まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

特急「ひだ」で日本海側へ横断

2019年12月31日 | 旅行記D・東海北陸

29日に乗車した「ひだ3号」。岐阜からは進行方向が変わる。私が座っているのは進行方向の右側で、東から南に向くところだ。冬の青空に降り注ぐ日光はありがたいのだが、その分まぶしいし、車内も暑く感じる。あちこちで窓側のカーテンが引かれるが、私は外の景色を見たいのでそれは我慢する。ただ、外の景色の写真を撮るとなると、窓ガラスに車内の様子が反射したりで思うようにはいかない。

岐阜を過ぎると乗車は落ち着いたようで、自由席の通路に立っていた客もデッキに移動したり、果ては向かい合わせにしてできたシートの隙間に荷物を入れたり、果てはその隙間に子どもを座らせたりと、混雑の中にあって少しでも快適にという動きになる。

観光利用の多い特急らしく、時折車窓の案内も入る。まずは現存の天守閣で日本最古である国宝の犬山城。高山線からは結構離れたところに位置するし、この時間だと逆光なので姿がくっきり見えるわけではないが、小高い丘の上にそれらしき姿が見える。

続いては木曽川の日本ライン。確か「日本ライン下り」という遊覧船があったと思うが、現在はその名前を聞かない。どうやら利用客の減少や安全面の理由から営業休止となったようである。

そして天然記念物にも指定されている飛水峡。木曽川水系の飛騨川の河床の岩盤の上に数多くの穴が見られるのが特徴というが、車窓で見る限りではよくわからない。時折ゴツゴツした岩が現れるなというくらいである。

美濃から飛騨に続く道中、茶畑が目立つ。白川茶というのはこの辺りの名産だという。国内の茶の生産の北限だそうで、急な地形で栽培され、昼夜の寒暖差が大きいことから立ち込める朝霧が保温効果を出すそうで、ゆっくりと旨味を蓄えるという。この日は穏やかな天候とはいえ、ここまで来ると日陰では霜が下りているのが見え、茶畑もうっすらと白くなっている。これでも大丈夫なのだろうか。

名勝の中山七里はほとんどが反対側の車窓に広がったようだが、いつしか飛騨川を渡り、下呂の温泉街が見えてきた。

ここで外国人観光客を含めてそこそこの下車があったが、それ以上に多くの乗客が乗り込んできた。下呂温泉に宿泊して、翌日に高山観光というルートだろうか。飛騨観光の王道といえば王道だが、実は私は下呂温泉を訪ねたことがないので何とも言えない。下呂であれば大阪から青春18きっぷの日帰り旅行でも行ける範囲で、宿泊しなくても日帰り入浴の施設もあるし、民俗村のようなスポットもあることからこれまで何回か行き先の候補に挙げたこともあるが、まだ実施にいたっていない。

下呂を出発してから車内改札があった。下呂から乗車したのもほとんどが外国人のようで、持っているのも一部新幹線を除く全国のJR特急が乗り放題の「ジャパン・レール・パス」のようである。その提示を受けて車掌も「タカヤマ?」「タカヤマ?」と呼称確認するだけである。で、私も指定席を放棄して自由席に座っている特急券を提示しようかとすると、先に、隣から周りにかけて陣取っていた大陸の親子連れのお父さんらしい客が人数分のパスを提示した。それを見て車掌も「タカヤマ?」とまとめて処理してそのまま行ってしまった。どうやら私も大陸からの客にカウントされたようだ。

まあ、どこぞの国の暗殺された要人にそっくりだと言われて居酒屋で写メを撮られた経験があるくらいだから、別にいいか。

高山線の最高地点にある久々野のあたりではさすがに少し雪の姿も見えるが、交通に支障があるものではなくうっすらとしたものである。大陸のお父さんも「雪だ」と外を指さすものの、事前に聞いていたほどの量ではなかったのか、ちょっと期待外れというような反応である。

さて、「タカヤマ」に到着した。果たしてほとんどの客が下車する。高山は飛騨の観光の拠点であり、もちろん古い町並みも見どころであるが、世界遺産の白川郷へのアクセス地でもある。下呂温泉に泊まり、高山をちょっと見てから白川郷に移動するというのも外国人に人気のルートのようだ。

ここで意外だったのが、高山で後ろを切り離して4両で走る富山行きにも、これもほとんどが外国人の待ち客があり、先ほど以上の混雑となった。この人たちは、もちろん富山を観光するケースもあるだろうが、富山から北陸新幹線に乗って金沢に行くか、ひょっとしたらそのまま東京に向かうために「ひだ」に乗るという人が多いのかな。

隣にやって来たのは外国からのカップル。女性に席を与えて男性が立っていたのだが、スマホに映る文字はクルクルした字体のタイ語。このエリアを訪ねるタイ人観光客が多いという。座席にあるJR東海の運行情報のQRコードの案内にもタイ語バージョンがあるようだ。

飛騨古川を過ぎて、富山県境の山深いエリアに入る。雪景色も少しは見えるがそれほどの量ではない。10年くらい前だったか、途中の杉原駅近くの民宿で年越しを迎えたことがあるのだが、その時は雪が深く、駅から徒歩3分のところだがご主人に送迎していただいた。

猪谷からはJR西日本の路線となる。少しウトウトする間に富山平野に出てきた。神通川に沿うエリアだが、手前に散居村、奥には雪をかぶった立山連峰が広がる。これは運がよい。隣のタイ人から私の目の前にスマホが伸びてきた。

定刻なら12時30分のところ、5分ほど遅れて高架の富山に到着。この旅にあたってまずは富山を目指すと書いたが、今回は乗り換えのみである。この後「あいの風とやま鉄道」の泊行きに乗り継ぐのだが、予定では12時47分発である。ただ乗り換えるだけなら同じホームなので問題はないのだが、富山では駅弁、そしてほたるいかやかまぼこといったアテを購入したい。まあ17分あれば買い物の時間はあるかと思うが、5分遅れとなるとちょっと厳しい。また多くの下車客がいるので移動に少し手間取る。

その中でいったん改札を出て、コンコース内の土産物コーナーでしかるべきものを購入する。幸い12時47分発には間に合い、そのまま東へと向かう・・・。

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富山、新潟を目指す旅でまずはアーバンライナー

2019年12月30日 | 旅行記D・東海北陸

29日、この日は富山を経て糸魚川を目指すわけだが、大阪駅に向かわずに御堂筋線のなんばで下車する。

そのまま近鉄の大阪難波のホームに向かう。今回乗ることにしたのは6時発の名古屋行き特急、アーバンライナーである。デラックスシートは1人掛けシートはほぼ埋まるものの2人掛けシートはグループ客が2~3組いる程度で空いている。

新潟県を目指す旅なのに名古屋行きのアーバンライナーに乗ったのは旅に変化をつけかたったからだが、名古屋に着いてからどうするか。この日の宿泊地である糸魚川を目指すなら中央線で松本に出て、大糸線に乗るという手がある。そしてもう一つ、高山線で富山に出るルートがある。その中で今回は北陸の日本海も見たかったので、名古屋からは8時43分発の「ひだ3号」に乗ることにする。出発の数日前にふと思い立って調べると、指定席に空席があったので確保した。高山線に乗るのも久しぶりだが、特急「ひだ」に乗るのは初めてである。この日は青春18きっぷは封印で、普段乗らない在来線特急を味わうことにする。

鶴橋で地上に出るがまだ真っ暗である。そのまま大阪府から奈良県に入り、ようやく山の稜線が見えてきたかというところだ。そろそろ明るくなるかというのは三重県に入ってから。山間部のため、太陽の姿はなかなか見えない。

特急は快走を続け、青山トンネルに入る。

伊勢平野に出て、名古屋線との連絡線を渡るところで太陽がまぶしくなる。29日は全国的に日中は穏やかな天候に恵まれるとの予報で、これから向かう飛騨地方、さらには日本海沿岸も晴天の予報が出ている。

揖斐川、長良川、木曽川と渡り、愛知県に入る。そのまま順調に走り、8時08分に近鉄名古屋に到着。このままJRとの連絡口を出て、在来線ホームに出る。

「ひだ3号」の発車まで時間があるのでいったんホームのスタンド「住よし」できしめんをいただく。かき揚げも揚げたてが入る。早朝に朝食は済ませているのだが、これから「ひだ3号」に乗ると富山までは4時間弱の道のりである。ついでに売店にてあれやこれやと買い求める。

その「ひだ3号」は名古屋駅の11番ホームに入線していた。年末ということで増車しているそうで、9両編成ある。そのうち富山まで行くのは4両(7~10号車)、残り5両(1~5号車)は高山までである。このキハ85系、JR東海発足から間もない時期にデビューした、JR東海初めての自社車両で、通路から少し高い位置にあるシート、そして大型の窓を持つことから「ワイドビュー」を冠して「ひだ」「南紀」に使用されている。非電化区間にあって高スピードを出せるのが強みである。

そのキハ85系、特に老朽化したイメージはないのだが、高速バスとの競争が激化していることや、インバウンド増加による利用客の増加を見込んで、JR東海はハイブリッド技術を導入した新型車両をデビューさせるという。

さて、指定された席に向かうが、その位置がちょっと残念である。そこで、まだ空席がある9号車の自由席に座る。出発時刻が近づくと次々に乗客がやって来て、立ち客も出る。その多くが大きなキャリーケースを持った外国人客である。西洋人もいるが多くはアジア系である。車内に日本人は何人いるのやらと思う。まさか富山まで乗り通すわけではなく、多くは下呂か高山で降りるのだろう。指定席券を持っている私が自由席にいていいのかということはあるが、外国人相手なら別にいいかとそのまま座ることにする。

発車時刻となる。岐阜までは高山行きの1号車を先頭に、後ろ向きに走る。岐阜からの高山線で方向が変わるためである。新幹線や名鉄電車の走りも見つつ、まずは20分弱、この向きで走る・・・。

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年越し旅、まずは富山に向かう

2019年12月29日 | 旅行記D・東海北陸
令和最初の年末年始、今回はカレンダーの並びで長い休暇となるということで、気が早いが夏頃から、どこに行こうかあれこれ考えていた。

西のほうは中国観音霊場めぐりをしているから、行くとしたら東、そして雪のイメージではないが新潟かなということは早くから頭にあった。新潟といえば今年の元日夜に降り立ったところだが、とりあえず、31日から1日の年越しは新潟市内ということにする。2日の朝には帰宅する必要があるので、1日夜にどこかから大阪行きの夜行バスに乗ることにする。

新潟にはどう行くか。北陸ルートが有力だが、東京から群馬を経由するのも面白そうだ。有名な草津温泉に行ったことがないので寄り道もありかなと思う。時刻表であれこれシミュレーションしたり、宿泊サイトで候補の宿をいくつか仮押さえしながら、少しずつ選択肢を絞っていく。こうした計画の楽しみというのがある。

結局は北陸、現在は第三セクターになっている区間をたどりながら少しずつ新潟に向かうことにした。出発は29日と決めて、大阪から鈍行乗り継ぎもよいが、せっかくなので予約開始から早い時期に、サンダーバード+北陸新幹線つるぎ号の指定席を購入した。まずは富山まで行き、富山から「あいの風とやま鉄道」と「えちごトキめき鉄道」を乗り継いで(それにしても、なぜ最近の第三セクター鉄道はこうもキラキラネームばかりなのだろうか)、宿泊は糸魚川とした。

ということで、29日のまだ夜が明けないうちに自宅を出て、天王寺から大阪メトロ御堂筋線に乗る。そしてなんばで下車。

あれ?大阪からサンダーバードに乗るのになぜなんばで下車・・というところだが、別に急にトイレに行きたくなったわけではない。出発の数日前になってからの計画変更である・・・。
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このブログの2019年

2019年12月27日 | ブログ
2019年も仕事納め。特に混乱なく新たな年を迎えることができそうだ。

今年のこのブログはやはりお出かけ日記の要素が強かったようである。

2月に、それまで2年半かけて回っていた四国八十八所が大窪寺で結願となり、その後霊山寺に戻って満願となった。4月には近畿三十六不動を回り終えた。

平成から令和への移り変わりは「本土最西端」の一つと言える五島列島で迎えた。あいにく、ツアーの謳い文句だった「平成最後の日の入り」と「令和最初の日の出」は雲のため見ることはできなかったが、前後の船旅とともに印象に残った。後日、令和の考案者とされる中西進氏の講演を聴いて、この元号の意味を感じたことである。

札所めぐりといえば、新たに西国四十九薬師めぐりと、中国観音霊場めぐりを始めた。いずれも初めての寺院が多く、序盤を終えたところだがまだまだこれから楽しめる。

夏は特別休暇の旅行券を活かして、宮城、岩手両県の東日本大震災の復興の様子を見た。復興が進む一方、町の姿も完全に変わってしまったり、あるいは風化も懸念される実態も感じることができた。

そんな中、野球観戦は少し低調だったかなと思う。独立リーグはBCリーグや、グランドチャンピオンシップを観戦したが、バファローズ戦から足が遠のいた。特に夏以降の観戦がなかった。チームが下位に沈んだとはいえ、投手を中心に若手選手も出ているところで、やはりこうした中でも応援してこそファンだと言われれば言い返せない。来季に向けて大物メジャー選手の入団が決まり、またパ・リーグも選手の移籍や新戦力でより盛り上がることから、観戦の機会を作っていきたい。

2020年は世の注目が東京五輪に集まることになる。私自身、一連のゴタゴタのせいで五輪への興味は薄いのだが、始まると何だかんだでテレビを見るのだろう(チケットは申し込みすらしていない)。

相変わらず暗いニュースが続いているが、少なくとも自分の中では楽しみを見つけて、心の落ち着きところを味わいたいものである。

また新たな年も、拙ブログをよろしくお願いします・・・。
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もうすぐ年越しですが・・

2019年12月25日 | ブログ
今年ももうクリスマスとなり、あと数日もすれば年越しである。

この年末年始はカレンダーの並びから、いわゆる仕事納めが27日、仕事始めが6日というところが多い。もちろん年末年始も仕事という方もたくさんいらっしゃるし、それどころではない方も多いだろう。また一方ではコンビニの一部が元日の休業を決めるなど、働き方改革の影響も出ている。

私も鉄道の旅ということだが、かなり前から宿泊地、移動ルートを決めながらも、他の情報を見つけてそれらを変更・キャンセルしたり、新たなルートを見つけたり、目まぐるしい。さすがに大筋は決まり、往復の足と寝床、一部は夕食の店も予約しているが、これすらも現地で変更してしまうかもしれない。要は優柔不断なのだ。

それはさておき、周りを見渡しても「年末ムード」というのをいつもほど感じないような気もする。このところ暗いニュースが続いていることも大きいが、今年は平成から令和への改元が行われ、その時は年越し以上に「平成最後」「令和最初」がいろいろあり、その雰囲気を楽しんでいたところがあったように思う。その反動なのかなという気もする。

さて、令和最初といえば年越しは初めてである。行く場所が場所なので初日の出を見ることはないだろうが、新たな1年が令和の本格的な元年として良いものになるよう、祈るばかりである・・・。
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小豆島から姫路へ

2019年12月24日 | 旅行記G・四国

土庄港に戻る。これから乗るバスは先ほど訪ねていた土渕海峡や迷路のまちの近くも通るのだが、わざわざ港に戻ったのは、地元の物産コーナーで土産物や飲食物の購入のためである。やはり小豆島のものは高松駅より小豆島で買ったほうがありがたみを感じる。

バスを待つ間、近くの旅館にマイクロバスが横付けされ、見覚えのある白衣や頭陀袋を持つ10人くらいのグループが降りる。中には菅笠に錫杖の出で立ちもいる。おおっ、小豆島八十八所めぐりの人たちか。

南回り福田港行きのバスには数人が乗車して16時に出発。次のバス停で中国系の女の子3人が外から運転手に声をかける。どうやらエンジェルロードに行きたいようだ。運転手は、次の土庄本町まで乗り、そこから「ウォーク」するよう案内する。干潮の時間帯は砂浜を歩いて向かいの小島まで渡れるということで、小豆島の人気スポットである。先ほどの高速艇でもキャリーバッグを持つアジア系の女性がいたのだが、アートの島めぐりともつながるのだろうが、こうしたところにも外国人観光客が来るようだ。

干潮の時刻はネットで確認できる。ちなみに訪ねた12月13日の干潮時刻は5時26分と18時33分とあった。女性たちがちょうど今から歩けば少しずつ潮が引く頃だが、干潮の時刻には日はとっくに暮れているだろう。もし今夜は泊まりで明日の朝なら6時01分・・・まだ夜が明けていないだろう。鳴門の渦潮や厳島神社の大鳥居が頭に浮かぶが、海が絡んだスポットは潮の時間の事前チェックは欠かせないようだ。

バスは土庄町の中心部で買い物帰りの客を乗せ、東に進む。土庄町から小豆島町に入り、小豆島中央高校では下校生が乗り込む。2年前、小豆島高校と土庄高校が統合して新たにできた学校である。ホームページから、島の高校として進学、就職ともに力を入れていることがうかがえる。今の私の仕事柄、卒業する生徒がどのような進路(特に就職)を選ぶのかは気になる。ホームページを見ると、小豆島内、あるいは香川県内企業からの求人はもちろん多いが、四国の他県、関西の企業も目につく。果ては東京はじめ首都圏の企業も結構ある。まあ、首都圏の企業あたりになると全国の高校に求人票を機械的に発送しているだけというところも多いと聞く。一方で進路担当の先生としては、いわゆる「指定校求人(非公開求人)」で来る企業のほうを尊重したい考えもあるようだが・・。

話がそれる間にもバスは走る。時折、島の南側の海岸に近づく。車内では2人掛けのシートでぴったり寄り添って青春の一時を豊かにしているカップル生徒もいる。その後ろで高校生の「スカウト(何の?)ごっこ」のように怪しく座っているおっさん(私)。

高松行きのフェリーがある池田や、小豆島中央病院を過ぎる。その後、内海湾に接近する。日が暮れゆく中なのが残念だが、穏やかな海面の景色は心を和ませる。このまま走ればジャンボフェリーが発着する坂手に向かうが、バスは内陸を横断する。この辺りまでで買い物客も高校生も皆降りてしまい、乗客は私のほかに2人だけになった。

再び見えた海は東の播磨灘。険しい地形の中を行く。時刻はまだ17時前だが、太陽が陸地の陰に隠れるためか、暗くなるのが早い。その中、かつて大坂城の石垣も切り出したという小豆島らしく、石材関係の会社や現場が目につくようになる。先ほどの土庄のような緩やかな地形ではなく、急な崖も多い。小豆島の多用な地形がうかがえる。

土庄から1時間で福田港に到着。すっかり日が落ちた。次の姫路行きは17時15分発で、バスとの接続もよい。昔の回船問屋のような造りのきっぷ売り場で乗船券を買い求める。平日のこの時間だからか、船内はガラガラである。「おりいぶ丸」は先ほどの宇高航路の「第一しょうどしま丸」よりも新しい感じで、船内は丸テーブルを囲むソファー席や、長テーブルで6人向かい合わせで座れる長ソファー席、カーペット席、リクライニングシート席などさまざまな種類がある。客が少ないので長ソファー席に寝そべる人もいる。

私もこのタイプに陣取って、先ほどバスに乗る前に土庄のコンビニで仕入れた飲食物をテーブルに並べる。早めの夕食と夜の海を見ながらの一献ということで・・。船内にも売店はあり、うどんもメニューにあるが、この日は売店が休みとの張り紙がある。客が少ないからだろうが、ただ土日に乗ったらまた雰囲気も違うだろうし、いずれまた利用したいものだ。

出航時は展望デッキにいたが、灯りもほとんどなく暗いのですぐに客室に戻る。NHKの夕方のニュース番組を見ながらゆったり過ごす。思えばこの日は大阪~宇野~高松~土庄~福田~姫路と、これまでになかったルートでの日帰りである。小豆島八十八所めぐりをどうするかはさておき、他の名所スポットもいずれ訪ねてみたいものだ。

途中、家島諸島の西を通り、前方に少しずつ灯りが見えてくると姫路の飾磨港に到着である。18時55分着で、福田からは100分。渡し船というよりはちょっとした船旅を楽しむ時間に感じた。

姫路駅行きのバスも接続よく出発し、順調に駅に到着した。新快速に乗る前に、先ほどのフェリーのうどんの代わりに、姫路の名物「えきそば」にて締めとする。麺だけで3食目やな・・。

さて、このお出かけから2日後の運航をもって宇高航路は休止になった。四国フェリーのホームページにて、お礼のメッセージが掲載されていたので、最後に紹介しておく。

「高松~宇野航路の運航休止のお知らせ(令和1年12月16日より)

宇高航路は国鉄連絡船の時代から数えますと109年、弊社がフェリー事業として64年の長きに渡り四国と本州との人流物流を支えてまいりましたが、この度この歴史ある航路を運航休止せざるを得なくなってしまいとても残念です。

本年11月11日に運航休止を表明させていただいたのち12月15日の運航最終日まで、遠路より大勢の方々にお越しいただき心より感謝いたします。

宇高航路には皆様、進学や就職そして新婚旅行など人生の節目とともに思い出があるかと思います。瀬戸内海の船旅の思い出とともに末永く心にしまっておいていただけたら幸いです。

本当に長い間のご利用心より感謝いたします。 ありがとうございました。」

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土庄町歩き~小豆島八十八所と世界一狭い海峡

2019年12月23日 | 旅行記G・四国

2時間弱の滞在だが、初めての土庄の町を歩くことにする。まずは港からまっすぐ伸びる道を進む。この辺りは海に面した場所ではあるが、建物や町の様子は本土とさほど変わらない。クルマも結構な交通量だ。小豆島くらいの大きさになると島も一つの生活圏ができている印象で、見た感じでは離島にいる気がしない(もちろん、実際に住むと良くも悪くも島ならではの生活があるのだろうが)。

道路沿いに、ちょっと怪しげなコンクリートの建物が現れる。「小豆島霊場総本院」とある。ははあ、何だか吸い寄せられたような気分である。

小豆島にも八十八所めぐりがある。島全体を霊場として「日本三大新四国霊場」としている(残り二つは知多半島と福岡篠栗)。中でも小豆島の霊場は、弘法大師が都と四国を行き来する途中に立ち寄って修行していたという言い伝えがあり、「元四国」とも呼ばれている。

88ヶ所プラス奥の院6ヶ所、全て歩いても150キロほどの距離だが、88ヶ所全てが伽藍を持つ寺院ということではなく、お堂や祠だけというところもある。小豆島の険しい地形を利用した札所も結構あり、見方によっては本家八十八所よりも魅力が圧縮されたぶんハードだという話もある。鎖場をクリアしないとたどり着けないところもあるようだ。

小豆島八十八所・・今すぐ回ろうというつもりはないが、小豆島へは先の記事でも触れたように、関西からだと姫路から福田、神戸から坂手のフェリーがあるし、日生から大部という短いルートもある。島内のバスも絡めれば何回かのシリーズでたどれるのでは・・。またシミュレーションして、いつの日か「第◯回小豆島八十八所めぐり~」とか言いながらも島へのアクセスが長い文章を書くことになるかもしれない。あくまでも可能性の話だが。

今日のところは手を合わせるだけで、そろそろ町の中心に来る。何やらアーチが出てきて、水路を跨ぐように歩道が続く。

ここが、知る人ぞ知る「世界一狭い海峡」としてギネスにも認定された土渕(どぶち)海峡である。今でこそ小豆島として一つに扱われているが、正確には小豆島とは海峡から東の土地を指し、西側は前島という島なのだそうだ。これで言うと先ほどの土庄港は小豆島ではなく前島にある港となる。海峡の最も幅が狭いところで9.93メートルしかない。

その海峡の前島側に土庄町役場がある。入口を入ったところの商工観光課では、世界一狭い海峡を渡ったことの「横断証明書」をいただける。1枚100円で、プラス100円で台紙がつく。名前は自筆とのことで記入すると、係の人は日付だけでなく時刻まで書いてくれる。スタンプは自由押印だ。なお訪ねたのが平日だったので窓口に行ったが、土日でも守衛室で対応してくれるそうだ。

では「世界一広い海峡」は?と調べてみると、ドレーク海峡という、南アメリカ南端のホーン岬と南極大陸の北端の島々の間の海峡で、最も狭いところで650キロある。直線距離でいえば大阪からなら仙台の先までの長さだ。

ここからは「迷路のまち」という商店や民家が建ち並ぶ一角に入る。南北朝の争いの中、小豆島に拠点を構えた南朝方の佐々木信胤という武将が、相手方の攻撃に備えて路地を複雑に入り組んだものにしたとされている。また、中世の瀬戸内で活動していた海賊から実を守るために造られたとも言われる。まあ、両方の要素があっただろうし、それだけの町の歴史があるという名残である。その中にもアートやら、個性的な店も目にする。

その中で、朱塗りの立派な山門に出る。西光寺、小豆島八十八所の第58番札所である。今回は札所めぐりモードではないので数珠も経本も持っていないが、手だけ合わせていく。天井の紐を引いて鳴らすタイプの鐘を撞いてから境内に入る。樹齢250年以上というイチョウの黄葉の向こうに本堂、さらに奥の高台に三重塔がある。

本尊は千手観音菩薩。小豆島八十八所の朱印は8ヶ所かぶんをまとめてここで対応するという。先にも書いたが札所の中にはお堂や祠だけで「無住」のところが結構あり、その地域の有人の寺で納経の対応をするそうだ。墨書が大変だろうなと思うが、実は小豆島八十八所のオフィシャル納経帳はあらかじめ墨書が印刷されていて、札所では印判を押すだけだという。なるほど、回るなら有人の札所の場所と、対応する無住の札所の組み合わせを調べておいて、その組み合わせに沿ってシリーズとしたほうがよさそうだ(・・って、回る気まんまんやん・・)。

西光寺では戒壇めぐりもできるそうだが見送り、境内の石段を上がって三重塔に向かう。西光寺の奥の院で「誓願の塔」の呼び名がある。ここも八十八所の一つだ。

塔のたもとには弘法大師の座像がある。向いているのは土庄港の方角だが、これは想像ながらその海の先、故郷の善通寺の方向まで見つめているようにも見える。この誓願の塔が建てられたのは1977年、西光寺中興400年の記念事業によるが、土庄の町の目印の一つになっている。

西光寺の塀の石垣と三重塔の組み合わせが絵になる。再び迷路のまちを抜けて、土庄港に戻ることにする・・・。

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初めての小豆島へ

2019年12月22日 | 旅行記G・四国

宇高航路に別れを告げて高松駅に向かう。鉄道に乗るかどうしようか。

先ほど船内でうどんはいただいたが、腰を据えてもう一杯ということで、駅前の「味庄」に向かう。朝5時から営業のセルフ式である。昼を過ぎていたためか天ぷらその他のトッピングは売り切れていて、かけうどんにしていただく。

うどんをすすった後に駅の土産物コーナーをのぞくうち、このまま鉄道に乗ってもいいが、ふと小豆島に渡ってみようかという気になった。売り物に小豆島の醤油やオリーブ製品が目についたこともあるが、これまで小豆島にはフェリーで寄港したのを船上から見ただけで、この歳までまだ降り立ったことがない。時刻表を調べると、まず高松から土庄に渡り、土庄からは宇野、岡山に抜けることができる。また島内のバスを使って北東部の福田に出れば、姫路行きの航路がある。島内の名所めぐりはできないにしても、バスで島を半周というのもいいだろう。姫路港からは姫路駅までバスがあり、姫路から新快速に乗れば青春18きっぷのメリットもある。

次の土庄行きは13時40分発で、フェリーと高速艇が同時刻に出る。フェリーは先ほど乗ったのと同じような型式のようなので、変化をつけて高速艇に乗る。土庄までフェリーなら1時間だが、高速艇は35分。その差を土庄の町歩きにあてると、福田行きのバスの時間まで2時間弱の時間ができる。

土庄からの折り返し便が到着した。後部にはベンチがあり、潮風に当たりながら行くことができる。通常の座席も空いているが、穏やかな天候ということもあるのでこちらに陣取る。

同じ時間に出航のフェリーが先に出る。しかし高速艇はすぐにフェリーの右側に追い付き、一気に引き離す。これも面白い。

右手には屋島の丘陵がデンと居座る。少し進むと独特のコブを持つ五剣山の姿が見える。四国八十八所めぐりの終盤で屋島寺、八栗寺を日帰りで訪ねたのは1年前の同じ時季である。そういえば八栗ケーブルの手前にある有名なうどん店をパスしたなと思い出す。

両側に瀬戸内の島々を見ながら高速艇が行く。島が多いのでその向こうが見渡せないなと思うと、ちょうど小さな島と小豆島の間の海峡(と言っていいのかな)に出る。画像にはうまく写っていないが、遥か向こうに陸地が見える。位置からして淡路島だろうか。

右手に小豆島、左手に豊島という景色の中を行き、高速艇が減速する。小豆島側に、ごま油で有名なかどや製油の工場が現れる。本社は東京だが元は小豆島が発祥の地で、現在も工場を置いているそうだ。

宇高航路とはまた違ったスピード感で、これで小豆島に初上陸である。

小豆島も瀬戸内国際芸術祭の会場の一つだからか、高速艇乗り場の周りにはさまざまなオブジェがある。岸壁の目立つ場所にあるのが、オリーブの王冠をかたどった金色のオブジェで「太陽の贈り物」という。バックに停泊中のフェリーともマッチしている。

一方でオブジェとは少し違うが、小豆島といえばということで、『二十四の瞳』に出る先生と12人の子どもたちの像がある。物語では固有の地名は出ていないが、作者の壺井栄が小豆島の出身ということからいつしか小豆島が舞台の話となった。東部の坂手には映画村もある。

今回は初めての小豆島であるし、島の中心と言える土庄本町まで少し歩くことにする・・・。

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休止の宇高航路に乗船

2019年12月21日 | 旅行記G・四国

12月13日の宇野港。11時50分発の高松行きに乗る。13日から最終の15日は混雑のため片道乗船券のみ発売するという。見渡す限り満杯で乗れないということはないが、往年、あるいは今でも多客時は常にこれぐらいの数の乗船客や車両はあったのだろうかと思う。

早くも歩行者の乗船口に列ができる。そこに高松からの折り返し便が入港する。少しずつ近づく船体に一斉にカメラやスマホが向けられる。

前方の口が開き、歩行者やクルマ、トラックがぞろぞろ出てくる。高松からお別れ乗船の客も多い。最後には原付、自転車も出てくる。歩行者は鉄道を利用すればよいのだろうが、瀬戸大橋を渡れない原付や自転車は困るだろう。まあ、どのくらいの需要があるかだが、これからは直島、または小豆島の航路を乗り継いで行くことになる。

船内に入る。中央にはロングシート、両側と前方にはリクライニングシートが並ぶ。この便に使われる「第一しょうどしま丸」は、2000年に高松~土庄便に就航して、後に宇高航路に転属となった船である。

早速売店にはうどんを求める行列ができる。その中で「とろろわかめうどん」をいただく。売店前には円卓状のうどん用座席があるが、後部のデッキに持ち出す。本当は船が走り出してから食べるほうが美味しいのだろうが、もう出航前にぺろりといただく。いりこの出汁がよく効いている。他にもデッキや上部甲板に出てうどんをすする光景が広がる。

確か前回乗った時は春の強風で上部甲板の立ち入りができなかった。今回は穏やかな、海もベタ凪な天候で、デッキに出ても気持ちよい。出航時には多くの人がフェンスに寄り添って景色を眺める。ちょうど地元テレビ局の腕章をつけた取材陣も乗っていて、うどんコーナーの様子を撮影したり、デッキにいる人にインタビューをしていた。

瀬戸内海を横断して本州と四国を結ぶ航路は他にもあった。この辺りだと下津井~丸亀(それこそ瀬戸大橋ともろ被り)や福山~多度津というのもあった。宇高航路は国鉄連絡の役割が強かったが、丸亀や多度津に着くのは金比羅参りのアクセスにもなっていた。ただ時代は変わっている。本州~四国は神戸~高松のジャンボフェリー、和歌山~徳島の南海フェリー、大阪・神戸~新居浜・東予のオレンジフェリー、広島・呉~松山の石崎汽船、柳井~松山の防予フェリーといったところはまだまだ健在だし、島伝いに渡るルートもまだいくつかある。四国八十八所めぐりで利用した航路もあり、バスや鉄道とは違ったアクセスもあるということでこれからも頑張ってほしい。

青い空、青い海が目の前にあると、やはりこうしたものがほしくなる。平日の昼間だが休暇ということで・・。売店の方からは「クルマの運転はないですね」とだけ確認されたが、まあこれも宇高航路へのお別れの杯である(と理由をつける)。

航路が中盤になると右手に円錐を浮かべたような大槌島が見える。島の中央に岡山と香川の県境がある珍しい島である。島の周囲が良好な漁場で、その昔備前と讃岐の漁師たちが漁場をめぐって藩どうしも巻き込む争いになり、幕府の裁定で島の真ん中に境界を引いて決着した歴史があるそうだ。

その遥か向こうに瀬戸大橋の姿が見える。「大槌島の上に橋を架けようかという話しもあったんじゃ」という会話も聞こえたが、本当だろうか。

香川県に入り、高松の街並みが少しずつ近づいてきた。船で近づくと駅前のサンポートが高松のランドマークであり、四国の玄関口に見える。四国の玄関口といっても交通手段がいろいろあるが、やはり高松駅が玄関口というイメージを持つ方もいるのではないかと思う。ただ、宇高航路がなくなるとそのイメージも後退してしまいそうだ。

 
一方では屋島の姿も少しずつ大きくなる。山が紅葉しているのか、遠くから見ると全体的に赤茶けた景色である。

しばらく船内のあちこちの座席にも座ってみたが、やはり着く時はその様子を見たい。到着する「第一しょうどしま丸」を見に走って来る人もいる。また乗り場では折り返し便を待つ列ができている。無事に着岸し、車両が出ていくところも眺める。かつてはこうした光景が当たり前に見られたのだろう。

別に感傷的になることはなかったが、これまでの長い歴史に対して心の中で敬意を表する。

さて、乗船券は片道のみの発売だったが、今からでもきっぷ売り場に行けば折り返し便には十分間に合う。実際にそうする人もいるようだし、私も宇高航路の乗り納めが目的なら、このまま宇野に戻ってもよい。ただ、往復まではいいかなと思った。そこまでの気持ちの入れ込みがないのは申し訳ないが、単純な往復よりは変化をつけたいのも私の性である。

今朝から高松に来るに当たり、帰りをどうするかいろいろ考えていた。宇野にとんぼ返りするのも選択肢の一つだが、青春18きっぷなのだから四国内の鉄道に乗ることも考えていた。高松周辺をめぐってマリンライナーで岡山に戻るのもありだし、徳島まで高徳線、もしくは徳島線で出て、南海フェリーで帰るのも面白そうだ。帰りに高速バスを使えば四国の滞在時間も長くなる(先ほどの宇高航路とは真逆のことを言ってるなあ)。

その中で、「こうする」というのを決めた。ひとまず連絡通路を通って高松駅に向かう・・・。
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宇野港へ

2019年12月20日 | 旅行記F・中国

12月15日を最後に、四国フェリーの宇野~高松航路が休止となった。瀬戸大橋の通行料金値下げなどの影響で利用客が減少する中、最後まで運航を続けていた四国フェリーが撤退することとなり、109年の歴史に幕を下ろした。ニュースでは最終便の様子として、銅鑼を鳴らし、多くの人たちが船上と桟橋で手を振りあって「ありがとう」と別れを惜しんだり、出ていく船を敬礼で見送る姿を流していた。

宇高航路の休止については、11月に発表された時にこのブログでも触れたが、その中で私は「別に乗りに行く予定はない」としていた。

そんな中、冬の青春18きっぷと有給消化のために12月13日に日帰りでどこかに出かける予定とした。その時は日帰りで中国観音霊場めぐりで福山に行こうかとか、あるいは札所めぐりから離れて名古屋・岐阜の辺りに行こうかとか、はたまた北陸もいいのではということを考えて、時刻表でいくつかの乗り継ぎプランを組んでいた。しかし、休止が決まってから宇高航路を訪ねる人が増えているという記事を見て、いわゆる葬式鉄のようでどうかと思うが、やはり最後に乗りに行くことにした。

私自身思い出を語るほど宇高航路に縁があるわけではなかったが、初めて四国に渡ったのが瀬戸大橋開業にともない廃止される直前のJRの宇高連絡船だったし(その時は高松駅に降りただけでそのまま宇野に戻ったのだが)、せっかくなので乗ってみよう。13日は平日だから混雑もまだましだろう。

朝6時半の大阪駅。平日なので早くも通勤客で混雑している。6時51分発の新快速で姫路に向かうのだが、何やら駅がざわついている。6時頃、茨木駅で人身事故が発生したため、上下両方の運転を見合わせるという。幸い、これから乗る新快速は大阪始発のため、この列車だけは動かすとの案内があった。後の行程には影響無さそうだが、もし東や北に向かうプランだったらぐちゃぐちゃになったことだろう。

神戸線方面のダイヤも乱れる中、ほぼ定刻に姫路に到着。8時01分発の岡山行きに乗り継ぐ。青春18きっぷの時季なので混雑する列車だが、平日のためか運よく座って行くことができた。

宇高航路には、宇野から高松に向かう便に乗ることにする。9時41分発の児島行き各駅停車に乗り、茶屋町に着く。

茶屋町から10時13分発の宇野行きで宇野を目指す。現在は宇野みなと線の愛称があり、朝と夕方以降は岡山からの直通運転があるが、日中は宇野と茶屋町の折り返し運転というローカル区間である。この日乗った車両は国鉄末期に登場した213系で、かつては宇野線から宇高連絡船につなぐ「備讃ライナー」や、瀬戸大橋線の「マリンライナー」に使用された車両である。今は2両単位、ワンマン対応化されて宇野みなと線や赤穂線、伯備線のローカル運用に当たっている。

車内にはさまざまな外国語も飛び交う。宇野の先には今やアートで国際的にも有名になった直島がある。先ほど、瀬戸大橋線の鈍行から茶屋町で乗り継ぐ時、英語の乗り換えアナウンスも「Uno and Naoshima」と流れていたような。

途中駅では待合ベンチに絵が描かれているのを見たり、かつての児島湾干拓事業を紹介するパネルがあったりして、のんびりかつ味わいある一時の後、宇野に到着。今や四国へのアクセスポイントというよりはアートの島への玄関駅と言ってもいいだろう、駅舎含めて周辺もそうした風情である。

次に出る高松行きフェリーは11時50分発で、1時間ほど時間がある。効率よく移動なら次の列車でも間に合うが、それだとぎりぎりの到着である。一方宇高航路は1日5往復しかないので、次の便となると間隔が開きすぎる。宇野の町を少し回るにはちょうどよい時間だろう。

港を見つつぶらつく。宇野港がある玉野市は漫画家・いしいひさいちさんの出身地である。そのために玉野市のキャラクターにはいしいさん描く「ののちゃん」が使われている。そのギャラリー「ののちゃんち」が駅近くにあるので行ってみると、来年3月まで市立図書館・中央公民館に出張展示中とある。

もう数分歩くと玉野市役所があり、向かいの天満屋ハッピータウンなどが入る商業施設の2階に図書館・中央公民館がある。このギャラリースペースを活用しての展示である。

コーナーには「ののちゃんち」や「がんばれタブチくん」などの作品や、昔の単行本、原画などが展示されている。私も何冊か文庫化されたのを持っているが、あのごちゃごちゃした作風が面白い。いしいさんは現在も玉野市(漫画では(たまのの市))の広報に4コマ漫画を連載していて、直近ものでは宇高航路の廃止を取り上げていた。

しばらく見学した後、四国フェリーの高松行き乗り場に向かう。出航までまだまだ時間があるが、乗船を待つ人たちがすでに待合所の中や外にあふれている・・・。
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第2番「霊山寺」~西国四十九薬師めぐり・11(霊山寺奥の院)

2019年12月17日 | 西国四十九薬師

霊山寺の本堂のお参りを終えて、この先にある奥の院を目指す。また「大弁財天」の鳥居をくぐる。奥の院までは約1キロだが、アスファルトの道が続いていて、いわゆる昔の遍路道のようになっていない。

まずは急な上りが続き、ピークに来たところで未舗装の道となる。そしてもう一つ鳥居が出てくる。ここから最近整備されたらしいコンクリートの下り階段が続く。本堂からは上り~下りと続くので、それなりに変化ある道のりである。

鬱蒼とした木々の中、神秘的なものを感じる。「奥の院」は全国あちこちにあるが、その言葉がよく当てはまるように思う。

この奥の院、弘法大師がこの地に龍神がいることを感得して、弁財天として祀った霊地とされている。薬師如来はどこに行ったのかと思うが、霊山寺としては弁財天のほうが大元だとして大切にしているのかなと見える。

川にかかる橋を渡り、お堂の前で手を合わせる。「心正しく一心に祈願すればあらたかなご利益ご加護が授かりますが、不心得のことがあれば神罰もまた厳しいものがあります」という言葉がある。うーん、普段の生活が不心得のことばかりだからなあ、せめて神罰が少しでも軽くなりますように・・。

本堂の前に戻る。ここで次の行き先のサイコロである。出走表は・・

1.舞鶴(多禰寺)

2.加茂(浄瑠璃寺)

3.三田(花山院)

4.天王寺(四天王寺)

5.西宮(東光寺)

6.但馬(大乗寺、温泉寺)

但馬に舞鶴という遠方のエリアが並ぶ。もしここでいずれかが出れば、冬の青春18きっぷの行き先になりそうだ。一方では手近な四天王寺もある。そこで出たのは「5」。「東光寺」と書くと見慣れない名前だが、関西の人なら多くが知っているあの寺である。

さてこの霊山寺、さまざまなスポットがある。その一つが「薬師湯殿」。前の記事で、霊山寺の開創は小野富人が登美山に湯殿を設けたことからと触れたが、それを今に再現しているのがこちら。温泉がではないようだが、さまざまな薬草を使っていろんな効能があるという。旅館の大浴場の風情でサウナもある。これまでの札所めぐりで、境内で入浴するというのは初めてのことである。横の食堂が受付で、入浴料600円を支払う。スタンプカードもあり、10回の利用で1回無料で入ることができるというのも町の銭湯のようだ。なお、寺参りだと受付で入山料を支払うが、食堂や薬師湯殿目当ての場合は受付で申し出ればそのまま入れるようである。

浴槽につかる。薬草のほのかな香りが、それだけでも効き目があるように感じられる。飛鳥時代当時の湯殿はこうした大浴槽タイプではなかっただろうが、薬師如来参りの後だけにありがたみを感じさせる。

この霊山寺はさまざまなものがあり、食堂や土産物店があるのはごく普通としても、湯殿があり、さらには多角化として大規模な霊園にはバラ園がある。そのうえここにゴルフ練習場も加わる。これをどう受け取るかは人それぞれあるだろうが、歴史的由緒あるものと現代的なものを融合させたのがこの寺の特徴と言える。その基礎を作ったのが、前の記事で触れた東山円教・円照夫妻である。「大僧正」「教祖様」という像が建っていたあの人たちだ。

霊山寺は明治の廃仏毀釈により伽藍の規模が半減し、多くの仏像が焼却されたが、薬師如来と大弁財天は何とか残された。後に霊山寺の住職となった東山円教は、自らのシベリア抑留を含む戦地での体験から、世界の平和を願い、心の安らぎを感じてもらおうということでバラ園を開いた。それをきっかけに「心の安らぎ」ということでさまざまな施設ができたそうだ。ゴルフ練習場が心の安らぎかと言われれば、まあそう思う人にとってはそうなのだろうなというところだ。

バスで富雄駅に戻る。昼食ということだが、奈良ということで「天スタ」こと天理スタミナラーメンに入る。白菜たっぷり、ピリ辛のラーメンは体も温まる。また、後で知ったのだが富雄駅近辺というのは奈良のラーメン激戦区だそうだ。もっとも、夜の部のみの営業だったり、日曜定休だったりという店が多いそうで、観光客というよりは勤め帰りや宴会後の締めにラーメンをという人たちをターゲットにしているのかなと思う。

さてこれで年内の西国四十九薬師めぐりは終了となる。来年もまた関西のさまざまな名所をめぐってみたいものである・・・。

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第2番「霊山寺」~西国四十九薬師めぐり・11(1300年の歴史のありがたい話)

2019年12月16日 | 西国四十九薬師

西国四十九薬師めぐりの11番目は第2番の霊山寺(りょうせんじ)。番号順で行けば薬師寺の次に訪ねるべきところであるが、そこはサイコロの出目ということで、12月8日に出かけた。

最寄り駅は近鉄奈良線の富雄。霊山寺はこれまでくじ引きの表記では「生駒」としていたが、富雄駅も霊山寺も奈良市に属していることがわかった。過去の記事を取り消すほどのことではないので記事はそのままにするが、ここで訂正しておく。

藤井寺から富雄に行くならルートは3種ある。鶴橋から生駒山に向かうか、橿原線~大和西大寺と回るか、果ては王寺から生駒線で北上するか(森ノ宮から中央線~けいはんな線で生駒というのは除く)。後で思えば、薬師寺がある西ノ京から大和西大寺回りが薬師めぐりの順番としてよかったかなとも思うが、結局は最速の鶴橋経由となった。もとより、サイコロ振っている時点で札所順など関係ない。

生駒山に向かうにつれて大阪平野を一望できる車窓は見ものである。それにしても、奈良に向かうためか車内には外国人の姿が目立つ。私のいた車両も、見渡せば半分以上が外国人客のようだった。

生駒で後続の各駅停車に乗り換え、富雄に到着。島式ホームの高架駅だが、下車するのは初めてである。霊山寺へは若草台行きのバスに乗るのだが、これが1時間に1本の運転である。次の発車は10時45分発、ルート決めは便数の少ないバスの時刻に合わせたこともある。

バスを待つ間に、このような看板を見つける。野球酒場、「B-CRAZY」という店。店内は野球グッズ、それもパ・リーグの、しかも藤井寺近鉄バファローズの・・がずらり並ぶそうだ。昼間なので開いてないようだが、夜の部ありなら一度入ってみたいものである。まあ、こうした店には私など足元にも、果ては猛牛の一毛にも及ばぬディープな愛の方々が常連で居座っていて、私ごときは新参者として受け付けず排除されること間違いない。まあ、せいぜい内輪で至福の時を楽しんでくださいな、常連ども・・。

バスで約10分、郊外の風景になったところで霊山寺に着く。大きな灯籠がお出迎えである。まずは外にある鐘楼で鐘を一撞きして、境内に入る。出迎えるのは仁王像の山門ではなく、大弁財天の額がかかった大鳥居。これは神仏習合の色合いが濃い寺なのかな。

観音菩薩や文殊菩薩などの八仏像が並ぶ。また行基の像も立つ。ちなみに近鉄奈良駅の地上に出たところに立つ像と同じものだという。

道順に従って進むと弁財天堂に出る。中には弁財天の本地仏である聖観音像が祀られているという。今は法要中のようで扉の向こうから読経の声がする。

お堂の脇に弁財天以外の残りの六福神の像が並ぶ。さらにその右には女性の像。「教祖像」とある。この時は詳しく説明書きを読まなかったのだが、東山円照尼の像だという。一瞬、新興宗教の何かかと思った。

続いて本堂のある一角に出る。お堂の中から団体さんの般若心経の声がする。先ほど受付で15人ほどの団体さんに遭遇したのたが、巡拝ツアーなのかな。西国薬師かあるいは他の札所めぐりか。団体が我が物顔に本堂を占拠しているとはいえ、その中に割り込むことはマナー違反で仏罰なので、終わるまで外で待つことにする。なぜもう少し早く来なかったのか、だからお前はアカン奴なんや、いつまでも出世できない発達障害者なんやと自分自身を責める。事実だから仕方がない。

待つ間、本堂の後ろに僧侶の像が見えたので行ってみる。「大僧正円教像」とある。昔の僧侶なのかなと見ると、これも説明には明治や昭和という言葉が見える。先ほどの教祖様と何か関係あるのかということだが、これは後で触れることにする。

さて本堂に入る。係の人から、「今から住職の法話があるので一緒に聴きませんか?」と声をかけられる。先ほどの団体さんがお勤めの後に内陣の仏像を見て、ちょうど法話のタイミングだそうだ。私のお勤めは後回しにして、外陣の隅に座る。

団体さんはわざわざどこぞの田舎から大和十三仏めぐりに来た講とのことで、法話もあらかじめ予約していたようだ。その割には早く着いたから法話の時間も早くしろとか、受付でも横柄な態度を取っていたし、私が境内の写真を撮っていた時には舌打ちをしていた。どこの地方?・・・かと思って見ていると、最近赤ヘル人気とかで各地の球場で傍若無人な振る舞いをする地方の連中だった。まあ、それなら仕方ないな、見るからに頭の不自由な可哀そうな方々の集まりだから。

法話の前半は霊山寺の歴史の紹介である。飛鳥時代、小野富人(小野妹子の子とされる)というが官を追われこの登美山に隠棲した。後に薬師如来を感得し、薬草の湯殿を建て、薬師如来の塼仏を祀って人々の病を治したという。奈良時代、孝謙皇女が心の病にかかった時、登美山の薬師如来を祈念すれば治るとのお告げがあり、行基が代参したところ、皇女の病が治った。そこで聖武天皇は行基に命じてお堂を建てることにした。

鑑真よりも先に当時の日本の仏教に戒律を教えるためにインドから渡ってきた菩提僊那という僧が、この登美山を訪ねた。当時は寺の名前はなかったが、この山の形が彼の故郷にある霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから、この寺に霊鷲山という名を授けた。しかし日本には鷲がいないからということでその字を省いて「霊山寺」という名になった。後に菩提僊那は東大寺の大仏の開眼法要を務め、聖武天皇、行基、良弁と並ぶ東大寺の「四聖」の一人とされるのだが、住職が「もっと知られてもいい存在だと思うんですが」というように、私は初めて触れた名前だった。

本堂は国宝に指定されていて、鎌倉後期の建物である。

後半は法話ということで、レジュメには「どちらでもいい」というタイトルがある。例えば「年収は高くても低くてもいい 幸せに過ごせるなら」、「モノは増やしても減らしてもいい 大切なモノがわかっているなら」という一対の文言が10並ぶ。「吾唯知足(吾ただ足るを知る)」という禅の教えの一つを現在の身近なことに落とし込んだものである。

法話は30分ほどあり、団体さんが昼食のために本堂を出た後で、改めてお勤めとする。その後で、薬師如来塼仏の複製や、近年に文献その他からのイメージで制作した菩提僊那の像などを見る。顔の彫りが深く、耳にはピアスもしている。「顔つきのイメージは同じインドのガンジーですかね」ということのようだ。

さてまだ境内の中にいるが、記事が長くなったので続きは改めて・・・。

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第2番「紀三井寺」~西国三十三所めぐり3巡目・9(秋の和歌浦)

2019年12月15日 | 西国三十三所

海南から紀勢線で紀三井寺に移動する。駅から歩いて10分足らずで門前に着く。

山門の下で入山料200円を支払い、境内に入る。山門下と合わせてここから231段の石段が続く。案内板には坂の紹介が書かれているのだが、何やら見慣れぬ記載がある。この石段の「登段最速記録」というもので、タイムは21.9秒。陸上100メートル走の元日本記録保持者で五輪にも出場した青戸慎司さんだという。ただし「無謀な挑戦はおやめください」とある。

後で知ったのだが、2018年にこの石段を上がるタイムを競うイベントが初めて開かれたそうだ。今年も1月に行われ、いずれも100人以上が参加したという。最速の男女それぞれに「速駆王」、「速駆姫」の称号が与えられるそうだ。西宮戎神社の福男選びとはまた違った「種目」になるが、来年もやるかはわからないが、上りに自信のある方は参加されてはいかがだろうか。

さて私はそうした競走とは無縁で、石段は黙々と上がるのだが、紀三井寺の場合は途中に立ち寄りができるので苦にはならない。紀三井寺の由来となった清水やら、塔頭寺院にある波切不動明王や身代り大師など、手を合わせるスポットがいろいろある。

本堂のある境内に着く。絵画教室か、スケッチする人がちらほら見える。青空も広がっているし、寺のお堂や、あるいは高台から見る秋の和歌浦を描くのにぴったりの天気である。

本堂にてお勤め。参拝者から見て左手にあった納経所が右手に移っている。西国1300年の記念印がまだだったので押してもらうが、それだけ2巡目との間隔が開いていたわけだ。

紀三井寺に来ると本堂の対面にある仏殿は立ち寄り必須である。巨大な金ぴかの千手観音像は好き嫌いが分かれると思うが、はるか昔に制作された仏像も、できた当時はこのような姿をしていたものだと考えると、これはこれで信仰の対象である。

仏殿3階からの展望も紀三井寺の楽しみの一つである。先ほど訪ねた禅林寺の辺りは見えないとしても、海べりの製鉄所やマリーナシティから、和歌浦、片男波というところ、さらには和歌山市街を見渡せる。

これで紀三井寺を終えて帰途に着くことにする。来る前は和歌山駅近くの大衆酒場に行こうかとも考えていたが、そのまま大阪に戻ることにする。帰りは変化をつける意味でバスで南海の和歌山市駅に向かう。

到着して、これも驚いた。現在改装工事進行中である。2020年4月の開業に向けてのことで、複合施設は「キーノ和歌山」という。JRの和歌山駅側と比べて寂れていたイメージの和歌山市駅周辺の活性化につなげたいところである。

南海の駅も仮営業中のようだが、ここから特急サザンの指定席車に乗る。特急車両ならばと、打ち上げ用に1本仕入れる。まあ、大衆酒場が特急車内に場所を変えた形で・・。

途中で淡輪の海を見たり、堺では古墳の世界遺産登録を祝うラッピング車両に出会ったりして、日のあるうちに大阪に戻る。

西国三十三所の3巡目も4分の1を過ぎた。記念印は何とか記念行事の期間中にコンプリートしたいので、またいろいろかこつけて回ることに・・・。

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第12番「禅林寺」~西国四十九薬師めぐり・10(薬師如来と「ぼけよけ地蔵」)

2019年12月14日 | 西国四十九薬師

野上電鉄の廃線跡を少し歩いた後、本題の禅林寺に向かう。住宅の合間のちょこっとしたところにみかん類の畑があるのも和歌山らしいところだ。

ちょっとした丘の麓に、里山の伽藍が広がる。鐘楼が目立つ。山門はなくそのまま境内に入る。最近になっていろいろ整備されたという。

正面の本堂に上がる。禅林寺は奈良時代に唐から来た為光上人(紀三井寺を開いた人でもある)が聖武天皇からこの地を与えられ、伽藍を建てたことが始まりとされている。本尊の薬師如来は秘仏で見られないが、塑像でできたという全国でも珍しいものだという。かつては巨大な伽藍や寺領を持っていたが、豊臣秀吉の紀州攻めの際に寺は焼かれ、領地も没収された。

本堂の前には丸太から切り出したベンチも置かれている。まずはそちらでお勤めとする。ちょうど心地よい風が吹いている。本堂に併設の納経所には、「紀州十三佛霊場」のパンフレットが置かれている。禅林寺はその第7番、薬師如来担当である。

本堂の脇には弘法大師像と大師堂があり、真言宗の寺院であることを示しているが、禅林寺でもう一つ有名なのが「ぼけよけ地蔵」である。たくさんの小さな身代わりのお爺さんやお婆さんの像が奉納されていて、多くの信仰を集めていることがうかがえる。実際、「ぼけよけ二十四地蔵霊場」というのが和歌山、奈良、大阪にわたって結成されていて、禅林寺はその第3番とある。まだそうしたものを認めたくないのだが、医学的に見れば私くらいの年齢だとぼけは進行しているそうだ。ここはしっかり手を合わせておく。薬師如来にぼけよけ地蔵、現世利益の要素が強く、ただ地元の人には身近に親しまれている存在の寺のように感じた。

本堂の裏に四国八十八所のお砂踏み霊場があるので、どんなものか一回りしてみる。山道を進むと、それぞれ石を積んだ祠があり、その中に本尊と弘法大師像が祀られている。そのまま行くが、第10番くらいまで来たところで前方の茂みが深くなった。それをかき分けてもう少し進むが、道しるべもないし、木が生い茂っていてとても最後までたどり着けそうにない。本当は正しい道があるのだろうし、正面突破すればいいのかもしれないが、この時はそうは思えなかった。道に迷うのも困るので適当なところで引き返す。それも私が選ぶ道である。

さて本堂まで戻り、次の札所を決めるサイコロである。くじ引きで出た出走表は・・

1.多気(神宮寺)

2.丹波(達身寺)

3.三田(花山院)

4.生駒(霊山寺)

5.池田(久安寺)

6.湖南(善水寺)

出たのは「4」。生駒の霊山寺である。これも自宅からまあまあ近い距離で行くことができる。年内に行くことにしよう。

さてこれで海南駅に戻るが、バスの時間も中途半端だし、再び野上電鉄の廃線跡をたどって戻る。和歌山行きの列車はほど良いタイミングで来るので、これで紀三井寺まで移動する。次は西国三十三所めぐりの3巡目である・・・。

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第12番「禅林寺」~西国四十九薬師めぐり・10(野上電鉄廃線跡)

2019年12月13日 | 西国四十九薬師

今年も残すところ半月となった。否が応でも年末の慌ただしさという雰囲気になってくる。

さてそのような中、前週に続いて西国四十九薬師めぐりである。こちらの今後めぐる札所を決めるサイコロの出目によっては、年末年始休みに青春18きっぷを利用する行き先にも影響が出る可能性がある。例えば三重県の山の中とか、北のほうなら舞鶴、さらには城崎・香住というところもある。もし城崎・香住というのが出れば、完全に温泉がついてくるし、冬ならば高いのは承知でカニ料理もいただけないかとか、そうした楽しみも出てくる(こうした現世利益も願っています)。

10ヶ所目となる今回の札所は、海南にある禅林寺を目指す。せっかく海南まで行った後どうするかというのもちょっと考えた。12月初め、青春18きっぷはまだ利用できない期間だが、もう少し足を延ばして湯浅や御坊といったあたりを目指すか。あるいは和歌山マリーナシティで温泉とマグロ料理もありかなとか。ただ、札所めぐりのついでということで、西国三十三所の3巡目として紀三井寺に行くことにする。ルートとしてはまず海南に昼前に着き、禅林寺をお参りした後は紀勢線または路線バスで紀三井寺に来て、和歌山に戻る。JR和歌山駅の近くに昼飲みができる大衆酒場があったはずで、これを楽しむのもいいだろう。

12月1日、まずは天王寺から9時台の関空・紀州路快速に乗る。好天に恵まれ、まずは紀伊山地を抜けて和歌山県に入る。

和歌山からはすぐの乗り継ぎで御坊行きに乗り換える。隣の和歌山線ホームには、先日105系と全面的に入れ替えとなった227系も停まっている。まだこの車両には乗ったことはないが、そのうち紀勢線のワンマン運転区間にも投入されるそうで、次に紀伊半島一周や那智山に行く機会があればその時には出会えるかもしれない。

11時に海南の高架ホームに到着。禅林寺に向かうのはもちろん初めてだが、こういう形でこの駅に降り立つのも初めてである。この辺りは漆器の生産が盛んで、改札に続く階段には徳川吉宗を描いた大きな皿もあるし、コンコースの物産展示にも作品が並ぶ。また土産物として購入することもできる。

さて禅林寺へのアクセスだが、海南駅から大十オレンジバスがある。バスで5分ほどの幡川という停留所があり、そこから歩いて10分ほどとある。バスは日中は1時間に1本の運転のようだが、バスの時間に合わせてもいいし、そのくらいの距離なら歩いても行ける範囲だなということで時間を見るうちに、「これは歩いたほうが面白そうだ」ということが出てきた。

その昔、海南から登山口まで野上電鉄というのが走っていた。もっとも廃線されたのが1994年だから、私もそれまでに乗ろうと思えば乗れた路線である。同じようなことをどこかの時に書いたかもしれないが、やはり当時は乗り鉄といってもJRの乗りつぶしにばかり意識が向いていたということがあったからだと思う。その野上電鉄は紀勢線よりも歴史が古く、野上町(現在の紀美野町)から物資を港がある海南に運ぶことを目的として敷かれた。ちなみに終点の登山口という駅名は、ススキで有名な生石高原への上り口にあたる場所から来ている。

現在結んでいる大十オレンジバスいうのは、飲料や食品などのトラック運送を担っていた大十という物流会社が、バス・タクシー事業にも進出して現在は子会社として運営している。登山口までの他に、季節限定でマリーナシティから海南駅を経て高野山奥の院への路線バスも出している。

駅を出て少し和歌山方向に向かったところに空き地がある。将来は住宅が建つのかもしれないが、この辺りに野上電鉄の始発駅である日方駅があったそうだ。後から開通してできた海南駅とは「連絡口」という駅で連絡していた。

少し進むと健康ロードというのに出る。ここが野上電鉄の廃線跡で、途中の沖野々まで6キロあまりが歩行者、自転車用に整備されている。今回は前半約2キロの幡川駅跡まで歩くことにする。

鉄道の跡ということでほぼ直線である。花壇も設けられているし、歩行者や自転車の通行もそれなりにある。正装する県道より安全だろう。ひょっとしたら、この「線路」の上を行き来する人の数は、鉄道が走っていた当時よりも圧倒的に多かったりして。

地元の海南高校や中学校の美術部による絵のパネルも雰囲気を出している。その中に電車の絵がある。ここが春日前駅跡。駅名標をモチーフにした案内板や休憩のベンチがある。ちょっと段があるのはホームの跡に見えなくもないが、どうだろうか。

阪和自動車道の高架をくぐる。禅林寺は高架沿いに少し南に行くルートだが、それは後ほどとしてもう少し歩く。健康遊具や公衆トイレがある一角に出た。ここが幡川駅跡である。健康ロードだけに、歩く途中にここでストレッチしましょうということか。歩き始めてから20分ほどでここまで来た。

ここで折り返して禅林寺に向かうが、先に昼食にしよう。幡川駅跡の向かいにラーメン店があるが、その名は「長浜らーめん」。和歌山ラーメンが近隣のあちらこちらにある中、あえて福岡の長浜流で勝負するというところだ。滋賀の長浜で長浜ラーメンに出会ったのと似ているようで気合いの入れ方は違うなという、ガチの長浜ラーメンである。食べ終わって店を出ると待ち客の烈もできていた。

ラーメンの味は申し分なく、普通に美味かった。セットのチャーハンもしっかりした味。ただ、やはり和歌山に来たならあのこってりした味に、はや寿司とゆで玉子のつまみ食いではないかなという思いも少し出てきた。

さて、相変わらず寺までの道のりが長い紀行文だが、目指すは禅林寺・・・。

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