まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第26番「龍蔵院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(歓喜天とチベット仏教)

2022年02月28日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりで前回第25番の不動院を訪ねた帰り、アストラムラインに乗って本通までやって来た。その時車内広告で「アス謎2021」というイベントを見つけた。最近あちこちの鉄道路線で行われている「乗車型謎解き」の一つで、2021年4月29日から行われていたのが、2022年3月31日まで期間を延長するという。

アストラムラインに乗る機会もなかなかないので、これをきっかけに参加してみようと思う。そして後日(2月20日)に再び本通駅にやって来た。本通、県庁前の新聞販売機にて謎解きキットが発売されており、参加費990円を入れると封筒に入ったキットが押し出された。また、謎解きにはいくつかの駅を訪ねる必要があるため、1日乗車券が便利という。こちらを950円で購入。クリアまでの標準所要時間は5時間とある。

本通を出発し(この駅にも謎解きらしきものがあるが、内容については公表しないのがルールなのでそれ以上は触れない)、謎解きの指示書に従っていくつかの駅を回る。アストラムラインをフルに使って・・ということなので、当然終点の広域公園前にも行くことになる(そのくらいは言ってもいいだろう?)。前日19日にはサッカーJ1のサンフレッチェ広島の開幕戦がエディオンスタジアムで行われたが、雪の舞う中スコアレスドローだった。

謎解きもよくわからないものがあったが、そこはヒントページも用意されていて、わからないものはそれを頼りにして進む。白状すると、途中からじっくり腰を据えて考えなければならない問題が続き、これは外に出たままでは解けないなということで、途中でいったん切り上げて続きは自宅で解くことにした。これに正解すればゴールの駅にてクリアの証明をもらえるのだが、後日ということにする。

・・前置きが長くなったが、アストラムラインの駅を回って戻って来た本通。ここから広電バスの牛田早稲田行きに乗車した。ここから本題の広島新四国八十八ヶ所めぐりである。本通駅を経由して第25番不動院と第26番の龍蔵院を結びましたということで・・。

牛田地区も坂が続くところ。女学院大学前のバス停で下車して、少し戻る。そこに龍蔵院に続く坂道の入口がある。特に山門があるわけでなく、地蔵堂と郵便ポストが玄関の役割である。

かつての石仏も残る中、石段、坂道を上がっていく。数分歩いて境内に出る。本坊らしい住宅や作業場も広がっているが、人の気配を感じない。ちょっと荒れたように見える。

正面には鳥居、その奥にお堂が見える。鳥居の扁額には巾着袋があしらわれ「聖天」と刻まれている。本尊の歓喜天の別称である。両脇に地蔵堂と祠があり、かつての神仏習合の名残のようだ。

本尊の歓喜天は毛利氏の持仏だったという。毛利輝元が広島に築城するにあたり、この辺りから地勢を見ていたところ、水が湧き出る泉を見つけた。この泉から歓喜天が現れ、輝元はこの吉祥から現在の場所に城を建てることを決意し、毛利氏の持仏とした。うーん、だとしたら毛利氏は関ヶ原の戦いの後に防長に移ったから、いろんな変遷があって現在ここに祀られているということなのかな。

真言は歓喜天と十一面観音が並ぶ。

そして納経所・・だが、建物はあるが扉は閉まっている。朱印については、第62番の明星院にて受け付けるとある。明星院は牛田から下った二葉の里にあるが、番号順となるとかなり後である。龍蔵院の朱印はそれまでお預け・・(その時まで覚えているかどうか)。

この時はそのまま牛田東2丁目のバス停に下り、八丁堀に出た。なお、この日(2月20日)の朝、広電西広島のすぐ東で乗用車との衝突により電車が脱線し、市内線が不通になっていた(別記事のとおり)が、昼前には無事に復旧し、私が戻る頃には通常ダイヤに回復していた。あの事故についてはネットでも乗用車の運転手が叩かれていたが、どのような処分になったのだろうか。新型車両を破損させたことによる損害賠償がどうなるのかも気になるが、例えば対人対物無制限の任意保険に入っていれば全額保険で対応できるものなのか、いやいや電車の運休や遅延にともなう賠償は保険ではカバーできないので運転手に請求が行くとか・・いろんな情報・デマが入り乱れるので、「こういう場合はこうなる」ということを誰かが示してあげれば事故の抑制にもつながると思うのだが、どうだろうか。

・・さて帰宅後に記事をまとめる中で知ったのだが、ここ龍蔵院にはかつてチベット仏教の交流活動拠点が置かれていたという。「文殊師利大乗仏教会」という団体で、龍蔵院は「デブン・ゴマン学堂日本別院」の機能も有していたそうだ。チベット仏教のダライ・ラマ14世も龍蔵院を訪ねて法要を行ったこともあったという。

この日本別院の機能だが、2019年に宮島の大聖院の支援もあり、同じ広島の真光院に移されたとある。真光院・・・広島新四国の第10番で、私のご近所にあるあの寺だ。ただ寺といっても住宅地の真ん中で、看板がなければ寺とは気づきにくい建物である。訪ねた時も扉が閉まっていて、軒先でちょっと手を合わせるくらいのものだったが、あの中にチベット仏教の諸々が収められているということか。また、中国観音霊場めぐりで大聖院を訪ねた時、本堂の一角にチベット仏教のあれこれがあったのを思い出したが、そういうことだったのかと結びついた。

広島にチベット仏教。これも意外な広島の姿である・・・。

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第25番「不動院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(広島市内唯一の国宝建物)

2022年02月26日 | 広島新四国八十八ヶ所

2月12日の広島新四国めぐりも3ヶ所目。第25番の不動院に着く。アストラムラインの不動院前駅もあるし、広島から大阪に向かう高速バスも停車するので名前は知っていたが、寺を訪ねるのは初めてである。

不動院は正式には安国寺という。開かれたのは平安時代とされるが、南北朝時代に足利尊氏が全国に設立した安国寺の一つである。安芸国の安国寺として、また守護の武田氏の菩提寺として栄えたが、戦国時代の兵火で焼失した。

これを復興させたのが、毛利氏の外交僧だった安国寺恵瓊。後に豊臣秀吉ともつながり、関ヶ原の戦いでは石田三成と組んで毛利輝元を西軍の総大将に担ぎ上げたが、敗戦。恵瓊も斬首となった。

安国寺は広島に入った福島正則の時に禅宗から真言宗に変わり、不動明王を祀ったことから不動院と呼ばれるようになった。以後、浅野氏の保護を受ける。

正面の金堂には薬師如来が祀られている。中国四十九薬師の札所でもあり、またいつかそのシリーズで訪ねることになる。金堂は元々大内義隆により山口に建てられたものを安国寺恵瓊が移築したもので、国宝に指定されている。国宝建物としては広島市内唯一である。やはり原爆のため、市内にあった由緒ある建物がことごとく失われたこともある。原爆であの形で残った建物は国宝を通り越して世界遺産になったが・・。

広島新四国の本尊は不動明王で、不動堂に祀られている。

原爆の時、爆心地から4キロほど離れた不動院は、地形のためもあってか金堂の一部が破損した程度で倒壊を免れた。その一方で、市街地から多くの人たちが避難して、不動院はその受け入れ先になった。ただ、救護の甲斐もなくここで亡くなった方もいたことだろう。先の持明院に続き、ここでも安らかにと手を合わせる。

納経所に向かう。広島新四国、中国四十九薬師それぞれのケースがあり、それをいただく方式だが、広島新四国の用紙が切れていて空になっている。チャイムを鳴らすと寺の方が出てきて、新たに用紙に書いていただく。かえってありがたい。左下の寺名には安国寺とある。

この日は3ヶ所で終わりとして、アストラムラインで本通まで出る。広島新四国はこの先は東区から府中町、安芸区、海田町と、以前の広島勤務時でもそれほど訪ねる機会がなかった東部エリアに入ることに・・・。

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第24番「持明院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(平和への願いを込めて、永遠に安らかに)

2022年02月24日 | 広島新四国八十八ヶ所

中深川の駅から路線バスで高陽ニュータウンを抜け、東区に入る。太田川沿いに出て、その名も「広島ゴルフ場前」というバス停に到着する。河川敷の両岸にショートコースのゴルフ場がある。

これから目指す広島新四国第24番の持明院は、バス停からすぐのところにあった。建物自体新しい感じである。

持明院が開かれたのは安土桃山時代。秀栄和尚が毛利氏から領地をもらい、木挽町に寺を開いた。この木挽町というのはかつて木材問屋や材木屋が多かったところで、周辺の山間部や瀬戸内海との物流の拠点でもあった。そのため持明院は航海安全や商売繁盛を願う人たちで賑わったという。

しかし、広島への原爆投下の際、爆心地から数百メートルの場所だったためにすべて焼失してしまった。この木挽町は現在の中島町、平和公園辺りである。戦後間もなく同じ場所で再興されたが、1967年、都市開発が進むのに合わせてより静かな場所を求めて現在の戸坂に移転した。現在の建物はそれからさらに改築されたように見える。

境内の一角に原爆の慰霊碑がある。戦時中、市内に学徒動員されていた広島市立高等女学校の教師・生徒ら679名が原爆の犠牲となった。生徒たちが被爆した場所が持明院の近くで、当時の住職が再興時に遺骨を発見し、持明院で供養したことから慰霊碑が建てられたとある。現在の寺の本尊も、女学校の遺族の人たちから奉納された聖観音菩薩である。

他にも永代供養の「もやいの碑」や弘法大師像、身代わり地蔵像などが並ぶ。

さて、本堂入口は階段を上がったところだが、扉を開けると広い玄関があり、ここで靴を脱ぐようになっている。本尊その他は奥に祀られているが、戸が閉まっており、中から読経の声が聞こえてくる。他に靴がなかったので檀信徒がいての法要というよりは住職のお勤めだろうが、さすがにその中に入る勇気はない。玄関の扉を閉めて、そこから簡単にお勤めだけする。

そして朱印だが、階下に供養の受付やお守りの授与をするところがあるので、ここでベルを鳴らすと寺の方が出てきて、中から出してくれた。

これまでにも、原爆のために大きな被害を受け、後に復興したが都市開発の中で移転した札所に出会った。広島の歴史にあって原爆というのはどうしても避けて通れない。今回、持明院の本尊である聖観音菩薩を直接拝むことはできなかったが、「永遠に安らかに」の願いが込められた思いを胸に、改めて平和を願いたいものである。

さて、次の第25番は不動院だが、太田川に沿って歩いてもそれほど遠くない。バス停は広島ゴルフ場前だったが、太田川ゴルフ場という名のコースを見下ろす土手の歩道を歩く。季節的に芝も枯れた感じで、またプレーする人の姿も少なかったが、こうしたところは比較的安価に、気軽に楽しめそうだ。かくいう私、この数年クラブは全く握っていないのだが・・・。

ショートコースの数ホール分を歩いたところで祇園新橋まで出る。ここから不動院はすぐそこにある・・・。

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第23番「明光寺薬師堂」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(深川の薬師堂)

2022年02月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

2月11日に福王寺を訪ねたのに続き、翌12日も広島新四国八十八ヶ所めぐりである。今回は太田川の東側、第23番の明光寺、第24番の持明院、そして第25番の不動院を訪ねる。札所数でいえばちょうど4分の1を過ぎたところだ。

まずは第23番の明光寺を目指す。路線バスのほうが本数が多いのだが、芸備線の中深川が最寄り駅ということで、ここは気動車に乗っていくことにする。広島から乗るのは9時01分発の三次行き。ふとこのまま三次、あるいはその先まで行ってもいいかなと思ってしまう。芸備線の特に備後落合~東城~備中神代(新見)の区間は存続が危ぶまれるところとして気になるところである。

ボックス席に揺られ、区間運転の多い下深川で数分停車した後、その次の中深川に到着。下深川からそれほど離れていないが、列車本数は半減して日中は1時間に1本の割合となる。ホーム1本、簡易な駅舎が出迎える。

駅から北に向いて歩く。「薬師道」と書かれた道標にも出会う。その先、三篠川を渡る。ちょうど河川の改修工事中である。この三篠川、近年では2018年の西日本豪雨で芸備線の橋梁も流されたし、2021年のお盆時季の豪雨でも氾濫危険水位に到達した。

川の向こうに、昔ながらの里山の寺といった構えの寺院が見える。ここが明光寺である。

山門をくぐると正面に本堂がある。ただしそこには、広島新四国八十八ヶ所の霊場は奥の薬師堂であるとの案内が出ている。本堂は明光寺の本尊である阿弥陀如来が祀られている。ここは浄土真宗の寺である。境内に建つ修行像の像は弘法大師でなく親鸞聖人である。

明光寺が開かれたのは平安時代前期、国造の久島家勝が弘法大師作と伝えられる薬師如来を祀った薬師寺を建てたのが始まりとされている。その後仁明天皇から「正明院」の名前を賜り、七堂伽藍と12の末寺を有した。その後衰えたが、大内弘世や毛利元就らの寄進により復興した。現存する薬師如来はこの当時に造られたものとされる。

しかし、関ヶ原の戦い後に広島に入った福島正則により寺の領地を没収され、住職の存秀も身を隠した。その後、本願寺のとりなしもあって浄土真宗に改宗し、明光寺も新たな本堂のもとで再興された。ただ、薬師如来やそれを祀った薬師堂も明光寺の祖先仏として保護されることになり、福島正則の後の浅野氏も寺を保護したことで現在にいたる。

現在の薬師堂は江戸後期に改修された建物であるが、元々建てられたのが室町・戦国時代ということもあってか禅宗様式の建物に見える。拝観は自由とのことで、横の扉を開けて中に入る。堂々とした体躯の薬師如来が出迎える。両脇に日光・月光菩薩を従えている。

薬師堂の一角には弘法大師も祀られている。明光寺そのものは浄土真宗に改宗したために境内で出迎えるのは親鸞聖人だが、寺のルーツは弘法大師にありということで遠慮がちに祀られているようだ。

薬師堂の中に朱印の箱はなく、寺務所にあたる玄関を訪ねて寺の方からいただく。丁重に出迎えていただいてかえって恐縮だ。広島新四国=セルフで書き置きの朱印を箱からもらっていく・・というのが多いので・・・。

ここから次の持明院に移動するが、芸備線なら戸坂まで戻って1キロほど歩くところだが、高陽ニュータウンを経由して広島バスセンターまで行くバスが持明院のすぐ前を経由する。芸備線より本数も多く、次の中深川からの列車よりも先に出発するため、広交バスを選択する・・・。

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路面電車に絡む事故に注意!

2022年02月20日 | ブログ

2月20日、広島市街に出ようと広電宮島線の高須から広電に乗ったが、通常なら広島駅行きのところ、途中の広電西広島止まりで運転との案内があった。事故の影響で市内線の土橋~広電西広島間の運転を見合わせているとのことだった。とりあえず西広島まで行ってJRに乗り換えるか、バスに乗り換えるか・・。

そして広電西広島で下車したのだが、太田川放水路にかかる新己斐橋のほうを見て驚いた。広島駅方面に向かう連接車の先頭が右に向いている。どうやら脱線しているようだ。反対側の線路もふさいでいて、対向する電車が橋の上で何両も停まっている。

橋の上まで来て驚いた。電車の左前方と乗用車の右側が接触している。いや、派手にやらかしたものだ。

幸い、電車の乗客、乗務員にはケガはなく、乗用車の運転手も軽症だったとのこと。ただ、この事故の影響で土橋~広電西広島間は午前中いっぱいい運転見合わせとなった。

原因はどうやら、電車が広島駅に向けて東へ、乗用車が南へ直進するところ、乗用車が無理に渡ろうとして電車と衝突したのではないかとされている。

この南への道は太田川放水路沿いで、西区を南北に抜けるルートの一つである。ただ、平和大通りや国道2号線など主要な道路との交差点では必ず信号を1~2回やり過ごさなければならず、赤信号ギリギリなら突っ込むクルマも多いように思う。この乗用車も赤信号ギリギリで突っ込み、ちょうど広電西広島を出て加速に入った電車と衝突した・・というところだろう。それでも、乗用車対路面電車では、完全に乗用車の負けである。

一方、当初は乗用車が右折しようとしたが対向車がいたため停車し、そこに路面電車が突っ込んだのではということも言われていた。ただ、右折時にも軌道に入ってはいけないはずである。

やはり信号、交通ルールは守らなければならない。無茶をしてはいかんな・・・。

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第21番「福王寺」、第22番「真福寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(3ヶ月ぶりの巡拝です)

2022年02月19日 | 広島新四国八十八ヶ所

昨年暮れから今年に入ってからも西日本各地の札所めぐりを相変わらず行っているが、その中で間隔が開いているのが地元広島の広島新四国八十八ヶ所めぐり。前回、可部にある第20番の医王寺を訪ねたのが11月7日。それから3ヶ月が経過しており、そろそろこちらのほうも進めなければというところである。

広島新四国では第1番~第20番が「発心」、第21番~第42番が「修行」、第43番~第61番が「菩提」、第62番~第88番を「涅槃」と、本四国と同じく4つの道場に分けている。久しぶりの巡拝となるのは第21番の福王寺からということで、ちょうど「修行」のステージに入る。可部の奥、福王寺山に向かうことにする。

2月11日、その福王寺と、麓にある第22番の真福寺を訪ねた。今回は山上コースということでクルマで出かける。国道54号線を走り、左前方のどこかが福王寺山だなと見当をつける。

国道191号線に入り、福王寺口交差点を過ぎる。ここが本来の参道口で石標も立っている。ただ、カーナビは別の道を案内しており、ここは素通りしてしまう(画像は、帰りに立ち寄って撮影したもの)。

カーナビが示した交差点から住宅地の一角に入る。ただ、確かに近道なのだろうが道幅の狭い急坂が続く。この日は寒さもそれほどでもなかったが、住宅地といえども凍結、積雪でもすればクルマなど走れないだろうというところだ。

住宅地を抜けると本格的な山道になる。その中で、昔ながらの参道にも出会う。福王寺へは不動坂参道、観音坂参道の2つの主な参道があり、今も地元の人たちのハイキングルートになっている。この先の往路、そして下りの復路でもそうした人たちと結構すれ違う。

途中に展望台があり、太田川、可部の町並みを見ることができる。ちょうど寺まで14丁の丁石がある。

さらに車道を進み、駐車場に到着。寺までは残り4丁とあり、この先車両は入ることができない。参道には大日大聖不動明王が奉納され、まずはコンクリートの歩道を上がるが、すぐに昔ながらの石段となる。不動明王は近年の奉納としても、それ以前の石仏も並ぶ。

最後は自然の岩も立ちはだかる。

山門に到着。昔ながらの風情を感じる。そして最後の石段を上り、本堂の前に出る。山上に広がる修行の場といった凛とした雰囲気が漂う。

福王寺の歴史は古く、平安初期に弘法大師により開かれたとされる。宮島もそうだが、広島県にも弘法大師開創とされる寺院が結構あるものだ。諸国修行中の弘法大師がこの山を上った時、林の中の一本の木に不動明王を彫ったのが始まりとされ、その時に池から金色の亀が顔を出したことから金亀山の名がつけられた。現在のこの辺りの地名亀山もここから来ている。

それ以降、「西の高野山」とも称されるほどに多くの塔頭寺院が建ち、安芸の守護武田氏やその後の毛利氏からも保護を受けたが、関ヶ原の戦い後の福島正則の頃に衰退、浅野氏の頃になって復興した歴史がある。先ほどくぐった山門は毛利氏の頃の建物で、現存する最古のものだという。

本堂も落雷による火災で焼失したことがあり、現在の建物は1982年の再建。本尊の不動明王はその後に祀られたもので、弘法大師作と伝えられるかつての本尊不動明王はその胎内仏として安置されている。

まずはこちらでお勤めとする。広島新四国の書置き式の朱印はここ福王寺と、次の真福寺のものが並べて置かれている。真福寺は無住の寺のため、福王寺で対応しているとのこと。

他にも阿弥陀堂、大師堂、熊野三社といった江戸時代からの建物がある。往年と比べれば規模も縮小されているのだろうが、それにしても、市内から少し足を延ばすとこうした古刹があるとは知らなかった。広島新四国八十八ヶ所という括りで改めて回ることで、広島近辺の新たなスポットを知ることができ、これも巡拝の功徳かなと思う。

本堂の裏には四国八十八ヶ所のお砂踏みがあり。雪から守るためか本尊が祠に収まって祀られている。さらにその先には標高496メートルの福王寺山の三角点があるが、さすがにそこまで行くのは断念する。

福王寺を後にして、駐車場に戻る。ここまでクルマで上がり、後は徒歩で山頂を目指す様子の人もいる。広島ということろ、市街地から少しクルマを走らせれば身軽なハイキングに手ごろな山にぶつかるもので、その中で福王寺はパワースポットとしても知られているそうだ。

そうしたハイキングの人たちとすれ違いながらカーブの続く車道を下りて、第22番の真福寺に着く。昔からの福王寺への参道の途中に位置するところだが、駐車場があるわけでもなく路肩停車ということで(本堂の前に突っ込めば停められないこともなかったが)、ここはクルマをちょっと寄せてささっとお参りだけする。クルマの交通量がそれほど多いわけでもないようだが、私が停めている時に限ってクルマの往来が激しくなりそうな気がしたので・・。

先ほど、福王寺はかつて多くの塔頭寺院を有していたと書いたが、江戸時代になるとその規模も縮小した。安芸門徒と呼ばれる浄土真宗の勢力が広まったことも一因という。その中、数少ないながら残っていた長福寺(大日堂)と大文寺(弥勒堂)を合併し、1972年に単独の寺院として開かれたのが真福寺である。本尊は弘法大師。

まあ、福王寺山全体を一つの寺院に見立てて、福王寺が本堂、真福寺が大師堂・・・という感じでよかったのかな。

この日は2ヶ所のみとして、そのままクルマで帰宅。広島新四国もぼちぼちと進めていくことにしようか・・・。

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第8回中国四十九薬師めぐり~第11番「東福院」(西国街道とともに)

2022年02月18日 | 中国四十九薬師

広島県に入った中国四十九薬師めぐり。今回は福山市神辺町シリーズということで、先に備後国分寺を訪ねた後、国道313号線を歩いて次の東福院に向かう。東福院の最寄り駅は井原鉄道の湯野だが、駅間も比較的短いのでそのまま歩くことにした。

国道から少し離れた丘に建つ。山門の前には「東」「福」「院」「卍」の文字をあしらった錫杖が据えられている。

山門をくぐって左手に本堂がある。手水舎の前から境内を回り本堂までタイルが敷かれている。四国八十八ヶ所のお砂踏みである。またその途中に「るりこうずい」というのがある。漢字で書けば「瑠璃光水」だろう。湯呑に注いでちょっといただく。

お砂踏みを通ったところで本堂に到着し、お勤めである。本尊は薬師如来だが、別に信貴山から勧請した毘沙門天も祀られているという。

東福院が開かれたのは奈良時代、行基によるとされる。当初は現在地から西にある虎睡山に建立され、松岡寺と呼ばれていたが、鎌倉時代に現在地に再建された。室町時代になると近くに神辺城が築かれたが、大内、尼子、毛利の勢力争いの中で東福院も兵火に巻き込まれる。江戸時代になり、新たに福山城が築かれて神辺城は廃城となったが、東福院は中期にようやく再興し、現在にいたる。

納経所に向かう。「この寒い中・・」ということでお茶を勧められ、お接待として飴やみかんをいただく。

東福院を後にして、神辺駅まで歩くことにする。距離にして2キロほどだろうか。

その途中にあるのが神辺本陣。江戸時代の参勤交代で大名が宿泊した施設で、当時は西本陣、東本陣の2ヶ所があったそうだ。東本陣は明治時代に解体されたものの、西本陣は270年前に建造された当時の姿をとどめていて、歴史的にも貴重だという。公開は限定とのことで外観から眺めるにとどめる。

この他、神辺駅に向かうまで商店が並ぶが、ところどころに古い建物が残る。さすがに江戸時代のものということはないだろうが、かつての宿場町の風情を伝えてくれる。

神辺から11時39分発の福山行きに乗車。井原鉄道のホームには、朝乗った「夢やすらぎ号」が総社から折り返して到着した。今度は105系に揺られ、福山に到着。

福山で軽く昼食とした後、糸崎乗り継ぎで広島まで戻った。早めに帰宅してゆっくり休むことにしよう・・。

中国四十九薬師めぐりはこの後は、東城、三次と県北をたどり、第15番の薬師寺でふたたび福山の松永に戻る。以後、尾道、因島などたどり、広島市内の不動院、そして最後は宮島の大願寺(広島新四国八十八ヶ所の第1番でもある)まで続く。県内でも初めて訪ねるスポットも多く、広島のまた違った一面を見るのが楽しみである・・・。

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第8回中国四十九薬師めぐり~第12番「国分寺」(備後の国分寺へ)

2022年02月17日 | 中国四十九薬師

2月5日、出雲市から岡山までの長距離鈍行に乗った。岡山着が23時を回っていたこともありそのまま宿泊。翌日はそのまま山陽線の鈍行で広島に戻ればよい状況である。

岡山から広島に戻る途中に福山を通るが、この帰路を利用して中国四十九薬師めぐりの続きを行うことにした。前回、第10番の日光寺を回って岡山県をコンプリートして、今回から広島県である。中国四十九薬師では東城、三次といった県北部も含まれる。

今回はこのうち、第11番の東福院、第12番の国分寺を回ることにする。いずれも福山市の神辺町で、井原鉄道の沿線である。岡山からの帰りに立ち寄ることで、改めて福山まで来る手間を省くとともに、前日の鈍行列車が単に乗るだけでなく、札所への壮大な移動に変わる。

2月6日、7時57分発の福山行きで出発。雪の舞う山陽~山陰だった前日から一転して、さすがは「晴れの国岡山」である。

福山に到着。いったん改札を出て、福塩線~井原鉄道の連絡きっぷを購入し、9時09分発の福塩線府中行きに乗り換える。福塩線の電化区間は105系というイメージだが、この列車については珍しく115系が使用されている。芦田川に沿って走り、井原鉄道の乗換駅である神辺に到着。

9時26分発の総社行きは特別車両「夢やすらぎ号」が使われていた。いわゆる「水戸岡デザイン」の車両で、内装は木をふんだんに使い、心安らぐ部屋をイメージしている。ボックス席の中央には木のテーブルも設けられている。

せっかくの車両なので長く乗りたいところだが、これから向かうのは2駅目の御領。広島県側の最後の駅である。札所番号順としては、手前の東福院、奥の国分寺であるが、今回はまず国分寺最寄りの御領まで井原鉄道で移動し、先に国分寺を訪ねてそのまま東福院を経由して神辺駅まで歩くことにする。この日は快晴、外の空気は冷えているものの歩くには申し分ない。

御領で下車。御領という地名には歴史を感じさせる。国分寺も近いし、少し西に行けば備後の府中がある。西国街道も通り、かつてはこの辺りが備後の中心だったことがうかがえる。

西国街道を歩くと、国分寺の手前にまず見えたのは下御領八幡神社。国分寺と同じ奈良時代に、国分寺の鎮守社として開かれた。戦国時代には武将たちが武運を祈り、江戸時代には福山藩の水野氏の保護を受けた歴史がある。

この八幡神社から西に少し進むと国分寺である。奈良時代、聖武天皇の勅命で全国に建てられた国分寺だが、その後、国が建てた国分寺は廃れたものの、その流れを受けて再興され現在にその名を残している寺は多い。

国分寺の案内板がある。昭和の発掘調査で、塔、金堂、講堂、南門の跡が見つかり、東西180メートルの規模を持つことが判明したとある。現在の国分寺からは少し南に寄っている。

現在も各地に国分寺という名前の寺があるが、奈良時代に国によって建てられた国分寺そのものが残っているわけではないようだ。律令体制が崩壊すると国分寺も廃れ、後にその土地の人たちや僧が再興したのが現在に受け継がれている。ここ備後の国分寺は鎌倉時代に再興されたが、戦乱や災害に遭ったこともあり、現在の場所に建てられたのは江戸時代、水野氏の手による。

本堂にてお勤めとして、綴じ込み式の朱印をいただく。

順序が逆になるが、西国街道に続くまっすぐな参道を歩く。松並木や住宅の横に塔や金堂などの跡を示す石碑が並ぶ。そして西国街道(古代の山陽道)に出たところが南門跡である。

この先、現在の西国街道である国道313号線まで出て、次の目的地である東福院に向かう・・・。

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出雲市発岡山行きJR西日本最長時間の鈍行に乗る・・・だから何やねん

2022年02月16日 | 旅行記F・中国

17時30分頃の出雲市駅。これが普通の旅、あるいは札所めぐりならこの日の行程は終了して宿泊先に向かうか、あるいは広島に戻るべく特急、あるいは高速バスに乗るところだが、今回はこれからがメインである。青春18きっぷの時季ではないので、出雲市~倉敷~広島市内の乗車券をあらかじめ購入していた。

出雲市を17時54分に出発して、途中の長時間停車を含めて5時間以上列車に乗り続け、23時10分に岡山に向かう鈍行列車。この3月のダイヤ改定にて、同じ出雲市発だが新見までに区間が短縮されるということで、最初で最後になるだろうがこの列車に乗りとおすことにする。YouTubeにもこの列車を乗りとおす動画が投稿されており、一つのネタになる列車だなと思ったことである。時間にすれば、夕食(一献)を取り、テレビでも見て、さあ寝ようかという長さを鈍行の中で過ごすわけである。だからというわけではないが、高架下のコンビニにて籠城戦かというくらい飲食物を調達する。

米子方面から115系の2両編成がやって来た。これが折り返しとなって岡山に向かう。ワンマン運転用に改造され、中間車両に運転台を取り付けた車両である。また車内はセミクロス式で、ボックス席が残る。車内が空いていてボックス席を独り占めできれば、5時間とはいえそれなりの「居住性」を保つことができそうだ。

2両合わせて20人いるかどうかという乗客数で出雲市を発車する。それぞれがボックス席、ロングシートに分散して座れるくらいだ。この先の駅を見ると、乗り降りがありそうなのは松江、米子くらいかと思う。時期、曜日にもよるのだろうが、この先満員になるくらい乗って来るとは思えない。ボックス席に一人で、周りの客とは間隔も開いている。別にしゃべるわけではない(一人客でしゃべっていたら、周りの客との間隔はさらに開くのだろうが)。とりあえず、一献としますか。

ただ冬の季節ということで、発車時点ですでに日が落ちており、車窓を楽しむことはできない。停まっていく駅や、スマホの地図でだいたいの場所はわかるが、こればかりはどうしようもない。宍道からは宍道湖にも沿うところだが、その景色は見えない。また、並行する国道を走るクルマのライトは見えるが、他に夜景が広がるわけでもない。時刻はまだ18時台だが。

実はこの「逆」の列車があり、倉敷を朝5時43分に発車して、伯備線~山陰線をたどって10時58分に西出雲に到着する。これなら伯備線の途中で夜が明け、後半は外の景色が望めるが、今回は「距離」を選択した。まあ、その筋の強者なら岡山、または倉敷に宿を取って、翌朝この西出雲行きに乗る人もいるのだろうが・・(いるのか?)。

また、YouTubeでは伯備線の特急「やくも」に1日ひたすら揺られるという動画もあった。出雲市からスタートすれば早朝の4時台に出発して、「やくも」の2号、3号、16号、17号、30号、29号と出雲市~岡山間を3往復できる。2021年に発売された「JR西日本どこでもきっぷ」のような特急も乗り放題のきっぷでなければカネだけかかることだが、同じ車両の折り返しも含めて「ぐったりはくも」・・もとい「ゆったりやくも」に揺られ続けるのも大変。またこの移動だと、出雲市での連泊も必須である。こういうところに見せる「その筋」の人たちの執念というのは凄まじい。

こうしたチャレンジネタの動画はいくらでもあるもので、それらに比べれば私のやっていることなどチンピラ・・もといガキである。「あ、そう。で、だから?」

松江で乗り降りがあるが、乗客数はさほど変わらない。

19時14分、米子に到着。19時36分発まで停車ということで一度外に出る。出雲市や松江から乗って来た客もほとんどが下車し、2両の車内には数人が残るだけとなった。ただ、私の他にこの先岡山まで乗り通すらしき客は見えなかった。実際のところは、米子までは山陰線の列車、米子からは伯備線の列車という2つの列車がたまたま通しで走っているようなものである。日常的に利用している地元の人からすれば、岡山行きだろうが新見行きだろうが大勢には影響ないことだろう。

米子の駅舎は現在建て替え中で、2023年度の完成予定である。南北の自由通路を設けるのを主な目的として橋上駅舎になる予定で、またその時が楽しみである。

車内に戻り、2両合わせて10人いるかいないかの乗車で出発。ここで初めて触れるが、私が出雲市から乗ったのは2両編成の後ろの車両。列車は出雲市~岡山ワンマン運転のため、後ろの車両のドアが開く駅も限られている。そのため、駅に着いても静かなもので、人の目も気にならない。

伯備線も淡々と走り、20時24分、根雨に到着。ここで10分停車ということでいったんホームに出る。ホームの向かいには貨物列車が停車している。うっすらと雪が積もっていて、今朝方広島~島根の県境で見た大雪に比べればましだが、冬の中国山地の小駅の風情を感じる。ここ根雨で、出雲市を1時間ほど後に出発した「サンライズ出雲」が通過する。出雲市駅前の「らんぷの湯」にいたその筋の人たちも、その乗り心地を楽しんでいることだろうな・・。

次の黒坂でも岡山からの「やくも25号」との行き違いのために10分あまり停車。ただ、もうホームの外に出なくてもいいかな。他に乗客がほとんどいないのをいいことに、窓を開けて自席からカメラを向ける。

この先、鳥取~岡山の県境に差し掛かる。ここまで来ると靴を脱いでボックス席に足を投げ出し、モーター音の中でボーッとする。文庫本もあればウォークマン(今どき?)もあるので長時間の車内も苦にならないと思っていたが、いざ乗ってみるとそうしたものを使うわけでなく、何もしない。こうして時間を過ごすことがひょっとしたら幸せ、贅沢なのかもしれない。

21時42分、新見到着。ここまで4時間近く乗って来て、この先は岡山方面への最終列車である。その中にあって、向かいのホームには21時46分発の芸備線東城行きも停まっている。芸備線に乗り継ぐならルール上は備中神代からになるが、本数が少ない芸備線の列車にも出会えたのは意外だった。

伯備線でも本数の多い区間になったことで列車の速度も上がったように思う。その中で私も疲れて来たか(「飲み鉄」を満喫しすぎたか)、ウトウトするようになった。残念ながらこの先は備中高梁、総社といった主要駅くらいしか覚えていない。

22時53分、倉敷着。意外にも、ここから乗車する客が多かった。岡山方面への終電も近づく中で利用する客たちだが、この人たちにとっても、この列車が出雲市発ということは関係ないことだろう。

23時10分、終点の岡山に到着。この日(2月5日)、この列車で出雲市から岡山まで乗り通したのは私だけだろう。だから何やねんというところだが、山陽・山陰の行き来もさまざまある中で、鈍行での移動というのは年々現実的でなくなってきていることがうかがえる。

さすがにこの時間から広島に戻る手段はなく、岡山宿泊である。遅い時間でのチェックインも可ということで、1月の中国四十九薬師めぐり~阿佐海岸鉄道DMVの旅に利用した東横イン岡山駅西口広場に向かう。先ほどの車内で「飲み鉄」も堪能したこともあり、もう飲食はなしにしてシャワーだけ浴びてベッドに飛び込む。

この列車で岡山にたどり着くまでにブログ記事が何本になったことやら。まあ、結構な時間を過ごしましたわ・・・。

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出雲大社に参詣、そして長距離鈍行へ・・

2022年02月15日 | 旅行記F・中国

広島から松江、一畑電車で雲州平田とたどり、終点の出雲大社前に到着する。ここに来るまでさまざまな行程があった。

これから出雲大社に参詣するとして、先に遅めの昼食とする。いただくなら出雲そばだろうが、特にお目当ての店があるわけではない。前に来た時はシーズン中ということもあって行列ができる店も結構あったが、この日(2月5日)はそれほどでもない。ただ、迷っていると昼の営業時間が終わりそうである。

入ったのは神門通りにある「出雲えにし」。出雲そばといえば割子タイプで知られるが、おすすめの一つにあった割子と釜揚げのセットというのを注文する。温かい一品もいいだろう。

私は知らなかったのだが、ゆでたそのままの釜揚げスタイルというのも出雲では昔から食べられているそうだ。その釜揚げも、そばを丼の中からつゆの入った器にすくうのではなく、丼の中につゆを落としてそのまま食べるスタイル。さまざまな味の変化を楽しめて、最後はそば湯をいただく感じで飲みこむ。釜揚げもなかなかいいなと思う。

改めて、出雲大社へ参詣である。せっかくなら県立古代出雲歴史博物館にも行きたかったが、「まん延防止等重点措置」のため休館中。シンプルに拝殿で手を合わせるのみである。正面の参道を歩き、大国主神の像を過ぎて拝殿にいたる。

もうこの年齢なのでいわゆる縁結びというのはどうでもいい心境なのだが、一応二礼四拍手にて・・。

これまでは拝殿、八足門でお参りしてそのまま引き返していたが、時間があるので周囲をぐるりと回ってみる。出雲大社の摂末社が並ぶ。普段は全国の神々の遥拝所であるが、一般の神無月、出雲では「神在月」になると神々が宿泊するところという。

本殿の背後を護るように建つのが、素鵞社(すがのやしろ)。大国主神の親神にあたる素戔嗚尊を祀る。出雲の象徴というか、看板は大国主神に任せてワシは隠居するよ・・という佇まいだ。

その他の社も回り、境内を後にする。雪は先ほどから降ったりやんだりだ。

出雲大社前駅に戻り、隣接するデハニ50を見学する。一畑電車は映画「Railways」の舞台になったところで、今も各地にロケ地の紹介板がある。映画の主演は中井貴一さんだが、もう一人の主役がこのデハニ50といえる。今は現役を退いているが、こうして観光客向けに展示されていたり、温州平田駅構内で運転体験もできる。この運転体験も例年は人気で満員御礼が続くそうだが、現在はコロナ禍のために休止しているとのこと。いずれチャンスがあれば体験してみたい。

出雲大社前から快速で電鉄出雲市に移動する。こちらはデハニ50とは打って変わって2016年に導入された7000系。ボックス席とロングシートが千鳥式に配置されているが、JR四国の7000型と同様のデザインで製作された車両である。

電鉄出雲市に到着。さてここから、今回の目的である?山陰線~伯備線~山陽線を5時間以上かけて走る鈍行列車に乗る。ただ、17時54分の発車までそこそこ時間があるので、先ほどの平田に続いてもう一度入浴しておこう。

やって来たのは、駅の南側すぐのところにある「らんぷの湯」。ヒノキの浴槽とらんぷの灯りが独特の雰囲気を出している。

浴槽に浸かる客同士の会話からは、夕方の「サンライズ出雲」に乗るとおぼしき内容も聞こえてくる。その「サンライズ出雲」の出雲市発車は18時51分。私が乗る岡山行きの鈍行はそれより1時間前に発車するが、米子~新見のどこかの駅で「サンライズ出雲」に追い越されるダイヤである。それはさておき、この「サンライズ」にはだいぶ前に「瀬戸」に乗った経験しかないが、広島に住んでいるなら「出雲」、「瀬戸」どちらでもいいので乗ることもできるかと思う。最近はリモート会議の普及で東京に行く機会そのものがなくなってしまったが、何なら無用の旅でもいいので「サンライズ」を絡めて東京への「阿房列車」を仕立ててもいいかなという思いもある。

まあそれはいつの日にかということで、とりあえずは目の前の岡山行きである・・・。

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雲州平田 木綿街道

2022年02月14日 | 旅行記F・中国

広島から高速バスで雪道を越え、晴天が広がる松江に到着。一畑電車の松江しんじ湖温泉から10時37分発の出雲大社行きに乗る。

まずは宍道湖の北岸をたどる。先ほど南岸で白波が見えたのに比べて、穏やかな景色に見える。窓から差し込む日差しが温かい。一瞬、冬の山陰にいることを忘れてしまう。

一畑電車といえば、途中の一畑薬師への参詣客輸送を目的として建設された歴史がある。その一畑薬師・一畑寺へは中国観音霊場めぐりで訪ねたのが懐かしい。ただ、全国的に「目のお薬師さん」として知られるが、私が現在回っている中国四十九薬師の中には入っていない。一畑薬師のようなところが加われば札所の知名度も上がると思うのだが、そこは何か大人の事情があったのだろうか。

沿線には松江イングリッシュガーデン、松江フォーゲルパークという横文字の観光スポットもあるが、前者は改装工事中のため、そして後者は島根県の「まん延防止等重点措置」のためにいずれも休園とある。まあ、2月のシーズンオフということで致し方ないかなというところだ。その一方、出雲大社に隣接する古代出雲歴史博物館も「まん延」のために休館というのは残念に思う。昼間の時間があるので、出雲大社お参り後に訪ねようと思っていたのだが・・。

雲州平田に到着。初めてだが、ここでいったん下車する。一畑電車の本社、車庫がある駅だ。

ホーム、そして駅舎内では「平田一式飾り」の人形たちが出迎える。「平田一式飾り」とは、身近な生活用品である陶器、金物、茶器、仏具などのいずれか一式を使って、歴史上の人物や動物などを表現して競い合うものだという。江戸時代に、伝染病の流行を鎮めるために奉納したのが始まりだそうで、まさしく現在のコロナ終息祈願にもぴったりだ。「一式飾り」のルールとしては、陶器なら陶器だけ、金物なら金物だけを使い、それらを割ったり穴を開けたりして変形させてはだめということのようだ。解体した後もそのまま本来の用途に使えるようにとのことで・・。

ここ平田は「木綿街道」の歴史を残す町並みがあるという。この一帯は古くから開けていたが、戦国時代に町割りが行われた。また江戸時代からは雲州平田木綿の集積地となり、商業地としても栄えた。明治以降は木綿産業も廃れたが、製糸業や醸造業などが残っている。

外に出て粉雪も舞う中、駅から歩いて10分ほどのところに残る町並みをぶらつく。今も酒蔵や醤油蔵が残り、生姜糖を扱う店も人気である。なかなか風情あるところだが、他に歩く人の姿はほとんどなかった。

その町並みをしばらくぶらついた後、もう少し先にある「いずも縁結び温泉ゆらり」に向かう。寒い時季だし、温泉に入るのもいいだろう。島根県の「まん延防止等重点措置」のために併設のレストランは休業中だが、温泉は通常営業とある。地元の人で賑わっている。

内湯もゆったりしているが、露天風呂がやたら広い。ただこの寒さのため、浸かるとちょっとぬるく感じる。その代わり、外にある一人用の樽風呂が温かく居心地よかった。ちょうど雪がちらつくのも冬の温泉らしくてよろしい。

駅に戻り、13時20分発の出雲大社行きに乗る。ここまで昼食がまだだが、出雲大社の門前町でそばでもいただくとするか・・・。

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陰陽連絡高速バス~まずは雪の中を突っ走る

2022年02月13日 | 旅行記F・中国

岡山行きの列車に乗るために出雲市に向かうという、何とも暇人な行程。まあ、形としては中国5県のうち4県を1日で回る大旅行である(別に山口県を除け者にしているわけではないが・・)。

2月5日、広島駅7時発の松江行きの高速バスに乗り、広島バスセンターから松江までノンストップで運行する。乗客は10人もいない。バスセンターを出る時、元々予約していた最前列の席に移る(いろいろあって、いったん後ろの席に下がっていたのだが)。

市街地も雪が舞っている中、広島高速4号線に乗る。西風新都インターに向かうのだが、そちらに続く長いトンネルを抜けると、周囲は雪景色になっていた。同じ広島市内でこの変わりようだ。雪の西風新都を過ぎ、広島自動車道に入る。

この日は山陰から広島にかけて雪の予報。これから向かう松江にも雪のマークが出ていた。所によっては雪中行軍も覚悟しなければならないだろう。目的の「出雲市発岡山行き」の鈍行だが、走るのが日が暮れてからということで「雪見列車」とはならないだろうが、往路、広島市内でここまでの景色になるとまでは思わなかった。

安佐サービスエリアが近づくと、すべての車両がいったんサービスエリアに入るよう指示が出ていた。冬用タイヤ装着のチェックのためである。確かにこの日は冬用タイヤ・チェーンの規制が出ていたが、私は冬用の設備を持っておらず、この時季に高速に乗ることもないので、こういうチェックに出会うのは初めてである。このバスはその辺りは問題なくあっさりチェックを通過したが、もしノーマルタイヤで、かつチェーンを持っていないクルマはどうなるのか。安佐サービスエリアからは降りられないから、何らかの形で手前のインターまで戻されて、そのうえで反則金を取られるとか?

冬の天気は変わりやすい。雲が覆っていたかと思うと青空が広がり、またその逆で吹雪で視界が狭くなったり。雪のためか通行する車両も少ないが、トラックはじめ仕事で現地に向かわなければならないドライバーも大変である。

江の川パーキングエリアで休憩。三次盆地に入ったためか、先ほどより若干積雪量も減ったようだ。ちなみにこのパーキングエリアには小さな売店もあるが、シャッターが下りている。ここも閉店?と思ったが、単に営業時間前だったようだ。

三次東から松江自動車道に入る。また積雪量も増え、どんよりとした景色となる。

口和インターでは全車両が強制的に下ろされ、ここでも冬用タイヤチェックである。雪道を運転しない私から見れば大変な道のりだが、この日はこのレベルで済んでいるということか。もっと雪が増えると自動車道そのものが通行止めとなり、こうして松江までバスで向かうこともできなかったわけで。

この辺りは広島県内でも積雪の多いところで、ローカル局の天気予報でもわざわざ庄原市(高野)と表示される。

県境の大万木トンネル(4876メートル)を抜ける。そして島根県に入ったが、雪の量が減ったように見える。そして、無料区間から有料区間に替わる三刀屋木次に差し掛かると、周囲の積雪もほとんどなくなった。ここまでバスに乗って来て、積雪という点でいえば島根より広島のほうが厳しかったという印象である。

三刀屋木次・・昨年、木次線の「奥出雲おろち号」に乗るために前泊をしたところだが、その木次線は出雲横田~備後落合間で「冬眠」に入っている。かつて、「並行する道路が未整備」ということを理由に廃線を免れた歴史があるが、今では「おろちループ」を有する国道314号線と立場が逆転している。木次線も除雪作業などせず、雪が自然に溶けるのを待っているかのように見える。

意外なことに、この先の島根県区間では走るにつれて周りの雪もなくなった。この先の行程には影響なさそうだ。松江市街に入ると青空さえ広がった。

もっとも外の風はきつそうで、宍道湖も北風を受けて白波が立ち、水も濁って見えた。

ほぼ定刻で松江駅に到着し、私以外の客はここで下車した。私はこの先一畑電車に乗ることもあり、終点の松江しんじ湖温泉まで向かう。確かにバスから降りると風がきつかった。雪はともかくとして、寒いのは寒い。

窓口で一日乗車券を購入し、10時37分発の出雲大社前行きに乗る。ただ、急いで出雲大社に向かう必要もない。今回せっかくなので、初めてとなる駅に降り立つことにしよう・・・。

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出雲市発岡山行き、最長時間鈍行に乗りに行こう

2022年02月12日 | 旅行記F・中国

毎年3月はJR各社でダイヤ改定が行われる時期である。この3月については、新型コロナウイルスの感染拡大で揺れ動いたこの2年を反映して利用客が減少していることを受けて、あちこちの路線で減便が予定されている。

その中で、私がふと時刻表で目に留まったのが、山陰線~伯備線~山陽線を走る、出雲市発岡山行きの鈍行である。出雲市を17時54分に出発して、岡山に着くのは23時10分。220.7キロを5時間以上かけて結ぶ。少し前までは播州赤穂まで直通していたそうだが、岡山まででもJR西日本の中では最長時間かけて走る鈍行列車だ。ちなみに距離なら敦賀発播州赤穂行きの新快速が275.5キロと最も長い。

長時間かけて走る鈍行といえば飯田線が有名で、豊橋~岡谷を7時間近くかけて走破する列車が何本かある。それに比べれば伯備線のそれはかわいいものだろうが、ここは乗っておきたい。2022年3月のダイヤ改正では出雲市発は同じ時間帯だが、途中の新見までの運転に短縮されるという。

たまには、こうした鈍行列車に長く揺られてボーっとするのもいいかもしれない。時間帯としてはちょうど夕食、一献時ということだが、そこは車内に何がしかを持ち込めばよいだろう。岡山には23時すぎに着くので当然その日のうちに広島に戻ることはできず、駅前のホテルで1泊とする。次の日は適当な時間の列車に乗って広島に戻ればいいだろう。

出雲市を17時54分に出発するとして、それまでどうするか。時刻表をいろいろ見ると、西広島から山陽線を西に向かい、新山口から山口線、益田から山陰線と鈍行だけを乗り継いでもこの列車に間に合う。青春18きっぷの時季なら「耐久レース」で面白いかもしれないが、そこまではさすがにしんどいかと。その代わり、往路は高速バスで山陰に向かい、出雲の国をぶらぶらすることにする。

出雲市行きのバスに乗れば早い話だが、ここはあえて松江行きに乗ることにする。昼は松江まで行って一畑電鉄に乗り、出雲大社にも参詣しよう。そして夕方にその最長時間鈍行に乗り、23時過ぎに岡山に向かう。岡山行きの列車に乗るために出雲市に行き、さらに出雲市に行くために松江に行く・・・何とも無駄なことをするものだ。

3月1日からだと青春18きっぷが使えるが、私の予定もいろいろあるので2月5日に出かける。ただこの日は山陰を含む日本海側に寒波が襲来、雪の予報となった。広島から山陰へというと2021年の1月に中国観音霊場めぐりで出かけた時、予約した高速バスが雪のために運休したことがあった。この日もどうかと思ったが、特に運休の情報は出ていなかった。

ちなみに、広島から山陰へ鉄道で行くなら「木次線」というルートもあるが、この冬は特に厳しいようで長期の「冬眠」に入っている。当初から選択肢にも上らないというのも残念な話だが・・。

2月5日、広島駅7時発の松江行きに乗る。朝から広島市内でも雪が舞っており、この先の道路状況が思いやられる・・・。

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西国三十三所中先達、「西国観音曼荼羅」軸装へ

2022年02月11日 | 西国三十三所

2021年で西国三十三所の3巡目が満願となり、かつての地元・第5番の葛井寺にて「中先達」への昇補の申請を行った。

それから1ヶ月ほど経過した1月下旬、自宅に「中先達」認定の通知とともに、新たな名札が到着した。先達番号は先達の時と同じで、そのまま葛井寺の「5番」が入る。考えればそれはそうで、その番号の先達が巡拝回数を増やして「中先達」、「大先達」・・と続いていくのだから。

副賞としては「西国巡礼のはじまり」というDVDがついてきた。まだ中は見ていないが・・・。

「中先達として3巡(通算6巡)」というのが「大先達」昇補の条件である。ただし、「西国観音曼荼羅」の八角形の朱印をコンプリートした特典で、1巡は回り終えた扱いになっている。そのため、「大先達」までは実質あと2巡である。今回西国四十九薬師めぐりが満願となったことで、実は新たな札所めぐりを考えている。その中で4巡目、5巡目と回ることになるだろう・・。

さてその「西国観音曼荼羅」の八角形の朱印だが、33枚の用紙をいただいた時に先達の特典として無料でこれを貼り付ける台紙をいただいていた。80cm四方の大きなもので、これまでは筒の中でずっと保管していたのだが、やはり日の目を見させてやりたい。台紙に八角形の用紙を貼って、額縁に入れることにしよう。

ただ、台紙じたいが特殊なサイズのため、画材店で普通に取り扱っているものではない。そこで思いついたのが、西国三十三所で朱印をいただく時に墨や朱肉を吸う「あて紙」でその名を見る仙福南陽堂である。四天王寺の近くにあり、各札所めぐりの軸装を取り扱っている。同社のホームページにて問い合わせると「西国観音曼荼羅」の台紙用の額縁作成も可能とのことで、サンプル画像とともに見積も送ってくれた。八角形の用紙を台紙に貼り付ける作業も別料金ででき、発送もしてくれるとあり、ならば必要なものを持ち込むことにした。

同じ関西に向かうのだからと、比叡山まで行った帰りに天王寺に寄ることにした(比叡山に向かう前、新大阪のコインロッカーに預けていた)。

仙福南陽堂、店の前は何度か通ったことがあるが入るのは初めてである。社長直々に「西国満願おめでとうございます」と歓迎される。こちらこそ恐縮だ。

フローリングの部屋ということで、「隅角黒塗」を選択。額縁は25000円、用紙の貼り付け作業3000円(いずれも税別)、送料は実費ということでお願いした。出来上がりまでは1ヶ月半ほどということで楽しみにしておく。

話をする中で「こちらをどうぞ」と渡されたのが、「諸国霊場参拝 御宝印掛軸写真集」というもの。寝屋川市の中谷政勝さんという方が全国各地の霊場を回り、40年あまりをかけて124本の掛軸をいただいた記録だ。西国三十三所に始まり、坂東、秩父、そして私も回った四国八十八ヶ所、中国観音霊場や現在進行中の中国四十九薬師、九州西国霊場も当然入っている。そのほか北海道から九州まで、「こんなところも?」というものも含まれており、見ているだけでありがたく感じる。

ただ、いわゆる「ローカル札所」だと住職が不在というケースが多い。そんなところでもこうして納経軸に書いてもらえるのか・・と訊くと、「そういうところは後日アポイントを取って出直したそうですよ」とのこと。さらに驚いたのは、中谷さんは運転免許証を持っておらず、そのためあらゆる交通機関を駆使して全国を回ったのだという。「ローカル札所」は特に大変だっただろう。

そして平成の終わりに結願した124本目は四国八十八ヶ所。それぞれの札所の御詠歌を自ら書き、中央にはご自身の修行像をあしらった完全オリジナルの1本である。

完成を楽しみにして店を後にして、少し時間があるので阿部野橋の「赤垣屋」に向かう。昼下がりということでカウンターにも空きがあり、しばしのどを潤す。もちろん大阪にも「まん延防止等重点措置」が適用されているが、飲食店の酒提供も地域によりばらばらである。正当化するようだが、こうした立ち飲み店でも隣り合った同士がそれぞれ黙々と飲み食いする分には感染の影響もほとんどないのではと思うのだが・・。

瓶ビールに始まり、冬の楽しみのふぐひれ酒までを楽しむ。

帰りは「こだま」を選択。「のぞみ」にも乗れるプランなのだが、500系の元グリーン車のシートでゆったり行くのもいい。さすがに阿部野橋で飲んだばかりということで新幹線の中ではおとなしく・・・。

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第49番「延暦寺」~西国四十九薬師めぐり・49(とうとう満願)

2022年02月10日 | 西国四十九薬師

1月29日、坂本からのケーブルにて比叡山に上る。この延暦寺で、西国四十九薬師めぐりも結願となる。無理やりこの時季にねじ込んだかのようだが・・。

受付で国宝殿とのセット券を購入し、中に入る。拝観料は西塔、横川エリアと共通だが、冬季は山内のバスも運休のため移動手段がなく、根本中堂、東塔エリアしか行けないが仕方ない。

係の人が雪をかき集めて、トラックに載せるための作業をしているところ。この日は穏やかな天候だったが、大雪の直後はもっと大変な作業だったことだろう。

根本中堂に向かう。根本中堂は2016年から約10年かけて大改修が行われており(当初は平成の大改修として始まったが、元号はいつしか令和となった)、主に屋根の葺き替えと塗装の塗りなおしが行われる。前に来た時は外側にフェンスが張り巡らされ、屋根に足場が組まれている途中だったが、現在は根本中堂、回廊ともすっぽりと覆われている。

根本中堂の前に納経所がある。混雑を避けるための工夫として、朱印の方は納経帳を先に預けて参詣するようにとの案内がある。もっともこの日は参詣者もほとんどいないため、その場でバインダー式の西国四十九薬師の朱印に日付を入れてもらった。そしてこれで満願となった旨を告げ、満願の証もいただく。

申請書に住所、氏名を書いて渡すが、特に料金はかからず、バインダー式と同じサイズの用紙に名前を書いてもらう。これなら額に入れるよりは納経バインダーと一緒に綴じるのがよさそうだ。

第1番の薬師寺に始まり、ここまでくじ引きとサイコロで次の札所を決めながらやって来た。寄り道が多く長い時間がかかったように思うが、ようやく満願である。近畿2府4県プラス三重県・・さまざまに回ったことを思い出す。

さて、根本中堂である。大改修中ではあるが「不滅の法灯」はやはり不滅で、参詣は可能である。従来なら回廊歩いてから根本中堂に入ったが、現在は仮設の通路をまっすぐ進み、靴を脱いでそのままお堂に入る。ちょうど中庭を横切る形だ。

ろうそくの灯りだけの中、満願のお勤めとする。ちょうどお参りのスペースには電気毛布が敷かれている。

改修工事中、「修学ステージ」というのが設けられていて、参詣者はそこに上がって工事の様子を見学することができる。今回の大改修、参詣を最小限にすれば6年で終わるそうだが、こうしたステージを設けたために期間が10年になったそうだ。ただ延暦寺はあえてそうしたという。多少工事期間が長くなっても、少しでも信徒の方、参詣の方が根本中堂に接することができるように配慮したそうだ。

ちょうど屋根の高さまで上がることができ、工事中ならではの貴重な視線を体感できる。このステージからは写真撮影も可能で、またスマホアプリから工事完了後のイメージ画像をVRで見ることもできる(もっとも、私の手持ちのスマホは最新でないからとかいって却下されたが)。

現在の根本中堂は江戸時代初期に徳川家光の命で再興されたものだが、今回の大改修では、古文書に記された資料や技法をもとに、当時の姿を再現するという。工程でいえば現在は半ばを過ぎたところで、完工後の姿が楽しみである。

開運の鐘を撞き、大講堂に向かう。ここでも僧侶が長靴を履いて雪かきの最中である。大講堂じたいは昭和の建物でもともと丈夫なところ。こちらの本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の祖たちの木像とともに、上部には天台宗やその流れを汲む各宗の名僧たちの肖像画が列伝のように並ぶ。法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍など、今に続く仏教各宗派の祖が並ぶ中、ここ比叡山で「いないことになっている」のが弘法大師空海である。まあ、そこは大人の事情ということで・・。

ちょうど僧侶によるお勤めの最中で、大日如来の脇に並ぶ各像を前にして般若心経を早口で唱え、最後に「南無親鸞聖人」のように付け加える。そして隣の像に移って般若心経を唱え、「南無〇〇上人(大師)」と結ぶ。毎日こうしてお勤めしているのだろう。

この後、国宝殿で各時代の薬師如来や不動明王などを拝観し、東塔の阿弥陀堂と法華総持院東塔を拝む。上り坂で凍結しているところもあったが、これで一通りお参りを済ませたとして延暦寺を後にする。

それにしても、くじ引きとサイコロによるものとはいえ、お参り順がばらばらだったなと改めて思う。

1薬師寺~8室生寺~33石薬師寺~34四天王寺(三重)~17国分寺~22鶴林寺~31総持寺~42勝持寺~41正法寺~12禅林寺~2霊山寺~20東光寺~30多祢寺~44神護寺~15家原寺~37浄瑠璃寺~14野中寺~9金剛寺~40雲龍院~13弘川寺~45三千院~3般若寺~4興福寺~5元興寺~6新薬師寺~43神蔵寺~23斑鳩寺~24神積寺~29温泉寺~28大乗寺~21花山院~27天寧寺~26長安寺~25達身寺~32西明寺~46桑實寺~47善水寺~10龍泉院~11高室院~36弥勒寺~35神宮寺~48水観寺~7久米寺~16四天王寺(大阪)~19昆陽寺~38法界寺~39醍醐寺~18久安寺~49延暦寺

12時発のケーブルカーで比叡山を後にする。下りの便もガラガラ。この次に比叡山を訪ねるのはかなり先になると思うが、その時は参詣の人たちで賑わう光景を見たいものだ。

坂本比叡山口駅まで戻り、ちょうど昼時ということで駅前の「鶴喜そば」に入る。札所めぐりに出かけると店に入るのを躊躇して昼食を取り損ねることが多いのだが、この日はこちら一択である。それでも行列ができているならあきらめようと思っていたが、シーズンオフのためか待ち客もなくすぐに入る。

温かいそばで落ち着き、比叡山めぐりも無事に締まった気持ちになる。

さてこの日は夕方の「こだま」で新大阪を出発するとして、時間はまだまだある。坂本比叡山口から京阪大津京まで出て、湖西線に乗り換える。山科で新快速に乗り換えて新大阪に到着し、そのまま天王寺に向かう。

天王寺ではこの日のもう一つの目的地へ・・・。

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