まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第4回中国四十九薬師めぐり~鳥取県から備後落合へ、そして気動車が落ち合い・・

2021年10月29日 | 中国四十九薬師

蒜山から国道482号線を通り、いったん鳥取県に入る。やって来たのは江府町で、国道181号線に出て伯備線の江尾駅の横を通る。以前、このルートで米子、鳥取と向かった時、蒜山への標識が出ていたのを覚えている。

そのまま国道183号線に出て、日野川に沿って走って日南町に入り、「道の駅にちなん日野川の郷」に立ち寄る。地元産の新米とともに、名物のトマトを購入する。ここまで来ても、まだ雨は降ったりやんだりである。

鍵掛(かっかけ)峠を上る。広島県との県境だが、鳥取県側では道路整備工事が進められている。山陽、山陰間の物流強化とともに、冬期の安全や定時制を確保するためとしてかなり以前から計画されていたそうだが、完成まで結構長い年月を要している。

広島県に入る。道後山のリゾート地区を抜け、今度は急坂を下る。その先に見えるのが芸備線の小鳥原(ひととばら)川橋梁。このうち第1小鳥原川橋梁は中国地方一の高さ30メートルを誇る。芸備線の中でも難所の区間と言える。

それを過ぎたところでやって来たのが備後落合駅。蒜山の道の駅を出たのが12時すぎで、駅に着いたのは14時すぎ。別に狙っていたわけではないが、ちょうどよい時間である。というのも、芸備線、木次線とも1日の本数がわずかという中で、14時台というのは3方向からの列車がちょうど「落ち合う」時間帯である。これは、列車が発着する光景を見なければ(それにしても、昨年10月に広島に移ってからまだ1年なのに、この駅に何度来ているやら)。

ということで駅に続く坂道を上がり、駅舎の前にクルマを停める。突き当りにJR西日本の軽自動車が停まっていて中に係の人が乗っていたが、特に何か言われることもなかった。3方向からの列車の到着まではまだ少し時間がある。

駅舎の扉を開けると、備後落合駅のボランティアガイドで知られる永橋則夫さんが、旅行者とおぼしき2人連れに備後落合駅や木次線の歴史のガイドをしているところだった。私も後ろについて一緒に話を聞く。ちょうど、木次線のスイッチバック、そしておろちループについて触れていたところで、1983年に三井野原~出雲坂根間で発生した列車転落事故についても語られていた。

そして、いったん駅舎から出て構内の小屋の鍵を開ける。そこにはかつて賑わっていた備後落合駅のNゲージジオラマが保存されていた。以前、庄原市のツアーで備後落合駅を訪ねた時に初めて永橋さんのガイドを聞いたのだが、その時改札口で展示されていたのがこの模型である。普段はここに保存されているのか。SL列車もあれば気動車、そしてかつて木次線で運行されていたレールバスの模型もある。かつての賑わいの想像をかきたてる。

これでガイドは終わり、私もホームに出て列車の到着を待つ。すると永橋さんが私の横に来て、二言三言話しかけてくる。私は何度かお見かけしたが、先方は私のことなどご存知なかろうに。その中には今のJRに対するグチのようなものもあったのだが・・。

まず、三次からの列車が到着。満員ではないが、その筋の人たちもそこそこ乗っている。

続いて、新見からの列車がやって来た。同じキハ120だが、車体の帯が山陰線、旧三江線の色である。そこへ、先ほど駅前に待機していたJRの係の人が来た。新見からの列車に車椅子の乗客がいて、その乗降の補助である。その乗客は係の人の後押しで、ホーム向かいの三次行きに乗り継いだ。後で永橋さんが「(木次線の出る)1番線だったら大変じゃったろう・・」とつぶやいていた。

そして、ホームや駅舎にそれなりの客が出たところに木次線からの列車が到着。1日に1回、3方向からの列車が落ち合い、そしてまた離れていく時間である。

それぞれの乗り換え時間が終わり、まず新見行きが発車する。ホームで見送る。

次に宍道行きが発車。永橋さんが両手を振ってのお見送り。これは今の備後落合駅の名物の一つと言っていいだろう。

最後に三次行きが出発・・・だが、その時私はホームにいなかった。列車の発車に合わせる形でクルマに戻り、同じ三次に向けて発車するところだった。

ローカル線の列車と国道を走るクルマが競争になる場面がある。芸備線もそうなるかなと思ったが・・・備後落合駅を出るとすぐにJR中国山地名物の時速25キロ区間に入る。列車が見えやすいところまで走ってクルマを停めるが、気動車はなかなかやって来ない。そのうちに来たが、外から見ても何ともゆっくりした走りである。スピード感でいえば、マラソンや駅伝の選手を沿道で応援するようなものだ。

気動車を見送って発車するが、すぐに追い越してしまう。そしてもう少し先のポイントで気動車を待ち構える。まあ、休日に遊びに来てこのように気動車を眺めるぶんにはいいのだろうが、これが通勤通学の足です・・という方にとってはたまったものではないだろう。

芸備線については、この秋は「庄原ライナー」の運行(「みよしライナー」の延長)とともに、新たに臨時列車も走る。また、カープのラッピング車両も協賛金・募金が目標に達したことで実現の運びである。何とか存続への動きはあるにしても、(一部区間とはいえ)時速25キロが通常運転と言われると・・・。

再び気動車を追い越した後はもう待つこともなく、そのまま淡々と国道を走り、三次インターから中国道に乗り、広島まで戻った。

第4回までで、1回につき1ヶ所だけめぐる中国四十九薬師。次回は津山から津山線沿いに岡山にかけて札所が並ぶ。またローカル線や穏やかな景色とともに楽しめる日を待つことに・・・。

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第4回中国四十九薬師めぐり~雨の蒜山高原を一回り

2021年10月28日 | 中国四十九薬師

福王寺の参詣を終えて、クルマで少し蒜山高原を回ることにする。福王寺がある国道482号線から、山側を通る県道に向かい、ぐるり一周するコースにする。

やって来たのは蒜山高原センター・ジョイフルパークだが、その向かいに何やら木で組まれたオブジェがある。今年新たにオープンしたという「グリーナブルヒルゼン」である。蒜山の新たなランドマークで、観光文化施設という。そのシンボルが「風の葉」という名の建築物。

この建築物を手掛けたのは建築家の隈研吾氏。あの新国立競技場を設計した方である。この「風の葉」は東京・晴海で期間限定で展示されていたが、それを解体し、ここ蒜山に移築したという。幾何学的な木造建造物と、その隙間からこぼれる太陽の光が「映える」そうだが、あいにくこの日は雨である。また一週間前まで、施設にある「蒜山ミュージアム」で隈研吾展が開かれていたそうだ。何とも間が悪いところに来たものである。

さらにクルマを走らせる。高原の景色の中にカフェや企業の保養所なども見える。それにしても天候が変わりやすく、大雨になったかと思えば晴れ間も見える。

そして入ったのが「ひるぜんジャージーランド」。上蒜山の麓に位置する広大な牧草地を有し、ジャージー牛肉やジャージー牛乳を楽しむことができる。もっともこの天候で牧草地にはジャージー牛の姿は一頭も見えなかったが。

普段牛乳は飲まないのだが、せっかくなので濃いめのやつを1本買い求める。それを建物の横で飲み干す。瓶の飲み口に塊が残るほどの濃厚さである。またヨーグルトや、ジャージー牛を使ったソーセージも土産として買い求める。クルマで来ているなら牛肉を買ってもよかったのだが(赤身もあればホルモンもある)・・さすがにお値段が張るので加工品で妥協する。

やはり天気のよい日を狙って来ればよかったかな・・と思いつつ周囲の景色を見る。

その後で立ち寄ったのが「蒜山やつか温泉 快湯館」。蒜山に来る前に立ち寄った湯原温泉では入浴を断念したのだが、ちょうどいいところに温泉施設が現れた。ドライブ客で結構賑わっている。

ここの湯の特徴は全国屈指のラドン含有量を誇るラドン温泉とのこと。そういえば蒜山から北に山を越えたところには三朝温泉や関金温泉という、ラドンで有名な温泉どころがある。そこともつながりがあるのかな。クルマから出たり入ったりで雨に濡れたところもあったが、ここで一息入れることができてよかった。

これで蒜山を一回りしたことにして、蒜山インターの方向に向かう。そろそろ昼時で、昼食なら蒜山焼きそばかなと思う。道沿いには雰囲気ありげな店もあったが急停車できず、そのまま走って「道の駅 風の家」に着く。蒜山インターのすぐ横で、さまざまな地元の土産物、農産物を扱うショップや食堂も備えている。クルマの出入りもひっきりなし。

道の駅の食堂なら焼きそばがあるだろうとのぞいてみると、看板メニューだった。それがこちらだが、美味しくいただいた。

蒜山は北海道に気候が似ているとして、昭和30年代頃から観光地化が進み、ジンギスカン料理が提供されていたという(確かに、この道の駅にもジンギスカン用の冷凍肉が並んでいた)。そのタレが味噌味にアレンジされ、鶏肉やキャベツを加えたオリジナルの焼きそばが生まれた。で、地元B級グルメブームである。

それにしても、美作の国では蒜山焼きそば、そしてお隣津山ではホルモンうどん・・・。畜産と麺類がよく合う土地柄なのかなと思う。せっかくなので麺のセットに加えて、蒜山焼きそばのタレを買い求める。タレがあれば、普段の夕食でもアレンジして蒜山の味を楽しむことができそうだ。

さて時刻は12時を回ったところ。すぐ横の蒜山インターから高速に乗ればスムーズに広島に戻ることができるが、それに反して国道482号線をそのまま西に進む。広島に戻るのに、なぜか米子道と並走する形だ。行き交うクルマもほとんどない中、そのまま鳥取県に入った。

岡山県から広島に戻るのにあえて鳥取県を通るルートを選んだのは、途中であるスポットに立ち寄ろうと思ったことから。そこを経由しようと国道を乗り継ぐと、たまたま3県またぎになっただけのことである。それにしても、立ち寄ろうというそのスポットって一体・・・?

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オリックス・バファローズ優勝おめでとう!!!!!!!!!!!!!!

2021年10月27日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

おめでとう。ありがとう。

全員で勝った。

うれしい。

今、ただそれだけ・・。

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第4回中国四十九薬師めぐり~第4番「福王寺」(下境内、上境内)

2021年10月27日 | 中国四十九薬師

大雨の湯原温泉から蒜山に向かう。これから訪ねるのは中国四十九薬師の第4番・福王寺だが、雨の中通る道は高原という感じではない。ごく普通の集落といった趣である。

道路脇に福王寺への道しるべの石柱があり、そこから細道に入る。周囲の民家や田畑にまじって寺の建物が見える。山門があるわけでもなく、そのまま境内にクルマを乗り入れる。

福王寺が開かれたのは平安時代。菅原道真が大宰府で亡くなった後、付き従っていた仁和寺の僧だった弥宗僧正が、道真の念持仏だった薬師如来をこの地に祀ったのが由来という。先ほどの院庄のように東西を結ぶ街道が通っていたわけではなく、なぜ蒜山なのか気になるところが。道真を重用していた宇多法皇は仁和寺の僧でもあり、仁和寺の近くにある福王子神社から寺の名前がつけられた。

その後は一定の勢力を持ち、豊臣秀吉の養女である豪姫を迎え入れることもあったが、豊臣方でキリシタンをかくまっていたとして徳川家康の命令で取り潰しに遭った。その後、江戸中期に復興し、現在の本堂はその当時の建物という。茅葺屋根にも苔が生えていて時代の長さを感じさせる。内部の天井には花鳥風月が描かれていると紹介されるが、扉の向こうの様子はよくわからない。まずはこの本堂を前にお勤めとする。

その前には弘法大師と四国八十八ヶ所のお砂踏み。ちょうど八十八ヶ所が四国の形に並べられている。

もっとも、横の本坊らしき建物も荒れた建物で、納経所も無人である。うーん、中国四十九薬師の札所はこんなの(といっては失礼だが)ばっかりなのかなと思う。窓を開けて、棚の引き出しから納経の用紙を取り出して、自分で朱印を押す。まあでも、これもローカル線ならぬローカル札所の味わいである。世の中には、「直筆でない朱印は受け取らない」という方もいると思うが、世の実態はこのようなものだ。

同じ棚で見つけたのが、中国四十九薬師めぐりの朱印帳の表紙。表紙と裏表紙を紐で綴じるものだが、500円と安い。これまで見つからなかったが、第4番の無人納経所で出会うとは意外だった。ともかく、中国四十九薬師めぐりもこれを印籠のようにして回ることができる。

これで福王寺は完結・・だが、どうも勝手が違う。中国四十九薬師の公式サイトや福王寺のホームページに出てくる寺の画像とは違うのである。そちらでは新しく立派な建物が本堂として掲載されているし、境内も広々としている。

納経所の掲示を見ると、この先に「上境内」というのがあるそうだ。裏山を切り開き、2013年に持仏堂、客殿などを新たに建てたという。今ではこの持仏堂が本堂の役割を果たしているようだ。傘をさして、本堂の横から坂道を上る。

そこは広大な一角だった。不動明王と弘法大師が仁王のように立ちはだかり、その奥に持仏堂がある。

中に入ってお参りができるとのことで扉を開けると・・・ちょうどこれから法事が始まる様子で、僧侶、そしてご家族が一斉にこちらを振り返る。何だか気まずい感じになり、そのまま扉を閉めて退散する。今ではこの持仏堂で法事や祈祷に対応しているようだが、訪ねたタイミングがよくなかったかな。

こちらの裏山は墓地としても整備されていて、歴史ある福王寺の中で先に訪ねた「下境内」、そしてこちらの「上境内」として信仰を集めている。蒜山といえば高原、牧場、乳製品のイメージだが、こうした由緒ある寺院が残っているとは意外だった。

今回の札所めぐりの目的地に到達し、雨風強い中だが、せっかくなのでもう少し蒜山を回ることにする。これもクルマならでは・・・。

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第4回中国四十九薬師めぐり~院庄から大雨の湯原温泉へ

2021年10月26日 | 中国四十九薬師

10月17日、蒜山の福王寺に向かうべく、前夜宿泊した院庄から出発する。その前に、「院庄」という由緒ありげな語感があるこの地をちょっとのぞくことにする。

この辺りは吉井川沿いに開けた平坦な土地で、早くから美作の中心として栄えたという。後に後鳥羽上皇の荘園となったことから「院庄」という名前がついたという。一方、鎌倉時代から室町時代にかけては美作の守護職がこの地に置かれ、その館の跡も残されている。また、後鳥羽上皇が隠岐に流される際、この地で亡くなった女院を葬った塚もある。

その院庄の歴史が今に残るのは後醍醐天皇によるところが大きいようだ。こちらも隠岐に流される途中、院庄の守護職の館に逗留した。その時、備前の土豪児島高徳が天皇を救出しようと美作までやって来たが、警備が厳重で救出することができなかった。そこで高徳は桜の木に「天莫空勾践(こうせん) 時非無范蠡(はんれい)」という漢詩を彫った。

時代が下り、関ヶ原の戦いの後、美作が森氏の領地になった時、この院庄に築城しようとした。しかしいざこざがあって結局津山に築城することになった。それ以来、美作の中心が津山に移ったという。

明治の初め、この院庄館跡に作楽(さくら)神社が建てられた。祭神は後醍醐天皇と児島高徳である。

先ほどの「天莫空勾践 時非無范蠡」という詩の意味だが、「天は、(呉との戦いに敗れて捕らえられた)越王勾践を見捨てなかったように、帝を見捨てることはない。勾践に范蠡という忠臣がいたように、帝を助け出すが必ず現れる」ということという。この詩の通り、後に後醍醐天皇は隠岐から脱出して、数々の忠臣の力を得て鎌倉幕府を倒した。そのことで児島高徳のこのエピソードも天皇への忠義の現われとして明治以降、戦前には英雄扱いされるのだが、高徳自身についてはよくわかっていないところも多く、実在を疑う説もあるという。また、「太平記」の著者の一人に小島法師というのがいるが、一説ではこの小島法師が児島高徳ではないかともいわれている。

その桜の木があったとされる場所に碑が建てられている。

これで院庄にも訪ねたことにいて、蒜山に向かう。国道181号線を西に向かう。立ち寄り先の湯原温泉には中国道~米子道乗り継ぎが早いのだが、時間はあるのでそのまま下道を行く。

これも下道を行く理由ということで立ち寄ったのは美作千代駅。大正時代、姫新線の開業時に建てられた駅舎がそのまま残されている。津山市の姫新線、因美線にはこうした駅舎がいくつか残されていて、訪れる人の目を楽しませる。柱や漆喰壁に年月の重なりを感じる。なお、駅前に立つ郵便ポストは、レトロ駅舎保存の機運と合わさってわざわざかつての丸いスタイルのものに取り換えられたという。

駅ノートを見ると、姫新線の本数は少ないのだが、時間を有効に使うために隣の院庄や坪井から歩いてきたという書き込みも見られる。この辺りは津山の郊外ということでまだ駅間の距離もそれほど長くない。

真庭市に入り、国道313号線と合流する。先日の第3回中国四十九薬師めぐりで、第3番の勇山寺を訪ねた後に真庭を回った時に訪ねたのと同じ道である。今回は旧遷喬尋常小学校や勝山の町並みはそのまま通過する。

中国勝山から旭川沿いの国道313号線に入ると、外の雨脚が強くなった。夏のゲリラ豪雨とは違うが、モロに前線にぶつかったようである。雨の予報なので覚悟はしていたが、ここまで降るとは思わなかった。院庄に前泊したからそのまま向かっているが、日帰りで広島から来たらなばそのまま引き返すのもやむを得ないかなというくらいである。

そのまま旭川に沿って走り、湯原温泉郷を形成する小規模の温泉街を通過した後で、米子道の湯原インターに出る。以前に乗った鳥取~広島間の高速バスが湯原温泉まで国道を走り、湯原インターから高速に入ったのを思い出す。その時、広島から湯原温泉まで乗り換えなしで来ることができるのかと意外に思ったが、そのバス停から温泉までは結構距離がある。ローカルバスがうまく接続してくれればいいのだが・・。

看板に従って温泉街に入り、河川敷に設けられた駐車場に停める。クルマはここで行き止まりで、この先、湯原ダムの下にあるのが露天風呂の砂湯である。

一応、向かってみる。ただ、クルマから出ると雨風ともに強く、すぐに足元がずぶ濡れになる。こんな中、露天風呂に入っても逆効果だろう。

その砂湯の入口へ。1977年に作成された「露天風呂番付」で西の横綱に格付けされた砂湯だが、ちょうどこの時は水着を着けた家族づれ1組、おっちゃんが2人入浴していた。それを見てどうするか。

・・・結局、ここで断念して引き返した。西の横綱を前に不戦敗である。入って入れないことはないが、後がしんどそうだ。

砂湯以外の浴場はないか。通りに公衆浴場はあったが営業開始は10時からとある。現在の時刻は9時を回ったところで(ちなみに砂湯は特定の清掃時間を除き、24時間入浴可能)、そこまで待つのもどうかな。ホテル・旅館の日帰り入浴も朝はやってなさそうだ。

結局、足湯兼手湯で、手だけつけることにした(足湯といっても、腰かけが雨で濡れていたので)。この時はさすがに、何も今日来ることなかったなと、ちょっと後悔した(1週間後の日曜日は晴天で、また気温も下がったので温泉にはぴったりだった)。

それはそれとして、気持ちを切り替えて湯原温泉から蒜山に向かう・・・。

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バファローズ、よく戦えり

2021年10月25日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

10月25日のイーグルス戦をもって、今季のバファローズのレギュラーシーズンが終了した。この日は仕事から早く戻ってのテレビ桟敷での観戦ができた。

試合はバファローズ・山本、イーグルス・田中の投手戦となったが、紅林のボテボテの当たりがタイムリーになって先制、最後は安達の2ランスクイズも飛び出し、そして山本が完封で18勝目。冷える仙台の屋外でどうなるかと思ったが、そんな不安はまったく感じさせなかった。チーム全体でつかんだ勝利で、今季の有終の美を飾ることができた。

まずはレギュラーシーズンの2位以上が確定し、大阪でクライマックスシリーズが開かれるのは決定しているが、後は優勝できるかどうか。そこはマリーンズの結果にかかっていて、25日に大敗した結果、優勝には残り3試合で2勝1分以上が条件となった。数字の上ではバファローズ有利だが、勝負事は何が起こるかわからず、マリーンズが最後に逆転する可能性がないわけでもない。本当に、最後までわからなくなった。

それにしても、今季は予想以上の戦いを見せてくれた。序盤は相変わらずもたついていたが、交流戦を機に大きく飛び出した。新たな戦力も台頭した。ファンとしてはそれだけでも喜ばしいのだが、せっかくここまで来たならば優勝を・・・願いたい。

もうしばらく、この緊張感を楽しむとするか・・・。

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第4回中国四十九薬師めぐり~院庄のコンテナホテルに宿泊

2021年10月24日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師の第4番・福王寺は蒜山にある。蒜山高原、湯原温泉・・岡山県北の真庭市にある人気スポットである。なかなか訪ねる機会もないことから、札所めぐりと合わせてそうしたところも回ってみたい。

早朝に出れば広島から中国自動車道を通って日帰りでも行けるところだが、せっかくなので宿泊したい。ただ、蒜山、湯原・・2食つきなのはいいがやはりお値段はそれなりにかかる。ならば中国道の沿線でどこか・・・ということで探すうち、津山の隣、院庄インターの近くに「ホテルR9ザ・ヤード」というのを見つけた。この8月に開業したばかりの「コンテナホテル」である。価格は普通のビジネスホテル並みということで、面白そうなので泊まってみることにする。

10月16日、院庄に前泊ということにして、福王寺などのスポットは17日に訪ねることにする。16日~17日にかけて雨の予報なのが気になるが・・。

16日、午前中からなんやかんやで所用があり、14時半に自宅を出発。院庄までは軽自動車で3時間といったところ。中国道に入ったところで雨粒が落ちてきた。休憩で立ち寄った県北の七塚原サービスエリアに着いた時は結構な雨になっていた。これなら翌週以降にすればよかったかなと思うが、予定も入っているのでこの週末でのお出かけとなった。

中国道はリニューアル工事のため数ヶ所で車線規制、対面通行となるが、特に渋滞することもなく順調に走る。

この時季となると急に暗くなるようで、院庄インターに着いた18時前にはこの闇。インターから2分ほどで「ホテルR9ザ・ヤード」に着く。

このコンテナホテル(またはトレーラーホテル)、東日本大震災の経験を踏まえて開発されたもので、当初は復興事業に従事する人の宿泊施設として活用された。以後、災害時のレスキューホテルや、東京五輪で不足が懸念される宿泊施設としての利用を見据えて、「R9」シリーズは関東を中心に店舗を広げてきた。コロナ禍の中では、クルーズ船内での感染対策としての隔離宿泊や、医療従事者の休憩施設としても出動した実績があるという。私も、東日本大震災で大きな被害を受けた女川に新たにできたコンテナホテルに宿泊したことがあるが、設備も普通のビジネスホテルと変わらないし、1室が独立しているので隣の物音などもほとんど気にならず、意外によかった印象がある。

院庄の「R9」は中国地方で初めて開業したコンテナホテルで、観光・ビジネスの拠点として、また西日本へのレスキューホテルとしての出動を見据えてという。

フロントもコンテナ型(移動できるかどうかはわからない)の独立した建物で、まずはここでチェックイン。タオル、バスタオル、歯ブラシが入ったバッグを渡され、その他ガウン、髭剃り、お茶・コーヒーなどは必要ならばフロントで取っていく。またサービスで軽食がついていて、冷凍パスタ、冷凍チャーハン、冷凍おにぎりのいずれか1個を選ぶことができる。

そして宿泊棟へ。仮設の通路の両側にコンテナがずらりと並ぶ。コインランドリー、自動販売機も別棟で建っている。

中に入る。コンテナなのでおのずとコンパクトなサイズになるが、その中にダブルベッド、ユニットバスがあり、奥にはデスク、大型テレビ、そして冷蔵庫、電子レンジがある。そこまで窮屈には感じない。各部屋に電子レンジがあるのがポイントで、これならサービスの冷凍食品も問題なくいただけるし、コンビニで買ってきたものを部屋で温めることもできる。また、Wi-Fiも完備されているのでパソコンでブログ記事の書き込みもできる。おまけに、椅子がマッサージチェアだ。後で試してみたがなかなか気持ちよかった。

夕食だが、国道沿いにいろいろ店はあるものの雨も降っているし、ホテルのすぐ隣がスーパーのマルナカ(瀬戸内エリアを中心に展開)ということで、いろいろ買い出しとしよう。

さまざま仕入れた中でのメインは、香川県産のオリーブハマチ。オリーブの葉の粉末を餌に加えることで変色の少ないきれいな肉質に改善するという。ちょうど秋から冬にかけてが旬という。オリーブハマチのような「フルーツ魚」は四国各県にあり、徳島のすだちブリ、高知のゆずブリ、愛媛のみかん鯛といったところ。広島にもレモンを使ったブリやサーモンの養殖が行われているそうだが。

後は鹿児島の地鶏のタタキ、カツオのタタキといったところ。本当は岡山、美作の郷土料理やB級グルメが入ればベストなのだが。

せめてということで見つけたのは、ホルモンラーメン。締めはこれをレンジで温めて。

後は部屋でゆっくりする。国道沿いを通るクルマの音はするが、静かに過ごすことができた。今回変わったスタイルのホテルだったが、これもまたありである。

さて翌朝、午前中は雨の予報である。まずはサービスの冷凍チャーハンで朝食として、コース取りを考える。現在、中国道で東よりの院庄まで来ているが、まずは湯原温泉に向かい、無料の露天風呂「砂湯」に入ってから蒜山に向かう。福王寺に参詣後、せっかくなので高原の雰囲気を楽しみ、その後で蒜山インターから米子道~中国道で戻るルートとする。

ただその前にこの「院庄」という地名、歴史を感じさせるものがある。どこか見物スポットはないか、せっかくなので立ち寄ってから向かうことにしよう・・・。

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野球観戦の前に福岡市博物館へ

2021年10月23日 | 旅行記H・九州

10月10日、ホークス対バファローズの一戦を観るために福岡を訪ねた時のこと。試合開始が14時ということで、午前中にどこかに行けないかとあれこれ考えていた。福岡・博多を目的地とするのも久しぶりである。今回日帰りなので屋台などで一献・・とはいかないが(その分、ドームや帰りの新幹線で飲んだのだが)。

この日は広島7時35分発の「こだま833号」で出発。のんびり各駅に停まっていく。新下関では通過待ちのためしばらく停車する。

9時10分、博多に到着。この列車は引き続き博多南行きとして運転される。1駅乗ってもいいかなと思ったが、そのまま改札を出る。

さてどこに行こうかと思案した中で思いついたのが、福岡市博物館。博物館があるのは百道浜ということでペイペイドームからも近い。まずは博多駅前からバスに乗る。博物館へは地下鉄の西新から徒歩でも行けるが、せっかくなので外の景色も見たい。ちょうど、ペイペイドームも経由する系統である。まだ朝9時台にもかかわらずホークスのグッズを身に着けた人も見かける。

途中、都市高速から博多港の眺めも楽しみつつ、ペイペイドーム前に停車。ここで大半の客が下車。私はこの先の博物館北口で下車する。

博物館に到着。かなり昔の旅行で一度来たと思う。ただその当時からは展示コーナーも大きくリニューアルしているそうだ。

まず展示室の入口に流れるムービーでは、福岡を中心に日本地図がぐるりと回転する。そて南北が逆転する。以前に富山で同じような地図を見たことがあるのだが、こうやって南北を逆転させると、日本海を隔てた朝鮮半島、中国大陸、沿海州というのがより近くに感じられる。また南の台湾、フィリピンも含めると、福岡がアジア交流の窓口としての役割を果たしてきた歴史もうかがえる。

その歴史の初めに登場するのが金印である。志賀島で発見された「漢委奴国王」の実物が常設展示されていて、博物館のシンボルといってもいい。金印、私も昔持っていたなあ・・レプリカだが。というのは、小学生の時、学研の「日本の歴史」の漫画シリーズを集めていて、全巻の応募券を送ると金印のレプリカがもらえるというのがあった。金属でできて金メッキが施されていたが、重さもずしりとして、それも含めて再現したものと思う。捨てずにとっておけばよかったな。

それ以前から大陸とのつながりがあり、稲作もいち早く伝わり、板付遺跡のような環濠集落も築かれた。そして個々に発展していた村々が統合され「国」が形成され、その中の一つが金印をもらった奴国であった。

時代は大和政権となり、大宰府、鴻臚館に移る。海外からの使者をもてなし、また遣唐使が出国、帰国する時の宿泊所だったのが鴻臚館である。遣唐使が廃止された後は交易の拠点となったが、やがてその役割は博多に移る。鴻臚館跡には後に福岡城が建ち、さらには平和台球場も建設された。その球場の改修時に行った発掘調査で大規模な建物跡が見つかったことで当時話題にもなった。

博多が交易都市として栄えていたところに起こったのが元寇である。ちょうど博物館のある辺りでも激戦が繰り広げられた。その様子を描いた「蒙古襲来絵詞」があるが、模写がケースで展示されるほかに、その全巻を大型ディスプレイで見ることができる。

室町時代になると博多は本格的な国際貿易の拠点となったが、戦国の争いの中で大きな被害を受けた。それを再興したのが豊臣秀吉だが、それは朝鮮出兵の兵站とするためだったというニュアンスで紹介されている。

関ヶ原の戦いの後、昔からの交易都市だった博多に加えて、黒田官兵衛、黒田長政が新たに城を築いた福岡という「双子都市」となった。その名残は今にも続いている。

時代は江戸から明治へと続くのだが、ここまで展示を見た中で思ったより時間が経っていて、少しペースを速める。

一気に時代は戦後となる。福岡中心部の商店街、街頭テレビに流れるのは皇太子ご夫妻(現・上皇ご夫妻)の結婚パレード、そして西鉄ライオンズの活躍である。ライオンズのユニフォームのレプリカも並ぶ。24は稲尾、3は大下、6は中西、5は仰木・・・これも福岡の歴史である。

また、祇園山笠をはじめとした伝統行事や町人文化についても触れられている。

展示室の最後には「博多手一本」のコーナーがある。福岡・博多では宴席の締めでよくやられるものだそうで、ディスプレイに登場するのは昨年亡くなった小松政夫さん。お見送りの言葉があり、そして最後に「博多手一本」。博多出身で「山のぼせ」(山笠に夢中になる人)ということでの登場である。

この後別館で「日本号」の展示を見る。「日本号」とは槍の名前だが、黒田家の家臣・母里太兵衛友信が福島正則から「呑み取った」もので、「黒田節」の由来ともなった。刃の中央に俱梨伽羅龍の浮彫があり、また一部に傷がついていて実戦でも使われたのではと推測する解説文も添えられている。

駆け足で展示について紹介した文章になったが、地域の長い歴史を感じられたし、それこそじっくり見学したなら丸一日かかるといっていいくらいのボリュームがある。それでいて常設展示の入館料は200円とお得である。帰りには公式ガイドブックも買い求め、足りないところはその解説を読んで福岡・博多の歴史に親しむこととする。

この後は徒歩でペイペイドームに向かった・・・。

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第16番「般舟寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(横川から新天地へ)

2021年10月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり。10月のちょこっと時間が空いた9日、少しでも進めようと訪ねたのは第16番の般舟寺である。

JRの横川駅に現れる。私が現在住む広島市西区にあってさまざまな店舗が集まり賑わうスポットだが、前回の広島在住時も含めて、駅周辺はほとんど訪ねたことがない(鉄道やクルマで通過するばかり)。緊急事態宣言も解除になったことだし、駅周辺のディープな店などもこれからのぞいてみたいところだ。

その横川駅前で出迎えるのが、アンジュヴィオレ広島。広島を拠点とした女子サッカーチームだが、あれ、先日WEリーグというのが発足して、サンフレッチェ広島レジーナというチームができたのではなかったか。サッカーに詳しくないのでごっちゃになっているが、簡単にいうとWEリーグは新たに発足したプロリーグだが、一方で既存のなでしこリーグもアマチュアのトップリーグとして存続していて、アンジュヴィオレ広島もなでしこリーグに所属している。西区の横川、三篠地区の有志が立ち上げたチームとして活動している。女子サッカーのチームが2つあるというのもすごい。

JRの高架沿いの商店街を抜け、ぶらぶら歩くうちに本川(旧太田川)に出る。本川の向こうには、独特の構造を持つ基町高層アパート群の一つである県営白島長寿園アパートが広がる。

そのまま本川沿いに歩いて、周囲にマンションやビルが並ぶ中で存在感を放つ建物に出る。ここが般舟寺である。外観を見る限りはまだ新しく、古くからの歴史を感じることはない。広島新四国の札所でなければただの現代寺院ということで寺の前は通過してもお参りすることはなかっただろう。

その般舟寺、元々は戦国時代、毛利氏の家来だった石井蔵人の菩提寺として当時毛利氏の本拠地だった安芸吉田に開かれた。後に毛利輝元が広島を開発した時、現在の広島新天地に新たに建立された。しかし、ここも原爆によりことごとく消失して・・・。

現在地に建てられたのは1969年のこと。その後、本堂や庫裡の改修を経て現在に至る。本堂の前に六地蔵が並ぶが、元々の地で被爆したものだという。こうしたさりげないところにも被爆の痕が残されている。

本堂の扉は閉まっていたが、手をかけると開いたのでそのまま入る。椅子も並べられていて、普段の法要で使われていることがうかがえる。また、広島新四国で来た人向けに書き置き朱印が入った箱の場所も示されている。

本尊は阿弥陀如来で、祭壇の前には仏説阿弥陀経の読み下し文が書かれた用紙が置かれている。要は、阿弥陀仏というのはこれだけのご威徳があると称える経典だ。新四国八十八ヶ所めぐりなのだから弘法大師が・・と思うが、本堂の中にはそうした要素はなく、浄土宗、浄土教の世界が広がる。両脇の壁に並ぶのは阿弥陀如来に従う二十五菩薩である。般若心経の後で、この仏説阿弥陀経の読み下し文も読んで納経とする。

まあ、どこかで八十八ヶ所とつながっているのだなと納得し、広島新四国の朱印用紙をいただく。

般舟寺を後にして、本川を渡ってアストラムラインの白島に出る。昨年広島に移ってから初めてのアストラムラインである。これで終点の本通に向かう。

本通のアーケード街を進むと、10月4日に就任した岸田首相を祝う横断幕が掲げられている。広島県出身の首相は4人目で、山口(8人)、東京(5人)に次ぐ3番目の多さとなった。戦後に限れば3人目で、群馬(4人)に次ぐ2位である。もっとも、就任後すぐに任期満了解散、総選挙ということでまだ何もできていないが・・。

やって来たのは新天地。昼間は穏やかな風情だが、夜になると賑わいを見せるところである。

公園の一角にお稲荷さんが祀られている。繁華街の商売繁盛祈願スポットだが、この場所こそもともと般舟寺が建っていたところという。般舟寺は原爆で消失し、戦後に本川沿いに再興されたが、かつて寺で祀っていた紅桃花稲荷大明神を元の地に残したという。広島にはこうした歴史もあるものだ。

これで札所めぐりは終了。久しぶりに中心部の繁華街に来たし、かつての般舟寺に乾杯としようか。

「3・6・5酒場」という店に入る。東京の格安チェーン酒場だが、広島八丁堀にも出店している。生ビールに始まってタン、ハツ、ガツの盛り合わせやら鉄板餃子などで楽しむ。ホッピーもいただいた。気軽に入れる店の感じで、また来てもいいかな。

広島新四国八十八ヶ所めぐりはこれから安佐南区、安佐北区という北部エリアに入る。まだまだ広島のスポットを味わうところである・・・。

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マジック5に対して「逆マジック」3・・・

2021年10月21日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
ともかく、25日の最終戦には勝とう。
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第16番「四天王寺」~西国四十九薬師めぐり・44(聖徳太子、1400年の信仰の歴史)

2021年10月20日 | 西国四十九薬師

9月30日付で緊急事態宣言、まん延防止等重点措置が全都道府県で解除となった。その最初の週末である10月3日、日帰りにて京セラドーム大阪でのバファローズ対ホークスの試合を観戦した。ちょうどバファローズがマリーンズとの争いの中で再び首位に立ち、イーグルスとホークスの3位争いもまだ競っていた時期だったが、この試合は3対0でバファローズの勝利(観戦記はすでに書いている)。

その1週間後に福岡で観戦した同カードはホークスが3対1で勝ったのだが、その時点ですでにホークスの優勝はおろかクライマックスシリーズの進出も厳しいものになっていた(こちらも観戦記はすでに書いている)。

そしてペナントレースも大詰め。10月19日終了時点でマリーンズにマジック6が点灯しているものの、仮にバファローズが残り3戦全勝したとして、残り6試合を全勝(または5勝1分)しなければ優勝できないという展開。逆にマリーンズが連敗でもしようものならバファローズにマジック点灯、一気に優勝・・・ということになる。最後まで期待させてくれる。あるネットの記事で、残り試合の両チームの勝敗の組み合わせが280通りほどあるそうで、その組み合わせでどちらが優勝するかというのを色分けしていたが、ざっと見て6対4くらいの割合でバファローズが優勝とあり・・(20日のイーグルス戦が敗戦となり、また少し展開が動いたが)。

さて、話を10月3日まで戻す。この日の野球観戦前に札所めぐりである。今回は西国四十九薬師めぐりでここまで残っていた大阪の四天王寺が目的地である。これまでに何度となく訪ねている寺院だが、西国四十九薬師としてはようやくお目見えである。

当初は前日に広島から夜行バスに乗ることも考えたが、ちょっとしんどいかなということで当日の早朝に出ることにした。広島6時14分発の「ひかり500号」で、指定席利用の「新幹線直前割きっぷ」が使える。16両編成の「ひかり」なので指定席の座席数も多く、好きなところを選ぶことができる。順調に各駅に停車し、8時46分新大阪着。

今回の札所めぐりでは、同じ大阪ということで西国三十三所の総持寺とセットと考えていた。ただ場所は同じ大阪でも天王寺と茨木ということで離れている。もし夜行バスで早朝に大阪に着いたならば京セラドームに向かう前に余裕で回ることができるが、朝9時新大阪スタートとなると慌ただしいかなと思う。そこで、今回は四天王寺を優先することにして、総持寺については改めて考えることにする。

新大阪からは大阪メトロ御堂筋線に乗り換えて天王寺着。ここまで来れば実家も近いのだが・・。

御堂筋線の地下ホームからJR天王寺駅のコンコースを歩いていると、巨大広告画面に「聖徳太子 日出づる処の天子」の文字と、聖徳太子らしき人物の肖像画が表示された。天王寺公園にある大阪市立美術館で開催中の特別展で、「千四百年御聖忌記念」とある。2022年は聖徳太子が亡くなってちょうど1400年ということで、聖徳太子ゆかりの寺院を中心にそれに向けた様々な法要、イベントが開かれている。四天王寺はその最たるものと言える。この特別展は10月24日までとあるので、ここはぜひ鑑賞したいところだ。ということで、総持寺には悪いのだがこの日は四天王寺一択とする。寺の参詣後、大阪市立美術館にて特別展を見て、その後で大正に出てドームに向かうコースにする。

四天王寺近くの仏具店で数珠を買い求める。実は、これまで数々の札所めぐりで使ってきた数珠(略式)が、房のところが切れてボロボロになってしまっていた。四天王寺に来たということで思い切って買い直す。

石鳥居をくぐり、西大門から境内に入る。西大門の柱の四隅には転法輪があるのだが、コロナ対策のために回すことはできない。

両脇の親鸞聖人、弘法大師に手を合わせて、中心伽藍に向かう。

数年前、これも千四百年御聖忌記念事業の一環として耐震改修工事が行われ、今また新しい姿を見せている。秋晴れの下、五重塔や講堂、金堂の朱色がよく映えている。聖徳太子の本地仏である救世観音などに手を合わせる。

その千四百年の御聖忌、100年ごとに執り行われる事業だが、その中のメインとして各宗派回り持ちで「慶讃法要」が行われる。10月18日から来年4月22日までだが、スタート、ゴール、そして命日の2月22日が四天王寺となっている。他にも三井寺、西本願寺、浅草寺、延暦寺、鞍馬寺、東大寺、金剛峯寺、知恩院、法隆寺、薬師寺、金峯山寺、醍醐寺・・・と、主に天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗系の著名な寺院で順番に執り行われる。こう見ると、現在多くの檀家・信徒を抱える宗派の中では、曹洞宗や日蓮宗の系統はないものの、聖徳太子と日本の仏教の歴史のつながりの深さ、広さがうかがえる。

そして、石舞台、六時堂に出る。四天王寺は1400年以上の歴史を持つといっても、これまで幾多の戦乱、災害、果ては空襲にも遭ってほとんどの建物が戦後の再建である。その中で江戸時代の姿を残すのが石舞台と六時堂である。この六時堂に薬師如来が祀られていて、西国四十九薬師の札所となっている。

これまで六時堂に来た時は、祈祷、供養の人しかお堂の中には入れないものの、一般のお参りは本堂のすぐ外で手を合わせていた。ただ現在はコロナ対策ということで祈祷、供養の人もお堂の中に入れず、外での受付、読経を聞く方式になっているようだ。そのため一般のお参りでは石段の上に上がることができず、その下でのお勤めとなる。

納経所に向かう。関西、大阪のさまざまな霊場めぐりの札所にもなっている。四天王寺の幅の広さをうかがわせる。

ここでサイコロ。もう、西国四十九薬師のシリーズ選択肢も絞られていて、

1、2、3・・阪神(久安寺、昆陽寺プラス西国22番総持寺)

4、5、6・・京都(法界寺、醍醐寺プラス西国10番三室戸寺、11番醍醐寺)

結局総持寺は阪神シリーズに入れた。そしてサイコロは・・・「5」。京都洛南シリーズである。どのタイミングで行こうかな。

これで四天王寺を後にして、聖徳太子の特別展が行われている大阪市立美術館に向かう。そういえば、大阪出身、在住歴長かったとはいえ、この美術館に来たのはほんの数回でしかなかった。

特別展のテーマは、千四百年御聖忌に合わせて、没後の聖徳太子信仰の広がりを紹介するものである。最澄や親鸞をはじめとした各宗派の開祖たちがなぜ聖徳太子を尊んだのか、また1400年後の人々が聖徳太子ゆかりの寺院を訪ねるのはなぜか・・ということも解くとしている。最近の学校の歴史の時間では聖徳太子についてもあまり取り上げることがないともうかがっているが・・。

「十七条憲法」や「隋書」もあるが、さまざまな展示がある中で目立つのは「聖徳太子絵伝」である。「聖徳太子絵伝」は古くは奈良時代には描かれていたようだが、現存する中で最も古いのは平安時代のものという。聖徳太子の事績について年代順に描かれていて(一部、順番が入れ替わる場面もあるが)、さまざまな伝説はここから世に広まっていったと言われる。

展示品の一つ一つの内容が濃く、じっくり鑑賞するならそれこそ1日がかりである。結局駆け足で回ることになったが、それでも1時間があっという間に過ぎていた。

最後のコーナーでは、聖徳太子が肖像として使われた明治以降の紙幣(一定年齢以上の方にとっては、これが聖徳太子のイメージだろう)も並ぶ。また、特別展のタイトルにある「日出づる処の天子」といえば、1980年代に発表された漫画「日出処の天子」があり、作者の山岸涼子さんの原画も展示されていた。この作品、学生の時に姉が持っていたのを読んだことがあるが、聖徳太子(作中では厩戸王子)と蘇我蝦夷(作中では蘇我毛人)を中心として描かれている。厩戸王子を天才、超能力者、さらには同性愛者?というキャラクターにしていて、少女漫画の世界も複雑やのう・・という感想を持ったものだ。

さてこれで大正に向かうのだが、野球観戦前の景気づけ、久しぶりに天王寺~阿部野橋に来たということで、昼食代わりにあるところにちょっと立ち寄るとするか。

その場所は、ヴィアあべのウォークにある立ち飲みの「赤垣屋 あべの店」。大阪時代には何度も通った店で、昨年のコロナ禍で営業休止や時短営業もある中で足が遠のき、そのうち私が広島に移った。それ以来初めての訪問である。

狭いカウンターやテーブル席をアクリル板で区切っているが、それでも結構な入りである。期間限定で薦められたキリンの「秋味」をベースに、小鉢料理をあれこれ楽しんだ。

そしてドームの熱戦へ・・・。

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第3回中国四十九薬師めぐり~新見の秘境駅を訪ねる

2021年10月19日 | 中国四十九薬師

中国勝山の町並みを見た後、姫新線に沿って新見に向かう。線路もそうだが、並走する県道も細々としたもので、同じ県内でも美作から備中へと旧国境を越えるところである。中国自動車道も寄り添ってきた。大佐サービスエリアから新見インターにかけての区間である。

急に周囲が開けて、新見駅に到着した。いったん駅前の駐車場にクルマを停めて小休止。

新見を含む備中国は衆議院議員の選挙区でいえば岡山5区、加藤官房長官の地元である。この日は9月26日、自民党総裁選挙の前だったので当時の肩書で書くが、菅首相、加藤官房長官の2人が並ぶポスターが駅周辺のあちこちにも掲示されている。この日の時点では自民党総裁選挙の行方はまだ混沌としていたが、結果として岸田総裁となった。新内閣の顔ぶれについてはいろいろ言われることもあるだろうが、私個人としては、加藤官房長官、そして西村経済再生大臣の二人が閣外に去ったことは大いに評価したいと思う。

この記事を書いている10月19日は総選挙の公示日。与野党ともにモノ申したいところはいろいろあるし、特に広島県は政治とカネのことで全国の笑いものになっているところ。とりあえず投票には行きましょうや。

・・・話がそれた。

新見から中国自動車道に乗ればいいのだが、せっかくクルマで来たこともあり、ふと、あるところに行ってみようと思った。それが、新見から1駅米子寄りの布原駅。

布原駅はもともと信号場として設置されたが、後に仮乗降場となり、国鉄分割民営化とともに正式に駅に格上げされた。駅としては伯備線に属するが、停車するのは芸備線の列車のみである。乗客がほとんどいないために芸備線の列車で対応可能とされ、伯備線の列車は通過扱い(行き違いのために停車することはあるが、ドアは開かない)となっている。

そんな布原だが、これまで通過、停車したことはあっても乗降したことはない。そこで、この機会を利用して、乗降しないとしても駅に行ってみようと思う。

布原駅にカーナビをセットする。県道の細道に誘導され、それに従って進むが、途中で案内が終わる。カーナビの地図が途絶えているためだ。そこは実際の道路と、方角の見当をつけてたどっていく。ちょうど林の向こうに駅の姿を見下ろすことができ、坂道を下っていく。

2~3軒の民家がある。そのうちの1軒では畑に牛の姿が見える。この牛たち、日々伯備線や芸備線の列車を眺めているのだろうが、列車に乗っていて、ここに牛が飼われているとは気づかなかった。

細い橋を渡り、布原駅のホームにクルマを横付けする。もちろん駐車場のスペースがあるわけではなく、路肩に寄せるだけだ。初めて、この駅のホームに足を踏み入れる。いわゆる「秘境駅」の中でも全国ベスト30位以内に入る駅である。

単線の伯備線、芸備線にとってここに信号場があることはそれなりのメリットはあるだろう。ただ、駅としては・・・。利用客として見込まれるのは周囲の数軒の家の人たちと思うが、実際利用している人はいるのだろうか。公表されている1日平均の乗車人員は年度によって0~1人とあるが、その1人とは地元の人ではなく、物珍しさで乗降した「その筋の人」かと思われる。

次の備中神代にも行ってみる。坂道を上って県道の細道に出て、そのまま向かうと到着した。先ほどの布原に比べると人家もそこそこあり、一般の方からすれば「何もない駅」なのだろうが、布原のような「秘境駅」ではない。

備中神代というと、宮脇俊三の「最長片道切符の旅」で、駅前にホルモン焼き屋の看板を見つけたという一節が思い出される。この日、朝から何も食べておらず乗り換えの時間で食事を・・・という状況で、備中神代で見つけたのがホルモン焼きという。しかし、店の様子が「石灰岩でも掘ったあとで焼酎をひっかける店」ということで入ることはなかったそうで・・。まあ、今となってはそれがどの家なのかはわからないが。

何の気なしに時刻表を見ると、あと数分で伯備線の新見行きの列車が来るようだ。列車の姿だけでも見るとするか。地元の人らしい女性が自転車で乗りつけて、やって来る列車を待つ。

そしてやって来た15時46分発の新見行きは・・・キハ120の単行。姫新線、芸備線を走るキハ120が、1日1往復、電化区間の米子まで出稼ぎする。その折り返し便だ。青春18きっぷの時季でもなく、1両の気動車でもガラガラの状態。ホームにて列車を見送る。

そしてその6分後、今度は芸備線の備後落合発新見行きがやって来る。備後落合~東城間は1日3往復という過疎区間だが、その3往復のうちの1便である。もう少し時間が後だったら、布原で停車するこの列車に出会えたわけだが、それは仕方ない。別に狙っていたわけでもないし・・。

跨線橋に立って、西からやって来る芸備線の列車を見る。こちらも青春18きっぷの時季ではないためか、ロングシートにも十分な余裕があるようだった。列車から数人降りてきて、このうち2人は駅前に停めていたクルマに乗り込んだ。わざと備中神代にクルマを停め、芸備線の往復を楽しんだのかな。

ローカル線、秘境駅といえば芸備線のこの先の区間が気になるが、この日はここで終了。東城、新見どちらのインターから乗るのが近いのかなと思案したが、カーナビは新見に戻ることを選択。あとは高速道路に身を任せる。こちらも山陽自動車道と比べればローカル自動車道の風情にあふれるのだが・・。

七塚原サービスエリアに到着。早めの夕食として、サービスエリア併設の松屋で牛めしをいただく・・・。

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第3回中国四十九薬師めぐり~真庭市を行く

2021年10月18日 | 中国四十九薬師

第3回の中国四十九薬師めぐりは目的地の勇山寺(いざやまじ)の参詣を終えて、ここから広島に向けての戻りである。記事としてはここから先がまた長くなりそうだが・・。

勇山寺があるのは真庭市の落合地区。この先、道なりに走って現れたのはショッピングセンターの落合サンプラザである。以前、中国観音霊場めぐりで落合地区にある木山寺を訪ねた時、大阪梅田からの高速バスで着いたのがここである。結局利用しなかったが市内を結ぶコミュニティバスも発着しており、姫新線の美作落合駅よりも地元の人たちにとっては拠点なのかなと感じられたところ。まあ、クルマで来てしまえばバスや鉄道は関係なくなってしまうのだが。

せっかくなので、敬意を表するとして旭川を渡って美作落合駅にも立ち寄る。駅前には木山神社の石灯籠が立つ。距離は離れているが、木山神社・木山寺への玄関口であることを今に伝えているように思う。

この先、姫新線の線路も見ながら真庭市の中心部を走り抜ける。真庭市役所本庁舎、久世エスパスセンターとある中で、外観は古いが格式を感じる建物に出会う。旧遷喬尋常小学校の木造校舎である。そのグラウンドの一角に何やらアートがある。

この遷喬小学校、元々は明治の初めに地元の有志が設立した塾で、山田方谷の門人たちが先生を務めていたが、後に尋常小学校として設立された。やがて生徒の増加に対応するために学校を移転させることになり、1907年に完成したのがこの校舎である。工事費は当時の町予算のおよそ3倍かかったが、それだけに地元の人たちの教育に対する意気込みがうかがえる。

この「遷喬」という言葉が、中国の古典「詩経」の一節から来ており、山田方谷が名付け親とされる。その一節は、ウグイスが春になって山の暗い谷間から飛び立ち、高い木に移り住むという内容で、それが転じて学問に励んで立身出世するという意味が込められているという。

遷喬小学校は1990年に姫新線の線路を挟んだ北側に移り、この建物も小学校としての役目を終えたが、重要文化財に指定され一般に公開されている。「三丁目の夕日」など映画のロケにも使われたことがあり、校舎内でもそのことが紹介されている。

各教室を回る。私が今座ったら脚が折れるのではないかと思うくらい小さな椅子、机。黒板にランドセル、習字の作品など、懐かしさを感じる。私が通っていた小学校は鉄筋コンクリートの建物だが、一部木造校舎が残っていて、3年生か4年生だったか、一時そうした教室で学んだ記憶がある。今思えば懐かしいかもしれないが、当時はボロの教室で・・と思っていたのではないかな。子どもというのは、新しいものが良いと感じるのが素直な気持ちではないかと思う。

2階の中央部はかつて講堂として使われていたところ。子どもが多かった頃は行事などでこの講堂にあふれるほどの賑わいがあったことだろう。ちょっと舞台にも上がってみる。

最後は1階の校長室を訪ねる。

小学校を後にして、国道313号線を西へ、旭川と姫新線の線路に沿って走る。

次に立ち寄るのは中国勝山。駅名に「中国」とつくのも大胆だが、1925年の開業時、すでに福井県(現えちぜん鉄道)に勝山という駅があり、これまでなら旧国名の「美作」をつけるところ、町議会議員が「将来発展するのは美作ではなく中国地方の勝山である」と発言したことからこの名がついた。

狙っていたわけではないが、ちょうど津山から新見に向かう列車がやって来た。13時42分発の新見行きである。津山から中国勝山止めの列車もあり、ここまでがそれなりの需要がある区間といえる。

その中国勝山だが、出雲街道の宿場町として栄えたところで現在もその名残を残す。また、旭川に面していることで高瀬舟の発着場として水運でも栄えた。

今は軒先にかかるのれんが町のシンボルといえる。それぞれの商売をイメージさせるものもある。

かといえば、やたら川柳が並ぶ店(店なのか?)もある。まあ、個性の出し方はそれぞれだ。

通りをぶらぶら歩いた先にあるのが、美作の銘酒「御前酒」の蔵元である。先ほど立ち寄った落合サンプラザでも300ml瓶を1本買い求めたのだが、蔵元に来たならもう1本でも2本でも買わないといけんでしょう。

それはそうと、岡山と福井の「勝山」、町議会議員が発言した「将来発展するのは」という点でいうと、どちらがそれを成し得たと言えるか。福井の勝山には恐竜の博物館や勝山城、勝山大仏といったハコモノがあるし、こちら岡山の勝山にはこうした風情がある。何をもって発展というかは見方によってどうとでも分かれることで、それぞれの歴史、地理の特性を活かした地域活性化に頑張ってほしいものである。

勝山の保存地区を歩き、さらに西にクルマを走らせる。この先姫新線に沿ってとりあえず新見に向かう・・・。

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第3回中国四十九薬師めぐり~第3番「勇山寺」(醍醐の里)

2021年10月17日 | 中国四十九薬師

備中松山城を後に、高梁市から真庭市に入る。目指す勇山寺だが、読みは「いざやまじ」である。

国道313号線を走り、カーナビでそろそろ勇山寺が近づいたところ、左手に道の駅「醍醐の里」というのがある。ちょうど昼時であるし、先に食事をしてからのお参りとする。ちょうど駐車場からも寺らしき建物が見える。

名前に「醍醐」とあるが、これは後醍醐天皇のことである。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして失敗した元弘の変で隠岐に流される際、この地に立ち寄り一本の桜の木を賞賛した。今も「醍醐桜」という名木のスポットとなっている。道の駅からは10キロくらい離れているようだが、今の季節に行っても花はないのでパスする。

とりあえず昼食として選んだのは醤油ラーメンと、卵かけごはん。何か、岡山の県北には卵かけごはんが多いイメージがあるが、美味しくいただいた。

隣接して地元の物販コーナーがあり、クルマで来ているということで新米やパック卵を土産として購入する。

さて、勇山寺である。国道313号線から脇道に入る。ちょうどコミュニティバスの停留所があり、さらに脇道に入る。山裾に広がるなかなか立派な構えである。横の空き地が駐車場のようで、そこにクルマを停めて寺の外壁に沿って山門に向かう。

勇山寺が開かれたのは奈良時代とされる。本尊は薬師如来と不動明王で、薬師如来は行基、不動明王は弘法大師の作と伝えられている。後に、源頼朝の命で梶原景時により再建され、末寺も有していたようだが、戦乱のために荒廃。江戸時代に、津山藩の森氏の保護を受けて現在にいたる。

薬師如来は33年に一度の御開帳の秘仏、不動明王は収蔵庫に祀られているがふらっとお参りして拝めるものでもないようで、本堂前でのお勤めである。

さて朱印ということで納経所を探すが、引き出しのついた棚が置かれていた。

これはひょっとしたら・・ということで開けてみると、印刷された台紙が出てきた。そして朱印は自分で押すというもの。これまで納経所が不在で書置き対応だったところには出会ったが、朱印を自分で押すのは初めてである。中国四十九薬師めぐり、まだまだ始まったばかりだが、寺の方が留守で後日朱印を送っていただいたり、こうして自分で押したりと、この先ローカル霊場にはいろいろな体験が待っていそうだ。

これで今回の目的は終了。この先、同じ真庭市の蒜山にある次の第4番・福王寺に行ってもいいが、この日は真庭市の南側、つまりは姫新線に沿って新見方面に向かうことにした・・・。

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第3回中国四十九薬師めぐり~備中松山城へ

2021年10月16日 | 中国四十九薬師

さて今回は中国四十九薬師めぐりである。これまで1回で1ヶ所というペースで来ているのだが、今回もそんな感じになる。向かうのは岡山県北の真庭市にある第3番の勇山寺。当初、宿泊込みでその次の蒜山高原にある第4番の福王寺も訪ねるつもりだったが、諸事情で宿泊キャンセル。別途、日帰りで勇山寺だけ訪ねることにした。

勇山寺の最寄り駅は姫新線の美作落合で、寺の前には真庭市のコミュニティバスの停留所もある。そこで姫新線とコミュニティバスの組み合わせをいろいろ模索したが、必ずどこかで数時間待ちが出てしまう。今回はクルマで出かけることにする。9月26日のこと。

広島から真庭市へは中国自動車道で行くのが近道だが、往路は下道を走ろうと、まずは国道2号線を東へひた走る。途中、前回7月に第2番で訪ねた備中高梁を経由するつもりである。その時、備中高梁の城下町は歩いたが、暑さの山登りを嫌って備中松山城をパスした。城には以前の広島在住時に訪ねたことがあるが、久しぶりだし改めてここは城だけでも見て、その後北上して真庭市へというルートを取ることにした。

早朝に出発して、国道2号線バイパス沿いにある道の駅「みはら神明の里」で休憩。場所は糸崎駅を見下ろす位置にあたり、ちょっとした展望スポットになっている。ここに立ち寄るのは初めてだが、山陽線とは違ったしまなみの景色を見ることができるのがよい。

先日、尾道までの区間が開通したことで三原~尾道~福山までがバイパス経由で多少時間短縮となった。

この先は福山の中心部を抜けて・・というところで、カーナビは芦田川を渡ったところで左折を指示する。しばらく河川敷を走り、福塩線の線路とも並走した後に国道313号線に入り、神辺に到着。この先、井原鉄道の高架に近いところを走り、岡山県に入る。

備中高梁に行くとなると倉敷の手前まで行って高梁川沿いに走るのかと思ったが、意外にも井原市の山深いところを行く。このルートをたどるのは初めてだ。

道は成羽川に沿うようになり、高梁川に出る。自宅を出てから休憩込みで3時間半、なかなかのドライブである。前方にそびえる備中松山城を目指す。

急坂を上る。駐車場は途中のふいご峠にあるのだが、土日祝日はその手前の城見橋公園に停める。売店や休憩所があり、ここからシャトルバス(往復400円)に乗り換えとなる。ふいご峠の駐車場は台数が少なく、またそこまでの道も狭く離合が難しそうで、観光客が増える土日祝日としての対応である。

シャトルバスで5分ほどでふいご峠に到着。天守閣までは約700メートル、徒歩20分とある。まずは城主からの出迎え?の看板を受けて、石段を上る。

途中、備中高梁の町並みを見下ろすスポットに出る。前回訪ねた薬師院もその中に含まれる。もし夏に鉄道で来た時、ここまで歩いて来たらどんだけ汗だくになったことやら・・と思うと、クルマで正解。でも、どうせシャトルバスを出すのなら駅、あるいは城下町を発着場とする便を出してもよさそうなものだと思う。

備中松山城だが、初めに築かれたのは鎌倉時代のこと。その後領主が入れ替わる中で、戦国時代の三村氏の頃には山上の一大要塞となった。その三村氏も織田氏と毛利氏の間で着いたり離れたりと生き残りを図るが、最後は毛利方の手に落ちた。

関ヶ原の戦いで毛利氏の領地が取り上げられた後もさまざまに城主が入れ替わったが、天守閣など現在の形に近い姿に築いたのは水谷氏の時だったが、これも跡継ぎがなくてお取りつぶしなった。その時、城の受け取りを担当したのが赤穂浅野家の大石内蔵助である。

その後も城主が代わる中、板倉氏の時に明治を迎えるのだが、備中松山城については「◯◯氏の城」というイメージが湧きにくい。城を含めた高梁市も、幕末の時の執政で陽明学者の山田方谷を前面に押し出している。方谷は備中松山城の無血開城を決断した人物でもある。

大手門跡に出る。この備中松山城は2016年の大河ドラマ「真田丸」のオープニングにも使われたとある。もちろん、備中松山城と真田幸村の接点はないのだが、城の佇まいが制作スタッフの目に止まり、真田氏のイメージとも重なったためという。オープニング映像は、城の姿にCGを加えた作品となっていて、後で動画を見て種明かしを楽しんだ。

そして天守閣へ。数少ない江戸時代からの現存天守閣である。

備中松山城で人気なのは、猫の城主。さんじゅーろーという名前で、3年前の西日本豪雨の後、城に居着くようになったという。名前の由来は、備中松山藩出身で新撰組に属していた谷三十郎から。

そのさんじゅーろー、地面に気持ちよさそうに体を横たえている。コロナ対策で触れることはできないのだが、のどかな光景である。

天守の中では備中松山藩の歴史が紹介されている。

しばらく見物して外に出ると、いつの間にかさんじゅーろーが天守閣のすぐ下の石段に場所を移してまどろんでいる。わざわざここまで来たのかな。

豪雨で落ち込んだ備中松山城の観光客もさんじゅーろーのおかげで回復し、グッズもいろいろ出るまでになったが、今度はコロナ禍による落ち込みである。早い回復を願うばかりだ。

ここで折り返しとして、ふいご峠の駐車場まで戻る。9月末だがまだ暑い中、ここまで歩いて上って来たグループも見かける。係の人が一人一人に「上り?下り?」と声をかける。バスを待つ間、どこから来たか尋ねられる。広島からというと「毛利方ですね」との反応。

シャトルバスで城見橋駐車場まで戻り、再びクルマに乗る。今回、城下町はいいか。

再び、国道313号線を走る。この国道、福山から井原、高梁、真庭を通り、鳥取県の北栄町まで続いている。ある意味、陰陽連絡道だ。この先、目的地である真庭市に入る・・・。

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