まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第11番「當麻寺」~新西国三十三所めぐり・25(曼荼羅が本尊はいいとして・・)

2017年01月31日 | 新西国三十三所
このところ更新が滞っていて(しかもシリーズの途中で)申し訳ないです。滞りの理由はまた改めて触れます・・・。

さて當麻寺の参道。當麻寺も子どもの頃には家族で訪れているはずだが、こうして札所として行くのは初めてである。同じ沿線にいながら、訪れた記憶や記録が残っているスポットというのも案外少ないなと思う。

参道には廃棄物処理場の建設に反対する内容の幟や張り紙が見られる。国宝を有する當麻寺の周辺と、奈良西部の近郊住宅も並ぶ葛城市のせめぎあいのようだ。張り紙も結構年季が入っているようだが、この問題はまだまだ継続中なのだろうか。

境内の東側が山門である。私が回る西国や新西国の寺院などの山門は南側に建つことが多いが、西から東に向く形である。これは西と南に山があるからという地形上の理由もあるそうだが、阿弥陀如来信仰によるものとされている。

境内を進むと、本堂へは正面方向に行くのだが、左手に中之坊がある。庭園が有名で写仏体験もできるそうだが、今回は見送る。ともかく本堂に向かうことにする。

當麻寺の開創は古く、当麻氏の氏寺として推古天皇の頃開かれたとされているが、不明な点が多いそうだ。当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、中世以降は「当麻曼荼羅」を信仰の中心としている。中将姫が五色の糸で一夜で編み上げたという伝承がある。その曼荼羅は真言宗の金剛界、胎蔵界曼荼羅のような幾何学的なものではなく、阿弥陀如来の西方浄土が描かれている絵巻物のようなものである。新西国三十三所を回っていると、観音以外にもさまざまな仏像が寺の本尊として祀られているのに気づくが、仏像ではなく曼荼羅が本尊というのは初めてである。いずれにしても観音信仰というものからは切り離された感じで、こうなると「新西国三十三所って、いったい何なのか?」と思ってしまう。そもそもは観音信仰の20世紀版が札所選定のベースではなかったのかと思うが、改めて内訳を見るとそんなこだわりはどこかにぶっ飛んでしまい、聖徳太子信仰も一部で、何だかよくわからないグダグダな構成だなと感じる。一貫性がなく、これでは札所めぐりの人気が上がらないのもむべなるかなと思う、當麻寺そのものは名刹で、何かに選定されることじたいは否定しないのだが・・・。

本堂の中に上がる場合は拝観料がいる。外陣から内陣に入る。センサーが作動して當麻寺の説明の音声が流れる。せっかくのサービスに対して失礼とは思うが、これは一応手順としてお勤めを行う(朱印をいただくのならお勤めをするというのが私のルール)。曼荼羅に対峙してというのも妙な気分だが。なおこの曼荼羅の原本は損傷が激しいため原則非公開で、後世に模写されたものを安置しているという。ただそれも傷んでいるように見られ、この手のものの保存の難しさを窺わせる。

新西国の朱印はこちらということで、「蓮糸曼荼羅」と記された一筆をいただく。そして「金堂にご案内します」と、別の係員に引率されて本堂前の金堂に向かう。ここに弥勒菩薩が安置されている。・・・こう書くと、私がVIP扱いされたと思う方がいるかもしれないが、そうではない。仏像の安全管理のため金堂は普段施錠されていて、本堂と金堂のセット券を買った参詣者がいると案内して扉を開けるというものである。

その弥勒菩薩、撮影禁止なので画像はないが、よくイメージされる弥勒菩薩と比べるとガッチリした体格である。顔の左側が傷んでいるのもリアルさを感じる。しばらく拝観して金堂を出ると、先ほど案内していただいた係の方が扉の横の椅子でずっと待機していて、私が出るとまた扉を閉めた。拝観の申し出があるたびにそのようにしており、おそらく仏像の盗難や損壊防止のためだろう。

當麻寺には二つの塔がある。西塔と東塔で、まさに薬師寺のようである。先ほど、當麻寺は阿弥陀如来信仰だから本堂が西から東に向き、山門も境内の東にあると書いたが、改めて調べると、そもそもはやはり南に山門があったそうだ。これは弥勒菩薩が本尊だったことと関係しており、本尊がいつの間にか阿弥陀如来の曼荼羅に変わると、寺の造りもガラッと変えられたとある。何かと複雑な歴史があるようだ。

本堂からさらに西へ、少し石段を上がったところに奥院がある。別途奥院の拝観料がかかるが仕方がない。ここは阿弥陀の曼荼羅を本尊とする寺のさらに奥の院ということで、浄土宗を名乗っている。有名な中之坊をパスして奥院に来たのはわけがある。

先に西塔と東塔があると書いたが、位置の関係でこの二つを一枚の写真に収めることができる、つまり両方いっぺんに見ることができるスポットは限られている。奥院はその一つである。當麻寺というところ、いろいろな角度で見ることができる。季節を変えると花の楽しみもあるようで、今回訪れなかったところも含めてまた足を運んでみよう。

そして、次の行き先を決めるくじ引きとサイコロである。

1.赤穂(花岳寺)

2.加古川(鶴林寺)

3.比叡山(延暦寺)

4.大阪市内(太融寺、鶴満寺)

5.高槻(安岡寺、神峯山寺)

6.明石(太山寺)

そして出たのは「2」。加古川である。まだまだ播州に訪れていない札所が固まっており、次はその一つが出てよかった。実は青春18きっぷが1回分残っていて、今なら1月9日、成人の日に投入することができる。これはいいタイミングかな・・・。

帰りは参道を当麻寺駅まで歩く。途中、相撲館の前を通るがここも年末年始の休館。まあこれも織り込み済みである。そもそも年末年始に博物館、資料館の類に行こうとすることじたい無謀なことなのかもしれない。目的とした新西国の3つの札所は確かに回ることができたが、道中のアクセントがもう一つだったなというのが今回の感想である。

それでも、もう少し日をずらして、せっかくなら相撲館だけでも見学できるように時間のやり繰りをしたほうがよかったのだろうが・・・・。
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第11番「當麻寺」~新西国三十三所めぐり・25(竹内街道をゆく)

2017年01月26日 | 新西国三十三所
太子町の2ヶ所を参詣した後で當麻寺に行くわけだが、ここは電車に乗らず歩いて向かうことにする。

竹内街道。日本最古の官道といわれており、堺から東へ進み、葛城市の長尾神社までのおよそ30キロの道である。難波と飛鳥を結ぶ大道として開かれた。羽曳野市から東は、現在の国道166号線に相当する。これから太子町から竹内峠で県境を越えて、葛城市の竹内を経て當麻寺に向かうことにする。

叡福寺、西方院の前の道を歩き、太子町の中心部を通る。町役場を過ぎると国道166号線に出る。ここからクルマの多い国道を行くことになるが、脇道がある。竹内街道の看板もあり、こちらが旧街道だろう。

太子町には飛鳥時代の天皇陵がいくつかあるが、竹内街道に沿って孝徳天皇陵がある。この辺りは百舌鳥・古市古墳群のエリアからは外れるのだが、飛鳥時代の頃になると天皇陵も小ぶりなものになる。その百舌鳥・古市古墳群であるが、今回も暫定リスト入りを逃している。別に世界遺産だけが価値のあるものではないし、ここまで「え?」と思うところが登録されているのに選ばれていないのなら、この運動ももういいのではないかと思う。

少しずつ緩やかな坂を上る。前方からトレッキングポールを持った人たちとすれ違う。竹内街道はこうしたウォーキングのコースとしても親しまれていて、中には堺から葛城まで1日で踏破する人もいるようだ。

古い造りの家もあり、ここを歩くのは初めてだがなかなか趣がある。集落を抜けたところに歴史資料館があるが、年末年始ということで残念ながらお休み(これを書いているのは1月も終わろうとしている時期だが、実際に行ったのは1月の4日である。念のため)。ここで再び国道166号線に合流する。道の駅でトイレ休憩をとる。この辺りでもみかんが採れるようで、カゴやダンボール単位で売られている。

ここから交通量の多い区間を歩く。途中歩道もあるにはあるが、歩道がなく白線のみという区間もある。まだ4日だからか大型トラックはさほどいなかったが、普段は大阪南部と奈良を結ぶ区間としてそれらも多く走るだろう。それを考えると歩きはあまりお勧めできないところかもしれない。大阪府側の後半はクルマにヒヤヒヤしながら歩く。

そうするうちに竹内峠に着いた。大阪と奈良の県境。歩行者用には脇にそれる階段があり、休憩スペースがある。これを過ぎると再び国道からの脇道、旧街道がある。木々が生い茂るがクルマが通らないぶん歩きやすい。国道の姿は見えなくなったが、代わりに南阪奈道路が見える。この脇道も沿道の工事車両が走るようだ。ただこの日は工事も休みのようで、そうした車両には1台も会わなかった。

時折、こうした矢印のステッカーを見る。四国八十八所の遍路道の案内みたいだなと通りすぎるが、すぐにああそうかと気づいた。この竹内街道は、西国三十三所を徒歩で回るコースでもある。第5番の葛井寺から第6番の壷阪寺へのルートで、ステッカーは「西国古道」を現在に受け継ごうというNPO法人の手によるものだ。

竹内の集落に差し掛かる。旧街道沿いには、先ほどの太子町側よりも風格のある家屋が並ぶ。門の前を流れる用水路も昔ながらの雰囲気がある。

この集落の中に、「綿弓塚 」というのがある。俳人松尾芭蕉がこの地に住む門人を訪ね、「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」の句を残したとされる。句の意味はさておくとして、現在は当時の建物を整備して休憩所としており、竹内街道の有名スポットとして地元はアピールしているようだ。

當麻寺には竹内集落の途中から直線で行けるが、せっかくなので古い町並みが県道で区切られる交差点まで歩き、今度は県道を北上して、当麻寺駅から當麻寺への参道の交差点まで行く。ほどよい歩きとなり、この日3ヶ所目となる當麻寺に向かう・・・。
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第8番「西方院」~新西国三十三所めぐり・24(小ぶりだがまとまっている)

2017年01月25日 | 新西国三十三所
叡福寺の石段を下りてバス道路を渡り、細い道の石段を再び上がったところに小ぶりの寺がある。ここが新西国の8番札所の西方院である。山門に仁王像が立つわけでもなく、見たところ普通の邸宅の門構えである。新西国を回るのでなければその存在に気づくこともないだろうなと思う。

この西方院は聖徳太子の3人の侍女が開いたとされる。その3人とは蘇我馬子の娘、小野妹子の妹(紛らわしいな)、物部守屋の妹で、太子の死後に出家して、それぞれ善信、禅蔵、恵善と名乗った。3人は「三尼公」と称され、太子の菩提を弔うためにこの寺に入ったという。場所からして当初は叡福寺の塔頭寺院だったようだ。

境内に入ると寺というよりは個人の屋敷に来たような造りである。中央が庭園としてまとまっているのでそう感じさせる。角に鐘楼があるから寺にいると実感できるところだ。本堂は東向きに建っている。寺としての本尊は聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来。だから西から東を向いている。ただ、聖徳太子がこのような阿弥陀如来を本当に作ったのなら、歴史の教科書や仏像の本に登場してもおかしくないが、初めて聞くことである。ここは伝説として受け止める。

新西国三十三所は観音霊場めぐりだが・・・と周りを見ると、本堂の右手に南向きの観音堂があった。こちらは恵心僧都の作とされている。寺としては両方が本尊という扱いである。他の参詣者はおろか寺の人の姿も見えないが、ここは本堂前で般若心経のお勤めである。

そして納経帳に朱印というところだが、寺の人の姿も見えないしどうしたものか。ふと本堂の障子を見ると、回向、納経受付の張り紙があった。これは本堂の中に入れということかと障子を開けると、確かに受付があった。呼び出しボタンがあったので押すと、本坊から寺の人がやって来た。

西方院は決してずぼらな寺ではなく、回向や永代供養もやっているし、寺のホームページもまめに更新されている。新西国の札所ではあるが、観光色を出さずに地道にやっているところと見受けられる。

それにしても、前の記事でも触れたが、叡福寺の塔頭寺院という成り立ちがある西方院に札所番号があり、本家の叡福寺が客番扱いというのはなぜかなと思う。まあ、それもいろんなことのある新西国の姿である。

さて次は当麻寺である。ここから上ノ太子駅に戻って南大阪線で当麻寺駅に行くのが普通だが、今回は近場である代わりに、ウォーキングを組み合わせることにする。キーワードは「日本最古の官道」ということで・・・。
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客番「叡福寺」~新西国三十三所めぐり・23(聖徳太子御廟)

2017年01月24日 | 新西国三十三所
1月3日に鳥取まで行った翌4日、新年御用始めの日であるが私の勤務先はこの日まで休みである。それを利用して、今度は新西国三十三所めぐりである。

今回サイコロで決まったのは客番の叡福寺、第8番の西方院、そして第11番の当麻寺である。一度に3つとはハードな感じだが、いずれも地元藤井寺と同じ近鉄南大阪線沿いである。いつものように朝早く出発する必要もなく、それでも朝の9時には出発していた。また、別に1月4日に行かなくてもと思うが、これもある思惑があってのことである。それはまたいずれ。

さて叡福寺、西方院がある太子町は言わずと知れた聖徳太子ゆかりの地で、新西国三十三所の札所が聖徳太子の「和」の道もベースにして選ばれたことを思えば、「らしい」エリアが出たというところである。その中で叡福寺は小学校の遠足レベルでも行くくらいのところで私も子どもの頃に行ったが、西方院というのは初めて行った聞く名前である。ただ新西国にあっては、札所番号は西方院にあり、メジャーなはずの叡福寺は客番という扱いである。これも不思議なことだが、今となっては札所選定の具体的な過程もよく伝わっていないので理由はわからない。

古市から橿原神宮前行きに乗り換えるが、浮孔の辺りで人身事故があったとかで、この列車は途中の尺土止まりに変更との案内がある。私は上ノ太子で下車するからいいが、中には「橿原神宮前まで行かなあかんのにどうやって行くんや」とぼやく人もいる。

今こうして改めて記事にする中で、私ならどうするか考えてみる。地図を見る限りでは南大阪線の二上山から大阪線の二上が歩いても比較的距離が短いように見える。二上から大和八木まで出て、橿原神宮前に向かう。そんなところだろう。

その時はそこまでの思いもなく、「この人も大変やな」というくらいで上ノ太子で降りる。叡福寺には上ノ太子もしくは長野線の喜志から金剛バスで行くのが一般的だが、ここは上ノ太子から歩いて向かうことにする。歩いて20分といったところだ。

上ノ太子からは聖和台という、聖徳太子ゆかりの地らしい名前の住宅地を歩くのが最短である。徐々に高台になるところで、一軒一軒がゆとりを持った造りの家が並ぶ。その中の交差点には通学の生徒児童の飛び出し注意の看板がある。一般的には子どもや漫画のキャラクター(の模倣)が使われる看板だが、さすが太子町、飛び出し坊やが聖徳太子とは。聖徳太子がランドセルを背負う絵というのも太子町ならではだ。

高台のピークを過ぎて下りになるとしばらくして叡福寺の案内板があり、境内に入る。ただこちらは裏から入る形なので、いったん境内を通り抜けて改めて山門に出る。山門は南向きで、外から見ればさすが由緒ある寺院の姿である。

まずは叡福寺の本堂に当たる金堂に向かう。本尊は如意輪観音ということで、新西国も元々は観音霊場だということを考えれば、ここでお勤めをすればいいのだろう。西国や四国とは違い、新西国は「ここにお参りすればいいのだろう」というのがわかりにくいことがある。寺の本尊が観音ではないところも多いし、同じ関西の西国と比べて商売色、観光色が少ないためにメインがどこかわかりにくいこともある。ただこの金堂も、山門からまっすぐ北にあるわけではなく、ちょっと遠慮して脇にあるように見える。

山門からそのまま北にあるのが聖徳太子御廟である。御廟の前に二天門というのがあり、それをくぐると正面に御廟の祠がある。ただ、その手前には柵があり、そこから先は宮内庁の管轄だという。これは21世紀の今までに聖徳太子の伝承が受け継がれた現れなのかもしれない。

叡福寺は大らかな寺なのか、聖徳太子信仰をベースにしている寺であるが、境内には大師堂に浄土堂というのがある。弘法大師に親鸞がいる境内・・・確か四天王寺もそうだった。親鸞は聖徳太子を尊敬していたからわかるが、弘法大師と聖徳太子というのは相容れないのではという思いもあるが、どうだろうか。

一通り回り、朱印をいただく。まずは3ヶ所のうち一つをクリアしたということでやれやれである。

さて次は西方院に向かうのだが、ここから上ノ太子、または喜志に向かう金剛バスに乗る必要はない。叡福寺の正面の石段を下りようとすると、石段を下りきった正面の向こうに石段が延び、寺院の様子が見える。これが西方院である・・・。
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帰路は臨時ダイヤの影響で・・・

2017年01月23日 | 旅行記F・中国
15時過ぎに鳥取駅に到着。そろそろ帰りの時刻も気になるところである。この時間から鳥取砂丘など行っていたら遅くなるということで、駅にとどまることにする。

途中口にしたのは湯村温泉のゆで卵だけだったし、せっかく鳥取まで来たのだからと、遅い昼食のような早い夕食のような食事とする。向かったのは鳥取駅の高架下にある「三代目網元 魚鮮水産」。こちらも海鮮居酒屋のチェーン店であるが、それぞれの地元の漁港からの直送というのも売りで、鳥取は賀露港のものも結構ある。昨年来た時は昼の定食をいただいたが、ランチタイムでも普通に一品ものが注文できるということで、今回はそういう形でいただく。

鳥取は1月3日に成人式を行う。この日振袖姿の新成人が駅前にいたし、店の中もそうした会で座敷が盛り上がっている。そんな中でテーブル席に陣取り、まずは刺身の盛り合わせからいただく。

他に地のものとしてはしじみの酒蒸し、はたはた塩焼き、長いもなど。その中ではたはたの1匹はメスで、久しぶりに卵の粒々の感触を味わう。

さてお腹もできたところで大阪に向けて帰るわけだが、この時間なら17時発の智頭行きに乗ることになる。ただこれが曲者で、通常のダイヤでは16時58分発であるが、1月の3日と4日に限っては臨時の特急が運転されるために、発車が2分繰り下がる。まあこれはよしとする。問題はその後で、通常ダイヤの16時58分発なら智頭着が17時48分。ここから、17時53分発の津山行き、そして18時発の智頭急行経由の上郡行きに乗り継ぐことができる。ところが、17時発の臨時ダイヤだと、途中の郡家で30分停車することもあり、智頭に着くのは18時12分。案内放送やホームの貼り紙では、智頭では津山行き、上郡行きの接続は行わないとある。大阪には智頭を1本後の19時15分発の上郡行きでも戻れるので別にいいのだが、何かえげつないことをするなと思う。たかが2分遅らせることが1時間のロス、さらに乗り継ぎの人となると影響は大きく、中には当日中に帰宅できない人も出るのではないだろうか。

智頭で1時間待つのなら鳥取滞在をもう1時間延ばせばいいわけだが、そこはどういうことになるのか、あえて飛び込んでみよう。智頭行きは再びキハ47で、こちらもガラガラである。

車内では車掌が「本日ダイヤ変更のため、智頭からの津山行き、上郡行きの接続はありません」と繰り返し放送している。そしてその後で、「智頭から先へご利用の方は、車掌が通りましたらお申し出ください」と続く。そこで車掌が通りがかった時に上郡方面に向かう旨を伝える。すると「その先はどこまで行かれますか?」と来て、「大阪方面です」と答えると、「よろしければどちらの駅か教えていただけますか?」と続いて訊かれる。このダイヤ変更のためにどういった乗客に影響が出たかを報告するのだという。

車掌は何回か車内を回り、他にも「影響客」がいるようで、「智頭から別の手段を用意するかどうするか確認していますので、智頭に着いたら駅員にお申し出ください」と言われる。先ほどの「どの駅まで行くのか」というのも、場合によっては代替手段を手配することもあるのかなと思う。

18時12分、智頭に到着。すっかり暗くなる中、他の列車は停まっていない。「智頭から先に行かれる方」ということで改札口の前に7~8人が集まった。上郡方面に向かうのは私ともう一人で、後は津山方面に行く客。津山までの駅に行く人もいれば、津山からさらに岡山に行く人もいるようだ。先にその人たちにはタクシーが用意され、津山まで行く人と途中までの駅に行く人が分乗した。

で、残った上郡行きだが、もう一人の人も大阪市内に向かうようで、「1時間近くお待ちいただきますが、19時08分発のスーパーはくと14号で上郡までご乗車ください」と案内される。智頭急行線内で青春18が使えないことには変わりないので運賃は車内で払うとして、自由席特急料金420円は不要とのこと。

そのための「業務連絡書」というのをもらう。「1/3 659Dから752D不接のため 64Dに智頭駅~上郡駅間便宜乗車願います」とある。659Dが鳥取からの智頭行き、752Dは智頭からの上郡行き、そして64Dはスーパーはくと14号である。これが特急の停まらない駅までの利用ならタクシーだったのだろうが、結局大阪まで行くのなら特急に料金なしで乗せたほうが、420円×2名分の損失で済むという話だ。また、タクシーを2台出して津山までどのくらいの運賃がかかるかわからないが、それを含めても、智頭発の列車の発車を遅らせてそれ以降のダイヤにも影響を及ぼすよりは最小限の措置で清むということだろう。

結局待ち時間は智頭駅の待合室で過ごすうち、特急がやって来た。混んでいる感じだったが自由席の通路側に空席があり、座ることができた。車掌が改札にやって来たので先の「業務連絡書」を見せて運賃を払おうとしたら、「これで上郡まで行けるんじゃないですか?」と逆に訊かれる。ただ、ここまで青春18で来たことを話すと納得したようで、所定の1300円を支払う。黙っていれば浮かせたのかもしれないが、やはりそこはきちんとしておかないと。

特急の効果は大きく、智頭を7分後に出る上郡行きの鈍行に乗るより、1時間以上早く上郡に着くことができた。ただ上郡でも20分ほど待つので、時間的に損しているのか得しているのか、よくわからなくなった。それでも、個人的には鳥取からここまでの一時は面白い時間だったと思う。

駅の改札には「山陽線・兵庫県最西端の駅」と書かれたボードが置かれていた。よく考えれば早朝に兵庫県南東の尼崎を通り、昼には北西の浜坂、湯村温泉、そして夜に県最西端の駅に立っている。途中いろいろあったが、何だか兵庫県の広さというのを感じたような、そんな青春18の日帰り旅であった・・・。
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湯村温泉へ

2017年01月22日 | 旅行記E・関西
浜坂の駅前に降り立つ。鈍行で5時間とはずいぶん遠くに来たと思うが、ここはまだ兵庫県である。福知山線の分岐である尼崎が県の南東で、浜坂は北西である。だが気候風土は結構異なる。改めて兵庫県の広さを感じる。浜坂には、以前にユースホステルの松葉ガニのプランで泊まったのが印象的である。高級旅館でなくてもこれでもかとカニを味わえたのがよかった。今はユースホステル自体が休館とのことだが、またいつか復活してほしい。

次の湯村温泉行きのバスは11時30分発である。全但バスの車両だが、新温泉町のコミュニティバスとして運行されている。乗客は私を入れて4人。そのうち一人は出発前にバスの外観、そして内装の細かいところをスマホで撮りまくっていた。確かに年代物の車両とは思うが、何かマニアの心をくすぐるものがあるのだろうか。

バスは山側に進む。七釜温泉を通り、30分ほどで湯村温泉にさしかかる。終点一つ前の薬師湯バス停で下車する。ここから階段を下りたところにあるのが、公衆浴場の薬師湯である。施設は比較的新しい建物。料金は400円だが、シャンプーやボディソープはないとのこと。小さな容器のシャンプーと固形石鹸を追加で買って中に入る。シャンプーや石鹸を置いていないのは、いかにも地元の人たち向けの銭湯だなと思う。高級ホテルの大浴場もいいが、こうした地元向きの大浴槽、そして露天風呂に浸かり、正月気分を味わう。

風呂から上がると休憩スペースのテレビでは箱根駅伝の中継をやっている。復路は青山学院の独走のようだ。

薬師湯からすぐのところに、湯村温泉のシンボルである荒湯がある。ここは多くの観光客で賑わっている。湯村温泉といえばドラマ『夢千代日記』で有名なところである。

・・・と書いたが、吉永小百合さん主演の映画を一度DVDで観たことがあるが、ストーリーもよく覚えていない。架け替え前の餘部鉄橋が出ていたと思うが、全体的に暗い話だったという程度の印象で、そもそもこの話は実話なのかフィクションなのかすら理解していない。改めて調べたところでは、ある実話をもとに、早坂暁氏がその舞台を湯村温泉に設定して書き下ろした作品だという。

温泉の中心には夢千代の像が建てられている。この像は吉永小百合さんをモデルにしたそうで、像のそばには早坂氏と並んで吉永さんの手形も飾られている。薬師湯から歩く途中に夢千代日記の資料館である夢千代館というのがあったが、別にいいかなと素通りした(ストーリーの記憶が曖昧なら、今更ながらそうしたスポットに立ち寄ればよかったと思う)。

それよりも湯村温泉の名所といえば、中心部の荒湯。湯村温泉は平安初期に慈覚大師円仁によって発見されたと伝えられ、荒湯には円仁の像も安置されている。源泉の温度は98度と高温で、寒い中でも湯気が立ち込めている。この高温を利用して玉子や野菜をゆでることができる。観光客向けには横の土産物店で玉子やじゃがいも、とうもろこしなどが売られており、私も玉子を買う。12~13分でゆで上がるということでしばし待つ。

そして出来上がった玉子。最初に割ったものはまだ半熟だったが、その次はいい具合にできあがっていた。これを荒湯の横を流れる川沿いでいただくのがよい。足湯もある。5個入りを買ったのだが、板東英二ではないので一度に全部は食べられないとして、3個は土産として持って帰る。

そろそろ帰りのバスの時間ということで今度はバスターミナルに戻る。途中に円仁が開いたとされる薬師堂があるのでお参りする。本尊薬師如来は病気平癒や延命のご利益があるとして信仰されており、湯治を目的とした温泉というのにも合っている。

バスターミナルには何台もの観光バスが停まっており、団体客がぞろぞろと降りてくる。ちょうど昼時ということで日帰り温泉のツアーだろうか。なお湯村温泉には梅田から阪急の高速バスが出ており、青春18の旅でなければそちらのほうが便利である。一方で帰りの路線バスといえば・・・乗客は私一人。やはり地方の路線バスはどこも厳しい状況のようだ。

浜坂駅に戻り、14時20分発の鳥取行きで鳥取を目指す。列車の出発まで少し時間があるので、バス乗り場横にある足湯にしばらく浸かる。これで湯村、浜坂という2つの温泉をはしごしたことになる。また、駅前のまち歩き案内所をのぞいて見ると、「セコがにの味噌煮」という一品を見つける。写真はないのだが、漁師の冬の保存食として作られたのが始まりで、現在は浜坂の家庭料理となっているそうである。それをこの冬に初めて土産物として発売しているとのこと。殻つきのセコがにをぶつ切りにして味噌やみりん、砂糖で味付けしたもので、帰宅してからいただいたのだが、味噌の風味とかにの旨味がよく合っていて美味かった。セコがには漁期が短いこともあり、味噌煮も限定販売のようだが、これはまた食べてみたい一品である。

鳥取行きに乗車。そういえば昨年も1月3日に智頭急行経由で鳥取に来ている。その時は快晴の下、若桜鉄道やら鳥取砂丘を回ったのだが、今回はそこまで行く時間はないかなと思う。そのぶん、鳥取で何か美味いものということで・・・。
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青春18日帰り周遊へ

2017年01月21日 | 旅行記E・関西
年明けからこの前まで半月以上四国八十八所めぐりのことを書いていた。人によっては、半月間ずっとほっつき歩いていたかのような感想を持つかもしれないが、結局は3日間の出来事である。

年始は元日夜に帰宅し、2日は地元藤井寺の葛井寺参詣やら実家での家族での食事会となる。そして3日は1日空くということで、青春18きっぷを使っての日帰りのお出かけとする。ただ、明確にどこに行こうと決めているわけではない。東のほうは年末に浜松まで行ったので、別の方向を目指したい。

そんな中で朝の6時に大阪駅に現れる。ここからどの列車に乗るかだが、ここでやはり頼りになる?のはサイコロである。ここはサイコロで乗る列車を決めよう。番線の小さい方から、

1、2・・・6時09分発篠山口行き(篠山口で福知山行きに連絡)

3、4・・・6時25分発姫路行き

5、6・・・6時21分発米原行き(京都で近江今津行きに連絡)

として、山陰、山陽、北陸のいずれかを目指す。この年末年始はどこも天候が穏やかで、列車で行く範囲なら雪の心配もなさそうだ。一応雨に備えて傘は入れているが。

そこで出た目は「2」。ということで4番乗り場から出る篠山口行きに乗る。3日に大阪を発つ人も少ないようで、8両ガラガラで出発する。外はまだ暗く、三田あたりからようやく明るくなってきた。

篠山口に7時23分に着き、福知山行きには4分の連絡。8両から2両への乗り継ぎは混むかなと思ったがそうでもなく、2人がけシートが並ぶ車内も半分くらいの乗車率である。福知山までの車中、どこに行こうか考える。福知山から山陰線に乗り継ぐとして、ひたすら乗りまくって遠くを目指すか(米子の手前、伯耆大山から伯備線で南下するくらいまでならできそうだ)、城崎温泉や餘部鉄橋というところを訪ねるか。京都丹後鉄道に乗るという手もあるが、それなら天橋立にある成相寺にも行きたくなる。ただこの日は納経帳を持ってきていない。ならば行くのももったいない。

福知山に8時31分着で、いったん改札の外に出てコンビニで買い物をした後、8時54分発の豊岡行きに乗り継ぐ。こちらは京都方面からの客も合わさり、2両の車内は満席である。そとは京都府から再び兵庫県に入るところだが、時折雨が落ちてくる。かと思ったら晴れ間も出て、この時季特有の変わりやすい天気である。

これからどうするか。ここはサイコロによらず自分で時刻表を見て考える。豊岡に10時09分に着くが、次の浜坂行きが2分で接続している。この区間は海も見えるところだ。ただ満席の乗客で海側の席が取れるか。そこで、もし取れればそのまま浜坂まで行く。取れなければ2つ目の城崎温泉で途中下車する・・・ということにした。

そして豊岡に着いてホーム向かい側の列車を見るとほとんど先客が乗っていない。これは幸いとボックス席に向かう。これで城崎温泉より先に向かうとする。城崎温泉にはまたいずれ来る機会があるだろう。

円山川に沿って走り、城崎温泉に到着。ここで乗客の半分ほどが下車した。朝から乗り継いで来た人も、ここが目的地だった人が多いということか。正月ということでなかなか旅館には泊まれないにしても、外湯を楽しむことはできるし、食堂に行けば山陰の海の幸をいただくこともできるだろう。

すっかりローカル線鈍行らしい車内となり、日本海沿いを行く。キハ47が昔ながらのエンジン音を立てて走る姿が見られる区間も少しずつ減っている。中国地方や兵庫北部ではこうして残っているが、あとどのくらいの期間走っているだろうか。

香住、鎧と過ぎて次が餘部である。何回も来ているところだが、鎧の駅を過ぎていくつかのトンネルを抜ける時の緊張感のようなものは、いつ来ても感じるところである。他の乗客もカメラやスマホを取り出して準備している。

そしてトンネルを出て橋脚の上へ。コンクリート橋に変わってもこの眺めは大きく変わるものではなく、渡るまでの一瞬を楽しむ。そして今は多くの参詣観光客が訪ねるスポットであり、この日も列車が来るのを見ようという客が多かった。ただ、餘部で降りた人は2~3人いたが、ホームにいた大勢の客で列車に乗ってきた人肌いなかった。

浜坂行きの車窓の見所はこれで終わり、11時18分、浜坂に到着。ホーム向かい側には鳥取行きがすぐの発車を待っている。

ただ、私はここで階段を下りて、改札の外に出た。今回の目的地ということで車内で決めたのは、ここからバスに乗り換えた先の湯村温泉。城崎と比べると知名度は低いかもしれないが、こちらも名湯である。学生の時に家族で訪ねたことがあるが、それ以来である・・・。
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第6回四国八十八所めぐり~ようやく帰阪

2017年01月20日 | 四国八十八ヶ所
元日に徳島の残り3つの札所を回ったがまだ14時台。徳島駅からのバス移動と途中の歩きを入れても3時間というところで、これならば前回来た時にどこかで時間を捻出できなかったかなとも思う。まあ結果論だし、そこだけ早くしたところで全体が変わるものではない。

国分寺から田園風景が広がる農道を歩いたり、住宅地の中を歩く。途中、ラジオを音を出してぶら下げた地元の人とすれ違う。サッカー天皇杯の中継で、鹿島アントラーズがちょうど得点をあげたようだ。

住宅街を歩き、細い道から四つ角を曲がるとふいに寺の山門が現れた。第16番の観音寺である。前回は10月というのに汗ばむ中お参りしたところである。遍路巡拝姿の方もそこそこいるし、素通りもどうかと思いお勤めする。ただ、納経所には行かなかった。いわゆる2巡目でもないし、徳島市内5ヶ所めぐりの一つでしかないここだけ重ね印をいただくのも変かなと思った。お参りしたのは確かだが、この記事のタイトルにはあえて札所番号をつけないこととする。

そのまま府中(こう)駅方面に向けて歩くと、行きがけに通った府中の宮のバス停に出る。ふと時間を見ると1分前に徳島駅行きが行ったばかりである。ただ、先ほどから歩いている中でバスが走り抜けたのを見ていないし、バスだから遅れる可能性があるかなということでしばらくバス停に立ってみる。すると1分ほどでやって来たのでこれに乗る。もしバスが定刻で行っていたり、あるいは次が結構な待ち時間ならどうしたか。府中の駅まで出て列車に乗ろうと漠然と思っていたが、思いのほか早く進んだので、駅を挟んで北側の第17番井戸寺に行こうとも考えていた(そうすれば1日での徳島市内5ヶ所めぐりが成立する)。そんな中でちょうどバスがやって来たので、井戸寺のお参りそのものをカットして、徳島駅に戻ることとした。成り行き任せというより成り行きそのものである。省略された形の井戸寺には申し訳ないのだが・・・。

再び戻った伊予街道も混んでおらず、15時半には徳島駅前に立っていた。帰りの大阪へのバスは20時発の阪急バスだったが、その時間までだともて余しそうなのでキャンセルして、18時45分発のJRバスに繰り上げた。空席照会ではガラガラで、元日というのはまだUターンラッシュの動きも少ないようだ。

で、それまでの時間。3日間の巡拝旅、果ては徳島県内の札所を終えた打ち上げのような感じである。まず入浴をと、駅前のホテルサンルートの最上階にある「びざんの湯」に向かう。宿泊客でなくても日中の日帰り入浴ができるところで、受付で元日ということで干支の酉をかたどった石鹸をプレゼントされた。さほど汗はかいていなかったが、新年初湯として楽しむ。

そして夕食というか一献なのだが、これまで訪れていた駅前の店はいずれも元日休み。できれば徳島の郷土料理あれこれで締めたかったが仕方がない。ならばと向かったのが、ロータリーの反対側にある、「笑」の字がつくチェーン居酒屋。メニューに徳島の地の物があるわけではないが、年中無休で16時から開店、飲み放題も安いのは大きい。地元の人たちの新年会利用もあって賑わっていた。メニューじたいは定番もので、別にブログに掲載することもないが、いろいろ注文してこれまでの食事とはえらいギャップが出た。これも正月ということで、まあ。

店を出るとすっかり暗くなり、駅前のロータリーではイルミネーションが点灯している。これでひとまず、四国八十八所めぐりでの徳島駅前とはお別れである。次にこの景色に出会う時、私はどういう心境なのだろうか・・・。

バスは果たしてガラガラで、隣もいない状態で出発。途中はよく眠っていたようで、いつの間にか淡路島に入り、明石海峡も渡っていた。そのまま阪神高速神戸線に乗ったようだ。また定刻より10分ほど早く着いた。

これにて、年明けから連載してきた今回の四国八十八所めぐりは終了。また近々、高知編に挑む予定で、またお付き合いのほどよろしくお願いします・・・。
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第6回四国八十八所めぐり~第15番「国分寺」

2017年01月19日 | 四国八十八ヶ所
第14番の常楽寺から第15番の国分寺までは歩いても1キロほどで、郊外の住宅地を行くうちに到着した。平坦なところに位置する。

国分寺といえば奈良時代、聖武天皇の命で全国に造られた寺院である。そのうちのいくつかはこうして寺として今も伝わっていたり、寺はなくとも地名として残っている。四国は4つとも八十八所の霊場として数えられている。境内の看板によると、阿波の国分寺は当初広大な敷地を有していたようである。今は多くが住宅や田畑になっていて、国分寺の境内も小ぢんまりしたものであるが、一部は歴史公園として整備されているようである。資料館が年末年始休みのため行かなかったが、府中(こう)といい、この辺りが阿波の国のかつての中心だったことをうかがわせる。

こうした国の命令で建てられた寺院も、時代が経過して政府の力が弱くなると廃れるものである。国分寺も「国営」だったから多くが廃れたのだろうか。もっとも、阿波の国分寺は例によって長曽我部元親の兵火で失われ、江戸期に蜂須賀氏で再興された。その時管理に当たったのが曹洞宗の僧侶ということで、今も曹洞宗である。四国八十八所は弘法大師信仰だからすべて真言宗かと思いきや、長い歴史の中でいろいろ宗派の転向もあるようだ。

その本堂だが、現在改修工事ということで囲いがされており、拝観は仮に横のお堂で行われている。こちらでお勤めを行う。

そして横にはまだ新しい感じの大師堂がある。見ようによってはこちらが今の仮本堂に見えるところである。

さて、お勤めをしている中であったこと。地元の人らしいおばあさんと、その娘か嫁らしい女性の二人がやってきて、今の仮本堂、そして大師堂の前に備え付けの納札箱をガサガサとやりだした。「金があったわ」「今年は錦はないのう」などとやり取りしている。

ここで金とか錦とか言っているのは、納札の色のこと。1巡目でペーペーの私を含めて、4巡目までは納札の色は白。先達を名乗れるようになると色紙の納札となり、50巡以上で金、そして100巡以上で錦が使える。金や錦は札所などで売られているわけではなく、先達会が発行している。それだけ貴重なものである。

納札をいただくのは、その人の功徳をもいただくという考え方がある。納札は四国巡拝する人の名刺の役割もあり、お接待をいただいたお礼に差し上げたり、知り合った遍路巡拝の方からいただくことがある(私は徳島を全て回ろうかというのにこれまでそういうやり取りはないのだが・・・)。その中で金や錦はレアでありがたみがあるとして、これを持つとお守りのようなことがあるという。

・・・だからと言って、納札を箱をあさっていただくのはいかがなものかと思う。「今年は」と言うくらいだから、この人たちは毎年箱をあさっているのだろうが、ルール、モラルとしてどうなのだろうか。札の主からすれば複雑な気分かもしれないだろう。その人から直にいただくならありがたいのだろうが、箱をあさってそういうのをもらって(くすねて)嬉しいのだろうか。どなたか、ご見解をお寄せいただければ。

納経所に向かう。「元日で歩きですか、あと2つがんばってください」てな言われる。「あと2つ」というのは、徳島市内5ヶ所めぐりで、国分寺が3つ目、この後は観音寺と井戸寺があるということである。この2つは以前先に回っていて、前の3つを埋めるように動いているのは以前からの記事で書いていることであるが、ここは励ましとしてありがたく受け取る。

そろそろ寺を後にしようと山門に戻ると、年配の男性から声をかけられた。この元日は新たな歩きの人が減ったと話される。2016年が「4年に一度の逆打ちにご利益がある年」で、その影響で回る人が多かったが、2017年はその反動で回る人じたいが少なくなるのではと言っていた。

二言三言交わして、それではと辞去すると、しばらくして「ちょっと待って」と声がかかり、「お接待」と煎餅が入った袋を渡された。おおっ、こういう形のお接待は初めてである。ウエストポーチから納札を出してお礼をする。「ああ藤井寺ですか、西国の。知ってますよ。これは高野山に納めさせていただきます」と返された。

かつて藤井寺といえば、近鉄バファローズともに「藤井寺球場のあるところですね」と言われることがあったが、近鉄バファローズもなくなり、藤井寺球場もなくなると、それは昔話となり、そう言われることもほとんどない。今は、こうした四国八十八所にいるからかもしれないが、「西国5番葛井寺」で説明したほうが反応ありそうだ。

そのいただいた煎餅の袋の中に「一歩二方」と書かれた小冊子が入っていた。後でそれを開くと、「今日までの生き方の中で 善・苦どちらとの出会いが多かったですか」に始まり、「あなたは最近 ゆったりと空を見つめましたか 月・星に見とれましたか 月に一日は静けさの中で 自然を観じて見ましょう」という一節もある。

また、「遍路(人世)とはあせらない事 遍(あたり)山・川・海の景色を見ながら 路(道)山・川・海の音を心眼に刻み先へ」「お四国とは 現在の中に過去を宿し 縁と潮騒と空気を観じながら 自分に合った癒しを見付ける処」とある。さらに裏表紙には「一歩二方=昨日を踏まえ 明日を見つめ 今日の一歩を前へ」と結ばれている。ここに挙げたのは一部で、他にもいくつかの詩的表現が書かれている。

これは誰か名のある人の名言というよりは、煎餅をくれた男性の独自の言い回しなのかもしれない。一通り読み、そしてこの後も折に触れて読んでみると、四国を回ることについて、単なる朱印集めや、あせって先を急ぐ行程を組むのではなく、四国の自然を感じながら(「観じる」というのが、「止観」や「阿字観」の「観」につながる文字選びなのかなと思う)、自分の足でじっくりと回ることの素晴らしさを説いた文なのかなと思う。

「なぜ四国を回っているのか」と訊かれて、「西国三十三所を回った後で、やはり遍路巡拝における『メジャー』に挑んでみたかったので」と答えたことがある。国分寺で出会った男性にもそう話した。ただ、四国というのは他の札所めぐりとは違い、そうした「意味合い」がやはりいろいろと受け継がれ、またそれを信じて回っている人が多いように思えた。私のこれまでの巡拝を否定するつもりはないが、「発心の道場」としての阿波徳島を回り終えたことで、次なるステップに向けて自分の気持ちも新たにしたいものである。この男性は常に国分寺にいるに違いなく、「一歩二方」の小冊子を受け取ったことのある方も多くいることと思うが、私にとってはまず最初の国を(イレギュラーな順番だが)回ったことに対する一種の「修了証」だと勝手に解釈している。これからの高知、愛媛、香川についても、気持ちを新たにして回りたいものである。

さてこれで第16番の観音寺まで行けば、一応は徳島市内5ヶ所めぐりも一本の線でつながる。次も3キロほどということで、改めて一歩を踏み出すのであった・・・・。、
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第6回四国八十八所めぐり~第14番「常楽寺」

2017年01月18日 | 四国八十八ヶ所
第13番の大日寺から第14番の常楽寺までは2.5キロほどあるという。歩き用の遍路道は県道ではなく鮎食川沿いを通っており、まずは一宮橋に向けて歩く。天候も穏やかで歩くとちょうど身体が暖まる感じである。

一宮橋を渡ると少し県道に沿って歩くが、途中から住宅団地に分け入る形で坂を上る。バスで通った感じては平たいところを歩くのかなと思っていたがちょっとした起伏があるのは意外である。常楽寺への看板もあるのでわかりやすい。

途中にある日枝神社にもお参りし、常楽園という名前の養護施設の前を通る。常楽園とは、常楽寺と何か関係があるのだろうか。

大日寺から30分あまりで、池のほとりの常楽寺に到着する。山門はなく、門柱の間を通って境内に入る。まず目についたのは休憩所。テントの下にどこぞの応接間から持ってきたのかというソファー型の椅子が並んでいる。

普通、寺といえば山門から本堂までは石畳の参道などが設けられているものだが、この常楽寺は本堂の前に奇岩がある。自然のままに残しているわけだが、わざわざこういう岩の上に寺を建てたのは何か意味があるのかなと思う。四国八十八所のページによると、常楽寺は弘法大師が修行中にこの地で弥勒菩薩を感得し、霊木に弥勒菩薩像を彫って本尊としたのが最初で、その後は金堂や三重塔もある大きな寺になったという。ただ、先の大日寺と同様に長宗我部元親の兵火で焼かれてしまう。そこで江戸時代に蜂須賀氏によって再興・・・といっても十分なものではなく、江戸の後期になってようやく、それまで谷の低いところにあったのを高台に上げる形で建てたのが今の形であるという。その時、自然の岩を加工することなく、ありのままに残したものだろう。それか、元々の参道場別のところにあったのが、「この岩の上を歩いたほうが近道だから」ということで、入口がそちらのほうに行ったのか。それがかえってこの寺の特徴となっている。それも面白い。

本堂の前に、「四国霊場中他に無い当山の三大特色」と書かれた立札があり、「四国中唯一佛 本尊弥勒菩薩」「自然美の流水岩の庭園」「社会福祉法人(この後字が薄くて読めず)常楽圓」とある。四国八十八所の本尊はいろいろあるが弥勒菩薩はここだけだという。また先ほど見た常楽園も寺が経営しているものだった。

弥勒菩薩というのは、釈迦の入滅後56億7千万年後の未来にこの世に現れて人々を救済するとされている。えらい気の遠くなる話で、その頃には人類、いや地球そのものが存在しているかどうか。そんな56億7千万年後と言わずに、もうちょっと早よ来てえな・・・というところだが、それまではまだ兜率天というところで修行中の身であるという。そこで「来るのを待つくらいなら、こっちから行ったれ」と、兜率天に往生するという信仰もあるそうだ。

また同じく本堂の前には一本の大木がある。アララギ(イチイ)の木で、ここにも弘法大師が祀られているということで「アララギ大師」と呼ばれている。「常楽寺は糖尿病にご利益がある」というのをネットで見た。アララギの葉や果実というのが糖尿病に効くという民間療法があったそうだ。今では、アララギには有害物質が含まれているというし、近代的な血糖降下薬も開発されているのでアララギに頼ることはないだろう。ただそれよりも食事、運動療法が最適である、体重を増やさないように・・・と、弘法大師ではなく私の主治医からのお言葉が聴こえてくる。ここはアララギにも手を合わせて自らの平癒を祈願する。

こちらで朱印をいただき、これで残るは国分寺である。歩き遍路の案内に従っていくとまず常楽寺の奥の院という慈眼寺というところに出る。

次の国分寺までは1キロ。これまでで最も短い札所間の区間で、10分で到着である・・・。
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第6回四国八十八所めぐり~第13番「大日寺」

2017年01月17日 | 四国八十八ヶ所
日和佐9時発の牟岐線の徳島行きの列車に乗る。一旦室戸まで行った四国めぐりだが、今度は逆に徳島市内を目指す。

徳島市内5ヶ所参りのうち、第13番の大日寺、第14番の常楽寺、そして第15番の国分寺が残っている。昨年10月の第4回で徳島、神山、小松島あたりを回ったのだが、行きの南海電車の人身事故の影響で和歌山からの予定のフェリーに乗れなかったことが影響して、この3つが残ることになった。もしこの時に回っていれば今回は高知のもう少し向こうまで行けたのかもしれないが、今さらそういうことを言っても仕方ないし、別にあせって回るものでもない。もう一度徳島に行くということでプラスに考えることにする。

薬王寺にお参りする人は多かったがほとんどがクルマ利用で、列車はガラガラである。行きに高速バスで通ったところを巻き戻すように走り、阿南で前に1両増結する。増結車が転換クロスシート車だったのでそちらに移る。穏やかな天候で車内も暖かく、寝不足だったこともあってしばしウトウトする。

10時39分、徳島到着。3日間使った「四国みぎした55フリーきっぷ」の範囲はここまで。徳島~室戸~高知を結ぶ割引きっぷはJRが出しているが、これはどちらかへの一方通行で行ったり来たりはできない。この「みぎした55」は今回訪れた阿佐海岸鉄道や高知東部交通の沿線観光振興のために行政の補助が出ていて割安で提供されたものだが、認知度はどうだろうか(駅員や列車・バスの運転手に提示しても「?」という反応があったのも事実で・・・)。元日から駅ビルでは初売りが行われており、地元の人や帰省の人たちで賑わっている。

大阪への戻りは徳島駅前20時発の阪急バス。3ヶ所を回るには十分すぎるくらいの時間がある。まず訪れる大日寺へは、神山高校前行きのバスに乗る。神山高校前は、第12番の焼山寺へと続く道の途中であり、前回は神山温泉から徳島駅の戻りに乗った系統である。その途中の一ノ宮札所前が大日寺最寄りのバス停である。次の便は11時35分発である。

少し時間があるので、先に昼食を済ませることにする。元日休みの店も多いようだが、駅前の徳島ラーメンの「麺王」が開いていたのでこちらで中華そばをいただく。今後の四国めぐりは高知編に入るので、徳島ラーメンともしばらくお別れとなる(そんな大げさな話ではないが・・)。

関西や四国内の高速バスが発着する中、神山高校前のバスがやって来た。乗ったのは私と地元の方の2人だけ。まずは徳島市街の中心部を走り、JAバンク徳島球場のある蔵本公園の横を通る。阿波池田に向かう国道192号線(伊予街道)である。府中(こう)で伊予街道と分かれると来前回訪ねた第16番の観音寺が近い。府中の宮の角を曲がれば観音寺に至るが、バスは直進して神山方面に向かう。前回は夜だったので周りの様子はわからなかったが、昔ながらの町並みが続くところだという感じである。

徳島駅から30分あまりで一ノ宮札所前に着く。この辺りは一宮という地名である。阿波の一ノ宮と聞いて思い出すのは、鳴門の第1番の霊山寺と第2番の極楽寺の間にある大麻比古神社である(夏に四国めぐりを始めた時、その手前にあるドイツ資料館には行ったがこの神社にはお参りしていない)。どちらが一ノ宮やねんというところだが、ネットによると元々は阿波の国府も置かれていたこの地にある一宮神社を一ノ宮と定め、その後一宮氏が代々保護してきたが、南北朝の頃に細川氏が阿波で勢力を伸ばすようになると、つながりのあった大麻比古神社が新たな一ノ宮の地位を得るようになった・・・との考察がある。一ノ宮の座というのも時代によって変わるようで、同じようなことは他の国でもあったことと思う。

で、今の大日寺というのは元々は一宮神社の神宮寺で、大日如来をお祀りしていたお堂のようなものだったのだろう。江戸時代の遍路の記録などによれば、当時は神社のほうを札所として、納経も神社のほうで行っていたという。それが明治の神仏分離令により一宮神社と切り離され、神社のほうで本地仏として祀られていた十一面観音が大日如来のお堂のほうに移され、寺の本尊となった。元から祀られていた大日如来は脇仏という扱いになったが、大日寺の名前はそのまま残された。このため大日寺と言いながら本尊は十一面観音という、ちょっといびつな形になって今にいたっている。神仏習合と神仏分離のそれぞれの歴史が現れているところと言っていいだろう。

・・・という経緯を見たうえでバスを降りると、神山方面に向かって左手が一宮神社、右手が大日寺で、その真ん中を県道が通っている形である。元々は一つの寺社というところが神社と寺で見事に寸断したようにも見える。

元日、初詣ということで、一宮神社のほうにお参りする人のほうが多いようで、大日寺に向かう前にまず一宮神社にお参りした。地元に根づいた神社という感じで、拝殿に入っておはらいを受ける人もいる。

そして県道を渡って大日寺へ。お互いの境内がすぐ見えるところにあり、やはり一体なのだなと思わせる。ここで改めて手を合わせて、四国八十八所のお勤めである。この寺も戦国時代に長曽我部元親の兵火で焼かれ、江戸時代に蜂須賀家の手で再興されたという、どこかで聞いたことあるようなのと同じ歴史を持つ。

その大日寺だが、現在は韓国人の女性が住職を務めている。境内にはその住職の著作のPRポスターがあり、納経所ではその著作の現物が積まれていた。元々韓国の伝統舞踏家として訪日し、大日寺の前の住職と結婚。住職が亡くなると後を継いで住職となった。外国籍の住職というのは四国八十八所で唯一とのこと。

別に人種差別する意図はないのだが、この住職の名前でネット検索すると、まあいろいろな記事が出てくる。「日本と韓国の架け橋」「遍路の国際化」などと肯定的な見方もあるが、一方で「韓国人に色仕掛けで寺を乗っ取られた」「あの住職は統一教会の手先だ」などと批判的なものが目立つ。中には「四国お遍路の危機」というものもある。多くは個人のブログや2ちゃんねる的な掲示板の記事なのでどこまでが本当でどこからが誇張なのかは詮索しないが、やはり「韓国」というのが批判的な記事が増える要素なのかなと思ってしまう。これが欧米人住職なら、批判的な記事よりは好意的な記事が増えるだろうし、中国人でもそこまでボロカスに言われることもないと思う(繰り返すが、ここで人種差別をしようというのではなく、日本人の中にそういう「空気」があるのは事実ではないかということである)。

弘法大師はどう思うだろうか。「真言密教をちゃんと受け継いでくれる人やったら、外国の人でも別にええんちゃうの?」とあっさり言いそうな気がするのだが・・・。

納経所には住職の姿は見えず、朱印の筆を取ったのも寺の女性係員らしい人だったのでそれ以上のこともなく、次の札所に向かうことにする。これから常楽寺、国分寺と2つを歩いて回ることに・・・。
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第6回四国八十八所めぐり~初日の出と薬王寺朝まいり

2017年01月16日 | 四国八十八ヶ所
・・・1月もすでに半分を過ぎたが、記事のほうではようやく「明けましておめでとうございます」である。これまでの四国の記事と比べても長い紀行文になっているがお許しのほどを・・・。

さて、年越しで薬王寺に初詣とした後で、一度ホテルに戻って眠る。そして5時には起床した。早めの朝食とした後で、6時半前にいったんホテルを出る。目指す大浜海岸は歩いて15分ほどかかる。そちらのほうに向けて結構な数のクルマが追い越して行くし、歩いている人もそこそこいる。

大浜海岸はウミガメの産卵で知られるところだが、初日の出の名所としても有名だという。海岸につながる通りに入るとすでに多くの人が砂浜や防波堤に陣取っている。海岸の手前にある日和佐八幡神社にお参りして、私も防波堤で日の出を待つことにする。天気は申し分ない。すでに海の向こうは明るくなっていて、日の出の時刻は7時8分頃だという。

砂浜に立つ人もいるし、空手着を着た子どもたちもいる。元日から寒稽古だろうか。

砂浜の中央に仕切りがあり、太鼓の台が置かれている。この後日の出に合わせて日和佐太鼓の演奏が行われる。日和佐八幡神社の秋祭りから起こったが、最近は地元の保存会がさまざまな場面で演奏しており、この初日の出の演奏も毎年恒例だという。

7時前に日和佐八幡の神主から新年のお払いがあり、太鼓もやって来た。そしてすこしずつその時を迎えようとしている。

雲に遮られることもなく、素晴らしい朝日が海の向こうに上る。ここまではっきりと海からの初日の出を見たのは初めてといっていい(山の上からは、子どもの時に親の実家近くの山からというのはあったが)。新しい年が良い一年になればと期待する。

しばらく太鼓の演奏も聴きながら、海岸まで下りる。改めて、阿波の海に新年の期待と、これからの四国八十八所めぐりの無事をお願いする。

大浜海岸を後にして、もう一度薬王寺に向かうことにする。金剛杖と白衣は省略させていただいて、数珠と輪袈裟、経本に納め札を持っている。納経帳は、夜の初詣で朱印をいただいたのでこれも省略。多くの参詣者がいるが、年越しの時ほどには混雑しておらず、明るい中で落ち着いて回ることができる。

司馬遼太郎の『空海の風景』の石碑がある。実はこの作品を年末になって読み始めた。薬王寺の石段に1円玉を落とす様子を書いた一節が石碑になっている。今回の四国めぐりでリュックに入れていたのだが、元日の時点ではまだこの件まで行ってなかった。大阪に戻った後で、電車で移動する途中でようやくそのページまでたどり着いた。

これから石段を上る中で熱心に1円玉を落としている人がいたが、これに厄落としの意味があるのなら、元日から落とすのは果たしてどうなのかな思う。あくまで個人的な感想だが、厄落としは年内に行い、元日は新たな清々しい気持ちでのお参りだと思う。さてどうだろうか。寺の人に言わせればそれは気の持ちよう、1円玉はいつでもいいということなのだろうが。

それはさておき、改めて本堂でのお勤めである。いわゆる遍路姿の人は見かけなかったが、和服姿で般若心経を唱えていた人たちがいた。これも一つの正式なお参りかと思う。

この後は大師堂にもお参りして、また瑜祇塔にも上がる。こちらは大日如来を祀っているところだ。

これでホテルに戻る。時刻表を見て、日和佐9時発の列車で徳島に出ることとしてチェックアウト。フロント横に額が飾られていたように納札を渡そうかとも考えたが、結局そのままに出てきた。ホテルのご夫妻とはカギの受け渡ししか顔をあわせなかったのだが、2泊させていただいたし、それなりのお返しを表すことも必要かと思ったのだが・・・・。
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第6回四国八十八所めぐり~第23番「薬王寺」

2017年01月15日 | 四国八十八ヶ所
今回の四国めぐりで日和佐連泊としたのは、室戸まで1日で往復する拠点であることもそうだが、やはり第23番の薬王寺の存在がある。初詣では病気治癒のお願いもするし、またウミガメで知られる大浜海岸からの初日の出も見たい。

23時を回り、寺に向かう。ホテルとは駅を挟んで反対側にある道の駅の駐車場はすでに満杯で、警備員が周りの駐車場にクルマを誘導している。臨時の屋台も出ている。また薬王寺のほうに歩いて行くと、うどん屋が終夜営業していたし、土産物屋も店を開けている。縁日の屋台も出ている。うーん、これならこちらに夕食を求めに来てもよかったかな。

山門をくぐり、本堂に続く男厄、女厄の石段を上がる。ここの石段では厄落としとして、1段ごとに1円玉を落としていくのが知られている。靴の裏にコインの感触がするのも独特だ。私はさすがに手持ちの1円玉が少なく、ところどころに落とすくらいにする(帰りに門の下にある御守り等の販売所に立ち寄ったら、1円玉への両替を行うとの張り紙があった)。

薬王寺にはこれまでも来たことがあるが年越し・初詣では初めてで、大勢の参詣者で賑わうのも初めて見る。私が着いた時は本堂前まで行けたが、すぐ後ろからも多くの人が押し寄せ、石段も埋まったようである。除夜の鐘が鳴る。参詣の人も撞けるそうだが、この人並みでは鐘のところまで引き返すことはできない。

昨年、福井の永平寺で新年を迎えたが、その時はNHKの「ゆく年くる年』の中継が入っていた。今年、薬王寺には特にそのようなことはなく、多くの人が本堂の扉が開くのを静かに待っている。

そんな周りがざわつきだしたのが23時59分。そしてしばらくして、あちこちから「おめでとうございます」の挨拶が飛び交う。2017年の始まりである。

本堂の中から僧侶の読経の声が聞こえ、扉が開いた。前の人から順番に中に入り手を合わせる。静かな感じだが、それは神社のように柏手を打たないからである。私の順番となり、手を合わせる。そして次にしたことは、少し脇に下がり、経本を取り出して般若心経のお勤め。一応、札所に来たのだからこれはやっておこうと思った。ただ、灯りもほとんどないところだし、やはり人が多いので落ち着かない。これは夜が明けてからもう一度来てお勤めすることにした。

交通整理が行われていて大師堂のほうに行けない感じだったので、そのまま瑜祇塔まで上がる。眼下には日和佐の夜景?も見ることができる。

本堂の下の納経所も御守りや御札の販売で開いている。四国八十八所の納経は7時~17時という決まりだが、開けているということは朱印もいただけるのかと思い尋ねてみると、あっさりと「どうぞ」と言われる。これも初詣ならではということで朱印をいただく。ただ四国八十八所は、納経帳に日付を書かないことになっている。後で見返すと他の普通の日にいただくのと変わりないのがちょっと惜しい。

一通り回り、後は夜が明けたらもう一度ということで薬王寺を後にする。ホテルに戻ったのは1時前。6時間後には日の出の時刻だが、天気予報では初日の出はまず間違いなく見ることができるという。その時を楽しみに、しばらく眠ることにする・・・・。
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第6回四国八十八所めぐり~札所での年越し

2017年01月14日 | 四国八十八ヶ所
室戸市の元橋バス停から甲浦から行きのバスに乗り込む。室戸の市街に入ると他にいた数人の客は皆降りてしまい、私一人になる区間もあった。先ほどゼッケンをつけていた室戸岬までの徒歩ホステリングの参加者だが、16時半を回ったこの時間では、すでに完歩したのか時間切れなのか、ほとんど姿を見なくなった(運営車両のようなのは路肩に停まっていたが)。

太陽はそろそろ落ちる頃だが、バスが室戸岬を境にして東側に回ってしまうともう見ることはできない。何とか最後にもう一度見られないかと窓の向こうに目をやると、ちょうど岬の先端のところで眺望が開けた。駐車場には夕陽を見ようという人たちのクルマであふれていて、また翌朝の初日の出もここから見ようというところだろう。

岬のバス停で観光客を乗せ、岬の先を回ると急に暗くなった。外も寒々しい感じだが、そんな中に白装束を見る。袖から出ていた上着の柄に見覚えがある。午前中、甲浦からのバスで途中追い越した歩き遍路である。あれから歩き続けてようやく室戸岬が近づいたところで、おそらく今夜は室戸岬の宿に泊まるのだろう。ハードだけど素直にすごいと思う。札所二つぶん歩いただけの私なんか比べ物にならない。

また一方、海岸べりのバス停からこちらのバスにも歩き遍路が二人乗ってきた。こちらは歩けるところまで歩き、日が暮れたので引き返すようである。札所間が80キロ以上あるこの区間、それぞれが思うように攻略しているようである。それはいいとして(これはこれまで四国の札所を回る中で感じたことだが)、もう少し鉄道や路線バスも活用してほしいと思う。高速バスは別にしても、JR、路線バスはどこも経営が厳しい。四国八十八所が注目されている中で、その恩恵を十分に受けていないのではと感じられる。

まだ17時半だが、街灯もあまりなく余計に暗く感じる中、甲浦駅に到着した。バスが17時36分着で、阿佐海岸鉄道の海部行きが17時38分に出る。当初は、バスの到着が遅れるかもしれないし、この列車に乗っても海部で待ち時間ができるので、一本後の18時14分発に乗る予定にしていた。ただ、列車は間に合いそうだし、甲浦で待っていても何もないので急いでホームに上がる。列車のドアは目の前で閉まったが、私ともう一人の乗客を見て再び開いた。駆け込み乗車はよろしくないが、これもローカル列車ならではか。

車両は今回3回目となるイルミネーション列車。これまでは日中に乗り、トンネルに入るからイルミネーション効果は高かったが、最初から外が暗い夜はどうか。さすがに外の走行時は普通の車内灯も点いていたが、トンネルに入るとまたイルミネーションである。前のほうに小さな子ども連れの家族がいたが、海部から往復してきた感じでこの車両を楽しんでいた。

ちなみに、以前の記事にも書いたが、イルミネーション列車は1月5日で終了している。次の冬にも運転されるか、乞うご期待である。

さて海部に戻り、次の牟岐線は18時28分発で40分の待ち時間がある。これは当初の予定にはなかったがあえて作り出した時間である。以前の記事をご覧になった方の中に、私が前日海部駅前のスーパーに立ち寄ったことを覚えている方は・・・いてないと思うが、そこで夕食を買おうというものである。前日行った日和佐のスーパーは早じまいするとあったが、この時間の海部ならまだ間に合うということで。

ただ、こちらも閉店間際ということであまり品物はなかった。そんな中で徳島県産という〆鯖を買い(あれ、鯖断ちするという鯖大師に行ってなかったか?)、後は惣菜など。翌朝の食事などは日和佐に戻った後、駅前のコンビニで調達することにする。まあどうにか、大晦日の夕食の形はできた。

18時~19時といえば都市部なら今年最後の賑わいを見せる頃だろう。ただ一方で、ローカル線の列車で無人駅に降り立ち、駅前のビジネスホテルに戻るというのも、旅のひとこまかなと思う。フロントでボタンを押すと今度はおかみさんが出てきて「お帰りなさい」と部屋の鍵を渡してくれるが、それ以上でもそれ以下でもない。とりあえず荷物と食べ物を部屋に下ろしてシャワーを浴びる。テレビもつけるが、紅白もダウンタウンも格闘技もクイズも別にどうでもいい。逆に、ケーブルテレビのテレビトクシマの番組に面白いものがあったりする。

・・・とまあ、2016年最後の夜は一人グダグダで過ごす感じになったが、23時を回るとそろそろかなと気を引き締めてまた支度をする。白衣は省略したが、経本と数珠と、それに納経帳をリュックに入れて部屋を出る。目指すのは、ようやく今回登場するあの札所で・・・・。
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第6回四国八十八所めぐり~第26番「金剛頂寺」

2017年01月13日 | 四国八十八ヶ所
公共交通機関をベースとした四国八十八所めぐりであるが、何やかんやで歩くところは歩くというスタイルでここまで来ているが、大晦日の行程は結局24番から26番までを歩いて通すことになった。

国道55号線はちょうど室戸の中心街である。クルマの交通量も多い。そんな中、前方なら胸と背中にゼッケンをつけた人たちとぽつぽつすれ違うようになる。小学生もいれば私のようなおっさんもいて、中にはすれ違う際に「こんにちは」と挨拶する人もいる。何かの大会の最中だろうか。

ゼッケンの上に書かれていた文字を元にわかったことだが、高知県のユースホステル協会が毎年行っている「初日の出徒歩ホステリング」というものである。高知から室戸岬までの約88キロを2日間で歩くもので、12月30日の朝に高知を出発して、その夜は安芸市に宿泊。そして31日は安芸から室戸まで歩き、最御崎寺に宿泊する。そして1月1日の初日の出を室戸岬から見るというものだ。31日の14時台で室戸の市街地に入るとは、後少しである。参加者は100人で、スタッフも加わるから結構な人数だ。歩き遍路よりもハードかと思うが、荷物はスタッフがクルマで運ぶのか、ほとんどが体一つという出で立ちである。

市街地から一旦海岸沿いに出た後、金剛頂寺の案内が出て国道から一本中に入る。55号線は区間によってはクルマ用にバイパス的に造られているのかもしれない。室戸病院を過ぎると元橋のバス停があった。帰りはここから16時20分のバスに乗らなければバスと列車で日和佐まで戻ることができない。まあ、ここまでのペースとスマホの地図をにらめっこすれば大丈夫かとは思うが。

バス停で海岸線と別れて、畑の中を行く。金剛頂寺は山の上にあると聞いている。ビニールハウスが見える中、結構クルマが追い越して行く。お参りする人たちだろう。

そろそろ上りになるところで、車道は右に曲がるが、歩き遍路の看板が真っ直ぐの細道を指している。寺まで600メートルとあり、クルマは通れないようだ。ならばこちらの道を選ぶ。

・・・ただ、予想していた通り、これは完全な山道である。階段もあるにはあるが途中からは自然の山道に変わる。平地なら600メートルは大したことがないように感じるが、この山道には「600というのはウソやろ」と言いたくなるくらいだった。それでも途中で先を行く男性を一人追い越したり、最後はムキになっていたかもしれない。

ようやく前方に道路が見えて、たどり着いたら駐車場だった。ふもとの歩き遍路の看板から15分あまりで上がった。ここから本堂まで石段が続くが、先ほどの山道と比べるとついでの感じで上がる。

金剛頂寺。室戸岬に対峙する行当岬の上に建ち、最御崎寺が「東寺(ひがしでら)」と呼ばれるのに対して「西寺(にしでら)」と称されている。こちらも室戸岬ともども弘法大師が求聞持法の修行を行った場所とされているが、やはり高知、いや四国の東南端の室戸岬にある最御崎寺に比べれば知名度は低いように思う。私も、四国八十八所めぐりを始めてから知った寺である。

各札所には弘法大師像があるが、金剛頂寺のそれは菅笠も取り、結構「どないや~」てな感じで前に行くような感じである。

最御崎寺よりマイナーだからかもしれないが、寺の雰囲気は木々に覆われていることもあり落ち着いているように思う。訪れる人も、最御崎寺は室戸岬観光のついでというような人が多かったが、金剛頂寺は、純粋にお参りという感じの人が多いように見られる。数人のグループが声高らかに般若心経のお勤めをしている。

昭和の再建という本堂、そして「どないや~」の大師像の裏にある大師堂でお勤め。ともかく無事にここまで来ることができたことにほっとする。

境内にはこの他に、撫でるとガン封じに霊験があるという椿の霊木や、弘法大師が米を炊くと一万倍に増えて人々の飢えを救ったという釜がある。地元では弘法大師の包容力の現れとして古くから信仰の対象になっているところである。

参詣を終えて、本堂から少し下りたところに展望スポットがあるので行ってみた。12時すぎに最御崎寺からの下りで見たのと対称的な景色が広がる。ここから見える海沿いの一番遠いところから来たのかとうなるところである。また、室戸の街を真ん中にして、「東寺」「西寺」と称されるのもうなずける。

さてここから戻るが、遍路道ならさらに西を目指して下りるところ、私はこれから東に戻らなければならないので折り返しとなる。戻りということもあり、ここで白衣を脱ぎ上着を羽織る。金剛杖はそのまま使うことにするが、一応この日の巡拝は終えたことの印としてである。帰りは、遍路道が膝に来ないかと心配して、距離は伸びるが車道を歩く。急なカーブもあるが、この下りなら歩くのに不安はない。途中には柑橘類の畑毛があるが、みかんにしては実が大きい。土佐に入ると違いがあるのかなと思う。

車道を下りきって、元の道に戻って元橋のバス停に着く。バスの時間まで少しあるので、55号線の橋の下をくぐって海岸に行く。ここは元海岸というところで、ウミガメの産卵スポットだという。バス停近くに「うらしま」という民宿があるのもウミガメ関連だろう。

大晦日、ウミガメのウの字もない季節である。砂浜には外海から打ち上げられたモノも結構溜まっている。それでも海岸は素朴な感じで、奇岩がゴツゴツしている室戸岬とは対照的な砂浜が広がる。大晦日の太陽はそろそろ岬の西に沈む。また、私の四国八十八所めぐりで初めて海岸べりに来たことである。気付けば、打ち寄せる波に金剛杖を浸していた。金剛杖が弘法大師の身代わりだというのなら、ここに来てようやく海に触れさせることができたのかなと思う。

そして、金剛杖を両手に捧げ持って、行当岬の先に向けて頭を下げた。今年最後の夕陽であり、日没の瞬間は見られないのでここで拝む形となった。それでも感謝である。

元橋バス停に戻り、バスがやって来た。見る人が見ればもったいない行程なのだろうが、ここからまた延々と日和佐まで戻ることに・・・・。
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