた頃である。その時はもう少し遅い時間だったが、沿線にあるドラッグストアにも開店前から行列ができていたのを覚えている。現在はマスクも中国からの輸入も再開されたし、「アベノマスク」とやらの配布も行われ(それでも、まだ届いていない地域は結構あるようだ)、さまざまな素材のマスクも売られるようになった。

最近ではマスクのための行列など見なくなったが、先日ユニクロが「エアリズム」素材のマスクの発売を開始したところ、店舗には大行列ができたとか。マスクというのが下着、肌着の一つに加わるようになった時代の現れともいえる。

宮島から大野浦の海沿いの景色を見て、山口県に入る。岩国には7時16分着。岩徳線が予定より1本早い7時19分というのがあり、急いで乗り換える。

ホームにいるのはキハ40の2両編成。今回夜行バスを使ってでも岩徳線経由としたのは、今や貴重な国鉄型気動車に乗るためである。ボックス席には高校生の姿も見られるが全体的にはガラガラである。乗ってしばらくしてエンジン音を高らかに発車する。

古い駅舎が残る西岩国を過ぎ、錦川を渡って川西に着く。名所錦帯橋へは岩国、もしくは新岩国からバスで行くのが一般的だが、駅なら川西が最寄りである。錦帯橋まで1.5キロだが、わざわざ岩徳線を利用して行く客はどのくらいいるか。ここは『生きて行く私』で知られる作家の宇野千代の出身地との看板がある。高校生がぞろぞろと下車する。近くには岩国高校がある。

ここから山がちな区間に入る。時折、時速25キロというゆっくりとした走りになる。トンネルを抜けた信号場で錦川鉄道が分岐する。こちらはかつての岩日線。山間の柱野でキハ40どうしが交換する。

欽明路トンネルをくぐる。3000メートルを越える長いトンネルで、岩徳線の難所の一つである。かつて岩徳線が全通した時、岩国~徳山間の距離が縮まったというころで山陽本線の一部に組み入れられた、元の柳井経由は柳井線と改称された。しかし山陽本線の複線化が計画された際に、勾配やカーブが多く、欽明路トンネルをもう1本掘らなければならないことから岩徳線経由は見送られ、元の柳井線が再び山陽本線となった。その後、電化も見送られ、ローカル線として現在にいたる。

ただ、新幹線や山陽自動車道、国道2号線はどちらかと言えば岩徳線に並行している。

欽明路から、沿線の中心である玖珂に着く。ホームの壁には絵地図が貼られている。玖珂の観光案内かと思いきや、「いろり山賊」の看板である。その本店にあたる玖珂店は国道2号線沿いにある食事処で、昔の屋敷、農家をイメージした建物で訪ねる人の目を引いている。具材をたっぷり詰め込んだ大ぶりの山賊むすびや、鶏肉を豪快に焼いた山賊焼きが看板メニュー。山口県の人が運転免許を取ったら必ず行くところの一つ・・とも言われている。岩徳線でも欽明路駅から徒歩圏内だというが、岩徳線で行くという人はいないだろう。そんな中、5月の旅行プランでは徳山に宿泊して、夜の岩徳線で行くことはできないかも一時考えたことがあったが・・。

周防高森で列車行き違いのため数分停車。沿線の中では比較的大きめの駅である。岩徳線はかつて山陽本線の一部だった歴史もあり、駅によっては長いホームがそのまま残っていたり、かつての行き違い設備の跡も見られる。周防高森はかつて貨物用の退避線路もあったようだ。

4人がけのボックス席、シートの向かいに足を投げ出してぼんやりと過ごす。久しぶりにこうしたローカル線の感触を楽しんでいる。

新幹線の高架橋が現れた。生野屋、周防高岡と並走し、いったん別れて櫛ヶ浜で山陽本線に合流する。前回の観音霊場めぐりではレンタカーで海沿いのルートを走って徳山に着いたが、やはり鉄道でもつないでおきたかった。

8時50分、徳山に到着。今回の目的地である漢陽寺には、徳山から鹿野行きの防長バスに乗る。次のバスは9時40分発と少し時間があるので、駅でしばし過ごすことに・・・。

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第12回中国観音霊場めぐり~いよいよ再開

2020年06月21日 | 中国観音霊場

全国的な移動が緩和された6月19日。これを見据えて中国観音霊場めぐりも再開である。

前回、柳井、平生町にある特別霊場の般若寺を訪ねたのが3月20日のこと。この時は新型コロナウイルスの感染が拡大しようかという頃で、その後4月に入って緊急事態宣言が出されるに至った。

実は5月の連休を使って、山口県内の山陽側を回ろうと計画していた。そのためのホテルも確保していた。行先は第15番・漢陽寺(周南市)、第16番・洞春寺(山口市)、第17番・龍蔵寺(山口市)、第18番・宗隣寺(宇部市)、そして時間が取れれば第19番・功山寺(下関市)と一気に回ろうというものだった。しかし緊急事態宣言が出たために行くのは延期して、ホテルもすべてキャンセルした。

そして仕切り直し。まとまった日数で出かけるなら7月の連休(ちょうど、東京五輪が開幕するはずだった時だ)を想定していたが、8月の夏休みも含めて、薄くたたいて伸ばして長く楽しもうかということにした。移動が緩和されたからといきなり宿泊を伴うのではなく、まずは日帰りでもいい。ということで、今回は周南市の漢陽寺を目的地として、その後で山口市の玄関である新山口まで巡拝の線を進めることにする。

徳山まで新大阪から「のぞみ」、「さくら」なら2時間弱、「こだま」でも3時間あまりのコース。漢陽寺は同じ周南市でも徳山から内陸に入った旧鹿野町にあり、徳山からバスで1時間くらいかかる。ただ防長バスの時刻表(JTB時刻表の巻末にも掲載)を確認すると、朝の新幹線で行けば午前中で参詣することが可能で、昼過ぎに徳山まで戻り、夕方までに新山口まで移動すれば問題ない。一時は、徳山港からフェリーで豊後高田に渡り、首相夫人も参詣した宇佐神宮まで泊りがけで行こうかとも考えたが、やはり「中国」観音霊場めぐりである。そこは、新山口までの間にある由緒ある防府天満宮へのお参りでどうだろうか。

その一方で、費用を抑えるということと、こういう乗り物はどうかということで出てきたのが夜行バス。もっとも、大阪と山口を結ぶ防長バスは依然として運休中である。その中で、6月12日からJRバスの大阪~広島便が運転を再開している。19日夜に「グランドリーム広島号」に乗って、20日朝に広島から始めるというのはどうだろうか。そうすると、徳山に行くまでに久しぶりに岩徳線に乗るという選択肢も出てくる。

そして高速バスの予約サイトに入ると、「グランドリーム広島号」は3列シートの中央、そして最前列のシートの販売を止めて、残りの座席のみで運行とある。そのため定員は20名を切る。私が見た時点では空席も多かったのでしかるべき席を指定できたが、その後予約サイトを確認すると満席になっていた。やはりこの日を狙ってという人も多いのだろう。

・・・そして当日。19日はプロ野球が遅れて開幕した日でもあり、私もCSでバファローズ対イーグルスの開幕戦を観戦していた(結果については、まあ・・・)。それを受けていささか不機嫌な中での出発である(まあ、野球を観て不機嫌になるという感覚も、ありがたいことなのかもしれない)。天王寺から大阪環状線に乗ったが、途中の駅からはマスクもつけずに酔っ払って大声でわめいているおっさん連中が乗ってくる。さぞかし自粛解禁祝い、テレワークなどクソくらえという御身分に見受けられるが、さすがに周りからは白い眼で見られていた(ここで下手に何か言うと「自粛警察奴が!」と絡まれるだけだろうから皆黙っていたが)。

なぜいつも前置きが長いのかと思うのだが、23時前、大阪駅に到着。バスの案内表示を見るが、夜行バスでも東京行きはまだ運休中。ここはエリアごとの対応だろうが、少しずつ再開されることだろう。

広島行きが入ってくるとの案内があると、そこらで時間をつぶしていた乗客が集まってくる。大阪駅23時30分発、広島駅には翌朝6時15分着である。「グランドリーム」車両の夜行便に乗るのは初めてである。

中央部のB席には使用禁止の貼り紙がある。普段ならこの列も埋まって満席になるのだろうが、ここを外して窓側のA席、C席だけだと、「密」を軽減するとともに気分的にも楽だろう。列ごとにカーテンがあるといっても、そのすぐ向こうに人がいるのといないのとでは気持ちの面で違うと思う。また、新型コロナ対策の一環ということで毛布の貸し出し、スリッパの提供は取り止めている。そこは荷物になるが、リュックの中に薄手の毛布を持ってきていた。換気も兼ねて空調をガンガンに利かせているので、何か腹に当てておくものはあったほうがいいだろう。

さて大阪駅で満席となったところで出発。この後は停留所もサービスエリアでの下車休憩もない。運転手は途中の吉備サービスエリアで交代するという。ツーマン運行ではなく、エリアごとに運転手を替えるというスタイルだ。

車内案内の放送が一しきり流れた後、23時45分を過ぎて車内は消灯される。これから、夜行バスに乗った時にいつも感じる、寝たような寝ていないような一夜を迎える。

今回はどうだったか。ずっと停まっている感覚がして意識がはっきりしたのが、運転手が交代する吉備サービスエリアだった。ただその後も、今は覚えていないが何か夢を見ていたから、それなりに眠ることはできたのだろう。

意識がはっきりしたのは東広島の奥屋パーキングエリア。ちょっとカーテンを開けると、日の長い季節ということもありすでに外の様子ははっきりしていた。

その後順調に広島インターまで進み、車内も点灯して最初の停留所である中筋駅に到着。以後、祇園新道から広島バスターミナルまで進む。かつての広島市民球場跡地には何やら花が植えられているようだった。

広島駅新幹線口には定刻よりも早い6時ちょうどに到着。まずはここから徳山まで移動することに・・・。

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プロ野球開幕だが・・バファローズ惨敗

2020年06月19日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
6月19日、NPBプロ野球が当初から3ヶ月待ったがようやく開幕となった。地上波、BS、CSの番組欄に野球の文字が見えるとようやくほっとしたものを感じる。

バファローズは大阪でイーグルスを迎えての開幕戦。私もCSにて桟敷観戦。スタンドには選手への応援メッセージボードや、「STRONG OSAKA」の文字が並ぶ。

試合は山岡、則本の両エースの好投で、7回裏を終えて1対1の同点。その得点はいずれも犠牲フライによるもの。ここから、多くの解説者がどのチームにとっても今シーズン重要なカギを握る継投策である。クローザーもそうだが、今季は連戦が続くため7、8回を投げる投手も固定ではなく、その時の調子や相手打者との相性で柔軟に起用するのがポイントという。また延長が10回までなので思いきった起用もできるようだ。

その8回のバファローズのマウンドに上がったのは神戸。解説の野田浩司さんは「今の調子がいいんでしょうね」と見守っていたが、開幕戦でガチガチになっていたのか、無死満塁となって鈴木に通算1000本安打となる2点タイムリーを打たれて降板。続く吉田にもイーグルス打線が止まらずに、この回だけで8点。そのまま9対1で、大阪出身のイーグルス・三木監督が初陣を飾った。

まあ、開幕戦は半分のチームが黒星スタートとなるのだが、今季の実戦を初めて観た者として、何だか昨年の再放送でも観ているかのようにも感じられた。先発投手はそこそこ踏ん張るが、リリーフ、継投策で崩れる。また打線も淡白な攻撃になる。開幕オーダーは1番T-岡田、2番ロドリゲス、3番吉田、4番ジョーンズという「超攻撃型」だったが、結果はT-岡田の犠牲フライのみ。またヒットも、安達の送りバントの処理が遅れて内野安打になった1本だけ。終盤も、1イニング10球かからずに三者凡退とか・・。

また気になるのはライトに入ったジョーンズ。打撃は、まあ結果が出ない日もあるだろう。ただ、あの守備は今後大丈夫かなと不安になる。イーグルスも「ライトを狙え」という指示が出ていたかのようである。満塁でライトへのそれほど深くない犠牲フライ。まあ、三塁ランナーが生還するのは仕方ないとして、この時に二塁ランナーが三塁へ。まあ、それもありがちなこと。しかし、一塁ランナーまでがタッチアップで二塁に行くというのには、目が点になった(その後にタイムリーが出て、結局この二人も生還)。

下手なのか、緩慢なのか・・。せめて後者でないことだけを願う。

まだ1試合だけだが、これから大丈夫かな。

観戦を終えた後で自宅を出る。向かうのはJR大阪駅。6月19日はプロ野球開幕とともに、全国的な移動制限の緩和である。それを利用して・・・。
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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第35日(薩摩大口~枕崎)

2020年06月19日 | 机上旅行

ここまで長々と書いてきた宮脇俊三の『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行。実際の旅行に出ることが難しい時期にあって、ブログを書く側としてはちょうどその空白を埋めるネタになったかと思う。ようやく最終日だ。

薩摩大口からは、これも民営化直前で廃止された山野線の区間を行く。山野線は水俣から肥薩線の栗野を結んでいた路線で、現在はこの区間は南国交通のバスが走っている。『最長片道』では唯一の快速列車に乗っている。川内川沿いの区間だが、ここまで来ると車窓の刺激も薄くなったのか、本文、取材ノートともに短く記されている。

そして肥薩線。栗野は前日通った吉松の隣の駅である。肥薩線は大畑ループ線やスイッチバック、そして球磨川の眺めを見たが、逆方向の隼人方面は霧島の山々を見る。途中通過するのが、現在では昔ながらの駅舎があることで人気の嘉例川。季節運転の特急「はやとの風」も嘉例川に停車する。それも時刻表の記載によれば5分、長いケースで8分停車する。ここで対向列車との行き違いがあるわけでなく、駅舎の見物、記念撮影の時間である。

JR九州はローカル線にイベント列車の要素もある特急を走らせている。いわゆる「水戸岡デザイン」というのは私個人的にはあまり好みではないのだが、こうした列車が観光客誘致に一役買っているのは確かである。リアルの2020年では列車の運休も余儀なくされていたが、これから運転も再開される。また九州の各線も実際に回ってみたいものだ。

隼人から日豊本線に入り、再びの錦江湾、そして桜島を見る。どうしても海側の景色に気を取られるが、『最長片道』では反対の山側の景色も面白いとしている。シラス台地がそそり立ち、クスノキやクロガネといった温帯植物が生い茂る様子に触れている。

鹿児島を通過する。鹿児島の玄関駅は隣の西鹿児島(現・鹿児島中央)で、鹿児島は通過駅だが、ここで連想するのがバファローズの西村徳文監督。宮崎の高校を出て、社会人野球の国鉄鹿児島鉄道管理局チームに所属していた。国鉄での最初の配属が鹿児島駅で、駅の改札で切符を切ることもあったそうだ。その時期を見ると、国鉄に入ったのが1978年の春のこと。つまり『最長片道』の旅の当時、西村監督が鹿児島の駅員だったということになる。午後は野球部の練習をしていたそうだから宮脇氏の乗った列車を見ることはなかっただろうし、こういうつながりを見つけるのも面白いものである。

社会人野球の都市対抗や日本選手権の前になると、現在プロで活躍している選手たちが社会人時代に「社業でこういうことをしていました」という記事が出る。純粋に野球だけに打ち込んでプロに入った学生出身(もちろん、学業もきちんとしていたと思うが・・・)と比べて、どこか人間味というか、世間を多少なりとも見てきたというところがあり、私も目を引くところである(別に私の勤務先企業に同様の人間がいるからというわけではないが・・)。

さて、西鹿児島(現・鹿児島中央)から最後の線区である指宿枕崎線に入る。机上旅行では12時発の枕崎行きというタイミングのいい列車がある。一方の『最長片道』では午後の列車だが、枕崎行きまでの時間が空くので、その前に出る山川行きに乗っている。鹿児島市内、路面電車とも並走する区間を過ぎて、今度は桜島を逆方向から眺める。喜入の石油備蓄タンクも登場する。

指宿を通過して山川に到着。現在も「日本最南端の『有人駅』」である(沖縄は除外)。『最長片道』では枕崎行きまでの時間、バスで港を訪ねたり、タクシーで鰻池を見物したりして過ごしている。

そして山川から出発。『最長片道』では、これまで200本近い列車に乗った中でこれほどの満員は初めてと触れているが、3両の車内は下校の高校生で混雑していたとある。これまで「ガラ空き列車の旅でもあった」としていたのが最後の最後でくつがえる。最後に見たのは開聞岳と、水平線の向こうに見える黒い雲。

枕崎に到着。高校生たちは駅ごとに下車しており、『最長片道』の本文ではあたかも淋しげな雰囲気で綴られているが、「取材ノート」では100人くらいがぞろぞろ降りたという記載がある。駅員も1日の締め作業で慌ただしく事務をしていたようで、しばらくは宮脇氏も声をかけるのを遠慮したようだ。一段落したところで、前日で効力の切れた「最長片道切符」を差し出して、下車印を押してもらっている。

・・・これで、北海道の広尾から続いた『最長片道切符の旅』も終了である。

『最長片道』では枕崎に着いたのが夕方の18時30分。それからどうしたかということだが、「取材ノート」にはその続きがある。もっとも、こういう舞台裏というか、楽屋の話をのぞき見するのが良いのか悪いのかは賛否があるように思う・・・。

最初の選択肢は、当時走っていた鹿児島交通の伊集院行き。当初はこれに乗ろうとしたが、車内の座席が汚いという理由で見送る。次は、指宿枕崎線で西鹿児島に引き返すか、それとも酒かと迷う。枕崎に泊まるという選択肢もあったが、旅館が見当たらなかったようだ。そして選んだのが、西鹿児島に行く列車までの20分、寿司屋で酒を飲むこと。イカ刺、鉄火巻、酒2本とある。さすがだ・・・。

帰りはガラ空きの指宿枕崎線で西鹿児島まで2時間半。本格的な夕食は鹿児島に戻ってからのようだった。そして翌日には東京に向かっている。

・・・一方の机上旅行。枕崎に到着するが、以前のように鹿児島交通の列車があるわけでもなく、当時の駅舎も新しいものになっている。まだ午後ということで枕崎駅周辺を少し散策して(さすがに居酒屋はまだ開いていないだろうが)、帰りは鹿児島交通のバスに乗る。薩摩半島を一跨ぎする形で鹿児島に戻る。

そして・・・鹿児島中央駅で1時間ほどインターバルを取った後でも、九州新幹線「さくら」に乗れば、その日のうちに大阪まで戻って来てしまう。まあ、リアルに枕崎、鹿児島まで行ったならばせっかくなのでどちらかに1泊するとは思うが、ここは2020年の机上旅行ということで、鹿児島から大阪まで4時間で行けるということを示しておく。鹿児島中央での待ち時間で薩摩料理のあれこれを仕入れて、「さくら」の車内で打ち上げ・・・。新大阪行きなので寝過ごす心配もない??

※『最長片道』のルート(第34日続き)

薩摩大口12:00-(山野線)-12:23栗野12:42-(肥薩線~日豊本線)-14:13西鹿児島14:54-(指宿枕崎線)-山川17:15-(指宿枕崎線)-18:30枕崎19:09-(指宿枕崎線)-西鹿児島

※もし行くならのルート(第35日)

大口7:15-(南国交通バス)-7:54栗野9:18-(肥薩線)-10:02隼人10:09-(日豊本線)-10:59鹿児島中央12:02-(指宿枕崎線)-14:41枕崎16:00-(鹿児島交通バス)-17:31鹿児島中央18:28-(さくら572号)-22:49新大阪

・・・当初は、1998年に「40年後の『最長片道切符の旅』はどうなるか」ということで北海道から机上旅行の記事を書いたが、東北まで来たところで中断。このまま打ち切りの感じだったが、2020年のこうした状況で旅行に行くこともならなかったことで、続きをまとめてみた。まあ、個人のブログなので話はどうでもいい方向に脱線するが(『「最長片道切符の旅」取材ノート』にどうでもいい脚注をつけていた某教授の筆力には及ばないが)、約40年前と現在の比較も面白かったし、懐かしく思うこと、また当時の世相と並べることで新たに気づくこと、いろいろあったと思う。

でもまあ、実際に行けと言われればどうだろうか・・・。関西近郊の2~3日なら現在でも「最長片道切符」のルートになっているところも多いのでたどってみるのも面白いが。一方、現在はもちろんこのようなルートの切符は発行できないので、乗車券もどのように購入すればよいのかということもある。JR各社が出しているフリー切符や、シーズンなら青春18きっぷを適宜使ったとしても、基本は個別に賄わなければならないので、当時と比べても交通費はバカ高いものになるだろう。

とはいうものの、現在もJR各社をつないだ「最長片道切符」は存在する。鉄道趣味の認知度も高くなり、またSNSや動画配信という手段で実際の旅行の様子も手軽に発信できる環境にある。この後、2020年現在のルートを紹介することにしよう・・・。

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第34日(都城~薩摩大口)・その2

2020年06月18日 | 机上旅行

1978年の宮脇俊三『最長片道切符の旅』は、68日という期限がゴールの枕崎を前にした八代で切れてしまった。有効期間は68日だが、旅の日数としては第33日、半分にも満たない期間である。最後は「継続乗車」という荒技を使って期間内にたどり着こうとしたが、宿での寝坊ということもあり失敗。もっとも、その前に仕事や所用が入ったり、また東京近郊では自宅の近所なのでついダラダラしてしまったり、秋から冬への変わり目ということもあって風邪で寝込んだり・・・机上旅行ではなく生身の人間だからさまざまなことが起こっている。

「最長片道きっぷ」で全国をめぐる旅は、時代によって国鉄~JRの路線網も変わるが(新たな区間ができたと思えば、赤字ローカル線はどんどん廃止されたり)、2020年までにそれなりの人数が実際に走破している。最近ではその旅の様子をYouTubeに掲載したり、SNSでリアルタイムに報告したりして、自分だけではなくそれを観る人たちも一緒に旅した気分にさせる発信の仕方もある。宮脇氏や、その後に国鉄バスも含めた「国鉄最長片道きっぷ」の旅を行ったレイルウェイ・ライターの種村直樹氏(故人)が2020年にそうした様子を見たら、「ぞっとしない」感想を持ったかもしれない・・・。

それはさておき、『最長片道』としてはある意味延長戦に入った第34日目。八代から枕崎までのルートの乗車券をどのようにしたかは本文、「取材ノート」ではわかりにくい。前夜、八代の駅員に「継続乗車」を断られた後で、酒に酔った勢いでその後のルートを通る乗車券を翌朝までに作るよう注文したか、あるいは真逆で、列車に乗るごとに短距離のきっぷを都度チマチマと買ったのか。

『最長片道』では八代を朝6時すぎの客車列車で出発している。駅には前夜応対した「額ハゲ」氏がいたかどうか。

八代から鹿児島本線を南下するが、九州新幹線の開業と引き換えに、八代~川内は第三セクターの肥薩おれんじ鉄道に転換されている。新幹線の新八代は八代の北にあり、現在の八代は鹿児島本線~肥薩線乗り継ぎで何とかJR在来線のルートを守ろうとした結果である。宮脇氏よりも昔の『阿房列車』シリーズで内田百閒が八代を何度も訪ねたことは本文中にも多く書かれていて、八代の定宿がかつての肥後藩の家老屋敷を受け継いだ松浜軒だったことも知られている。私も松浜軒を訪ねたことがあるが、宿のほうではかつての家老屋敷が旅館をしていたことが「黒歴史」と思われるのか、そうした紹介はほとんどなかったように思う。

松浜軒は駅から離れているので今回はパスして、肥薩おれんじ鉄道の出水行きに乗る。九州新幹線の開業を機にJRから切り離された八代~川内間を引き継いだ第三セクターである。第三セクター線が「県単位」で経営されるところが多い中、この路線は熊本、鹿児島両県にまたがっている。電化区間であるが、運行コストを下げるために気動車が使用されている。

JR時代よりは列車の本数を増やしたり、「おれんじ食堂」など観光列車も走らせているが、経営状況はやはり厳しいものがあるようだ。沿線は不知火海に近いところも走り、のんびりしたところである。リアルでも長く訪ねていないところで、久しぶりに乗ってみたい。

ツルの飛来地として知られる出水で列車を乗り継ぐ。『最長片道』では寝台特急「明星3号」に乗り換えている。「寝台」特急だが、朝になると一部の車両を席数限定の「座席」として開放する。逆に夜を迎える前にも同じ扱いをする。朝夕の特急として利用してもらおうというもので、業界用語では「ヒルネ」と言われていた。現在は寝台特急そのものが「サンライズ」しかなく、こうした運用も昔の話になってしまった。

川内からは宮之城線。薩摩北部の内陸地域と鹿児島本線をつなぐ路線として開業したが、その後はご多分に漏れず赤字ローカル線としての日常があり、民営化直前の1987年に廃止されている。宮脇氏の中では、『時刻表2万キロ』では、その時に乗り残していた線区として宮之城線がもっとも長かったことから、「未乗線区の横綱」としていたが、途中で睡魔に勝てず居眠りして、その対策で運転席の後ろに立って前面を眺めたとある。『最長片道』でも居眠りをしている。鹿児島にしては水田が多く、本州のローカル線とそれほど車窓の変化がなかったからとしているが。

机上旅行では、宮之城線が廃止になった後のバス路線をたどる。線名にもなっていた宮之城までは鹿児島交通のバスで行く。川内から1時間の乗車。リアルでも乗ったことがない路線、足を踏み入れたことがないエリアなので、ここは『時刻表2万キロ』や『最長片道』の記述を追うしかない。

宮之城に到着。この先は南国交通バスが担当する。時刻表でも別欄に記載されているのだが、机上旅行では現地で2分の待ち合わせで乗り換え可能とした。ただ、実際の現地ではどうなのだろうか。特に違うバス会社同士で乗り継ぐ場合、バス停の名前が異なっていても実際は同じところから発着するので特に問題ないこともあれば、その真逆もある。この場合は、宮之城を中心として各方面を結ぶバスが発着していると理解する。

・・・ということで、宮之城から約1時間で薩摩大口に着く。『最長片道』では、薩摩大口から山野線に乗って栗野まで移動している。この山野線、水俣から栗野までの路線で、その両線が合流する薩摩大口もそれなりの駅だったと想像するが、山野線も民営化を前に廃止されている。

机上旅行にて、川内~宮之城~薩摩大口とバスを乗り継いだが、薩摩大口に夕方に着いた時点でこの日は終了である。肥薩線の栗野まで行くバスはもうこの日の運行を終了している。

薩摩大口。ネット検索にて、一応駅近く(バス停近く)にビジネスホテルがあるのがわかったので、ともかく寝床を確保する。一方の『最長片道』では、山野線の乗り継ぎまでの1時間を利用して、タクシーで「祁答院(けどういん)」住宅に向かっている。薩摩大口の歴史は鎌倉時代の土豪までさかのぼるといい、その武家屋敷の様子を見ようということだ。

その祁答院住宅、訪ねる前は立派な武家屋敷を想像していたが、実際は薩摩藩の郷士(百姓武士)の一つだったようだ。それでも屋敷がそのまま残り、観光スポットの一つとして紹介されていたので宮脇氏も行く気になった。もっとも、この時は祁答院の屋敷をおかみさんの案内で一通り回ったようだが、現在ではそうして回るのは限りなくゼロに近いだろう。

まあ、こうした薩摩北部の町で一泊というのも悪くないだろう。そして翌日は旅の期間としては第34日。最終日である・・・。

 

※『最長片道』のルート(第34日)

(第34日)八代6:12-(鹿児島本線)-7:42出水8:04-(「明星3号」)-8:55川内9:05-(宮之城線)-11:01薩摩大口・・・(以下続き)

 

※もし行くならのルート(第34日続き)

八代12:09-(肥薩おれんじ鉄道)-13:42出水13:46-(肥薩おれんじ鉄道)-14:49川内16:13-(鹿児島交通バス)-17:13宮之城17:15-(南国交通バス)-18:21大口

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『最長片道切符の旅』をめぐる机上旅行~第34日(都城~薩摩大口)・その1

2020年06月17日 | 机上旅行

宮脇俊三が運賃計算キロ計13,319.4キロに及ぶ、当時の「最長片道きっぷ」を携えて北海道の今はなき広尾線の終着駅の広尾を出発したのが1978年10月13日。それから何度かの中断を経て、ゴールの枕崎まであと一息のところで有効期間の68日を迎えた。『最長片道』の旅としては実質第33日であるが、やはり途中でやむを得ない事情で旅を中断するとか、本人が風邪で1週間寝込んだとか、さまざまなハードルがある。鉄道趣味が現在のように認知されていない時代だから仕方がない。

2020年の現在なら、鉄道趣味は当時に比べれば認知されてきたし、「最長片道きっぷ」の距離も短くなったので、実践する人も増えているのではないかと思う。

それはともかく、『最長片道』では第33日の朝に志布志で致命的な寝過ごしをした後、大隅半島を回って日豊本線で都城まで来た宮脇氏。もうすでに有効期限終了までのカウントダウンが進んだところで、都城で打ち切るとその時点でゲームオーバー。夜の区間だが、宮崎発吉都線~肥薩線~鹿児島本線経由の博多行き特急「おおよど」で一気に八代まで向かう。

一方、すでに『最長片道』のペースからすっかり置き去りにされた机上旅行は、そもそもきっぷの有効期限など関係ないので、都城1泊から吉都線に乗る。えびの高原を抜ける列車だが、時刻表をいろいろ見ると、前日は都城で打ち切るのではなく、夕方の吉都線に乗って、終点吉松の手前にある京町温泉に泊まってもよかったかなと思う。翌朝乗る吉都線の列車は同じだし、リアルでもなかなか訪ねることのない山間の温泉というのもいいだろう。

吉松に到着。この先、肥薩線の人吉までの区間は日本三大車窓の一つともされる矢岳越えの区間である。JR九州も観光路線として位置づけていて、人吉から吉松に向かう列車を「いさぶろう」、吉松から人吉に向かう列車を「しんぺい」としている。気動車を改造した観光列車が走るが、それを含めても、吉松~人吉間は1日3往復しかない。私も観光列車で通ったことがあるが、乗っているのは観光客、中には旅行会社の団体ツアーもあったかもしれない、そうした人ばかりである。県を跨ぐ区間、しかもループ線とスイッチバックを兼ね備えるだけの区間なので、日常生活として地元の人が利用することなどほとんどないのだろう。

人吉に到着。机上旅行ではまだ昼間なので球磨川の景色を見ながら八代まで下るが、『最長片道』では車内で思考回路が停止したかのようである。日本三大車窓の一つも寝過ごしたために暗闇の中での通過となったが、宮脇氏は特急なので車内販売が乗務しているのをいいことに、ワゴンが通るたびに缶ビールだ、日本酒だと買い求める。これは飲み鉄というのではなく、そうしている間に「最長片道きっぷ」の期限が切れてしまう。だからといって誰に文句を言うのか。仕事関係の人たちか、余計な知恵をつけたのが完全に裏目に出てしまった種村直樹氏か、あるいは健康管理、自律がなっていなかった宮脇自身か。果ては、このきっぷに対して有効期間などというくだらんルールを決めた国鉄そのものに対してか。

車内販売でいろいろ買って、おそらく販売員の女性にちょっかいも出したであろう行程を経て、宮脇氏が乗った特急「おおよど」は20時30分を回って八代に到着。その時間だし、翌日の行程を踏まえると八代宿泊しかないと宮脇氏は決意する。そして八代駅改札の係員に、「継続乗車」の適用を申し出る。

当時に止まらず現在もJR各社で有効の「旅客営業規則」。その中の「継続乗車」とは、そもそもは、使用を開始した後で乗車券の有効期限が過ぎてしまった場合でも、目的地の駅までは通してあげましょうという考えが前提にある(もちろん、短距離の当日のみ有効、途中下車前途無効の乗車券はこれに該当しない)。ただし、有効期限が過ぎているのだからその先での途中下車は認められず、とりあえずさっさと目的地まで行け、という扱いである。

ただし、列車の運行時刻は限られているから、その途中で終電となり先に進めなくなることもある。かといって途中下車は禁止だから、それなら駅のホームで一夜を明かせというのか・・・という事態も想定される。その場合は、乗り継ぐ列車を駅員が指定して、その列車に乗せてあげるという証明印を押して駅の外に出してあげる、という措置を取ることになる。ただし、その措置ができるのも、その日にこれ以上先に進めなくなった場合のことで、まだ列車が動いている時間であれば、とりあえず行けるところまでは行け、というのが原則である。

八代の駅員は宮脇氏から「継続乗車」の申し出を受けたが、この後、21時57分の出水行きがあるので、それに乗って出水(23時37分着)で「継続乗車」の手続きをするように案内する。列車が動いている限り、とりあえず行けるところまでは行け、という原則である。これに対して宮脇氏は、仮に出水まで行って翌日その先を行っても、川内から乗る宮之城線(現在は廃止)に乗る列車は同じなので、そんな時間に出水まで行って宿を探すくらいなら、八代で「継続乗車」の扱いにしても同じではないかと食い下がる。ただ、「旅客営業規則」に従えば駅員に分がある。最後に宮脇氏は八代で泊まることを選択し、「最長片道きっぷ」の残り区間は放棄することにした。

「最長片道きっぷ」の有効期限は切れてしまったが、宮脇氏は八代の駅員とのやり取りについて、「思い返してみると、この駅員こそ私の最長片道切符に対して真正面から対応してくれた唯一の国鉄職員ではなかったか」と、さっぱりした気持ちになっている。この切符を手に北海道から乗車して、途中下車、車内改札は何度となくあったが、車内改札の多くは切符に驚くばかりでろくに中身も見なかったとか、途中下車印も面倒くさいので自分で押せとか、あまり関わりたくなさそうな職員も多かった印象である。八代の駅員はごく普通に「継続乗車」のルールに従った対応をしただけだったのだが、それが「真正面から対応してくれた唯一」と書かれるのだから、何ともいえない。この駅員、当時頭の禿げあがった中年だったから現在はもう退職して、果たしてご存命かどうかというくらいの方だろう。

これは「取材ノート」でも触れられているし、ネット記事やブログでも取り上げられているが、もしこの日の朝、志布志の旅館で寝過ごさずに予定の6時24分発に乗っていればどうだったか。午後の明るい時間に八代まで来て、その後出水も過ぎて川内に到着。しかし、その先の宮之城線の運転が終わっていて、川内で「継続乗車」の手続きとなる。「枕崎まで行くのが目的なら鹿児島本線で西鹿児島まで行け」と言われるかもしれないが、そこは乗車券の経路を尊重するのだろう。そして、翌日は途中下車できない制約はあるものの、「最長片道きっぷ」は無事枕崎まで有効で着くことができた。

一方で、ここまで来てしまうと、途中下車印で埋めつくされて券面に書かれている事項もほとんどわからなくなっていたし、68日の有効期間がこの日で切れるとしても、ふと魔がさしたり、あるいは本人がそのことに気づいていなかったりして、八代や川内で「継続乗車」の申し出をせず、そのまま枕崎までスルーできたかもしれないと想像する。いやいや、最後の最後、西鹿児島で気づかれてきっぷそのものを取り上げられて、不正乗車のペナルティを科されていたかもしれない。

最悪なのは、仮に枕崎までその状態で乗り終えたうえで『最長片道切符の旅』が出版された後で、読者からそれを指摘された場合。当時ならどういう反応が起きたかは時代背景の違いもあるのでわからないし、鉄道の知識に詳しい人がそれほどたくさんいたわけでもないだろうからごく一部の波紋にしか過ぎなかっただろう。これがもし現在のようにコンプライアンスに敏感な世なら、宮脇氏、国鉄の双方が責められ、鉄道紀行作家としての宮脇氏の人生もひょっとしたら終わっていたかもしれない。そうなると『時刻表2万キロ』も否定され、その後に鉄道趣味が世に認知されることも、そういうことを商売にする人が出ることもなかったかもしれない。この時の宮脇氏、八代駅員の「けじめ」が、いろいろなものを守ったとも言われている。

・・・机上旅行では八代着はまだまだ昼。ともかくこの先に進むのだが、本文が一つのクライマックスを終えたところで、ここでいったん記事を区切ることにする・・・。

 

※『最長片道』のルート(第33日続き)

都城17:37-(「おおよど」)-20:37八代

 

※もし行くならのルート(第34日)

都城6:37-(吉都線)-8:13吉松8:46-(肥薩線)-9:43人吉10:14-(肥薩線)-11:34八代・・・(以下続き)

コメント

プロ野球開幕しても、観に行けるのはどうせ一部の特権階級だけでしょ?

2020年06月15日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

もうどうでもええわ。

今季どころか、来季もそうした営業になるのだから、一般庶民はもうスタジアムに足を運ぶことはできませんね。

好きにしてください。

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