まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第9回九州西国霊場めぐり~博多にて途中下車

2022年03月31日 | 九州西国霊場

新鳥栖17時16分発の「つばめ324号」に乗車する。乗る前に再び「焼麦(しゃおまい)」を買い求める。新幹線でのアテとしてつまむことにしよう。

乗車時間12分で終点博多に到着。すると前方の車両から、スーツをまとった体格のいい集団が降りて来た。各駅停車の「つばめ」から団体が降りるのも珍しいなと思うが、マスクで顔がよく見えないものの、ひょっとしたら先ほどまでタマスタ筑後でプレーしていたであろうバファローズのファーム組ではないだろうか。「つばめ324号」の筑後船小屋発は17時04分、試合終了後に乗るにはちょうどいい列車である。バファローズだろうと思ったのは、その後何人かが改札内の駅弁コーナーで弁当を買い求めていたからで、この後「のぞみ」か「さくら」に乗り継いで大阪に戻るのだろう。

さて私だが、日本旅行の「バリ得こだま・つばめ」プランで指定されたのが18時31分発の「こだま778号」。その前に17時59分発の「こだま866号」もあるのだがプランの設定がなく、博多で1時間の乗り継ぎ待ちである。

このプランでは指定列車の変更ができず、前の列車の自由席に乗ることもできない。ただ、博多のみ途中下車ができる。せっかくなので外に出よう。

JR博多デイトスの2階に「博多めん街道」というのがある。時間もちょうどよいので、ラーメンで夕食としよう。特に店にこだわりはなく、たまたま目にとまった「長浜ナンバーワン」に入る。元々は屋台から始まった味だという。博多の屋台か・・・ずいぶん前に行ったきりである。

普通に美味しくいただき、駅に戻る。これから乗る「こだま778号」は広島行き。

「焼麦」は翌日の楽しみとして、車内ではゆっくりとくつろぐ。九州を後にして、新下関で列車通過待ちの停車。前日午後から移動して、1日でいろいろなところを回ることができた。

九州西国霊場もこれで3分の2が終わり。残りで長崎県をぐるりと回り、唐津を経て福岡に戻る。長崎県もまたいろいろとめぐってみたいところ。西九州新幹線にも乗れるかな・・・。

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第9回九州西国霊場めぐり~佐賀での一献と佐賀城本丸御殿

2022年03月30日 | 九州西国霊場

3月20日、九州西国霊場の観世音寺から大魚神社、祐徳稲荷神社と来て県庁所在地の佐賀に降り立つ。駅は高架で駅前にもそこそこ建物も並び、県の玄関としての雰囲気はある。もっとも、西九州新幹線の扱いがどのような形になるかは決まっていない。駅周辺を見る限り、素人目には新たに新幹線用の敷地を確保するとなるとかなり難しいようにも思うのだが・・。

さて、時刻は13時を回ったところ。佐賀ではそれなりの時間を設けることができたので、昼食と打ち上げを兼ねて一献とするか。先ほど特急の中でで店を検索したところ、駅高架下の「さかなや道場」が昼営業をしているのを見つけた。チェーン店ならではの安心感はある。そしてこの店の売りは、呼子直送のイカだという。価格はサイズにより時価に近いが、せっかく佐賀まで来たのだからイカで一献としよう。

・・・ところが、店に入ると店員が「日曜日で漁港が休みで、イカがないんですが・・」と先に断りの言葉。ちょっと残念だが、仕入れがないのなら仕方がない。こちらは一献のつもりだし、他にも九州郷土料理はあるようなのでそのまま入る。「イカでしたら、冷凍の水イカ(アオリイカの九州での呼び名)ならできます」とのことなので、それを呼子のイカのつもりでいただくことにしよう。

ならば他のものをということで、ゴマ鯖、鶏のたたき、鶏天といったところを注文する。同じ佐賀県の名物という白石れんこんの天ぷらも。これだけあれば昼としては豪勢で、生ビールも進む。

せっかくなので地酒もということで、小城市の天山酒造の「七田(しちだ)」も一杯。佐賀の日本酒を広く知ってもらおうと、県外・海外向けに造られた銘柄という。

1時間ほど楽しんだところで外に出る。近くでどこに行こうかというところだが、駅から南に直進したところに佐賀城跡がある。その本丸跡にかつての御殿が復元されているというので行ってみることにした。時間節約のため、往路は駅前のバスセンターからバスで移動する。

まず出迎えるのは佐賀藩10代藩主・鍋島直正の像。幕末期にあって藩の財政改革や、弘道館による人材育成、西洋技術の導入などに力を注ぎ、後に肥前佐賀藩を「薩長土肥」の一角を担うまでにした人物である。肥前といえば戦国時代好きの方なら龍造寺隆信や鍋島直茂のイメージがあるが、こうして城跡に像が建てられたのは幕末の鍋島直正ということで、佐賀の人たちがどういう人物に敬意を表しているのかという一端が見える。

鯱の門・続櫓から本丸内に入る。本丸御殿が木造で復元され、佐賀城本丸歴史館として公開されている。入館料は無料だが、募金の協力をお願いするとある。まあそこはいくらかを納めて中に入る。

城跡の見学というと、天守閣の急な階段を上って、最上階からの展望を楽しむ・・というところも多いが、こちらは太平の世に建てられ、実際に藩主が政務を執った本丸御殿である。上下の移動がない分、横の広さを感じることができる。

長さ45メートルの縁側、320畳敷きの大広間というのも圧巻だ。それでも、現在復元されているのは御殿の一部だという。奥では鍋島直正の写真パネルが出迎えてくれる。

佐賀城の歴史や鍋島直正の業績のほか、藩校弘道館の紹介もある。弘道館の授業では「論語」などの科目もあり、出身者には幕末から明治政府で活躍した大隈重信、江藤新平、島義勇、副島種臣、大木喬任などの人物がいる。薩長のような明治政府の主流派や派手に活躍した人物がいるわけではなく、どちらかといえば明治政府に不満を持つ人たちの側に立つことになった人や、実務のほうで活躍した人が多いように思う。

展示コーナーの一角に、世界文化遺産の登録証が掲げられている。日本の世界文化遺産の一つ「明治日本の産業革命遺産」を構成する三重津海軍所跡である。佐賀藩が海軍技術の訓練を行った施設で、後に幕府が行っていた海軍伝習を受け継ぎ、蒸気船の製造も行った。

このところ、世界文化遺産に登録されるスポットも「団体戦」の要素が強いように思う。単体ではアピール不足なので関連するスポットを寄せ集めて・・と見える。私の実家がある藤井寺市も「百舌鳥・古市古墳群」の一部を構成していてめでたく「世界遺産のある市」となったが、この「明治日本の産業革命遺産」もかなり無理しているように感じる。萩の松下村塾と佐賀の三重津海軍所跡が同じグループというのも・・。認定された時期が時期だけに、あの山口県選出の政治家の何か意図的なものを感じる。

その三重津海軍所跡に行く時間はないが、地図を見ると筑後川の下流にあり、かつての佐賀線で使用されていた筑後川昇開橋にもほど近い。九州西国霊場めぐりでは素通りのスポットだが、福岡県側と合わせて訪ねてみるのもいいかもしれない(その中には、今回見送りとしたタマスタ筑後も絡めたいところだ)。

これで佐賀城跡を見終えて、帰りは佐賀駅まで歩く。時折、水の町を感じさせる光景や、佐賀出身の偉人たちの像に出会う。

最初は「この人誰?」というものが続いたが、最後に(駅から歩いたら最初に)交差点の一角で出会ったのは豪華メンバー。藩主鍋島直正はじめ、先に挙げた偉人たちの藩士時代の姿である。薩長土肥の肥前にも、こうした志士たちが集うスポットがちゃんとあった。

16時20分発の鳥栖行きで佐賀を後にする。吉野ヶ里公園の横も通り、新鳥栖に到着。ここから新幹線乗り継ぎで広島に戻ることに・・・。

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第9回九州西国霊場めぐり~祐徳稲荷神社へ(奥の院まで参詣)

2022年03月29日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりの目的地である竹崎まで往復して肥前鹿島に戻る。時刻は11時すぎ、鹿島バスターミナルからの祐徳稲荷神社行きのバスに乗車する。

15分ほど乗車して祐徳稲荷神社前のバス停に到着する。日本三大稲荷の一つとされる祐徳稲荷。この「日本三大稲荷」について、第一が伏見稲荷大社というのは異存のないところだが、第二、第三となるといくつかの稲荷神社が名乗りを挙げている。その中で第二または第三として比較的多くの支持を集めているのが祐徳稲荷神社のようだ。他にイスを争うのは茨城の笠間稲荷、愛知の豊川稲荷、岡山の最上稲荷といったところだろうか。

祐徳稲荷には前回の広島在住時に一度訪ねたように思う。ただその時は鉄道+バスではなくクルマで回ったのではないだろうか。今のようなブログという手段がない当時のことで、記憶も曖昧なところがある。

門前町を抜けて楼門に出る。山に張り付くような舞台造りの本殿も実際に目にしたはずである。

まずは境内に入った神楽殿にて手を合わせる。

祐徳稲荷神社は江戸時代前期、佐賀藩の支藩である鹿島藩主の鍋島直朝が朝廷の勅願所である伏見稲荷大社から分霊を勧請したのが始まりとされる。この勧請には、直朝の妻である花山院萬子媛のつながりによるところがあり、萬子媛みずから石壁山に社殿を建てて奉仕していたが、娘が相次いで亡くなったことから自ら石壁山の洞窟に入り、断食して入定したという。祐徳神社とは、萬子媛の諡号の祐徳院からつけられたそうで、明治の神仏分離で現在の形になった。

コンクリートの階段を上り、本殿に向かう。現在の本殿は1957年に再建された3代目の建物。清水寺のような舞台は下から見上げてもよし、上から見下ろしてもよし。

そういえば、祐徳稲荷はタイからの観光客で賑わうスポットというのを以前にテレビで見たことがある。佐賀県がフィルムコミッションとしてタイの映画やドラマのロケを誘致したもので、タイの人気俳優が出演してヒットになったことで、いわゆる聖地巡礼のスポットとして訪ねる人が急増した。もっとも、現在はコロナ禍ということもあって彼の国から来たとおぼしき人を目にすることはなかったが・・。

本殿に参詣したのだからそのまま階段を下りるところだが、実はこの先に奥の院があり、そこまで行くのがおすすめとある。前回は本殿で折り返したのだろう、奥の院があるというのは今回初めて知った。本殿まで来た人のほとんどがそのまま奥の院方向に歩いていたので、私もせっかくなので訪ねることにした。

萬子媛を祀る石壁社を過ぎ、鳥居が数多く並ぶ参道を上る。伏見稲荷と比べると朱色が抑えられた色使いだが、素朴な感じも好ましい。

奥の院まで200メートルの地点まで来た、これまでのコンクリート造りの階段から一転して、昔ながらの石段、さらには自然の歩道が続く。勾配もいきなり急になったように見える。

ここからは鳥居、祠が乱雑に並ぶ。石段を上がる人も息が上がるようである。私も汗がじわっと出てきた。

標識が150メートル、100メートル、50メートルと少しずつ頂上に近づいてきた。

本殿から10分あまり歩いたか、視界が広がったところが奥の院。ベンチの他に自動販売機も置かれている。祐徳稲荷の門前町を見下ろし、その先には佐賀市方面、有明海を望む。タイからのインバウンドの人たちも奥の院まで上ってきたのだろうか。

奥の院の各社に手を合わせる。ここまで来て真の意味で祐徳稲荷にお参りしたことになるのかな。汗をかいた分、ご利益も多少はあればいいなと思う。

帰りは別ルートだが、それでも急な勾配の石段を下りる。手すりにつかまりつつ、足を下ろす場を慎重に選びながらこちらもヒヤヒヤしながら下る。そしてようやく200メートル地点にて元の参道に合流した。ここまで戻れば後は楽な階段である。

時刻は12時を回っていて昼食時。門前町には土産物店兼食堂も並ぶが、今一つ「これ」というのに出会わない。祐徳稲荷の名物土産というのもあるにはあるが、甘味に手を出さない私としては厳しいところだ。その中で「鯉料理」という文字も見える。前回訪ねた小城の清水観音で鯉料理をいただいたこともあり、佐賀の精進落としかなと思うが、よく見ると「2人前から」と書かれていた。昼食はお預け、あるいは(私の旅でよくあることだが)昼食抜きということで、バスで鹿島に戻ることにする。乗ったのは鹿島バスセンター経由嬉野温泉行き。

一瞬、嬉野温泉まで足を延ばそうかとも思ったが、荷物を預けている鹿島バスセンターで下車。時刻表を見て、10分あまり後に発車する12時52分発の臨時「かもめ70号」を見つける。運転日は3月20日、4月29日、5月3~5日と限られているが、数少ない機会に巡り合ったものである。この先、県庁所在地である佐賀に向かうことにして、乗車券と自由席特急券を買い求める。バスが到着してすぐだったのでちょっと焦る。肥前鹿島も一応は有人駅なのだが、この時間は窓口が閉まっている。

特急らしい高速で途中の駅を通過する。この便は佐世保線との分岐駅である肥前山口も通過するが、それを知らずに乗ったらしい客が車掌に申し出ている。肥前山口で乗り換えて佐世保線のどこかの駅に行くつもりだったのだろう。そうした客も珍しくないのか、車掌は佐賀で折り返し乗車するよう、列車時刻も含めて案内していた。

13時10分、佐賀に到着。今回の九州西国霊場めぐりの最後に、いったん素通りしたが県庁所在地である佐賀を訪ねることにした。佐賀のホームから改札口を出るのも初めてである。

帰りの新鳥栖からの新幹線乗り継ぎまで3時間ほど時間がある。せっかくなので「昼飲み」も含めて楽しむことにしようか。ちょうど、駅北口の高架下に手ごろなチェーン店をみつける。幟には「呼子イカ」の文字も・・・。

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第9回九州西国霊場めぐり~有明海の海中鳥居を拝む

2022年03月28日 | 九州西国霊場

竹崎港9時20分発のバスに乗る。先ほど観世音寺や竹崎城跡など回り、暖かさに汗もうっすらとかいたためか、身体のほうはだいぶ楽になったように思う。

帰りは道越、肥前大浦駅前で乗客があった。肥前大浦から肥前鹿島、佐賀方面の列車は数分前に出たばかりである。特急はしょっちゅう通過するが、鈍行は数少ないところ。西九州新幹線の武雄温泉~新鳥栖がどのようなルートになるかはまだ決まっていないが、いずれにしても細々とした区間に該当することになる。一応、今回は肥前大浦までコマを進めたということでよいだろうか。

バスでこのまま終点鹿島バスセンターに行き、列車に乗り継げば筑後船小屋でのウエスタンリーグの試合開始にも間に合う・・・ということも頭によぎったが、やはり今回は佐賀南西部を楽しむことにする。

バスセンターに着くまでに1回途中下車をしようということで、有明海を眺めつつどこにしようかと考えていたが、結局多良栄町・海中鳥居前で下車。変わった景色ということで、その海中鳥居というのを見に行くことにする。

この鳥居は大魚神社のものとある。漁業関係者の敷地の奥にあり、ドライブやツーリングの人たちの記念撮影スポットとなっている。

奥に「アサリ養殖場につき関係者以外の立ち入りを禁ず」という看板がある。アサリ養殖・・・熊本県産の養殖アサリのほとんどが中国からの輸入もので、産地偽装として出荷停止されたことは記憶に新しいが、こちらのアサリはどうなんだろうか(佐賀県産というのはそれほど見ないように思うが・・)。

まず陸地に高い鳥居が一つあり、海に向かって鳥居が10数メートルおきに3基並ぶ。宮島の厳島神社の大鳥居と同じく、干潮時・満潮時でその景色は大きく異なるそうで、私が訪ねた3月20日の10時頃というのは、太良町一帯の潮位は満潮に向かっているところで(満潮は10時36分)、鳥居のかなりの高さまで海水が来ていた。まさに「海中鳥居」である。鳥居が1基というのなら国内にいくつかあるそうだが、3基続けて並ぶというのは珍しいという。

一方、観光案内やネット記事では干潮時の画像も見ることができる。鳥居の下をくぐる参道が現れ、それはそれでご利益がありそうだ。

さてこの海中鳥居、どのような経緯でできたのだろうか。説明板があるが、そこに登場するのは地元の悪代官である(イラストが「いかにも」という感じだ)。

江戸中期、この地に悪代官がいて、土地の人たちは苦しめられていた。そこで一計を案じた土地の人たちが沖ノ島に代官を誘って酒盛りを行い、酔った代官をそのまま置き去りにした。潮が満ちて島が沈みそうになり、代官が竜神に助けを求めたところ、海から大魚が現れて、代官はその背に乗って陸地に戻ることができた。これを機に代官は心を改め、大魚神社を建立し、海中に鳥居も建てた。以後、海の安全と豊漁祈願が行われ、土地の人たちの暮らしも楽になったそうだ。その代官の名前というのは残っていないようだが。

この沖ノ島とは実際に有明海に浮かんでいて、島とも岩礁とも言われている。古くからさまざまな信仰や伝説があり、上の話もその一つである。なお、この海中鳥居は沖ノ島と多良岳を直線で結ぶように建てられたという。

せっかくなので、鳥居からは少し離れるが大魚神社にも手を合わせる。

さて、次に乗る鹿島バスセンター行きのバスだが、海中鳥居前11時09分発である。ただ、海中鳥居に手を合わせた後で私が向かったのは長崎線の多良駅。竹崎から地図、時刻表をいろいろ見るうち、多良10時37分発の肥前山口行きがあるのを見つけた。多良までの列車が折り返す。これを見つけたから海中鳥居下車にしたとも言える。国道207号線をしばらく歩いた後、駅に到着。

多良駅は無人駅ながら太良町の玄関駅として観光のPRも行われている。ところどころに中国語が書かれているのもインバウンド向けのものだろう。なお、駅名が「多良」で町名が「太良」いうのが紛らわしいなと思っていたが、もともと「多良町」というのがあったところ、1955年に南の大浦村と合併した際に、双方の名前を取る形で「太良町」にしたとのことだ。

2両編成の列車で、往路の国道207号線に近いところを走る。ただ、有明海の眺めを楽しむという点では、国道のほうに軍配を上げたいところだ。

肥前浜に到着。列車の通過待ち、行き違いのために数分停車する。肥前浜はかつての長崎街道の宿場町であり、現在も酒蔵を中心とした町並みが残る。今回立ち寄り地の一つにも考えたが、祐徳稲荷神社へのアクセスが今一つということもあり見送りとした。そんな中、思わぬ形で列車に乗ることができ、そのうえ停車時間もあってせめて駅舎や待合室だけでも見ることができたのはよかった。肥前鹿島より肥前浜のほうが観光客を意識した造りである。

11時01分、肥前鹿島到着。この後、祐徳稲荷神社に向かうことに・・・。

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第9回九州西国霊場めぐり~第22番「観世音寺」(有明海を見渡す古刹)

2022年03月27日 | 九州西国霊場

肥前鹿島から1時間近くバスに乗り、終点の竹崎港に到着する。竹崎の港は小ぢんまりしたところだが、周辺には竹崎カニを扱う旅館が何軒か建つ。竹崎カニはワタリガニのブランドで、有明海の干満の差でできる干潟に棲むプランクトンや小動物をエサとしており、風味がよいのだという。

波止場をぶらつく。対岸に薄っすらと見えるのは島原半島、雲仙である。ここまで来たかという感じである。九州西国霊場の札所は島原半島にはないが、何らかの形で訪ねてみたいところだ。

さて観世音寺に向かう。地図を見るとバス停からまっすぐな道が通っていたが、行ってみると石段である。昔ながらの参道ということだろう。上るにつれて寺の風情となり、昔ながらの石仏や石塔も目にする。山門はないものの、そのまま上りきると観世音寺の本堂に出た。

高台から振り返るとちょうど竹崎の港を見下ろす。この日は穏やかな天候で、風も心地よい。

観世音寺の歴史は古く、奈良時代に行基が本尊千手観音を祀って開いたとされる。後に弘法大師空海が唐からの帰りに立ち寄ったことから真言宗の寺となった。鎌倉時代には伽藍が整い、多くの支院を持つようになった。ただ戦国の兵火で多くが消滅、江戸時代に本堂である観音堂が再建された。

また観世音寺では正月に修正会鬼祭が行われ、童子舞というのもあるそうだ。過去の修正会の様子がYouTubeにもアップされていたので見てみる。中世の面影をを留める行事として国の重要無形民俗文化財にも指定されている。

境内には鎌倉時代建立の石造三重塔が残っている。

朱印をいただき、これで今回の第一の目的は達成である。佐賀県は唐津にもう1ヶ所札所があるが

バスの時間までまだあるので、少し歩いて竹崎城跡に行ってみる。竹崎城は南北朝時代、南朝方の懐良親王に味方した有馬泰隆により築かれ、足利方の大軍を打ち破ったと言われている。後に戦国時代には島原の有馬氏と肥前の龍造寺氏の勢力争いの場となり、最後は龍造寺氏のものになった。島原の乱の後に取り壊され、現在は石垣などがわずかに残るばかりだが、城の大きさとしては名護屋城、唐津城、佐嘉(佐賀)城に匹敵するものだったという。竹崎島の位置、地形からしてちょっとした要塞のようである。

現在はこの先に竹崎城跡展望公園というのがある。天守閣を模した展望台があり、開放されている。周囲には菜の花や桜が植えられていて、菜の花は満開、桜もつぼみができている。

ここからの周囲の景色が素晴らしかった。有明海を挟んで右手には雲仙、正面は大牟田・荒尾、左手は佐賀市。また向きを変えると多良岳を中心とした山並みも広がる。しばらくこの展望台のベンチに寝転がって春の風を受ける。朝は身体がだるかったが、少しずつ楽になったように感じる。

この先には「夜燈鼻燈台跡」がある。竹崎沖は有明海にあって佐賀方面と諫早方面の潮の流れが変わるところで、海難事故も多かったという。そこで諫早領により燈台が設けられ、後に観世音寺もその管理に当たることになった。現在は海上保安庁が建てた灯台により管理されているが、竹崎城跡といい、やはりこの辺りの要衝だったことがうかがえる。

1時間あまりの滞在だったが、ゆっくりした時間が送れたように思う。今回はここで折り返しとして、肥前鹿島に戻ることに・・・。

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第9回九州西国霊場めぐり~有明海を眺め、竹崎島へ

2022年03月26日 | 九州西国霊場

3月20日、朝起きると何だか身体がだるい。

体温計を持っているわけではないが微熱も感じる。前日、3回目の新型コロナウイルスワクチンを接種したその足で佐賀までやって来たが、副反応だろうか。ちなみに、2回目までは接種後2~3日は肩が上がらなかった程度の副反応で、身体がだるいというのは初めてだ(まあ、ワクチン接種以外の要素もあるかもしれないが)。

前夜は早めに就寝したにもかかわらず寝起きがよくない。それでも部屋で軽い朝食を取った後、6時40分にチェックアウトする。この日はまず九州西国第22番の観世音寺に向かうべく、鹿島バスセンターから祐徳バスに乗る。バスも1時間近く乗車するので、途中眠くなれば寝ればいいし、車内でゆったり過ごすことにしよう。

バスセンターにコインロッカーがあるので荷物を預ける。室内には鹿島市や隣接する太良町、嬉野市などの観光ポスターが並び、佐賀県南西部の玄関口となっている。また祐徳バスはICカードに対応しており、ここでチャージも済ませておく。

乗り込むのは7時00分発の竹崎港行き。最寄り駅の肥前大浦まで長崎線で行って乗り換えるという手もあるが、そもそも肥前大浦に停車するのは本数が少ない鈍行のみで、その長崎線との接続も悪い。そのため、鹿島バスセンターから乗って行くほうがよい。座席定員18名の小型バスで、乗客は私一人。

国道207号線で肥前浜駅前を過ぎ、長崎線の線路とクロスすると左手に干拓地が広がる。そしてその先に有明海だ。有明海といえば干潟のイメージで、沿岸部は潮が引いた状態の泥が広がる。ただその一方、沿道には焼ガキの店も並ぶ。有明海といえばムツゴロウやワラスボといった独特の魚のイメージだが、知る人ぞ知るカキの養殖地なのだという。

バスは鹿島市から太良町に入り、道の駅太良を過ぎる。食事処の「たらふく館」や「たら漁師の館」の文字を見ると、魚の「たら」を連想する。もちろん、有明海でタラが獲れることはなく、この一帯の名物はカキや竹崎カニ、さらには沖合での養殖ノリである。

少し進むと、国道の向こうに鳥居が見える。来る前にポスターで「海中鳥居」というのを見かけたが、大魚神社の鳥居だという。バスからは大きな鳥居の頭くらいが見えたが、ここも立ち寄りとするかどうか。

というのも、この日の行程はまず竹崎港まで行き、観世音寺に参詣。バスで折り返すが、せっかくなので太良町のどこかで途中下車して、その次のバスで鹿島バスセンターに戻ることにしていた。その場所をどこにしようかと思っていたが、ここまで乗って来た中で、道の駅太良か海中鳥居のいずれかになるかなと思う。

その後も左に有明海、右手に長崎線の線路を見て走る。長崎線の線路脇には菜の花がずらりと咲き誇る。そんな中、バスはいったん国道を離れ、波瀬之浦の集落を通過する。ちょうど入り江に沿って走るが、その海側を国道と長崎線がショートカットする。

肥前大浦駅前を通過。佐賀県最南端の駅である。駅の手前に「もぐり発祥の地」の看板が見える。もぐりとはヘルメット式の潜水服、潜水具を着用して海に潜る漁法で、日本最初の潜水士が生まれたのが大浦だからという。海に潜る漁なら大昔から行われていたのではないかと思うが、潜水服を着て・・というのが最初なのだろう。

ここで国道、長崎線から離れて竹崎に向かう。途中、いったん道越集落を経由した後、竹崎島に渡る。県道を通るぶんには気づかなかったが、いわゆる陸繋島だという。

その先に観世音横というバス停があり、観世音寺へはここが最寄りのようだが、せっかくなのでもう1つ先の終点竹崎港まで乗る。鹿島バスセンターから竹崎までの間、乗降客は一人もいなかった。

穏やかな天候で、次の9時20分発のバスまでは1時間20分ほどある。寺参りと合わせて、集落をぶらつくことにしよう・・・。

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第9回九州西国霊場めぐり~肥前鹿島にて

2022年03月25日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりの佐賀県シリーズ。今回は肥前鹿島をベースとして、その先にある第22番観世音寺を目指す。

3月19日、その前泊として肥前鹿島に向かう。新鳥栖17時42分発の「かもめ33号」に乗る。日本旅行の「バリ得こだま・つばめ」プランは新鳥栖までで、その先はJR九州のネット予約にて乗車券・特急券を購入していた。この後に多良行きの鈍行が続くのだが、この春は青春18きっぷを使う予定はなく、普通に乗車券を買うのなら追加料金で特急に乗るのがよい。

前回訪ねた吉野ヶ里公園や、県庁所在地にもかかわらずそのまま通過する佐賀を経て、18時18分、肥前鹿島に到着。

無人の改札を出て駅前に出る。祐徳稲荷神社を意識してか駅舎はホームにはちらほら朱色が見える。

特急も停車し、駅前には地域交通の拠点である祐徳バスの鹿島バスセンターもあるが、商店や飲食店が広がるわけではない。事前に地図を見てある程度予想できた。

駅前に「日本青年団の父 田澤義鋪(たざわよしはる)」の像が立つ。「平凡道を非凡に歩め」という文言が添えられている。鹿島市出身の大正~昭和の思想家、社会教育家である。青年団の活動とは、地方の農村にあって学校教育とは無縁で教育的に見捨てられている勤労青年たちに教育や自己鍛錬の場を与えようというのが始まりという。

その先にあるのが、この日の宿泊地であるスカイタワーホテル。宿泊地が少ない肥前鹿島において手ごろなビジネスホテルである。駅前のコンビニで買い物をしたうえでチェックイン。翌朝は早いので素泊まりである。

部屋はごくごくシンプルなシングルルーム。佐賀県の地元テレビ局はフジ系列のサガテレビしかないが、一方で福岡の各局が(フジ系列のテレビ西日本もダブりで)映る。もっとも、BSが入らなかったのは残念。

さて、周りに飲食店がないからということもあるが、この夜の楽しみは温泉である。スカイタワーホテルと同じ系列で、「ひぜん祐徳温泉 宝乃湯」というのがある。クルマで5分ほどのところだが、ホテルの宿泊客は通常700円の入浴料が無料となるチケットがもらえ、送迎もしてくれる。次は19時ホテル発で、宝乃湯からの戻りは20時。先に入浴を済ませ、ホテルに戻ってから一献としよう。

そしてやって来た宝乃湯。チケットを出すとフェイスタオル、バスタオルも無料貸し出しだった。

大浴槽、エステバス、寝湯など楽しみ、露天風呂も緑に囲まれていて旅気分を味わえる。この日の素泊まり料金は5000円だったが、この宝乃湯にも入れたことでお得感が増した。

しばしゆっくりした後、ホテルからの迎えのクルマで戻る。途中には個人経営の居酒屋や郷土料理店らしき灯りも見えるが、この日は部屋飲みでゆっくりする。それを見越して肥前鹿島に来るまでに弁当を買っていた。

そのテーブルに乗るのは、鳥栖の駅弁「焼麦(しゃおまい)」。これは新鳥栖ではなく、博多で「こだま」から「つばめ」に乗り換える際、九州各地の駅弁を扱うコーナーで入手していた。新鳥栖で買えばよいのだが、時刻が17時を回っていて万が一売り切れ、あるいは売店そのものが営業終了だったら残念ということで、博多にて見つけたことで買っていた(結果としては、新鳥栖の売店も開いていたし「焼麦」もまだ残っていたが)。これはビールのお供だ。

メインは一緒に買った「九州トリップ弁当」。九州だからか9つのマスに分かれた弁当で、九州のさまざまな名物が入っている。角煮(長崎)、鶏炭火焼(宮崎)、福鯖(福岡)、高菜(熊本)、かしわめし(福岡)、佐賀牛めし(佐賀)、辛子明太子・白飯(福岡)、黒豚焼売(鹿児島→このうえまた焼売を食うのか)、馬肉コロッケ(熊本)、ゴーヤ天ぷら(沖縄)、鶏天(大分)・・・。やはり福岡が中心となるが、沖縄も含めて各県の代表をまんべんなく入れて来た。こちらをちびちびいただき、九州全般を味わう。

19日はこれで終了。20日は鹿島バスセンター7時発の便にて、九州西国霊場の観世音寺がある竹崎を目指す・・・。

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第9回九州西国霊場めぐり~予定はいろいろ変わったが、ともかく出かけよう・・

2022年03月24日 | 九州西国霊場

3月後半の連休を利用して、九州西国霊場めぐりの続きを行う。当初の長期見通し?の中では、3月に佐賀県の第20番地蔵院、第21番宝地院、第22番観世音寺の3ヶ所を回るつもりでいたが、2月に「WEST EXPRESS銀河」で下関まで行ったその足で地蔵院と宝地院を前倒しで回った。

今回観世音寺だけにするか、さらに長崎県に入って第23番和銅寺まで行くか。ただ、同じ長崎線沿線だが最寄り駅は鈍行しか停まらず、しかも本数が少ない。そのため長崎との県境に近い観世音寺だけにして、その代わり同じ佐賀県のスポットとして、途中の肥前鹿島にある祐徳稲荷神社などにも行こうかと思う。また近く福岡に行こうかというプランを考えていて、第23番以降はそれとも合わせて考えることにする。

その中で、19日~21日に北九州にて、今季から独立リーグ・九州アジアリーグに参入した福岡北九州フェニックス対火の国サラマンダーズの開幕シリーズが行われるという情報をキャッチしていた。北九州フェニックスは、ホリエモンこと堀江貴文氏が設立した球団で、監督兼選手に西岡剛、ヘッドコーチに独立リーグの数々の球団を渡り歩いたジョニー・セリスが就任するということで、どんなものか多少興味があった。最初のたたき台プランでは、北九州で独立リーグを見てから佐賀県に向かうか、佐賀県からの帰りに北九州に立ち寄るか、どちらにしようかとも考えていた。

そんな中、この連休のうち19日、20日は、筑後船小屋のタマホームスタジアム筑後(以下、タマスタ筑後)にてウエスタンリーグのホークス対バファローズ戦が組まれていることがわかった。ファーム用とはいえ新たにできた立派な球場ということで、福岡県ではあるがスケジュールに盛り込むのも面白いかと考えた。独立リーグとウエスタンリーグのどちらにしようか迷ったが・・結局ウエスタンリーグを選択した。

そう決めたうえで、19日には所用のほかに、接種期間が前倒しとなった新型コロナワクチン3回目接種の予定を夕方に組み入れた。これまでファイザー製2回、そして今回初めてのモデルナ製となり、副反応がどうか気になるが、19日は終日広島にいて、20日朝から筑後船小屋まで行きウエスタンリーグ観戦、夕方に長崎線で肥前鹿島まで行くことにした。翌21日に祐徳稲荷神社、観世音寺などを回り、夕方に新鳥栖から新幹線乗り継ぎで広島に戻る。往復の新幹線は日本旅行の「バリ得こだま・つばめ」を利用する。広島~新鳥栖は片道6600円と、「さくら」の料金と比べて4000円ほど安い。

ところが直前になって、21日は朝から急遽広島にいなければならないことになった。さてどうするか。後送りにしてもいいのだが、やはり行ける時に行っておこうと思う。

そこで考えた結果、19日のワクチン接種を昼前に前倒しして、その日の午後のうちに肥前鹿島に移動、宿泊。20日は、ウエスタンリーグ観戦はあきらめて観世音寺に行くことにした。朝のバスで観世音寺まで行き、そのまま折り返して肥前鹿島から直接移動すればタマスタ筑後の試合開始に間に合わないこともないが、そうすると祐徳稲荷神社その他が見送りとなる。まあ、タマスタ筑後(さらに元をたどると北九州フェニックス)にはまた行く機会もあるだろうから、今回は佐賀県にスポットを当てることにする。

ここで日本旅行のプランが裏目に出る。旅行契約上、列車や乗車券の区間の変更は不可で、もし何らかの事情で変更するならいったんキャンセルして、再度申し込みをする必要がある。出発日が近かったのでキャンセル料が発生してしまったが、自己都合なのだから仕方ない。実質日帰りプランながら行けるだけよしとする。

さて19日、ワクチン接種を終えて昼食を取った後に出発。西広島では、バファローズの杉本選手がICOCAカードを手にした「昇天ポーズ」で、山口県へのICOCAの利用区間拡大をPRするポスターを見る。2021年にブレイクして本塁打王も獲った「元社員・硬式野球部」としての出演なのだろうが、このポスター、地元大阪でも見ることはないだろうが、広島にあってカープの選手を差し置いてよく起用してくれたものだ。掲載期間が終わったらポスター譲ってくれないかな・・。

広島14時51分発の「こだま851号」博多行きで出発する。この時間に出発するのも珍しいことで、実質明日1日の札所めぐりのための前泊移動である。乗客の数も少ない中、のんびりと移動する。

途中徳山、新下関でそれぞれ10分近く通過待ち停車があった後、無事に九州に入る。

16時36分、博多到着。ホームが変わって17時04分発の「つばめ329号」に乗り換える。これで1駅、新鳥栖に向かう。広島から新鳥栖へはもちろん「さくら」等で直接行けるのだが、利用しているのが「こだま」、「つばめ」の列車限定きっぷのため、どうしてもこのような行き方になる。復路も同じだ。

新鳥栖で下車。現時点での西九州への玄関駅の一つで、九州西国霊場めぐりがこの先佐賀、長崎シリーズと続く中でこの後何回かは訪れることになりそうだ。西九州新幹線が今年9月に暫定開業するとはいえ、武雄温泉~長崎間で佐賀・鳥栖は直接関係しないことで・・。

17時42分発の特急「かもめ33号」に乗る。これで向かうのはこの夜宿泊する肥前鹿島・・・。

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第32番「正観寺」(後編)~広島新四国八十八ヶ所めぐり(火渡り初体験)

2022年03月23日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国第32番の正観寺を訪ねると、ちょうど3月13日は春季の大祭当日ということで、思わぬ形で本堂での法要に参列することになった。新型コロナ退散、ウクライナの平和など、様々なことも含めて祈願された。

さらにこの後、不動明王の法要として屋外で護摩行、そして火渡りが行われるとの案内があった。この後マツダスタジアムでのオープン戦観戦を予定していたが、せっかくの機会なのでこの法要も見守ることにする。火渡りは誰でも参加できるという。

本堂から出ると数十人の人が護摩供が始まるのを待っていた。お参りに来た人も多いが、カメラを手に法要の様子を撮影するのが目的のような人も見かける。

開始まで少し準備時間があるようなので、一角にあるお砂踏み階段を上がる。階段の1段1段が四国八十八ヶ所の札所のお砂踏みとなっていて、88段を上がる。そこには弘法大師の石像が建つ。周囲の眺望が広がるところだが、この場所にもカメラを構えた人がいる。上から護摩供の様子を撮る様子だが、こうした角度からでも見ごたえがあるものだろうか。

11時からは少し遅れたが、法螺貝の音とともに先ほどの住職をはじめ、行者姿の人たちがやって来る。額には石鎚神社と書かれたハチマキが巻かれている。石鎚山も修験道の行場の一つである。ただその中でも参列の中から「じいちゃんだ!」との声もあがる。修験道の行者といっても普段の家庭ではいいおじいちゃんなのだろう。

まずは印を結んで結界の中に入る。中央には何かの葉で覆われた櫓が組まれ、また四方に竹が立てられている。

四方がそれぞれの方角の守り仏や災厄を表すのか、まずは祝詞や真言を唱えながら、水や塩、榊で清める。「おんばさらだとばん、おんばさらだとばん」と、大日如来の真言も唱える。

続いては中央の櫓に向かって剣、斧をエイ、エイと振るう。

さらに、東=薬師如来、南=弥勒菩薩、西=阿弥陀如来、北=釈迦如来、中央=大日如来と四方それぞれに位置する仏に祈り、矢を放つ。これは縁起物として参詣者が持ち帰ることができるようで、矢を拾った人が手にしたり、あるいは近くの子どもに譲ったりする。

住職による祈願文も読まれる。そして竹に点火していよいよ護摩供の始まりである。

結構な煙が出る。

やがて炎が高々と上がり、櫓を覆っていた葉っぱが燃え尽きて本体が出てきた。護摩供としてはここからが本番のようだ。読経が始まり、奉納された護摩木が次々と投げ入れられる。

手前では住職が護摩木に加持祈祷を行い、櫓に向かってエイッと投げつける。それを行者が火の中に投げ入れる。鈴と太鼓の音でリズムを取りながら般若心経がエンドレスで唱えられ、私もその様子を見守りながら小声で唱える。

櫓を組んでいた丸太が崩され、先ほどの護摩木などでできた灰がならされる。火渡りの道を作るようだ。かと思うと新たに護摩木を放り込んでもう1回炎を上げる。

これで準備ができたようで、住職、そして行者がその上を渡っていく。

その後が一般の参詣者たちの火渡りで、待ってましたとばかりに列ができる。この歳にして火渡りは初めてだが、ここまで見届けたのだから私も体験しよう。裸足になって列に加わる。

住職から剣(鞘に収めた状態)で頭、肩、背中をポンとなでてもらい、どうぞと押される。長さにして5メートルもないくらいで、ほんの数歩のことだったが、足の裏には確実に熱さが伝わって来た。通り抜けるから耐えることができるもので、その場に立ち止まって・・というわけにはいかない。灰、炭のために足の裏が黒ずみ、タオルで払っても残る。これは火渡りのご利益として、帰宅後に入浴して流すことにする。

火渡りの行列はまだまだ続き、大祭の最後がどうなるかというのも気になるが、思わぬ形で聖観音菩薩、不動明王のご縁を得たことをありがたく感じ、ここらでマツダスタジアムに向かうことにする。正観寺からだと、南側の大州通りに出てバスに乗るのが近そうだ。

その大州通り、道路が渋滞している。やはり野球観戦絡みだろうか。バスの到着も遅れているようで、このまま歩いたほうがよさそうだ。時刻は12時半を回っていて、入口までの距離からすれば試合開始直前になりそうだ。

結局、遅れてやって来た路線バスとほぼ同じタイミングでマツダスタジアム前のバス停に着き、入口に向かう。そして着席したのがプレイボール前の両監督のメンバー表交換のタイミングで、ファイターズの新庄監督に大きな拍手が送られていたところだった次第・・・。

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第32番「正観寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(春の観音大祭に出会う)

2022年03月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国第31番の金剛寺から移動して、府中大橋から山陽新幹線の高架を見て川沿いに歩く。その後、山陽線の線路下をくぐる。川の向かいに天神川駅が見えるが、駅を利用する場合は南北いずれかの道路橋まで出てぐるりと回る必要がある。歩行者・自転車専用でもいいので、橋の一つでも架かっていれば便利なのではと思う。

府中大橋から数分で正観寺の建物に出る。そこに建つのは一般的な木造の山門や本堂ではなく、コンクリート造りの堂々とした建物だ。巨大な幟も掲げられている。地形を利用してか、1階はモニュメントが置かれ、2階に寺務所・檀信徒会館、3階が本堂となっている。その建物からは経典かご詠歌だかの音声が流れていて、人々の声も響く。何か寺の行事でもあるのだろうか。広島新四国では、お参りすると寺にいるのは私だけ・・というのが多いこともあり、かえって戸惑う。部外者お断りだったらまた出直すことになるが・・。

この日(3月13日)は正観寺の春季観音大祭の当日だった。事前に調べていたわけでなく、来て初めて知ったことだ。檀信徒に限らず誰でも参加することができるそうで、本堂の前には護摩供の受付やお札等の販売が行われている。書置きの朱印も一緒に置かれていたので1枚いただく。この後10時から本尊の聖観音供養の法要が行われるという。これも何かのご縁かなと思い、設けられた席に座らせてもらう。

時間となり、僧侶が6~7人ほど入って来る。まずは声明というのか、長い節回しのご詠歌を唱える。法要が始まると少しずつ参詣の人が集まり、合わせて30名ほどとなった。

正観寺は奈良時代に行基により開かれたとされる。太田川の下流、現在の白島付近で石の観音像を見つけたことから寺を建立したという。寺の山号は箱島山というが、箱島とは白島の古い呼び名とされている。江戸時代に再興し、浅野氏からも保護を受けた広島の古刹だったが、原爆により本堂、伽藍が焼失した。戦後の復興が進まないうちに都市計画による区画整理の対象となり、府中町の現在地に移転された。その後、建物の老朽化と、丘の上への参道が急だというので1997年に場所を下げ、現在の立派な建物に改築された。

声明が終わると読経となる。ところどころに聞こえる「一切(いっせい)」や「是菩薩位(しほさい)」という言葉から、唱えているのは理趣経のようだ。私もあわててスマホから理趣経の読み方を引っ張り出し、途中からついていこうとするが慣れないのでしんどい。他の経典でよく使われる呉音読みとは違い、漢音読みというのも一つの理由である。追いかけるのはあきらめた。

理趣経の途中で、ご順に(3回)焼香くださいとの案内がある。

理趣経が終わり、聖観音の真言などがあって法要は終了。最後に住職らしき僧が挨拶する。平素の諸願成就を願うとともに、新型コロナウイルスの退散、さらにはロシアとウクライナの戦闘の終息を祈願したという。新型コロナは日本では落ち着きを見せつつあるが、国際情勢についてはまだしばらく混沌として、日本国内にも間接的ながら影響が出始めているところである。寺で祈願してどうなるのかという見方もあるだろうが、せめて祈るしかないだろう・・。

この後11時から、本堂横のスペースにて不動明王の護摩供を行うという。先ほど、外で設営していたところを目にしていたが、最後には誰でも火渡りができるということでせっかくなのでこれも参列しよう。この行事もそれ自体見どころがあったので、広島新四国めぐりでは異例の前後編ということに・・・。

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第31番「金剛寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(府中の聖天さん)

2022年03月21日 | 広島新四国八十八ヶ所

3月13日、この日の午後はマツダスタジアムでカープ対ファイターズのオープン戦を観戦することにして、その前に広島新四国八十八ヶ所めぐりも進めることにする。府中町にある第31番金剛寺、第32番正観寺である。正観寺は天神川駅に近く、また大洲通りを走るバスもあるから、参詣後にマツダスタジアムに行くにはちょうどいいだろう。

まず金剛寺に向かう。八丁堀(あおぞら銀行前)から府中ニュータウン行きのバスに乗る。広島駅を過ぎ、山陽線の北側を走る。府中大橋を渡り府中町に入ると新幹線の高架に沿う。

住宅が並ぶ坂道を上り、宮ノ町5丁目で下車。少し歩き、府中中学校の前の住宅地に紛れるように建っているのが金剛寺である。石段を上り、山門をくぐる。ちょうど住職らしき方が境内の清掃中である。

金剛寺は戦前日本の植民地だった台湾で開かれたという。太平洋戦争が始まる頃に広島に移転し、能美島や安芸高田などを転々とした後、1955年に現在地に落ち着いた。この地にはかつて神武天皇の東征伝説が残る多家神社の八幡別宮があったところというが、前回訪ねた第27番岩谷寺の住職を兼ねるために移ったとのこと。

本尊は歓喜天で、「府中の聖天さん」として親しまれているそうだ。また弘法大師も祀られている。賽銭箱の横には四国八十八ヶ所めぐりで使ったのか、金剛杖が立てられている。これは金剛寺に奉納されたものか、置き忘れたのか。

朱印は例のセルフ式の箱に収められている。ここで第27番岩谷寺、第29番江本寺の朱印も同時にゲット。

府中ニュータウンからのバスは30分に1本で、宮ノ町5丁目からは出発したばかり。新幹線の高架下まで歩き、浜田2丁目のバス停に向かう。別系統の路線も交わっていて、タイミングが合えばそれに乗ることができる。果たしてその通りで、ちょうど広島駅方面行きがやって来た。これで府中大橋まで向かう・・・。

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第30番「鵜上寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(仕上げは久しぶりの焼きとんで・・)

2022年03月19日 | 広島新四国八十八ヶ所

府中町の石井城地区を歩く。昔ながらの家屋や湧き水も残るところだ。

スマホ地図を見ながら、細い道を上がったところにこれも急に見つけたのが鵜上寺。こちらも先ほどの江本寺と同じく小さなお堂である。こちらも普段は集会所として使われているようで、外にはホワイトボードが掲げられている。

鵜上寺が開かれたのは平安時代、当地の惣社大明神の本地仏として十一面観音が祀られていた。寺の由来として、昔はこの辺りは海に近く、海鵜が台地の上に棲んでいたことからつけられたとある。また、今は荒地となっているが江戸時代には庭園があり、頼山陽も詩を詠んだとの説明文もある。その後明治の神仏分離、寺社の統廃合が行われた際、地元の人たちが時の県令にに願い出て廃寺を免れたという。

こちらは箱に朱印が置かれていた。これで第27番岩谷寺、第29番江本寺の朱印を第31番金剛寺まで取りに行くことになるが、同じ府中町でも少し離れているので、金剛寺はその次の第32番正観寺とセットで次回訪ねることにしよう。

鵜上寺まで歩いてきたが、帰りはどうやって出ようか。何となく西の方向に歩くと広電バスの本町4丁目に到着。しばらく待つと広島駅~八丁堀~県庁行きの便が来たので乗り込む。途中、イオンモール広島府中の横を過ぎる。府中町随一の商業施設だが、かつてはキリンビールの広島工場があったところだ。

この日(3月6日)はマツダスタジアムでカープとライオンズのオープン戦が行われるとあって、バスにもカープのユニフォーム姿の客が乗って来た。広島駅からの道にもカープファンの姿が見られる。オープン戦なので当日券でも入れそうだが、朝からそのつもりではなかったのでスタジアムには行かずそのまま乗り続ける。翌週ファイターズ戦を観に行こうと思ったのはこの後のことである。

そのまま八丁堀に向かう。昼食でも・・という中で見つけたのが「一利喜」という店。「昼飲みやってます」という文字と、久しぶりに見る「焼きとん」の文字。そういえば東京へ行く用事もすっかりなくなったので(会議やら出張やらが全部リモートで行われる・・)焼きとんも久しく食べていないな・・ということで中に入る。合わせて、市内で飲むのも久しぶりだ。

まずは煮込み。これもB級グルメの味である。

そして、炭火がバチバチいう中で焼かれた焼きとんの盛り合わせ。これには当然ホッピーである。広島にもこういう店があってよかった。

その中で広島のB級グルメということでホルモンの天ぷらを注文。西区の福島町が発祥とされ、当時近くには牛肉の加工場があったことから肉屋も多く、余ったホルモンを残さず食べようというのでできた料理である。河内のかすうどんにも通じるものがあるかな。

昼からよい心持になって、広電電車で帰宅する。広島新四国もこれから30番台ということでさらに東へ進む・・・。

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第29番「江本寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(本堂は集会所)

2022年03月18日 | 広島新四国八十八ヶ所

府中町の道隆寺から坂道を下る。次に目指す第29番の江本寺(こうほんじ)へはスマホの地図を頼りに歩いていくが、途中で間違えて、別の行き止まりの道に入ってしまった。

そこには石碑があり、石井城跡とある。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、田所氏の一族である石井氏というのがこの辺りを拠点としていたそうで、石碑には石井七郎末忠という武将の名前が書かれている。この石井末忠は後醍醐天皇の綸旨を受けて伯耆の船上山に馳せ参じ、その後も天皇方で転戦したが、湊川の戦いで楠木正成とともに戦死したという。石碑は戦前に整備されたものとあり、これはやはり当時の世相が現れてのことかな。

城跡といってもそれらしき遺構があるわけではないが、周囲は石井城や城ヶ丘という地名で、そこに名残があるようだ。

江本寺への道に戻る。コミュニティバスにも江本寺という停留所があり、この辺りで目立つところかなと向かったが・・。

道の曲がり角に小さな建物がある。およそ寺らしく見えないが、ここが江本寺である。第29番霊場とあるので間違いないのだが、「江本寺会館」とある。「毎月第3日曜日に開けさせていただきます」「納経は第31番の金剛寺さんでお納めください」との貼り紙がある。第27番の岩谷寺に続いての金剛寺での対応ね。

それにしても、境内には小さな石仏や灯籠があるとはいえ、扉の横にはバケツやシャベル、手押し車が置かれていて、やはり寺というよりは集会所の感じである。

この江本寺、開創の時期は不明だが江戸時代には府中村の寺社の一覧には出ていたようである。1941年に焼失し、1966年に現在の建物が再建されたとある。

江本寺はあっさりと終わり、次の鵜上寺に向かう。その途中も昔ながらの狭い道が続く・・・。

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第28番「道隆寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(安芸国の府中へ)

2022年03月17日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国めぐりは府中町に入る。その名前からかつての安芸の国の中心だったところだ。国庁や総社も置かれていた。その一方で安芸の国分寺は現在の東広島市に建てられていて、そこは何か理由があったのかな。

府中町はマツダの本社が置かれ、また広島市のベッドタウンとして戦後人口が増え、現在は人口が5万人超と、全国の町村では最も多い。なお人口は広島県内の他の市と比べても三次市と同じくらいで、竹原、庄原、大竹、備後の府中などよりも多い。一方で面積は県内でも最も小さい。そのため、人口密度が中国・四国地方では最も高い自治体である。周囲を広島市に囲まれていて、「広島のバチカン」と呼ぶ向きもある。以前には広島市と合併するか、単独で市制に移行するか、現状維持かの住民投票が行われたことがあり、その時は広島市との合併を望む声が最も多かったが、過半数に達しなかったために現状維持となったとのこと。

住宅が立ち並び、道が入り組んでいる。広島新四国めぐりには案内板や道標があるわけではないので、スマホの地図を頼りに歩く。まずやって来たのが、第28番の道隆寺である。

道隆寺という名前を目にして思い浮かんだのが、多度津にある四国八十八ヶ所第77番の道隆寺。来る前は、多度津の道隆寺にあやかってその名がついたのかと思っていたが、案内板によると府中の道隆寺とは、平安時代の関白・藤原道隆から来ているという。

周囲を住宅に囲まれているが、その中に自然に溶け込んだ感じの道隆寺。山門や塀で囲まれているわけでなく、周りの道から気軽に入ることができる。本堂の前には小ぢんまりではあるが庭が広がるようだ。

道隆寺は弘法大師が開いたとされ、当初は現在地から東の堂所山にあって薬王寺という名前だった(もっとも、弘法大師よりも前、すでに寺があったと推測されている)。後に、安芸の国主でもあった関白・藤原道隆により現在地に七堂伽藍が建てられ、多くの末寺も建てられた。案内板にはかつての道隆寺の絵図も出ている。江戸時代には浅野氏の祈願所でもあったが、現在は住宅地に溶け込む形になったのは時代の流れだろう。

納経は本堂の中ということで、扉を開けて入る。本尊の薬師如来はガラス扉のさらに奥だが、まずはその前に座ってのお勤めとする。外陣には遍路関連の書物や写真なども多く並び、そこは本四国の同じ名前の道隆寺とのご縁もあるのだろう。ちなみに、多度津の道隆寺の名前は、奈良時代そこの領主だった和気道隆からつけられたという。

境内を後にして、急な坂を下る。この先は江本寺、鵜上寺と府中町内を続けて回ることに・・・。

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第27番「岩谷寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(東区から府中町へ)

2022年03月16日 | 広島新四国八十八ヶ所

3月に入り、気候も少しずつ穏やかになって来た。時期的に慌ただしいところなのだが、その中で合間を使って広島新四国八十八ヶ所めぐりも進めることにする。

今回は第27番の岩谷寺から第30番の鵜土寺を回ることにする。広島新四国も広島駅から東に向かう局面となり、東区から府中町に差し掛かる。

3月6日、広島駅新幹線口から始まる。温品方面、小河原車庫行きのバスに乗り込む。他の寺院に替わって第11番札所となった安楽寺以来のことである。瀬戸内高校の前を通り、大内越峠を過ぎて芸備線の踏切を渡る。

広島高速5号線の高架橋が芸備線の線路を跨ぐ。広島駅新幹線口と広島高速1号線(山陽自動車道広島東インターに通じる)を結ぶ路線として工事が進められているが、工事の中断、延期が続いている。2012年度に一部区間開業予定だったが、トンネル工事の反対運動などで開通が2017年度に延期、さらに2020年度に引き延ばされ、最終的に2022年度となった。ところが、二葉山トンネルの掘削工事の遅れのため、2022年度の開通も困難となり、その後は未定である。区間にしてわずか4キロだが、その約半分は二葉山トンネル。何をやっているのやら・・。

温品口のバス停で下車。周囲はJRの社宅の建物が並ぶ。

JR社宅の周りに所狭しと住宅が並ぶ中、一角に寺の建物が見える。寺と言っても昔ながらの土塀があるわけでないし、山門がそびえるわけでもない。周りには駐車場があってどこからどこまでが寺の敷地なのかというくらいだ。そこに岩谷寺がある。

岩谷寺の開創ははっきりとしていないが、この近くの高尾山頂の近くに平安時代から岩谷観音として祀られていたそうで、明治時代に岩谷寺の号が与えられ、地元の人々の信仰を集めていた。案内板には当時の本堂の写真も載っているが、お堂の裏には岩屋があり、その名に似合っている。一瞬、四国八十八ヶ所第45番の「岩屋寺」に似ているなと思った。

しかし1967年、火災により本堂の一部が焼失し、1969年に地元の人たちから土地の提供を受けてこの地に新たに本堂が建てられた。それを記念する石碑が建てられている。

境内には集会所らしき建物があり、クルマも停まっているのだが、寺としては「納経は31番金剛寺でお受け下さい」とある。第26番の龍蔵院に続いて別の場所での納経指示だが、これもローカル札所ならでは。31番なら近いうちに訪ねることになる。

次の第28番の道隆寺に向かうが、バスを乗り継ぐよりはそのまま歩いたほうが早そうだ。坂道を上り、広島高速1号線をオーバークロスする歩道橋に出る。ここを渡ると東区から府中町に入る。広島高速1号線はこれまで何度もクルマで走ったことがあるが、上から見るのは初めてである。

ここからしばらくは府中町の札所が続く・・・。

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