まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第23回四国八十八所めぐり~第85番「八栗寺」

2018年12月30日 | 四国八十八ヶ所
八栗ケーブルに乗る。戦前は八栗登山鉄道という会社がケーブルカーを運営していたが、戦時中に不要不急路線として休止された。戦後の1964年に八栗ケーブルによって再開され、現在は四国ケーブルが運営している。四国ケーブルは八十八所めぐりの第21番の太龍寺、そして第66番の雲辺寺のロープウェイも運営しており、公共交通機関での八十八所めぐりにとっては頼もしい存在である。

八栗寺はケーブルカーが敷かれるくらいの山の上にあるということもそうだし、ケーブルカーの需要があるくらい多くの人が参詣しているとも言える。屋島のようにスカイウェイがあるわけでもないから、クルマで上がるのもきついのだろう。

待合室でしばらく過ごして、15時30分、数人の客と共に乗り込む。車両は1964年の開業時の日立製作所の車両である。先日も近畿三十六不動めぐりで生駒聖天の宝山寺に行ったが、その時もケーブルカーに乗っている。電車ともロープウェイとも違う独特の乗り心地、悪くない。

5分ほどで八栗山上駅に着く。出迎えるのは鳥居である。少し歩くと境内だがケーブルからだと裏から入る形になる。先に多宝塔と大師堂に着くが、やはり本堂から先にお参りしたほうがよいと一旦素通りする。さらに、やはり山門から入らないとということで本堂の前も素通りして山門から入り直す。遍路道をずっと歩いて来るとこの山門から入るわけで、先ほどの屋島寺とは逆のパターンだ。

弘法大師がここで虚空蔵求聞持法を修めた時、天から五本の剣が降り、蔵王権現が現れてこの地が霊地であると告げた。そこで弘法大師は剣を山に埋め、大日如来の像を祀った。それが五剣山の由来だという。また、五剣山の頂上から8つの国が見えたことから「八国寺」とされた。「八栗寺」という名前は、弘法大師が唐に渡る前に入唐求法の効力を試すために焼き栗を八つ植えておき、唐から戻った時にそれが成長していたのを見たことからついたという。梨の実を石のようにしたり、焼き栗から栗の木が生えたり、弘法大師も食べ物に対していろいろと忙しいのである。

改めて本堂を見ると、背後の五剣山の異様な姿を仰ぎ見る形である。この五剣山も信仰、修行の地であるが、現在では落石の危険があるために入山が禁止されている。もっとも、個人のブログなどでは結構登頂している人もいるようだが。

八栗寺は長宗我部元親の兵火で焼かれたが(この武将、いったいいくつの札所の寺を焼いたことやら)、江戸時代に高松松平家の保護もあって再興され、その時に本尊が聖観音となった。

また本堂の手前の聖天堂で歓喜天が祀られている。ケーブルカー、崖の下の本堂、歓喜天・・生駒聖天と共通している。この聖天堂は、江戸時代に木食以空上人がこの地こそ歓喜天を祀るのにふさわしいとして建てられたものである。五剣山というのがそれだけ霊地として魅かれるものがあるのだろう。

私はいただかなかったが、納経所では八十八所の通常の朱印のほかに、八十八所で唯一という歓喜天の朱印もいただける。

順序が逆になるが、ケーブル駅へ戻る途中で大師堂でお勤めとして、八十八所の石仏が集まる一角にも立ち寄る。この石仏は五剣山の中に点在していたものを集めて祀ったものである。

次のケーブルは16時15分。待つ間、梅昆布茶のお接待を受ける。下りの乗車は私一人。この日は17時15分が最終便だが、初詣の期間は運転時間を延長、大晦日から元日にかけては終夜運転とある。高松の人たちにとっては初詣の名所の一つなのだろう。

12月23日、冬至の次の日ということで日がもっとも短い時季である。また午後から曇り時々雨の空模様ということもあって外も暗くなってきた。帰りのバスまで時間はあるが、早く高松の駅まで戻りたくなった。行きに見たうどんの山田家は営業しているが、見送ることにする。もったいないと言えばもったいないのかもしれないが・・。

ケーブルの駅から歩くこと20分でことでんの八栗駅に着くが、時刻表を見るとちょうど瓦町行きが出たばかりで、次は20分待ちである。そこで向かったのは少し南にあるJR高徳線の古高松南。ちょうど16時47分発の列車に間に合った。高松までは20分、こちらのほうが速い。

帰りも青春18きっぷを使って鈍行乗り継ぎとするか高速バスにするか迷っていたのだが、結局19時ちょうど発の高速バスに乗ることにした。乗り換えなしで大阪まで戻れるというのはやはりポイントである。

それまでの間に入ったのは、高松駅横の庄や。チェーンの居酒屋だが、そのエリアの名物も結構メニューにあるのが特徴で、高松店では中四国のメニューがいろいろと並ぶ。この日はそれなりに歩いたのでビールが美味しい。料理ではオリーブの葉の粉末を餌に混ぜて養殖したオリーブハマチの刺身が、身が締まった感じでよかった。

また、今ではすっかり高松名物となった骨付鳥もある。今回は親鳥をいただいたがもちろん雛鳥もあり、食べ比べもできる。

19時の高速バスは阪急バス。この便の乗客は10人ほど。連休中ではあるが年末ということで遠出する人もそれほどいなかったのだろう。おかげで帰途もゆったりと過ごし、途中渋滞もなく順調に大阪まで戻ることができた。

さて、四国八十八所めぐりもこれで残すのは3ヶ所となった。これまでつないでつないで来たが、最後は一気に行こうと思う。何だか名残惜しい気もするのだが・・・。
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第23回四国八十八所めぐり~屋島の戦い

2018年12月29日 | 四国八十八ヶ所
屋島山上にある屋島寺から、次の八栗寺に向かう。公共交通機関利用ならシャトルバスで琴電屋島まで下りて、ことでんで八栗、徒歩20分ほどで八栗ケーブルの乗り場に着くのでというルートになる。ただ今回、屋島の東にある山道を歩いて下り、そのまま八栗ケーブルに向かうことにする。少しでも歩こうということもあるが、このルート沿いに源平の屋島の戦いに関する史跡があることも理由である。時刻は14時、先ほど降っていた雨も何とか止んだ感じである。

鮮やかな朱塗りの山門を出る。駐車場から来るとこの門から入るためか、こちらから出入りする人のほうが多い。そのために最近塗り直したように見える。

屋島の戦いの屏風絵をパネルに貼った土産物店の横を抜け、屋島の東側に向かう。

雲に覆われて眺望はあまり利かないが、ここからの眺めもなかなかのものである。正面にコブが盛り上がっているように見えるのが五剣山で、これから目指す八栗寺はその中腹にある。屋島と五剣山の間の入江で源平の戦いが繰り広げられた。

遍路道を示す道標がある。いきなりの急な下り坂である。その注意を促す張り紙もある。特に雨模様ということでぬかるんでいるところも多く、下りるのに慎重になる。上りならしんどいしキツいが、地面を這ってでも前に進めば何とかなる。一方の下りは下りで、どこに足を下ろすか、また杖をどこに突くか選びながら進む。それでも注意書きの通りに足を滑らせたことも何度かあった。杖を持っていて何とか尻餅はつかずにすんだが、ここは地味に遍路ころがしである。

途中の道路は屋島スカイウェイである。屋島へのクルマでのアクセス道で、かつては有料だった。この道を歩行者が歩けるのかわからないが、屋島寺から八栗寺に向かう時はスカイウェイを横断して進むことになる。

下り坂で足元に注意しながら歩くうち、辺りが開けてきた。猪よけのフェンスが現れた。30分近くかかったが、民家が近いエリアに着いたことになる。フェンスから先は舗装された下り坂である。

佐藤継信の碑に出る。佐藤継信・忠信兄弟は奥州藤原氏の家臣の家に生まれ、源義経が奥州から参戦する時に郎党として仕えた。継信は、屋島の戦いにて、平教経が義経を狙って放った矢を代わりに受けて、そのまま戦死した。その様子は平家物語で示され、名場面の一つになっている。継信が戦死したのはここよりも南で、碑があるのは江戸時代の松平家によるものだという。それはいいとして、この碑の周りには明治以降の軍人の碑もいくつか並んでいる。まあ、「佐藤継信は『忠臣』である」という一種の戦前信仰の現れで、自らの墓石を継信の周りに建てさせたのだろう。

安徳天皇社に着く。一ノ谷の戦いに敗れて四国に逃れてきた平氏は、壇ノ浦の入江に面して背後は険しい屋島、前方には五剣山ということで地の利を得たところとして行宮を建てた。現在は陸続きになっているが当時の屋島は島だったそうである。当然源氏方は瀬戸内海側から攻めてくるものと想定していた。

ところが源義経は小松島から四国に上陸し、またも背後を突く形で平氏の前に現れる。ちなみに上陸したのは四国18番の恩山寺の近く。その上陸の地を訪ねたのもかなり前だなと思い出す。

安徳天皇社の本殿の裏に石が積まれた一角がある。屋島の戦いで戦死した武士たちの墓があちこちにあったが、いつの頃からか里人たちがこの一角に集めて供養したものだという。この地は「壇之浦」というが、下関の壇ノ浦とやはりつながりがあるのだろうか。

もし平氏が屋島の麓ではなく、屋島の山上に行宮を構えていたらこの戦いはどうなっていたかと想像する。古くは中大兄皇子が白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた後、逆に攻め込まれた場合の備えとして屋島に山城を造ったこともある。

この後は菊王丸の墓、義経の弓流しなどがあり、相引川を渡る。これで屋島側から五剣山側に移ることになる。五剣山は日本でも最高級の石とされる庵治石の産地であり、墓石をはじめとした石材店も沿道に目立つ。

遍路道は洲崎寺という寺を経由するが、この境内にも屋島の戦いについて紹介した庵治石のパネルや、屋島をかたどった枯山水が見られる。

少しずつ上り坂になる。ケーブルカーの近くに「山田家」といううどん店がある。「水曜どうでしょう」の四国八十八所めぐりの中でも絶賛されていて、うどんを取るか札所を取るかというところでうどんを取ったくらいのものである。電柱にも看板が次々と貼られていて、これは立ち寄りたいものだと思う。ただ、まずは札所である。

八栗のケーブルカー乗り場に到着。ちょうど15時15分発の便が出たところで、次は15分後の15時30分。そろそろ帰りの時間も気になるところである・・・。
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第23回四国八十八所めぐり~第84番「屋島寺」

2018年12月27日 | 四国八十八ヶ所
四国村の見物を終えて屋島寺に向かう。シャトルバスで行く方法があるがここは徒歩で上ることにする。

徒歩ルートの上り口は琴電屋島の一つ瓦町寄りの潟元駅が最寄りとなる。今回は四国村から1駅ぶん戻る形で住宅街を歩き、屋島小学校の前に出る。ここからは道なりに上っていく。

小学校のからの道は急な勾配である。トレーニングで走る人がいるが、この急坂では脚もほとんど上がらない。

遍照院というお堂の前を過ぎると、遍路道のあの案内板が出る。屋島寺の本堂まで実測で1665メートルとある。この時は目に入らなかったが、道路標識では勾配21%とある。かつてケーブルカーも走っていたし、屋島の形状を見るとそれもうなずける。今回は金剛杖を持っているが、途中にはお接待で竹杖が置かれている。

上り坂はある地点で階段となり、クルマはその先入れない。そこには石仏が並んでいて、加持水とある。弘法大師が屋島に上る途中で休憩したが周囲に水場がない。そこで加持祈祷をすると水が涌き出たという。しかも、干ばつで周囲の川や井戸の水が枯れた時もこの加持水は枯れることがなかったとも言われている。弘法大師には水にまつわる伝説が多い。

また上ると「喰わずの梨」という木がある。弘法大師が屋島に上る途中に立派な実をつけた梨の木があり、梨をもいでいたおばあさんに一つ所望した。しかしおばあさんは「この梨は水気がなくて喰えたものではない」と嘘をついて梨をあげなかった。その後、梨を売りに出したところ本当に水気がなく喰えたものではなくなっており、以後もこの木になる梨は固くて食べられなくなったという。お接待、施しについて説いた話だと思うが、弘法大師の食べ物への恨みは結構あるなと思う。思い出すのは、阿波の牟岐にある別格二十霊場の鯖大師。ここも、馬方が積んでいた鯖一匹を恵んでくれなかったからと馬を腹痛にして動けなくしている。探せば他にも弘法大師の食べ物の恨みはあるかもしれない。話としてわかりやすいこともあるだろう。

急な坂だが、舗装されていたり石畳が敷かれていて、いわゆる遍路ころがしのような何とも言えないハードさに比べればいくらかマシな感じである。すれ違う人たちも軽装、中には手ぶらの人もいて、地元の人たちが足腰を鍛えるのに上り下りする道のようだ。ただこの日は、ここで雲が広がって空からパラリと雨粒が落ちてきた。天気予報が当たった形だが、まだ折り畳み傘を出さなくても耐えられるくらいである。

そろそろ到達というところに屋島の登山回数の「番付」が張り出されている。そうした面があるというのは意外だった。

山門に着く。上り口から30分くらいかかったが、クルマやシャトルバスだと境内の反対側にある駐車場に着くのでなかなか見る機会のない建物である。

境内を進むと中門に出る。ここは屋島の展望スポットである獅子の霊巌に続く道のため行き交う人も多い。

屋島寺を開いたのは唐の鑑真和上という。唐から幾多の困難を経て日本に来た時、屋島の山上に瑞光を見つけ、普賢菩薩を祀ったのが始まりとされている。その後、鑑真の弟子の恵雲律師が伽藍を開いたり、水が出ないとか梨の実を分けてもらえなかったとかに対して自らの法力を誇示した弘法大師(別にディスってません)が中興の祖とされてたりしながら、江戸時代に高松藩の保護も受けて現在に至っている。屋島といえば源平の戦いで知られるが、これについては後で触れることにしようと思う。

歴史あるお堂の一方で境内は現代風の雰囲気である。正面の本堂は江戸時代前期の再建という。高松藩主松平頼恭による「廣大智慧觀」の額が存在感ある。これは観音経の一節で、本尊は千手観音である。

本堂横の蓑山大明神の鳥居のたもとに巨大な狸の像が並ぶ。狛犬ならぬ「狛狸」かな。これは「太三郎狸」と呼ばれていて、屋島寺の守護神、四国の狸の総大将として信仰を集めている。神仏習合の象徴とも民間信仰の対象ともされている。

他には七福神の像やそれぞれのお堂もある。まあそれよりも、屋島寺というところは、屋島の観光に来て道順からして必ず境内に入る、そして拝む人は拝む・・・という感じの札所やなとの印象が強くなった。

境内を回り、朱印をいただく。これで84番目、この後は85番に向かうということで、そろそろ八十八所めぐりの終わりを意識するところである。

この後、獅子ノ霊巌に向かう。沿道に何軒かの土産物屋が続くが、店頭には狸の置物も見られる。それ以上に置かれているのがかわら投げ。源平の屋島の戦いで源氏が勝った時に陣笠を投げて勝鬨を挙げたのを言い伝えとして、素焼きのかわらを展望台から海に向かって投げるとある。受験の合格祈願、開運厄除け、家内安全などのご利益があるという。こういう「投げるもの」というのは多くはその辺に的があり、その輪の中を通すことができればご利益があるとされるが、屋島ではそのようなものは見えない。ならばその辺に投げておけばいいのかな。

獅子ノ霊巌から眺める高松の市街地は知る人ぞ知る観光スポットだそうだが、この日は小雨が降るためか、残念ながら展望台から高松の市街地への眺望はそれほどでもなく、そろそろ引き返す。これから85番の八栗寺に向かうのだが、昔の遍路道をそのまま残す区間でもあり、どのようなペースで回ることにするか・・・。
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第23回四国八十八所めぐり~四国村

2018年12月26日 | 四国八十八ヶ所
84番の屋島寺に向かう坂道の途中、屋島神社に隣接してあるのが四国村である。四国村とは、「見たことのある 初めての場所」というのがキャッチコピーで、四国のさまざまな民俗的に貴重な建物を一ヶ所に集めて1976年に開かれた施設である。「四国版明治村」とでもいうところかな。瀬戸大橋線の列車で坂出に入る手前にも看板があるので名前は知っていたし、この機会に一度訪ねてみようと思ったのだ。

その前に食事ということで、四国村の入口前にある讃岐うどんの「わら家」に入る。江戸時代末期の藁葺き屋根の民家をそのまま移築した建物である。

こちらのおすすめは釜揚げうどん。中ジャンボサイズをいただく。家族やグループ向けにはたらいサイズなんてのもある。つけ出汁は一升徳利に熱いのが入っていて、徳利の口を縛る藁ひもを持って徳利を傾けて湯飲みに注ぐ。いりこがベースだというがカツオの濃さもある。麺もなかなか腰と風味があり、普段釜揚げうどんは注文しないのだが、これはいけた。

さて腹もできたところで四国村に入る。入園料は1000円としっかり取る。まず出迎えるのはかずら橋。池の上を渡していて、本家の祖谷のかずら橋に行ったことがないのでわからないが、それより短く、水面からの高低差もないにしても結構スリルがある(かずら橋を渡らず池の周りを歩いても先に行くことができる)。

続いては小豆島の能舞台。スタンド型の客席も設けられ、ここで上演することもあるのだろう。

石垣のある立派な民家に出る。伊予の河野家住宅で、国指定の文化財である。寒い地域のため各部屋に囲炉裏がある。園内にはこうした民家が多く残されているが、保全のために入れるのは土間までで、座敷に上がることはできない。

円錐形の屋根を乗せた円柱の建物がある。砂糖しめ小屋というもので、「讃岐三白」の一つとされる砂糖を生産した建物である。中央に石臼と腕木があり、この腕木を牛が引いて建物の中をぐるぐる回る。その動力を利用して石臼に差し込んだサトウキビから汁を絞りだし、その汁を煮詰めて砂糖を精製したという。讃岐と砂糖というのも結び付かないのだが、薩摩から航海の途中で流れ着いた者から伝わったものだという。

左甚五郎の墓というのもある。讃岐でその生涯を終えたのだとか。

こうした昔の建物が続くかと思えば、いきなりコンクリート打ちっぱなしの建物も現れる。この四国村ギャラリーという建物、すぐにピンと来る方もいらっしゃるだろうが、安藤忠雄デザインで2002年に開館した。香川で安藤忠雄といえば直島の美術館が有名だが、四国村ギャラリーはそのついでで造ったのかな?と思わせるような、入口から地下に潜る建物である。

館内の展示作品はメソポタミア発祥のラスター彩の文物が中心で、それよりも目立つのはその先の庭園。勾配を活かして階段を造り、水の景色を演出している。エッシャーのだまし絵の1枚のような水の流れだが、残念ながら水は元に戻らず、そのまま下に流れ出る(機械で汲み上げてまた上から流している・・のはナシで)。

高台には大久野島にあった灯台が建ち、洋風の家屋が並ぶ。「退息所」という、灯台守の住宅である。昔の映画に「喜びも悲しみも幾年月」というのがあり、その世界と重ねての紹介である。このうち手前にある江埼退息所は元々淡路島の北端、明石海峡を望む場所にあって保存されていた建物だという。それが阪神・淡路大震災で被災したことから、四国村に移築して修復したのだとか。なかなか懐も深いのである。

順路に従って進むと今度は土佐和紙の原料である楮(こうぞ)を蒸すための小屋もあるし、平家の落人伝説がある祖谷の民家も見られる。祖谷の家では主家に対する隠居家があり、家督を譲ると主家に隣接した隠居家に移るのだという。

ここまで来ると、四国のそれぞれの国、それぞれの時代の建物がいろいろ出てきて、それらを消化するのも結構しんどくなってくる。まあ、四国村を短時間で消化しようというのそもそもの間違いなのかもしれないが。

丸亀藩の御用蔵では淡路島、阿波の人形浄瑠璃の衣装の展示がある。

また醤油蔵では讃岐東部での醤油造りの紹介がある。かつての麹室も復原されている。

他にもさまざまな建物があり、順路もアップダウンあり、風情ありで、四国の各地や各時代を縦横に回ってそれぞれの民俗を知る感じのスポットだった。今回1時間あまりで一巡したが、じっくり見物するなら少なくとも2時間、お好きな方なら半日を充てていいところだろう。1000円という入園料は十分価値があった。

屋島山上へのシャトルバスは四国村の駐車場前にも停まるが、ここまで来たのだから歩いて上がろうと思う。屋島観光のホームページにて、歩き遍路と関係なくても歩いて上がるコースも紹介されていたし・・・。
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第23回四国八十八所めぐり~屋島と八栗を目指す

2018年12月24日 | 四国八十八ヶ所
2016年の7月に第1番の霊山寺を訪ねてから2年半になろうかというところで、四国八十八所めぐりも最終盤に近づいてきた。これまでの22回で83番の一宮寺まで訪ね、残りも一気に回ろうと思えば回ることができるところまできた。

ただ、そのつもりで時刻表を見てプランニングしたものの、これを一気に回るのももったいないかなという気になった。そこで、残り5ヶ所のうち、84番の屋島寺と85番の八栗寺だけでも先に回れないかと考える。いずれも山に建つ札所ということもあるし、観光スポットとしても知られるところである。

当初は青春18きっぷを使っての日帰りを考えていた。自宅からの乗り継ぎだと高松に着くのは10時26分で、寺2つなら日中で回ることは十分可能だと思うが、見物したいところもあるし、歩きの移動もある。もう少し早く着きたいところだ。

そこで考えたのが高速バスでの移動だが(新幹線+マリンライナーというのは置いといて)、前にも乗った大阪からの高速バスでも高松到着は10時18分。これだと鈍行乗り継ぎと変わらないなと見ていると、高速バスでも神戸三宮発というのがあった。新神戸始発で三宮は7時05分発、高松には9時57分に着く。20分ほどの差だが、このルートで行くのも初めてのことで乗ってみることにした。前日にネット予約したが空席も十分あるようだ。12月23日、連休の中日は天候が少し心配だったが早朝に出発する。

自宅を始発で出発するのはいつものこととして、今回は梅田から阪神電車で移動。神戸三宮で下車してバスターミナルに向かう。

やって来たのは西日本JRバスの車両。今回は最後部の座席を確保したが、半分以下の乗客で出発する。生田川から阪神高速神戸線に乗り、そのまま次の停留所である高速舞子に向かう。ここでも乗車があったが、合計で半分あまりというところだ。中には金剛杖を手にした人もいる。お、これは同好の士かな。4列シートだが隣の乗客もおらず、ゆったりとして四国に向かう。この日の天気予報は午後から下り坂だが今のところは晴天である。まずは順調に淡路島を縦断していく。

大阪から高速バスで四国に向かう時、2時間に1回のペースで休憩を取ることからその定番として淡路島の室津パーキングエリアに立ち寄るのだが、この便は神戸始発のためか、室津は通過する。休憩地として立ち寄ったのは洲本の先にある緑パーキングエリア。設備はトイレと自動販売機のみだが、その名のとおり周囲は緑に囲まれていて、ちょっと散策するスペースもある。淡路島が発祥の人形浄瑠璃について紹介する案内板もある。

淡路島を過ぎて四国に入る。高松自動車道は4車線化の工事中だが、今年の夏に高速バスで通った時と比べても工事が進んでいるのがわかる。2018年度中の完成を目指しているとのことである。

四国に入ると鳴門西から各停留所で少しずつ下車がある。高速志度では金剛杖を手にした男性も下車して行った。ふと遠くには寺の塔が見えるが、あそこが86番の志度寺だろうか。

高松中央インターで高松道を下り、そのまま市街地に入る。途中渋滞するところもなく、9時57分定刻に高松駅の高速バスターミナルに到着した。これからすぐにことでんの高松築港駅に向かう。

今回乗るのはことでんの志度線だが、琴平線、長尾線が高松築港を発着するのに対して、志度線はことでんのターミナルである瓦町から分岐する形である。かつては瓦町でスイッチバックして高松築港に乗り入れていたが、瓦町駅の改築にともない、完全に線路が分断される形になった。琴平線、長尾線のホームから志度線のホームへは長い連絡通路(動く歩道もある)をたどってたどり着く。後でよく考えれば、屋島にはJRの高徳線も並走しており、所要時間もJRのほうが若干早い。しかも、高速バスが着いたタイミングでちょうど高徳線の列車があり、こちらが瓦町で乗り換えている時間には屋島に着いていた。まあそれは結果論として。

瓦町からガトゴト揺られること15分、琴電屋島に到着。1929年に建てられたという木造の洋風の駅舎が今でも残っている。

屋島寺は駅の目の前にそびえる屋島の山上にある。かつてはケーブルカーが出ていたが2004年に運転休止、翌年に廃止されている。山上へは1時間に1本の割合でシャトルバスが出ていて、これに乗れば10分でアクセスすることができる。

ただその前に、屋島の麓にかねてから気になっていて、屋島に来たらここは訪ねようと思っているスポットがある。今回高松へのアクセスの時間を気にしていたのもそのためで、まずは坂道を上ってそちらに向かうことに・・・。
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FA選手人的補償

2018年12月21日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
バファローズからタイガースにFA移籍した西の人的補償で、竹安が移籍することになった。

前にこのブログで、西宮球団や関西のマスコミへの苛立ちがあり、「西宮の選手もカスばっかりやから、西宮の酒粕でももらえや」と書いた。まずはこれに不快な思いをされた方に申し訳ないです。

竹安はプロ3年、故障明けということもあり1軍登板もほとんどなかったのだが、今季クライマックスシリーズの裏で行われていたドラゴンズ対タイガース戦(荒木、岩瀬の引退試合)でプロ初先発。こういう若手主体の試合ながら先発のチャンスをもらえる期待度はあったということか。ファームで結果を出していたが、プロテクトにはならなかったと。その時のチーム事情もあるし、こればかりは運だと思う。

今のバファローズなら本人の頑張りで何とでもなると思う。若手の競争が激しくなる活躍を期待したい。

そして、人的補償でさらに話題となったのは、ライオンズ炭谷に対するジャイアンツ内海。かつてのエースの移籍である。

これについてはジャイアンツファンはただならない反応のようで、その一例として、私の職場にいるジャイアンツファン(丸の移籍についてもっともらしい「解説」をしてくれた方)に言わせれば、「炭谷、要るか? 捕手6人ベンチ入りさせるのか?」とのこと(その6人とは阿部、小林、炭谷、大城、宇佐美、岸田のことで、この人に言わせれば炭谷を獲るくらいなら岸田を使えというらしい)。

内海はFA権を持っているので、その気なら来年オフに権利を行使してジャイアンツに戻ることもできるが、それもライオンズである程度の成績を残してのことだろう。こちらも登板試合を観てみたい。

話変わって、ライオンズからイーグルスに移籍した浅村の人的補償だが、こちらはどうやら「マネー」という選手になるらしい。それは冗談で金銭補償なのだが。

イーグルスは28人のプロテクトリストを作るのにも苦労したのかな。辻監督も「ピンと来ない」と言ったそうだ。ネットニュースのコメントは大喜利みたいになっていて、マネー選手もあれば、楽天ポイントでもらうとか、イニエスタを出すのではないかとか飛び交っているが、イーグルスの選手層の薄さかな。ただ、石井GMと平石監督という若いトップのチームでこれから土台造りならやむを得ないかな。

で、最後に決まるのがカープ丸の人的補償。くだんのジャイアンツファンの読みは「若手投手、といいつつもベテラン野手もあり」というものだが、果たして・・・?
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第29番「宝山寺」~近畿三十六不動めぐり・28(熱心にお参りする人の多い現世利益の寺)

2018年12月20日 | 近畿三十六不動
近畿三十六不動めぐりの中での宝山寺の参詣である。山門(ここでは惣門と呼ぶ)をくぐると、左手には地蔵堂、右手には七福神が祀られている。こちらで熱心に手を合わせる人の姿も見られる。

石段を上り、中門をくぐると本堂のあるエリア。10年以上前の元日に訪ねた時に比べれば少ないとは言え、それでも大勢の人が手を合わせている。雰囲気としては、京都の観光寺院のように仏像やお堂を見物するというよりは、まずはきちんと拝むことに重きを置いている人が多いように思われる。

まずは本堂に向かう。ろうそくと線香を求めるが、中でも線香は1本、もしくは10本いくらという売り方である。こうしたお堂でお供えする線香の本数は宗派によって違いはあるが、多くは1本または3本とされている。その中で10本とは。この線香の種火もろうそくではなく、もぐさの下に炭が置かれているようで、その鉢に線香の先を押し当てて火をつける仕組みになっている。これだと一度に多くの人が多くの線香に火をつけることができる。

宝山寺の歴史に触れると、大昔から生駒山そのものが神が宿る山として信仰されており、巨大な岩窟もあって役行者や弘法大師も修行したと言われている。江戸時代、湛海という僧侶が歓喜天の修法に優れてさまざまな祈祷を行っていたが、後に改めて真の仏法を求めるべく修行を行い、生駒山に伽藍を建てた。結果、湛海は優れた修験者として徳川将軍家や大坂の豪商たち、さらには庶民からも信仰を集め、その伽藍は湛海の号の名前から宝山寺と呼ばれるようになったという。

不動明王が祀られる本堂と、その背景にある岩窟。いかにも不動明王の霊場に似合う感じがする。どうしても山岳信仰や修験道と結びつけてイメージするからだろうか。まずはこの本堂の前でモゴモゴとお勤めをする。

本堂の手前には天神様の小さな祠がある。その周りには何体もの牛の像が置かれていて、両側の角に5円玉の穴が刺されている。「良いご縁(5円)」ということなのだろうが、牛の角に刺すというのは何かいわれがあるのだろうか。

その隣には水掛不動が祀られている。水を掛けてお祈りした後で写真を撮ったのだが、帰宅後にデータを整理したところ、この場面だけデジカメのカードに保存されていなかった。屋外の水掛不動像については撮影禁止とも何もなかったはずだが、ひょっとしたら・・・?

本堂と同じように堂々として並ぶのが歓喜天を祀る聖天堂。檜皮葺の建物である。手前には大根や打出の小槌をあしらった木製や銅製の巾着が置かれている。これも歓喜天信仰の象徴の一つだそうで、賽銭箱の役割を果たしている。巾着だから金運アップかな。

外陣では祈祷を受け付けていて、ちょうど僧侶たちの読経の声が響く。歓喜天の修法の経典もあり、宝号「南無帰命頂禮大聖歓喜雙身天王」と唱えるところから始まる。

また訪ねた16日は歓喜天の縁日で、聖天堂の内陣も開放しているとある。縁側を奥に進むと奥の建物に続く。外陣と内陣というよりは、神社の拝殿から本殿に進む感じだ。そこには神社のように鏡が置かれている。歓喜天は絶対秘仏でこの奥におわすとのこと。こちらでは正座して静かに手を合わせる人、黙想する人が何人もいる。真摯な祈りの場である。

2つのメインのお堂にお参りして祈祷受付の窓口で朱印をいただく。お守りやお札の授与所もあるが、珍しいのは「1円玉200枚」、「5円玉20枚」の袋。さらには100円玉や10円玉への両替機もある。今回利用することはなかったが、わざわざ小銭の両替袋があるのはなぜか。

答えはこの先の境内にある。以前に来た時は本堂と聖天堂に手を合わせてそのまま引き返したと思うが、ここから奥の院までの中にさまざまなお堂がある。そうした一つ一つにお参りする人に向けたものなのかな。この先は初めて入るがともかく上がってみる。

まず出たのは文殊堂。宝山寺では学問向上はこちらの文殊菩薩が担当するとある。

続いては常楽殿。ここは如意輪観音と毘沙門天、吉祥天がお出迎え。

その奥には天保年間建立の観音堂がある。十一面観音が祀られている。観音堂の奥が般若窟の遥拝所である。般若窟に入ることはできないが、役行者がこの崖で修行したとされている。

ここから奥に参道が延びるのだが、ここで小銭両替の意味がわかった。これまでの多くのお堂の他に、参道の両側には奉納された地蔵や観音像がずらりと並んでいて、それぞれに1円玉を入れてお参りする人がいる。ろうそくが10本でも売られているのもそれぞれのお堂て供えることができるからだ。

参道の途中に弘法大師堂があり、お堂の中の木像だけでなく外に石造の大師像や稚児大師像もある。それぞれにお賽銭を入れるとなると、それは結構な数の小銭がいるだろう。

奥の院に到着した。こちらは不動明王が祀られていて、改めて真言を唱える。合わせて開山堂がある。宝山寺の中興開山である湛海の像が祀られている。

その奥には大黒堂があり、大黒天を祀る。奥の院といっても開けた感じの一帯だが、山岳修行の地としての歴史は今も息づいているようだ。ここで引き返す。

再び地蔵や観音像が並ぶ石段を下り、愛染明王が祀られる多宝塔にも手を合わせて、本堂、聖天堂の前まで戻ってきた。

1時間あまりで境内を回って奥の院にも往復したが、丁寧に、熱心にお参りする人が多かったのが印象的だった。ちょうど16日の歓喜天の縁日だったこともあるのだろうが、江戸時代から庶民の現世利益を多く叶え、それがまた深い信仰を集めるのかなと感じられた。こういう寺だったんだなと改めて学ぶことができた一時である。

ここで次へのサイコロである。

1.東山(智積院、青蓮院、聖護院)

2.左京(曼殊院)

3.醍醐(醍醐寺)

4.湖西(葛川明王院)

5.振り直し

6.振り直し

出たのは「3」、醍醐寺である。ここで西国三十三所の2巡目との2枚抜きとなる。本音を言えば前回(第10番の神戸の無動寺)のサイコロの時に醍醐寺が出てほしかったのだが仕方がない。その理由はまた醍醐寺に行った時にでも。

宝山寺を後にしてケーブルカーの宝山寺駅に戻る。この後だが昼食は後回しにして、帰りは変化をつけて生駒から近鉄生駒線で王寺に出る。生駒山から信貴山を右手に見るルートである。これまでの寺社めぐりで信貴山を訪ねたことはないが、いずれはこの辺りにもサイコロの出目で来ることもあるだろう。

王寺に到着。ホームにあるJRへの乗り換え案内板の表示は、あくまで「関西線」だった・・・。
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第29番「宝山寺」~近畿三十六不動めぐり・28(聖地を目指す電車とケーブルカーと石段と)

2018年12月18日 | 近畿三十六不動
今年も残すところ10日あまり。世間では「平成最後の年越し」というムードが少しずつ高まっている。

そんな中での近畿三十六不動めぐりは、生駒山の中腹にある宝山寺。十何年か前の正月に一度参詣したことがあるのだが、その時は友人と一緒に橿原神宮、三輪神社、宝山寺、枚岡神社を1日で回るという結構ハードなものだった。

その宝山寺は不動明王を本尊とするが、宝山寺というよりは「生駒聖天」という呼び名のほうが知られているように思う。なお「聖天」とは歓喜天の愛称であり、災難よけ、財運、夫婦和合、子宝というところのご利益があるとされ、企業の商売繁盛の祈祷も行われている。

宝山寺に行くにはまず近鉄奈良線に乗る。生駒山の西を少しずつ上り、生駒トンネルに入る。この生駒トンネルは1964年開通の2代目で、その前身は1914年、近鉄の前身である大阪電気軌道により建設された。当時は難工事で、岩盤の崩落事故で多数の死傷者も出したが何とか開通。しかし、当初の見込みよりも費用がかかりすぎたことから、開通当初は社員の給与の支払いや、切符の印刷代にも事欠くという事態が起こった。そこで大軌のトップが宝山寺に頭を下げて、宝山寺のお賽銭の支援をお願いした。宝山寺はこれを受け入れ、その代わりに寺の下までケーブルカーを敷いてもらった。これは一部都市伝説のようなところもあるようだが、宝山寺が広く信仰を集めていることの現れと言える。現に生駒トンネルの開通で大阪~奈良間の時間が大きく縮まり、生駒や学園前など、近鉄の中でも1、2を争うベッドタウンができたことは事実である。

現在は大阪メトロ中央線~近鉄けいはんな線もある生駒に到着。駅前を抜けてケーブルカーの鳥居前駅に向かう。鳥居前・・・といっても周りに鳥居は見えない。かつては宝山寺の鳥居があったそうだが、駅前の開発にともない寺の前に移されたのだとか。まあ、ここから宝山寺まで歩いて歩けない距離でもないようだし、四国八十八所の札所なら間違いなく歩かされるくらいの距離に思われる。

生駒ケーブルカーといえば「ブル」と「ミケ」という、それぞれ犬と猫をあしらったデザインの車両で知られる。ただこの日はお休みのようで、「ブル」は宝山寺で、「ミケ」は鳥居前で待機状態。稼働するのは従来型の車両である。ケーブルカーは単線で、その中間点ですれ違う仕組みなのだが、生駒のケーブルカーは複線で、片方が従来型、もう片方が「ブル」と「ミケ」がすれ違う仕組みである。どうやら客の多い時期に「ブル」と「ミケ」が稼働するようだ。

両側に住宅やマンションが並ぶ中を走り、5分ほどで宝山寺に到着。この先生駒山上に乗り継ぐケーブルカーも待機しているが、この日は生駒山上遊園地も休園とある。そんな日にこの区間に乗る人はいるのだろうか。

駅から寺までは徒歩10分ほどとあり、そのほとんどは石段である。寺への参道が石段というのは一種風情のあるところ。両側には旅館や食堂が軒を連ねているが、寺の参道によくあるように盛んに呼び込みをするという光景はない。

その筋の方には有名なのだが、宝山寺への参道で営む旅館というのは、多くは「料理旅館」という名のいわゆる「ちょんの間」なのだという。(ここからは伝聞として)そうしたスペースといえば大阪なら飛田新地が有名だが、生駒の宝山寺新地も歴史があるそうだ。飛田のように店の軒先にサンプルのように着飾った若い女性が座っていて婆さんが呼び込みをするわけでもなく、女性の数も少なく平均年齢も高いそうだが、普通の旅館のように一緒に「宿泊」も可能だとか。まあ、その辺りは体験談を書いたネット記事もたくさんあるのでそちらを参照いただいて・・・。

石段を上がると両側に灯籠が並び、正面に石造の鳥居がある。真新しいしめ縄が張られ、鳥居の下では掃き掃除をする人たちがいる。この日(12月16日)は宝山寺としては聖天(歓喜天)の縁日であり、正月を前に新たなしめ縄を張る日だそうだ。朝方に法要が行われ、最後に紙の散華を撒いたそうで、掃き掃除はその片付けである。

広い駐車場があり、その奥に拝殿がある。クルマの交通安全祈願はここで執り行うそうだ。ここまでクルマで上がる参詣者も多いのだろう。梅田や天王寺の歩道橋に立ってそうな托鉢姿の人もいれば、山門の手前で不動明王の真言をひたすら唱える僧侶姿の人もいる。

さていつもながら前置きが長くなったが、これから宝山寺の境内に向かう・・・。
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懲役18年って、実質無罪と一緒やん

2018年12月14日 | ブログ
東名高速でのあおり運転の末の殺人事件。

求刑23年に対して値引きして懲役18年か。

正直、十分死刑に値する案件なのにこの判決って、実質無罪と一緒。被告人は弁護士と祝杯でも挙げているのではないか。

これは悪しき前例となる。

判決って、マージャンの役の計算みたいに決めてるようなもの。それこそAIにでもやらせれば?

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今年の漢字は「災」

2018年12月12日 | ブログ
12月12日、京都の清水寺にて「今年の漢字」が発表された。清水寺の貫主が達筆で書くアレである。この日に発表するのは「いいじいいじ(いい字)」の語呂合わせなねだとか。

今年の漢字は「災」。やはりなと思う。先月清水寺を訪ねた時の記事で、投票はしなかったが「災」だろうなと予想した。投票に占める割合が10.8%だったことから多くの人がそう感じたことである。なお、私はもう1字「倫」という漢字を挙げたのだが、そこに出たさまざまなモラルハザードの問題は、「人災」として「災」に込めたというコメントもあったそうだ。

2位は「平」。平成最後、平昌オリンピック、大谷翔平選手について。3位の「終」も平成の終わり、築地市場の終わり、安室奈美恵さんの有終の美、多くの著名人の生涯の終わり・・という理由が挙げられた。

3つの漢字の中で明るい話題といえば平昌オリンピックの日本選手のメダル獲得や大谷翔平選手くらいのもので、やはり暗い話題、ニュースが多かったなと思う。

来年は元号が変わることで新たな時代への期待が膨らむことだが、それも急に良い方向に向かうわけではなく、時間を要することも多い。また今の気候状況だと、来年も猛暑や台風、豪雨に悩まされる確率が高いだろう。

せめて日々の普段の暮らしの中で何かほんのちょっとした喜びや楽しみを感じることが生きる力になるのだろう・・・。
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第10番「三室戸寺」~西国三十三所めぐり2巡目・32(勝運の手形)

2018年12月12日 | 西国三十三所
先日来、(数えれば政治からスポーツ、芸能まできりがないのだが)世間を騒がせていることの一つに、貴ノ岩の暴力行為がもとでの引退というのがある。

昨年に起きた日馬富士による貴ノ岩への暴力行為に端を発して、貴乃花親方と相撲協会の確執、その中で貴公俊による付け人への暴力行為、理事からの降格、相撲協会引退、部屋の閉鎖、河野景子さんとの離婚・・・と、貴乃花部屋にまつわるさまざまな出来事があった。本来の土俵では横綱白鵬にも全盛時の強さは陰をひそめ、稀勢の里は休場続きで引退危機の一方で、栃ノ心、御嶽海、そして貴景勝と1年で3人の初優勝力士が出た。平成から次の時代への移り変わりが相撲界にも現れているのかなと思う。

貴ノ岩の暴行は、ひょっとしたら他の力士ならもう少し時間をかけた上で穏便な形での解決が図られたのかもしれないが、引退は致し方ないと思う。ただ、暴力根絶を前面に出すのであれば、公平なルールと万が一事件があった時の適正な対処が必要であると考える。

・・・で、この記事は西国めぐりについてのはずだが、始めに大相撲、中でも貴乃花親方、貴乃花部屋関係の一連の出来事について書いている。その理由は後ほど・・・。

西国三十三所めぐりの2巡目は残り3ヶ所。特に番号順やサイコロの目によらずに回り、残ったのは三室戸寺、醍醐寺、圓教寺である。この中だと雰囲気としては圓教寺を最後にすることにしており、醍醐寺は近畿三十六不動の札所でもあるのでその時に合わせたい(なかなかサイコロのお呼びがない)。三室戸寺も、醍醐寺の時に合わせて行こうかと思っていたが、12月9日、時間を取ることができたので行っておくことにする。三室戸寺は花の寺としても有名だが、12月・・何の花があるのだろうか。絵にならないのは承知のうえで、ともかく行ってみる。

京阪の特急で中書島に出て、宇治線に乗り換える。画像はないが、中書島での乗り換えや、宇治線の車内広告に「響け!ユーフォリアム」の文字や、女の子のアニメ画像が目立つ。この漫画・アニメは「北宇治高校吹奏楽部」を舞台にした青春物語だそうで、京阪電車や宇治線が物語に登場することからコラボイベントが行われているそうだ。京阪は関西私鉄の中でもそうしたものとのタイアップ、キャラ商法が得意な印象がある。系統は違うが、おけいはんやひらパー兄さんもキャラ商法。

三室戸に着く。駅から三室戸寺へは徒歩15分とあり、この週末は急激に寒くなったので上着の襟を立てて歩く。

近くのJR奈良線の踏切を渡るが、複線化の工事中である。この近辺はJR藤森~宇治間の工事の一部で、2023年春の開業予定だという。奈良線の利用客も増えているし、昨今は外国人観光客の利用も多いため、それに応えるものである。

三室戸寺に着く。門前で拝観料を納めて境内に入る。シーズンならあじさいが咲き誇るのだろうが、この時季は弱った緑ばかりが広がる。シーズンオフだからか一帯は立入禁止にしていた。

そのまま本堂前の石段に出て、それを上る。

季節が季節なら本堂前には多数の蓮の花が盛んで境内に彩りと潤いを出すところだが、12月には何もなく、鉢だけが並んでいる。それもいいだろう。

本堂は江戸時代のものだが、その手前には最近建てられた石造の動物たちの像が参詣者の目を引いている。

まずは狛犬ならぬ「狛蛇」。頭が老翁、体が蛇という、何か漫画のキャラクターにいそうだが、宇賀神である。金運の神とされていて、耳をなでると福がつき、髭をなでると健康長寿、そして尾をなでると金運がつくという。特に尾の先端はなでる人が多いのか黒ずんでいる。三室戸寺には蛇と観音信仰に関する昔話があるそうで、木像の宇賀神像が安置されているが、参詣者に気軽に触れてもらおうと新たに石像が造られた。

続いては「狛兎」。宇治は古来「菟道(うじ)」とも称され、兎と縁があったそうである。兎が玉を抱えた姿で、穴の開いた玉の中には卵型の石があり、この石を立てることができれば願い事がかなうという。コロンブスの卵みたいやなと思いながら穴に手を入れると、すでに立った状態である。前の人が立てたままなのだろう、一度倒して、もう一度立てる。これはさほど難しくない。

兎と対面しているのは「宝勝牛」。口に石の玉をくわえていて、玉に触れると勝ち運がつくという。これも牛と観音信仰に関する言い伝えがある。昔話のそれぞれの内容はここでは長くなるので触れないが、蛇、兎、牛がキャラクターのようにいるのは三室戸寺とのつながりのためである。

で、ここで記事の始めに貴乃花親方のことを書いた理由が出てくる。それは、若貴兄弟の手形の像。「勝運」の文字が添えられている。宇治といえば春場所の貴乃花部屋の宿舎があったが、その場所は別の神社で三室戸寺とは関係ない。現役時代の若貴兄弟といえば相撲人気がすごく、史上最強の横綱兄弟と言われていた。この寺で必勝祈願をして優勝したことで、勝ち牛とともに顕彰されるに至ったものだという。あれから歳月が過ぎ、今では・・・だが。

朱印をいただき、境内を一回りする。さすがに紅葉の時季も過ぎたようである。

前回1巡目で訪ねた時は源氏物語ミュージアムや平等院も回ったが、今回はそのまま京阪で大阪まで戻る。これで西国2巡目も残り2ヶ所。「西国観音曼陀羅」の八角形の台紙をいただくのでもう1巡はしようと思っている(通算3巡で「中先達」の資格も得られる)。その3巡目もまたぼちぼちと、他の何かと重ねて回ることになるのだろうな・・・。
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「金子弌大」(笑)

2018年12月10日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
この19番は何か変な宗教か、どこぞの相撲取りみたいに洗脳でもされているのか(笑)
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西の人的補償?

2018年12月10日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
何だか、西の人的補償をめぐって関西のマスゴミがこの世の最後みたいに被害妄想で騒いでいますが?

何をごちゃごちゃ抜かしとんねん。

で、さまざまなマスゴミが「被害者リスト」みたいな形でプロテクトから外れる選手を予想しているようですが・・・。

正直、カスばっかりやな。

西宮球団だから必要以上に持ち上げられていたのかもしれないが、こうして並べてみるとパッとした選手はいない。

まあ、糸井の代役で入った金田も、1軍の敗戦処理すらロクにできない投手だし。

それなら、選手はいらない。金銭補償で十分。

そうでなければ、同じカスなら西宮の酒造会社の酒粕のほうがよほど役に立つわ。
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第10番「無動寺」~近畿三十六不動めぐり・27(里山の重要文化財の仏像たち)

2018年12月07日 | 近畿三十六不動
神戸市バス111系統の福地で下車する。バス停に無動寺の看板が出ており、それに従って歩いていく。案内ではバス停から徒歩15分とある。箕谷駅のあたりは住宅地やマンションが広がるが、少し離れただけで田園、里山の景色に変わる。

上り坂を歩いていくと、畑に面した道端に「新兵衛石」というのがある。徳川10代将軍家治の時代、この辺りの領主だった下総古河藩主の土井大炊頭が領内巡見に来た時、この石の陰から一人の少年が飛び出して年貢の軽減を訴えた。少年はこの地の庄屋の子の新兵衛で、日照りの害が多いのに租税が高く、代官に訴えていたが効果がなかったので、藩主への直訴に及んだものだ。本来なら直訴は大罪で、新兵衛も藩主の宿所まで連行されて尋問を受けたが、まだ少年なのに新兵衛の言い分は筋が通っており、土井大炊頭も感心した。その結果年貢の軽減が許され、新兵衛も無事放免された。これを喜んだ村人たちがこの石を記念として後世に伝えたものである。その後については触れられていないが、新兵衛は後には立派な庄屋になったのかどうか。

無動寺への道しるべの中に「ユースホステル」の文字も見える。今は営業していないはずだが、以前は宿坊を兼ねてユースホステルをやっていたのだろう。

坂を上ってまず出てきたのが「新四国八十八所」の石碑。四国八十八所のお砂踏みがあり、石碑によれば明治時代に設けられたものだという。こちらへ行ってもいいがまずはそのまま参道を歩いて本堂に向かう。

途中にハスの葉をかたどったセンサー式の手水場がある。水が出てくるのはいいが柄杓がない。仕方ないので手ですくって手を清める。

石段を上がると正面に本堂がある。手前に不動堂があり、先にこちらで手を合わせるが、「近畿三十六不動の身代わり不動は本堂に祀られています」との札がある。こちらの不動堂は護摩供を行うための建物のようだ。

改めて本堂に向かう。本堂の扉は閉められているがインターフォンがあり、拝観、納経の方は押すようにとある。ボタンを押すと奥からバタバタと足音が聞こえて住職らしき僧侶が扉を開けてくれる。納経所も本堂の中で、拝観料300円と納経料300円を一緒に納める。奥までどうぞということで中に入る。

本堂の中は撮影禁止なので画像はないが、比較的新しい感じの建物である。真言宗の寺として「南無大師遍照金剛」と記された灯籠や、真言八祖の肖像画などもある。

無動寺は聖徳太子が物部守屋を討つために鳥仏師に命じて本尊大日如来をはじめとした仏像を彫らせ、戦勝祈願をしたところ勝つことができたので、この地に七堂伽藍を建てたのが始まりとされている。ただ、その後はいろいろあったようだが記録が散逸して空白の期間となっている。現在の形になったのは江戸時代中期、この地の出身で高野山で修行した眞源という人が寺の荒廃を見て村人たちとともに再興したものとされている。再興の年代は先の新兵衛石よりも少し前だが、今風のベタな言い方なら「地元愛」というのかな、そうしたリーダーと村人たちの思いの歴史を感じさせる。

年表としては不確かなところが多い無動寺だが、重要文化財の仏像が集まっているのはどういう経緯だろうか。最初から無動寺で祀られていたのか、どこかのタイミングで調達したのかはわからないが、いずれも聖徳太子から時代は下って奈良~平安時代のものとされていて、それらは本堂の奥のガラスケースに安置されている。

まず正面奥に、高さ3メートル弱の大日如来像。堂々とした感じである。その両脇には釈迦如来像と阿弥陀如来像が祀られている。そして前衛に十一面観音像があり、もっとも手前の正面に赤い炎を背負った不動明王像が祀られている。近畿三十六不動の一つがこの不動明王である。ガラスケース越しではあるが秘仏ではなくいつでも拝観できるのがよい。

このガラスケースの中の配置も、大日如来を中心として、如来、菩薩、明王と階層順に並べているのも考えられている。「見仏」にはそれほどこだわりがないのだが、宝物館や博物館ではなく、本堂の中で信仰と見仏の両方を満足させるのはなかなかのものだ。

拝観者が来るたびに扉の開閉に出てくるのが大変と思われる住職(心なしか不機嫌そうに見えた)に見送られて外に出て、次へのサイコロである。

1.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

2.左京(曼殊院)

3.生駒(宝山寺)

4.湖西(葛川明王院)

5.醍醐(醍醐寺)

6.選択肢なし

35番、36番がある高野山までの間に残ったエリアは5つである。京都、滋賀方面が相変わらず残っているが、出たのは唯一奈良県の「3」。生駒の宝山寺だが、生駒の聖天さんと言ったほうがわかりやすいかな。それにしても、京都外すなあ。

この上に若王子神社がある。室町時代の建物で当時の神社様式を残していて、これも重要文化財である。保護のためか、社殿全体が木枠で囲まれている。

さらには奥の院に続く道がある。祠があるのは四国八十八所のお砂踏みで、本堂からだと「逆打ち」の形で回ることになる。それならば下からお砂踏み経由で上がって来たほうがよかったのかな。

弘法大師を祀る奥の院で手を合わせて、そのままお砂踏みルートを歩く。こちらからなら下りが続くが、明治の頃からの道とあって山道をそのまま感じることができる道のりである。

この後だが、福地から箕谷駅へのバスの時間が中途半端に長く開いているので、このまま駅まで歩いて行く。先程の箱木千年家への道も含めて、この辺りは神戸市の「太陽と緑の道」という自然散策のウォーキングコースの一つになっている。そんな中を歩く中で再び住宅が増えてきた。そのまま箕谷駅に着き、そのまま神戸電鉄で新開地に戻った。

神戸の観光というと神戸港のベイエリアや北野の異人館、六甲山からの夜景というおしゃれなイメージがあるが、郊外に出れば日本昔話の民家あり、重要文化財の仏像ありと、なかなか渋いスポットもある。いずれもこれまで知らなかったスポットだがいい勉強になった。札所めぐりをきっかけにエリアを知るといういい例だったと思う・・・。

新開地に戻り、遅めの昼食は地下街の「きゅうちゃん」にこちらも初めて入る。生ビールセット1000円を頼むと、サッポロの中ジョッキに枝豆、冷奴、じゃこおろし、もやしチャーシュー、唐揚げ、串カツ、どてこんにゃく(ぼっかけ)の7品がついてくる。当然、七福神ならぬ7品をジョッキ1杯で賄うのは無理で、お代わりということになる。居合わせた常連客同士の会話や、店に流れていた有線が常連客のおっちゃんのリクエストで石原裕次郎のCDに変わるなどの濃い雰囲気を味わった。

高速神戸から新開地までのメトロこうべ、さらに地上エリアはまだまだ未知のところが多い。そうした部分も含めてまた訪ねてみたいものである・・・。
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第10番「無動寺」~近畿三十六不動めぐり・27(日本最古の民家・箱木千年家)

2018年12月06日 | 近畿三十六不動
近畿三十六不動は残り10ヶ所。これまでサイコロの目でランダムに札所を回っているが、最後の35番明王院、36番の南院はいずれも高野山にある。高野山といえば四国八十八所でも結願後のお礼参りのスポットとなっており(奥の院)、今のペースだと近畿三十六不動の最後と、四国八十八所のお礼参りを兼ねて訪ねることになるのかなと思う。

今回訪ねるのは神戸市北区にある無動寺。当初は同じ神戸市内ということで大龍寺とセットで組んでいたが、大龍寺だけでも布引の滝~再度山のハイキングコースで1日がかりだったために切り離した。無動寺へのアクセスは神戸電鉄有馬線の箕谷駅から市バス111系統の衝原(つくはら)行きに乗り換えとある。神戸市北区の山田町と呼ばれる地区にある。

無動寺については、大龍寺を訪ねる道中でこのようなポスターを見たことがある。市バスを利用して山田町の重要文化財を見物するというもので、無動寺では本尊の大日如来像や近畿三十六不動の不動明王像などが国の重要文化財に指定されている。なおこの仏像たちは秘仏ではなく、本堂の奥で常時公開されており、拝観料を払えば拝むことができるとある。市バスの一時的なキャンペーンということでもないようだ。

そして、このポスターで気になったのが、「箱木千年家」という建物である。「日本最古の民家」というキーワードが目をひいた。これは市バスの終点・衝原バス停のすぐ近くにあるそうだ。それならばということで、市バスの時刻表をチェックした中で、先に終点の衝原まで行き、箱木千年家を見学して、帰りのバスで無動寺(最寄りのバス停は福地)に向かうことにした。

箕谷というと阪神高速の北神戸線と新神戸、三宮に抜ける新神戸トンネルの分岐点である。四国からの帰りの高速バスの迂回ルートの定番のようなところ。新神戸トンネルを走る系統の市バスも出ていて、三宮方面との行き来はバスのほうが便利かもしれない。一方鉄道は、新開地から神戸電鉄に乗る他に、三宮から地下鉄~北神急行で谷上に出て、神戸電鉄に1駅乗るというルート。山を介してさまざまなルートがあるが、今回選んだのは新開地からの神戸電鉄。まあ、まずは鉄道に乗りましょう、特に神戸電鉄は厳しい環境なのだから。

阪神の直通特急で新開地まで来て、神戸電鉄の行き止まり式ホームに出る。乗るのは有馬線の三田行き。この路線も独特の面白さがあり、神戸の下町の地下ホームから出発して、湊川を過ぎると地上に顔を出すのだがいきなりの上り勾配である。神鉄長田の辺りまでは街並みが広がるが、この先は急に山岳路線となる。通過の「鵯越」という駅名には歴史を感じるし、今年の3月に正式に廃止となった菊水山駅は「秘境駅」の一つだった。港町、市街地からすぐに山の景色になるのが神戸の特徴である。これを車窓に感じられるのは神戸電鉄ならではであろう。

粟生線と分岐する鈴蘭台を過ぎて、箕谷に到着する。先に書いた交通の要衝ということもあり住宅やマンションも多いのだが、駅そのものは山の途中の小駅で、日曜の昼だからか駅員もいない(自動改札で、何か用事があればインターフォンでどこかの駅とやり取りする)。

駅へはクルマ1台がようやく入れるくらいのスペースしかなく、少し坂道を下りたところに小さなロータリーがある。三宮へのバスもここを発着しており、そちらのバスを待つ客も何人かいる。

その中で衝原行きが来て、数人が乗り込む。この路線はローカル鉄道でいうところの「盲腸線」で、それほど需要があるようには見えない。その中で、地元以外から乗客を呼び込むには何か?・・・となった時に、近畿三十六不動の無動寺がある、(今回行かなかったが)六條八幡宮がある、そして終点には日本最古の民家の箱木千年家がある!!・・という流れがあったのだろう。バスの案内にも、「衝原(箱木千年家)」というものがあった。

箕谷からは三木や滝野社方面に続く県道が走っていて、交通量も多い。途中で集落の中を行く脇道に入りながら、無動寺最寄りの福地も過ぎて、20分ほどで終点の衝原に着いた。県道から少し入ったところにバスの転回場がある。

目指す箱木千年家はバス停からもその茅葺き屋根は見える。少し歩くと、民芸品を扱う売店を兼ねる受付に着く。箱木家は現在にも続く家系だそうで、受付にいたのは当家のご主人のようだ。

小ぶりな庭に出る。茅葺き屋根の家が二棟ある。これだけで日本昔話の1場面のようだ。

箱木千年家の「千年家」とは1000年の家という意味ではなく、古い家を指す言葉だという。箱木家は平安初期に建てられたとの言い伝えがあるが、現存する二棟のうち母屋は14世紀の室町時代に建てられたもので、江戸時代に離れを増築したとある。1977年までは実際に住居として使用されていたそうだ。

その年に、元あった場所がダムの建設で水没することになったために移築された。現在も国の重要文化財である。

母屋に入る。自動の案内放送が流れる。元は室町時代の建物でさすがに長い年月の間に修復もされたが、柱や梁は昔からのままで、当時の工法の跡が残る。また襖や障子、畳といった今の日本間なら普通にある調度も当時はなく、全てが板張りである。なかなかここまで昔の建物を見ることもなく、日本最古の民家と称されるのもわかる。

続いて離れへ向かう。移築当時は母屋と連結されて一つの建物だったが、改めて調査をしたところ、江戸時代に連結されたものだとわかり、移築に当たってオリジナルに近い姿に復元するということで二棟建てとなった。こちらは畳や障子、床の間があるいわゆる日本間。かつての書や小物も若干残されていて、箱木家は地元の別所家にも仕え、羽柴秀吉の三木城攻めの時も別所方として参加したともある。

蔵には箱木千年家の棟続き当時の建物やダムに沈む前の集落の模型があり、農機具なども展示されている。もっとも博物館のようにきっちり区分けするわけでなく、昔からのものをとりあえず開放してるよという感じだ。

受付の建物は民芸品の店も兼ねており、日本各地の竹細工や藁細工、木工品、さらには信楽焼のタヌキも並ぶ。こうしたものを買うのもよいだろう。

神戸市内にこうした重要文化財があるとは知らなかったが、普通ならそのままダムに水没させたであろう建物をわざわざ移築して次の時代に残すのは、当家の決断もあっただろうし、集落の人たちや行政の理解や協力も大きかったのだろう。箱木家の周りにはちょっとした住宅地があるのだが、これはダムの水没と引き換えに開かれた地区かもしれない。その中心、拠り所として箱木家を持って来たのかなと思う。

県道沿いに大歳神社というのがあり、元々は地域の氏神だったようだ。これもダム水没にともない新たに社殿を建てたのだろう。

そして広がるダム湖。呑吐(とんど)ダムという、忘年会で酔いつぶれたおっさんみたいな名前だが、これはこれで播磨地区に向けての安定した水供給のために造られたものだ。そのダム湖の東の端が衝原である。

ということで訪ねた衝原だったが、ドライブの途中の立ち寄りならともかく、さすがにここだけをピンポイントで日帰り旅の目的地にするのは、いくら神戸市バスお薦めの観光ルートで重要文化財の建物と言っても厳しいだろう。やはり無動寺とセットで(逆もしかり)訪ねるのがちょうどよいかなと思う。

衝原折り返しのバスに乗り、来た道を戻って福地で下車する。これから無動寺のお参りである・・・。
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