まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

西国四十九薬師霊場めぐり始めます

2019年05月30日 | 西国四十九薬師

以前の記事で、元号が令和になったのを機会に、新たな札所めぐりを始めようということに触れた。西国三十三所めぐりの3巡目を地元・葛井寺から本格的に始めたのに続いてのことである。

西国四十九薬師霊場。これまでの観音菩薩、弘法大師、不動明王に続く新たなシリーズである。本尊である薬師如来は東方浄瑠璃世界におわす仏で、病気を治す、命を延ばすというのが代表的なご利益とされている。またそれを発展させて、災難や苦痛から解放するとか、飢えに苦しまないとか、全ての人々が必要なものを手に入れて豊かになるようにするとか、現世の功徳を施すともされている。

私自身健康に不安がないわけではなく現に通院もしているし、悩むことも多々ある。ただ無条件にそこから解放されるものではなく、自分で努力しなければならないのは当然のこと。それはわかっているがなかなか完璧に実践できないのも人間。やはり心の拠り所があればなと思う。

これと合わせて、これまでシリーズで訪ねた関西一円に広がる札所めぐりにも薬師霊場があり、多くの人が巡拝しているのなら私もぜひ行ってみようというものである。エリア的に西国三十三所の札所に近いところもあるので、合わせての探訪となるところも出るだろう。

西国四十九霊場は比較的新しく、結成は平成元年(1989年)。つまりちょうど30年前のことだ。平成の初めにできた札所めぐりを令和の初めに始めるのも何かの縁だろう。

札所は奈良の薬師寺に始まり、奈良、和歌山、大阪、兵庫、京都、滋賀、三重の7つの府県にある49ヶ所をめぐる。最後は延暦寺の根本中堂だ。49という数は四国めぐりには及ばないが西国、新西国、近畿三十六不動よりも多いし、札所めぐりでは初めて三重県にも足を踏み入れる。公共交通機関で訪ねるには難関のところもあり、ゲームに例えるのはいかがかと思うがそのぶん攻略のしがいはありそうだ。

回るにあたってのルールは例によって以下のとおり。

・最初は薬師寺、最後は延暦寺根本中堂で終わる。

・次の行き先は、候補をくじ引きで決めてサイコロの目を振り分け、サイコロの目が出た札所を訪ねることにする。

・利用する交通手段は鉄道、バス、徒歩とする。レンタカー、レンタサイクルは特別に必要と認められる場合のみ利用として、タクシーは原則利用しないこととする(よほどの緊急事態でない限り)。

・朱印は四十九薬師霊場の専用バインダー用のものをいただく(もちろん、札所ではお勤めをする)。

まあ別に公式ルールがあるわけでもなく、回りやすいように回ればよいだけのことだ。

さて、行き先の選択肢をエリアで分けてみた。これがサイコロの出目に対応していく。

・生駒(霊山寺)
・奈良市北(般若寺)
・奈良公園(興福寺、元興寺、新薬師寺)
・橿原(久米寺)
・宇陀(室生寺)
・五條(金剛寺)
・高野山(龍泉院、高室院)
・海南(禅林寺)
・河南町(弘川寺)
・羽曳野(野中寺)
・堺(家原寺)
・天王寺(四天王寺)
・大阪キタ(国分寺)
・池田(久安寺)
・伊丹(昆陽寺)
・西宮(東光寺)
・三田(花山院)
・加古川(鶴林寺)
・たつの(斑鳩寺)
・福崎(神積寺)
・丹波市(達身寺)
・福知山(長安寺、天寧寺)
・但馬(大乗寺、温泉寺)
・舞鶴(多禰寺)
・長浜(総持寺)
・湖東(西明寺)
・三重(石薬師寺、四天王寺)
・多気(神宮寺)
・名張(弥勒寺)
・加茂(浄瑠璃寺)
・伏見(法界寺、醍醐寺)
・東山(雲竜院)
・西京(正法寺、勝持寺)
・亀岡(神蔵寺)
・高雄(神護寺)
・大原(三千院)
・安土(桑實寺)
・湖南(善水寺)
・三井寺(水観寺)

札所は薬師寺を出発して奈良市内を回り、まずは南の和歌山から大阪を経て、時計回りに関西をめぐる。そして京都市内を経て比叡山に至る順路である。誰もが知る寺もあれば、札所めぐりで初めて知った寺(むしろこちらのほうが多い)もあり、そうそうたるラインナップだ。これまでの関西での札所めぐり同様、自宅を中心に放射線状に順不同、サイコロの出た目に沿って回る。薬師如来の真言は「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」。だからサイコロ振って「ころころ」回るとか?

・・とまあ、それはふざけているかもしれないが、ともかく49の札所を訪ねてみよう。新たな発見、心の支えが見つかるといいな・・・。

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BCリーグ観戦記・富山対福井@ボールパーク高岡(こどもの日に熱戦を)

2019年05月28日 | プロ野球(独立リーグほか)

5月5日のこどもの日、11時すぎに西高岡駅に降り立つ。目指すボールパーク高岡へは金沢方面に向かって線路際の道を歩く。10分ほどで高岡西部総合公園に着く。

いわゆる平成の大合併で新たな高岡市が発足して10周年を記念して総合公園の整備が進み、2015年に完成した。そのメインが高岡西部球場、通称ボールパーク高岡である。

富山サンダーバーズの主催試合を観戦するのも久しぶりだが、これまで富山アルペンスタジアム、県営富山球場、そして小矢部の球場を訪ねたことがある。富山の球場といえばNPBの公式戦も開催されるアルペンスタジアムが有名で、当初はサンダーバーズの試合もアルペンスタジアムが県内でもメインだった印象があるが、現在はボールパーク高岡での開催が多いという。高岡市には従来からの小矢部川沿いの城光寺野球場があるが、今は高岡の球場といえばこのボールパーク高岡がメインである。アルペンスタジアムはやはり使用料がかかるのかな。一方のボールパーク高岡はBCリーグだけでなく高校野球でも積極的に使われており、それに見合った規模と、駅からのアクセスの良さ?もプラスに働いているのかなと思う。ともかく、私の球場めぐりの一つに記録される。

一塁側に高い防球ネットが張られているのは、その後方(画像でいえば右側)に北陸本線もとい、あいの風とやま鉄道の線路が走っているからである。開場当初は列車が走る時間に合わせて一時プレーを中断する措置も取られていたそうだが、防球ネットの設置で、さすがにこれを越える当たりは出ないだろうということである。

13時の試合開始で、開門が11時半。駅に着いたのが11時10分だったからちょうどよいタイミングである。マスコットのライティーもお出迎えである。また入口前にはサンダーバーズのグッズ売り場もある。選手個人のグッズもある中で、目立つのはやはり今季から指揮を執る元巨人~日本ハムの二岡智宏監督のもの。

「あいの風 IR1日フリーきっぷ」の提示で、当日入場券1500円が割引で1200円となった。もっとも、この特典を受ける客が年間何人いるのやらというところだが。

開門となる。この球場ではホームのサンダーバーズが三塁側ということで、三塁ベンチ上の座席に陣取る。ネット裏にはかろうじて屋根がかかっている座席があるのだが、一・三塁の内野席もフェンスが低くて見やすい。最近できた球場ということでそのあたりは観客目線で建てられたのかなと思う。ファンもそれぞれお目当ての席に座る。座席から外野を見ると砺波平野が広がり、遥か向こうには立山に続く山々が見える。いい球場だなと思う。まずは甲子園球場と同じ黒土を使っているというグラウンドを見ながら、高岡駅で仕入れたあれやこれやでの昼食とする。青空の球場のスタンドで飲むビールはまた格別だ。

グラウンドではちょうど対戦相手・福井ミラクルエレファンツの打撃練習中。打撃投手を務めるのは田中雅彦監督。昨年は前期地区優勝を果たしただけでなく、NPBに育成ながら2名の選手を輩出した。ただ今季はその反動か選手の入れ替えも多く、この試合までは低迷中。

この試合はBCリーグの村山代表も訪ねた模様である。

そして富山のウォームアップから守備練習となる。ノックバットを振るのはサンダーバーズ出身の大士(永森)コーチ。

その中で元気のよい声を出す選手が目につく。登録名がつよし(藤原)というが、明石高校からアメリカの独立リーグなどを経て富山に入団して2年目の選手である。

スタメン発表。この日はこどもの日ということでスコアボードの選手名も全てひらがな書きである。これはこれで一々選手名鑑と見比べて確認することになる。

試合前に監督、コーチ、選手が登場。ここで二岡監督も登場する。攻撃中は一塁のコーチボックスにも立つ。

富山先発は阿部。いきなり初回、先頭の澤端にレフトへの二塁打を許し、続く工藤の外野フライの間に三塁に進む。3番の石井が一塁への内野安打を放ち福井が1点先制。

その後二死としたが、荒道の打席で頭部への死球を与える。スタンドもざわつく。荒道は大事を取っていったんベンチに下がり、「臨時代走」として前打者の清田がベースに立つが、この投球で阿部は危険球退場となる。初回から荒れそうな予感である。

緊急登板となったのは吉田。続く須藤にタイムリーを許して2対0とまずは福井リード。

福井の先発は望月。初回、富山は二死一・二塁のチャンスを作るが無得点。しかし2回、先頭の金子が四球で出ると、マクシーがレフトに二塁打を放つ。これで2対1と追い上げる。

ここで迎えるのは元気のよいつよし。望月のボークで無死三塁となったところでレフトへ犠牲フライを放つ。2対2の同点だ。

この後中盤までは両チームともランナーを出すが得点には至らない。特に富山の打者にはフライでのアウトが目立った。望月がそういう投球をしたということだろう。

2対2の均衡が崩れたのは7回裏。この回表に富山の3人目・ラミレスが福井を三者凡退に退けた後で、福井はこの回から2人目・元バファローズの塚田が登板。先頭・榎本の四球をきっかけに河本の二塁打で二死二・三塁のチャンスを作り、金子がレフトへのヒットを放つ。3対2、終盤に来て富山が逆転である。スタンドも大いに盛り上がる。

終盤の逆転で富山に流れが行ったようで、8回はラミレス、そして9回はブラウンが登板して福井の攻撃を抑える。そのまま3対2で富山が勝利。序盤はどこまで荒れるのかと思った展開だったが、中盤以降はまあ締まった試合だと言える。

ヒーローインタビューは勝利投手となったラミレスと、決勝タイムリーの金子が登場。またこの後の記事では緊急登板の吉田のコメントも出ており、いつでも登板できるよう心の準備をしていたという頼もしい言葉もあった。

試合後は恒例のお見送り。この試合は936名という入り。連休中だからもう少し、せめて4ケタはほしいなと思ったが、これが現状なのかなと思う。大型連休の後半も各地で試合が行われたが、一番の入りとなったのが5月3日に栃木市営で行われた栃木対群馬の2415人。栃木では翌日も2000人超えの観客があったが、その他といえば1000人に満たない試合がほとんど。大型連休は全国の行楽地で混雑や渋滞が見られたと報道されたが、独立リーグにあってはその辺りは無縁なのかな。

大士コーチや何人かのサインをいただいたが、観客のお目当てだったであろう二岡監督はこの日姿を見せなかった。この試合がそうなのか、あるいは普段から出てこないのかは知らないが、ちょっと期待していただけに残念である。ただいつまでも待っていても仕方ないので、そろそろ駅に戻る。

このまま西高岡駅に着き、金沢まで移動する。この日は金沢でちょっと夕食でもと思い遅い時間のサンダーバード号の指定券を持っていたが、もうこのまま大阪に戻ることにする。幸い先行のサンダーバード号の自由席も空いており、そのまま大阪まで、隣に誰か座ることもなく戻る。あっけなかったと言えばあっけなかったが、昼間の球場は暑かった。翌日6日は連休最後ということで休養に充てる予定だったが、その前に少しでも早く帰ろうとなった。北陸にはまた来ればよいと思う。

当初、大型連休を利用して関東の球場などを巡ってみようと思っていたが、それは今季の夏休みに向けて考えることにする。ちょうどお盆の期間中、ナイターを含めて開催が予定されている。これらを回るプランをJRの時刻表をいじりながらあれこれ考えるのも楽しい。もちろん宿泊も絡むことなのでそれをどこにするかは思案する必要があるが、こうした楽しみもまた追いかけたいものである・・・。

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立山連峰と魚津の海

2019年05月27日 | 旅行記D・東海北陸

翌朝、早くに起床する。日の出を前に立山の山々のシルエットが見えて幻想的だ。朝風呂に入り、バイキング方式の朝食をいただく。ごはんはおにぎりを自分で取る方式で、富山らしくとろろ昆布を巻いたおにぎりやますの寿司タイプのものもある。

さて5月5日は、高岡でのBCリーグ観戦である(令和の記念講演も印象的だったが、そもそも今回の旅の当初の目的は野球である)。球場には昼前に着けばいいので時間はたっぷりあるが、少し鉄道の旅を楽しむことにしよう。

「あいの風 IR1日フリーきっぷ」というのを発売している。土日、お盆期間中の利用で2000円。金沢から富山まで通しで片道1220円だから往復すれば元は取れるし、片道利用でもそれ以外のところで乗車すれば十分だ。青春18きっぷの時季でも有効日ならこれで石川、富山両県を多少安く通過することができる。また特典として、これから向かうボールパーク高岡での富山サンダーバーズ戦の入場料の割引も受けられる。

ボールパーク高岡の最寄駅は西高岡だが、ここは少し乗り鉄ということでいったん東に向かう。7時51分発の黒部行きは「とやま絵巻」というイベント車両である。旧国鉄~JRの413系を譲り受けたもので、朝夕の通勤通学列車や休日のイベント列車として運転されている。昔ながらのボックス席に陣取るが、窓の外がちょうどラッピングのイラストがかかったところで、景色はやや見えにくい。

市街地を抜けると立山連峰を見ることができる。上のほうにはまだ雪が残っている。早起きして雪の大谷を見に行ってもよかったかなと思う。

列車は黒部行きだが、その一つ手前の魚津で下車する。立山連峰だけでなくせっかくなので日本海を見ようというものである。

駅前から地下道をくぐって海側に出る。まず10分ほど歩いて向かったのはありそドーム。魚津市の産業、スポーツ、文化交流の拠点であり、富山湾の別称である「有磯(ありそ)」からその名がついている。ここに高さ46メートルの展望塔があり、この時間でも開いているのでエレベーターで上る。

ここからは立山連峰、そして有磯の海の両方を眺めることができる。なかなかのスポットである。

スポーツの施設ということで昨年大相撲の夏巡業も行われたそうだ。その魚津場所の番付も記念で展示されている。

アリーナでは朝からバスケットの練習が行われているが、通路にはこの選手の幟が立てられている。ロッテの石川投手は魚津市の出身で、このありそドームの中には地元後援会の事務局も設けられている。サインボールの寄贈もあるし、オフには魚津でのイベントにも顔を出しているようだ。

なお後日、5月26日の試合に先発して勝ち投手となった石川は、同じ富山県出身の朝乃山が平幕優勝したのを受けてお立ち台で「朝乃山優勝おめでとう!」と絶叫していた。朝乃山とともに富山県勢も頑張りを見せているようだ。

ありそドームを出て海岸に着く。魚津の名物といえば蜃気楼。この辺りの海岸から見られるそうだが、いくつかの気象条件が重ならないと確認できない。この時も普通に穏やかや海岸を見たわけでどうということもなかった。

しかし、後で知ったが訪ねた5月5日は、午後から夕方にかけて蜃気楼が確認されたそうである。蜃気楼を観測する魚津埋没林博物館によると、富山市、射水市、氷見市方面から黒部市方面にかけての陸地が見えたそうだ。もっとも、双眼鏡がないと確認できないレベルというが。

駅に戻り、駅前で銘水をペットボトルに汲み、9時25分発の泊行きでいったん一駅先の黒部まで乗る。

黒部からは9時39分発の高岡行きで折り返す。1日フリーきっぷを持っているからこその芸当である。このまま富山も素通りして終点の高岡に向かう。

2駅先の西高岡へは30分後に発車する一本後の列車となるが、高岡で待つ形にしたのは、この日の昼食の調達のため。西高岡駅近辺はスーパーやコンビニもないようだし、独立リーグの球場の食事情はどこもあまりよろしくない(クルマで来るのが前提のためか、ビールも販売していない球場もある)。そのため、高岡駅の売店にてますのすし、ぶりのすしの小箱やら、ホタルイカの干物やらを買い、コンビニにて他の飲食物も買う。暑くなる予報で、凍らせたペットボトルも仕入れる。

高岡は越中の国府があったところで、大伴家持も国府で赴任したところである。この日は高岡観光は行わないが、駅のコンコース、観光案内所の前では大伴家持が「令和」を掲げての歓迎である。令和は万葉集由来、その万葉集の編纂に尽くしたのは大伴家持ということで、この地ならではの盛り上がりだろう。

列車待ちの間にJR城端線や氷見線を走る気動車の車両をカメラに収めた後、準備万端で次の金沢行きに乗り込み、11時10分、西高岡着。

毎度ながら球場に着くまでが長い紀行文になったが、いよいよBCリーグ観戦である・・・。

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富山の夜 朝乃山優勝

2019年05月26日 | 旅行記D・東海北陸

令和初の本場所となった大相撲夏場所。14日目の結果で、平幕の朝乃山が2敗を守っての優勝となった。トランプ大統領が千秋楽の取組を観戦してアメリカ大統領杯を渡すということでも話題となったが、まさかの平幕優勝である。まあ、取組編成や前日の栃ノ心戦での審判団の「誤審」など、この優勝にはすっきりしないものがあるとする向きもあるようだが、優勝は優勝である。これから期待の力士の一人ということでおめでとうでよいのではないか。

なお、三役経験がない力士の平幕優勝は佐田の山以来58年ぶり(佐田の山は後に横綱になった)、富山県出身力士の優勝は大正時代の横綱・太刀山以来103年ぶりだという。これは富山の人たちにとっては明るいニュースである。

ちょうど、私の紀行文も富山編である。訪ねたのは大型連休中で夏場所はまだ始まる前だったが、郷土出身力士を応援する人はたくさんいたとして、まさか優勝まですると思った人は果たして何人いたことやら。ただこれを自信として、来場所以降の上位定着、そしてさらにその上を期待したいものである。

・・・さて、富山に行っていた5月4日の話。

「万葉集とその未来」という演題だが、新元号令和の意味についてその考案者とされる中西進氏の講演を聴き、歩いて富山駅に戻る。この日の宿泊は富山駅前のホテルアルファーワン。これまで富山には何回か泊まったことはあるが、このホテルは初めてである。

割り当てられたのは上層階だったが、部屋からの眺めがよかった。窓からは富山駅を見下ろす形で、駅前には路面電車が頻繁に行き交うのを見ることができる。北陸新幹線が富山駅のホームに入るのも見える。鉄道ファンにとっては見ていて飽きることのない眺めである。さらに、写真では上手く写らないのだが駅前の建物群の向こうには立山連峰の姿も見える。5月のこの時期は頂上付近には雪の姿も見える。そしてあの中では雪の大谷を歩くのも人気である。

部屋で少し休憩し、時刻はそろそろ17時。ではでは富山で一杯ということで外に出る。

向かったのは、駅前の「ヤットルゾー五條」。久しぶりに入る店である。前に来た時には満席で断念したこともある。富山には他にも有名な大衆酒場もあるのだが、私としてはこちらを選択するところだ。訪ねたのは開店時間の17時を少し回ったばかりだが、すでにカウンター、テーブルでは何組かの客が一献やっているところである。早めに開けたのか、事情を知っている地元の人たちか。幸いカウンターが空いていたので陣取る。

店内には大相撲のカレンダーや番付もあるし、朝乃山の色紙もある。こちらの店も地元出身力士として応援しているようだ。もし富山行きが14日目、千秋楽のタイミングだったらこの店も大変な賑わいになったことだろう。もちろんこの時はそういうことなど誰も頭にはなかったのだが。

メニューにはおすすめがいろいろ書かれている。その中では富山の定番のアテ(ほたるいか酢味噌、イカの黒つくり、バイ貝煮付)、昆布締め三種(さす、ひらめ、あおりいか)をまずいただく。

他には、「今はシーズンではないんですが・・」と言いながら、滑川産の紅ずわいがにの面詰めというのもいただく。かにの甲羅の中に脚肉、かに味噌などを詰め込んだもので、限定の一品である。

マナー的にありなのかと思いつつも、中身をいただいた後の甲羅に、立山の燗酒を注いで甲羅酒も味わう。

最後は白えびの昆布焼き。昆布の風味とえびのパリパリ感を楽しむ。この店は他におでんも名物なのだが、あてはこれだけでも十分である。どうせこの後ホテルの部屋でも続きをやるので・・・。

ホテルに戻り、大浴場に入る。浴場からも駅を見下ろすことができるのがよい。また同じフロアには無料のマッサージチェアもあり、これを使っていい心持ちである。部屋に戻って、ますの寿司、ぶりの寿司や昆布巻きのかまぼこなどをつまみながら「二次会」であるが、昼間の疲れもあってか早い時間に就寝となる・・・。

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中西進氏による「令和」誕生の講演を聴く

2019年05月25日 | 旅行記D・東海北陸

5月4日、富山駅に到着。先ほど福井駅で今庄そばを食べたが、今度は昼食として立山そばをいただく。

講演会場の富山国際会議場には路面電車が最寄とあるが、徒歩でも行ける範囲なので歩いていく。ただ開場までは時間があるので、その前にどこかに立ち寄ることにする。

そこで向かったのは国際会議場の向かいにある富山城跡。模擬天守が建つがそういえば中に入ったことがなかった。立派な石垣を持つ城である。天守閣は富山市郷土博物館として開放されている。

富山城は戦国時代、神保長職により築城された。当時は神通川が現在よりも東に大きく蛇行しており、神通川を自然の要害とする形でその南岸に建てられた。富山近辺を巡っては一向一揆、上杉謙信、武田信玄、織田信長らが激しく争い、最後は信長の家臣である佐々成政が支配し、富山城も大規模に改修された。

しかし豊臣秀吉の天下統一で佐々成政は敗れ、その後は前田氏の治世となった。加賀前田氏の分藩である富山藩である。展示では神保氏以来の城のさまざまな歴史を紹介しているが、まだまだ知られていないことも多いようである。

さて、城跡を出てかつての二の丸にある国際会議場に向かう。開場は13時30分だが、その前に早くも長い行列ができている。少し時間を前倒しにして開場となった。

観覧席は扇形に広がっているが、中央部は招待客、その横の前列は地元の中高生、その周りが一般客とエリアが分かれている。募集では定員800人とあったが、これは一般客エリアを指すのだろう。また制服姿の中高生もやってきた。学校全体で来るというよりは、万葉集に興味のある子どもたちなのだろう。

客席もほぼ満席となったところで、14時に講演開始。まずは石井隆一富山県知事から挨拶。「新元号令和が万葉集から取られたということで、やはり万葉集の第一人者からお話をいただきたい。ということで、ご本人は認めていないがほとんどの方が元号の考案者と思っているだろう中西進先生にお願いした」という。「中西氏は高志の国文学館の館長でもあるし、ちょうど万葉集の編者で、越中の国司も務めた大伴家持の生誕1300年ということもあり、これを機に富山の文化の魅力を高めていきたい」と締める。

続いては橘慶一郎衆議院議員の挨拶。元高岡市長で、高岡の選挙区からの選出議員である。市長時代に万葉集に接するようになってからは、講演や挨拶で万葉集の一首を口ずさむようになったとのことで、令和が万葉集から取られたことに対して「万葉集には中国との文化交流の息吹があり、元号が取りやすいのではないか」とした。最後には、「大伴家持にも梅の花を愛でる歌がある」として、「春のうちの 楽しき終へ(をへ)は 梅の花 手折り招きつつ 遊びあるべし」(4174番)の一首を披露した。

後で知ったが、この一首は、大宰府で大伴旅人が梅の花を愛でる宴の中で詠まれた三十二首の「追和歌」という。父の旅人が大宰府で宴を開いた時、家持はまだ少年だったが、後に自身が越中に国司として赴任して梅の花を見た時、大宰府の宴を懐かしく思い出したのだろう。

この後は平成時代の富山県の出来事を振り返る映像や、大伴家持と越中とのつながりをまとめた映像が流れ、何だかんだで30分ほどが経つ。

そして中西進氏が登壇。御年89歳とのことだが足取りや話しぶりもしっかりしている。たださすがに演台には椅子が用意されていて腰をかけての話である。石井知事や橘議員も招待席の一番前で聴講する。

「石井知事から1ヶ月ほど前に連絡があり、高志の国文学館の館長の給料を上げる話なのか、それとも館長をクビになる話なのかと思って聞いてみたら講演をしてほしいと」(1ヶ月前といえば、元号が令和に決まり、その由来が万葉集で・・・と世間が話題になり始めた頃で、その時から「中西氏が考案者だ」という噂は出ていた)

「年数を無機質に加算する西暦と違い、元号は時の君主の統治の年数である。中国の聖典から引用したいわば『おしゃれ』のようなもので、その王様が立つ未来の理想を掲げたものである」

「元号は中国の聖典、いわば儒教精神を表したものだが、いつまでもそれだけを理想、スローガンとして掲げるのは難しいのではないか。別に安倍首相だけの考えというわけではなく、儒教以外からスローガンを選ぼうという機運が出るのは当然だと思う。元号はそれぞれの国の理想を掲げる『文化装置』の一つである」

「元号は『倫理コード』のようなもので、日本人の倫理コードに即したものであるべきと思う。日本では伝統的に和歌が美しい言語を紡ぎだしてきた。和歌に倫理コードがあるとして、このたび『私とよく似た名前の人』が考えたそうです」(ここで会場から笑いが起こる。「私とよく似た名前の人が考えた」って、あなたが考案者であることを認めとるがな)

「初春の令月、梅の花とは季節の挨拶のようなものである。日本人にとって自然は『哲学』である。梅の花は冬から春にかけて花を開くことから古来『初花』とされてきた。また万葉集には『寄物陳思』という、自分の思いを物に託して詠んだ歌の分類があるが、そこでも『風のようにむなしい』『雲のようにふわふわした気持ち』という表現があり、日本人は古来から自然現象の中に哲学を感じ、表現の基本としてきた。俳句が季語を重視するのもそうでしょう」

「令和という時代、未来に向けてどのように夢を描けばよいか。これまでの元号を見ると、明治は『明らかに治める』ということで、統治者側、上からのメッセージである。大正の『大いに正しい』も為政者側からの号令のように聞こえる。昭和の『昭かな平和』や平成の『天平らかに地成る』も儒教的である。もっと人々や民を見てほしい。ただ前天皇陛下はご自身から人に歩み寄られていた」

「『令』とはうるわしい、整ったという意味がある。上の部分は人二人を表し、真ん中は玉を表している。玉を抱きかかえている人からできた文字である。また『和』は十七条憲法の和でもある。『和を以て貴しとなす』は聖徳太子だけでなく、当時国を失い日本に逃れてきた百済の知識人たちの思いであり、崇高な、切実な願いであった。今の日本国憲法も、外国との激しい戦争に敗れた直後に作られたもので、十七条憲法と時代背景は共通している。そのところは、今の宰相にも尊重してほしいことである。だから『令和』とは、『玉を大事に抱きかかえているような和、真珠のような輝き、秩序が整った平和』という願いが込められているといっていい」

「日本人は元号という倫理コードを持ち、自然の中に哲学を持つ。そしてこれからは玉のような和を持つ世の中になればと思う」という言葉で締められた。1時間の講演は内容盛りだくさんだった。この講演の模様は地元ローカルニュースだけではなく、ネットニュースや翌日の新聞記事でも取り上げられ、メディアによっては十七条憲法のくだりを「安倍政権批判」と取り上げたものもあった。

中西氏は他にも講演やインタビューでの露出が目出ち、そのうちに自身が「考案者」であることも否定しなくなった模様である。別にいいのではないか。今のところ「令和」という元号は言葉として概ね好評のようだし、元号にはこうしたメッセージが込められている、日本の倫理コードが表れているという根拠がわかれば、これからの時代をどのように良くしていくかを考える機会になるのではないかと思う・・・。

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「令和」の話を聴きに富山へ行こう

2019年05月24日 | 旅行記D・東海北陸

また続いて連休中の話。

このたびの大型連休は九州・五島行きを楽しんだが、それを決める前には、野球の独立リーグ・BCリーグ観戦を考えていた。それも、なかなか訪ねる機会がない関東地区の球団の試合で、あの辺の球場めぐりをしてみようかと思っていた。

関東での観戦はまたの機会にするとして、長い連休を活かして1試合は観てみたい。そこで選んだのが、5月5日に高岡西部球場(高岡ボールパーク)で行われる富山サンダーバーズ対福井ミラクルエレファンツ戦。13時からのデーゲームだが、前日の4日に富山で宿泊する。単純に富山の魚で一杯やりたかっただけで、夕方までに着けばいいのでそこまでの途中下車を楽しもうかと考えていた。

そんな4月のある日のこと、とある講演の記事に目が止まった。「万葉集とその未来」というお題で、講演するのは中西進氏。万葉集研究の第一人者にして、現在は富山市の高志の国文学館の館長も務めているが、このたびの改元にあたり「令和の考案者とされる」として注目を集めた方である(本人は否定しているが)。

5月4日の14時から、中西氏の高志の国文学館館長としての改元記念特別講演が富山国際会議場で行われ、無料で800名が聴くことができるとある。4日・・富山に前泊する日だ。これも何かの縁だろうと、この日はこの講演をメインにしよう。

聴講は富山市のホームページから申し込みができるが、申し込み多数の場合は抽選とある。幸い応募締め切り日前だったのでホームページにて申し込むと、後日、参加はがきが郵送された。新たな元号にまつわるこうしたイベントに参加するのもいいだろう。いい記念だ。そのためか、事前に中西氏の著作を文庫本だけど買ったりする。

富山にはどうやって行くか。当初、夕方までに富山に着けばいいやということで鈍行乗り継ぎを考えていたが、講演が14時からなら昼には富山入りとなる。そのため、福井から金沢までの指定席特急券を買った。なぜ途中区間の特急券?だが、福井まで鈍行でつなぎ、いったん改札を出た後で、時間短縮で特急に乗るためだ。まあ要は、福井駅で今庄そばを食べるとか、福井ならではの海鮮つまみを買うため・・の時間確保であるが、復路は特急で素通りするだけに、往路で敬意を表しておこうというものである。

さて5月4日。プランなら大阪駅6時21分発の快速に乗り、湖西線経由で鈍行を乗り継いで9時47分に福井に着き、10時13分発の「サンダーバード7号」で金沢に移動、第三セクター経由で富山には12時04分着としていた。青春18きっぷの時季ではないので鈍行だけにこだわる必要もなく、別に特急に乗ってもよい。この日については福井での20分あまりの乗り継ぎ時間内に上記のことをすれば全然問題ない。

4日早朝、大阪駅に現れる。ただ私もいい加減なもので、6時21分発の快速に始まってその後乗り継ぐのなら、いっそ大阪から6時30分発の「サンダーバード1号」に乗り、福井で降りるなら降りたらええやん・・となった。そこで福井までの自由席特急券を買い、サンダーバードが発車する11番線に向かうと、自由席車の乗車口に並ぶ人はそれほど多くなく、席には座れそうだ。大型連休中にあって意外である。

途中駅からの乗車もそれほどなく、隣に客が乗ってこないまま、湖西線から北陸線に入る。そのまま走り8時29分、福井に到着した。

改札を出て、今庄そばの立ち食い。そばじたいに何か特徴があるとか、そば通をうならせるものがあるわけではないのだが、「旅先の駅の立ち食いそば」という点では全国的にも知られた存在である。私としては福井より北に向かうための通過ポイントのようなものだ。

この後は土産物コーナーに向かう。たいてい買うのは鯖のへしこと、オーロラ印の味付たら。これらは一度食べたらやみつきになる。

予定よりさらに早く着き、お目当てのものも手に入った。次は10時13分発の「サンダーバード7号」だが、ここも前倒しで行こう。すでに買っている特急券も自由席なら前の列車に乗れるので、9時15分発の「しらさぎ51号」に乗る。米原始発だからか自由席も空いている。

途中建設中の北陸新幹線の橋脚を見ながら走る。芦原温泉や加賀温泉に停車していくが、むしろここから乗ってくる客が多い。このまま金沢に向かい、北陸新幹線に乗り継げば東京方面まで一直線だ。

10時05分、金沢に到着した。どうせ富山に行くのなら2駅だけ北陸新幹線に乗るのもありかと思ったが、ここは並行在来線・IRいしかわ鉄道~あいの風とやま鉄道の泊行きに乗り継ぐ。2両編成のためか満員である。そのまま県境を越え、11時09分、富山に到着。学生の時から鉄道旅行で何回も来ており、昔の鉄道駅の風情が印象的だったのが、今は立派な高架駅である。

さて中西進氏の講演は13時半から入場開始である。それまではぶらぶら過ごすことに・・・。

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第5番「葛井寺」~西国三十三所めぐり3巡目・2(令和改元に合わせて3巡目本格開始)

2019年05月23日 | 西国三十三所

話は、平成から令和にかけての旅を終えて帰宅した5月2日まで戻る。

この日は休養日ということで特に外に出る用もなかったが、近所にある西国5番の葛井寺に向かった。

先にも触れたが、このたび、百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録が内定したというニュースに驚いている。以前から世界遺産に向けた活動が進められ、堺市が中心となり羽曳野市、そして私の地元藤井寺市も参加してきたわけだが、ついにというか、ようやくの登録である。個人的には、世界遺産もそう濫発するべきものではないと思うし、日本国内でもそろそろネタが切れてきたのかなという思いはあるが、こうして地元がその一つになってみるとやはりうれしいものである。

正式決定は6月に行われるユネスコの委員会を経てということになるが、観光客が来る・・・としてもあの形というのはなかなか見ることができないし、天皇陵となると外の遥拝所から拝むくらいしかできない。まあ、元々は観光とは無縁のものである。また大阪はUSJやミナミ、道頓堀などはアジアを中心としたインバウンドで賑わっているし、万博も予定されているとなれば、そこまで「世界遺産で観光客を誘致」というのに血眼にならなくてもよいのではと思う。あ、これらはいずれも大阪「市内」の話か。

今回の世界遺産には、仁徳天皇陵や応神天皇陵のような立派な「御陵さん」があるかと思えば、その辺の丘にしか見えないものもある。そうしたところは柵もなく公園として整備されていたり、普通に子どもの遊び場にもなっている。私も昔遊んだ記憶がある。天皇陵は敷居が高いかもしれないが、そうした手軽なものを通して古墳を身近に感じるのもいいだろう。さて、藤井寺市にはどの程度の「世界遺産効果」が出てくるやら。

・・・とはいうものの、今のところ藤井寺市の中でもっとも有名な歴史スポットとなるとやはり葛井寺ということになるだろう(本当は、そこに藤井寺球場も加えたかったところだが)。

ようやく本題で、元号が令和に改まったのを機に、西国三十三所めぐりの3巡目を始めることにする。3巡目の最初として、近畿三十六不動めぐりの札所でもある中山寺を先に訪ねているが、本格的にはこれからスタートということにする。

仁王門から入る。連休中、また藤まつりの期間中ということで参詣者の姿も多い。

その仁王門脇に、遣唐使・井真成(いのまなり)の生誕地の新しい石碑が立っている。これを目にするのは初めてだ。日付を見ると平成31年4月とあるからつい最近のことである。奈良時代、吉備真備や阿倍仲麻呂らと同時期に唐に渡ったが、36歳の若さで現地で亡くなった留学生である。まさに「辞本涯」である。近年、中国で真成の墓誌が見つかり、「遺骨は異国に埋葬するが、魂は故郷に帰ることを切に願う」との内容が書かれていた。それから1200年の時を経て墓誌が藤井寺市に寄贈され、魂は故郷に帰ってきた。

この日はちょうど藤の花も見ごろを迎えており、青空が広がっているとあって多くの人がカメラやスマホを向けていた。

また参詣者が多いのは、改元記念として5月1日~6日限定で本尊の十一面千手千眼観音像の御開帳が行われていることもある。ポスターには、2018年に東京国立博物館で行われた真言宗御室派寺院の仏像の特別展示に千手観音が出展された際、新天皇が皇太子時代に視察された時の報道写真も載せられている。葛井寺の御開帳は毎月18日に行われているが、今回は特別開催である。

内陣に入る。まずは如意と呼ばれるひもを手にして本尊とご縁を結び、内陣の片隅にてお勤めとする。何でもかんでも「令和最初」というのもどうかと思いつつも、これが令和最初の札所めぐりということで、自分としても新たな時代において気持ちをリセットするような思いで観音経を読む。

そして納経帳への御朱印だが、本堂外の石段の下まで長い列ができている。本尊御開帳もあるし、改元の記念に何かほしいというのもあるだろう。令和初日の前日はもっと長い列ができていたそうだ。葛井寺でこの行列だが、ニュースによると5月1日の東京・明治神宮では御朱印を求めて最大で10時間待ちという事態にもなったそうだ。しかも、その御朱印が早くもネットで高額転売されるということもあった。何だかなと思う。

40分ほど待って私の番になる。納経帳は引き続き先達用の巻物型である。そこへの重ね印なので時間はそれほどかからない。西国1300年の記念印がまだ入っていなかったので追加でお願いすると、金色のスタンプで押してくれた。この金色というのが令和の改元記念になるのかな。さらに西国曼荼羅の八角形の用紙(これは寺で書置きしたものと、私の手持ちの白紙を取り替える対応)もいただく。

さて新たな時代の札所めぐり。西国三十三所めぐりは引き続き行うが、実は新たな札所めぐりに挑戦することも考えている。それもまたそのうち、ここで紹介することになるだろう・・・・。

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5月バファローズ観戦記二題・・・その2(19日ライオンズ戦~大阪野牛近鉄復刻試合はガックリで・・)

2019年05月22日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

話は5月19日のライオンズ戦。

17日からの3連戦は「KANSAI CLASSIC」シリーズとして、1999年の大阪近鉄バファローズの土日ビジター限定だった赤い「Osaka」ロゴのユニフォーム着用での復刻試合である。

私も、かつて籍を置いていた近鉄応援のネットサークルにて作った「赤ユニ」を持っていて、こんな時だからと久しぶりに持ち出す。今回復刻されたユニフォームは、白ラインの太さをなどオリジナルとは異なる箇所はあるが、全体として往年の雰囲気を楽しめるのはよい。ネット記事では、かつての着用写真として梨田監督、ローズ、中村紀洋が載っていて懐かしく感じる。私はその時、選手の名前ではなく現在もこのブログに入れているハンドルネームを入れた。もう20年前のものだが、一応今でも体が入る。

企画そのものはこの数年で定着したようにも見えるが、始めた当初の「特別感」も薄れているのではと思う。往年のファンが喜ぶ一面は大きいが、年齢的に近鉄、阪急、そしてブルーウェーブ時代を知らないファンが増えているのも事実である。かつての応援歌の復刻も年々短くなっていて、この試合について言えば8回に申し訳程度に流れたくらい(以前は4~6回とか、少なくとも打順が一回りする間流れていたと思う)。

この試合は「キャンプ地みやざきDAY」として、宮崎の観光大使によるPRや、宮崎カーフェリーの乗船券や宮崎の特産品が当たるイベントが行われた。宮崎も久しく行っていないなあ。フェリーの旅もいいし、久しぶりに日豊線に乗って延々と南下するのもよい。プロ野球のキャンプというのを生で見たこともないので、それも含めて行きたい場所の一つに加えるとする。

また、ユニフォーム姿の少年野球チームの子どもたちがあちこちにいた。試合終了後に何かセレモニーをやるようで、結構な数が見られた。最近はプロ球団と同じデザインのものも目立つ。あの辺の権利関係は大丈夫なのかなと気になる(私だって、当時の赤ユニといいつつも同じようなものだが)。この試合の観客は27437人と発表されたが、内野自由席のあちこちでユニフォームの塊が目についた。

スタメン発表前には「KANSAI CLASSIC」をテーマとした動画が流れる。今季は阪急OBの山田久志氏と近鉄OBの梨田昌孝氏がそれぞれ椅子に置かれたボールを拾い上げ、両者無言のまま「伝説が交差する」という字幕とともにすれ違うというもの。うーん、だから何やねんと。これなら昨年の太田幸司氏による「ディス イズ パ・リーグですよ」のほうが断然よかった。

さて試合。バファローズは新外国人で初先発のエップラー、ライオンズは今季のドラフト1位新人で初先発、おまけに初登板の松本。両チームとも先発の谷間となった。エップラーは、アルバース不調によりチャンスが与えられたし、松本はドラフト1位指名が根尾、藤原、小園に集中する中でライオンズが一本釣りした投手。肺炎もあり出遅れたが即戦力の期待がある。

エップラーは初回、先頭の秋山にいきなりヒットを許すが、後続を抑える。打たせて取るタイプなのかな。

バファローズは2回に吉田正の四球、小島のヒットでチャンスを作るが、西野が見逃し三振。松本はプロ初の奪三振だ。

3回、ライオンズがエップラーを攻めて金子、秋山、外崎の3連続ヒットで1点先制。続く4回には二死三塁から栗山の二塁打、木村のタイムリーで2点を追加し、3対0とする。初先発でどこまで持つかというエップラーだったが、二回り目で力尽きた。まあ、ライオンズの打者が逆方向への打球を意識して攻めたのも効いたようだ。この後は山田がしのいで食い止める。

5回、ここまで松本を攻めあぐねていたが、小島、西野の連打と若月の犠打で一死二・三塁とする。ここで一軍復帰即スタメンの小田が払うようなバットさばきでレフト前へ、3対1。続く中川は初球をセンターに運ぶ犠飛で3対2。追い上げムードで好調の大城も粘ったが、最後に力尽きて一気に同点とはならなかった。松本は何とか5回を投げきって勝利投手の権利を手にした。

7回表、マウンドには6回から登板の山﨑。しかし一死二・三塁の場面を招き、打席には山川。ここで小林に継投。しかし、臭い攻めなのかコントロールが決まらないのか、初球から続いてボール2つとなった時点で申告敬遠となった。

・・山川を敬遠しても次は森。満塁となった直後の初球。

・・・打球はライト上段席下の看板に当たり、グラウンドに跳ね返った。ものの見事な満塁本塁打。打った森が素晴らしいのだが、この後、スタンドがどのようなざわつきになったかはご想像の通り。

そんな試合だからか知らないが、周りの雰囲気もよくなかった。少年野球の子どもたちが風船をおもちゃのように扱ったり、一斉に飛ばした後にわざと飛ばしたりしてふざける。それに対して常連面のおっさんがエラソーにキレる。通路では少年野球の引率の大人たちが酒飲んでクダ巻いている(別にファンでもないのに無理やり刈り出されて・・という会話満載)。トイレに行ったら誰かが便器を詰まらせたようで中は水浸し、ウ◯コもプカプカ。

別にチームや選手の不調と直接因果関係があるわけではないにしても、何だかいろんなものが中途半端に、いい加減になっているように思う。運営側も、どこか適当になっていないか?

試合。8回には外崎の2ランが出て9対2。

勝負は決まったが一応9回裏があるので、ライオンズは南川が登板。しかし2連続四球と暴投で無死二・三塁。さらに小田への四球が暴投となり1失点。9対3としたが、ここで南川の後を受けた佐野に簡単に3人抑えられて試合終了。

ライオンズ16安打、バファローズ5安打で9対3でライオンズ勝利。松本はプロ初登板初先発初勝利として辻監督とがっちり握手の記念撮影とインタビュー。ただ、試合後の辻監督のコメントは、「あれでは『上』で勝てない」とのこと。

バファローズは「上」ではないというのが現実。ライトスタンドの原理主義者や内野の常連面のおっさんとその取り巻きの方々。まあ、そういうことや・・・。

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5月バファローズ観戦記二題・・・その1(3日マリーンズ戦~永谷園スペシャルマッチは「大城デー」)

2019年05月21日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

九州、五島の記事が長くなり、また他にも書く順番待ちのものもあるが、5月に2回ドーム観戦した試合について自分のメモとして書くことにする。

まず連休後半、5月3日のマリーンズ戦。

この日は「永谷園プレゼンツ お茶漬けの日スペシャリストマッチ」と銘打って、ドームの入口にはあの五色のラベルの看板や幟が並ぶ。5月17日がお茶漬けの日であることにちなんでとあるが、永谷園の創業家の先祖である永谷宗七郎という人物の命日から来ている。江戸時代にお茶の製法を発明し、煎茶の普及に貢献した人である。

先着プレゼントにはお茶漬けのラベルを描いた団扇と、お茶漬け一袋。なお、イニングの間には、DA PUMPの『U.S.A.』のリズムに合わせてお茶漬けの袋をシャカシャカ振るという無茶振りもあった。か~もん~べいび~お茶漬け!

また同時に、令和最初の3連戦ということで、令和の文字が書かれたハリセンもプレゼント。新元号になって3日目、この時はまだ世の中は令和、令和で持ちきりだったように思う。

さて試合。バファローズ・山岡、マリーンズ・二木の先発で開始。

1回裏、バファローズは吉田が力でレフトに運ぶタイムリーで1点先制。

4回裏にはTー岡田の久しぶりの安打が出て、今季打撃好調の大城の三塁打で1点追加。大城はさらに6回にもタイムリーを放ち、3対0とリードを広げる。

7回表、大城の悪送球でランナーを許したところで、代打・バルガスがレフトへの二塁打を放つ。ランナーのレアードが三塁を回って本塁に突入したが、中継した大城からの返球がよく、タッチアウト。これにはスタンドも沸いた。

山岡は8回に角中の三塁打で1点を失ったが、リードを保って9回は増井が抑えて試合終了。3対1で、この3連戦を2勝1敗で勝ち越した。バファローズの貧打は課題として残るが、とりあえずはお茶漬けの一杯くらいは味わってもええやろうといえる展開かな。

お立ち台は先発勝利(この試合で今季3勝目)の山岡と、攻守で目立った大城が登場。大城からは「ボクたちはこれから新幹線で福岡に行きます。皆さんも一緒に行きましょう!!」という一言もあった。私も、1週前に福岡でホークス対バファローズだったら、フェリー連泊の合間にヤフオクドームに行っていたのだが・・。

・・大城の言葉のように、この時はまだ明るいものがあったように思う。ただ、その翌日からの福岡3連戦がどのようになったか、そしてその後5月をどのように戦ったか。喜怒哀楽の詳しくは関連サイトや、ファンの方々による記事でご覧いただくとして(喜怒哀楽といいつつ、怒と哀であふれているのかもしれないが)、次の生観戦で迎えるのは19日の試合である・・・。

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復路もフェリー~船上で「令和最初?の日の出」を見る

2019年05月20日 | 旅行記H・九州

新門司港に到着。こちらも団体の乗船券にて乗船となる。船体は往路と同じ「フェリーきたきゅうしゅうⅡ」で、寝台もツーリスト(2等洋室)。往路は下段だったが復路は上段である。ベッドの大きさはもちろん同じなのだが、前が階段なのでバッグを並べるには狭い。ツアーを共にした客同士なのだから外の通路に置いてもいい感じである。

荷物を置くとすぐにレストランに向かう。何せ昼からの「長崎大移動」の後である。乗り換え時間もわずかで、途中で何かを買うということもできなかったし(あ、新幹線の車内販売で何か買っていた人はいたかな)、往路は夕食を済ませてからの乗船だったので、夜のレストランがどのようなものか見てみたかった。幸い行列もできておらず、内側のテーブル席を確保することができた。

メニューはバイキングということで・・・アホかというくらいどうしても選んでしまう。またアルコールは追加で、瓶ビールや「檸檬堂」は最初に食券を買うカウンターで一緒に購入する。生ビールは、レストラン内にビアガーデンのようにジョッキとビールサーバがあり、一杯500円で自動的にジョッキに注がれる。これらを揃えての旅の打ち上げである。そうして食事をしているうちに出航、これで九州の地を離れることにする。

しかるべく飲み食いした後、夜の展望台に出る。後方に九州の島影の稜線がうっすらと見え、遠くで灯りがチラチラするのが見える。空を見上げるとうっすらではあるが星も見える。じっくり見ると北斗七星の形が浮かぶ。北斗七星って、何年ぶりに目にしたか。

入浴を済ませ、寝台に戻る。翌朝は自宅に戻るだけなのでゆったりする。それほど電波がよくない(一応船内にはWiFiがあるのはあるが・・)ので、メールの下書きの形で今回の紀行文を書き進める。

翌朝、普段の起床のリズム通りに5時に目覚める。左手には大きな島影がある。航路図から見れば小豆島である。そらは多少雲はあるものの好天である。

・・・とすると、上手い具合に行けば船上から日の出を見ることができるのではないか。前日の改元初日の5月1日は曇りのため日の出は見られなかったが、全国的には雨のところも多かった。だから1日遅れの初日の出と見ることもできる。

しばらくデッキに陣取っていると右前方の空が赤くなってきた。水平線から上るダルマ太陽とはいかず、少し上からであったが太陽が顔をのぞかせた。

それが少しずつ形をはっきりさせ、やがて光となった。1日遅れで新しい時代の瞬間に立ち会えたような、そんな勝手な思いがある。他にデッキにいた人は数人だけで、せっかくの日の出なのに皆さんもったいないなと思った。

家島諸島沖を通過。朝の播磨灘の景色を見るうちに朝食の時間帯となった。朝も同様にバイキング形式でいただく。

明石海峡大橋の下をくぐる。往路の夕方と同様、大勢の人がデッキに出てくる。この橋をくぐるとようやく戻ってきたなと思わせる。南港まであと1時間だ。

大阪南港に近づく。岸壁からフェリーの作業の人たちが手を振る。少しずつ近づき、無事に着岸する。ようやく戻ってきた。やれやれという気分と、いろんなことがあった5日の旅だった。

フェリーを降りた後は流れ解散だが、ターミナルビルの入口では添乗員Kさんが出てのお見送りである。31名が無事に下船するのを見届けるということだ。改めて、ありがとうございました。

この後はニュートラムと四つ橋線から乗り継いで帰宅。元号またぎの旅は実にてんこ盛りで、深い思い出が残るものになった・・・。

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福江島~新門司港大移動

2019年05月19日 | 旅行記H・九州

1日半に渡る福江島の滞在を終えて、これから大阪に向けて戻る。またそのコースが大変なことになっており、改めて書き出してみると・・・

福江港13時40分~(ジェットフォイル)~15時05分長崎港~(タクシー)~長崎駅15時47分~(かもめ28号)~17時53分博多駅18時15分~(さくら566号)~18時31分小倉駅18時40分~(名門大洋フェリー送迎バス)~19時20分新門司港19時50分~(名門大洋フェリー)~翌朝8時30分大阪南港

ジェットフォイル、タクシー、在来線特急、新幹線、送迎バス、フェリー・・・と6つの交通手段が登場する。さらに、各駅ごとの乗り継ぎ時間がわずかしかない。往路は特急ソニックや夜行フェリーを乗り継いだが、往復それぞれで少しずつ違った乗り物ということで、ある意味たまらない。どこまでてんこ盛りなのだろうか。

また、博多から小倉の1駅だけ新幹線に乗るというのは、フェリーの送迎バスに間に合わせるための策なのだが、新大阪行きの列車なのでそのまま乗っていればその日の20時48分、つまりフェリー出航から1時間後には新大阪に着く。そこを一晩かけて戻るとは半分お笑いかと思うが、そこまで楽しませるのもクラブツーリズム流なのか。まあ、当初は長崎港から新門司港までバスで移動するプランだったし、往復で経路や交通手段が変わると、それは単なる帰り道ではなく、そこまでがある意味「往路」と言える。最後も船旅でとことん楽しもうということで、両方の船中泊を含めての「5日間コース」である。

さてこれから乗るジェットフォイルは長崎からの折り返し便で、「ぺがさす2」という船体である。手続きは済んでおり、桟橋の横にて乗船券を渡される。席の並びも男性一人参加が横並びで、乗船券を一枚ずつ引いて座る席を決めた。

13時40分の出航で、10分前には乗船開始ということでいったん解散するが時間はほとんどなく、フェリーターミナル内を散策するというわけにはいかなかった。すぐに乗船の列に戻る。

旅客定員は264名とあるがほぼ満席のようだ。大きな荷物は1階の出入口付近に置いて2階に上がる。ご一行は中央部の4~5列シートを割り当てられている。窓際ではないので外の景色を眺めるのは少し厳しい。気分は飛行機に乗ったようで、シートベルトの着用を促される。もっとも飛行機よりは開けた空間である。前方にテレビがあり、情報番組はちょうど新天皇陛下の儀式が行われた後で皇室、元号についての話をしているところ。

定刻となり、ゆっくりと船体が動く。ジェットフォイルに乗るのは初めてなので、どんな走りをするのか。前方に速度計があるので、少しずつ上がるのを見る。まず港内はじわじわと進み、沖に出ると速度を上げるようだ。

福江島が少しずつ離れるのが見えるに連れ、速度が上がる。最高で時速80キロ。速度だけ見れば高速バスのほうが速いが、海の上を浮かぶほうがスピード感を感じる。やがて、右手は水平線だけが見えるようになった。天候が穏やかだからか、揺れをほとんど感じないし、エンジン音もそこまでうるさくない。周りの乗客もちょうどお休みタイムとなる。

1時間25分のジェットフォイルも短く感じられる中で、前方に長崎市街地が見えてきた。それとともに、テレビが「水戸黄門」(それも東野英治郎版)の再放送となり、里見浩太朗・横内正版の「ああ人生に涙あり」のシブイ歌声が流れる。令和初日に昭和の水戸黄門に出会うのも面白い。伊王島大橋の下をくぐり、造船所のドックもちらりと見える。豪華客船も停泊しているようだ。今回長崎は完全にスルーなのがもったいないが、何せ大阪まで分刻みの移動なもので・・・。

ジェットフォイルを降り立ち、ターミナルも素通りする。この後はタクシーを8台予約しており、4人ずつ分乗するよう指示が出ていた。当然男一人参加4人が一組だが、「最後でええやん」との一声で8台目に乗車する。ジェットフォイルの中で添乗員Kさんから1000円入った封筒を渡されていて、タクシー代はこれで払ってレシートをもらうよう指示が出ている。

長崎駅までタクシーに乗るといってもワンメーターにも満たない距離で、個人の旅なら市電に乗るか、歩いてでも行ける距離。タクシーに乗っていたのは信号待ちを入れても10分となかったが、これもご一行が安全に乗り継ぐための手段である。

長崎駅に到着。改札口前で集合し、特急かもめと新幹線さくらの席の割り当てが書かれた紙を渡されて、そのまま改札を通る。これは団体乗車券扱いのためで仕方がないが、改札の中には売店がなかった。往路の小倉で同じように団体乗車券で改札を通った後は、改札内に売店もあれば立ち食いのうどんもあったが、長崎はそうはいかなかった。久しぶりの長崎だし、何か長崎市街の土産になるようなものでも・・と思ったが残念。

これから乗るかもめ28号は787系車両。九州新幹線開業前は「つばめ」「有明」などで活躍したJR九州の元エースである。この車両に乗ることができるのも(普段あまり特急に乗らない)乗り鉄としてはポイントアップだ。

発車までの間、せめてもの長崎での足跡として、旧国鉄急行塗装のキハ65気動車などをカメラに収めて乗車。割り当ての車両は荷物棚がないものの、シートピッチが広く取られていてバッグを足元に置いても苦しくない。

定刻に発車。長崎新幹線の開業と市街地の渋滞対策として高架工事が進む中を走る。その中で、浦上駅を出た後に見える長崎ビッグNスタジアムを確認する。いずれこの球場でも観戦したいものだ。

長崎線は二手に分かれる。長与回りの旧線、市布回りの新線ということで、特急は新線を通る。それでも行き違い停車がある。他の客の中には「何で停まるの?」と疑問の方もいた。

諫早に着く。ここも新幹線駅の建設中である。

ここで建設中の長崎新幹線について触れておくと、現時点では長崎から武雄温泉までを2022年に暫定開業させるという。鹿児島の九州新幹線も、先に鹿児島中央から新八代まで開業したが、今回もそのやり方を取る。武雄温泉から新鳥栖のあいだをどうするか、また並行在来線の扱いをどうするかで曲折があるようで、上下分離方式をとるとかJR九州が当面運行を続けるとか、今もなお流動的なようだ。

その新幹線は大村線方面に続くので、この先の長崎線は新幹線が開業すれば完全にローカル区間となる。特急で走り抜けるのもあとわずかだ。割り当ての座席はD席で、有明海とは反対側。まあ、同じご一行だが席を替われて言えるものではなく、有明海は反対側の窓越しに見る。それだけでも旅の幅は広がった気がする。

その代わりD席からは多良岳の姿が見える。地味ながら、長崎半島に続く陸地への押さえのような感じである。

またこの日、朝から時間が経つに連れて空が明るくなっている。福江島を出る時には晴天だった。太陽が西に向かうのを見て、「令和最初の夕日を見ることができるかもしれない」と勝手に期待する。

肥前鹿島に停車する。対向列車が遅れたのを待ったので、6分遅れとのアナウンスがある。

肥前山口は通過して佐賀県の中央部にさしかかる。広々とした平野である。そこに少しずつ西日が差し込んでくる。

次の停車は佐賀。ここで遅れが9分に広がる。博多での新幹線乗り継ぎは定刻で22分だが、それが9分遅れるとは結構慌ただしくなりそうだ。鹿児島線内で車両の異常を察知したので点検をしていたとかで、特急が乗り入れる長崎線にも影響が出ている模様だ。

新幹線との接続駅である新鳥栖、さらに鹿児島線との合流駅である鳥栖では遅れが13分に広がった。さすがにご一行にもざわつきが広がる。何せ次のさくら566号に乗れなければ名門大洋フェリーの乗船が危ういという綱渡りの乗り継ぎである。「何とかするんとちゃいますか?」と隣の男性は落ち着いた様子だが、在来線と新幹線ホームが比較的近いとはいえ、これ以上遅れるようだと厳しいだろう。私は、もしフェリーに間に合わなかったら後のこだま号でも構わない、追加料金を払ってもいいから今日中に大阪へ帰ろうやという気になっていた。それでも、往路でもし「太古」が結構になったら博多から陸路長崎まで移動して一泊して、翌朝のジェットフォイルで福江島に渡る・・という荒業を見せようかという添乗員である。フェリーに乗るための何らかの一手は考えているのだろう。「とりあえず、博多駅に着いたらすぐ降りられるようにしておいてください」とだけ触れて回る。

かもめ28号から新幹線に乗り継ぐ客は他にいるようだし、鳥栖を過ぎてからのアナウンスでは接続を取る方向での調整をしているとあった。鹿児島線に入ってスピードも上がったように感じられた。

少し霞んではいるが、車窓に太陽の姿を見る。フェリーに乗るまでのところで日は暮れるだろうが、「令和最初の夕日」を一応見たことにする。

かもめ28号はそのまま13分遅れで博多駅に到着。乗り継ぎ時間は9分で、後で確認したJRの時刻表に記載されている新幹線と在来線の標準乗り換え時間は7分とあったから、何とか慌てずに乗り換えることができる形だ。別に構内を走ることもなく、新幹線ホームに上がった時は1本前の東京行きのぞみが発車するところだった。

そして、さくら566号新大阪行きが到着。4列のゆったりシートに腰かけると、やはりこのまま終点まで乗って行きたくなる。個人旅行ならフェリーのチケットをフイにして新幹線の追加料金を払ってそうしただろう。ただ今回は団体ツアー。また、往復フェリーに乗るというのがツボである。

乗車時間はわずか15分で、その間にアンケート用紙の記入を求められる。泊まりがけでこうしたツアーに参加するのはほとんど初めてだっただけに団体ならではリズムやノリの違いや戸惑いもあったし、他の参加者と意気投合して・・というところまでは至らなかった(それは私のコミュニケーション力が不足していたのだろうが)。でも、初めて訪ねた福江島は面白く、今度は他の島も含めて行ってみたいし、福岡での10時間自由行動も楽しめたし、さまざまな乗り物を楽しめたのはよかった。紀行文がここまで長くなっていることにも現れている。

小倉に到着。ここも改札をそのまま出て、駅北のバス駐車場に向かう。名門大洋フェリーの送迎バス乗り場だ。そこに新しい観光バスが停まっていて、それに乗るよう案内される。これは完全にご一行のための貸切車両である。バスは北九州ナンバーの車両だが、ひょっとしたら、当初はこのバスで長崎港から新門司港まで移動しようというプランだったのかな。このまま新門司港まで直通する。

小倉駅前の交差点を右折しようとしたその時、道路の先に一瞬、真っ赤な夕日が見えた。ツアーの名前にもある「平成最後の夕日」は見えなかったが、「令和最初の夕日」のギリギリのところを一瞬とはいえ目にすることができた。添乗員含め他の方はどのくらい気づいたかわからないが、これでツアーのほうも面目を保てたと思う。

しばらくそのまま走る。遠くに関門海峡が見えるか見えないかのところだが、添乗員Kさんが関門海峡の案内をする。そこで出たのが耳なし芳一の話。新門司港までの間、その昔話の語りが入る。内容は有名なのでここでは書かないが、ナレーションだけでなく、芳一、和尚さん、亡霊の武将などの声を使い分けてKさんが語るのが堂に入っていた。「まんが日本昔ばなし」で、常田富士男や市原悦子が一つの話でさまざまな人物の声を使い分けるのにも通じる。語り終えると車内から拍手が起こる。語りの様子は、芳一がKさんで、ツアー客が平家の亡霊たち、子どもの参加者は安徳天皇かな・・・というのは、この後フェリー内での夕食で飲んだ時に酔いの中で想像したこと。

新門司港に到着。福江島からの長崎大移動を、途中ハラハラしながらもプラン通りにクリアしてフェリーに乗ることになる。「効率のよい移動」というのはこういうのを指すのだろうな。

いよいよこれから一晩かけて大阪に戻る・・・。

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福江島を出立する

2019年05月19日 | 旅行記H・九州

福江島での最後の見学スポットは石田城内の五島観光歴史資料館である。石田城の二の丸跡に城郭を模して造られたもので、平成元年の開館という。

石田城は幕末の開国の中で築城を認められた城である。やはり日本の最西端ということから、外国船を意識した造りである。今は埋め立てもあったので堀に見えるが、元々石垣の外は海に面していた。外国船の攻撃を防御する砦という意図があったという。石垣の色が途中で変わって見えるのは、潮の干潮により水位が変わることの表れだという。

資料館は平成の幕開けと共に開館した。そしてちょうど平成の終わり、令和の始まりに合わせて、ロビーでは平成の五島市の歴史を写真パネルで振り返る展示が行われていた。2002年(平成14年)に当時の天皇皇后両陛下が福江島を訪問された時の写真が一番の出来事として飾られていた。全国豊かな海づくり大会のため長崎県に来られて、合わせて地方視察として福江島の総合病院を訪問されたそうだ。

資料館は自由見学ということもあり、希望者は資料館には入らず城内にある五島氏の庭園に向かったようだ。時間が40分ほどなので両方の見学は厳しく、私は庭園より資料館のほうを選んだ。

まずは世界遺産であるキリスト教関連の紹介である。五島のキリシタンの歴史や現存する教会の紹介は前日からの復習のようなもの。また撮影禁止の札もなかった(はず)で、マリア観音像や十字架を描いた茶碗、ステンドグラスの一部などをカメラに収める。

また、五島の伝統芸能や産業の紹介もある。江戸時代には捕鯨も盛んで藩の収入源になったともいう。

2階展示室では、五島の先史時代からの歴史を順に追っている。弘法大師や遣唐使のことももちろんあるが、その中にこのような手形が展示されている。

「天長六年七月七日 於江島弁天法秘密護摩一万座修行 以其灰此形像 作者也 空海」とある。弘法大師の手形とされている。天長6年は西暦829年、弘法大師55歳の頃で、高野山で入定したとされる5年前のことである。その頃には東寺も高野山も開かれており、超有名人だったことだろう。この手形は、黄島にある延命院という寺の本尊である弁財天を刻んだ板の裏面にあったそうで、展示されているのはレプリカだが、指の間に、弁財天の護摩修行を一万回行ってできた灰で像を造ったとある。

弘法大師と福江島といえば、遣唐使としての「辞本涯」と、帰国後に虚空蔵菩薩の求聞持法の修行を行った明星院に接したが、他にもさまざまな伝説があったのだろう。それが五島にも八十八所めぐりがあるのにつながるのだが、もし弘法大師が実年齢の年に実際に改めて五島を訪ねていたとしたら、それはそれで面白いと思う。若くして苦難の末に唐に渡った時のことを懐かしみつつ、島の人たちのために弁財天の修行を納めようとか。あるいは自分が空海であることを秘密にして、一人の老僧として島の人たちと接したのかもしれない。

五島氏の治世下のこともあるが、伊能忠敬も福江島の測量に来たと紹介されている。その時、五島氏の家臣・坂部貞兵衛という人物が忠敬の助手として、あるいは分隊長として測量を助けたが、病のためにこの世を去る。忠敬は大いに悲しんで手厚く葬ったという。その測量図が展示されているが、今の地形図とほぼ変わらない。五島の測量に来た時には、藩内でも助手や分隊長ができる人材がいたくらいだから相当技術が浸透していたのだろう。

五島盛光。産まれは越後の新発田だが、五島氏の養子として家を継いだ人である。現在本丸跡に建つ五島高校の設立者でもある。その盛光の後継者の盛輝という人も横で紹介されていたが、年譜を読むと長崎の原爆で命を落としたとある・・。え?五島氏はその後どうなったのかな。まさか原爆で家系を断たれたとか?

福江では1962年に大火があった。福江の市街地の大半が焼かれたというが、死者が一人も出なかったのもすごい。大火から復興した町並みというのが現在の福江中心部の姿だという。

さまざまためになる資料館だった。今回は旅の最後、おそらく昼食へのつなぎに入れたと思う。福江島をざっくり回った後のおさらいという点ではよかった。逆に、資料館が最初だったらどうなっていたか。最初に五島の歴史を学んでいただいて・・というのはわかるし、私がプランナーならそんな行程にしたかもしれない。ただ、2夜続けてフェリーに揺られ、その後に「五島灘」でのウェルカム朝食バイキングやサザエの競り体験の次に資料館を持って来ていたら、参加者の反応はどうだっただろうか。

今回ご一行の31名の人たちは、何を目当てに、後は何がポイントとなってこのツアーに参加することを決めたのか。それはバラバラだと思うが、そうした人たちを最大公約数的に満足させる行程を組んだ添乗員Kさん、現地ガイドのSさんの配球にうなるばかりである。

五島にいるからか、資料館の記事までも長くなってしまったが、昼食時間が近づいたので資料館からほど近いカンパーナホテルに向かう。五島でもっとも格式のあるホテルとのことで、広間を仕切っての昼食である。

さすがに豪華とまでは行かなかったが、アゴを材料としたさつま揚げや、汁物代わりの五島うどんがある。また米は五島産のミルキークイーン。朝食の幾久山米といい、島でこだわりの米が栽培されているのに感心する。

少し時間が空いたので、ホテルのロビーで新聞を見る。そういえば朝コンネホテルでは朝刊を見なかった。やはり島となると時間差があるのかな。福江島でそうだから、ここからさらに船に乗らなければならない「二次離島」となるとさらに遅れるのだろう。船が週1便という黒島の年寄り母娘となると、そもそも新聞を見ることができるのかどうか。

5月1日、手にしたのは長崎新聞だが、当然話題は改元である。ローカル面では県内の様子も書かれていたが、バカ騒ぎをするわけでもなく、淡々と、粛々とその時を迎えた様子である。その中で地元企業が改元祝いの広告を連名で出すのは地方紙ならではかと思う。

時間となり、そのまま福江港に着く。前日からここまでさまざま案内していただいたガイドSさんともここでお別れである。いろいろ福江島や五島のことを語っていただいたおかげで得たものが多かった。今回上陸できなかった他の島も含めて、またいつか五島は訪ねてみたい。ありがとうございました。

さてこれから大阪に戻るが、往路に負けじと怒濤の移動である。添乗員Kさんがご一行を見渡してニヤリとしたところで・・・。

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鐙瀬溶岩海岸と五島の塩

2019年05月18日 | 旅行記H・九州

だいぶ昔に読んだ紀行文で、作家・池澤夏樹の『南鳥島特別航路』というのがある。「大自然の厳かな営みを、鋭利な科学の眼と真摯な感受の視線で綴る」(背表紙の紹介文)紀行文で、文化や歴史というよりは自然、地学をテーマに各地を巡ったものである(現在は『うつくしい列島』に収録されている)。手にしたのは表題でもある南鳥島やサハリンという、なかなか紀行の対象になりにくいところを巡った話や、私が読んだ当時に行く予定にしていた対馬の話が面白そうだったからだが、その他の文についてもさまざま学ぶことがあり、今でも折に触れ読み返すことがある。

その初めに収められているのが「五島列島のミニ火山群」という文である。五島列島を「小さな日本列島」「日本列島の模型」と見立て、火山活動でできた島々を観察して回るという内容のものだ。その最後に、大昔に大陸や南方から渡って来た人が最初に見た島影が五島列島で、まず島の一つ一つに入植して一族の数を増やし、そしてその先にある大きな島の九州に渡ったのではないかとしている。普段の目から見れば五島は列島の最果て(「辞本涯」)のように見えるが、大陸から見れば列島の玄関口とも言える。

五島に来るのだからその本を持って来ればよかったなと残念がる。そこは頭からスッポリ抜けていた。

バスは福江島の東海岸を走る。遠くに浮かぶのは「さざえ島」。島の名前になるくらいだからサザエも獲れるし、釣りの名所でもある。なぜか車内ではガイドSさんと客との間で「サザエのワタ(肝)を食べるか否か」の話題になっている。Sさんが「五島ではワタを食べない」と言うのに対して、「あのワタの部分が美味いんやろ」という返しが来る。どちらが主流なんだろうか。最後はSさんが、「じゃあ一度食べてみます」と折れていたが。

遠くの沖合いに1台の風車が見える。2016年から稼働している洋上風力発電設備で、海底ケーブルで島内に電力を供給している。タワーを海底に固定するのではなく、水中に浮く構造なのだそうだ。将来的には10基の建設を目指すそうで、これも五島の活性化につながると期待されている。

アメリカヤシやフェニックスの木が生える一帯に来て、鐙瀬(あぶんぜ)溶岩海岸に到着。鬼岳の火山から流れ出た溶岩が海岸に広がっている。全長7キロもあるという。海岸を見下ろす展望台から、鬼岳のこんもりした姿と、荒々しい海岸の景色を見る。前日訪ねた高浜海水浴場の紺碧の海とは対照的な景色だ。

遠くにいくつか島影が見える。人が住むのが赤島、黄島、黒島とある。ただ住むといっても赤島が19人、黄島が47人で、黒島にいたってはたった2人という。その2人というのが御年99歳のお婆さんとその70代の娘だとか。2人といっても最初から2人だけだったわけではなく、半世紀前は200人以上が住んでいたそうだ。ただ島を離れる人が相次ぎ、最後に残ったのが1世帯だけという。黒島へのアクセスは富江から船が週1便あるだけで、電気は通っているが水道は雨水を溜めて・・というところ。どのような暮らしぶりなのだろうか。Sさんは一度訪ねてほしいと勧めていたが・・。

鐙瀬海岸のビジターセンターがあるので見学する。五島の自然について紹介するスポットで、『南鳥島特別航路』の中でも触れていた火山としての五島の成り立ちについても解説されている。

火山が噴火して溶岩が流れ出るが、その破片も各地に放出される。それが大きさによって「火山弾」とか「火山涙」と呼ばれる。それがいくつも展示されている。火山弾はラグビーボールとかレモンに似た形をしたものがあり、火山涙はそれよりも小さいものだが、こうしたものが島内のあちこちで採取されるのも不思議に思う。そこらへんが、日本列島の模型と言われる所以なのだろうが。

椿物産館に着く。こちらで土産物タイムとなるが、その前に併設する塩工房「つばき窯」を見学する。大きな釜にちょうど薪が焚かれていて、作業をしているところだ。塩を一つまみ舐めさせてもらいながら製塩の説明を受ける。昔ながらの海水を煮詰めるやり方で、3~3.5%の塩分濃度が17%くらいになるまで煮たてる。

その後は余熱を利用して水分の蒸発を促し、21%くらいになると結晶化した塩分の上澄みができる。最後は30%くらいの結晶となり、その溶液としてにがりも取る。最後は自然の風に当てて乾燥させる。

こちらのご主人は「塩匠」と称されているそうで、「海の結晶は今や芸術の域に達している」と寄せられた賞賛文も掲示されている。 袋詰めの塩そのものを買ってもいいのだが使うのが難しいかと思い、小瓶に入った焼き塩や昆布塩などを買い求める。ちょっとした味付けにいいだろう。

2日目の観光はここで折り返しとなり、福江の市街地に戻る。午前中最後の時間、そして最後の観光スポットは五島観光歴史館の見学である・・・。

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堂崎教会

2019年05月17日 | 旅行記H・九州

5月1日、午後に福江港を出航するジェットフォイルまでの時間が観光である。この日は先ほど訪ねた鬼岳を含め、島の東側から南側にかけてのエリアを回る。またも複雑な海岸線を行くが、波もほとんどなく水面も透明である。ところどころに生簀があるのは「近大マグロ」の養殖だという。近大マグロが五島に?というのも不思議な感じである。確か和歌山沖で育てていなかったか。

これはガイドSさんからではなく後でネットで調べたことなのだが、近畿大学と豊田通商が技術協定を結び、2010年に豊田通商の手でクロマグロの量産を行うべく、新たに福江島に養殖拠点を設けたとある。当初は和歌山などから稚魚を移送していたが途中で半分が死んでしまうということで、福江島に種苗センターを設立し、卵からふ化させて稚魚にするところまでも福江島で行うようにした。それが成功し、近畿大学から「近大マグロ」のお墨付きを得たという。今後は養殖業者や高級店への販路を広げる方向で、資源保護のためにヨコワの漁獲量が制限される中、安定供給に向けての大きな進歩である。今回はマグロを口にすることはなかったが、五島の新たな名物が近大マグロ!となる日が来るかもしれない。

そんな入江の岬にある堂崎教会に着く。1908年、キリスト禁教令の廃止以降五島列島で最初に建てられた本格的な聖堂である。教会はそれまでに水ノ浦を含めて他に建てられていたが、近代建築による聖堂が初めてということだろう。建物の設計はペルー神父、施工は鉄川与助という、前日の教会めぐりでも登場した人たちである。レンガ造りの建物というのも五島で初めてということだが、周囲の穏やかな景色とよくマッチして見える。

境内には3つの像がある。まずは「宣教」として、戦国時代、アルメイダが五島で布教した様子を描いたもの。続いては「受難」として、豊臣秀吉の手で長崎で処刑された26聖人の一人、五島出身のヨハネ五島が磔に遭うもの。そして「復活」ということで、五島に再びキリスト教を広めたマルマン、ペルーの両神父が子どもたちに寄り添うもの。五島におけるキリスト教の本格的な復活がこの堂崎の地から始まったことの象徴という。

内部はミサも行われる祈りの場だが、資料館としての位置づけでもある。そのためここだけ入館料がかかるが、キリスト教弾圧、禁教時代の潜伏キリシタン関連の史料を見せる、見ることができるのは意義あることだ。

五島に潜伏キリシタンが多かったのは元から島にいた人に加えて、江戸時代に九州本土から移り住んだ人が多かったからという。1790年代、領地開墾のために五島藩は大村藩に農民の移住を要請した。大村藩は領内の潜伏キリシタンの追放をもくろんでいたことから利害が一致したし、キリシタンも大村藩からの迫害を逃れたいと、新天地に希望を抱いた。その結果、約3000人が海を渡ったという。

ただ、移住したからといって話は甘くない。実際はあてがわれた土地は開墾に適さない、条件の悪いものばかりで、苦しい生活が続いた。天国だと思って渡った五島たが実はここも地獄だった・・という内容の歌もあるほどだ。

その中にあってキリスト信仰を捨てずに必死で生き延びてきた人たちである。その後、明治になっての「五島崩れ」という弾圧もあったが、ようやく信仰の自由を得て各地に教会を建てるようになった。その集大成とも言えるのが堂崎教会である。

ガイドSさんによれば、日本のカトリック教会は1023ヶ所あり、このうち132ヶ所が長崎にある。その132ヶ所のうち50ヶ所が五島列島にあり、さらに分けると福江島に13ヶ所、上五島に29ヶ所あるという。上五島のほうが教会が多いのは、大村藩から移住した人たちが島伝いに渡ったからだとか、上五島の狭い土地しか与えられなかったからとも言われていて、いずれにしてもそうした集落に教会ができたためだという。ただ現在は過疎化の影響で、福江島にせよ上五島にせよ、一つの教会で信者が数人しかいないところが多いという現実がある。普段は閉めていて行事の時だけ開けるところもあるそうだ。

何の脈絡もないが、キリスト教が「八十八所めぐり」のように「教会巡礼」を開くのもありでは・・などと勝手なことを思う。

五島のキリスト信仰に関する史料も多く保存されている。その中で多数のマリア観音像が目立つ。観音像は慈母観音や子安観音など、子どもを抱く母親の姿で表されることも多いからカムフラージュには適した仏様と言える。よく見ると十字架があるとか、隠し扉の向こうにキリスト像があるとか、さまざまなものである。武将像に似せたものもある。

ヨハネ五島の聖骨が祭壇に祀られている。処刑後の遺骨はマカオに送られ、歳月が経ちその一部が聖骨としてマニラを経て五島に戻って来た。堂崎教会は殉教したヨハネ五島を特に顕彰している。

由緒ある堂崎教会だが、実は、長崎・天草キリスト教関連の世界遺産に含まれていない。五島に行くなら何かしらの世界遺産にも触れるのかなと思っていたが、そういえばツアーの案内にも世界遺産の文字がなかった。ここも違っていたのか。

堂崎教会は、潜伏キリシタンの歴史には欠かせないスポットということで当初は暫定リストの中に含まれていたが、最終的な登録申請にあたって構成遺産の見直しが行われ、その中で除外されたそうだ。現在は「世界遺産の構成遺産と一体的に保存・継承していく遺産」という言い訳めいた位置づけとされている。

別に世界遺産だから優れているとか一級のスポットだとかいうものではないが、多数のスポットを一つのストーリーにまとめて世界遺産とする・・・というのもなかなか難しいものだろう。私の地元・藤井寺市も百舌鳥・古市古墳群の一部を形成することから世界遺産登録に向けて動いているが果たしてどうだろうか・・(と書いた後で、百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録内定となった。これについては別に触れることにする)。

普段接する機会がほとんどないキリスト教関連のことも五島に来て少しは学べたことを意義に感じ、次のスポットに向かう・・・。

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「有藤さん一言」「ないです!!」・・・って言われているようでは・・・。

2019年05月16日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

長々とした旅行記の間であるが、挟みます。

ホームチーム推しの中継とはいえ、これでバッサリと切り捨てられたのがバファローズの守備陣。

まあ、一事が万事、今シーズンを象徴する試合でしょう。

ええ加減にせえや。

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