海龍寺から山陽線の線路を左に見て、浄土寺の山門に着く。「十一面観世音菩薩」と一文字ずつ書かれた提灯がお出迎えする。
尾道でもっとも古い歴史を持つという浄土寺である。国宝の本堂もそうだが、その東に建つ阿弥陀堂とこれも国宝である多宝塔の並びも、尾道を代表する景色の一つと言っていいだろう。中国観音霊場の札所の一つに入るのも当然と思う。
本堂には自由に入ってお参りできるというので、外陣にてお勤めとする。また、本堂内陣や阿弥陀堂内部の拝観が有料(600円)で個人でも可という案内があるので外陣の受付に申し出ると、係の人は「あっ」という表情を一瞬見せたようだが、快く引き受けてくれた。中を案内していただけるそうだが、ちょうど七五三などの祈祷の準備の最中だったようで、忙しいタイミングで声をかけた形になったようだ。建物内は撮影禁止なので画像はないが、格子を開けて内陣に入れていただく。
浄土寺は聖徳太子が開いたとされ、寺には太子像も保存されている。聖徳太子は道後温泉も訪ねたようだし、その時は瀬戸内を通って天然の良港である尾道にも滞在したことがあっても不思議ではない。ただ浄土寺が確かな記録として出てくるのは鎌倉時代のことで、定證上人の手で中興したとされる。しかしせっかくの伽藍も鎌倉末期に落雷によるとされる火災で焼失してしまい、その後再建されたのが現在の本堂、阿弥陀堂、多宝塔である。だから今の建物は700年近く続く建物である。
本尊の十一面観音は秘仏のため厨子の中だが、改めて近い位置で手を合わせる。
歴史では足利尊氏との関係も深い。後醍醐天皇との争いの中で敗れた尊氏はいったん九州に逃れるが、その時に浄土寺に立ち寄り、勢力挽回を祈願した。そして九州で勢力を盛り返し、院宣を得て再び都に上る途中で再び浄土寺に参拝し、勝利を祈願した。この後の湊川の戦いで楠木正成に勝利し、これで天皇側と尊氏側の形勢が完全に逆転した。ここから南北朝の混迷が始まり、その後も争いは絶えないのだが、足利氏中心の世の中になったのは確かだ。本堂内の一角には、「ここの間で尊氏が必勝を祈願したそうです」と指差したところに足利尊氏の肖像画(複製)も祀られている。
本尊の後ろには不動明王が祀られ、両界曼陀羅が掲げられている。曼陀羅には多数の仏のそれぞれの名前が添えられていて、こうしたスタイルは珍しいのだとか。
渡り廊下を通って阿弥陀堂に向かう。こちらの内部の格子には「崩し卍」というのが施されている。目線から少し高いところに卍の文字をあしらった格子があるが、光の加減や見る角度によって卍の文字が崩れ、さまざまな模様に見える。科学的には光の屈折とか目の錯覚とか、緑と赤の対照とかによるものだが、そうした技法を700年以上前に駆使していたのにはうなる。
また阿弥陀堂は外の格子が全て取り外しができて、開放的な見せ方ができるそうだ。実際、今では毎年5月の後半に、阿弥陀堂を舞台とした薪能が行われ、この時は阿弥陀如来像も舞台背景の一つになるそうだ。もう何年も続いていて、地元以外からも鑑賞に来る人も増えているそうだ。
続いて本堂の裏から方丈、客殿に通される。こちらは江戸時代に尾道の豪商により建てられ、方丈の襖絵もきらびやかなものである。前庭の向こうには勅使門が残る。
一段高いのが金箔も用いられた上段の間。身分の高い人向けということで、昔からの寺の方丈にはよくあるものだ。エピソードとして、今の天皇陛下が昭和の時に浄土寺を訪ねたことがあるという。天皇陛下が中世の水上交通史を大学の卒論のテーマに選び、今でもライフワークの一つにしていることは知られているが、その一環なのか、浄土寺を訪ねて往年の史料を見たり、住職の説明を受けたことがあった。その時に上段の間に通そうとしたが辞退され、方丈の普通の間に座って説明を受けたという写真パネルがある。また後に秋篠宮ご夫妻が浄土寺を訪ねた際も、上段の間は辞退され普通の間だったそうだ。皇室の立ち位置やふるまいも時代によってさまざまだが、これまでに上段の間に座ったことがあるのは尾道を治めていた広島浅野藩の殿様だけだったという。
ここで係の人は離れ、客殿と庫裏は自由に見学ということで一通り回って本堂に戻る。
再び本堂の前に出る。七五三のご祈祷で僧侶が唱える観音経~般若心経の声がスピーカーを通して境内に響いている。結構早口だ。この時には参詣客の姿も増えていたし、浄土寺名物?のハトたちも参詣客のエサ目当てか結構な数がたむろしていた。
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