まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第16回中国観音霊場めぐり~第25番「鰐淵寺」

2020年11月30日 | 中国観音霊場

中国観音霊場の第25番、鰐淵寺(がくえんじ)。先ほど駐車場にて、「武蔵坊弁慶修行の地」の石碑があり、弁慶が松江の出身だとする説明があったが、主人の源義経ともども、弁慶についても各地にさまざまな言い伝えがあるものだと感じる。

まずは駐車場から山門まで参道を上がる。前日の雨のせいか周囲はぬかるんでいるが、山間の修行の地らしい気配が漂ってくる。寺の歴史について絵図でも紹介されているので、ここで触れておこう。

鰐淵寺が開かれたのは、飛鳥時代、聖徳太子の時代。信濃の智春上人が遊化して、因幡まで迎えに来た「智尾」「白滝」「旅伏」の老翁に導かれる形でやって来た。この頃、推古天皇が病にあったが、上人が加持をすると回復した。そのことから推古天皇の勅願として建てられたのが鰐淵寺とされる。「鰐淵」の名前だが、上人が滝で修行をしている時に誤って仏具を滝壺に落とした際、鰐がそのえらにひっかけて捧げたという言い伝えから来ている。この鰐だが、山陰のこととて、アリゲーターのワニではなく、ワニザメを指すという。

もっとも、これら一連のことは伝承の話として、実のところは修験道や蔵王信仰の道場が起こりだったのではないかとされている。そうした修行の地と言われれば何となくわかる気がする。

以後、平安初期には慈覚大師円仁が薬師如来と千手観音を奉納したり、先に触れたように武蔵坊弁慶が修行したり、南北朝のころには後醍醐天皇を応援した歴史があったという。また戦国時代、中国地方の覇者をめぐって毛利氏と尼子氏が争った際には、出雲にいながら鰐淵寺は毛利氏を支持し、毛利氏の勝利後はその保護を受けることになった。

さらには、八百屋お七と小姓吉三郎の墓が参道から少し山に入ったところにある。八百屋お七・・・中国観音霊場めぐりの中でその名を目にしたことがある。岡山にある特別霊場の誕生寺。八百屋お七の振袖と位牌が祀られていて、お七の分骨を手に供養の旅に出ていた吉三郎が誕生寺を訪ねた後に美作で行き倒れ、そのままお七とともに葬られたという。ただこちらでは吉三郎は鰐淵寺で行き倒れたとしている。どちらとも言い難いところだが、修行の末に果てたというならば鰐淵寺のほうが舞台としては絵になるのではないかと思う。

山門をくぐる。この先の第二受付で入山料を納め、合わせて朱印をお願いする。

すると、「当寺は書き置きでのお渡しとなっています」とのこと。こちらは納経帳を持っている。こちらに書いてもらわないとせっかくの納経帳の意味がないではないか。以前にも住職不在ということでこうしたことがあり、納得いかないので納経帳を引っ込めて後日出直した寺がある。寺の人がそこにいるのに書かないのはどういうわけか。納経帳の意味がないやないか。それを問い質すも「コロナの影響です。当寺はこういう方針なんです」と聞く耳を持たない。

「コロナと言えば何でも通るのか」と言いたいことを喉元でぐっとこらえ、かと言ってもう一度出直すのも時間とカネのかかることで、そこは仕方なく書き置きのものをいただく。寺の人の言い分でその書き置きを切って納経帳に貼りつけたが、どうもしっくり来ない。果たしてこれで満願の証はいただけるのやら。

長い石段を上る。天候は今一つで、前日の雨でのぬかるみも残るが、さすがは紅葉まつりが行われるだけのスポットである。

根本堂に着き、ここでお勤めとする。現在のお堂は戦国時代の争いに勝利した毛利輝元の手で再建されたという。

根本堂の奥に鐘楼がある。この鐘は、弁慶が鳥取の大山寺から一夜でここまで運んだという伝説がある。弁慶と鐘・・・伝説では、弁慶が比叡山にいた時、麓の三井寺と争った際に三井寺の鐘を比叡山まで引きずり上げ、後に谷底に投げ入れたというものもある。どれだけ伝説があることやら。

紅葉見物の混雑を避けるためか、境内でも立入禁止のエリアがあり、境内そのもの(いや、山全体が境内なのだが)の見るところは限られる。

せっかくなので、この奥にある浮浪の滝に向かう。鰐淵寺の奥の院といったところか。川を渡り、山道を歩くこと10分。東屋があり、さらにその先を回り込むと滝が現れる。

この浮浪の滝は智春上人が修行をして、落とした仏具を鰐が引っかけて捧げたとされる場所。いや、こんな山の中にアリゲーターだろうがサメだろうが来るのは難しいだろう。それは伝説のこととして、奥に蔵王堂があり、武蔵坊弁慶もここで修行したということについては、さもありなんと思う。今は穏やかな水量だが、その昔は激しく落ちていた滝だったのかなと想像する。水量はともかく、この岩肌、そして蔵王堂というのは修行の場として一幅の絵のようである。

島根にこうした寺があったことは以前の広島勤務時にはまったく知らず、今回の中国観音霊場めぐりをきっかけに出会うことができて素晴らしいと感じた。出雲は、出雲大社だけではない。

ここで鰐淵寺を後にする。来た時はガラガラだった駐車場も満車になり、誘導員の人が出ている。この後は来た道を下った第2、第3駐車場に誘導されるのだろう。

次は札所順がさかのぼるが第24番の禅定寺を訪ねる。ただまっすぐ行くのではなく、せっかく日本海、それも初めてくるエリアまで来たのだから、海岸線を少したどってから南下しようかなと思う。まずは、これまでの標識で気になった「十六島(うっぷるい)」へ・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~第25番「鰐淵寺」への道

2020年11月29日 | 中国観音霊場

11月23日、出雲市駅前のホテルにて目覚める。この日の島根県の天気予報は曇りと出ているが、秋から冬に差しかかる時季、山陰の天気はコロコロ変わりやすい。

前日は広島から移動するのに三江線の廃線跡をたどり、その記事が多くを占める形になったが、ここからが本番である。今回は第24番の禅定寺、そして第25番の鰐淵寺が目的地だが、道順としてまずは日本海に近い鰐淵寺を訪ね、雲南にある禅定寺はその後で参詣してそのまま広島に戻るつもりである。

ところで鰐淵寺だが、読みは「がくえんじ」である。

ホテルでバイキング形式の朝食を済ませ、7時前に出発。直線距離では10キロもないところだが、道路はつながっていない。いったん雲州平田方面に行き、日本海に出た後に山道を戻るというルートである。まずは雲が覆う中、平野の向こうに昇る太陽を見る。

鰐淵寺に向かう道中、またいらん話をする。

当初、中国観音霊場を回るにあたっては、できるだけ公共交通機関を使うことにしていた。全体のシミュレーションをする中で、今回の鰐淵寺、そして禅定寺は厳しかった。鰐淵寺へは一畑電鉄の雲州平田から出雲市生活バスというのが出ているが、これが難所だった。

平日ならばまだ日中で5往復あるので何とかなるが、土日祝日となると1日3往復しかバスがない。前回訪ねた第26番の一畑寺へのアクセスと似たようなものだが、それよりも厳しい。鰐淵寺参詣に使えるのは事実上以下のコースしかない。平田駅11時39分発の始発のバスで向かい、12時02分に鰐淵寺の駐車場に到着。14時48分発の唐川車庫行きに乗り、終点から折り返して15時02分発、そして平田駅に15時28分に着く。行きと帰りで経由地が違うのは、変則リバースの運行形態なのだろう。

大阪にいる時は、この鰐淵寺、そして後に出てくる禅定寺は平田に泊まって「1日1ヶ所ずつ」で行くことになるのかなとも思っていた。あるいは平日2日の年休を取得するか。・・・ただ、そこまでするなら、ここまで既に乗っているのからレンタカーでええやんという気になっていた。

結局は、私が広島に移ることになったこともあり、今回は自宅から全部クルマ移動ということで落ち着いたのだが・・。

海に出た。この辺りもちょっとした湾になっている。対岸には風力発電の風車も林立する。ちょっと停めて写真を撮ることができるのも、クルマ巡礼のメリットである。標識の向こうには十六島の表示がある。

小さな港、夏は海水浴の客もいるのか民宿やシャワーブースもある中、表示に従って鰐淵寺に向かう。ここで再び進路は南へ、そして急な坂を上る。

やって来たのは鰐淵寺の駐車場。寺へはこの先数百メートル歩くのだが、クルマはここまでである。例年この時季に「紅葉祭り」が行われていて駐車場も混雑するようだが、さすがに朝の8時前では数えるほどしか駐車していない。早い時間に来てよかった。

駐車場に案内板があるが、その一角に「武蔵坊弁慶修行の地」の石碑がある。その案内に、「仁平元年(1151年)現在の松江に生まれた弁慶は18歳より三年間鰐淵寺で修行した」とある。

あれ?弁慶は紀伊田辺の生まれではなかったのかな?

もっとも、弁慶という人物じたいが謎に覆われたところの多い人物で、「生まれた」という言葉の定義づけも含めると、いろんなところに言い伝えが残るのも無理はないだろう。ひょっとしたら出雲にも力自慢の荒法師がいて、そうした人物も含めた称号が「弁慶」だったのかもしれない。

寺の境内については次の記事にて・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~石見から出雲へ

2020年11月28日 | 中国観音霊場

ここまで三江線の廃線跡に沿って軽自動車を走らせ、半日がかりで江津までやって来た。この日(22日)の宿泊は出雲市で、午後はこのまま国道9号線を走る。当初は石見銀山に行こうかとも思っていたが、三江線の廃線跡めぐりでその時間はなくなった。また別の機会にしよう。

先ほどまで江の川と三江線の線路に挟まれた、クルマがすれ違うのがやっと、あるいはすれ違い不可の道が多かったので、国道9号線となると「幹線」である。並走するのも山陰「本線」である。

東の浅利あたりから、海岸沿いに風力発電の巨大風車が立ち並ぶ。江津市は再生可能エネルギーの利用に力を入れているそうで、海岸の砂浜に接して並ぶのは江津東ウインドファームである。

この風車も見える位置にあるのが、道の駅サンビコごうつ。「サンビコ」とは、江津の海・山・川の幸「三彦」から来ている。土地の産直品の販売の他に「大黒食堂」というのがあり、少し遅めだがここで昼食とする。

注文したのは「オロチ丼」。石見では、地元産の肉を使った丼を「オロチ丼」、魚介類を使った丼を「えびす丼」として、総じて「石見の神楽めし」として定番メニュー化しているという。そしてやって来た「オロチ丼」、「ヤマタノオロチ」に因んで8枚のカツが乗っかっている。江津のブランド豚肉「まる姫ポーク」を使っていて、ウスターソース、タルタルソース、トンカツソースなどさまざまな味付けで楽しむ。

この後再び国道を走らせる。まだ時間は早いが外は暗くなるし、雨も少しずつ強くなる。早々と双方向のクルマのライトが照らされる。温泉地である温泉津もそのまま通過する。

五十猛を過ぎたところで海に接する区間に出たので、いったん路肩に停車する。せっかく日本海まで出たのだから海の写真がほしかったのだが、この荒れた感じはそろそろ冬の訪れを感じさせるものだった。

大田市の中心部を抜け、海岸に面した道の駅キララ多伎で休憩。ここは夕日のスポットとして「日本夕陽百選」の一つにも選ばれているそうだ。

天気がよければ、また時間帯がよければこうした景色が眺められるのだが、この日はあいにくの雨である。これもまたの機会の楽しみとしよう。

この後はカーナビに従って出雲市駅に向かうだけだが、時刻は16時前。ちょっと道を外れて、あるところに向かう。

やって来たのは、中国観音霊場第23番の神門寺(かんどじ)。前回9月の第15回霊場めぐりで訪ねている。その時は「WEST EXPRESS銀河」に乗るツアーに繰り上げ当選する観音様のご利益があり、出雲大社と合わせてお参りをした。それがなければ11月のこのタイミングで来ていたところで、せっかくなので手だけ合わせる。

雨だし、周りは暗くなっているし寺もひっそりしている。

この日の宿泊は、出雲市駅の南口すぐのグリーンホテルモーリス。ちょうど駅に面した側の部屋で、高架駅に発着する列車を見ることもできる(もっとも、本数はそれほど多くないのだが・・)。

室内に大浴場があり、一風呂浴びた後で大相撲の千秋楽を見る。結びの一番はここまで1敗の大関貴景勝と、2敗の小結照ノ富士。激しい相撲の後、照ノ富士が貴景勝を浴びせ倒して優勝決定戦に持ち込む。これで照ノ富士が有利ではないかというところ、決定戦では貴景勝が一気の押しを見せて圧勝。大関として初めての優勝となった。11月場所は2横綱2大関が不在の中、出場力士最上位の責任を果たした形となり、来場所は綱取りとなる。一方照ノ富士も三役での二けた勝利で、来場所以降の大関復帰への再挑戦が始まる。

それを見届けた後で、出雲市駅前で夜飲みとしよう。そう思って駅前に出たが、元々それほど店が多くないうえに、連休中ということもあってか居酒屋はどこも満席、あるいは予約客のみ受付・・という店が並ぶ。

雨も降っており遠くまで店を広げるというのも億劫なので、この日は土産物店、あるいはコンビニで飲食物を買い求める。幸い、GoToトラベルでいただいた1000円の地域クーポン券があるので、土産物店での支払いの一部に充てる。

あご野焼きのチクワ、赤天などが並ぶ。これらを肴にホテルの部屋でビールを飲みながら楽しむのは日本シリーズの第2戦。今年は京セラドームで行われるジャイアンツ対ホークスだが、序盤からホークス打線が爆発して次々に点を取って行く。バファローズファンとしては、京セラドームで別チームの日本シリーズが行われるのは複雑な気分だが、ホークスがパ・リーグの王者としてジャイアンツを打ち崩すのを見るのは痛快だった。終わってみれば13対2でホークスが2連勝。居酒屋に入れなかったのは残念としても、面白い夜になった。

ちなみに日本シリーズは第3戦から福岡に場所を移したが、ホークスが2連勝して4勝0敗で日本一になった。2年連続で4勝0敗で日本シリーズを制するのは史上初のことで、逆にジャイアンツから見れば2連連続でのストレート負けという赤っ恥になった。パ・リーグファンとしてはこれでもまだ足りないのだが、喜ばしいことである。

日本シリーズの結果はさて置くとして、翌23日が今回の中国観音霊場めぐりのメインである。目指すのは第24番の禅定寺、第25番の鰐淵寺だが、これもまた回る順番を変えることに・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~三江線の廃線跡をたどる・4

2020年11月27日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐりで出雲に行くのにいったん石見の江津に行くドライブ。三江線の廃線跡をたどるのも後半に入っている。

石見川本に到着。小さいながらこの辺りの中心駅で、現在も本数は少ないながら江津からのバスが発着するし、これも本数が少ないながら石見銀山を経て大田市まで行くバスも出ている。

こちらも駅舎がそのまま残されている。それのみならず、2020年の夏には駅舎に島根中央信用金庫の川本支店が移転してきた。日曜日なので窓口は閉まっていたがATMがあるし、駅舎の窓にも「中央しんきん」のロゴが入っている。

その代わりというか、石見川本の駅名標や改札口が残されているし、待合室もバスの待合室として活用されている。駅舎の維持費のいくらかも中央しんきんから出ているのだろう。そのためか、ホームもかっちりとした形で残されている。

続いては隣の因原に向かう。駅のすぐ横に道の駅があり、その横を抜けるようにして到着。駅舎も残されているが、その中身は「三江線運輸(有)因原営業所」とある。

三江線運輸とは何とも仰々しい名前だが、これはかつての通運事業の名残である。私の勤務先企業とも関係あることで、当初は三江線でも鉄道貨物輸送が行われていて、通運の営業所もあった。後に鉄道貨物が廃止となると貨物自動車の会社となり、この一帯の業務を請け負う形でさまざまなものの輸送を手掛けるようになった。その会社が路線名から取った三江線運輸。当の三江線はなくなったが、歴史を受け継ぐ意味でこの社名は残してほしいものである。

ここからまた細道を行く。江の川、県道、三江線の線路、そして崖が密接する区間で、軽自動車で何とかクリアする。トンネルのすぐ脇も通る。

石見川越に着く。川越郵便局の建物は健在だが、その隣にあったと思われる駅舎は更地になっている。

この辺りで空がどんよりとして来て、雨粒も落ちるようになった。確かに22日の島根県の天気予報は晴れのち雨だった。

川戸に到着。かつての桜江町(現在は江津市)の中心だったところで、こちらも駅舎がそのまま保存されている。駅舎内には三江線のかつての写真も飾られている。

この川戸あたりは、1972年7月の豪雨で大きな被害を受けたという。当時の様子を報じた写真も残されている。駅前にはその災害からの復興を記念した石碑も建てられている。しかし、近いところでは2018年の西日本豪雨での被害、そして今年2020年7月の豪雨でも氾濫があったという。改めて、江の川というのはこの地の恵みであるとともに、人々を悩ませる存在であったとも言える。いかに江の川と共存していくか。

続いては隣の川平。こちらも駅舎が残されており、駅周辺も再整備の工事が進んでいる。1972年の豪雨での水位も示されている。

かつては駅前に桜の木があったそうだが、駅前を回転場として整備するために伐採され、代わりに周辺地図の模型が設置されている。「列車からバスへ 川平駅前整備事業」の標札もある。三江線の歴史は大切にしつつも、現実のことを考えるとバスを活性化させないとというところだろう。

ここまで来ると終点の江津も近い。県道もこのまま江津までつながっているようで、道なりに走る。

その中に、「人麻呂渡し(江西駅)」という案内板がある。「駅」という文字を見ると敏感になっているところだが、かつての山陰道、現在のように鉄道や国道の橋もかかっていない中で、ここに渡し舟があったそうである。渡し舟じたいは昭和の初期まで残っていたようで、晩年を石見で過ごした柿本人麻呂にあやかって「人麻呂渡し」との名がついたという。

江の川も下流になった。遠くには製紙会社の煙突も見える。

そのまま国道9号線まで出て江津に到着。時刻は13時で、三次を出てから途中立ち寄りなど含めてちょうど5時間が経った。長いドライブになった。さまざまなものを目にしたが、結構疲れた。もう一度たどりたいかと言われるとどうだろうか・・・。

ここからは宿泊地の出雲市まで、今度は国道9号線をたどる。この先、今度は雨が気になるように・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~三江線の廃線跡をたどる・3

2020年11月26日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐりに合わせて三江線の跡をたどるドライブ。「天空の駅」として知られる宇都井を過ぎて、次に目指すのは浜原。

宇都井からしばらくは道幅の狭い秘境区間を過ぎ、再び国道375号線に合流する。この辺りの区間は鉄建公団により造られたこともあり、高規格のトンネル、高架橋が続く。右手に石見都賀のホームをちらりと見る。

道の駅を通過して、国道375号線沿いに現れたのは潮。ホームの向こうに江の川が流れている。川べりなのに「潮」とはこれ如何にという気がするが、駅の近くに塩分を多く含む温泉が湧き出ており、温泉の名前も含めてそれから取られたという。

また、潮の駅跡の横には「平成30年7月洪水 ここから実績洪水区間」という標識がある。西日本豪雨である。ちょうど山間部、また江の川の水量も豊かなところで、それまでにもこのようなリスクは多かったと思われる。

江の川にカヌーが何艘も浮かんでいる。どこかの部活動だろうか。ここまで江の川に沿って下っているが、特に急流というところもなく、蛇行しながらも穏やかに流れるように見える。先ほどイチョウを見た作木町も含めて、カヌーに適した川なのだろう。

浜原に到着。1975年の全通までは、江津からの三江北線の終着駅だったところだ。駅舎の前には三江南線の終着駅だった口羽と同じように、「三江線全通記念」の碑が置かれている。その筆の主は、元衆議院議員の細田吉蔵。こちらも島根県選出の議員で、元運輸大臣。ちなみに息子は細田博之議員で、現在の清和会(自民党細田派)の会長である。細田家も三江線の開通に影響を及ぼしたのかな。

こちらは石見交通、大和観光のバスが出ていて、待合所も兼ねて駅舎の中も使われている。寄贈された文庫コーナーもある。

また、「ふたりの三江線」というCDのPRも貼られている。「三江線を忘れないで」「三江線に乗ると不思議にも願い事が叶うって本当?」というキャッチコピーがあり、「作詞作曲 佐藤かずを」「唄 水木雪乃(新人)」とある。たまにありますな、こうしたローカル線の名前を冠した演歌。どんな歌なのやら、

この辺りは島根県美郷町。次の粕渕が町の中心部で、駅舎も町の商工会館を併設した立派な建物である。かつての駅窓口のエリアも開放されていて、三江線の往年の景色の写真も多く飾られている。

時間的に早い昼食でもよいのだが、それは江津まで遅らせることにして、町の中にある「産直 みさと市」に立ち寄る。地元のスーパーとして、そして地域の産直品、土産物なども置かれている。そういえばここまで三江線の沿線で消費をしておらず、何か買い物でもしようか。

買ったのはイノシシ肉の缶詰。スパイス煮、ビール煮の2種類ある。この辺りでは、獣肉を食べることが禁じられていた昔から、「山くじら」としてイノシシを食べる文化があったそうだ。時代が下って、イノシシによる農作物への被害が問題となる中で、ジビエ料理としてイノシシ肉を町おこしの材料にしようという取り組みが行われている。冷凍肉も売っていたが、この先の道中もあるので缶詰を買う。この記事を書いている時点ではまだいただいていないが(缶詰なので日持ちする)、三江線沿線の味としていずれ楽しんでみようと思う。

次の目的地を石見川本として、その途中の駅をたどる。

石見簗瀬。江の川の左岸にあり、駅周辺には集落も広がっているが、かつて駅舎があったと思われる一角は更地になっていて、バス停の標識とポストがけがぽつんと立っている。

次の乙原(おんばら)は、集落から少し上がったところにある。駅前にイチョウの木が立っていて、辺りには落ち葉が広がっている。かつては待合室もあったようだが、現在は撤去されている。

続いては竹。何ともシンプルな駅名である。駅というより停留所の風情だ。駅の裏手に一軒家があり、その家に向かうために線路を渡ることができる。

だんだん駅の記述が淡泊になって来ているが、三次からここまで3時間ほど走ったこともあるし、列車が来るわけでもないし、廃駅もだんだん似たようなものに見えてきたこともある。このブログをご覧の方もだんだん「もうええわ」という感じになっているのではないだろうか。

そうするうちに、石見川本に到着。現在も江津からの路線バスが来るところで、まだ先は長いものの終点が見えてきた感じである・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~三江線の廃線跡をたどる・2

2020年11月25日 | 中国観音霊場

中国観音霊場の行きがけに三江線の廃線跡に沿って軽自動車を走らせる。ここに来てGoTo事業の見直しが発表されたところだが、今回は単独ドライブということ、また行き先が行き先だけに「密」になることはほぼないと思っている。何せ、利用者がいなくて廃線になった線路に沿うのだから・・。

前回の記事では三次から長谷を経て式敷まで来た。この次に目指すのは隣の香淀(こうよど)。いったん江の川の右岸に出て、少し先で三江線の鉄橋を見る。

途中、カーナビでは線路に沿って走る区間だがこうした路盤に出る。線路はこの下にあるのか、あるいは線路も更地にして今後道路整備でも行うのか。

到着した香淀も式敷と同じようなログハウス風の駅舎がある。現在もバスの待合室として使われているようだ。

「森の宝石 ブッポウソウ」の案内板がある。絶滅の危機が高いとされる鳥の一種だが、三次市が生息数日本一の自治体とあり、その一部である作木町にはその半数が生息しているとある。

これまでと同様にホームへは柵があって立入禁止だが、それを見るうちに後ろでエンジン音がした。ふと見ると、マイクロバスの姿があったので行ってみる。これが三江線廃止後に各エリアごとで細切れで運行しているバスである。先ほどの式敷とは別路線で、君田交通が運行する「川の駅三次線」である。時刻表を見ると8時59分発の便である。この次は12時19分発と1日2本しかない。バスで来るとなると難所だ。

もっとも、後で君田交通のサイトを確認すると、駅に立ち寄るのは運行便の一部で、少し離れた香淀バス停に行けば1日5本に増える。

次の目的地は口羽である。クルマは江の川の右岸、そして三江線は再び左岸に渡る。途中の駅は飛ばす形だが、別に全駅訪問を意識しているわけではないので、ここは国道375号線を走る。ちゃんとした規格の道路で、先ほどまでとは走りが断然違う。

対岸に三江線の橋梁、トンネル区間が見え、こちら側にはカヌー公園さくぎというのがある。江の川を挟んで反対側から線路を見るのもいいかなとちょっと立ち寄ろうと側道に下りる。

ちょうどそこにはイチョウの木が2本並んでいる。青空の下、鮮やかな黄色をつけている。ふかふかした感じに見える。

このイチョウにカメラを向ける人がいるなあと見ていると、そのうちにクルマが次々にやって来て、スマホやカメラを向ける。有名な撮影スポットなのかな。

これは「双子イチョウ」として知られる2本のイチョウだという。川にカヌーを浮かべて眺める楽しみもあるそうで、それならば三江線が走っていた当時も江の川の対岸で鮮やかな色合いを楽しめたはずだ。

このまま走って口羽に到着。駅前に続く道の入口には「三江線全通記念碑」と書かれた石碑がある。筆の主は元運輸大臣の大橋武夫とある。島根県選出の衆議院議員で、「吉田学校」の門下生の一人。池田勇人内閣で労働大臣、佐藤栄作内閣で運輸大臣を務めたという。三江線の全線開通にも何らかの影響があった人なのかな。

口羽は、三次からの三江南線の終着駅だった。この辺りは広島県と島根県の県境が複雑だが、広島県側から見ればここが境目といったところだろう。

三江線の廃止後、「江の川鐵道」というNPO法人が地域活性化の活動を行っている。口羽駅はその拠点の一つで、かつての待合室には写真展示のほかにイベント案内や活動新聞が置かれている。

廃止されて2年半が経過するが、待合室にいる一瞬、もうすぐ列車が来るのではないかという感覚になっていた。「鉄道の駅」の名残がここまででもっともよく残されているように感じられた。

「江の川鐵道」のもう一つのメインの拠点はこの先にある。口羽から浜原までの間が1975年に開通したことで三江線が全通したわけだが、この区間は鉄道公団が高規格で直線的に建設したため、これまでとは違ってコンクリートの色合いが強くなる。鉄橋も心なしか頑丈な造りに見える。

その最たるものといえるのが、宇都井。三江線の中でもっとも名が知られた駅ではないだろうか。山間の小さな集落にそびえるコンクリート橋、そして建物。ホームおよび待合室は地上20メートルの高さにあり、地上からの高さでは日本一だった。しかしエレベーターはなく、ホームに行くには116段の階段をひたすら上るしかなかった。

私がふと頭に浮かんだのは兵庫県の山陰線の餘部だが、あの駅は鉄橋は高いところを通るが、駅そのものは地面の上である。地上20メートルの高架駅といえば新幹線や、東京や大阪の都市部にいくらでもありそうなものだが、案外そうでもなかったようだ。島根の山間部(といえば失礼だが)にこうした駅があったことも話題を集めていた。

私も宇都井は列車で通っただけで、ホームに降りたことはなかった。列車本数が極端に少ない区間なので、気軽に途中下車というわけにもいかなかった。こうしてクルマで来て初めてその姿をナマで見ることになったのも複雑な気分である。

現在は「天空の駅」として観光スポットになっているが、やはり安全面を考えて立入禁止という。しかしこの日は多くの人が高架橋の下から階段、そしてホームの上に群がっていた。よく見ると観光客ではなく、揃いのシャツ、ブルゾン姿で作業をしている地元の人、NPOの人たちのようだ。宇都井駅のイルミネーションの準備作業という。ホームの上にいるのもその人たちで、ふらりとやって来たドライブの客はやはり中に入れない。

夜に来ると、さぞ幻想的な眺めなのだろう。ただ、夜にここに来るのも結構難関ではないかと思う。あくまで地元の人たちに向けたイベントである。その姿を想像しながら、先に進むことにする。

この辺りが三江線の中で最も奥深いところ。次の目的地として、三江北線の終着駅だった浜原にカーナビをセットする・・・。

 

 

 

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第16回中国観音霊場めぐり~三江線の廃線跡をたどる・1

2020年11月24日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐりで広島から出雲の2ヶ所の札所を回るのに、わざわざ石見の国に出る。これは中国地方一周をつなぐために選んだルートだが、その経由地として三次から江津への三江線跡を見ることにする。当初は世界遺産である石見銀山の見学を考えていたが、世界遺産より鉄道廃線跡を取った形になる。三江線跡が鉄道遺産になるのかどうかは知らんけど。

中古車なのでカーナビには三江線の各駅がスポットとして登録されており、画面にも線路図が表示される。道しるべとしてこの先も大いに役立った。最初に登録したのは長谷(ながたに)駅である。

まずは高架橋をくぐる。三次から次の尾関山へ続くが、立派なものである。道路整備の中で高架化されたのだろうが、これだけを見ると廃線はもったいないように思う。

江の川を渡って左岸に出て、いったん国道54号線を走った後で脇道の県道に入る。ここから本格的に線路に沿う。この先、三江線は江の川の左岸を走る区間が多く、そちら側を並走する道路はほとんどが奥の細道。結果でいえば離合困難な区間も多かったが、軽自動車だったのでその辺はまだましに感じられた。

その道を行くと、粟屋駅と書かれた立札が出る。尾関山の次の駅だ。県道にクルマを停めて、細道を上がる。

そこにはホーム跡がある。駅名標ははがされているが、ホームと小ぶりな待合スペース、そして線路もそのまま残されている。立入禁止の看板が出ているので、その上からホームの中をのぞきこむ。ワンマン運転には欠かせないホーム上のミラーも残っている。廃止されて2年半が経過するが、100キロを超える区間の全ての施設を一気に撤去するのも難しいのだろう。

粟屋に立ち寄ったのは予定外だったが、今回いくつかの駅を目的地としてカーナビをセットする中で、線路に沿って走るのでおのずと他の駅にも寄ることになり、そうした駅跡も見ることにしよう。

途中、踏切跡に出会う。渡る箇所は舗装されて完全に道路となっていて、両側の線路も残されているが立入禁止の看板と柵で厳重に仕切られている。これもこの先いたるところで目にする。

粟屋の次が長谷。三江線の中でも「秘境駅」の一つとされているが、ここには2013年に訪ねたことがある。その時は大阪からクルマで広島まで来てマツダスタジアムで野球観戦、駅前宿泊の後、帰りに中国山地をたどったドライブ旅行だった。

その時はまだ廃止が決まったわけではないが、ローカル線のこうした駅ということで待合室には駅ノートが置かれていた。

そして何よりも予期しなかったことに、三次に向かう列車に遭遇することもできた。私にとって、三江線の列車を目にしたのはその時が最後だった。

そして2020年。駅舎、ホームが廃墟になりつつもその時の様子をとどめていた。ただし、扉は閉ざされていて「ありがとう三江線」の貼り紙がある。手前の鉄橋もそのままである。廃線後の措置として、とりあえず踏切を道路にする、駅名標を撤去することは行ったが、高架橋、鉄橋となると撤去するにもそれなりの費用がかかることもあり、なかなか進まないのだろう。

代替バスの停留所がある。三次とこの先の式敷を結ぶ路線で、現在1日5往復の運転。ただ、標識に書かれた案内文を見ると、2018年の西日本豪雨の時には江の川が氾濫し、沿岸では浸水、道路の不通があったことがうかがえる。三江線は2018年3月で廃線となったが、仮に存続していたとしてもその後の西日本豪雨で大きなダメージを受け、不通→そのまま廃止という措置が取られたかもしれない。大勢の人たちに見送られて運行を終えただけ幸せだったのかな。

長谷の次は、その代替バスの終点である式敷を目指す。ただそのまま同じ県道を、途中で道幅が広くなったり狭くなったり、沿線の集落も抜けながら進む。その流れで次の船佐に出会ったのでハンドルを切る。

船佐はホームから離れたところに駅舎が残されている。先ほどの長谷は駅舎の扉が閉ざされていたが、ここは扉が開放されている。

中には「ありがとう三江線船佐駅」として、廃止当時の船佐駅の様子を撮った写真が掲げられている。「令和時代も懐かしい三江線を楽しもう」との一文もある。

次の所木では、県道から駅に続く道に手作りで「旧所木駅」と書かれた看板に出会う。その横にはバス停の待合室があり、カップルが仲睦まじく体を寄せ合ってバスを待っているようだ。

・・・と近づいてみると、おかめとひょっとこの面をかぶった人形。駅の看板と合わせた作品なのかな。

立入禁止の柵があるのでホームには入れないが、この先の道を歩くと江の川に架かる橋に出た。結構高い位置に架かっているが、川の行く先を眺める。三江線に実際に乗ったのではなかなか見ることができなかった景色である。

次の信木はクルマからちらりと見ただけで、式敷に到着。小ぶりなログハウスがあるが、これは三江線当時からの建物だという。現在もバスの待合室として使われていて、建物内のトイレも含めてきれいに整備されている。1955年に三次から江津に向けて三江南線が開業した時の終着駅であり、現在も本数が少ないながら三次からの路線バスの終点になっているのは、昔からある意味区切りの駅だったのかなと思う。

駅舎内には、「やっぱり遺そうよ! 三江線」と書かれたノートがある。パラパラと中を見ると、廃線後も何らかの手段で三江線の駅を訪ねる人も結構いるものだと思わせる。言葉ではうまく表現できないが、今の人たちを引き寄せる何かが三江線にはあるのだろう。江の川なのか、周りの山々なのか、本数の少なさだったのか・・それは人それぞれのようだ。

中国観音霊場めぐりと言いながら道のりは長い。三江線跡めぐりも何回に分けて書くことになるのかなというところだが、まずはここでいったん区切ることに・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~三次から三江線跡に沿って江津を目指す

2020年11月22日 | 中国観音霊場

11月21~23日の3連休(私は21日は出勤していたので2連休だが)、ニュースを見ると新型コロナの感染者が増加傾向にあり、全国計で1日の新規感染確認者の記録を連日更新している。GoToキャンペーンの見直しについてもいろいろと取り上げられているところだ。

ただ一方では各地の観光地、行楽地も大勢の人で賑わっており、多くの人が内心複雑な思いを抱きつつも、せめて自分でできる感染予防はしたうえで腹をくくっているのかのように見える。

さて私はといえば、22日のまだ夜が明けない時間に広島を出発。久しぶりに利用する五日市インターに向かう。当時はボロとはいえ1500ccの普通車に乗っていてどうということもなかったが、軽自動車だと五日市インターにたどり着くのですら結構アクセルを踏み込むことになる。

山陽自動車道に乗り、広島ジャンクションから中国自動車道に入る。このクルマで高速道路を走るのは初めてで、別に飛ばすわけでもなく(飛ばせない)、左車線をおとなしく走る。こういう時、山陽道や中国道のような主要高速道路だと走行車線、追越車線がずっと分けられているからいいが、地方の片側1車線の高速道路は避けたい。絶対にあおられる。一般道ならどこかで適当に退避したり、左側に寄ることで対処できるが、高速道路だとそうはいかない。

安佐サービスエリアでそろそろ外が明るくなってきた。安佐で朝を迎える。

この後の中国道は霧が濃い区間も一部あったが順調に走り、三次インターの手前にある江の川パーキングエリアに着く。今回の中国観音霊場めぐりは出雲を目指すわけだが、1日目はこの「江の川」がメインとなる。

三次インターで降りて市街地を走る。時刻は8時前。やって来たのはJR三次駅である。この駅に来るのもずいぶん久しぶりのことで、今の駅舎を見るのも初めてである。本来なら広島からの芸備線、あるいは福山からの福塩線で訪れたいところだが、それはこれからの楽しみとする。

ここで、芸備線、福塩線という言葉が出てきたが、2年半前にはここに「三江線」というのがあった。三次と江津を結ぶ、いわゆる陰陽連絡線の一つとして計画された路線で、1930年代から三次、江津双方から少しずつ路線が敷かれ、全通したのは1975年のこと。しかしその頃はすでにモータリゼーションの発達、地方の過疎化、国鉄の財政難など時代は変わっており、三江線は全通当初から厳しい状況だった。その後はたびたび自然災害で長期間の運休を余儀なくされることもあり、廃止の話は以前から持ち上がっていた。

そして2018年3月末の廃止が決定。JR発足後、100キロを超える路線が廃止されるのは本州では初めてのことで、昨今の鉄道ブームの中で廃止決定後に多くの人が乗りに行くようになった。私は行くことがなかったが、廃止直前の三江線のフィーバーについては多くの方がブログ、旅行記で紹介していてそれらを拝見している。

廃止後、三次と江津を直通する代替バスが運行されることはなく、それぞれの自治体、あるいはローカルバス会社がそれぞれのエリア内でバスを運行することとなった。当然本数も少なく、それぞれが接続を取って三次と江津を結ぶわけでもない。以前に机上旅行として、それぞれの自治体、バス会社のホームページから時刻表を引っ張り出して、それらを乗り継ぐということをシミュレーションしたことがあるのだが、途中で何時間も空いてしまう区間が出たりして、仮に実行するとなると日中の多くの時間をつぶしてしまうという結果になった。

・・・とまあ、相変わらずここまで長々と書いてきたが、要は何をするのかというと、廃止になった三江線跡に沿って三次から江津まで行くということである。廃線後の三江線の様子を書いたネット記事もいくつかあるのだが、2年半が経過してどうなっているか。今回山陰に抜ける中で見てみようというものである。

廃止されたら駅の場所を探すのも大変かなと思っていたが、ふと思うに、私の軽自動車は2013年型の中古車である。カーナビがその当時のままだったら三江線の線路も載っているのでは・・?と検索してみると、果たして路線も駅も当時のままである。今回立ち寄ってみようという駅がいくつかあるのだが、カーナビに駅名が残っていると楽である。また地図には線路も載っているので、それに沿えばいいのだなとわかる。江の川と接する崖っぷちの道も相当走ることになりそうだが、そこへ軽自動車の小回りを活かせば何とかなるだろう。

というわけで、三次を出発。まずナビに入れたのは、三江線の中で「秘境駅」の一つとされていた長谷(ながたに)。これから、三江線跡とともに江の川とも付き合う形で進む・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~広島から山陰を目指す

2020年11月21日 | 中国観音霊場

第16回のお出かけとなる中国観音霊場めぐり。これまでは大阪から出向いていたが、これからはまさに中国地方の広島から出向くことになる。

前回は9月、大阪から「WEST EXPRESS銀河」で出雲市まで行くツアーに当選する幸運に恵まれて出雲市の2ヶ所に出向いたのだが、その出発直前に広島への異動が決まり、これも観音さまのお導きかと自分でも驚いたものである。そのことは何度も触れたので今さらどうこう言うつもりはない。

この時は第23番の神門寺、そして第26番の一畑寺を回った。まずはこの間の第24番禅定寺、第25番の鰐淵寺を埋めることになる。また、中国地方を山陽側から下関を経て山陰側に回るということで言えば、現状では江津と出雲市の間が空白になっている。「WEST EXPRESS銀河」に乗ることが決まった時には、その次は11月の勤労感謝の日の連休に照準を当てて、大阪から浜田まで高速バスに乗り、山陰線で出雲市まで移動すると決めていた。途中、世界遺産の石見銀山にも行こうか、ただそうするとそちらで半日かかるからどうしようかと思案していた。

そして、広島に転居。ここからなら浜田行きの高速バスは結構な頻度で出ているから移動は問題ない。大阪からなら2泊3日かなと思っていたが、1泊2日で行けそうだ。11月22日出発でその日は出雲市駅前のホテルを押さえて、2日目にレンタカーで2つの寺を回り、前回のゴールだった松江まで移動する。松江から広島行きの高速バスで帰ればよいかなというところだ。

ここで引っかかるのが、2日目のレンタカー。今回の2つの寺は公共交通機関で行くには非常に難所で(詳細はその時に触れることに)、机上旅行の時点でレンタカー利用としていた。

ただ、広島に来て通勤のためにクルマを購入した。ドライブということでは一度山口方面、岩国から「いろり山賊」を経て光まで走らせているが、ここはこの相方・ルークスを山陰まで走らせてもいいのではないかという気になった。とりあえず浜田、江津を経由して出雲市まで走らせて、翌日は逆に鰐淵寺、禅定寺の順に回って、松江までは前回たどり着いているので今回はパスして、そのまま戻ればいいのかなと。山陽~山陰を回る途中に、「陰陽連絡」を挟むのもよいだろう。

広島から浜田へは浜田道、あるいは下道でも国道を伝えば問題なく行けるルートだが、ふと前日になって、「こういうルートで行くのはどうだろうか」という、いらん思いつきが出てきた。石見銀山を回るのもいいが、最初からクルマで回る機動性を活かすのもいいかなと思う。

そのルートとは、「三次発江津行き」ということでお察しください・・・。

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観光列車「etSETOra(エトセトラ)」、いつになったら乗れるのやら

2020年11月19日 | ブログ

広島のディスティネーションキャンペーンに合わせて、10月にデビューした観光列車「etSETOra(エトセトラ)」。「エトセトラ」というのはラテン語で「その他いろいろ、などなど」ということで、日常でも文末に「etc」とつけることがある。

この列車については、「eto」は「えっと」という広島弁の「たくさん」「多くの」という意味で、「SETO」は「瀬戸内海」である。車両はキハ47の改造で、かつては「瀬戸内マリンビュー」として運転されていたもの。このたびの改造でグリーン車になったので、形式としては「キロ47」である。どうでもいいが。

運転経路は変則的で、往路の広島発尾道行きは呉線を経由する。瀬戸内の海岸美を楽しむことができる。また復路の尾道発宮島口行きは山陽線経由で、山の景色とともに復路のみ営業のバーカウンターで西条の酒などを楽しむことができる。

私が広島に移ったのに合わせて走り出した列車であるが、なかなか乗車の機会に恵まれない。これまで何度か指定席の申し込みに挑戦したが、いずれも満席。19日は、たまたま広島駅近辺に出る用事があって、発売開始日である1ヶ月先の便を申し込んでみたが、広島発、尾道発いずれも満席。

列車そのものは土日を中心にずっと運転されているのだが、どうやら旅行会社のツアーでほとんど抑えられていて、その他一般向けの席はほとんどないようだ。その旅行会社のツアーというのは尾道や三原での観光やたこ料理などを楽しむもので、どちらか片道で「etSETOra」に乗るものだが、これまでいくつか見てみていずれもキャンセル待ち。どんだけ人気やねん。

呉線、山陽線に乗るのなら出かける機会はあるし、現在はこのエリアの1日フリーきっぷも発売されている。ただ、これまで中国地方のいろんな観光列車に乗った中で、いずれは「etSETOra」も加えたいものである。果たしてそれがいつになるのやら・・・。

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西国めぐりの関西行き、奈良から広島へ

2020年11月16日 | ブログ

今回の西国四十九薬師めぐりの奈良の4ヶ所を終えて、広島に戻ることにする。

これまでの大阪住まいなら、奈良との行き来は近鉄奈良線の快速急行かJRの大和路快速、果ては近鉄の橿原神宮前回りとか柏原からの道明寺線といったルートがあった。

ただ今回はお上りさんのようなところもあり、近鉄奈良から大阪難波まで特急に乗る。14時25分発の大阪難波行きACE車両である。後の時間帯ならビスタカーが充てられているようだが。

窓際には奈良の土産として買った「春鹿」。ならまちの一角にある酒蔵・今西清兵衛商店の一品である。もっとも、特急の中で空けたわけではなく、土産としてそのまま持ち帰る。

平城京跡や、生駒山から見る大阪平野の景色も、特急から見ると旅行気分となる。

そのまま大阪難波に到着。時刻は15時。新大阪に向かう前に、遅い昼食兼早飲みとしよう。結局それが目的なのかと言われると刺さるものがあるが、向かったのはこれまでちょくちょくお邪魔していた「赤垣屋」。

「赤垣屋」じたいは市内に何店舗があり、私がメインにしていたのはあべの店だったが、今回は天王寺に回らなかったので難波店にする。立ち飲み店ながら、コロナ対策でカウンターの一人分スペースにもビニールの幕が張られていて、感染対策としている。これまでのように、混んできたらお詰め合わせ願います・・というのはなくなった。

昔は「ダークで」という言葉があった。少しでも詰められるように、カウンターに対して体を斜めに向けて立つのが、ちょうどダークダックスのようだから・・というところから来ている。もっとも、「ダークで」という呼び掛けに対して、「ワシはデュークエイセスのほうが好きや」と言って頑として正面を向いていた人もいたようだが。

ここは一品ものが豊富で、月替わりで限定メニューも出てくる。ただ今回は軽く飲む形で、落ち着いたところを楽しむ。

オリジナルのなんばビーフカツ。たまたま8日が「なんばビーフカツの日」ということで、デミグラスソースがかかっている。牛肉を叩いて薄く伸ばしたのを揚げた一品。大阪でも串カツとはまた違った洋食の味である。

たまには、こうした店の味を楽しみに帰省するのもいいだろう。

大阪メトロで新大阪に移動。「さくら」や「のぞみ」に乗れば広島に早く帰れるのだが、この時選んだのは16時32分発の「こだま863号」。広島着は19時27分だが、これは当初予定していたくらいの時間である。結果的に早く帰宅するとはならないが、そのぶん難波の立ち飲みも楽しめたし、「こだま」の車内でのんびりできる。

ただ、指定席は2列シートのどちらかが埋まる状況である。それなら、自由席のほうがいいだろう。果たして、片側2席ぶんは使えそうだ。

「こだま」車内ではひとり二次会。別に騒ぐわけでもなく、黙々と飲み食いするだけだからいいのかな。

途中駅では後続列車の通過待ち、先発で停車時間がある。西明石ではホームに出て、岡山では18分停車なので追加の一品を買ったし、新倉敷でもホームに出たが・・・次に気がついたのは広島の手前。間の各駅でも数分ずつ停車していたが眠っていたようだ。以前、中国観音霊場めぐりから大阪に帰るまでの新幹線で、岡山から東は爆睡だったのに似ている。まあ、飲み過ぎですわ・・・。

広島に到着。これまでは新大阪が終点だったのでよかったが、これからは下手すれば九州に行ってしまう恐れもあるので、要注意だ。

この後は山陽線~広電で高須に到着。7日夜に出て、24時間以内に戻ることがてきた。

さてこれからの西国薬師・観音めぐりは関西への往復がともなう。のんびり旅行プランを組めればよいが、新任地で1ヶ月あまり過ごす中で、自分の役割として何かあれば緊急対応に当たる必要が出ている。

実はこの記事を書いているのがその真っ只中で、異動して初めての緊急対応出張中である。業務は日中で一段落するので、精神的に疲れた中で、せめてもの癒しとホテルの一室でスマホをポチポチやっている。なお、どこに来ているかについては、業務に関することなので伏せる。

札所めぐりについては、いろんな要素を見比べながら気長にやることになりそうだ・・・。

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第6番「新薬師寺」~西国四十九薬師めぐり・25(十二神将、参上)

2020年11月15日 | 西国四十九薬師

元興寺からならまちを過ぎて、町並みを見下ろす形の新薬師寺に着く。手前にある奈良市写真美術館の建物が立派で、その裏にひっそりと建つ形の寺である。

山門といっても小ぶりなものがちょこっとあるくらい。以前は受付だった小屋もあるが、受付は本堂へとある。門に柵があるのは鹿の侵入を防ぐためという。この辺りにも鹿はやって来るのかな。

境内に入る。正面に本堂があるが、これまでの寺のように正面から拝むようではなく、あっさりしたものである。また境内には小ぶりなお堂や石仏もあるが、何か特筆すべきものがあるわけでもない。新薬師寺はあっさりと通り過ぎる形になるのかな。

拝観、納経は本堂の左手の扉から入る。ここで拝観料と朱印代を納めて、中に入る。朱印が順番待ちなので先に受付をして、後で受け取る方式だ。

中に入って、アッと驚いた。まずは正面に安置される薬師如来に手を合わせるのだが、その阿弥陀如来を囲むように十二神将が立ち、外部ににらみを利かせている。

薬師如来、日光・月光菩薩、そして十二神将は「チーム薬師」を形成しているのだが、多くの寺院では十二神将も薬師如来の両側で正面を向いて安置されているところ、ここでは円状に、それぞれの方角を向いている。

いつからこういう配置にしているのだろうか。初めて見る構図で、薬師如来よりもむしろ十二神将たちにスポットライトが集まっているようである。

新薬師寺が建てられたのは奈良時代。大仏建立を発願した聖武天皇が病気になり、その平癒を願って薬師悔過(けか)が行われ、薬師如来像が造られた。この薬師悔過とは、身を清めて薬師如来の前で罪を懺悔し、心の穢れを取り除くことで福を招く行いである。これにともなって光明皇后が建てたのが香山薬師寺で、後に新薬師寺となった。

創建当初は巨大な伽藍を持ち、先ほど通った奈良教育大学の敷地からも当初の跡地が見つかるほどだったが、平安以降、落雷や台風、そして南都焼き討ちでその規模も縮小された。その中で唯一、奈良時代から生き残った建物が現在の本堂である。当初は修行を行う建物だったと言われている。そこに平安時代の作とされる薬師如来、それを囲むのは当初別の寺にあったとされるが、制作は奈良時代までさかのぼる十二神将である(当然内部は撮影禁止なので、お堂の外にあった絵はがきの見本にて)。

この豊かな表情、肉付き、1300年前にこれだけのものが造られるのも驚きだが、これを造った人たちについての史料は残されていないという。

十二神将は塑像で、現在は粘土の色そのものだが、ところどころに塗色の跡が残っている。創建当初の十二神将がどのような色だったのか、かすかな痕跡を元に分析して、CGで復元したプロジェクトが行われた。その過程を収録した番組の映像を外の庫裡で流しているというので、朱印をいただいた後で見に行った。十二神将の中でもっとも有名な伐折羅大将をモデルとして、さまざまな色合いの模様が施された武具、青い顔に紅い髪を逆立てた表情は活き活きしている。当時は異国の最先端のトレンドとして崇められたことだろう。

ただ、時代の流れによっていつしか色が落ちる。それでも薬師如来を、あるいは世の人たちを護るのだ・・・と自らが盾になって仁王立ち(仁王ではないが)するかのような十二神将。奈良時代にもサムライがいたのか、と一瞬心おどる。

この日(11月8日)、西国四十九薬師めぐりということで4ヶ所回り、それぞれの寺に歴史、見どころ、さまざまあったが、こと本来の薬師如来、十二神将の「チーム薬師」という点でいえば、興福寺の東金堂を抑えて新薬師寺がもっとも見ごたえがあったように思う。

そして、次の札所グループを決めるくじ引きとサイコロである。今回から新たなグループ分けをしたが、その結果は・・

1.高野山(龍泉院、高室院+西国3番粉河寺)

2.南紀(神宮寺+西国1番青岸渡寺)

3.但馬(大乗寺、温泉寺)

4.京都(法界寺、醍醐寺+西国10番三室戸寺、西国11番醍醐寺、西国19番革堂)

5.阪神(久安寺、昆陽寺)

6.亀岡(神蔵寺+西国21番穴太寺)

・・・いきなり、南紀(紀伊半島一周)や但馬(香住、城崎)といったところが出た。まあ、この二つなら年末年始の大阪帰省と絡めることができるかな。ただ、いずれも人気の観光地で、宿が取れるかどうかだが・・。

そして出たのは「6」、亀岡か・・。広島から往復新幹線なら日帰りで行けないこともない。また今回のように大阪、あるいは京都まで夜行バスで出て、朝から亀岡に移動するのもあり。年末年始の帰省に絡めるかどうするか。ただ、初めてとなる神蔵寺は公共交通機関では地元のコミュニティバスを絡める必要があり、ダイヤをどう組むか。

思ったよりも早くに予定が終わったのでこれからどうするか。もうしばらく奈良にいて他の寺社仏閣を訪ねるのもいいが、ここは帰りの新幹線も含めて予定を前倒しして、翌日からまた仕事なので早めに帰ることにしよう。ただその前に、大阪でちょっと昼食代わりのことができるかなと思う。それを楽しみに近鉄奈良駅まで歩く・・・。

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第5番「元興寺」~西国四十九薬師めぐり・24(ならまち散策)

2020年11月14日 | 西国四十九薬師

興福寺から猿沢池、そしてならまちに差し掛かり、その中にある元興寺に着く。ここも世界遺産の一つである。

元興寺は町の景色に溶け込んだ感じの寺だが、その歴史は古い。前身は蘇我馬子が飛鳥に建てた法興寺(飛鳥寺)で、平城京遷都にともなって一緒に移され、元興寺に名前を改めた。南都七大寺の一つとして広大な伽藍を持ち、学問の中心としても栄えた。現在のならまちエリアも元々は元興寺の伽藍があったところである。

しかし、平安時代となり政府や貴族の力が衰え、他の宗派も興るようになると元興寺の勢力も衰えた。その中で残ったのが、奈良時代にこの寺の学僧だった智光が手掛けた曼荼羅。智光が感得した浄土世界が描かれたものだが、平安~鎌倉時代にかけて広まった浄土信仰により、かつての政府や貴族の保護下から、庶民の信仰を集めるようになった。現在残る建物は極楽坊と呼ばれるお堂で、智光の曼荼羅が寺の本尊となっている。

極楽坊本堂に入る。西から東を向いているのは、浄土世界の現れである。建物の中央に本尊曼荼羅その他の仏像が祀られ、それを畳敷きの外陣が囲む形である。内陣の周囲を念仏を唱えながら回る行道が行われたという。

外に出て、本堂に続く禅堂を眺める。一部、日本最古とされる飛鳥時代からの瓦が残されている。上部が細くて下部が広い丸瓦で、細いほうを覆うように下から上へ重ねる「行基葺」と呼ばれる手法で重ねられている。寺の衰退もある中で現在までよく残ったものだ。

さて、元興寺は西国四十九薬師めぐりの札所である。ただ極楽坊の本尊は智光曼荼羅だし、お堂の中に薬師如来は祀られていなかった。それで札所とはどういうことなのかと思うが、その答えは収蔵庫である法輪館にある(中は撮影禁止のため画像なし)。

元興寺の拝観料は600円だが、その内訳として法輪館のウエイトが結構高いように思う。まず入ると正面に安置されているのが、五重小塔。奈良時代に造られたものとされ、当時各地に建てられた国分寺の五重塔の10分の1サイズの模型と言われている。ただ模型とはいえ、奈良時代から現存する五重塔としては唯一のものであり、現在は国宝に指定されている。

その脇に阿弥陀如来が祀られ、さらにその手前でさりげなく祀られているのが薬師如来である。その後ろに「第5番 元興寺」の札が掲げられ、西国四十九薬師めぐりのパンフレットが置かれている。薬師如来は鎌倉時代の制作とされるが、特に国宝や重要文化財に指定されているわけでもない。奈良時代のいわば「官製寺院」のため元々は薬師如来が本尊だった・・ということならわからないでもないが、西国四十九薬師めぐりは今から30年前に発足した霊場で、その頃少しずつ人気が出始めたならまちブームに乗っかろうという思惑もあったのかな。

一方で重要文化財に指定されている(別に、それだけで文化財としての優劣をいうのではないが)のは、鎌倉時代に造られた弘法大師像や聖徳太子像。鎌倉時代になると浄土信仰のほかに弘法大師や聖徳太子信仰も取り込むようになったと言われる。後で訪ねた史料室では、聖徳太子像を造るための勧進を募った史料も残されている。

また特別展示として、智光曼荼羅を模写した鎌倉時代の板絵が公開されている。

他にも元興寺には庶民信仰のさまざまな史料が残されており、これらの整理、保存のために元興寺文化財研究所が設けられている。現在は元興寺に限らず文化財保護のさまざまな取り組みを行っているが、その一つに「復元模造」というのがある。復元模造とは初めて聞く言葉だが、最新の技術や材料を用いて元々の色や形の情報を再現するレプリカではなく、当時の技法や材料を用いて、本来の姿を再現するものという。単に物として後世に残すのではなく、技術も後世に伝えられないかということを模索している。

こちらも特別展示が行われていて、展示品には各地の古墳から出土した太刀や武具、装飾物などがある。当時こうした材料、工法で作られたのではないかと推測しながらの復元で、「作り手のおもいをもこめて制作してきた」品々が並ぶ。

受付時にお願いしていた朱印をいただき、ここまで午前中で3ヶ所を回ることができた。別に急いでいるわけではないが、順調に進んでいて次は第6番の新薬師寺に向かう。1.5キロほど離れているが、昼食は後回しにしてとりあえず先に歩いて向かうことにする。

ならまちの中を通る。最近は奈良の観光スポットとして浸透していて、古民家を利用したさまざまな店がある。本来ならかつての元興寺の境内だったところに建つおしゃれな店でランチなどたしなむところだろうが、値段もそれなりにするようだし、ちょうど昼時で混雑している。

そんな中で、庚申信仰の身代わり猿をぶら下げた家もちらほら見かける。

そして庚申堂。

ならまちを過ぎると、高畑町、奈良教育大学の横をダラダラとした上り坂が続く。最後は奈良市写真美術館の前から回り込む形で、この日最後となる新薬師寺に到着した・・・。

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第9番「興福寺」~西国三十三所めぐり3巡目・20(再建された中金堂を見る)

2020年11月12日 | 西国三十三所

興福寺の記事の後半。カテゴリは西国三十三所である。この前に西国三十三所の札所を訪ねたのが9月の京都、六波羅蜜寺で、京都国立博物館で開かれた西国三十三所の特別展の鑑賞と合わせてのことである。広島異動が伝えられたのがその数日後のことで、これもぎりぎりのタイミングだったことになる。

西国三十三所の札所である南円堂に向かう前に、境内の真ん中にデンと鎮座する中金堂を訪ねる。

中金堂は伽藍の中心として平城京遷都直後に建てられ、後に東金堂、西金堂ができたことで中金堂と呼ばれている。しかし、南都焼き討ちも含めて何度も焼失と再建が繰り返されたが、江戸中期の1717年に焼失して、そのおよそ100年後に仮のお堂が建てられた。平成に入り、平城京遷都1300年を迎えるのを契機として、創建当時の規模での中金堂の再建が進められることになった。

ただ、一口に再建するといっても、鉄筋コンクリートで現代の建物を造るのではなく、1300年前の天平時代の姿をよみがえらせようというプロジェクトである。木材の調達ひとつにしても巨大な柱になるだけの木は国内では入手できず、ようやくカメルーン産のケヤキを探し出し、およそ20年かけて少しずつ輸入したとのことである。

こうして、2018年に301年ぶりに創建当時の規模で再建され、落慶法要が行われた。新しい中金堂はテレビなどでは見たことはあるが、現物を見るのは初めてである。これまでの札所めぐりでは工事中のため覆いに囲まれた姿しか見えなかったが、こうして眺めると堂々とした造りである。寺の中心部の建物ということもあるし、新たな記念撮影のポイントにもなっている。

エリアに入るには別途拝観料がかかる。コロナ禍の影響で4月から拝観を停止していたが、10月24日から再開されたばかりだという。正面の本尊は江戸中期の焼失後に造られた釈迦如来像。平城京の頃から続く数々の国宝・重要文化財の仏像に比べれば「新顔」で、何かに指定されているわけではないのだが、古い様式に則って造られたとされている。その釈迦如来の両脇には重要文化財の薬王菩薩・薬上菩薩像が祀られ、四隅を国宝の四天王像が護る形である。また、拝観再開を記念して、通常は厨子に収められている吉祥天像も特別に開帳されている。

また、中金堂のもう一つの見どころは内部の「法相柱」。今回の再建にあたり、仏教画家の畠中光享氏の手で玄奘三蔵や解脱上人、世親菩薩といった法相宗の高僧を描いている。この「法相柱」は創建当初の建物にはあったそうだが、その後の焼失でよくわからなくなった。そこは新たな天平の姿を描き出すことにして、寺の中が一層鮮やかになった。現在は古びた建物となった五重塔や他のお堂も、当初はこのような姿だったのかと近づいたように思う。

興福寺としては、中金堂の再建により1300年前の姿を甦らせるだけでなく、1000年先の未来へと存続させるという思いがあるそうだ。

中金堂を後にして、西国三十三所の札所である南円堂に向かう。これまで来た印象では興福寺の片隅にあるなというものだったが、中金堂ができたことでその向こうの東金堂、五重塔とも一体化したように感じられる。

ここで西国三十三所の先達輪袈裟をつけてのお勤め。納経所は独立して設けられていて、先達用の納経軸に朱印をいただく。これからは西国三十三所めぐりも薬師めぐりとのコラボで進んで行くが、広島から関西なら日帰りでも十分だ。ただ、第1番の青岸渡寺も残っており、広島から那智勝浦へとなるとさすがに遠すぎる。青春18きっぷのみなら2泊3日かかるのではないか。

それはさておき、興福寺を後にして猿沢池に下りる。多くの人が池の周りで憩っているが、その中に羽織姿・白無垢姿の男女がいる。猿沢池から興福寺の五重塔をバックに記念撮影をしているようだ。最初はインバウンドの人向けのコスプレか?と思ったが、正真正銘の結婚式のようである。後でわかったのだが、猿沢池のすぐ横に、かつての旅館を改装したゲストハウス型の結婚式場が新たにできており、そこで式を挙げるカップルだったようだ。こういうところの挙式というのもまた思い出になるものであろう。

これから向かうのは元興寺。奈良町の中を通ってぼちぼち向かうことにする・・・。

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第4番「興福寺」~西国四十九薬師めぐり・23(東金堂、国宝館)

2020年11月11日 | 西国四十九薬師

奈良の中心部にある西国四十九薬師の4つの札所を一気に回るお出かけ。第3番の般若寺に向かった後で、観光客で賑わう興福寺に着く。鹿も多く出ていて、鹿せんべいを買い求める客がいるとそこに群がってくる。奈良の賑わいも少しずつ戻っているようだ。かくいう私も興福寺の境内に入るのは久しぶりである。西国四十九薬師の「くじ引き&サイコロ」の縛りで控えていたこともある。

北参道から興福寺の境内に入る。興福寺は西国四十九薬師めぐりの札所だが、西国三十三所の第9番でもある。興福寺の中で東金堂が西国四十九薬師、南円堂が西国三十三所の札所である。今回、ブログを書くにあたってはこの2つのお堂で別のカテゴリの記事とする。

やって来た東金堂。五重塔とのツーショットは興福寺の定番だが、いい眺めだ。どこかのツアー客を含めた多くの観光客でも賑わっていて、その中に鹿もやって来る。

国宝館とのセット料金900円を納めて東金堂に入る。正面には小学生の習字が掲げられ、准に読むと経文のようである。薬師経なのかな。そう思いつつ、東金堂の外で一連のお勤めとする。

東金堂の本尊は、聖武天皇が叔母の元正天皇の病気全快を願って造られた薬師如来である。平重衡による南都焼き討ちに遭ったこともあって、現在の本尊は室町時代の作とされる。内部は撮影禁止なので画像は検索いただくとして、興福寺の中心としてどっしりとした構えである。その両脇に文殊菩薩、維摩居士が祀られ、その外側は日光・月光菩薩に十二神将という「チーム薬師」が勢揃い。さらには四天王も安置され、これだけ揃えば病気なんかすぐに吹っ飛んでしまいそうな陣立てである。ここに来てコロナ禍もまた流行しつつあるので、世の中の病気平癒を願う。

続いて国宝館に向かう。かつて食堂(じきどう)があった場所に置かれている。ここのシンボルは何と言っても阿修羅像だろう。東金堂の境内と違って「密」になりやすい場所のため、入館にあたっては検温があり、館内でも他の人との距離を空けるように、また会話は控えるようにという注意喚起のマークがいたるところに掲示されている。

国宝館というだけあって、中は貴重な文化財の数々。木像の金剛力士立像(阿形・吽形)、天燈鬼・龍燈鬼立像、木造板彫十二神将像など。照明が抑えられている中、少しでもじっくり見ようとオペラグラスを構える人もいる。

その中で堂々と立っているのが千手観音菩薩像。鎌倉時代に再建された当時に造られた観音像で、現在に至る。西国三十三所の本尊にしてもいいくらいのものである。国宝館の中心にあり、賽銭箱もあってここで手を合わせる人も多い。

ただ国宝館の目玉といえば、十大弟子立像、それに続く八部衆立像・・・その真ん中の阿修羅像である。ちょうど、千手観音像と対峙するように安置されている。近いところで久しぶりに目にすることができてよかった。

東金堂向かいのプレハブの建物に納経所と売店がある。西国三十三所の納経はここでは扱っておらず、同じ寺の中でも棲み分けをしているようだ。私としては複数の納経帳を開ける必要がないのでそのほうがよい。

さて次は同じ境内にある南円堂に向かうが、その前に、近年再建されたあの建物を今回ようやく初めて目にすることに・・・。

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